着信音が、鳴り響く。
 そこは悪の潜む洞穴。やがては都市のすべてを平らげるかもしれない、魔王の寝床。
 季節外れの桜が咲き誇り、今まさに"夏を喰らう春"が訪れようとしている都心の一角で。
 これから始まる乱痴気騒ぎ、一人の男の愛をインクに書き上げられた大戦争の筋書きが形を結べば黙っている筈などないだろう白い魔王が、端末の向こうから響く声を聞いた。

『待ったか? こっちはちと立て込んでてな、まあ許せよ』

 龍脈の簒奪を果たし、晴れて最大勢力の一角と化した敵連合。
 しかし構成員も頭脳も次々と散っていった今、残っている協力者は通話の向こうの彼くらいのものだった。
 魔王・死柄木弔がまだ只のガキだった頃から、『禪院』という名で連合の"教授"と情報共有を交わしてきた男。
 田中一とそのサーヴァントが原因で起こった一悶着の折には、物理的な小競り合いもした相手。
 霊地争奪戦終結以降音信不通となっていたその男は突然着信を鳴らしてくるなり、死柄木の悪態も待たず一方的に用向きを告げた。

『連合の王サマが嗅ぎ付けてないってこたぁねえと思うが、直にデカい戦争が起こるぞ』
『何しろどっかの誰かさんが仕留め損ねたデカブツにぶん殴られてきた所だ。見立ての正確さは折り紙付きさ』

 当然、死柄木もその気配は感じ取っていた。
 遠方から響いてくる地鳴りのような轟音と、肌を刺すような鋭い魔力の波長。
 女王リンリンの力を継承して名実共に人を超えたことで、どうやらそちら方面の感覚も見違えるほど鋭敏になっているらしい。
 戦争の気配がする。血で血を洗い、命で命を砕き、勝った者が全部持っていく数時間前の"あれ"が繰り返されようとしているのを感じる。

 ――そうか。やっぱり生きてやがったのか、もう片方の皇帝は。
 ――駄目だな。駄目だろ、俺が壊したものが這い上がってきちゃあ。
 ――往生際の悪い老害は、もう一度……今度こそ平らに均してやらないとな。
 ――今のこの身体でなら、ババアの時よりも色々楽しく殴り合えそうだ――

『で? 今度はこっちから一つ聞かせろよ』

 勝つか負けるか、生きるか死ぬか。
 何かを得るかすべて失うかの局面を前にしても、死柄木が覚える感情は期待と高揚だったが。
 そんな心に水を差すように、『禪院』は鼻で笑って言った。

『あの狸爺、なんて言い残して死んだんだ?』

 教授。M。悪の蜘蛛。オールド・スパイダー。
 この地に巣を構えた二匹の蜘蛛のその片割れ。
 犯罪卿ジェームズ・モリアーティ
 その策謀がもはや連合には亡いことを、この敏い山猿はとうに見抜いていた。
 考えてみれば当然のことだ。
 Mが存命ならば、死柄木がわざわざ通話に出る理由がない。
 餅は餅屋。完全犯罪の紡ぎ手(クライム・コンサルタント)に交渉や折衝の役を任さないなどとんだ宝の持ち腐れだろう。
 それをしない理由は、考えられる限り一つだけ。


 "蜘蛛"は死んだ。 
 魔王の完成を見届けたかどうかは知らないが、とにかく今はもうこの東京に存在していない。
 だがその事実は、死柄木のさらなる覚醒という最悪の展開と天秤にかけても勝り得るほど大きな――特に『禪院』のような、企てと暗躍を主戦場とする仕事人にとってはあまりに大きな、朗報だった。


『……、』
『"なにも"?』
『何だよ、面白くねえな。悪の親玉を気取るんだったらよ、気の利いた断末魔くらいしたためてから死ねってんだ』

 とはいえ。
 元より死柄木とて隠し通せるとは思っていなかった。
 今になって改めて思うことだが、あの老紳士はまごうことなき怪物だった。
 あの"先生"でさえ、こと犯罪計画の精度という点では奴の影すら踏めはしないだろう。
 そう思わせるほどに老獪で、どこまでも食えない男(クモ)。
 そんな怪物の不在を、若僧とガキばかりになってしまった今の連合が偽装できるわけもない。

 ――で。感想はどうだ。
 ――よかったな、いい切り時じゃねえか。
 ――俺をあまり長く残しちゃ旨くないよな、そっちとしては。

 そんな死柄木の言葉は、まさしく『禪院』の考えを言い当てていたが。
 しかし正体不明のきな臭い猿は、『急ぐなよ』とからから笑ってみせた。

『話はまだ終わりじゃねえ。もう一つ提供できる情報がある』
『――あ? 目的? 役割分担に決まってんだろうが。
 生憎と戦略兵器の手持ちは無くてな。痒いところに核を撃ち込めるアテがあるんだ、頼らない手はねえだろ』

 さて。
 鬼が出るか、蛇が出るか。それとも仏か。
 最後だけはないだろう。こんな男が運んでくる話に、そんな慈悲深い結末があって堪るものか。
 無言のまま、話の先を促す魔王に対して。
 白昼の東京に躍る天与の暴君は、一つ甘言を囁いた。



『――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――』



 その、言葉に。
 魔王は『にぃ』と――白い歯を見せて、笑った。


◆◆


 何かが起ころうとしている。
 皮下真の甘言に乗ったのは正解だったと、リップ=トリスタンは静かにそう悟りつつあった。
 リップの決断と、それを尊重し背中を押してくれるシュヴィの優しさ。
 それらが混ざり合って絡み合って、止まっていた歯車を再び動かしてくれた。

(……男としては、些か情けないものがあるけどな)

 これまで、自分達の聖杯戦争は進んでいるようでずっと停滞していた。
 最後に何を選ぶのかすら宙ぶらりんなまま、ただ漫然と目の前の戦いに対処するだけの時間。
 決断を渋らせていたのは、きっと自分の中にあった惰弱な甘えだったのだろう。
 方舟という夢のような、あの機巧少女を傷付けることなく終われる未来を捨てきれなかった。
 だから尻に火が点くまで、中途半端に古手梨花を抱え続け、彼女の扱いについても茶を濁し続けていたのだと今なら分かる。

 結果的にリップは"選択"をしたわけだが。
 そんな彼を先導してくれたのは、まさにその機巧少女だった。
 本当は人を殺すなんてしたくないのに。
 自分が手を汚すことすら嫌うような、心優しい女の子なのに。

 それでもこの願いと後悔にぴったりと寄り添って、共に歩んでくれる機械じかけの少女。
 その優しさに感謝すると同時に自分自身の体たらくを恥じ入ったからこそ、リップは決意していた。

 ――もう、迷うのはやめだ。

 あるかも分からない救いに目移りすることも。
 そして、シュヴィの心の痛みを案じることも。
 此処ですべてやめよう。それこそが、心を削りながら自分の翼であり続けてくれる彼女への一番の誠実だと理解したから。
 ただ戦い、ただ殺す。願いのために悲劇を生み続ける。
 神ではなく人として――自分以外のあらゆる願いと祈りと優しさを、『否定』する。


 リップ=トリスタンはこの瞬間をもって、否定者の業をまた一つ重ねた。
 それは天上の神が差し向けた"理"ではなく、現実をねじ曲げることも決してないが。
 たった一つ以外すべての可能性を否定するあり方は、不退転(アンリペア)のそれとして彼の心へ刻まれた。


 以上をもって彼は覚悟を決め。腹をくくり。
 その上で、背後から響く物音に振り向いた。
 開かれる筈のない、開ける者のいない筈の扉が開く。
 向こうから姿を現した人影は、既にリップの知る彼女ではなくなっていた。

「見違えたな」
「お陰様でね」

 藍の黒髪――奇しくも、その"血統"にて当主を名乗る者にのみ顕れるというその特徴。
 しかし少女のそれは、今や色を失っていた。
 白く、白い、花のような白髪。それを持つ少女の髪や体表には所構わず桜の花が咲いている。
 その姿はあまりに儚げで、そして目を瞠るほど、魅入られそうになるほど美しい。

 藍を失ったのは当然だった。
 夜桜の血筋にて唯一、後継者を産む力を秘める当主の身体には一切の超人的能力が宿らない。
 初代夜桜の血を流し込まれて超人と化した今の梨花に、その藍(いろ)を宿す資格はない。
 いや。これはもはや、そんな次元の話ではなかった。
 リップは知らないし知る由もなかったが、今の梨花の姿は。
 千年を生きる霊桜の精を名乗れば誰もが信じ、遥か社の神が人の争いを鎮めるため現れたと豪語すれば恐慌する民草も自然と跪くだろうその神秘的な姿は、まさに――


「視えているわよ、皮下。早く出てきなさい」
「……やれやれ、参ったな。何も、そうまで成らせるつもりはなかったんだが」


 初代夜桜。
 夜桜の魔女。悲劇の女。
 夜桜つぼみの生き写しに他ならなかった。
 虚空から像を結んで現れる皮下の顔には苦笑が貼り付いている。
 それは果たして梨花に対するものだったのか、自分自身に向けたものだったのか。

「ソメイニンを五感で感知できるのか。凄いな、見事なもんだよ梨花ちゃん。藪を突いて蛇を出した気分だ」

 同じ、初代の血を宿す者であり。
 また万花繚乱という一つの極致に至り。
 夜桜の犠牲者と亡者を星の数ほど見てきた皮下だからこそ分かる。
 古手梨花は今この瞬間に限って言うならば、初代の血を御すことに成功していた。
 先行きが見えている事実に変わりはないし、"つぼみ"に近付いた見た目は紛れもないその証左なのであろうが、それでも想像以上だったと言う他ない。

 五感によるソメイニンの感知。
 今や実体すら捨てることが可能になった皮下の存在を、梨花は容易く見破ってみせた。
 視えているという言葉は嘘やハッタリではない。皮下はそう確信したからこそ、肩を竦めて笑ったのだ。

「蛇を出したというのなら、もう一つ教えてあげるわ。
 もうすぐ此処に私のセイバーが来るわよ。誰かさんのせいで、令呪で即座に召喚とは行かなかったけどね」

 梨花の発言に、空気が張り詰める。
 彼女のセイバーの強さは、既に周知だ。
 終始圧倒的な優位を保ちながら戦っていた筈のシュヴィにさえ一太刀入れてのけた、天衣無縫の女剣豪。
 それが此処に来るとなれば、さしもの皮下達もこれまでほど良い旗色は保てない。

「……どうやった? 念話による意思疎通は、アーチャーによって妨害させていた筈だぞ」
「気持ちは分かるぜ、リップ。頭抱えたくなるくらい馬鹿げた話だよな。でも多分事実だ。
 夜桜の血の影響がサーヴァントの方にも及んでるとしたら、念話というマスターとしての身体機能に頼ることなく"引き合う"ことができたとしても不思議じゃない」
「流石ね。この血のことは知り尽くしているみたい」
「当然だろ。こちとら百年近く夜桜(それ)と向き合ってきたんだぜ」

 夜桜の血は、単なる超人遺伝子の枠には収まらない。
 ましてそれが初代(つぼみ)のであるなら尚更だ。
 神通力さながらに手かざし一つで病を癒せたつぼみの血ならば、遠く離れた人と人が以心伝心に互いの存在を感じ合うことも容易だろう。 


 しかし、その血は只人にとっては身を蝕む毒だ。
 身体の均衡を崩し、肉体の組成を崩し、枯れた花のように醜く朽ちていく。

 古手梨花は――そんな血に対する、免疫(イマニティ)を持っていた。
 何故なら彼女の、古手の血は鬼と人の混ざり物。
 遥か先祖の桜花から連なる血縁の末子。雛見沢症候群の女王感染者。
 その上で、百年を超える繰り返しがもたらした神秘の蓄積も付け足されて。
 雛見沢という小さな世界において、中心核となるべくして生まれ育った彼女の身体は。
 つぼみの血を受け入れ、可能な限り御し、生き写しの姿かたちに恥じない力を宿すに至った。


「とはいえおっかねえな。あの女侍、キレたら話とか通じなそうだしな」
「そうでなくても、私(マスター)をこんな身体にされたんだもの。
 さぞかし怒り心頭でしょうね。皮下あんた、まさかあいつの剣が――桜吹雪ぽっちを斬り損ねるなんて、楽観視してはいないわよね」
「そこまで馬鹿じゃないさ。こんなのは所詮……人間が死ぬほど頑張って背伸びすれば手に入る程度の力だ。
 サーヴァントや、俺の知る"本物"にかかればそれこそ舞い散る花弁のように儚く脆いまがい物さ」

 こうなると、窮地に立たされるのは皮下達の方だ。
 武蔵が到着するまでどれくらいかかるか分からないが、退避が遅れればこの場はすぐさま修羅場に変わるだろう。

「だが忘れちゃいないか。君んとこのサムライソードは、このリップの命令に逆らえない」
「何を言うかと思えば。そんなもの」

 梨花は、鼻で笑う。
 続く言葉は荒唐無稽。
 しかし、一度でも女武蔵の武勇を目の当たりにすれば誰もが"有り得ない"とは言えなくなるだろうそれだった。


「命令(ことば)になる前に、斬ってしまえばいいだけのことじゃない」


 命令されたら従わねばならないと、そういうのなら。
 命令が出る前にリップの首を刎ねればいい。
 その上で皮下を殺せば、令呪の縛りは武蔵に対して無用の長物となる。
 だが――ひとつ、不可解。それを言葉にして問いかけたのはリップであった。

「……何故それを俺達の前で言う?」
「分からないかしら?」
「確かに、アーチャーから伝え聞くお前のサーヴァントならばそんな芸当も可能だろう。
 だがそれは"脅し"にした時点で意味を成さなくなる類の切り札だ。
 そう来ると分かっているなら、対処のしようはいくらでもある」

 脅しに使っていい札と、使ってはいけない札がある。
 今梨花が開示したのは、リップの言う通り後者だった。
 一度でもちらつかせれば容易に対処される、不意打ちでしか機能しない一撃必殺。
 では梨花は所詮子どもだから、そんなことは考えずに勢いですべて話してしまったのか。

 答えは否だ。それだけは、古手梨花という少女に限ってそれだけは有り得ない。
 彼女が百年を生きた魔女だからではない。
 彼女が、雛見沢分校の部活メンバーであるからだ。
 全員集えば本職の諜報部隊にも対応できる、知略冴え渡り度胸燃え上がる小さな悪魔達。
 その一員である梨花が、カードの切り方という初歩中の初歩を見誤る理屈がどこにあろうか。

「心底図太いガキだな。この状況で、俺達相手に交渉を持ちかける気か」

 皮下の言葉に少女が不敵に微笑む。
 梨花は、ミスをしたのではない。
 武蔵を突撃させて二人斬り伏せる強硬策を見せ札にして、皮下達に交渉を持ちかけたのだ。

「あんたに言いたいことは山ほどあるし、吠え面掻かせてやりたい気持ちももちろんあるわ。
 けれど物事には優先順位ってものがあるでしょう。今の私の中じゃ、あんたへの復讐は二番目なのよ」
「だったらまずは感謝して欲しいところだな。無力で非才な君をケンカの土俵に上げてやったのはこの俺なのに」
「黙ってなさい、人でなし。言っておくけれど、こんな力がなくたってやることは何も変わらなかったから」

 理由は一つ。
 今、こんなところで足を止めているわけにはいかないからだ。
 皮下の目論見通りに動くことになるのは癪だが、この身体になってようやく彼の言う意味を理解した。
 北条沙都子が――ひとつ屋根の下で百年を共にした親友が、今まさに別な生き物に変わっていこうとしている。
 縁側でワインを傾けて魔女を気取り不貞腐れていた過去の自分とはわけが違う、本物の魔女に……いや、それ以上の何かに成ろうとしている。
 もはや一刻の猶予もない。
 古手梨花は自分の未来を奪った男への報復よりも、言っても分からない馬鹿な親友と本気で殴り合うことの方を優先した。

「あんたの望み通り、私があのバカを止めてあげる。だから退きなさい」
「……言われなくても引き止めたりなんてしねえよ。君を作り変えたのはその為なんだからな」

 沙都子を止める。
 何としても。たとえ、この身が砕け散ろうとも。
 骨の髄までを呪われた桜に冒され、気を張っていなければ意識ごと初代の意思と憎悪に喰われそうな状態だとしても。
 梨花はその想いを炎のように燃え上がらせることで自己を保ち、こうして皮下とリップという猛者二人と掛け合っていた。

 皮下としても、これ以上梨花に何か悪事を働くつもりはない。
 言ってしまえば変成が終わったその時点で、古手梨花はもう用済みだ。
 後は北条沙都子と潰し合い、あわよくば相討ちに終わってくれればそれでいい。
 第一。こうまで想像以上に咲き誇った新たな"夜桜"に、今更手を加える余地などありはしないのだから。

「行って宿願を果たすといい。くれぐれもクソ坊主の奸計には気を付けろよ」
「言われるまでもないわ。沙都子にとって奸計(トラップ)を仕掛けるのは呼吸だもの。
 リンボとかいう坊主のことは心底気に食わないけれど、罠を張って悪巧みするって意味じゃ相性も良かったのかもね」

 リンボが立ちはだかるというのなら、それでもいい。
 その上で沙都子をぶちのめし、首根っこ引っ掴んででも光(こっち)へ連れ戻してやるだけだ。
 梨花は皮下達の横を通って、廃屋の出口へと足を進めた。
 長話をする余裕も、理由もない。今の梨花にとっては誇張抜きに一分一秒が惜しくて堪らなかった。

 それでも。
 最後に一度だけ、廃屋を出る寸前に三和土の上で梨花は足を止めた。
 大した理由ではない。実際、これはきっと無駄な行為だった。
 にも関わらず何故そうしたかと問われれば、その時は梨花もまだまだ人間だったのだと答える他ないだろう。

 拒絶反応に苦しみ、生と死の境すら曖昧になる生き地獄の激痛の中で。
 夢とも現ともつかない何処か。
 強いて言うならば、遥か昔、まだ武士や忍といった存在が大真面目に社会の一パーツとして存在していた頃の景色。 
 永劫に続く夜の中で。
 ひときわ大きく、皮肉なほどたおやかに咲き誇る夜桜の下。
 そこで垣間見た、言葉を交わした、一人の女。
 三和土の傍らに用意されていた姿見に写った自分の姿は、あまりに"彼女"と似通っていたから。

 足を止めて、振り向いて。
 ありったけの「この野郎」を込めて、古手梨花は当てつけの言葉を吐いた。


「どう――――きれいでしょう?」


 そのまま踵を返し、魔女は外へと駆けていく。
 廃屋の中には静寂だけが残った。
 は、と皮下は乾いた笑いを漏らす。
 扉の閉まった残響を聞きながら、男は肩を竦めて呟いた。

「……クソガキが」

 最後の最後でしてやられた。
 つくづく今時のガキというのは恐ろしいし、何より神経を逆撫でするのが上手いもんだ。
 大人を弄びやがって。奇妙な敗北感を覚えながら、夜桜の血に魅入られた男は埃をかぶったソファにどっかりと腰を下ろしたのだった。


◆◆



『可哀想な子。呪われているのね』

『この世に生を受けたその時から、あなたは運命に呪われている』

『苦楽と悲しみが、繰り返す。美しい桜花(はな)として生まれてしまったばっかりに、嘆きで塗れてしまったあなた』

『そしてあなたは、こんなところに辿り着いてしまった。
 人を苦しめることしか能のない忌まわしい血。私の声が、せめてあの人に届いてくれればよかったのだけど』



「…………ええ、そうよ。私はきっと、生まれたその日から呪われてるの」

「自分たちが祀っているモノの真実(かたち)すら知らない奴らに、尊い巫女(はな)と崇められて。
 人並みの幸せを手に入れられるようになるまでに百年かかった。そしてまだ、この運命は私を離さない」

「でも――私は、不幸なんかじゃないわ。私には仲間がいた。愛すべき日常があった。
 私を寝ても覚めても殺し続けたあの世界は、私にとって美しく咲き誇る満開の桜のようだった」

「ねえ、桜の貴方。貴方は……皮下の、あの男の何なのかしら」



『悪魔。魔女。もしくは、呪い』

『そう呼ぶのが正しいわ。"私"が、死にゆくあの人を引き止めてしまった。
 ともに生きようと誘ってしまった。あの人がいつか私に伝えた夢幻のような未来を、見てみたいとそう思ってしまったから』

『その罪が、今あなたの身体を巡っている夜桜の血の正体』

『私――夜桜つぼみ、そのものよ』



「……自分の身体のことは自分が一番よく分かるって本当ね。命の灯火が、一秒ごとに薄れていくのを感じるの」

『そうね。あなたは、きっと遠くない内に枯れてしまう。
 私の血を一時とはいえ御しているのは凄いことだけれど、それでも毒は毒だから』

「恨んではいないわ。あんたのことも、皮下のことも」

『あなたの未来は、私達の罪によって奪い去られるというのに?』

「今はそれよりも、見据えたいものがあるの。行かなきゃいけない場所がある」

『聞きましょう。それは、何処?』

「腐れ縁の、友達のところ。
 私に、あの世界を好きなままでいさせてくれたあの子のところへ」



『……友達』

『それがどういうものだったか、もう私には思い出せないけれど』

『羨ましいわ。私にもそんなものがあれば、こうまで腐らずに済んだのかしら』



「ええ。私の、自慢の友達なの」

「バカで、小さい頃から一つも変わらなくて。
 元気だけが取り柄みたいな性格してるくせに、嫌なことも心の痛みも全部抱え込むめんどくさい奴」

「世界と運命に絶望していた私の横に、ずっと一緒にいてくれた親友よ」

「そいつと、喧嘩をしなきゃいけないの。
 髪の引っ張り合いなんかじゃなくて、殴り合って蹴り合って、女の子らしさなんて欠片もない取っ組み合いの大喧嘩をしに行くのよ」

「あんたが見た希望のせいでぐちゃぐちゃにされた私から、あんたに対価を要求するわ。夜桜つぼみ」

「――力を貸しなさい」

「私の小さなこの手が、小さなこの足が、魔女を気取って泣きじゃくるあのバカに届くように。
 あなたが呪いと呼ぶその花を、私の身体と魂に咲き誇らせなさい。"夜桜の魔女"」



『…………それは』

『あなたにとって、地獄を見る選択』

『夜桜(わたし)を受け入れれば、もうあなたは逃げ惑う黒猫ではいられない』

『それでもあなたは、この私に手を伸ばす? この花を、受け入れてみせると――そう謳うのかしら。"奇跡の魔女"』



「愚問、よ」

「逃げて、逃げて。誰かに媚びて生きるばかりの猫なんてもうたくさん」

「たとえ、その先にあるのが地獄だとしても――」

「地獄の先に仲間がいるのなら、自ら踏み込んで引っ張り出す。それが、私の選び取る答え」

「私は行くわ。あの子のところまで」

「だから力を貸して、桜の貴方」

「その呪いも、運命も――今の私にとっては、掴み取りたい祝福だから」



◆◆



 ――私は、ただ。
 幸せに/穏やかに生きたいだけ。

 繰り返される輪廻の果てに。
 忌まわしき、悪夢の果てに。

 運命を乗り越えたい。
 呪縛を振り払いたい。

 大好きな仲間との、何気ない未来。
 誰にも弄ばれることのない、安らかな平穏。

 欲するのは、求めるのは――それだけ。


 二人の魔女の存在が、血を媒体にして混ざり合う。
 その血は、古手梨花の身体と心を否応なしに蝕むが。
 彼女が挑まんとする少女は、魔女すら超えて神の領分に片足を突っ込んでいる。
 であれば人のままで挑めないのは道理。
 人を超え、全て失う覚悟を持たずして、どうして魔道に踏み入れようか。


 ――運命の歯車は回り出し、少女は想定以上の開花を生む。


 気配は分かる。
 鼓動するように脈打つ、感じ慣れた"彼女"の気配。
 どうして気付かなかった。
 こんなになってしまうまで、気付かなかった。
 自分の愚鈍さに歯噛みしながら、梨花は地面を蹴った。
 その速度はもはや、人間が出せるそれではない。
 一足ごとに景色が遥か後ろへ消えていく。
 否応なしに梨花は、自分が人でなくなったのだと感じさせられていた。

「……あんたをどうすれば止められるのかなんて、私には分からない」

 距離が縮まり、感じる気配が強まるにつれて実感する。
 自分の親友が、大切な仲間が、自分が知るのとはかけ離れた何かに変わっていくのを。
 これだけの力を得た。発狂しそうなほどの苦痛を意思力だけで噛み殺した。
 そうまでしても、この先で待つ沙都子に勝てる確証が微塵も抱けない。
 もしかしたらすべては無駄に終わってしまうのかもしれない。
 黒猫は所詮黒猫で。
 怪物に爪を立てようとしても、冷たく払いのけられて終わりなのかもしれない。

 けれど。
 だとしても――
 足を止められない理由が梨花にはある。
 彼女と過ごした楽しい時間を、他の何物にも代えられない輝くひとときを何せ百年分も覚えているから。

「私も、大概の頑固者だしね。
 あんたと胸襟開いて話し合っても……確かにうまくいかなかったかもしれないわ」

 自分達の破綻は必定だったのかもしれない。
 "今"を愛した沙都子と。
 "未来"を見たがった自分とでは、どうやったって同じ道を歩き続けることはできなかったのかもしれない。
 もしも自分達二人の破綻が、決裂が。
 百年の積み重ねをもってしても覆すことのできない、絶対の運命であるというのなら。

「だから今、全部曝け出して勝負をしましょう。
 私も強情だから、絶対に負けなんて認めてやらないけど……それはあんたも同じの筈。
 今更幻滅なんて無しよ、お互いに。私達の部活(せかい)じゃ、大人気ないのは美徳なんだから」

 その業を、この現在でもって打ち破ろう。
 汚い部分もすべて曝け出して、エゴとエゴをぶつけ合って語り合おう。
 あの百年は決して無駄になどならないと信じているけれど。
 それと同じくらい、この先の未来に開けている道を進むことも尊いと信じているから梨花は譲らない。
 当然沙都子も"絶対に"譲らないだろう。だからこれは、お互い様だ。


 ……ああ。
 結局自分達はこうして、あの分校の部活に戻ってきてしまうのだ。
 ルール無用の真剣勝負。反則だって何でもあり。
 ルールは一つ、最後に勝った奴が絶対正義。


「こんな私達のこと、馬鹿みたいだって……そう思うかしら」


 自嘲するようにそう呟いて、梨花は足を止めた。
 その上で上を見上げる。そこに立ち、日光を背にしたその影はなんだかとても久々に見るような気がして、場違いにも笑顔になった。
 事もなく空中に身を躍らせて、それでいて物音ひとつ立てず軽やかに梨花の隣へ着地する。
 この一ヶ月、ずっと梨花の隣に居てくれた彼女。
 時に支え、時に叱咤し。自分の良き相棒で居てくれた存在。
 ずいぶんと姿は変わってしまったけれど。
 それでも心も魂も、何一つ折れてなんかないぞと示すために梨花はなるだけ不敵に笑みを浮かべた。
 そして言う。呼ぶ。彼女の名を、その称号(クラス)を。


「ねえ――――セイバー?」                     ・・・・
「まさか。とっても素敵じゃない――――私もそんな好敵手欲しかったわ、マスター!」


 セイバー・宮本武蔵。新免武蔵守藤原玄信。
 道を分かたれて久しかった主従が、ようやく再び並び立った。


◆◆



『わかりました。あなたの決意はとても強固。その絶対の意思は、必ずや未来を紡ぐ奇跡を起こすでしょう』

『でも、私は我儘な女だから。この期に及んでまだひとつ、あなたに対価を求めてもいいかしら』

『あなたが求めるだけの力を、私はあなたに与えましょう。
 初代の夜桜、すべての呪いの始まりを担う者として。
 本来なら"私(つぼみ)"の良心である私には、もはやそれだけの力はないけれど』

『此処はすべての過去と未来が交差する場所。……だから、こういうこともあるのでしょうね』

『あなたは、あなたの願いを叶えればいい。
 あなたに世界の尊さを教えてくれた友達と、好きなだけぶつかり合って語り合うといいわ。お膳立ては、私がしてあげる』

『その代わりに。私から、この枯れかけの桜から一つお願いがあるの』



◆◆


 少女アイは武蔵にすべてを教えてくれた。
 アイは幼く、故に語り口調も辿々しかったが、それでも武蔵は急かしたりせず彼女の話したいように話させた。

 虹花――悲劇、或いは順当な運命の帰結として皮下に魅入られた集団。
 葉桜なる諸刃の剣を体内に宿し、いつか終わりが来るのを知りながら聖杯戦争に従軍していたNPC達。
 もっとも生き残りは恐らく自分だけだろうと、少女は寂しそうに目を伏せてそう言った。
 あの混沌(ベルゼバブ)めがしでかした鬼ヶ島撃墜、あれに巻き込まれて大多数は殉職したらしい。

 戦場に事の善悪無し。
 自ら刃を握って臨み、その果てに死んだ彼らに同情はしない。
 それは剣士特有の生死観であると共に、名前も顔も知らない花弁達への最大限の敬意でもあった。
 尊ぶからこそ慰めない。これもまた、武蔵の中では礼儀の一つだ。
 さておき、武蔵が気になったのは彼らに投与されたという"葉桜"のこと。
 アイは語った。夜桜の血――この世界には存在しないとある血統の血液を模倣した薬物であると。

 それを以って武蔵は、悟る。
 皮下は己のマスター・古手梨花に夜桜の血を投与した。
 葉桜などではない、正真正銘の"夜桜"をだ。
 であればこの霊基の異変にも説明は付く。筋が通る。
 そして、悟ったことはもう一つあった。

(……模造品ですら、人体を腐り落ちさせるほど強力だというのなら。
 本物の血を流し込まれた人間の身体が、持ち堪えられるわけがない)

 何もかもが遅きに失した。
 武蔵はこの時、奥歯を砕けるほど強く噛み締めずにはいられなかった。
 これは、紛れもない自分の失態であり醜態だ。
 敗北し、マスターを奪われ。その窮地に駆け付けることもできず、こうして遠方の地で遅蒔きに終わりが始まったことを知る。

 ――無様。なんたる無様か、新免武蔵。

 剣をぶつけ合い敗れ去るのならばまだ面目は立つ。
 だが、鯉口を切ることさえできず、指を咥えて見つめることもできなかったとは。
 屈辱に頭と顔が熱くなる。怒りに、魂が震える。
 そんな情動を抑えてくれたのは、皮肉にも自らの内側で脈打ち巡る桜の血だった。


(これは――)

 武蔵の中に巡って廻る、夜桜の血。
 巣食っていた霊骸の汚染をも塗り潰す最強の血統が、武蔵に何かを伝えてくる。
 それが、彼方の地で苦しみ削られ擦れていく古手梨花の意思そのものであることはすぐに分かった。
 途端にもう一度、今度は自身の惰弱を恥じる。

 一瞬なれど絶望した。
 僅かな間なれど、マスターを信じる心を失くした。
 それは間違いだったと今なら分かる。
 梨花は、生きている。まだ――戦っているのだ。だからこうして血が脈打つ。私に、心を、伝えている。
 たとえ、いつかは夏に喰われて消え去る定めなのだとしても。
 諦めず、腐らず、運命に屈さず、金魚すくいの薄網のように破ってやると歯を剥いて吠える梨花の姿を武蔵は確かに垣間見た。

「……そうね。それでこそ――私のマスターだわ、梨花ちゃん」

 そうだ、それでこそ。
 それでこそ、この新免武蔵を喚んだマスターだ。
 原初神を斬り、後は消え去るばかりだった筈の自分を。
 どれほどの苦難を前にしても絶対に諦めず、運命を打ち破り続けた"あの子"に惚れ込んだ私を。
 地平線の彼方から招き寄せて、英霊/鬼狩の剣として従えた娘の在り方ではないか。

「いろいろありがと、アイさん。とっても助かったわ。
 本当は安全なところまで運んであげたかったんだけど……ごめんね。私、もう行かないといけない」
「……梨花のところに、いくの……?」
「ええ。あの子は、今も一人で戦ってるの」

 梨花が何かを目指していること。
 そのために、自分の剣を求めていること。
 言葉など無くとも、武蔵にはそのことが手に取るように分かった。
 全部、この血が教えてくれる。梨花の魂から流れ込む、この熱い桜(きずな)が。

「がんばって。梨花のこと、助けてあげて。
 アイさん、また――梨花や、霧子に、あいたい……!」
「……もちろん。約束するわ、アイさん」

 その約束は、もしかしたら守れないかもしれない。
 もう一度、梨花をアイの前に連れてくることはできないかもしれない。
 それでも――梨花を助けてという、その願いにだけは必ず応えよう。
 サーヴァントとして。友人として。そして、未来なき者へ明日の希望を見せた夢見がちな少女の心を守るために。



 武蔵は駆け出した。
 疾風、烈風。都市に吹く一陣の風となってひたすらに駆けた。
 向かうは友人の、否。今世の主の隣へと。

 その途中。静かに佇む六つ目の鬼と視線が交錯する。
 武蔵は、ただ彼の眼を見て。
 彼もまた、武蔵の眼を見ていた。
 あらゆるモノを斬ることに先鋭化した、神の死さえ算出する天眼と。
 至高さえ超えた天上の領域に並ぶため、力を求めた名残である多眼とが、並び立つ。

 言葉はもはや無用であった。
 武蔵は、言わずとも剣を究めたこの鬼に自分の意思は伝わるものだと信じていたし。
 そして鬼・黒死牟もまた――腹立たしくも、武蔵の思う通りにその胸の内を理解してしまう。


 彼が小さく嘆息する素振りを見せてくれたのは、即ちそういうことだと。
 後のことは任せても構わないと、そういう意味であると。
 確信したから、武蔵は思わず口元に笑みを浮かべて佇む鬼を飛び越えた。
 思えば、奇妙な付き合いになったものだと思う。
 錆の落ちたその月刀ともう一度手合わせしたい気持ちが、こんな時に今更疼き始めたのはいよいよ病気じみているなあと自虐するしかなかった。

 果たしてこの欲望、満たす機会はあるやなしや。
 こればかりは武蔵の眼を以ってしても、見えない。
 まずは目先の運命を斬り伏せぬことには、何も見通せない。

(今行くわ。すぐに駆けつけてみせる。もう待たせたりなんかしないんだから。
 そして――)

 さりとて。
 武蔵には、これから向かう先を死地にするつもりなど毛頭なかった。
 斬らねばならない存在が一つある。
 清算させなければならない因縁が、この地で一つ増えた。


 ――虹花の大元締めであり、空を泳ぐ怪物を使役する男。
 ――この界聖杯内界に"夜桜"の血を持ち込み、見果てぬ何処かを目指す男。


 アイは彼を、助けたのだという。
 優しい子だと思う。その優しさを、武蔵は決して否定しない。
 それを否定すれば、彼女に希望を与えたお日さまの輝きをも否定することになる。
 生きたいって思えるだけで、生きてていいと。
 行き止まりの世界でただ使われ、朽ちるのを待つばかりだった少女が見た"光"を、貶すことになる。
 だから否定はしない。その優しさは紛れもなく、彼女の美徳だ。
 ――――だが。


「必ず、落とし前は付けさせるわよ――――皮下真


 それでも武蔵は、皮下を斬ると決めた。
 彼と、東京に君臨し続ける最後の『皇帝』を必ずや討つと決めた。
 東京タワーでの攻防戦では、光月おでんに譲った怪物退治の任。
 おでんが臥せった今、それを引き継ぐべきは間違いなく自分達だとそう確信している。

 見据えるは未来。
 挑むのは、現在。

 斯くして宮本武蔵は――――古手梨花と、白日の下で再会を果たす。


◆◆



『あの人を、どうか止めてあげてください』

『私のせいで眠ることさえ忘れてしまったひと。
 こんな眩しいだけの花に、心血も自らの未来も注いでしまった優しいひと』

『どうか、あの人に静かな安息を』

『それが、今此処にいる私の願い』



『私達の物語を、どうか新たな桜(おはな)のあなたが終わらせて』



『桜(わたし)も、人(かれ)も……もう、そろそろ眠るべきだから』



◆◆



 向かうは、伏魔の領域。
 因縁収斂――待ったなし。


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最終更新:2023年07月29日 04:07