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 教育実践においては生徒や学生は本来「主人公」のはずである。しかし、法的な地位としては長く主体的な地位は認められておらず、単なる利用者として十分な権利を行使することができなかった。生徒・学生が短期的にしか学校に存在しておらず、次々と入れ代わっていくという存在であること、子どもであること、学ぶ存在であり十分な知識等が備わっていないことなどがその理由として考えられる。
 義務教育の段階では、これまでは小学校入学時に教育委員会が入学する学校を指定するのか通常であった。一方では国家が教育水準を維持する責任があり、どの学校も平等な教育水準を確保するように国が施策を行うのであるから、その点においてどの学校に入学しても受ける教育は同じであり、従って通学に便利なように教育委員会が指定するのが妥当であると考えられたが、また他方では、国家が主体である義務教育は国家がその妥当な範囲で学校を指定することが当然だと考えられている面もあった。
 しかし、学校の様々な問題が生じてきて、義務教育段階でも学校を選択するという考えが現れ、東京の大都市部では学校選択制度が実施されるようになると、明らかに「主体」は生徒や親に移行する。そういう中で学校における生徒の地位はいろいろな面で変化しつつあるといえる。

 かつて「特別権力関係論」においては、生徒は単なる施設利用者であって、管理者の包括的管理下にあるとされていた。しかし、今では特別権力関係論はまったく古い絶対主義的な理論であるとして、もはや妥当なものとは考えられていない。
 生徒は在学契約の当事者として、平等な権利をもつとされる。むしろ、生徒は学ぶ権利をもっており、教職員は生徒の学ぶ権利を保障する義務と権限をもつと考えられるのである。
 特別権力関係論は、古いプロシャの論理であり、基本的に現在の民主主義的な組織においては成立しないと考えられるが、現在でも、ある特別な組織においては妥当すると考える人もいる。病院における医者と患者の関係や、公民館の管理者と利用者の関係において、特別権力関係論が成立すると主張する人もいるようだ。つまり、病院内において、患者は医者の包括的な指示に従うべきであり、公民館を利用する者も管理者に完全に従わねばならないというわけである。
 しかし、この議論も基本的には成立しないというべきであろう。病院において、インフォームド・コンセントが重要であるということは、医者はむしろ患者の合意の下に治療行為を行うべきものであると考えられていることを示している。また、公民館といえども税金で設置されている以上、納税者である市民の意思を尊重して運営する必要があり、一方的な支配権などは認められるべきではない。
 しかし、問題なのは、論理ではなく実際の運営者がそのような意識をもっていることがある点である。かつて特別権力関係で文部省の立場を説明する書物には、校長は教師を包括的に支配しているのであるから、たとえば校長がたばこを買ってきてくれ、と言ったら、教師はその命令をうけてたばこを買いにいかねばならないのだと説明していたのである。そして、当時すでに特別権力関係論が学説的には否定されていたにもかかわらず、教育行政という現場においては幅をきかけていたという事実がある。つまり、学校現場ではしばしば中央の意思の表向きの表明や学説とは異なる現実が存在しているのである。
 近年の国歌・国旗問題について考えてみよう。
 2005年の卒業式において、東京都立高校では、国歌斉唱時に起立しない教師はもちろん、歌わない教師、そして起立しない生徒がいた場合、その生徒の担任教師が処分されるという事態になっている。そのために、一部の高校では生徒は国歌斉唱の際には起立するが、校長挨拶のときに起立しないという事態が起きたという。これは明らかにそうしたやり方への生徒側の抗議であった。
 これは国歌・国旗の問題とは又別に、特別権力関係論的な発想が行政側に色濃く残っていることを示している。
 学校と生徒の関係は特別権力関係ではなく、国公立も私立も在学契約関係であるとされる。つまり、契約を媒介とした関係であり、それは基本的には合意による平等な関係にあり、そしてそれぞれの役割・権限・責任を契約によって生じているとする考えである。兼子仁によれば、在外契約説にたつ理由は以下のように整理される。
1 在学関係の基本にかかわる学校制度的規定を定めている教育基本法・学校教育法という公教育法規が、国公・私立問わずすべての正規学校の原則としてひとしく適用されている。
2 現行の在学関係は憲法原理上・子どもの人間的性徴発達権たる学習権を保障すべき法律関係であって、学校設置者の側に公教育遂行に関する義務性が強いとともに、生徒等および保護者側に教育要求権をはじめ権利主体性が高められており、生徒等と学校設置者との間には対等な権利義務関係が存すべきものである。
3 子ども・生徒の学習権を保障する学校教育はもはや「教育を施す者の支配的権能」ではなく、教育の非権力性の原理が妥当しており、教育的懲戒に含まれる優越的意思も私学におけると同様で、権力行為と目するには当たらず在学関係全体を戦力関係ならしめるほどではありえない。
4 学校当局に認められる一定範囲における教育上の包括的決定権能も、私学の材芸契約関係と共通するそれにほかならず、生徒等・保護者側の基本的な合意に基づく各学校の教育自治関係であると見られる。50)兼子仁『教育法(新版)』p405-406
 では在学契約はいつ、どのように成立するのであろうか。
 入学に関わる争いは相当数訴訟に発展している。
 ここでは問題を分かりやすくするために、入学試験を受けて入学する場合を想定してみよう。
 次のような事例を考えてみよう。
 通常の高校入試がほとんど終わったあと、二次募集が行われる。これまでの高校入試に関わる中学の進路指導は確実に入れることを念頭において、受験校を決めさせているから、二次募集にまでいく生徒は極めて稀であり、高校側もごく少数の募集を行うに過ぎない。
 筆者の知る事例で、二次募集に応募した受験生に募集要項にはかかれていない「合格したら入学する」旨の中学側の誓約書の提出を求める学校があった。あらかじめ問い合わせをした場合にはその旨の回答があり、またそうでない場合には願書の受け付けの際に要求をし、急ぎ担任教師が書類を作成して提出させるのが通例であったようだ。
 この場合、合格した受験生が他の学校の二次募集にも合格したために、入学を放棄することは契約違反だろうか、それとも違反ではないのだろうか。

Q 上記事例について考えてみよう。

 入学試験における契約に関わって起きた有名な訴訟は、神戸の高校で起きた事例である。ある障害をもった生徒が、あらかじめ体育等が通常ではできないことを申し出て、それでも高校で学習することが可能である旨の返事を得て、受験し、合格した。しかし、体育は必修であり、体育の単位が取得できないと卒業できないということで、高校側は合格を取り消した。それは違法であると提訴した事件である。

 在学契約の性質に係わって、近年明確になってきたことに入学試験に合格してから入学手続をするまでの入学金・授業料の納入及び返還に係わる件がある。兼子仁の『教育法(新版)』が書かれた昭和53年においては、裁判所の判決は、全学徴集及び不返還は学校の教育水準の向上のために使用されるものであって、不当利得ではなく、募集要項にあらかじめ書かれている以上、民法の信義誠実の原則や公序良俗に反しないというする判断であったとされる。それに対して学説は分かれており、判例に賛同する見解と、「入学納付金は実質的に就学・学校施設利用の対価であり、かつ現行の高額納付金の不返還は学習権・学校選択の自由を著しく侵害することになるものとして、相当額の入学取消手数料を超える部分について学校法人側が不当利得返還義務を負うべきである」とする見解とが対立していたとされる。51)兼子仁『教育法(新版)』p409
 しかし、現在ではこの点は大きく変更されている。裁判所の判例は、入学金と授業料および施設利用料との双方を返還すべきであるとする判例と、授業料及び施設利用料は利用対価であるから利用しない辞退者には返還すべきであるとする判例が分かれており、文部科学省は後者の立場で行政指導を行っている。また判例数で言えば後者が多い。52)http://www.manekineko.ne.jp/hy1950/nyuugakukin%20sosyou.html に便利な紹介がある。
 支払う側はできるだけ少なければよく、受け取る側はできるだけ多い方がよい。問題は支払い義務にどれだけ合理的な理由かあるかという点であろう。入学試験はかなり長期的な業務が必要であり、多大の人件費と事務費用がかかる。したがって、そうした費用を受験生が応分負担することは合理的な理由があると考えられる。それは受験料であろう。更に合格者を出したときにはまた、さまざまな手続が生じるのであるから、その費用が発生し負担が生じることも合理的である。しかし他方で実際に入学しない者から、入学してから受けるサービスの対価(授業料や施設費)等を徴集することは合理的な理由がない。
 問題となるのは、合格者が支払う「入学金」という金額の妥当性である。現在の金額は大学によって異なるがだいたい20万から30万円程度の金額を支払う義務があり、その部分は入学を辞退しても返還されないとする大学が多く、判例の多く、そして文部科学省もそれを是認している。しかし、明らかにこの額は入学手続にかかる諸費用を超えている。つまり、辞退者が出ることは大学にとって大きな損失であるから、危険回避および損失をできるだけ緩和する担保料という位置づけと考えられる。また大学側の主張する入学金の位置づけでは、受験生が入学する権利を確保する「権利金」であるとする。

 さてこれをもう少し学校・大学行政の視点で考えてみよう。
 学校の経営が不安定であればそこで教育をうけている生徒・学生の権利は充足されない。従って学校の経営的安定は学生・生徒の教育権のために不可欠である。しかし不当に高い納入金が必要であったり、また入学しないのに多額の費用が返還されないままであったりすれば、それは教育権以前の市民としての権利と矛盾してしまう。
 このふたつの矛盾をどこまで解決するのかが行政や政策の課題となるだろう。国民のためにできるだけたくさんの学校が必要であれば、それは公立や私立を問わず公費で基本的な運営がなされるのが安定にとって最も望ましい。しかし、それは多くの公費つまり税金を投入することであるから、国民のコンセンサスが必要となる。国民のコンセンサスがなくても教育を受けたい者にとっては、納入金あっても機会の保障を望むかも知れない。
 このような点をどの程度のバランスでとるかが常に時代に応じて解かれなければならない課題となる。

最終更新:2008年07月25日 21:36