さて、日本国憲法は、すべての国民に対して「能力に応じて等しく
教育を受ける権利」を与えている。しかし、通常の意味としては「能力に応じて」とは、「能力の高い者は、それにふさわしく高いものが与えられ、能力の低い者には、その能力に応じた低いものが与えられる」ということであろう。それに対して、「ひとしく」というのは、「能力の高低に関係なく、同じものが与えられる」という意味と理解できる。従って、常識的には、「能力に応じて、ひとしく」という内容は、論理矛盾なのである。
このことは、憲法草案を議論する段階で既に強く指摘されていた。
世界人権宣言は多少表現が異なる。「能力に応じて」という原則は同じであるが、高等教育に限定した意味で、「等しく開かれている」ことを求めているだけである。つまり、教育を受けることが等しいのではなく、「開かれている」点で等しいことが求められているに過ぎない。
世界人権宣言の文言は、かなり「等しく」の意味が限定されていると言えよう。実は、日本国憲法の解釈が問題になったときに、政府のとった解釈に比較的近いと言えるのである。その政府の基本的な解釈は宮沢説であったと言える。
宮沢説
古典的な理解は、「機会均等」の原則であり、入学試験などで能力を調べ、それに応じた教育を与えることを意味するというものである。その代表的な論者は、憲法学の嘗ての大家宮沢俊義である。『憲法2(新版)』(有斐閣)において、大略次のように、教育を受ける権利について説明している。
ア.普通教育は
義務教育であり、かつ無償と定められており、「権利」をいう実益がないから、ここでの「教育を受ける権利」とは、高等教育に関して意味を有する。
イ.高等教育は少なからぬ経済的負担を伴うから、能力がある場合には貧乏人でも高等教育を保障する旨であり、奨学の方法を講ずる義務があるという意味である。
ウ.「能力に応じて」というのは、入学試験などを課すことは構わないが、経済的・家庭的事情などで入学を拒否することは認められない、という意味である。14)宮沢俊義『憲法2(新版)』有斐閣 p435-436
牧説
宮沢説は、ずっと「政府解釈」でありつづけたが、しかし、それを批判する見解も多数主張されてきた。特に、障害者教育の立場からの批判は強いものがあった。障害者は義務教育の制度からも、ずっと排除されてきた歴史があるからである。
牧は、「能力に応じて」という概念が、差別を合理化する危険を内包していることを指摘しつつ、しかし、他方で、「能力に応じない画一的な教育」などありえないことも自明とする。そして、この解釈として次のように述べている。
人間は、一人ひとり個性的な、独自の存在であり、それぞれの一回限りの人生を生きる。自らの必要が、わたくしたちを内面からつきうごかし、それぞれの進路・生活を送る。だから、一人ひとりの人間の側からみれば、「能力に応じて」ということは、「その人間の必要・要求に応じて」ということを意味するといえる。もう少し一般化して言えば、個性的存在である人間(子ども)の発達の必要の要請に則して教育を受けることが権利の保障である、といえるだろう。15)牧柾名『国民の教育権--人権としての教育』青木書店1977.5.1 p46-47 牧はこの著書では触れていないが、入学試験による機会の制限は可とするのだろうか。また、義務教育だけではなく、発達の必要に応じた教育機会を与える義務が国家にあるとすれば、それはどの段階の教育までなのだろうか。因みに牧のこの考え方は、障害者教育の分野から出てきたものである。
さて、義務教育が教育権の具体化であると考えても、日本では「
就学義務免除」という制度があり、その点では永山のような事例は、かつては少なくなかったのである。当初は義務免除の項目は経済的困難と障害というふたつの理由があったが、経済的貧困を理由とする免除は比較的早くから廃止された。しかし、障害による免除規程は現在でも残っているのである。
Q 「能力に応じて」と「ひとしく」というふたつの命題はどう関係するのか、それぞれ考えをまとめてみよう。
最終更新:2008年07月22日 21:42