械翼シュヴィ・ドーラが墜ちた。
 雷霆ガンヴォルトは、天を撃ち落とした代償に命を散らした。
 斯くして盤面は整理され、満を持して夜桜前線の本命が動き出す。
 即ちカイドウ
 鬼ヶ島の怪物、皮下医院に棲んでいた龍王。
 聖杯戦争の運命を決定付ける門番であると同時に、すべての器にとっての絶望として立ちはだかる"最後の皇帝"。
 覇気が轟く。
 比喩ではない。
 技術として体系化された"戦闘技術"だ。
 覇王色の稲妻が、真昼の渋谷に吹き荒び天地を刹那にして黒々と彩る。
 その中を縫うように駆け抜ける巨体は、まさに悪夢そのものだった。
 死の突貫。圧倒的強者が行う走破はそれそのものが蹂躙の意味を帯びる。
 止まらない――止められない。
 誰が止められるものか、この怪物を。
 人間では無理だろう。
 英霊でも、背筋を凍らせるに違いない。
 ならば。ならば――
「来たな、命知らずが」
 ――鬼ならば、どうか。
 カイドウの眼光が鈍く輝く。
 それを正面から受け止める男の眼光は、しかし六つあった。
 異形の貌を持ち、死と血肉の香りを溺れるほどに漂わせながら白日の下に立つ悪鬼。
 名を黒死牟
 彼の刀が、虚ろに哭くその鬼刀が、銀の軌跡を描いて揺らめく。
 カイドウの道を、覇者の進軍を阻むように出現したのは月の檻だった。
 何十、何百という剣豪を捻り潰してきた男だ。
 ひと目見ればそれが触れれば斬れる斬撃の月閃だということは理解できたが、だからと言って取るべき行動は何も変わらない。
「しゃらくせェな」
 剛撃一閃。黒雷を纏った金棒が振り抜かれた瞬間、月の力場は音を立てて粉々に砕け散った。
 名有りの技ですらないただの通常攻撃。
 それだけで渾身の月檻を打ち破られた事実に、黒死牟の眉が動く。
 だが動揺にまでは至らない。此処までは想定通り。相手が怪物なことなど端から分かっているのだから、いちいち反応していたらキリがない。
 ――四皇カイドウ。
 ――界聖杯に君臨する"怪物"の一体。
 ――あの鋼翼と殺し合いを演じ、都市一つを滅ぼした最強生物。
 黒死牟は、鋼翼の悪鬼……ベルゼバブの強さを覚えている。
 忘れる筈もない。魂にまで焼き付いている。
 自分と、天元の花。そして己が妄執の的であったあの弟が三人並んで挑み、それでも最後の最後まで勝ち切れるか定かでなかった化物。
 それと同格の存在と斬り結ぶにあたり、つまらない期待や尊厳など持ち込むだけ無駄だ。
 だからこそ黒死牟の続く行動は速く、それでいて的確だった。


 用立てるのは数。
 数、数、数、数――しかして質を蔑ろには決してしない。
 意識するまでもなくデフォルトで今の黒死牟にはそれが出来ていた。
 一振り一振りがかつての渾身にも匹敵する鋭さで冴え渡る、斬波の濁流。
 カイドウの巨体に亀裂が走る。
 刃を掠めた箇所から血が滲み、雫となって垂れ落ちたのが見えた。
 彼が怪物たる所以は、何もその怪力だけではない。強度もだ。
 如何にサーヴァントといえど、生半な刃ではカイドウの薄皮一枚破くことすら不可能だ。
 その証拠に予選では、彼に血を流させることが出来たサーヴァントは一体として居なかった。
 だが今、黒死牟はカイドウと戦えている。
 以前の彼ならば不可能だったろう。
 黒い火花を己がものとした上弦の参でさえ為す術なくねじ伏せられる怪物に、錆び付いた妄執の刃で太刀打ちできる道理はない。
 しかし今。黒死牟の刃を覆っていた錆は落ち――その焦瞼は融陽に至っている。

 月の呼吸・陸ノ型――常世孤月・無間。

 閻魔。地獄の大元締めの名を冠した妖刀が猛り狂う。
 気を抜けば魂までも乗っ取られそうになる暴れ馬の刀だが、黒死牟はこれを既に制御下に置いていた。
 元より数百年の研鑽を経て、剣士としては頂点に限りなく近い領域へと達していた黒死牟。
 その可能性を堰き止めていた妄執が解けた今、彼の両腕が妖刀の一振りも御せない棒切れであろう筈もなかった。
「曲芸だな」
「見目だけの、芸かどうかは……貴様の身で……確かめるがいい…………」
 まさに、無数。
 複雑に編み込まれた反物のように、美しさすら思わす月刃の群れ。
 カイドウの言う通り曲芸の美しさと、そして活人剣の烈しさがそこには同居していた。
「確かめるまでもねェよ……」
 黒死牟の顔を視界に収めた時、カイドウが抱いたのは既視感だった。
 肥大化した六つの眼の異形さに隠れてはいるが、見れば面影は確かに似ている。
 "あの男"。カイドウをして、規格外の強者であると一目でそう認識させられた侍。
 かつて光月おでんのサーヴァントとしてこの東京に現界していた――"耳飾りの剣士"に。
 あの化物侍の縁者が、あのバカ殿の刀を握っているのだ。
 一体どこに楽観視できる要素があるという。
 覇気を漲らせ、ただ渾身の力で振り抜く。
「――"雷鳴八卦"」
 硝子の砕けるような音を、黒死牟は聞いた。
 『常世孤月・無間』の太刀を砕きながら迫ったカイドウの姿を辛うじて見切り、半歩の移動で雷鳴八卦の直撃を避けられたのは見事の一言。
 しかしただ避けた程度では終わらないからこそ、彼は"海の皇帝"の称号を欲しいままにしてきたのだとすぐに思い知らされる。
 脇腹に走った衝撃と骨の砕ける激痛が黒死牟にそれを告げていた。
“掠めたのみで…これか……”
 単なる衝撃であれば鬼の肉体はそれを無視する。
 が、全撃が覇王色の覇気を纏っているカイドウの手抜かりない攻撃の前では話が変わる。
 物理的損傷自体は再生力に物を言わせて無視出来ても、押し付けられる覇気の猛威は黒死牟の肉体に残留して内から亀裂のように蝕むのだ。
「にしても多いな。界聖杯の野郎、やはり狙って身内ばかり招いてやがるな」
「何の話だ」
「お前に似た鬼をもう二体叩いてんだよ。どいつもこいつもやたらと死に難い、殴り甲斐のある連中だ」
 恐らく内の一体は猗窩座だろう。
 近接戦に秀でない童磨がこれと切った張ったを演じられるとは思えない。
 となれば、残るもう一体は今や面影を思い出す事も出来ないあの"始祖"か。
「しかし逃げ足が速ぇ。いい加減取り逃すのにも嫌気が差して来たんでな、今回は確実に首を落とさせて貰うぞ」
「…励む事だ……精々な………」
 月の呼吸・漆ノ型――厄鏡・月映え。
 放った月閃が一撃の下に粉砕される。
 つい先刻鬼という生物の限界を超克した猗窩座と相対した黒死牟であったが、その彼をしてもこの海賊は別格と言う他なかった。
 素の膂力が既に"至った"猗窩座を遥かに上回っている。
 質量なき力場を力ずくで粉砕しながら迫ってくる姿は一体何の冗談か。
 月の呼吸・捌ノ型――月龍輪尾。
 その胴を泣き別れにせんと薙ぎ払われた刃は金棒に止められ役目を終えた。
 次の瞬間、カイドウの姿が消える。
 冴え渡った五感が上だと認識した時には既に黒き稲妻が轟いていた。
「"降三世――引奈落"ゥッ」
「…………!!」
 真上から落ちてくる打撃を受け止めた瞬間。
 黒死牟の両腕の骨が末端に至るまで余さず粉々に砕け散った。
 それでも剣を取り落とす事がなかったのは、得物自体に助けられたが故だった。
 まるで己を担う以上はそんな不甲斐ない姿は許さぬとばかりに、黒死牟の砕けた両腕に自然と力を籠もらせたのだ。
 虚哭神去では受け切れなかっただろう。
 そもそも刀身自体が粉砕されていた筈だと黒死牟は確信する。
「止め切るか。当然だな」
 カイドウが呟く。
「おでんの刀は、かつてこのおれに消えない傷を刻み込んだ妖刀だ。たかだか本気でぶん殴ったくらいであの馬鹿殿が砕けるかよ」
「成程…その傷は光月に負わされた物だったか……」
「そういうてめえは何だ? おでんとどういう仲だ。応えてみろよ、攻撃の手は止めねェが」
「安心しろ…敵に情けを求める程、落魄れてはいない……」
 黒雷帯びたる剛撃が一秒の内に数十と振り抜かれる。
 それに対応出来ている黒死牟もまた十分過ぎる程に異常だった。
 上弦の参が死に瀕して己を乗り越えたのと同じように、然し彼とは別の形で黒死牟もまた限界の向こう側へと行き着いた。
 その成果がこの奮戦だ。
 四皇と切り結べる腕と冴え、得物。そして執念。
 其処に目障りな銀の太陽を加えれば、今の黒死牟を支える全ての出来上がり。
「忌まわしい男だった。息を吸って吐くように、此方の算段を掻き乱す…そんな男だった」
「全く以って同意見だ」
 月の呼吸・拾ノ型――穿面斬・蘿月。
 雷鳴八卦の疾走を止められずに砕け散る。
 猛追するカイドウを相手に防戦一方の状況だが苛立ち一つ顔には浮かべない。
 既にそんな段階は過ぎ去った。
 錆の落ちた上弦の壱…己の柱を見出した剣士の心はそう簡単にブレなどしない。
 砕ける月の残骸に合わせて踏み込む。
 込めるのは裂帛の気合。
 しかし乾坤一擲とは思えぬ静けさを飼い慣らす。
 月の呼吸・壱ノ型――闇月・宵の宮。
 神速の横薙ぎを放ちながらも口は動き続ける。
 故人を偲ぶように、悪態をつく。
「死して尚、毛程もその存在感が薄れぬのも…癪に障る……」
「諦めろ。そういう男なんだアイツは。おれなんてもう何十年と引きずってる」
 カイドウの業物が唾を吐いた。
 いや、違う。
 そう見えただけだ。
 まるで唾でも吐き捨てたかのようにノーモーションで爆ぜたのは衝撃波。
 名を金剛鏑と言うその"小技"が、闇月・宵の宮を押し返しながら黒死牟を強制後退させる。
「嵐だ。誰も彼もを巻き込みながら好き勝手して、その癖一人で何やら満足しながら何処かへ消えちまうのが常なのさ」
 そして地を離れた足が再び安定を得る前に、カイドウの次撃が侍を襲った。
 覇気を溢れさせた八斎戒で行う出鱈目な乱撃に技名はないが、しかし脅威の程度では此処までに見せてきた絶技の数々と何も変わらない。
 カイドウそのものが資本なのだ。
 彼が繰り出すというその時点で大技から小技まで、全ての技が破壊的な威力と速度を得る。
「残された奴は、いつ来るかも分からねェ次の嵐に備え続けるしか出来ねェのにな…! つくづく傍迷惑な野郎だぜアイツは!!」
 まさに天災だ。
 地震が台風の迷惑さを説いているような、何とも奇怪な光景だった。
 遮二無二食い付くので精一杯の黒死牟がもしも鬼でなかったなら、既に彼は戦いについて行けず死んでいただろう。
 打ち合うだけで骨が砕けて臓腑が混ざる。
 これに比べれば己を含め、誰もが鬼の真似事をしていただけだったのだとそう認めざるを得ない。
 ――本物の悪鬼。
 百獣では飽き足らず地獄の果てまで征服を果たした大戦神。
 四皇カイドウ。先刻上弦の参が噛み締めたその威容の全てを、壱たる男は遅れて味わされていた。
「悪態の、割には…」
 しかし食い繋ぐ。
 不格好でも、無様でも一向に構わぬと。
 侍の威厳をかなぐり捨てた泥臭い殺陣で黒死牟は皇帝の前に立ち続ける。
 月の呼吸・漆ノ型――厄鏡・月映え。
 五閃から成る大斬撃で足を絡め取り、その隙間には月の力場を満たす。
「名残惜しそうな、面をする……!」
「惜しくねェ訳がねえだろうが」
 カイドウはそれを、またしても正面突破。
 それもその筈だった。
 彼はそも、撒き散らされる力場の影響を受けていない。
 黒死牟の血鬼術の肝である揺らめく月刃の存在を単純な肉体強度に物を言わせ無視しているのだ。
 彼の肉体に辛うじて通るのは黒死牟が自ら放つ剣技のみ。
 そしてそれでさえ…この巨体を削り切るまでに果たして何百回、何千回繰り返せばいいのか解らない有様。
「待ったぜ、長ェ事な…! だからこそこの東京に来てるって聞いた時にはそりゃあ心が躍ったモンだ!」
 斬撃五閃を八斎戒で薙ぎ払う。
 恐ろしい事にそれが罷り通るのがこの男なのだ。
 純粋な膂力でならばベルゼバブをさえ上回る、まさに武の化身。
 その姿が、掻き消える――来ると黒死牟が認識出来たのはまさに彼の驚異的な武才の賜物。
「しかし何だ? こりゃよォ…! おでんはつまらねェガキに殺され! アイツと因縁果たす筈だったおれはむざむざ生き長らえてるだと!?」
 カイドウが十八番、雷鳴八卦。
 月の呼吸・伍ノ型 月魄災渦。
 振らぬ斬撃という常識外れが辛うじて迎撃を間に合わせる。
 だが必然。担い手の力が介在しない剣技が怪物の力を抑え込める筈はない。
「どいつもこいつもふざけやがって…! このおれをコケにするのも大概にしやがれェ!!」
「………!」
「てめえもてめえだ、目玉野郎」
 力の前に災渦が調伏される。
 次の瞬間黒死牟を撃ち抜いたのはあろうことに雷だった。
 カイドウが怒気を滲ませて彼を睨んだ瞬間、現実の事象としてその巨体から轟雷が炸裂したのだ。
 彼は龍の力をその身に宿す能力者。
 かつては遠きワノ国に、そして今は東京の大地に君臨する龍神なり。
 であれば風雨に雷火、龍の隣人たるそれらを遣えぬ道理は存在しない。
「おでんの刀を受け継いでその程度とは笑わせる。光月の家紋はてめえの細腕には重すぎるんじゃねェのか? あ?」
 雷を纏いながら突っ込んでくるカイドウの姿はまさに荒ぶる神の如し。
 その威容の前では鬼の恐ろしさも霞もう。
 如何な侍の剣でさえ、霞もう。
 現に受け止めただけで黒死牟は吹き飛ばされた。
 次いでカイドウが人型のまま吐いた熱息がそのシルエットを爆炎の中に案内する。
「…大体、『天羽々斬』はどうした。おでんの剣は二刀流、一刀じゃ再現出来ねェぞ」
 黒死牟は強くなった。
 信じられない程に強くなった。
 錆は落ち、その剣は今や全盛期を遠く置き去る冴えを見せている。
 三百年の停滞を乗り越えた彼は、最早上弦の壱として無意味な時を重ねていた彼とは全くの別物だ。
 ――それでも。
 それでも、此処まで力の差がある。
 剣が通らない。
 力で押し勝てない。
 相手の全挙動に翻弄され、苦悶一つあげさせる事が出来ない。
 それが黒死牟の前に横たわる無情なまでの現実だった。
「つまらねェ。とんだ期待外れだ」
 黒煙の中に立ち尽くす黒死牟の影を見つめるカイドウの眼にあるのは諦観だった。
 下らない三文芝居でも見せられたような落胆と諦めが其処には満ち溢れている。
「てめえ如きが奴を騙ってんじゃねェよ雑魚が。おれァ今…虫の居所が悪ィんだ……」
 カイドウを知る者ならば誰もが知る彼の習性。
 極度の精神不安定。
 彼が示す負の感情は、そのいずれもが一秒後には赫怒に変転しかねない地雷に等しい。
「お前はあの"耳飾りの侍"にも"おでん"にも、まるで届いちゃいねェ……」
 静謐のままに八斎戒を振り上げる。
 黒き雷、覇王の象徴がそこに集約されていく。
 それは宛ら、閻魔が判決を下す為に振り下ろす槌のようだった。
 これは裁きの一撃だ。
 身の程を弁えず、天翔ける龍に手を伸ばした下賤な鬼へと下す裁定だ。
「お呼びじゃねェんだ――消えろ半端者がァ!」
 剛撃が天から地へと。
 炎の中に独り立つ黒死牟へと振り下ろされる。
 英霊であろうが粉微塵に破壊し得る、剛力の極致。
 それを以って下される処断は死罪の言い渡しを意味しており。 
 故にこの瞬間、罪深い鬼の生涯は二度目の幕引きと相成った。



「お前は…」
 その筈だ。
 紛れもなくその筈だった。
「お前は……誰を見て戦っている……」
 黒死牟ではカイドウを止められない。
 彼の剣は鬼神の剛撃を押し返せないし。
 彼の脚は怪物の速度を凌駕出来ない。
 此処までの戦いでも散々示されて来た残酷なまでの力の差。
 故に黒死牟の敗北は最早確定事項であった筈なのだが、しかし――
「光月おでんか…それとも、我が弟……継国縁壱か……?」
 此処に理解不能の事態が一つ生まれていた。
 カイドウの一撃が止められている。
 彼が死ねば大業物の一つに数えられるだろう八斎戒が足を止めている。
「舐めるな」
 訝しむように眉根を寄せるカイドウに答えを示すように煙が晴れた。
 炎と煙が引き裂かれて消え、怪物の一撃を受け止めた黒死牟の姿を白日の下に晒す。
「貴様の相手は、私だ……」
 彼は――鎧を纏っていた。
 戦国を馳せる武士のように厳しく。
 その身一つで鉄火場を駆ける人間の無骨と、天命を超えて世に蔓延る鬼の無法とが同居した剣の鎧装。
 それを纏った黒死牟が震え一つ帯びずに立ち、そして光月の傾奇者から受け継いだ『閻魔』の刀身でカイドウを止めている。
「既に常世を去った……亡霊等では、ない……」
 全く以って予想外に過ぎる事態であったがカイドウは冷静だった。
 彼は強者だ。度を超えた予想外は寧ろその思考を冷静にさせる。
 黒死牟が纏った"鎧"、それはいい。
 だが今八斎戒を止めているのは鎧ではなく剣だ。
 黒死牟を打ち据えるその前の段階で足止めを食っている。
 その不可解への解答は、しかしすぐに示された。
 此処までは膠着していた筈の趨勢が崩れる。
 あろうことか押され始めたのはカイドウの側だった。
 時間が経つにつれ強まる黒死牟の力が、単なる気合や根性である筈もない。
“此奴…! 斬撃そのものを何重にも重ねて、増やしてやがるのか……!?”
 黒死牟の纏う鎧は只の甲冑に非ず。
 これは盾であり、それ以上に剣だ。
 斬撃を無限大に増幅する外付けのブースター。
 一振りの剣ではカイドウに及ばないだろう。
 だがそれを無数に重ね、打ち勝てるようになるまで続けたならどうか。
 一枚の紙も折り畳み続ければやがて月へと届くように。
 黒死牟は剣の本道を逸脱した彼だけの奥義で以って、此処にカイドウとの間に存在した性能差をねじ伏せてみせたのだ。
 月の呼吸・拾捌ノ型――月蝕・号哭鎧装。
 大きな別れと大きな出会いを経て磨き上げられた月刀が辿り着いた新天地の具現である。
「私を見ろ、カイドウ」
 雑魚と断じた剣士に押し返されたたらを踏む。
 認め難い現実に瞠目するカイドウへ黒死牟は言う。
「戦狂いならば…それらしい貌(かお)をするがいい……それが、貴様らの流儀というものだろう……」
 それに対し、カイドウは。
「――ほざいてんじゃねェぞ」
 不快感を示すと共に、放つ鬼気の勢いを数倍以上に跳ね上げた。
 此処までの戦いで見せていた武威ですら彼にとっては本気でも何でもなかった。
 格下を屠る為に必要な力だけを出しつつ、光月おでんの刀を受け継いだ後継者の力を見定めていただけ。
 その事実を突き付けられながらも黒死牟は揺らがない。
 鎧を纏いながら、無数の斬撃を纏わせた一刀を構え待つ。
「見る価値がないから見ねえんだ」
 横溢する覇気。
 覇王色、選ばれし者の黒雷。
 黒き呪力とよく似たそれはしかし紛うことなき別物。
 黒い閃きは微笑む相手を選ばないが――黒い稲妻は微笑む相手を、選ぶ。
「リンリン…縁壱…鋼翼…おでん…! 果たし合いてェ奴から死んでいく、消えていく!
 この戦場の、受け継いだ光を振り翳して大口叩くばかりのてめえの一体何処に向き合ってやる価値があるってんだ!」
 是、まさに覇王。
 死に時を失った渇きの王。
 敵も仲間も皆失った孤軍の王に他ならない。
「死ぬのが望みなんだろう。なら良いぜ、その思い上がりごと砕いてやるよ」
 カイドウは確かに戦狂いだ。
 彼は戦場の悦というものを理解している。
 強者と殺し合い、そして叩き潰す悦び。
 命の散華を間近に感じながら演じる果たし合いの美しさを介している。
 だからこそ尚更、彼は笑わないのだ。
 既に見定めた強者達は皆この地を去ってしまった。
 因縁ある連合の王ならばいざ知らず、光月の名を背負って立つには荷が重すぎる異形の侍一匹に何故笑みを浮かべられるという。
「戦争は終わる。おれが勝って、お前らが負けるだけだ」
「そう思うのならば…」
 カイドウは笑わない。
 嘲り一つとしてその顔を彩る事はない。
 渇く――乾く。
 好敵手の去った地上は斯くも物寂しい。
 足りぬ――足りぬ。満ち足りぬ。
 だからこそ怒りだけを抱えて、金棒を振り上げるのだ。
 それに対して黒死牟は不動のまま。
 微笑みを忘れた戦狂いの鬼に向け、言い放った。
「試して、みるがいい……この私に挑む事でな……」



「雑魚が――弁えやがれッ!」
 カイドウが駆ける。
 その速度はまさに迅雷が如し。
 目視だけでも指南のそれを招き寄せた黒死牟の判断は正気とは思えない。
 それでも彼は、彼だけは己が剣を信じていた。
 混沌を知り、喪失を知り、そして日常の価値を知った剣。
 光月の武士から受け継いだ地獄の王の名を冠する妖刀。
 向かい来るのは正真正銘の鬼、鬼神カイドウ。
 相手にとって不足なし。
 黒死牟が息を吸い込む。
 カイドウが、迫る。
 激突の瞬間は勿体付ける事なく訪れた。
「"大威徳雷鳴八卦"!!」
「――ッ!」
 そして決着もまた刹那。
 月の呼吸・拾陸ノ型――月虹・片割れ月と銘されたそれに斬撃を重ねた凶剣。
 それこそが黒死牟の放つ迎撃だったが、しかし拮抗すら相成りはしなかった。
 カイドウの本気は片割れの月を、無数の斬撃が描き上げる虹をも粉砕。
 そのまま勢いの九割を残しながら黒死牟の鎧へと着弾した。
 隕石の着弾でももう少し易しいだろうという程の衝撃に黒死牟の内側が悉く破壊される。
 さりとて月の鎧の本領は此処でこそ真に発揮される。
 号哭鎧装の本質とは接触を媒介して反応する斬撃の爆発装甲。
 触れた物も者も等しく斬り裂く攻防一体、否攻を以って防を実現する剣鎧。
 カイドウの一撃に対してもそれは問題なく作用し、反応した。
「ぐ、ガッ…!」
 こればかりは月の力場を無視出来る強度を持つカイドウでも無傷とは行かない。
 単純に斬撃の精度が違う、深さが違う。
 無理矢理打ち砕こうとすれば肉を刻まれる凶刃の茨道。
 それは狼藉の代償とばかりに鬼神の巨体に無数の刀傷を刻んでいったが――
「これが――」
 カイドウは止まらない。
 それどころか益々強くなる。
 最初通っていた斬撃が余りの覇気に次々と弾かれ始める。
 斬撃をねじ伏せ、その発生による攻撃及び衝撃の散逸も力任せに打ち破っていく。
 号哭鎧装が意味を失い始める異常事態。
 黒死牟がかの混沌・ベルゼバブの姿を思い出してしまうのは無理もない事であったろう。
「こんなもんが、俺がてめえを見なきゃいけない理由か?」
 破茶滅茶にして無茶苦茶。
 道理が理として作用しない怪物。
 月の鎧が過剰駆動の代償として悲鳴をあげ始める。
 慟哭する斬撃はカイドウの薄皮一枚剥がす事なく。
 そしてとうとう、大威徳雷鳴八卦…一時は光月おでんをも沈黙させた剛の究極が黒死牟の鎧装へと到達した。
「度胸は買ってやるよ。だがお前はやっぱり役者じゃねェ。お前じゃ…あいつらの代わりは務まらねえんだ」
 極めた技が力の前に押し負ける。
 砕ける鎧、斬撃の残響が歌になって散る。
 これにて幕引きは確定した。
 黒死牟は所詮"向こう側"には辿り着けない。
 偉大な母のように力強くはなく。
 混沌のように無茶苦茶ではなく。
 鍋奉行のように無理を通す力は持たず。
 そして弟のように全てを圧する冴えをも持たない。
 役者ではないのだ。
 カイドウの言葉が彼の積み上げた全てを否定し、押し潰す。
 黒い稲妻が身の芯まで焼き尽くす激痛の中、黒死牟は現実となって押し寄せた何度目かの敗北を前にして――
「――まだだ」
 只一言、そう呟いた。
 瞬間カイドウの背筋に寒気が立つ。
 次いで覚えたのは驚愕。
 何だ、これは――何故こんな雑魚に寒気を覚える。
 四散するまでの瀬戸際、僅かな一瞬で苦し紛れに刀を振り上げた姿がこうも底知れなく映るのだ。
 カイドウはずっと彼の握る剣のみを追っていた。
 閻魔。妖刀の如き、使い手を自ら選ぶ剣。
 宿敵の忘れ形見であるそれだけに執着していた。
 カイドウが追っていたのは光月おでんの影。
 死を超えて再会し、そしてまたしても決着を果たせなかった男の残像だった。
 だが。
 この時、それが初めて崩れる。
「…てめえ――誰だ」
 違う。
 誰だ、これは。
 これはおでんの剣ではない。
 あの男が、こうも禍々しく繊細な剣など振るうものか――!
「ようやく」
 紡ぎ出されたその言葉を受けて黒死牟は小さく。
 本当に小さくだが、しかし確かに微笑った。
「ようやく……私を見たな、カイドウ……」



 …上弦の壱、黒死牟がこの地で辿り着いた極致の剣。
 月蝕・号哭鎧装。
 攻防の概念をすら崩壊させる、固定観念と侍の誇りの向こう側に辿り着いた彼ならではの妙技。
 しかし彼が得た奥義はそれだけではない。
 黒く、玄く、黎い――まさに一筋の月光を思わす太刀。
 カイドウへ見せそしてその端から砕かれてきた技の数々にさえ遠く劣る、激しさとは無縁の静かなる一刀。
 号哭鎧装を粉砕して勝利を得んとしたカイドウの間隙を縫うように放たれた"それ"。
 必然、回避叶わず巨体に吸い込まれたその斬撃が皇帝の巨体を刻んだ瞬間。
「お、ぉ――」
 海の皇帝は――嵐に出遭った。
「――ぉおおぉおおおおッ、があぁぁああああッ!?」
 カイドウの肉体は確かに強靭だ。
 黒死牟レベルの剣士でさえ傷を与える事は容易ではない。
 にも関わらず彼は今、たった一筋の刀傷を受けて絶叫しながら悶絶していた。
「なッ…んだ、これはァ……!? 痛みが引かねェ…身体の崩壊が、止まらねェ……!?」
 最初カイドウはそれを、斬撃の重複による威力の増幅かと思った。
 先刻自分の攻撃を受け止めた時と同じ要領で本来なら有り得ない威力を実現しているのだと考えた。
 然し違う――これはそんなものではない。
 傷口から体内に滲み入り蝕み暴れ回る斬波。
 かつて"死の外科医"と呼ばれた男が魅せたように。
 "殺戮武人"と呼ばれた男が、天地程も力量の違うカイドウへ一撃当ててみせた時と同じように。
 そう、この斬撃の正体は…
「内部破壊、か…!」
 月の呼吸・拾漆ノ型――紫閃雷獄・盈月。
 単純な威力も破壊規模も他の奥義に劣るが、その分一度斬撃を刻めさえすれば齎す破壊力は唯一無二にして空前絶後。
 鬼の王の領域に踏み入った修羅や、このカイドウと言った規格外の怪物共さえ地に臥させる魔剣。
 鬼滅の刃…そう呼ぶに足る月光の恩寵が黒死牟の敵を無慈悲に灼き清める。
 カイドウが如何に怪物でも、体内にて反響し続ける攻撃を前にしては鬼の王と同じ憂き目を辿らざるを得ない。
 止まらない斬撃に吐血し、遂には膝を屈する。
 それでも月の剣は鬼の生存を許さない。
 無慈悲なる滅びの嵐が目前の鬼神を塗り潰していく。
「――参る……!」
 大威徳雷鳴八卦の直撃。
 三肢と胴の八割を失ったが、一肢残ったのは僥倖だった。
 杭のように地面へ突き立てて踏み止まり、残りの手足が再生するなりそれ以外の部位修復を待たずに踏み込む。
 狙うは必殺。
 謳うは鬼滅。
 盈月の輝きに蝕まれる鬼神の首筋に閻魔を振るう。
 光月に呪われた哀れな怪物を終わらせる為の一撃を、放つ。

 ――月の呼吸・参ノ型 厭忌月・銷り。

    ◆ ◆ ◆

 鬼が立っていた。
 そして鬼が倒れ、天を仰いでいた。
 漂うのは血の臭いと荒く乱れた息遣い。
 勝者と敗者。両者の色はこの上ない程に対比されている。
「何故、と…問うて、おこうか……」
「おれの体内で無限に膨れ上がり続ける斬撃……良い線は行ってたぜ」
 倒れているのは六つ目の鬼。
 胴体を無残に拉げさせながら、彼は問うていた。
 一方立っているのは巨躯の鬼。
 胴に刻まれた二つ目の刀傷から血を零しながらも、その体は未だ暴力的なまでの生命力に溢れている。
「実際…それをされると弱ェんだおれ達みたいな生き物は。
 どんなに外側を鍛えた所で、内臓まで筋骨隆々に育ってくれる訳じゃねェ……其処を直接破壊されちまったらそりゃ痛ェし、死にもする」
 紫閃雷獄・盈月。
 黒死牟が切った鬼札は間違いなくカイドウに対して覿面の一撃だった。
 この怪物を滅ぼせる可能性を確実に内包している絶技だったと言っていいし、それはこうしてカイドウ自身も認める所だ。
 にも関わらず両者の勝敗をこの形に落とし込んだ物は何か。
「ただ――おれには"覇気"がある。極めた覇気は…時に"理屈"さえをも凌駕する」
 それは覇気。
 奇しくも先刻、黒死牟が破った旧い同胞も会得していた技術に依るものであった。
「体内で膨れ上がり、おれを喰らいながら育っていく斬撃……確かに厄介だったし脅威だったさ。
 だからおれは、その斬撃を己自身の覇気で押し潰した。潰し、ねじ伏せ……粉々にして消してやったんだ」
 過剰な覇気に能力は通じない。
 定められた運命を、彼らの力は時に殴り飛ばす。
 死地に追い込まれたカイドウがやってみせたのはそれだった。
 体内で暴れ狂う斬撃を調伏し、こうして再び立ち上がった。
 何たる常識外れ。
 何たる、無法。
 怪物カイドウ。
 ワノ国に棲まう、龍に化ける、鬼神――
「お前、名前は」
 勝者が敗者に問い掛ける。
 慰めの為の質問ではない。
 カイドウがそれをしたと言う事の意味は、もっと重い。
「…人としての名は、とうに捨てた……。今は、黒死牟と……そう、呼ばれている……」
「黒死牟。最後に一つ聞かせろ」
 カイドウは最初、彼の事など見ていなかった。
 彼が見ていたのは刀と、光月おでんの面影だけだ。
 またしても取り逃してしまった決着に対する悔恨の影のみを追っていた。
 孤軍の王の眼を覚まさせたのは、黒死牟が魅せた盈月の輝き。
 カイドウをして死を間近に感じる程の凶剣が――過去に呪われた鬼神の眼に現在(いま)を割り込ませた。
 だからこそカイドウは黒死牟を強者として記憶する為に名前を聞いたし。
 自分に現在の価値を再認識させた剣士(つわもの)にこう問うのだ。
「この世界にはまだ…おれが見るに足るものが残ってるか?」
「何かと思えば、そんな事か」
 カイドウは孤独だった。
 孤軍であり、そして孤独だった。
 彼が出会ってきた強者は皆還ってしまった。
 後に残ったのは聖杯へと続く無味乾燥とした旅路。
 それをひたすら歩き、無感情に槌を振るってねじ伏せるだけの時間。
 それがずっと続く物だと思っていた。
 其処に否を唱えたのがこの黒死牟。
 光月おでんの刀を受け継いだ一体の鬼であった。
 カイドウの問いを受け。
 黒死牟は言う。
 幼子に世界の広さを問われた大人のように――
「知りたいの、ならば…その眼で、見て来るがいい……」
 世界の広さを知った者として答えた。
 世界を駆け回った海賊に、このちっぽけな界聖杯(セカイ)の意味を仄めかした。
 カイドウはその答えを受けて、一瞬硬直。
 しかし次の瞬間に、彼は――
「良い答えだ。海賊(おれ)好みだぜ」
 白い歯を覗かせて笑った。
 其処にはもう孤独の名残はない。
 王の再起を祝福するように、気配が一つ増える。
 倒れ臥した黒死牟とそれを見つめるカイドウ。
 彼らの背後に降り立ったシルエットが一つ。



「大変な役目押し付けといて、私が言うのも何だけど」
 桜の花が、風に合わせて舞い散った。
 カイドウが振り返る。
 黒死牟は呆れを含んだ眼差しを送った。
 そして新顔の剣士は――花咲くように微笑んで。
「最高よ、お兄ちゃん」
 人外魔境決戦、その第二幕。
「おい――躍らせてくれるじゃねェか」
 桜の因縁を此処に晴らそうと、鬼神に向けて鯉口を切った。

    ◆ ◆ ◆



 人外魔境渋谷決戦・『閻魔決戦』 勝者――"百獣のカイドウ"

 次幕『桜花決戦』 ――"百獣のカイドウ"対"真打柳桜・宮本武蔵"



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最終更新:2023年10月18日 23:28