問 極微とは何か
答 極微とは、"在る"ものの最小単位である。切れず、壊せず、長くもなく、短くもない。
四角でもなく、三角でもなく、形なく、見えず、聴こえず、触れず、一切のなにものでもなく、一切のなにものであるそれである。
問 微塵とは何か
また、色とは何か
答 微塵とは、見えるものの最小である。色とは、微塵に因りて生じたものの全てである。
色の総量とは識の総量に他ならず、識の総量とは色の総量に他ならない。色心不二とはこのことである。
問 識とは何か
答 識───想いは螺旋である。
想えば即ち想いに因って極微は寄り、微塵を生ず、微塵は縁に因りて結び、業に因りてめぐり、即ち螺旋を生ず。
螺旋は有情(生命)である。有情は輪廻に従い、輪廻は有情に従う。
螺旋に因りて輪廻は生じ、輪廻に因りて更に螺旋は生ず。色界の実相は螺旋である。刻もまた螺旋である。刻に従う螺旋を進化と言う。
色、識、有情、螺旋、進化。これ等は全てひとつものの別称である。
問 では仏とは何か
答
問 問う。仏とは何か
答
問 なお問う。仏とは何か
答
───夢枕獏『上弦の月を喰べる獅子』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『縁壱さんは、嫌ではなかったんですか?』
ある昼下がり、縁壱は妻にそう問いかけられた。
妻は───"うた"は、よく笑う女性だった。黒曜石のような瞳に嬉々の光を宿す人だった。ころころと変わる表情はそのまま彼女の心を映したかのようで、縁壱にとっては何処か微笑ましいものがあった。
時に彼女はよく喋る女性でもあったが、言葉も表情も乏しくどこか浮ついた縁壱にとって、それは何より有難いことだった。
うたは、糸の切れた凧のようだった縁壱の手をしっかり繋いでくれる人だった。
そんな彼女と、二人縁側に腰掛けて風に揺れる木々を茫と見つめていた時のこと。ふと、彼女はそう言ったのだ。
『……俺は何か、至らぬことをしたのだろうか』
『いいえ……ただ、ふと思ったのです。初めて会ったとき、私はあなたを縛り付けてしまったのではないかと』
『……』
『あっ、もちろんあなたが一緒にいてくれたことは、本当の本当にうれしかったんです。でも、あなたは良い人だから、こんな私を選んでくれましたが……縁壱さんの人生には、もっと相応しい道があったんじゃないか、って』
もしそうであったなら───と言いたげな瞳を前に、縁壱は彼にしては珍しい不安を湛えた視線を送る。
『俺を嫌いになったわけでは、ないのか』
『まさか、そんな……そんなわけ』
『……良かった。俺のほうこそ、弁は立たず頼りのない男だから、お前に迷惑をかけてはいないかと……もうとっくに愛想を尽かされて然るべきで、それでも無理をしているのではないかと、思ってしまった』
継国縁壱は生まれからして何を期待されることもなかった。
武家には不吉な双子の片割れとして生まれ、忌み子として縊られるはずの運命だった。跡目を継ぐことはおろか、継国家の一員として何かを成すことさえ、彼には求められていなかった。
縁壱はそれを当然だと思っていた。
家を守らんとする父の考えは当然だと思うし、それを継ごうと努力する兄の姿は何より尊敬に値するものだった。自分は本来なら死んでいるべき人間で、母と兄はそれでも自分を愛してくれた。縁壱にとって、それだけで自分の人生は報われたと断言できる幸福だった。
だから───今こうしていられる自分はなんて幸せな人間だろうと、縁壱はいつも思っている。
その幸せの太源たる彼女にこんな顔をされてしまうと、どうしたものかなぁと考えてしまうのだ。
『ああ、なんだ。私達、揃って要らぬ心配をしていたんですね』
『揃って……』
『ええ、お揃い。不器用で、至らなくて、言葉が足りなくて……でもそんな縁壱さんだから、私は一緒がいいのよ』
同じ気持ちだった。
縁壱は、その感情を表す言葉を持たなかった。無言のままでいる縁壱を、しかしうたは何も言わずともその心を通じ合わせてみせた。
『私ね、縁壱さんと分かち合いたいんです。何かを見たとき、一緒に思い浮かべるのがあなたの顔なんです。縁壱さんはどう思うかな、って思うと、いろんなことが何倍も色鮮やかに見えるんです』
『……俺も、そうだ』
本当にその通りだった。
言葉通りのことを強く、とても強く、縁壱は思っていた。
自分の世界に色をつけてくれた人。
その想いは薄れていない。忘れるはずがない。例え幾星霜経ようとも、永遠に。
『だから、私達はこれでいいんじゃないかって思うんです。自分から言い出しておいて変な話ですけど……
私はここにいたいし、縁壱さんにもいてほしい。そうして何でもない一日を、毎日ずっと続けていくんです。いつか皺くちゃのお爺ちゃんとお婆ちゃんになるまで』
春には揃って桜を囲み、
夏には蝉時雨に耳を傾け、
秋には紅葉に染まる山を眺めて、
冬には寄り添って暖を取ろう。
本当に、ただそれだけでいいのだと。
何かを為すことができなくても、ただいてくれるだけでいいのだと。
うたは、そう言っていた。
ふわり。
ふいに、二人の間を、何かが通り過ぎていった。
彼女がそれに目を向ければ、目の前にひらひらとまた一枚。小さくて、白桃の色をして、頼りなく風に揺れる。それは桜の花びらだった。
頭上の梢を見上げ、顔を見合わせ、やがてうたは小さく笑いだした。
大ぶりの桜の枝一面に、鈴なりに連なる無数の蕾たち。
その中に一輪、ここ数日の陽気に誘われた気の早い花が、風の冷たさに身を震わせていた。
春。
すべての命が芽吹く恵みの季節は、もう、すぐそこまで迫っていた。
『この子が生まれたら、みんなでお花見でもしましょうか』
笑いながら、彼女がぽつりと呟いた。
『……そうだな』
悪くない考えだった。
結局、その約束が果たされることはなかった。
記憶の中にだけ残る、春の日の出来事だった。
◇
ベルゼバブと
継国縁壱。何もかも対照的な二人の激突は、刹那に閃く刃の煌めきを認識した瞬間に幕を開けた。
銀閃、弧を描いては空を断ち。
黒条、宙を貫いては虚を穿つ。
走馬灯の如く加速された視界に散るは紫電の火花。脳髄の内に駆けるはシナプスを灼く雷電の交差。剣と槍、ただ二振りの得物による激突は、しかし銃砲火器の乱舞とさえ見紛うばかりの局所的破壊の嵐をもたらし尚も回転率を上げ続けていた。
初手会敵、共に全力。いざや見よ、諸人はその姿に八幡大菩薩の顕現を幻視するがいい。
これぞまさしく武の極限。個が至れる究極の到達点。
永遠を目指し駆け抜け超越する人外と、刹那を抱き懸ける定命の只人の、是は互いの存在を賭けた食らい合いであるのだった。
「──────」
音もなく一閃。畳みかけるような赫刀の連撃を、踊る松籟にも似た流麗な槍捌きが弾く。至近距離から睨み上げる両の赫眼、こちらを見下ろす不敵な笑みの向こうにぎらつく眼光は、未だ衰えぬ戦意と覇気と傲岸不遜な自負に彩られている。
「貴様とのじゃれ合いも長くなるが」
衝撃、風圧。赤刃が齎す斬閃を紙一重で躱し、旋回する体に追随して金糸の長髪がシルクのように流れる。その視線が照準する先は、変わらずひとりの"人間"の姿。
「そろそろ飽いたぞ。次の手を出すがよい」
瞬間、落雷のように空気が哭いた。
煮え滾った炎そのものが縁壱の存在位置を貫いた。
それが地表を通過しただけで、この不可思議な空間の地面は土台を支える岩盤ごと融解し、遥か後方に至るまで一直線に赤い軌跡を描いたのだった。
誰が信じよう。これが大規模な破壊兵器であるとか膨大な魔力の指向性放出の結果などではなく、素手に携えた槍の突きによるものなどと。
軌跡より少し外れた地点に逃れた縁壱は、対敵の強大さを改めて認識した。
軌道は見えた。技の起こりとて視認できた。回避はこの通り不可能ではない。
だが怪物的だ。縁壱は半ば呆れ、半ば感嘆して漏らす。
「今この時さえ、お前は強さを欲するのか」
その一撃の真に恐るべきところは、必殺の破壊力ではない。
それは今までの戦闘とは打って変わり、「全集中の呼吸を用いて」「縁壱が用いた型の一部を模倣した」刺突であるということだ。
日の呼吸「陽華突」、或いは後世にて伝承される水の呼吸「雫波紋突き」にも酷似した一撃。共通項はその呼吸術における最速の技であり、つまり
ベルゼバブは縁壱という神速の剣客を捉えるべく新たな術技を己が身に刻み込んでいることの証左であった。
そう───
ベルゼバブは今なお成長を続けている。
学び、磨き、模倣し、簒奪し、敵手が持つあらゆる強さを己がものとして更なる強さの階梯を昇らんとしている。
何という愚直さ。何という一念であろうか。
この男は今も昔も、ただ「最強」になるためだけに戦い、生きている。
その生涯に嘘はなく、その信念に偽りはない。
子供のように純粋なその意志は、場合によっては憧れの対象にさえ成るかもしれないが、しかし。
「その強さに何の意味がある。総てを斃し到達する頂に広がるは無人の荒野。己以外に誰も存在し得ぬ虚無を、お前は望むのか」
「クハ、慣れぬ哲学などを囀るか侍。そのような弱者の世迷言など聞き飽きたが、余に伍する貴様の剣に敬意を表し答えてやろう」
愚問、考えるまでもないことだと、
ベルゼバブは胸さえ張って喝破する。
「無為、無価値、永遠の虚無───その全てに打ち勝つ。何が相手であろうと余は負けん」
天上天下唯我独尊。己こそ至高でありそれ以外には何も要らぬのだと。
語る無謬の
ベルゼバブに、縁壱はただ目を伏せて。
「ならば、私から語る言葉は何もない」
或いは、強さを求めるその姿が、歪み捻じれてしまった誰かの背中を想起させたから。
「此処で果てろ。お前の往く先に、待つ者は誰もいない」
「既に言ったぞ、それこそ本望であるのだとな!」
言葉と同時、
ベルゼバブの背部より展開される鋼翼が、真っ黒な闇を広げる。
直後、これまでの戦闘に倍する数の黒棘が射出された。弾幕よりも最早壁に等しく、前方180度を真っ黒に埋め尽くすそれらは一つ一つがマッハ数十に到達している。
応じて縁壱の剣が翻った。
全身が瞬間的な神速に至り、赫の軌跡を残して円環を為す。突撃する鴉の群れが如くに視界を漆黒に染める黒棘の奔流にあって、しかし縁壱を中心に夥しい数の火花が"ほぼ同時に"飛び散った。耳を劈く轟音。衝撃波が空間を打ち据えて軋みを上げ、中心にあるのは縁壱と、一つ残らず叩き落された直撃コースの黒棘。
それはまさしく、"斬撃の結界"だった。縁壱が手に持つ赫刀が及ぶ半径2メートル余りの射程は、文字通りに死の領空域となって立ち入るもの皆斬り伏せる。
何という超越の為せる技か。しかしこの一瞬に数千もの黒棘を斬り落とした縁壱の視界と知覚領域から対敵の姿は掻き消えて、直感により飛び退ったのとほぼ同時のタイミングで、鼻先を落雷のような斬り下ろしが掠めた。
信じがたい破壊が巻き起こった。
破壊規模も落雷に等しかった。砕けた土砂が空に逆巻き、地面には常識を疑うほどの地割れ。剣気に打ちのめされ、縁壱は直撃を回避したにも関わらず全身より血霧を噴出させていた。
「そして、之もまた既に告げたはず」
破壊の中心から赤い眼光が飛び立つ。
ベルゼバブにとってその一撃は渾身であったはず。にも関わらず外したその瞬間に身を翻し、莫大な運動量を真っ向からぶち抜いた肉体は過負荷に軋みを上げるが、しかし。
「貴様の剣はとうに"見飽きた"と!」
───結果論を述べるならば。
継国縁壱にとっての勝機は短期決戦を除いて他にはなかった。
ベルゼバブの紐解く解析と対策の速度は常軌を逸して、神域の剣士なれどもその最奥を暴かれるのは時間の問題であると。
人間と星晶獣という外殻(ハード)の違い、互いの損傷の多寡、再生能力の差。それらを鑑みても長期戦において縁壱に勝ちの目はなく、ただ一撃のもとに命を断つ真に必殺の斬撃を叩き込む以外に勝利の道はなかった。
「そう───まだだ!」
何故なら、
ベルゼバブは必ず強くなる。
例えば今、この時。「
継国縁壱を剣技で上回る」という無理難題を前にして、その限界を強引に突破したように。
ベルゼバブの肉体は破裂せんばかりに内から膨れ上がり、絶大な覇気が総身より解き放たれる。
覇王色、並びに武装色。黄金と漆黒の二重螺旋が
ベルゼバブの動きをより凄絶に底上げし、これまでに倍する速度で剣戟を加速させた。
試練とはすなわち起爆剤。越えるべき強敵など覇道を彩る花形に他ならず、"最後は必ず勝つ"という英雄譚のお約束が物理法則さえ捻じ伏せて炸裂した。
故にこの結果は必然だった。
今度こそ回避不可能の速度とタイミングでケイオスマターの黒槍が縁壱の顔面に吸い込まれる。
彼はその現実を前に動くことさえ許されず、迫る死を走馬灯めいて加速した視界で見つめるばかりで───
時が止まり、
視界が切り替わる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
凪の海だった。
波ひとつない水面は空の青さを鏡のように映して、どこまでも、どこまでも遠く広がっている。
晴れ渡る空だった。澄み渡る海の青だった。風一つない世界は硝子のような静謐さだけを湛えている。空と海の間に境界はなく、遥か彼方の水平線で両者は等しく混ざり合っていた。
果てはない。何処までも澄み切った、清浄な世界。
なんて美しい、箱庭のような永遠。
縁壱は肉体の感覚を全て"あちら側"に残しながら、その意識だけを"こちら側"に移していた。今この瞬間にさえ、現実では刹那ほどの時間も進んではいないのだろう。
青く清らかな世界だった。同時に、無と静寂ばかりが広がる世界でもあった。全ての音と暗闇を余所へ追いやって、純粋分離された世界が此処に顕現している。
静寂と虚無。もしその世界に属さぬ者が見たならば、あまりの無為と空っぽの広大さにたちまち正気を失うような伽藍の堂。
空を見上げる。聞こえるのは自分の呼吸の音と、心臓の音だけ。それ以外の音は、今は全てが遠かった。
「……」
此処が何処であるのか、縁壱は既に知っていた。
それを言い表す言葉を彼は持ち合わせてはいなかったが、その本質を彼は理屈ではない実感として覚えていた。
それは、母の腕に抱かれる子供の感覚。
或いは、羊水の海に揺蕩う赤子の感覚。
言うなれば"始まりの場所"。あらゆる存在が生まれ、そして最後には還る根源とも言うべき地点。
今己の目に見えている蒼穹の世界とて、実際はそのような姿をしているわけではないのだろう。これは単に、
継国縁壱という一個人が認識する世界の姿がそうであったが為に、今目の前に広がる世界がそのような姿を仮に取っているというだけの話なのだ。
あらゆる事柄が縁壱の頭に飛び込んできた。それは新たな知識を得たというよりは、忘れていた記憶を次々に思い出す感覚に近かった。そう、縁壱は最初から知っていたのだ。
縁壱は、自分という存在が産まれた時から此処と繋がっていたことを知った。
縁壱は、根源の渦という巨大な変転の内側にありながら、己が既にその変転さえ凌駕していることを知った。
縁壱は、己が「 」であることを知った。
そうであるならば、すべきことは一つだった。
縁壱は膝を折り、自分の足元に揺蕩う凪の海をじっと見下ろした。鏡の水面に動きがあり、波紋が広がった。動き、と観る者がいたからそれは「動いた」のだが、まだその反応は、眠りの中にいる者が寝返りを打つような、無意識の領域に属するものだった。
彼は海に手を差し入れ、掌に一杯の水を掬い取った。
───瞬間、縁壱が手繰る剣の回転率が跳ねあがった。
「ッ!?」
甲高い金属音が反響する。何者も決して立ち入れぬ剣理の間合い、それを限界突破の過剰出力によって無理やりに踏破した
ベルゼバブの黒槍を、更にこれまでに十倍する速度で跳ねた刀刃がはじき返したのだった。
何という不条理であろうか。最早コンマ秒の猶予もなく縁壱の頭部を薙ぎ払い粉砕するはずだった穂先は、その長大さに比すれば余りにも矮小な剣によって阻まれた。
空中での逢瀬は一瞬、二人は弾かれたように勢いよく宙を舞い、ほぼ同時のタイミングで着地する。
(……なんだ、今のは)
隙なく構えを取りながら、しかし
ベルゼバブの胸中を占めるのは一抹の疑問だった。
己の渾身が防がれた、それ自体は今までと全く同じ展開だ。
眼前の侍が誇る剣腕が条理を逸脱していることは知っている。それまで足りなかった「格上との戦闘経験」を以て成長していることも承知している。
だが
ベルゼバブは、先程の一撃を「それら要素の全てを加味した上で」放っているのだ。
己の力が足りなかったがための不発ではない。純然たる理論と数値の話において、先の一撃は間違いなく縁壱の命脈を断つに相応しいものだった。
にも関わらず、この結果がある。如何に不可解なれど目の前に広がる現実こそが正解。では一体何が、彼の命を繋ぐに至ったのか。
纏う和装は襤褸切れに成り果てて、幽鬼めいて立つ侍の表情は影となって伺い知れない。彼はゆらりと一歩を踏みしめて───
次瞬、縁壱の肉体は十mの距離を無視して、既に
ベルゼバブの目の前に在った。
「ヌゥ……ッ!」
心に生じた一瞬の空白から、立ち直る暇もなかった。
踏み込み様に繰り出された剣閃をそれでも迎撃することに成功したのは、
ベルゼバブが持つ無窮の武練が成せる業か。防御に展開された数十の黒棘はただ一撃のもとに悉くを斬滅され、尚も勢いの止まらない威力を二重の盾として構えた黒槍さえも弾き飛ばされる。
「全集中───」
衝撃に上体を大きく仰け反らせ、防御を弾いて尚迫る剣を迎え撃つべく肉体の活性を開始。彼奴との戦闘で体得した呼吸術を用いて神経伝達と知覚領域の向上を成し遂げ、加速された思考と減速した視界の中で宙を舞う黒槍を確りと掴み取る。
右足を強く踏み出し、崩れかけた体勢を強引に立て直す。
一挙動に腕を引き戻し、続けざまに襲い来る縁壱の剣を叩き落さんと穂先を振り下ろし───
「ガッ……!?」
右手を貫く衝撃。
両者衝突の軌道を全速で駆け抜けたはずの剣と槍は、しかし触れ合うこともなく"すり抜けて"、剣の側だけが一方的に
ベルゼバブの持ち手を一閃していた。
結われた長い黒髪が、陽炎のように揺らめく。
超絶の速度に比して、それは余りにも静かな挙動であった。縁壱の踏み込んだつま先を軸に体全体が螺旋を描き、旋回する斬撃が真っすぐに
ベルゼバブの両眼を狙い撃った。
ベルゼバブの肉体が反応するよりも、意識が反応するよりも速く、積み重ねた経験の集大成が自動的に解答を弾き出していた。放出する魔力が地面を伝い、縁壱の動きを支える土台ごとを粉砕。地に足つけなければ生きられぬ人の身では、悲しいかな中空での身動きなど取れるはずもなく、彼の斬撃は
ベルゼバブの頬を掠めるだけに終わり……
次瞬、三六〇度変幻自在の斬撃が、ありとあらゆる角度から
ベルゼバブを襲った。
「ぐ、オォ……ッ!!」
もし竜巻が質量を持つのだとしたら、恐らくこのようにして吹き荒れるのだろう───そうとさえ思わせる果断なき斬撃の大波濤であった。よって全身を膾切りにされ大量の血飛沫を噴出させる
ベルゼバブとて、それは瞬時の直感により鋼翼の最大展開を防御に割いた結果であり、むしろ
ベルゼバブほどの武練が無ければ無数の肉片を通り越し一瞬で血霧に至るまで分解・斬滅されていたことは明白だった。
「否、まだだァ!」
故に当然、この程度で斃れる
ベルゼバブではあり得ない。全身に負った再生不可の傷をごり押しで縫い留め、その損傷と窮地に比例した精神の昂りを出力に変換する。"精神力"という底のないリソースを現実に行使する覚醒現象は、生命活動を停止して然るべき肉体を万全も同然に駆動させる。
ベルゼバブの総身を、旋回する漆黒の魔力が包み込む。まるで人間大の削岩機であるかのように、しかし齎す破壊はその比ではない。視界の端に降り立つ縁壱の姿を確認すると、彼は螺旋の魔力を纏った蹴撃を一挙動に抜き放つ。ケイオスキャリバー───肉弾の技でありながら明らかに対人ではあり得ない影響範囲を誇る広域破壊の御業が、周囲一帯ごと縁壱の矮躯を呑み込んだ。
継国縁壱の敏捷性は、主にその反応速度と近距離における戦闘速度に集約される。逆を言えば走行速度……長距離の移動に関しては凡百のサーヴァントと同程度であり、高速の飛行手段であるとか空間転移といった技能を彼は持ち合わせない。故に極論した話、剣や銃といった「僅かな回避行動」のみで避けられる攻撃ならばともかく、広範囲を薙ぎ払う絨毯爆撃に対して彼は呆れるほどに無力だった。
如何に条理を逸脱しても、それこそが人間の限界なのだろう。今や尋常なる剣の果し合いへの拘りさえ捨てた
ベルゼバブは、敵手を討滅するための最適な行動を選び取っていた。
だからこそ、巻き上がる粉塵を切り裂くその一閃さえ、勿論想定の内である。
「舐めてくれるなよ人間がッ!」
瞬間、
ベルゼバブの総身から膨大な量の「雷撃」が発散された。肉体は黄金の輝きを放ち、纏う覇気は空間をビリビリと震わせるほどに強大。その力の一端を発揮したというそれだけで、周囲一帯に致死の熱量が吹き荒れ、地形ごとを粉砕する不可視の圧力となって顕現した。
並大抵のサーヴァントが相手ならば、これだけで複数騎を屠ることさえ不思議ではないであろう暴威。しかし眼前の相手をそれだけで倒せるなどと、
ベルゼバブは思い上がっていない。当然のように即死圏内から身を逃がした縁壱を照準し、弾丸の如く飛び立っては拳を突き上げる。
迫る拳、付随する雷電。受けることは適わず、避けようにも纏う雷が追撃する。それはマムや
カイドウのように純粋な耐久力の高さを誇る英霊でなくばいなすことはできず、縁壱のようなタイプに対しては特効ともいうべき代物であったが。
当然のように取られる回避行動。
ベルゼバブの拳を躱した先、追随する雷電が縁壱を襲い、しかしその火花が"彼の肉体をすり抜けた"。
「貴様……」
事此処に至り、
ベルゼバブの疑念が決定的なものとなった。
縁壱の速度が跳ね上がったからの初手。まずあの十mの距離を一瞬でゼロにした移動。身体能力の増強やブーストによる高速移動ではあり得ない。極限まで最適化された
ベルゼバブの知覚領域は、例え敵手が光速に至ろうとも必ずその運動の軌跡を捉える。そして同様に空間転移の類でもあり得ない。転移とは三次元上の二つの空間座標を繋げることによる瞬間的な移動となるが、その媒介には上位次元の利用、あるいは時空の揺らぎが伴う。そのどたらにせよ特有の予兆が存在するし、物質ではない次元上の俯瞰的視点に立てば必ず移動の痕跡がくっきりと残るはずなのである。
次にニ手目で起きたこと。剣と槍の激突は、しかし剣がすり抜けることで
ベルゼバブが一方的に斬られた。絡みつくような剣の軌道を用いて相手の攻撃を躱す、という技法は無くはない。当然ながら
ベルゼバブも体得しているし、その使い手とも幾百幾千と矛を交わしている。にも関わらず彼の目には捉えられず、その卓越した頭脳で以て何度解析しても得られる結論は一つだけ。すなわち、攻撃が命中する直前、彼の認識限界である十億分の一秒前まで、縁壱の剣は確かに直撃を受ける位置にあった。視覚、聴覚、熱、電磁波、魔力に至るまで、全ての要素が縁壱の剣は『そこ』にあることを証明している。しかし、攻撃が命中した瞬間には、あるはずの縁壱の剣はそこには『無い』。
次に三手目。広域破壊により足場を崩した
ベルゼバブは、その一瞬で縁壱の姿を見失った。これもまたあり得ない話だ。例え視界を遮る粉塵が巻き起こったとて、それで敵手の姿を逃がすほど
ベルゼバブは甘くない。視覚妨害、透明化、気配の遮断、光学ステルス、認識阻害……およそ考え得るあらゆる隠蔽手段を用いたとて、
ベルゼバブの目を誤魔化すことはできない。にも関わらず、縁壱の姿を見失った。
決定的だったのは最後の交錯だ。放たれた雷撃を、縁壱はあろうことか「透かして」無力化した。まさに陽炎が如く、確かに彼奴の手繰る剣の型には残像による攪乱の効果を持つ技があったが、あれは高速の移動と蜃気楼の原理を用いた小手先の技術のはず。
ベルゼバブの攻撃は間違いなく「当たった」にも関わらず、であればこの現実は一体どうしたというのか。
当たったはずの攻撃が当たらない。防いだはずの攻撃が防げない。
認識と結果が噛み合わない。
まるで、幻と戦っているかのよう。
この不可解な一連の現象を、仮に縁壱に尋ねたとしよう。
彼はきっとこう答えるはずだ。
「私はただ、"気付いた"だけだ」
無我の境地という概念がある。
元は仏教用語であるところのそれは、武術の世界においては各流派による解釈の違いこそあれど、概ねその理解を同じくしている。
まず第一に敵の動静を把握し、相手の意を察すること。第二に、通常バラバラである心身の各動きを合一して最大限の機能を発揮できるようにすること。第三に、敵に己が意を察知されない状態にすることだ。
所謂無念無想の境地というものだが、精神の統一を行う都合上、その修練には「どんな辛苦にも無感である精神状態」を目指す意図が込められている。
文字通りに「我」を「無」にする境地───というのは間違いではないが、本質ではない。より厳密に言うならば、邪念を消して精神を統一するなどというのは無我の前段階に過ぎない。
ベルゼバブとの戦闘の最中、唐突にその姿を消したと思われた縁壱は、しかし確かに「其処」にあったし、消えてなどいなかった。
縁壱の後世にて現れた、人が誰しも持つ闘気を完全に消して植物の境地に立ったわけでもなかった。
逆だ。縁壱はその心を「広げた」。世界と縁壱の区別がなくなったから、通常の肉眼では捉えられなくなっただけのこと。
入滅、遷化、往生、屍解。悟りを開いた者は往々にしてその存在を消滅させ別世界に去っていくものと語られるが、実際は全く別だ。
自他の境界を失くし心を無尽に広げること。そして一切を内に含めること。
世界という大いなる変転の内側に在りながら、縁壱は既にその変転さえ内包し、凌駕している。
例えるならば水月……実体は一つでも地上全ての水面に像を作り、水を汲まれたり水面が乱されても月自体が揺らぐ事はない。
当然ながら縁壱はこの詳しい原理を理解しているわけではない。"気付いた"という彼の言葉通り、ただ自覚したのみであった。
そもそも彼の戦闘技術は、尋常な手段で得られたものではない。
生まれた時から透き通る世界を認識し、大人はおろか人間の限界を超えた動きを可能とした。
今は消えた鬼の首魁、■■■■■を前にした時でさえ、無限に回復する彼を殺すため無限に殺す円環の剣術を「その場で会得」した。
彼の技術とは修練の果てに手に入れたわけではなく、窮地に際する精神の爆発的な高揚によって齎されたわけでもない。
ただ「最初から持っていたもの」を「自覚して」、「必要な分だけ」手に入れた───すなわち、生まれた時点で頂に達しているという事実。
これが意味する最も悪魔的な事実とは、彼の強さそのものでもなければ、その異様な生まれでもない。
すなわち、本来ならば覚者がその半生を費やして辿り着ける精神の到達点を、「単なる技術」で再現しているということ。
それこそが
継国縁壱の本性───武における極限の正体だ。
「上等。興味深いぞ、その有様」
応じて
ベルゼバブの戦意が迸る。未だ分からぬ絡繰りなれど、攻め手を緩める理由には成り得ない。
彼奴が我が手に届かぬならば、その頂ごと粉砕すれば罷り通るだろう。
ケイオスマターがその意志に従って形状を変化させていく。質量を増し、枝分かれし、無限分岐するはまさしく猛獣の捕食腔か。最早槍の範疇には収まらず、並び立つ乱杭歯にも等しい死棘がその姿を露にした。
異形の巨大戦槍。今や
ベルゼバブの総身さえ飛び越える威容を携え、不敵な笑みは崩さずに。
「来い。その手品を暴いてくれる」
言葉と同時、両者は再び剣の間合いへ踏み込んだ。
この期に及んで詰らない小手先のフェイントなど意味を為さない。激突する刃は共に全力の発露であり、間断なき破砕音は等しく空間を震わせた。
黒い迅風に晒されたものは遍く破壊されるべき空間の中で、縁壱だけがその法則に逆らい、原型を保ち続けた。すでに両者の立つ地面は愚か、存在する空間までもが圧倒的な魔力圧に耐え切れない。
ベルゼバブの猛刃が振るわれる度、その余波が奇跡のように地面を割り開き、彼方の地平線までをも一直線に破壊し尽くした。
熾烈極まる攻防の最中、
ベルゼバブはふと気づく。
己の攻撃は避けられているのではなく───そもそも『当たっていない』だけなのではないか、と。
目の前のサムライ、彼奴は攻撃を避けたのではなく『自分が攻撃を受けない場所にいることにした』だけであり、しかしその状態が不完全であったため『動いたおかげで当たらなかった』ように見えただけなのではないかと。
ベルゼバブには、その現象に心当たりがあった。
ベルゼバブは最強の力を得るために、できることはそれこそ何でも手をつけた。無限の鍛錬を己に課し、無限の闘争を善しとした。勝利のみならず敗北をも糧とし、絶望を希望と等価値のものとして重ね合わせた。遍く書に記された知識を吸収し、技術を覚え、論理や哲学さえも己のものとした。
その過程にあって、それもまた強さを得る一環として行っていた研究の最中、彼はあることに気付いた。
物質のみならず目に見えぬエネルギー……魔力やエーテル、星晶、果ては形而上学的存在に至るまで、その最小単位を暴き立てた時、ある共通した事象が存在することを。針の先より尚小さな空間、最新鋭の顕微鏡を通してのみ観測できるミクロの世界は、我々が認識する三次元空間のスケールでは及びもつかない固有法則に支配された極小の別宇宙であると。
一定の法則性と再現性によって担保された別次元の論理。それはすなわち。
「量子論的不確定性原理───物質の存在確率の改変かッ!」
この世界に存在するあらゆる物質は、原子と呼ばれる微細な粒子が互いに結合することによって構成されている。
どんなに硬く、大きな物質であろうとも、その本質は僅か百億分の一メートル単位の粒子の集合体に過ぎない。
原子は更に陽子と中性子と電子と呼ばれる小さな粒子に分解され、陽子と中性子はクォークと呼ばれる更に微細な粒子によって構成される。『素粒子』と呼ばれるこれらの粒子はもはや『粒』という性質に留まることはできず、『粒子』と『波』という二つの異なる性質を持つことになる。
そしてこの極微の世界では、しばしば奇妙な現象が発生する。
普通の人間が現実だと思っている一メートル単位の巨大な世界では決して起こり得ないことが、この世界では当然のように実現される。
例えば一つの粒子を観測したとする。粒子は空間上の『どこかの場所』を『ある速さ』で飛んでいる。当たり前の常識に照らし合わせて考えれば、この粒子の『場所』と『速さ』を同時に観測することはそう難しいことではない。が、素粒子の生きる極微の世界においてこの常識は通用しない。粒子の『存在座標』と『運動速度』はどちらも一定の誤差を持った曖昧な値としてしか観測することはできず、どちらかを完璧な精度で測定してしまった場合、もう一方の量を知ることは永遠に不可能になってしまう。
この粒子が、この座標に存在する確率が何パーセント。
この粒子が、この速度で飛んでいる確率が何パーセント。
全ての物理量はただ神々の賽子遊びの期待値としてしか決定することは適わず、全ての粒子は『確率密度関数』と呼ばれる存在確率の大小を表した波としてしか記述することを許されなくなる。
プランク、ボーア、シュレディンガー、ハイゼンベルグ、ディラック、フォン・ノイマン───空の世界ならぬ遥か地上の世界において、数多の物理学者達によって生み出され体系化された、極微の世界を記述する論理式。
人はそれを、『量子力学』と呼ぶ。
「笑止」
覚者の真理なにするものぞ。
ベルゼバブは今、"悟り"さえも解明して己が理解の内に零落させたのだ。
ベルゼバブは己が魔力を、破壊ではなく浸透として周囲世界に解き放った。
それは決して害なる性質を持たず、むしろ世界に迎合して一体化する特質を備えていた。それらを膨大な量、しかし緻密な制御のもとに垂れ流して浸透させていく。
所謂空間支配の術法であったが、常のそれとは些か趣を異にするものだった。戦闘に際してはテリトリー系能力───特定空間を自分にとって都合の良い法則が支配する世界に改変することで相手を嵌め潰すのが常道ではあるのだが、これは明らかにその手の塗り潰す類ではあり得ない。
世界を基の姿のまま、
ベルゼバブという存在自体を広げていくようなものだった。その影響範囲は瞬時に百mを超え、数秒後には一㎞、十秒後には周囲数十㎞に至るまでの支配を完了させる。
下準備は整った。蠅の王の名を冠する悪魔の如き男は、さながら悪鬼そのままの笑みを浮かべて。
「返すぞ、その気勢───付け焼刃の技で余を討とうなどと思い上がった報いを受けるがいい!」
空間を満たした魔力の性質を、そのまま"反転"させた。
瞬間、剣を振るう縁壱の肉体が電撃でも受けたように「びくり」と痙攣し、明らかにその動きの精彩を失っていた。
それもそのはず。今の一瞬にて、縁壱の全身の神経剄は根こそぎ破壊されてしまったのだから。
ベルゼバブのやったことは単純にして明快。すなわち"天地を返した"のだ。
天地と合一する気功の究極は、逆を言えば天地に依存しているに他ならない。
世界に溶け込む境地は人の影響を受けないものの、世界の影響は如実に受ける。陰陽自在の八卦炉に等しい所業を、なんと
ベルゼバブは無手の生身のまま成し遂げてしまったのだ。
「いざ、己が不明に溺れて死ね!」
牙を剥いた哄笑は勝利の確信か。
その手に収束するは漆黒の魔力。
ベルゼバブが究極と自負する必滅の奥義「ケイオスレギオン」の発動予兆。
合一を解き無防備を晒した縁壱を、今度こそ確殺せんとする殺意の一撃だった。
その様を睥睨して、縁壱はただ呟く。
「"やはり"、この程度では足りなかったか」
視界は再び青の世界に切り替わっていた。
肉体の感覚は全て現実世界に在り、二重映しの視界は今も迫る
ベルゼバブを直視している。それと同時に、縁壱は縁壱にだけ認識できる変転の内側に意識を置いていた。
かの悪鬼を討ち滅ぼすには足りなかった。
きっと、"手で掬う"などという発想では駄目なのだ。
縁壱は何か一つを決意し、その目を伏せる。同時に"とぷん"と静かな音を立て、縁壱の体は大海の内に落ち沈んだ。
それは例えるなら、鏡面が突如として水面に置き換わってしまったような。
明るい海面が急速に遠のき、周囲世界は光のない暗闇に染まっていく。
……………………………………。
苦しい。
押し潰されて、内から破裂するような心地だった。
これもまた、
継国縁壱の知らぬ事実であったが。
根源という大海に対して、人間の自我などは墨の一滴に過ぎない。
海に落ちれば途端に希釈され、一片の黒も残せぬまま消え失せるしかない。
この必然を覆したくば、大海を丸ごと染め上げる巨大な「色」になるか、或いは水底で尚輝きを失わぬ一粒の宝石が如き「識」になるより他にない。
自分が扱う力は、「必要な分」だけ「自覚して」手に入れたものだ。
■■■■■を前にしては、無限に殺し続ける円環を。
必滅の一撃を前にしては、世界と合一する拡散の境地を。
ならば、今必要なものとは何だ。
何をすればこの悪鬼を打ち倒せる。
自分には一体何が足りない?
問うた時、そこに答は在った。
問うた瞬間に答が生じ、問はそのまま答になった。
真理は既に答であるが故に問わない。
在るべき姿が見定まった。
───視界が開ける。
「潰れ果てろォォッ!!」
怒号と共にその暴威が放たれる。
それはさながら世界に空いた虚空であるかのように、何もかもを呑み干す暗黒天体として顕現している。
躱す手段はない。防ぐ手段もない。まして迎撃するなどと。
全身の経絡系を破壊され尽くして縁壱は動けない。動けるはずもない。
勝利は成った。これすなわち
ベルゼバブが歩む覇道、最強へ至る道に転がる石の一つであったのだと。
───縁壱の目が、開く。
「力が生まれるなら、それは消せる。
空間が歪むなら、全てを均して無にすればいい」
───次瞬、"世界"がズレた。
ベルゼバブは、そこに煌翼の姿を幻視した。かつて己が必殺を超えた太陽の剣を。
それは、まさに日の剣だった。
今まさに刀を振り抜いた姿勢で、縁壱が立っている。
その姿に傷はなく、その体に隙はない。
重力崩壊は何事も無かったように消え失せている。空間はただ、凪いでいた。
ベルゼバブは問うた。
「……貴様、何をした」
「知れたこと」
答となった縁壱は、その問いに応える。
「"世界"の斬り方を覚えた。それだけだ」
魂がある指向性を得て、答はもう全身に満ちていた。
雛が羽搏きを習わずして知るが如く、鳥が鳥であるように、獣が獣であるように、
継国縁壱が
継国縁壱であるがための剣が導き出される。
この数刻、己が身を包んでいた暗雲は、沈黙の中の沈黙によって晴らされた。
心を燃やせ。より速くあれ。絶望を前になお笑え。
───円環は、成る。
「このッ、化け物がァ!」
喝破する
ベルゼバブを前に、縁壱は今までの凪のような心地から、魂の奥底より沸き立つ「何か」に身を任せるように心持を入れ替えていた。
生物としてのステージが切り替わっていた。化学物質が脳を支配して精神を司るのではなく、精神が物質を支配して肉体を手繰っている。
1*10^-256秒に一回、世界は次の世界へ切り替わる。時の流れの中において物質は複製され、"本人"を証明できるのは連続性を持った精神───魂だけ。
まばたきを「する」か「しない」か選べるように───
継国縁壱は、あらゆる全てから解放されていた。
「それでもッ最後に勝つのは余であろうよッ!
太陽が東から昇り西に沈むと同じくして、我が最強は絶対であるッ!!」
「ならば私は、お前という漆黒の太陽を墜とそう。この日輪の刀にて」
今や縁壱は縁壱ではなく、血肉と刃で連結した一繋ぎの駆動装置。"根源"というリソースを"剣"の形で現実に出力する環境に過ぎず、肉体は生存の必須条件ですらない。
その全身は満身創痍、絶え間なく血霧を噴出する端から循環させる様は、余人ならば襲い来る激痛のみで十度は発狂死できようが、今の彼には何ら関りのないことだった。
思考を埋め尽くす念はただ一つ、巡り巡って命を燃やす血潮への号令だ。
───悪鬼滅殺。
今こそ、その意志を果たそう。
「いざ、参る」
縁壱が一歩を踏み込む。
ベルゼバブが絶大な魔力を発露させる。
主観時間が無限のように引き伸ばされる。
時が灼熱する。
ほぼ零の時間差で放たれた五千二百三十七の黒棘と『激痛』三百六十一の蒼剣と七百八十三の光槍の内三千七百が牽制で九百四十が罠で『希釈』それ以外の全てが本命でありその内八百五十一閃『激痛』と八百五十二閃の間に隙間が──〈縁壱さんは優しい人ですから〉──死棘の嵐を抜け『激痛』た先には白き光条の檻が視界の全てを埋め尽くし──〈誰かを傷つけるだなんて、とても〉──
蒼の斬撃海嘯が如く『希釈』敷き詰められるが斬り伏せ『激痛』られぬ道理はなく──〈でも、実は憧れだったんです〉──脳が情報に耐えられず沸騰し火を噴く『希釈』が構うことなく──〈お侍さま。凛々しいではありませんか〉──
暴虐の大瀑布を『激痛』奇妙にゆっくりと『希釈』した知覚で見切り──〈大丈夫です。ずっと待っています〉──酷使された筋線維が『激痛』千切れ充血した眼球が内から破裂し『激痛』『激痛』『希釈』体中の細胞が燃えて燃え尽きる感触──〈だって私には、この子がいるんですから〉──
それでもいい『激痛』届け『希釈』『希釈』『激痛』届け届け届け『激痛』『希釈』『激痛』──〈あなたが帰ってくる頃には、あの花が咲いているかもしれませんね〉──まだだ『激痛』一撃でいい『激痛』見えた『激痛』『希釈』『激痛』刃と刃の隙間『激痛』時と時の狭間に鋼翼の姿が──〈これからはあなただけじゃなく、あなたとこの子のために〉──
激痛、希釈、激痛、希釈───絶え間なく襲い来る二重螺旋のリフレイン。
漂白された意識とは裏腹に駆動する肉体、ただ一つの意志に従って。
既に、縁壱に思考の余地はない。意識は希釈されては激痛により現実に回帰し、原初の想い以外のあらゆる全てが白昼夢が如くに霞んでいる。
狂い果てた感覚の中、ただ一つ握りしめた「怒り」という名の想い。それすら断たんと
ベルゼバブの凶刃が迫り───
(お前は───! 子供を、生命を、人生を、何者でもないように使い潰した───)
───故にこそ、その必殺は相成った。
決着は、それまでの激動に反して静けきものだった。
きん、といっそ涼やかでさえある音がして、手ごたえが消えた。
肥大化した黒槍、それが半ばより断ち切られて宙を舞う。
感触の空白は刹那。想いを吹き込んだ赫刀の切っ先は、いっそ拍子抜けする呆気なさで
ベルゼバブの胸元を斬り抜けていた。
刃から、骨肉を両断する手応えは感じられなかった。あるのはただ、枯れ果てた古木に斬り込んだような手応え。人であることを止めたものを斬る感触とはこういうものなのか。怒りを手に握りながら、しかし縁壱は鬼を斬るのと同じくしてただ悲しみだけを湛えていた。
「阿摩羅識・鬼滅の刃」
躍動が止まった。心臓は拍動を鎮め、赫刀の円環は途切れる。
体を両断されてなお、
ベルゼバブは滅んではいなかった。最後の闘志が赫眼を揺らす。
縁壱は強く、強く刀の柄を握りこむ。
「これが、お前の死だ」
その時、完全なる同一のタイミングでいくつかのことが起こった。
まず初めに、
ベルゼバブの全身から黄金の火が上がった。それは通常の火とは異なり
ベルゼバブの肉体すら薄紙のように溶かし、再生すら受け付けぬ煌めく業炎であった。
第二に、
ベルゼバブの全身が"細切れ"になった。まるで何百という斬傷が、一斉に花開いたような光景だった。
にわかに驚愕に目を見開く
ベルゼバブは、しかし先までの力強さなど最初から無かったように、膝から崩れ落ちた。
立ち上がれない。動けない。指一本すら動かせない。
そうだ。それこそが当然なのだ。何故ならそれは、今まで積み重ねた
ベルゼバブの業そのものであるのだから。
「───」
その一斬こそは、縁壱が至った真如。森羅万象、世に混在する総てを分かつ究極の切断現象。
それは速度、理合、技巧では測れない総てを逸脱した何かであり、彼我の間に存在するあらゆる要素を突き抜けて炸裂した、剣撃の極致と呼べるものだった。
因果さえ断つ零の剣、"ですらなく"。
それは因果も、寿命も、法則も、魂も、存在さえ一刀の下に断つ切断法則そのもの。
ベルゼバブという究極の個を斬るために至った、縁壱にとっての到達点の一つ。
であればこそ、
ベルゼバブの身に起きた現象など至って単純。
彼がこれまでに負ってきた傷───無数の斬撃、無数の打撃、そして何より煌翼と彼が呼ぶ存在から与えられた炎。他者を踏み躙る過程において発生した数多の反意、反発、怒りと憎悪の集大成だ。
今までは常軌を逸した再生能力によって抑えつけられたその全てが、"存在"を斬られたことにより一斉に顕在化してしまったというだけのこと。
すなわち───
ベルゼバブの、自業自得の末だった。
「いいや───」
それでも。
それでも、彼は。
「───まだだァッ!!!」
それでも彼は、何も諦めない。
何を悪びれることもなく、何を顧みることもない。
ただ激発する意志力の赴くままに、全ての道理を薙ぎ倒さんと奮い立つが、しかし。
治らない。立ち上がれない。霊核を断たれた地点から急速に崩壊していく全身を繋ぎとめることができない。
それも全く当然の論理。如何に覚醒を果たそうと、そもそも"できない"ことは"できない"のだ。
端的に、別の事象世界における滅奏と呼ばれる現象と全く同じこと。
覚醒して霊的質量が増大する傍からあらゆる全てが霧散する。今の
ベルゼバブは、いわば底の抜けた桶に大量の水を注いでいるような有様だった。
「まだだ、まだだ、まだだァ!
まだ、余は───」
そして彼は、あろうことか辛うじて無事だった右腕を、自らの胸の裂傷に突き入れた。
何かを掴み、引きずり出す。それは炎を噴き出す肉塊であり、未だ脈打つ真紅の器官。
遍く生命にとって無くてはならない、それは
ベルゼバブの"心臓"であった。
彼はそれを握りつぶす。瞬間、煌炎は雨に打たれたように立ち消え、炎上が収まった。
霊核を蝕む炎を、霊核を潰すことによって踏み倒す───それはまさに
ベルゼバブのような絶対強者にしか成し得ない馬鹿げた解決法であり、しかし今はそれしかなかった。
「まだだ───」
そして、彼は。
「まだだァ───」
彼は、尚も。
「まだ、まだァッ!!」
極限まで膨れ上がった魔力が、遂には臨界を超えて炸裂する。
暗闇が如き異空間に膨大な破壊が巻き起こり、空間さえ硝子のように破断した。罅割れから差し込む光は、すなわち外界への扉を意味する。
まさしく飛び散る破片の中で、
ベルゼバブはようやく立ち上がり、吼えた。
「それでも───勝つのは余であるッ!
ひれ伏せよ有象無象共。必ずや全てを縊り殺し、遍く万象の頂に君臨しようぞ!」
その喝破を受け、縁壱もまた不動。
その理由は至って単純。彼もまた、動けなかったからだ。
最後の一刀を振り終えた瞬間、まるで糸が切れたように、最早指一本さえ動かすことはできなくなっていた。
全身に充ち満ちていた高揚と全能感は消え失せ、掻き毟りたくなるような鈍痛と重苦しい倦怠感が圧し掛かった。魂が翼を得て大空を飛翔していたはずが、再び肉の器に囚われて枷を付けられたような心地であった。
それでも。
やはり、彼もまた立ち上がって。
何故ならば、負けられぬ理由など、彼とて持ち合わせているのだから。
「いいや。お前は今、この時に終わる。私が、この手で終わらせる」
言葉と同時に。
遂には光が世界を呑み込み、二人を極光の果てに拭い去る。
現実への帰還の時だった。界聖杯の内界、東京二十三区の何処に飛ばされるかは知らないが、その場所こそが決着の地となるだろう。
縁壱は剣を握り、
ベルゼバブは尚吼える。
終わりの時は、すぐそこだった。
【???→???(東京二十三区)/二日目・早朝】
【ランサー(
ベルゼバブ)@グランブルーファンタジ-】
[状態]:激高、一糸まとわぬ姿、煌翼の残滓により全身炎上(極大)、右腕炭化(超々極大・因果破壊による再生阻害)、心臓消失、右眼失明、左翼欠損、上半身両断(切断面を辛うじて癒着させている)、全身にダメージ(超々極大)、霊核破壊(超々極大)、存在を斬られたことによる全身の急速な崩壊(大)、再生力低下により全身の刀傷(少なくとも数百発)が同時に開き細切れ状態。以上を気合と根性で耐えている。
[装備]:ケイオスマター(全壊)、バース・オブ・ニューキング(半壊)
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:最強になる
0:それでも───勝つのは余であるッ!!
1:龍脈の龍、成る程。
2:それはそうと283は絶対殺す。
3:狡知を弄する者は殺す。
4:青龍(
カイドウ)は確実に殺す、次出会えば絶対に殺す。セイバー(
継国縁壱)やライダー(ビッグ・マム)との決着も必ずつける。
5:鬼ヶ島内部で見た葉桜のキャリアを見て、何をしようとしているのか概ね予測出来ております
6:あのアーチャー(
シュヴィ・ドーラ)……『月』の関係者か?
7:ポラリス……か。面白い
8:煌翼……いずれ我が掌中に収めてくれよう
【備考】
※大和のプライベート用タブレットを含めた複数の端末で情報収集を行っています。今は大和邸に置いてあります。
※大和から送られた、霊地の魔力全てを譲渡された為か、戦闘による魔力消費が帳消しになり、戦闘で失った以上の魔力をチャージしています。
※ライダー(
アシュレイ・ホライゾン)の中にある存在(ヘリオス)を明確に認識しました。
※星晶獣としての"不滅"の属性を込めた魔力によって、霊核の損傷をある程度修復しました。
現状では応急処置に過ぎないため、完全な治癒には一定の時間が掛かるようです。
※一糸まとわぬ裸体ですが、じきに魔力を再構築して衣服を着込むと思われます。
※失われた片翼がどの程度の時間で再生するか、またはそもそも再生するのか否かは後のリレーにお任せします。
【セイバー(
継国縁壱)@鬼滅の刃】
[状態]:左腕欠損、全身にダメージ(大)、経絡の乱れ(大)、「 」
[装備]:日輪刀
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:為すべきことを為す。
0:鋼翼の混沌を斬る――これが、死合うということか。
1:足止めは成った。次は……。
2:
光月おでんに従う。
3:他の主従と対峙し、その在り方を見極める。
4:凄腕の女剣士(
宮本武蔵)とも、いずれ相見えるかもしれない。
5:この戦いの弥終に――兄上、貴方の戦いを受けましょう。
[備考]
※全身の経絡を破壊されているため、世界との合一を行使できません。
※根源と接続したことにより自我が希釈されつつあります。もう一度根源に潜行する、或いは根源由来の技を使った場合、霊基が耐え切れず消滅するでしょう。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
青空の下、鏡のように凪いだ水面に立つ女性がいた。
継ぎ接ぎの着物を着た、溌剌とした印象を受ける女性。彼女は嫋やかな笑みを浮かべて、後ろ手に組んで空を見上げている。
彼女は慈母そのものである表情をして、呟く。
「……がんばれ、縁壱さん」
時系列順
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最終更新:2023年02月03日 20:07