綺麗な桜が一面に咲き誇っていた。
剣鬼が来たる明王の迎撃に赴き、残されたのは少女達と一人の少年。
其処に悠然と姿を現す男が一人在る。
歩いて来た訳ではない。
走って来た訳でもない。
その男は虚空(そら)より現れた。
つむじ風が花弁を巻き上げ、偶々それが人の形を描き上げたように。
そんな幻想小説の一片のような美しさで現れた男こそは、この渋谷を地獄に変えた張本人。
「揃ってるな。手間が省けて何よりだ」
「皮下、先生…」
「おう。久し振りだな霧子ちゃん。何だかんだであれ以来顔を合わせる機会も無かったなぁ」
気さくに片手を上げて挨拶する姿からは想像も出来ないだろう。
この男は何百、何千という人間の命を踏み台にして立っている。
それは何もこの聖杯戦争で築き上げたスコアではない。
妖桜に魅入られて定命を超え、不幸と嘆きを芋蔓式に増やし続け永らえてきた彼もまた一体の化物。
皮下真。旧川下医院の若き院長にして、最強の怪物
カイドウの手綱を握るマスターである。
「にしても運が悪いなぁアイ。折角逃してやったのに、こんな前線に出てちゃ駄目だろ」
「…アイさん、死にたくない。だけど……霧子や梨花にぜんぶ任せてじっとしてなんか、いられない……!」
「バカな奴だ。ミズキは何を教えてたんだか。親に恵まれないのは相変わらずらしい」
肩を竦めて視線を外す。
皮下が今此処に居るのはアイの愚かさ、そして優しさあっての事だ。
彼自身その事は理解しているが、しかしそれは自分の求める未来を妥協する理由には成り得ない。
恩は堂々と仇で返そう。
幼い優しさには付け込もう。
目的を叶える為なら不義の一つ二つは何のその。
恥じず悔いず顧みぬ――無慙無愧。
「…こちらこそ、お久しぶりです……皮下、先生。ずっと、また会いたいって……思ってました……」
「俺もだよ。出来れば君が方舟とか言う胡散臭い連中に取り込まれる前に会っておきたかった。
俺みたいな悪人が言うのも何だけど、霧子ちゃんは優しさの塊みたいな子だからなぁ。他のマスターよりずっと楽に取って食えると思ってよ。
葉桜を注入すれば善人ヅラした時限爆弾としても使えるなとか考えてたよ。今だから言うけどな、予選の君は流石に怪しすぎたぜ」
霧子を守るサーヴァントの存在は皮下にとって問題ではなかった。
鋼翼や女王レベルの戦力でもない限り、
カイドウの持つ圧倒的武力の前には皆雑兵も同じなのだから。
しかしその当ては外れ、藪医者と医師を志す少女の縁は時現在に至るまで絶たれっ放しだった。
霧子は方舟という拠り所と戦う理由に出会い…既に其処に皮下の奸計が立ち入れる隙間は存在しない。
「方舟の計画を知った時すぐに思ったよ。君の考えそうな事だって」
「わたしだけで、考えたことじゃありません…みんなで、そうしたいねって……そう思えたから」
「不思議なもんでな。他の奴が言ってる分には寝ぼけてんのか此奴らって思うのに、君が言い出したと思うと"霧子ちゃんらしいな"って思える」
「そう…ですか。今言うことじゃないかもしれませんけど…それは、少しだけ……嬉しいです……」
「人殺しに褒められて喜ぶなよ。未来の医者が無辜の犠牲者を蔑ろにしてちゃ世も末だぜ」
皮下真は
幽谷霧子という少女の人となりを、同郷のアイドル達程ではないが知っている。
その印象を一言で言うならば『今時珍しいくらい馬鹿正直な善い子』だ。
子供と言っても醜さは必ずある。
承認欲求であったり嗜虐心であったり、或いは純粋な好悪であったり。
眼を輝かせて高尚な夢を語っていた学生が現場の過酷さ、患者のケアの大変さを目の当たりにしてサボり方を覚えていく過程だって腐る程見て来た。
しかし霧子にはそれが無かった。
彼女の立ち振る舞いには一切の影がなかったし、どんな気難しい患者にだって笑顔で根気強く接していたのを覚えている。
その非凡さもまた皮下が霧子を怪しんだ理由の一つだったのだが…閑話休題。
「あの…聞いてみても、いいですか……」
「勿論。どう転ぶにせよこれが最後なんだ、遠慮なく何でも聞いてくれ」
「…先生は、どうして……界聖杯さんを、求めているんですか……?」
霧子の問いに皮下は僅かな逡巡もなく返した。
いきなり答えを突き付けるのではなく、まずは問い返す。
「霧子ちゃんは、人を好きになった事ってあるかい?」
「それは…まだ、です……アイドルなので……」
「はは、そっかそっか。アイドルってのはそういう仕事だもんな。野暮を言っちまったか」
頭を掻いて。その双眸に桜の紋様を灯し、皮下は続ける。
「俺は…多分あるんだ。いや、もしかしたらその手の情じゃあないのかも知れないけどな。
百と余年生きて来て、今も忘れられない……片時も忘れた試しのない出会いがあった。
綺麗な、綺麗な花さ。近付き過ぎて魂まで取られちまったが、まぁ、実の所あんまり後悔はしちゃいない」
これを愛と呼んだ女が居た。
そう言って皮下が眼を向けたのは
神戸しお。
かつて彼に愛(こたえ)を教えた女の片翼だった。
「別に夫婦になりたくて手を差し伸べた訳じゃないがな。実際面倒だと思った事もあったし、貧乏籤引かされたと思った事も数知れない」
「……」
「霧子ちゃんは医者志望だろ。だったら一つ意見を聞いてみようかな」
松坂さとう――皮下の感情に名を与えたのは今は亡き彼女だ。
砂糖菓子の少女。
燦然と輝く、燃え尽きるような愛を貫いて生き抜いた女の言葉が今も爪痕となって皮下の心に残り続けている。
ずっと名前のない感情でしかなかった"それ"が輪郭を帯びた途端、これまで静かに鼓動していたその情念は打って変わって皮下を蝕み始めた。
これが愛。
誰かを想うという事の烈しさか。
噛み締めると共に決意は強まった。
必ず果たさねばならない。
この愛だけは、何を犠牲にしても貫き通さねばならないと。
「安楽死問題についてどう思う?」
「…、それは……」
「現代医学は完璧には程遠い。結核や癌はある程度治せるようになったし、エイズだって極限まで発症を遅らせられるようになった。
だが現実問題、手出し出来ない病気ってのが相当数あるのは無視する事の出来ない現実だ。
筋ジストロフィー、ALS……末期癌なんかも含められるな。後は先天性の染色体異常なんかも人の手じゃまだどうにも出来ない。
霧子ちゃんはそうした現実的に救いようのない患者に対し、慈悲を以って死を下す事は正しいと思うかい」
「……いっぺんに」
何故急にそんな話に、という困惑は多少あった。
けれど霧子は皮下の言う通り医者を志す身だ。
逃げてはならないとそう思った。
だから自分が今までに得てきた知識と勉強した内容、それらを踏まえて自分の中に構築した考えを辿々しくしかし確かな声で並べていく。
「いっぺんに、肯定も否定も…するべきじゃない事だと、思います……。
人の命はとても大事で、かけがえのないものだけど……ずっとずっと苦しくて痛いまま、自由がなくて辛いまま……
ルールなんだから生き続けろって言うのは、あんまりだとも……思うから。
わたしはまだ、先生のその質問にちゃんとした答えは出せそうにないけど…わたしなりに答えるなら、こんな感じです……」
「うん、悪くない。というか満点回答だな。まさにその通り、医者はそれに肯定も否定もするべきじゃない。
偉そうな顔して椅子にふんぞり返りながら御高説垂れるバカよりよっぽどマシだ」
皮下は笑って頷く。
「人の生き死には何処まで行っても個人の宗教観だ。明確な答えなんて百年議論したって出ないさ」
霧子ちゃんは良いお医者さんになれそうだな。
そう笑って言う姿は、まさに教え子を見る教師のようでもあり。
だからこそ次にその口から出た言葉の剣呑さは一際光っていた。
「俺の願いは愛する者の死だ。何百年と頑張って生きて来た患者に、そろそろ安息をくれてやりたくてな」
「っ」
皮下は愛を知った。
いや、自覚した――と言うべきか。
砂糖菓子の少女に感情を名付けられた。
しかし彼の願いは永遠とは異なる。寧ろその真逆だ。
愛するからこそ死なせたい。
死なせてやりたいというその気持ちが、覚醒(めざ)めた彼を突き動かす燃料に他ならなかった。
「記憶や人格の連続性が損なわれるなんてのはまだマシな方でさ。
酷い時は人の形すら保てない。全身の細胞が活性と自壊を繰り返す無限地獄だ。
おまけに定期的に毒親が訪ねてきて体を切り取ったり抉ったりと忙しない。
只消費されるだけの時間を、死ねない体で生き続ける事に何の値打ちがある」
霧子は何も言えなかった。
圧倒されていたからではない。
彼女は優しい娘だ。
お日さまのように眩しく暖かく、万人を分け隔てなく照らす光だ。
そして誰かを救う道に進めるだけの頭があり、努力も重ねている。
それら全ての要素を持つからこそ――何も言えなかったのだ。
不用意な慰めや同情の言葉を此処で吐く事がどれ程無責任で残酷な事かが解ったから。
「だから俺は聖杯に願うんだ。君達の命を祭壇に捧げて、俺の細腕じゃ到底切り倒せないあの桜を絶やしてやるのさ」
「……」
「ま…そういう訳だ。期待させてたなら悪いが、俺はどうやったって君の方舟には傅かない。
その為の"
夜桜事変"だ。その為の"夜桜前線"なんだ。此処で聖杯攫わなきゃ、死んでいった飲み友達にも笑われちまう」
皮下が思い描いたのは眼帯の青年だった。
間違いなく敵だったが、しかし何処か憎み切れなかった男。
彼はもうこの世に居ないが、皮下にも人でなしなりに多少の義理を見せてやるくらいの甲斐性はある。
願いを叶えられなかったあの男がハンカチを噛みながら血涙流すくらい見事に、俺は本懐を遂げてやろうと。
そう思うからこそ
夜桜事変の黒幕は揺るがないし変わらない。
愛という不変で以って、方舟の少女と相対する。
「わたしは…」
皮下の言葉を咀嚼するのは並大抵の事ではなかった。
百余年の思いが軽い訳がない。
愛するが故に殺す、その覚悟が生半可な訳がない。
敵は敵と割り切ってしまうのが最も単純な解決法である事に疑いの余地はなく。
しかし
幽谷霧子は――
幽谷霧子であるが故にそれをしなかった。
真正面から受け止め、咀嚼し、飲み込んでその上で口を開く。
「わたしは…先生に殺されてあげることは、できません」
「そりゃそうだろうな」
「でも……先生のその気持ちが、間違いだって…そう否定する気にも、なれません」
命は差し出してあげられない。
けれどその気持ちはきっと間違いなんかじゃない。
「実は…ずっと知りたかったんです。先生が何のために戦ってるのか……何のために、命を奪うのか……」
幽谷霧子は優しい少女だ。
アイドルのスター性ともまた違う輝きを放つお日さまだ。
そんな彼女は、過去に縁のあった敵の事を"そんな人も居たな"と片付けられる程利口な思考回路をしていなかった。
ずっと考えていた。
思い出しては思いを馳せていた。
皮下真――予選期間を共にした彼の心と願いについて。
そして答えが出た今、霧子が覚えた感情は…安堵。
「先生は、すごいお医者さんだから……」
一方の皮下は狐につままれたような気分にならざるを得なかった。
目前の少女が何を言っているのか、本気で解らなかったからだ。
この状況で出て来る言葉か、それが。
今から殺し殺されの命のやり取りをしようとしている相手に掛ける言葉か、それが――
「先生は…どんな人にも、いつも笑顔で診察をしてました……。
赤ちゃん、妊婦さん、おじいさん、おばあさん、にぎやかな人も人見知りさんにも…いつも、笑ってた……」
「建前だよ。解るだろ、ちょっと考えたら」
「それでも…患者さんにしてみたら、皮下先生は……優しくて、とっても頼れる……素敵なお医者さんだったと思います……。
病気になって病院に来る人って、みんなすごく不安だから…先生みたいな人に診察して貰えたら、安心すると思うんです……」
端的に言おう。
皮下真は
幽谷霧子を甘く見ていた。
類稀な優しさを秘めた、お人好しな女の子とその程度にしか思っていなかった。
――たかだか"類稀"という程度で、地獄に堕ちた剣鬼を照らせるものか。
「こんなお医者さんになろうって、わたし…皮下先生を見て、そう思ったから……」
「……」
「だから、先生が…先生の持つ願いごとが、誰かへの優しさに溢れたもので……わたし、なんだか安心しちゃって……」
でも、と霧子。
ぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい…わたしは、みんなのことを裏切れないし、捨てられません……。
だから…わたしの気持ち、わたしの大切な人たちの気持ち、ぜんぶ込めて……先生に、ぶつけます……」
「は――いいね。ちょっと見ない間に一皮剥けたみたいだ」
霧子は手を差し伸べはしなかった。
彼女はもう、無垢に融和だけを夢見る子供ではない。
聖杯戦争とはその名の通り戦争なのだ。
譲れない願いを持って戦う者と、皆で手を取り合って帰りたがる者とが完全に解り合える道理など端から有りはしない。
解り合えない相手は必ず居る。
好悪とは別として、どちらかが潰えるまで戦わねばならない相手というものがこの世界には存在する。
それは霧子にとってとても悲しく寂しい事だったが。
それでも…優しい陽光は、自分の考えに適応出来ない者を癇癪に任せて灼き苛む事を選ばなかった。
目を見て話を聞く。
そうして理解する。
敵対するしかないとしても。
どちらかしか生き残れないのだとしても…せめてそれだけは、この世界に共に存在していた器(なかま)として譲りたくなかった。
「初めて君等の事が少しだけ好きになれたかもだ。綺麗事にも質があるな」
「それは…不謹慎ですけど、ちょっとだけ嬉しいです……。みんな…わたしの、大事な人たちだから……」
「ま、それも含めて全部これから俺が殺す訳だけどな」
これにて対話という名の対決は終了。
勝者無し。敗者もまた、無し。
「残念だよ。出来れば君には、俺みたいなロクでなしとは関わらずに生きて欲しかった」
皮下の輪郭が揺らぎ、より怪物らしく桜の花弁を撒き散らす。
それに合わせて前に躍り出たのはチェンソーの少年だった。
否、サーヴァントである以上は『ライダー』というクラス名で呼ぶべきか。
「話終わったかよ。じゃあそろそろ殺すぜ藪医者野郎」
「スーパードクターに向かって人聞き悪いな。霧子ちゃんのお墨付きだぜ」
霧子の五体を引き裂かんとした桜の枝葉がチェンソーの前に木片と化す。
次の瞬間、やや遅れて霧子を抱きかかえたのはアイだった。
黒死牟が単独で
カイドウの迎撃に出た理由は、必ずやマスター狙いで顕れるだろう皮下への対処の為だ。
「ていうか良いのかよ。お前とそこのおチビちゃんは連合側だろ? 方舟のクルーが死ぬ分には得しかない筈だろう」
「あぁ? …スーパードクターってのは寝ぼけた脳ミソしてんだな。おいしお、言ってやれよ」
箱舟と連合が相容れる事は決してない。
其処に関しては皮下の言う事は十割正しい。
にも関わらず
デンジが、そのマスターである
神戸しおが箱舟に与する意味があるとすれば。
それは――
「お医者さん、さとちゃんの敵だったんでしょ?」
彼女は皮下が啖呵を切った愛の片割れだから。
彼が率いた戦線の一員である
リップ=トリスタンが殺めた女の片翼だから。
「だったらまずはあなたから。さとちゃんのかたき、取らないと」
「…やれやれ、こりゃ参ったな。いつの時代も"愛"に勝る地雷はないらしい」
射竦める蒼瞳に皮下は肩を竦める。
言葉で懐柔出来るとは思っていたが、自分の踏み付けていた地雷の想像以上の大きさに恐れ入った。
されど臆病風に吹かれはしないし、勝利を疑う心も欠片もない。
サーヴァントと虹花の生き残り。
マスター一人で受け持つには過剰と言っていい戦力を前にしながらも皮下は微塵とて怖気付いてはいなかった。
理由は一つ。勝算があるからだ。
「とはいえ、中身がお前なら俺で十分事足りる」
「随分自信家なんだな。俺ぁこう見えてもヒーロー呼ばわりされた事もあるんだぜ」
「種は割れてる。中身を交代するにはリソースが要るんだろ? さしずめ令呪一画で一回の交代って所か。
で…そっちのロリっ子ちゃんの令呪は残り一画。そりゃマスター相手には切れねえよな、此処で切ったら後が無くなっちまう」
皮下真は超人だ。
最初からそうだった。
ならば万花繚乱の境地に至った今の彼はさしずめ魔人か。
その戦闘能力は下手なサーヴァントであれば片手間に蹴散らせる程度には高い。
「唯一怖かったのはおっかない顔の剣士君だった。けどそいつは総督の所に向かって…どうやらもう死にかけらしい」
霧子の表情が強張る。
そう、皮下にとって厄介な存在は
デンジではなく
黒死牟だった。
流石にあのレベルの技量を持つサーヴァントが相手となると危険が出る。
しかし彼は
カイドウの迎撃に出ていて不在。
鬼の居ぬ間に何とやらではないが、今この場に皮下の跳梁を止める事の出来る者は存在しない。
デンジは"交代"さえ起きなければ勝てない相手ではない。
アイに至っては言わずもがなだ。
以上を以って皮下は勝算を見出した。
此処で箱舟のクルーと、かつて自分の前に立ちはだかった"愛"の残骸を抹殺する。
もしも
デンジが"交代"するようなら令呪で
カイドウを呼ぶ。
その選択肢の存在が、目前の敵勢力を抑える"縛り"にもなる。
「俺は夜桜だ。燦々眩しいお日さまにはご退場願おう」
対話の時間は此処まで。
桜の咲く、夜が来る。
皮下を中心に育ち殖えていく夜桜の樹海。
霧子やしお、アイはおろか
デンジでさえ貫かれれば危ういだろう吸精の妖樹。
他人の命を吸い上げて肥え太る血塗れの歴史を象徴するような花咲く災禍が顕現する。
「下がってろ、しお」
「まって、らいだーくん」
踏み出そうとした
デンジを制したのはしおだった。
足を止める理由が思い付かない。
そんな彼をよそに、しおは指差す。
桜のカーテンのその向こう。
微かに生まれた揺らぎの方を。
「だれか、くるよ」
…花嵐が裂ける。
全てを呑み込む春が、新たな春を受け入れる。
白く染まった頭髪と肌。
皮下のように、身体中から咲き乱れては消えていく桜の花弁。
その姿は霧子達の知る"彼女"のものとはかけ離れていたが。
しかし解る。
伝わる――彼女の名が。
どんなに変わり果てようと、その双眸に宿る光は紛れもなく霧子が、そしてアイが知る少女の物だったから。
「梨花…ちゃん……?」
「みー。心配かけてごめんなさいなのです、霧子、アイ」
古手梨花。
ずっと離れ離れになっていた箱舟のクルーの一人。
久方振りの再会に霧子達が覚えたのはまず安堵。
そして、困惑。
彼女の姿はあまりに自分達の記憶にあるそれと違っていたから。
何があったのか。
何をしようとしているのか。
聞きたいことは山程あったがしかし悠長に問答をしている暇はない。
久闊を叙する事を桜の魔人は許してくれないからだ。
皮下の視線と梨花の視線が――二つの桜が交差する。
「よ。痴話喧嘩は終わったのかい」
「お陰様でね。ちゃんと終わらせて来たわ、私達の因縁は」
「無理すんなよ。立っているだけでも辛いだろうに」
古手梨花は夜桜の血を流し込まれて超人と化した。
彼女は先祖の血縁と百年の因果を以ってその血を扱いこなしたが、それでも完全な適応を果たした訳ではない。
それどころか血の酷使は梨花の残り時間を更に早める結果を齎した。
北条沙都子との決着を着けた彼女の"その時"はもうすぐ其処にまで迫っている。
体内器官は再生と崩壊を絶え間なく繰り返し、皮下の言う通りこうしている今も地獄の苦痛に苛まれ続けていた。
「…そういう訳にも行かないのよ。約束してしまったもの」
「やれやれ。俺はアンタの為にやってるんだがな…上手く行かないもんだ」
肩を竦める皮下の言葉は梨花に向けられたものではなかった。
彼は、梨花の体に何が起きたのかを理解している。
まるで生き写しのように変わったその外見が何よりの証拠だ。
血の中に混じっていた"始祖の桜"…皮下のよく知る彼女の"良心"。
古手梨花はそれと接触し、血の力を引き出すに至ったのだとすぐに悟った。
であれば。梨花が始祖とどんな約束を交わしたのかには察しが付く。
“安定してる時のアイツは優しいからな”
とはいえやるべき事は何も変わらない。
皮下真は、"夜桜前線"は揺らがない。
古手梨花を見据える視線にその意志を籠める。
梨花は身動ぎ一つせずにそれを受け止めた。
「あんたには言いたい事も溜まってるものも山程あるのよ。この機にかこつけて、全部ぶつけさせて貰うわ」
「そりゃ怖い。ぶん殴られるくらいじゃ済まなそうだ」
双方、瞳に桜が宿る。
開花は最早前提だ。
此処に居るのは夜桜の使徒二人。
共に始祖の血を宿した、繚乱の子等。
“…逃げる事はまあ、出来るな。死にかけの夜桜一人程度ならやり過ごせるしそれが賢明だ。
もしも本当に梨花ちゃんがアイツを……つぼみを宿してるって言うんなら、どんな無茶苦茶が出て来るか解ったもんじゃないからな”
皮下は考える。
利口なのは時間稼ぎだ。
何が飛び出すか解らないびっくり箱に本気で向き合うなんて馬鹿げている。
やり過ごして、躱して、力を温存する。
桜が枯れてから改めて箱舟の誅戮に臨む。
最適解はそれだ。
そう確信している。
解っている、その上で――
「俺も…、甘ぇな」
皮下はそうしなかった。
不合理にして愚か。
その自覚を抱いた上で、敢えて目前の因縁に向き合う。
これは彼にとって不要な戦いだ。
黙っていても
古手梨花は死ぬのだから。
偶々つぼみと繋がれた幸運な桜は枯れ果てるのだから。
にも関わらずそうした理由を、一言で形容するならば。
「いいよ。やろうか――
古手梨花。元を辿れば自分で蒔いた種だ。責任くらいは持つとしよう」
「上から目線ね。悪いけどもう逃さないわよ、
皮下真。…私と、彼女の抱える全部。これからあんたにぶつけてあげる」
――愛、と。
そう呼ぶべきなのだろう。
「始めましょう。"
夜桜事変"を」
◆ ◆ ◆
人外魔境渋谷決戦・『昼夜決戦』 ――勝者無し
◆ ◆ ◆
『田中ってさ』
「なんだよ」
『私(アイ)の事好きだったの?』
「ぶっ…げほっ、ごほっ……! お…お前、いきなり何言うんだよ」
『うわ図星っぽい反応。もしかして正鵠、ヘッドショットしちゃった?』
「…んなわけねえだろ。夢見るにしても相手選ぶわ」
『そんな事ないでしょ。現場でよく見たよ、田中みたいな人』
「それがフォローになってると思ったら大間違いだからな。後お前は現場(ステージ)立った事ないだろ」
『記憶にはあるもーん。私(アイ)は結構好きだったみたいだね、この仕事』
「だろうな。そうじゃなきゃ彼処まで貫けねえよ」
『私は好きとかそういうのじゃないから、ちょっとだけ羨ましいな。私にとってアイドルは仕事じゃなくて、役割だからさ』
「…、で。お前、なんでいきなりそんなトンチンカンな事言い出したの」
『え? だって田中、私(アイ)に未練タラタラみたいだから』
「……やっぱそう見える?」
『うん。たまに私の事じっと見てるし、正直結構キモいかも』
「悪かったな。…仕方ねえだろ、自分が殺した人間が起き上がって隣に居るようなもんなんだから。俺は凡人だから、そう簡単には慣れられない」
『人殺したの、私(アイ)が初めて?』
「いいや。二人目だ」
『あはは、立派なシリアルキラーじゃん』
「まあな。…やっぱりさ、命の価値ってのは誰しも等価じゃないんだなって思ったよ」
『難しい話? それ』
「簡単な話。顔見知り殺すのは、やっぱ違うわ」
『ま、そりゃそうだよね』
「…お前、あの人の記憶引き継いでんだよな」
『そうだよ。まあ、あくまで記憶として持ってるだけだから…信念とかそういうのは抜けちゃってるけど』
「なら知ってるだろ。俺はさ、あの人に救われたんだ」
『ああ。なんか言ったんだっけ、私(アイ)』
「お前じゃなくても…本物のアイさんでも、そんな程度の印象かもしれない。
実際あの人は、別にそんな熱い気持ち込めて言った訳じゃないんだろうし。
でも……それでもさ。あの時の俺には…適当でも何となくでも、兎に角必要な言葉だったんだよ。ありがとうって、言いそびれちまった」
『そっか。私は私(アイ)じゃないけどさ』
「うん」
『田中がそう言うんなら、代わりに受け取っとくよ』
「…ありがとよ。偽物に言うのも何だけど」
『細かい事は気にしない。で』
「で?」
『ちょっとはスッキリした?』
「そこは"元気出た?"だろ。アイドルなんだから…、……まあ。確かにスッキリはしたかも」
『なら良かった。元気の方はどう?』
「そっちは間に合ってる。ムカつくけどさ、あのクソガキと戦って…見事に一杯食わされて、ちょっと目が覚めたんだ」
『すっごい子だったよね。あれまだ高校生かそこらでしょ? 死柄木君といい若者の人間離れは深刻ですなぁ』
「あぁ。アイツの事はよく知らないけど…凄い奴だと思うよ。多分俺じゃ逆立ちしてもああはなれない」
『田中だもん。すぐ凹むしヘラるしベソかくし』
「う、うるせえな…言うなよ。俺だって気にしてんだから」
『あはは。ちょっと可愛いかも』
「…兎に角。俺はさ、どうやってもあんな化物にはなれないんだ。
俺は俺のままで、何をするかで俺の価値を証明しなくちゃならない。
そうしなきゃ俺はいつまでも……消しゴムやソシャゲに命懸けてた頃のままだ。それで敵(ヴィラン)なんて名乗れやしないだろ」
『……』
「こう見えてさ。のめり込む事には自信があるんだ」
『消しゴムとかソシャゲとか?』
「そう。一回のめり込むと周りが見えなくなるし、後先も考えられなくなるんだよ。
…まぁ多分何かの病気だな。そういう病院に行けば診断書の一枚でも貰えると思う」
『じゃああれだ。田中は今、連合(わたしたち)にのめり込んでるんだ』
「寧ろこれから、かな。…自分でも情けなくなるくらい回り道ばっかりして来たけどさ。
峰津院の事だってそうだ。俺、昔――つっても昨日だけど。拳銃一丁であのガキにカチコミかけようとしてたんだよ」
『…自殺志願?』
「自分でもそう思う。今はな。けど、実際峰津院への突撃は一日遅れで果たせた訳だろ。結果はああだったけど」
『惜しかったねー。それなりに効いてた筈だから、もうちょっと入念にプランを立ててたらいけたかも』
「つまり俺は、ようやっと自分がやろうとしてた事が出来る所まで来れたんだよ。
で…峰津院にはしてやられたけど、アイツのお陰で一番大事な事にも気付けた。これで多分、ようやっとスタートラインだ」
『田中ってさ』
「なんだよ」
『めっちゃ真面目だよね』
「…そうか? ダメ人間だろ、自分で言うのも何だけど」
『そんなあれこれ悩んで考えて、一歩進んでまた一歩戻ってさ。見ててじれったくなるくらい真面目に見えるよ』
「そういう生き方しか出来ないんだよ。さっきも言ったろ。俺は峰津院のアイツや…死柄木みたいには生きられないんだ。
無理して勢い任せに走り出すのは出来なくもないけど、そんな付け焼き刃が持つ価値なんてたかが知れてるって此処に来て痛い程解った。
この一日半で、俺が握り締めてたナマクラの刃は一本残らずへし折られちまった。
俺の『田中革命』なんて此処じゃ何の意味もない。キチガイに刃物持たせて無双出来る世界観じゃないんだもん、当然だよな」
『それはそれで需要あると思うけどね。私(アイ)は実際、元の世界じゃそれで死んでるわけだし』
「お前さ、峰津院や
カイドウにナイフ刺して殺せると思うか?」
『…次の瞬間には田中のたたきが完成してそうだね。ポン酢としょうがが合いそう』
「要するに『田中革命』は大人の事情で打ち切りって事。もう一回始められる気もしないしな」
『ふーん。でもなんか残念だなぁ。私は結構好きだよ、私の陰に隠れてイキイキしてる田中も』
「オブラートに包めよ。…俺の『革命』は、アイツに全部預ける事に決めたんだ」
『アイツって? まぁ、聞かなくても解るけど。一応聞いてあげる』
「
死柄木弔。俺とお前の王だ」
『ですよねー。言うと思った』
「アイツは…本当に凄い奴だ。峰津院も
カイドウも、誰だって及びも付かないって断言出来る。
死柄木なら……俺の革命(こころ)を引き継いでくれる。アイツが創る地平線が、俺にとって最高の『田中革命』だ」
『あんま無理しちゃ駄目だよ。田中はすぐ背伸びするし、その分ツケ食らってゲロ吐きそうな顔するのがお決まりなんだから』
「ゲロくらい幾らでも吐いてやる。もう一度、あの地平線を見られるなら」
『頑張るねぇ。でもそれなら私も一安心だ』
「なんでだよ」
『だって死柄木君は私にとっての創造主(パパ)だから。田中が聖杯を狙うってなったら、私はパパの方に着かないといけなくなるでしょ』
「…ああ、そういう。確かにお前、死柄木の子供みたいなものだもんな」
『そうそう、だから安心したの。田中を殺したらさ…なんかこう……後味悪そうだし。
犬とか猫とかを思いっきり蹴って殺しちゃったみたいな、そんな気持ちにはなりそうだから』
「……お前、やっぱり俺のこと舐めてない?」
『舐めてないよ。可愛いなって思ってるだけ』
「それを舐めてるって言うんだよ巷では。一応人様のガワ被ってんだから、人間らしくしとけ」
『はいはい。マスターの言う事には従いますよー……っと。あ、これも覚えたよ。次は何聴けばいい?』
「あー。今何曲目だったっけ」
『三倍速で十三曲目。そろそろアルバムが一個出せそうだね』
「流石だな。アイドルを基にしたホーミーズだから、曲覚えんのも速いのか」
『まぁね。…でも本当にこんな事して意味あるの? さっきみたいに適当に声張り上げるだけでもちゃんと戦えるよ?』
「流石にアイドルの攻撃方法が奇声ってのは拙いだろ。…まぁそれは冗談として、意外とシナジーあったりするんじゃないかなと思ってさ」
『そういうもんなのかな』
「なんでお前が解らないんだよ。解っててくれよ」
『だって赤ちゃんなんだもん。田中がそうしろって言うんなら従うけどさ。これだけ覚えたらカラオケで無双出来そうだね』
「戦場で無双してくれ。…で、何か気に入った曲とかある?」
『んー。ちょっと待ってね』
「……」
『……』
「…………」
『…………あ』
「決まった?」
『これかな。四番目に聴いたやつ』
「…これ?」
『うん、これ』
「『ヒカリのdestination』。…イルミネーションスターズって奴らのか。何処がツボにハマったんだよ」
『んー。特にないかな』
「…お前な…」
『でも、なんかそれが一番ビッと来たんだよね。何でだろ』
「……まあいいや。じゃあ、残りはそいつらの曲聴いててくれ。何倍速まで聴き取れる?」
『何倍でも。田中の方こそ、私の事舐めないでよね。――私、アイドルのホーミーズだよ?』
「そっか。なら頼むよ、最高速度で記憶してくれ」
『オッケー。頑張って記憶(レッスン)するね』
「……」
『……』
「…………」
『…………』
『――出来た。全部覚えたよ』
「ああ、お疲れ。…こっちも色々考えが纏まった」
『色々調べてたもんね。私に曲聴かせながら自分はグーグルフル稼働。忙しいなぁって思って見てた』
「こっちは必死なんだよ。トチったら最悪死ぬんだから」
『で? 田中は私に何をさせたいのかな』
「お前さ」
『うん』
「エコーロケーションって奴、出来る?」
『日本語訳からお願いしたいかな』
「…声を出して、その反響で周りの物や地形を探知するんだ。クジラとかコウモリがよくやるんだってさ」
『いくらアイドルの血から出来てるからってコウモリ呼ばわりは傷付くなぁ』
「良いから。出来るのか出来ないのか答えろよ」
『多分出来るんじゃない? アイドルのホーミーズってさ、要するに音のホーミーズみたいなもんだから。音で出来る事は大体出来ると思うよ』
「出来れば超音波くらい甲高い声でやりたいんだよな…そっちはどう?」
『ああ、それはいけるよ。ていうか峰津院君と戦ってる時もそれで揺さぶりかけてたし。実は』
「…解った。そっか、出来るのか……それが出来るなら大分変わってくるな……、……」
『ありゃりゃ、ブツブツタイムに入っちゃった。オタクだねー』
「――駄目だ、悪いけどお前も考えてくれ『アイ』。頭痛くなってきた」
『私そういう頭使うのはさっぱりだよ。オリジナル譲り』
「猫の手でも借りたいんだよ! 悪巧みはお前のお得意だろ…!?」
『遠回しに悪女って言われちゃった。…しょうがないなぁ、出来る範囲でだよ? で、田中は何しようとしてんのさ』
「…海に落とす」
『え?』
「夢見てる奴ら、全員海に落とすんだ」
「死柄木の地平線に、余計な船なんて必要ない」
「俺とお前であいつらを全員殺す。死柄木が暴れ出す前の前哨戦だ」
◆ ◆ ◆
――箱舟を守るサーヴァントの一人、メロウリンク・アリティ。
彼は抜け目のない男だ。
283プロダクションの"
プロデューサー"と相対するに当たって、周囲に"結界"と呼んでも差し支えないだけの防衛線を構築してあった。
実際には
プロデューサーはにちかとの会話で答えを得、只穏やかに滅んでいく事を選んだ為使う機会はなかったが。
逆に言えば事がそうならなかった場合…狛犬が狂犬のように暴れ狂った場合。
それを想定して、いつでも最悪の事態に対処出来るだけの備えはしてあった。
古典的なブービートラップを基礎にしつつ"犯罪卿"が遺した自分用の重火器の類もふんだんに活用した二重三重の防衛線。
大袈裟でなくサーヴァント相手にさえ通用するだろう罠が、少女達と愚かな男の決着を取り囲んでいたのだ。
彼女達と彼の結末に誰も横槍を入れられないように、という意味も込めての備え。
事実それは、仮に
プロデューサーが
猗窩座を呼ぶという最悪の行動に出た場合でも対応出来るだけの水準に達していたが。
だが――ひとつの物語に緞帳が降りる傍らで"それ"は着々と進行していた。行われていた。
『お前さ。エコーロケーションって奴、出来る?』
エコーロケーション。
声音の反響を用いての状況把握。
人間でそれをやるのは常人の感覚ではまず不可能。
だが『アイ』はアイドルのホーミーズ。
彼女を生み出した死柄木自身でさえ予期しなかった事だが、彼女は自称する通り、ほぼ音のホーミーズと言っていいだけの万能性を宿していた。
先代であるビッグ・マムが世界最高の歌姫の遺体を用い同じ事をしたとして、このように上手くは行かないだろう。
英霊の力は因果因縁に引っ張られやすい。
死柄木弔は個人の"個性"が良くも悪くも尊重される世界に生を受け、そして呪いのような"個性"を授かった。
だからこそアイドルという存在が――ひいてはオリジナルである
星野アイが持つ個性が、ホーミーズ化した際に強く表出した。
それは思わぬ誤算であり。
そして
田中一という男が、
星野アイという偶像の聖性を信用しているが故に辿り着けたマスクデータ。
超音波レベルにまで研ぎ澄まされた『アイ』の声は誰にも聞こえぬ最大音量で渋谷の街を駆け巡った。
しかし誰にも気付けない。
アイドルの少女達は勿論の事、サーヴァントにさえそれを聞き取れた者は一人も居なかった。
英霊の知覚能力をすら超えて響き渡る歌姫の反響(エコー)。
『アイ』の声は瞬く間に渋谷に存在する全ての生命体の位置と魔力反応・生命反応の大きさを炙り出し。
メロウリンク・アリティが張り巡らせていた無数の罠の存在をも克明に描き上げた。
であれば後は何も難しい事はない。
サーヴァントにも匹敵する身体能力。
にも関わらず、人間を素材にして出来た事実上の『
星野アイのホーミーズ』である為に放つ魔力反応は人間と変わらない程の極小。
アサシンクラスの気配遮断…程度は劣るが、"術師殺し"の天与呪縛にも似た存在単位での迷彩を施しながら『アイ』は駆けた。夜闇に躍った。
爆弾を壊し地雷を壊す。
ワイヤートラップを引き千切り、火炎放射器を蹴り砕く。
エコーロケーションにより寸分の狂いなく正確に座標を把握出来ている以上、メロウリンクのトラップフィールドは彼女のステージも同然だった。
結果として――時間にして三分足らずの内に全てのトラップを破壊。
誰も知らぬ間に、少女達は丸裸に変わる。
「俺が望むのは地平線だ」
田中一は、メロウリンクの存在等知らない。
箱舟にゲリラ戦のエキスパートである傭兵が在籍しているなんて知る由もなかった。
彼がやろうとしたのは位置把握。
死柄木の敵が何処に居るかを知ろうとしただけ。
余りに愚直。
余りに凡庸。
しかしその平凡さが――此処では最高の結果を生み出す。
「死柄木の地平線に…箱舟(おまえら)は要らない」
彼は端役だ。
奈落の底で蠢いているのが相応の虫だ。
アイドルに並ぶ資格はなく。
石ころ、どんぐりでさえ彼にはきっと過ぎた役柄。
しかし。
この界聖杯は、あらゆる可能性を許容する。
「皆殺しにしてやるよ。さあ――俺達の『田中革命』を始めようぜ」
革命の狼煙は上がる。
悪の憧憬だけを載せて。
狂気のままに物語はあるべき形を取り戻す。
死を孕む一番星が、断頭台となって輝く色彩を切り裂いた。
◆ ◆ ◆
最終更新:2023年10月18日 23:29