自我が、撹拌される。
 己という存在が、千々に乱れていく感覚がある。

 魂の変質。肉体の歪曲。亀裂と表裏一体の進化論。
 視界などある筈もないのに、それでも今の自分がひどく醜い姿をしていることはよく分かった。
 生き汚く生にしがみついて、蛆虫のように蠢きながら膨れては萎んでを繰り返す敗者の像。
 全身の骨という骨が砕け散っては再生しを繰り返している。
 頭の中を巡るのは、思い出したくもない追憶と無為に積み重ねた時間。
 そして――呆れ返るほどしみったれた、不器用で愚鈍な男の顔だった。

「……思えば君には、骨を折らせっぱなしだな」

 そうくだらないことを宣う姿は反吐が出るほど情けなくて、記憶の中の誰かと重なって見えた。
 いつも謝ってばかりの病人達。この男もきっと、似たようなものなのだろう。
 魂を奪われ、肉体は摩耗し、もう余命幾許もないことは誰の目から見ても明らかだ。
 明日の朝を拝めるかどうかも怪しいような状態で、それでも柔らかに笑うその神経が心底理解できない。
 にも関わらず、その言葉が、その姿が、その生き様が――他の何よりも、自分に諦めを許さないのが不思議だった。

「感謝してるよ、本心だ。
 俺は、自分のサーヴァントが君でよかったと心からそう思ってる。
 誓ってお世辞なんかじゃない。強く優しい君でなければ、俺はきっと此処まで来られなかった」

 笑わせる。
 人喰いの鬼を捕まえ、言うに事欠いて優しいだなどと。
 妄言も大概にしろ。
 地獄から這い出てきた血塗れの亡者に、優しさなぞあるものか。

 二本の足で――大地を踏み締める。
 そうして立ち上がった身体が、少しずつ静けさを取り戻していく。
 沸騰した湯のように泡立ち続けていた肉はより強靭に、そして柔軟に安定化し。
 それを踏まえて此処まで全身に割かれていた再生と変生が、頸から上だけに集中される。
 鬼神の一閃で千切り飛ばされた頸が、少しずつ時を巻き戻らせる。
 鬼という生き物の不文律。絶対の急所にして、俺達に残された唯一の慈悲。
 何も生まず、何に繋ぐこともない無意味な蛇足を終わらせてくれる最後の逃げ道。
 良いのか、と聞かれた気がした。
 誰にかは分からない。分からないが、答えは決まっていた。

 ――良いとも。

 安息なぞ、喜んでくれてやる。
 どだいこの身は悪鬼羅刹。命を喰らって肥え太る醜悪なる霊基。
 尤もらしい過去を振り返りながら、しかしだが殺すと拳を振り回す恥知らずの狂犬。
 慈悲の陥穽に訣別を果たし。無力と惰弱の象徴のような名を与えられた鬼は、この時遂にその呪いを克服した。



 ■■■■■からの完全な脱却。
 しかしそれは、かつてある女の鬼がしたようにただ彼の支配から外れたというだけを意味しない。
 今、猗窩座は■■■■■の支配を抜け。その上で、彼より更に上の領域に棲まう生き物へと変化を遂げたのだ。
 他の上弦と同じく今の彼は太陽を克服しており、その証拠に白日に照らされても身体が崩れる気配一つ見せてはいないが――

 これは、もはやそんな次元ですらない。
 死の克服。いずれは滅ぶという、生き物の運命そのものの超越。

 ■■のように物理的破壊では滅ぼせず。
 そして■■ですら不可能だった、陽の光の下を歩く芸当を可能とする。
 未だかつて、一人たりとも誕生することのなかった究極の鬼。
 始祖が千年に渡り追い求め、しかしついぞ辿り着くこと能わなかった至上の領域。
 青い彼岸花の微笑みなど今更無用。
 今此処に、花火の鬼は現実を調伏した。



「……俺は、きっと誰よりも愚かな男だ。
 守る救うと豪語して、やっていることは流され続けるばかり。
 賢しらに風見鶏を続けるだけのノロマが、君のおかげで此処まで来られた」

 幸いにして、振り返る時間は充分にあった。
 罪に翻弄され、波に流され続けた聖杯戦争。
 さながら滑稽に踊るマリオネットのような、無様で愚鈍な旅路だった。
 自分ほど情けなく、そして役に立たないマスターはきっとこの世界に存在しないだろう。プロデューサーは心からそう思っている。
 だというのに、どういうわけだかそんな愚か者が二度目の朝日を拝むことができた。
 それは、すべて。無能な自分に黙って寄り添い、助け支えてくれた、この狛犬のおかげだと。
 心からそう思い、同時に己の弱さを恥じているからこそ、プロデューサーはもう消えてしまった幻の彼女に思いを馳せる。

 ――君は、まだ俺を見てくれているかな。
 ――幸せにする。必ず救ってみせる。馬鹿の一つ覚えのようにそう繰り返すばかりの、つまらない男のことを。

 心を苛み、削る嘲笑。
 視界の端で揺れる視界の陽炎。
 それも、現れなくなった今では不思議と寂しい。
 そして口惜しいと、申し訳ないと、そう思う。
 結局自分は、彼女にただの一度も答えを伝えてやれなかった。
 情けない姿を晒すばかり。嗤われることしか能のない矛盾だらけの巡礼者気取り。

「勝っても、負けても……多分、これが最後だ」

 付き纏う/見守る幻が消えた理由は、見据えるべきものがはっきりと分かったからだろうか。
 もしくは、真の意味で後先がなくなったことでようやく踏ん切りが付いたからか。
 その答えは、プロデューサー自身でさえ分からない。
 彼に分かることはただ一つ。自分の聖杯戦争は、佳境に入ったということだけだ。

 カイドウが生存していたことは僥倖だった。
 カイドウ。連合の王。未だしぶとく生き残っているのならば、リンボ辺りも含まれてくるか。
 そういった派手に戦乱を拡大させてくれるサーヴァントの生存は、残り時間の少ない自分にとって追い風になる。
 勝手に戦って残存する主従の数を減らしてくれるのだからありがたいことこの上ない。
 勝ち方の巧拙や華やかさを突き詰めるつもりはない。
 大事なのは最後に勝って終わるか負けて死ぬか、それだけなのだから。

 ――視界の端の君。
 ――あの子によく似た、君。
 ――君がもし、まだ俺のどこかに隠れているのなら。

「もう、令呪はない」

 ――どうか。
 ――俺を、見ていてくれ。

「だからこれは、マスターとしてじゃない。
 一人の人間として、君に"お願い"をする」

 この無様な旅を締めくくる時が近付いてきている。
 全身の血は鉛に置き換わったように重たく、心臓の鼓動は危険な早まり方と破滅的な鈍化を気まぐれに繰り返していた。
 重度の眼精疲労のように両目が疼き、口の中には血の味が広がって味覚もとっくに麻痺しきってる。
 そんな状態であるにも関わらず、プロデューサーの気分はむしろ晴れ晴れとしていた。
 何もかも振り切れたような、本当に翼を得て空へ飛び立ったような。
 見果てぬ青空の真ん中で一人、これからの航路を吟味しているような。
 不思議な清々しさを感じながら、彼は生まれ変わった従僕に――否、朋友(とも)に手を差し出した。


「君と、この戦いに勝ちたい。俺と一緒に翔んでくれ、猗窩座


 戦いが始まる。
 終わるための、叶えるための。
 何かを救って燃え尽きるための戦いが、その幕を開ける。
 伸ばした手は老人のように痩せ細り、血管が不健康に浮き立っていた。
 弱者の手だ。何かを得るために、誰かに縋らねばならない人間の手だ。

 弱さ。
 それはかつて、猗窩座が嫌ったもの。
 弱い人間は、正々堂々戦わない。
 弱い人間は、欲しいものを手に入れられない。
 弱い人間は、すぐに手を血で染める。
 けれど今目の前にある"弱さ"はひどく純朴で、思わず毒気を抜かれてしまいそうになるほどで。

 似ている、と思った。
 どうしようもない悪餓鬼だった自分に、拳を握ることの意味を教えてくれた男に。
 或いは、これから斬り殺す相手にさえ誠意と慈悲を貫こうとする愚直な少年に。
 猗窩座は失笑する。それはどこか、根負けしたような。意地を張るのをやめたみたいな、そんな顔だった。


 伸ばした手と手が、重なる。
 向かう先は地獄。それは決して変わらない。その運命ばかりは動かせない。
 だとしても。男達は爽やかでさえある心持ちで停滞を破り、燃え尽きるために空へと翔び立った。
 目指すは聖杯。目指すは、かつて取り零してしまった少女の幸せな未来。記憶の中に焼き付いて離れないあのはにかんだ笑顔。


 ――――彼らの戦が、再開(リスタート)される。


◆◆


 天元の花は去り。
 一人残された、もとい彼女に任された鬼は桜舞う天蓋を見上げていた。
 見事な桜だ。今更風景に情緒を覚える感性もないが、いつかこんな風に満開の桜を見上げたことがあった気がする。
 あれは何処であったか。屋敷の外へ出た折に見かけ、哀れな弟の手を引いて連れ立ってやったのではなかったか。
 そこまで思い出したところで、鬼の脳内に弟(かれ)の最期が再生される。

 黒死牟は二度、継国縁壱の最期に立ち会った。
 一度目は赤い月の夜。
 老境に入った縁壱は、一太刀放ったきり沈黙して動かなくなった。
 そして二度目は朝焼けの世界。
 微笑みながら消えていくあの顔が、火傷のように今も心を冒している。
 腹立たしいのは痛くも痒くもないことだ。
 あの小娘がそうであるように。ただ、魂に沁みてこの血の通わない身体を暖めるばかりなことだ。

 ――何処へ向かう。

 己に問いかける。
 答えは、ない。

 ――何処へ生きる。

 己に問いかける。
 答えは、ない。

 いずれも、黒死牟が一人で向き合うには難解過ぎる命題だった。
 人だった頃から鬼に成り果てて三百余年。
 反英霊となり時間の枠組みから解き放たれてからも尚、ただ一人の家族にのみ執着し続けてきた。
 それが今更、抱える縮業を灼き溶かされて。優しい日光で抱擁されて。
 この晴れ晴れとした世界をどう生きるべきかなど、すぐに答えを出せよう筈もない。


『どう生きたのかを、誰かが見てるなら……何も残せなかった人生には、ならないから』


 つくづく、知った風なことを言う奴だと思った。
 虫も殺せないを地で行くような、無害で惚けた娘。
 何度苛立ち、何度殺意を覚えたか分かったものではないが。
 この身体になり、こうして空を見上げ、雲間と枝葉の隙間から覗く太陽に照らされていると不思議と分かる。
 あの娘だから、自分は此処へ辿り着けたのだと。
 殺すことを善しとせず、自分が生きることよりも"みんな"とやらの幸福を願う、絵空事の産物のような娘。幽谷霧子
 腹立たしく邪魔な存在でしかなかったあのか弱い要石が、いつしか自分にとってそれほどまでに大きな存在となっていたこと。
 その事実を、改めて感じながら……あいも変わらず答えは出ぬままに、黒死牟は花弁の中に佇んでいた。



 桜の天蓋が、割れる。
 黒死牟の眼が小さく動いた。
 舞い上がった花弁が、雲と化して陽の光を隠す。
 桃色の影が落ちた廃墟同然の街に、流星が一つ降り立った。



「………………、………………」

 覚えのある顔だった。
 身体中に這う、罪人の証の刺青。
 自らを罰するようなその装いを、黒死牟は知っている。
 この世界で生死を超えた再会を果たし、数時間前には鎬も削った同族だ。

(いや…………)

 同族という表現を思い浮かべて、すぐに切って捨てた。
 違う。姿形こそ似ているが、黒死牟の眼は彼の体内の変容をはっきりと視認していた。
 以前とは比べ物にならないほど研ぎ澄まされ、極限の密度で収斂を果たした筋肉。
 心臓は生存のために最適化された結果なのか、そもそも存在さえしていない。
 脳も然りだ。中身のすべてが肉と骨、敵を屠るための器官に置き換えられている。
 にも関わらず生命活動を問題なく続行できているということは即ち――それらが今の彼にとって真の意味で不要であるということの証か。

 構造も生態も、すべてが異形のそれと化していて。
 黒く染まったその頭髪は、黒死牟が知る"上弦の参"とは別物に成ったことを暗に示しているかのようだ。
 別物。そう、別物だ。これは最早、鬼ですらない。
 かつての始祖と同等の領域へと進化を遂げた存在。
 いや、太陽を克服していることを踏まえれば更にその上か。

「俺の言葉を覚えているか」
「……殊勝な、ことだ………いつかの約定を、果たしに来たか………」

 励むことだと、そう返したのを覚えていた。
 生前は、その後相対することもなく。
 この世界でも、結局決着が着くまでには至らなかったが。

 今では、先の血戦さえ遠い昔のことのように思える。
 妄執に狂い、剣を振るって殺し合ったあの時の自分が今のこの有様を見たならばどう思うだろうか。
 それほどまでに。そんな益体もないことを考えてしまうほどに、黒死牟は変わった。
 だが変わったのは、彼だけではなかったようだ。
 桜の花弁を背に立つ見知った/見知らぬ鬼に、黒死牟の手は自然と虚哭神去の柄へ伸びる。

「血戦の続きだ、次は貴様を屠る。
 そうして俺は、この身体に纏わり付く最後の因縁を断ち切ろう」
「ただの災厄を目指すと、そう言ったな……斯くあらんと追い求めた結果が、その肉体か…………」
「……さてな。貴様に語って聞かせる義理はない。
 だが変わったと言うならば、それは貴様もだろうよ」

 童磨の気配は今やぱったりと失せて久しい。
 ついぞ変化することのできなかった"弐"は、始祖に続いてこの地を追われた。

「俺の知る貴様は、そんな腑抜けた面はしていなかったぞ」
「抜かす、ものだ……ならば、試してみるか……」

 残っている上弦は壱と参。
 いずれもこの世界に足を踏み入れ、様々な敵や人間と関わり歩んだことで自己の在り方に変化を生じさせた個体。
 鬼という、いずれは滅ぼされて地獄に堕ちるばかりの生物。
 その宿業から脱け出し、転がるように我武者羅に生きて今を迎えた二人の鬼が。
 今、此処に再び相対する。
 上弦血戦は第二幕へ。

「――黒死牟!」
「――猗窩座

 黒死牟が、月刀を抜き。
 猗窩座が、暴風と化す。
 桜舞う廃都にて、月と花火が乱れ咲いた。


◆◆


 風が吹いた。
 明らかに、自然によるものではない風だ。
 それを受けて、松坂さとうは戦いが起き始めたことを察知する。
 十中八九、戦いの主は先ほどアーチャーと一戦交えたという六つ目の剣鬼だろう。もしくは、彼らの戦いに割って入ったという女剣士か。

「仲間割れ……とかはないよね、多分」
「ない。彼らは、そういうタイプには見えなかった」
「だよね。……こんな状況で、"理想"なんか追い求めちゃう連中だし」

 アーチャー……ガンヴォルトから伝え聞いた話は、さとうにとって少なからず驚きを覚えるものだった。
 方舟。一人ではなく集団での生還。界聖杯によって伝えられた総則を無視、いや超越しようとする勢力の存在。
 もちろん、頷けはしない。それはできない。さとうの"理想"は、彼らでは叶えられないから。
 しおと共に方舟に乗る未来を考えなかったわけではない。でも、自分達の未来を委ねるには方舟の可能性はあまりにか細すぎた。
 あれもこれもと欲張るよりも、目の前の一つを確実に手に入れるため努力した方が遥かに得なのは此処でも同じだ。

 だから――さとう達は、その誘いを断った。
 とはいえ完全に切って捨てたわけではない。
 連絡先を交換し、いざという時のパイプラインは残した。

(でも、そっか。今まで、考えたこともなかったけど)

 "理想"。
 松坂さとうの、理想。
 それは、神戸しおと二人で永遠に過ごせる世界だ。
 ハッピーシュガーライフ。永久に続く、夢の甘い時間。
 さとうは聖杯を以ってそれを叶えるつもりでいる。
 そのために戦ってきた。そのために、今も此処に立っている。

(私の"理想"に、しょーこちゃんはいないんだ)

 飛騨しょうこは死んだ。
 自分を一度殺した女なんかを守るために、死んだ。
 そして、自分の描く理想の世界に彼女の席はない。
 界聖杯の機能に余裕があれば、生き返らせてあげてもいいかなとは思っていたけれど。
 それでも、理想を叶えたその先で待つ"永遠のハッピーシュガーライフ"に、しょうこの居場所はない。
 さとうとしょうこは永遠に分かたれたまま、それぞれの時間を生きていく。

 友情は、愛には及べないから。
 さとうの描いた永遠とは、閉じた世界。
 二人きりで永久に、何にも脅かされることなく続いていく時間。
 今更それを疑うつもりはないし、今でもさとうは"理想"を追い求めているけれど。
 それでも――そのことに一抹の寂しさを感じてしまうのは、この世界であの子に絆されてしまったということなのだろうか。

「……なんだか、らしくないな。我ながら」

 思わずそう呟いてしまう。
 この愛を貫くためなら、人など軽く殺せる。
 誰であろうと例外はない。その筈だったのに。
 気付けば、友情なんてものの残滓を後生大事に想ってしまっている。

 らしくない。
 まったくもって、らしくない。
 そう思うさとうだったが、そんな彼女に、ガンヴォルトは。

「ボクは、そうでもないと思う」
「……アーチャー」
「キミは最初からそんな風に見えたよ。
 そうじゃなかったら、マスターとああも長く付き合ってはいなかっただろう」
「あんなに警戒してたくせに」
「当然だろう。最初はマスターの正気をさえ疑った。
 思えば、ボクはあの子のことを何も分かっていなかったな」
「なのに、私のことは友達思いに見えてたって?」
「キミから、後悔や慙愧の念は感じなかった。けれど」

 こんなことを、言う。

「あの子を友達だと想ってくれていることは、分かったよ」

 思えば、こいつとも大分長い付き合いになった。
 最初の頃は、こうして主従関係を結ぶことになるだなんて思ってもいなかったが、人生とは分からないものだ。

 初め自分は、あの鬼と……童磨と共に優勝するつもりでいた。
 対話も理解もまともにする気はなかったし、分かり合うつもりも毛頭なかったし。
 結局最後の最後まで、あれと意思を通わせることは叶わなかった。
 だから多分、あの時、あの雑踏でしょうこと出会っていなかったなら、自分は此処まで辿り着けずにどこかで野垂れ死んでいたに違いない。

「……そっか」

 今、こうして此処で生きているのは。
 全部あの子の、しょーこちゃんのおかげだ。
 あの子があの時、手を引いてくれなかったら。
 声をかけて、くれなかったら。
 今の自分は、きっとなかった。

「しょーこちゃん、満足だったのかな」
「だからこそ、こうしてボクは此処にいる」
「それもそうだね。アーチャーは忠犬だもんね」
「……そんなに犬っぽいかな」
「うん。子犬っぽい」

 そうか。
 あの子は、あれでよかったのか。
 本当に変わった子だと思う。
 それだけいい子なのに、どうして自分とあんな男遊びをやっていたのかとんと分からない。

 "友情"は、"愛"ではないけれど。
 でも。それでも。
 あの子のおかげで生き延びられたとか、そういう打算は抜きにして。
 此処であの子と再会できたことは、良かった。
 改めてさとうはそう思い、もう居ない親友を想った。

 桜の花弁がひとひら、そんなさとうの頬に触れる。
 馬鹿。余計なこと、考えてんじゃないわよ。
 なんだかそうやって背中を押されたような気がして、思わずふっと失笑する。
 言われなくても、振り切るよ。
 呟いて、一歩を踏み出した。























「『偽典・焉龍哮(エンダーポクリフェン)』」

 ――その瞬間。
 松坂さとうの全感覚が、閃光と轟音に撹拌されて消滅した。





















.
◆◆



 シュヴィ・ドーラは最初、渋谷区そのものに空襲を行うつもりでいた。
 鬼ヶ島で宮本武蔵に対して用いたものと同等以上の火力で、街を物理的に消し去る魂胆だった。
 渋谷の中に感じられる生体反応はごくわずか。
 この期に及んでまだ逐一解析をかけてしまう自分の甘さに嫌気は差したが、しかし慙愧の念に思考回路を鈍らせるのはそこまで。
 最早躊躇いはしないと。すべてを、マスターのために捧げると。そう誓ったから迷いはしない。
 そんな彼女の手を止めさせたのは、解析結果の中に含まれていた覚えのある魔力反応だった。

 ――雷霆のアーチャー。
 黒髪のエネミーの乱入により撤退を余儀なくされたが、あの戦いでシュヴィは彼からあるモノを受信していた。
 『謡精の歌』。自身の解析及び各種能力の性能を向上させている、正体不明のウイルス。
 それに内包されていた幾つかの見知らぬ単語の一つが脳裏に浮かび、知らずシュヴィは呟いていた。

「蒼き、雷霆(アームドブルー)……」

 同時にシュヴィは、自身の行動を変更する。
 無作為な空襲ではなく、明確に一個体を狙っての強襲へと切り替える。
 標的は言わずもがな蒼き雷霆、自身にあの"歌"を流れ込ませたあのアーチャーだ。

 戦力としての彼への評価は高くない。
 出力、各種性能、どれも危険視するほどの水準ではなかった。
 乱入さえなければ、あのまま戦い続けて問題なく撃破できていただろうとシュヴィの頭脳はそう推測している。
 しかし問題は、彼と自身の間に起きた共鳴とも交信ともつかない異常現象。
 自分の中に、彼の霊基の一部が流れ込んできたのと同じように。
 あの時彼の中にも、自分の断片(パーツ)が流入していたのだとしたら?

(機凱種(エクスマキナ)の解析能力、火力性能、精霊の消費による霊骸排出能力……
 それらが、あのアーチャーに、加わっているのだとしたら――)

 有り得ない話ではまったくない。
 そも、有り得ないことは既に一つ起きているのだ。
 他のサーヴァントの一部要素が、戦闘を介して流れ込んでくるなど、普通ならばまず有り得ない。
 では何故その事象が生じたのか。シュヴィが考えるのは、機械と雷という彼我の性質の噛み合いだ。
 機械が落雷によって誤作動(バグ)を引き起こすように。あの時、何かの異常事態が起きた。
 異常が単方向だけのものだったならそれで善し。しかし双方向だったのなら、それは。

(間違いなく、危険……早急に手を打たないと、敵に塩を送ったことになる……)

 以上を以って結論は出た。
 渋谷区全体への空爆作戦は中止。
 代わりに、"雷霆のアーチャー"を抹殺して憂いを絶つ。
 幸いにして位置座標を割り出すのに苦労はしなかった。
 マスターらしき生体反応と同行していることが一瞬、ほんの一瞬だけシュヴィの思考を停滞させたが――それはもはや、彼女を止める理由にはならず。

「確実に……此処で、葬る……!」

 自分自身に言い聞かせるように、そう呟いて。
 シュヴィ・ドーラは、かつてとある種族の【王】が放ったという大咆哮を再現した武装を件の座標に向けて発射した。
 それこそが『偽典・焉龍哮』。アランレイヴの崩哮、その再演。
 都市で放つには間違いなく過剰火力であるそれを撃ち込み、そして――


 シュヴィは、霊骸の撒き散らされた爆心地を駆ける一筋の雷霆を見た。


.
◆◆


 結論を言うと、シュヴィ・ドーラの危惧は的中していた。
 シュヴィが『謡精の歌』を介して、"蒼き雷霆"の霊基情報を一部搭載するに至ったように。
 雷霆の彼もまた、シュヴィから受け取った『大戦の記憶』を覚醒させていたのだ。
 もっとも、肝心のガンヴォルト自身はこれまでそのことを認識していなかった。
 そして彼にそれを気付かせたのは皮肉にも、彼女が放った『偽典・焉龍哮』……空より来たる超特大の災厄だった。

 窮地の中、ガンヴォルトは出遅れた。
 だがそれも無理はない。
 機凱種であるシュヴィは自身の魔力反応を隠蔽する兵装を即席で作成し、これを用いて渋谷区全体に自身の魔力を認識し難くするジャミング電波を撒き散らしていた。
 天与の暴君とまでは行かずとも。ステルス戦闘機宜しく空から接近したシュヴィが、対城宝具級の火力を予兆なしに放ってくるという事態。
 その最中にガンヴォルトが抱いたのは焦燥でも、ましてや襲撃を気取れなかった自身に対する嫌悪でもなかった。

 そんな情動にうつつを抜かしている場合ではないからだ。
 去来するのは、今はもうこの世界から飛び立ってしまった小鳥の言葉。
 さとうのことを頼むと。今際の際、意識が消滅する最期に自分へ伝えたあの願いを。

 ――ボクは、また裏切るのか。一度ならず二度までも、何も守れない無様を晒すのか。

 考えた瞬間に、身体は動いていた。
 必要なのは攻撃による破壊範囲からの離脱。
 単純だが、しかし簡単ではない。
 分かるのだ。あの"災厄"は、単に避ければそれでいいという生易しいものではないと。

 視える。双眸に映る視界が、今までとは違う色を帯びていた。
 それは機凱種による本家本元の解析に比べれば、精度も正確さも足元にさえ及ばない付け焼き刃でしかなかったが。
 それでも今この瞬間、ガンヴォルトにこれ以上に必要な能力(ちから)はなかったと言っていい。
 不用意な回避は自分のみならず、抱えているさとうの身をも蝕む。
 この毒素――名称:『霊骸』――は、人間の身で浴びて耐えられるものではない。
 ならば。

「迸れ、蒼き雷霆よ……!」

 魔力放出というスキルが存在する。
 魔力の瞬間的な放出による、ごく短時間な能力値の向上。
 本来ガンヴォルトはこのスキルを持たないし、今も獲得してはいないが。
 自前の雷に、蓄積した威信(クードス)と受け継いだ遺志が成し遂げさせた霊基の向上を掛け合わせることで、彼は擬似的に件のスキルを駆使することが可能となっていた。
 それは蒼雷の爆噴射。言わずもがな魔力の消費は馬鹿にならないが、それで命を拾えると考えれば対価としては破格だ。
 彗星の尾のように、美しい雷の軌跡を描いて、ガンヴォルトが一陣の光風(かぜ)と化す。

「胸(ココロ)に継いだ想いを糧に、絶望を切り拓く閃光となれ……!」

 解析によって算出した、霊骸の濃度が薄い箇所をなぞるように。
 ありったけの雷電でわずかな残滓さえ吹き散らしながら、強引に安全圏を作り出しては駆けていく。
 ガンヴォルトにとっては気の遠くなるほど長い時間にさえ感じられる逃亡劇だったが、実際にはわずか一秒にも満たない一瞬の出来事だった。


 ――間に合うか。
 ――間に合え。
 祈る少年と、彼を信じて目を瞑り呼吸を止める少女。
 そんな二人を呑み込むように、再演された竜王の息吹(ドラゴンブレス)が地へ墜ちた。



「生体、及び魔力反応……」

 桜も、廃墟同然の高層ビルも、もの皆等しく消し飛ばされた爆心地。
 爆炎と粉塵の立ち上るそこを見下ろしながら、小さく口を開く機凱種の少女。
 その言葉が最後まで紡がれるのを待たずに――鈍色の煙を切り裂きながら、燦然と輝く一筋の雷霆が空を撃ち抜いた。

「……残存。初撃による殲滅は、失敗……」

 それを片手で払い除けたのは、何も素の耐久力による芸当ではない。
 シュヴィが保有する兵装の一つ、『進入禁止(カイン・エンターク)』。
 効果範囲可変の防御武装を展開することにより、空を穿つ雷霆を阻んでのけた。
 逆に言えば、今のガンヴォルトの火力はシュヴィでも易々とは喰らえないということ。
 油断なく武装による防御や回避を駆使し、その上で惜しみないリソースを注ぎ込んで殲滅するべき敵にまで、既に彼はその格を上げていた。
 そしてその徹底的とも言えるスタイルは、彼女が己に課した盟約を強調するかのようでもある。

 敵を倒す。
 誰であろうと、例外なく殲滅する。
 マスターのため。リップの、夢のため。
 "彼"が過去に目指した、最強のゲーマーだけが目指せる至高の結末に背を向けて。シュヴィ・ドーラは、そう決めた。
 同意に誓って(アッシエント)。すべては、あの優しい人類種を苛む悲劇の運命を断ち切るために。

「――引き続き、殲滅を続行する」

 空を覆う雲が。
 巻き上げられた桜吹雪が。
 千々に引き裂かれて、風の刃が数千と吹く。

「さとう。絶対に、ボクから離れないでくれ」
「うん、分かってる。……あいつ、あの時の奴でしょ?」
「…………ああ」

 それを見上げるガンヴォルトの眼は、青い炎を宿し。
 『歌』、『記憶』。それぞれの想いを受け取り合った二人が、再び此処に激突した。


◆◆


 そして。

 新宿事変、ならぬ、夜桜事変
 ならぬ、渋谷事変。今や東京は数多の因縁が集まる交差点。
 次から次へと方々で轟いては唸る戦の気配を感じながら。
 この東京に更なる混沌を呼び込む者達が、この時静かに塒を出ていた。

「なあ、マジで混ざりに行くのかよ。静かになるまで黙って待ってりゃいいんじゃねえの~?」
「俺はさっき理由を説明したつもりなんだが。お前寝てたのか、チェンソー野郎」
「聞いた上で言ってんだよ。大魔王様の考えは荒っぽくていけねえや」
「奇遇だな。俺も未だに野良犬の考え方は分からない」
「てめえも大概貧相な格好してるぜ。昔の俺といい勝負だなあ~?」
「もう、ふたりともこんな時までけんかしないの! めっ、だよ!!」

 死柄木弔。デンジ。そして、神戸しお
 この三人は、何も変わらない。
 死柄木とデンジは相変わらず犬猿の仲で、しおはそれを諌める役だ。
 年の離れた兄弟のようにも、背丈の違いを無視すれば友達同士のようにも見える。
 微笑ましくさえ見えるだろう凸凹さは、とてもではないがあらゆる犠牲を厭わずに敵を排除してきた『敵(ヴィラン)』達とは思えまい。

 彼らは、既に行き先を決めている。
 それは同じ場所かもしれないし、違う場所かもしれない。
 答えを知るのは彼らだけだ。魔王の意思を聞き、これから連合が何処を目指すのかを知った者達だけだ。

 盤面は今まさに大きく動いているその真っ最中だ。
 だからこそ、彼らの介入は必ずやそこに追加の嵐を生む。
 当然だろう。敵とは、ヴィランとは、混沌を生むもの。
 社会に混乱をもたらし、自分勝手に掻き回してせせら笑うもの。
 故に今、彼らは名実ともにまさしくヴィランであった。
 歳も、力の有無も、過去も、願う未来の形さえも関係ない。
 何もかも壊して、均して、死体の山のてっぺんで満足げに微笑めるならば。
 そういう心を持っている限り、彼らは雌雄を決するその時まで一蓮托生だ。

 そしてそんな連合(かれら)のあり方を、田中一は尊いと思う。
 尊い。素晴らしい。此処が自分の居場所で、命を懸けてでも尽くす価値があるものと固く信じている。
 それでも。今、彼の顔に笑顔はなかった。
 微笑みながら隣を歩く、輝きの権化のような美女の存在が、常に彼という陰の者を照らし苛み続けていたから。

 俺は、何かを成せるんだろうか。 / 成すとも。成さねばならない。
 本当に、何かを。 / 俺を見出してくれた彼に、報いるために。
 みんなのためになることが、できるんだろうか。 / それさえできないのなら、お前なんか死んでしまえばいい。


 弱さと強がりの相克。
 恋慕抱く皆殺しの天使。
 すべての崩壊を掲げ、あまねく魂を弄ぶ王者。


 十人十色ならぬ、三人三色。
 数は減れども、連合の在り方も歩き方も何も変わっちゃいない。
 葛藤と、決意と、野望とを渾然一体に織り交ぜながら。
 悪魔の行進が、何処かへ向かう。
 誰かの希望を奪うため。
 誰かの未来を、踏み潰すため。

 ヴィランたちが、出撃する。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2023年07月29日 04:09