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8-6-1 少子化と入試の変化

 「競争試験」は、競争に参加を余儀なくさせる社会的な圧力が存在してこそ、機能し得るのであり、競争しなくても進学できるようになれば、競争試験にわざわざ参加する者は少なくなり、本来の選抜機能を果たすことができなくなるはずである
 しかし、1980年代から急速に進んだ少子化によって、入学試験の実態は急激に変化している。かつて「受験地獄」と言われた社会的な世相は失われつつあり、受験すれば必ず合格する「F大学(自由に入れるという意味)」と呼ばれる大学が増加しているのである。一部の上位校を除いて、高校は既に入ってもらうために様々な工夫をする段階になっているし、そうなりつつある大学も少なくない。
 つまり、生徒たちに勉強を強いてきた動機そのものが機能しなくなり、したがって、社会選抜としての入学試験システムは既に崩壊過程に突入したのである。
 入試は事実上個人が選択する人生選択の場への移行しつつあると考えることができる。
 そうした事態は、教育のあり方を当然変化させずにはおかないし、また、個人のみならず日本社会、日本という国家が国際社会の中でどのように生きていくのかが、根本的に問い直される状況になったことも意味するのである。なぜならば、これまでの日本は、教育によって優秀な人材を育成し、資源の乏しい国土の中で、高い資質をもった労働力と、競争力のある技術をもって、他国との競争に打ち勝つことによって、人々の生活を支えてきたと信じられているからである。その要として、厳しい受験勉強があり、日本独特の受験体制がそうした「優秀な労働者・技術者」を生んできたと思われているからである。もちろん、そのこと自体の当否も問われるところだろうが、今後受験体制を維持できなくなったとき、我々はどのような事態に直面するのか、そしてそれを切り開いていくことができるのか、そのための選抜・選択のあり方はどうあるべきなのか、このような問いが突きつけられているのである。
 今さかんに問題として提示されている低学力は、こうした日本教育の基本的な学力形成システム(=受験競争)が機能しなくなったことによって生じていると考えられる。一部の論者が言うように、文部省が自由化政策をとったり、あるいは学習指導要領の内容を減らしたり、あるいは「ゆとりの時間」などを導入したからなのではない。
 当然のことながら、「競争システムの弱体化」に直面して、システムの維持・強化を図る政策も試みられている。その代表が公立高校の単独入試の導入と、中高一貫の公立中等学校の導入である。
 中高一貫の公立中等学校は、どのような選抜的意味をもっているだろうか。
 これが1970年代以降進んだ、大学進学における私立高校の圧倒的優位に対して、公立学校側からの反撃であることは疑いない。しかし、中学は義務教育であるから、通常の入試は実施できない宿命にあり、具体的に進行している事例でも、中学での学力試験を伴う選抜は行っていない。
 神奈川県では、入学者の決定方法について次のように規定している。

 入学者の決定方法については、面接、作文、小学校での学習や生活状況を把握できる資料、さらに、中高一貫校の特色に基づき、工夫された検査(学力検査を除く)など、何らかの資料に基づく選抜を行ったあとで、最終的には抽選を行うなどの方法が望ましい。*40)http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/kokokyoiku/kenritu/chuko/ikkan.htm

 また広島のように、併設型では、中は選抜を行うが学力試験ではない。中から高への無選抜、普通の中学からの入学は選抜となっているところもある。*41)http://www.pref.hiroshima.jp/kyouiku/hotline/kyoukikaku/pailot/pailot.htm正確には、入試を専門に扱う事務があって、特定の日時の入試ではなく、必要書類を送付したあと、さまざまなやり取りをし、一人ずつ採用を決めていく方式である。
 この入試の利点は、丁寧な選考ができること、受験生が、必ずしも、指定された日時に、特定の場所に集合する必要がないこと(ある場所に行く必要があっても、日時を調整できる)、教員が、入試事務から解放されること、等々ある。日本の入試問題として、あまり取り上げられることがないが、教員が入試に関わることによって、教育・研究活動が著しく阻害されているのであるが、この点は確実に解決される。
 しかし、長年、教員が入試に関わって、合格判定行為をしてきたので、そうした意識が強いこと、使い方を間違えると、裏口入学の温床になりかねないことなどの欠点も指摘される。
 しかし、一方神奈川では、「受験競争の低年齢化を招かない配慮が必要であり、学力検査を行わない入学者の決定方法」をとしており、競争の低年齢化だけを問題とし、低年齢ではない競争は期待しているように思われる。
 このように考えれば、中高一貫中等学校は、極めて不徹底な要素を抱えている。
 公立高校の単独入試も、同様なモチーフがある。
 特に首都圏では、中高一貫の私立が受験で圧倒的な優位にたっているから、ともすると公立高校は、競争の埒外に放り出されがちである。公立高校の単独入試の導入は、公立高校を再び、私立と競争できる位置を取り戻させ、公立・私立を含めて、競争による学習の動機付けを復権させようという施策であろう。
 しかしながら、競争そのものが成立する条件が、少子化によって失われつつあるのだから、競争によって優秀な労働者を育成する政策が、逆に非現実的なものにならざるをえないのである。

8-6-2 選択主体の転換を

 では、競争的な試験制度がなくて、日本は国際的競争に伍していけるのだろうか。そういう心配があるだろう。もちろん正確な答は誰にもわからない。ただ、競争を手段として、子どもたちに勉強を強いる条件は消失したことは認めざるをえないし、このことの確認をしてこそ、新たなシステムをう構想できるのである。
 近年の文部省の「自由・ゆとり」の政策を、教育の武装解除として批判する藤田英典による『教育改革』(岩波新書)は、高度成長からの日本の教育が成果をあげたことを、日本の学力が国際的に高いことを引き合いに出して論証している。藤田が引用している日本の高い学力を示す二つの表は、ともにオランダが入っている。藤田は、日本とアメリカ、イギリスの教育改革を比較しているので、オランダについては全く触れていないのであるが、実は、藤田が批判している「自由な教育」の国、オランダの学力が国際的にもトップクラスにあることがはからずも示されているのである。

表2 IEA国際数学教育調査結果(第2回 中間報告値 中学生
順位 算数 代数 幾何 確率統計 測定
1 日本 60.3 日本 60.3 日本 57.6 日本 70.9 日本 68.6
2 オランダ 59.3 フランス 55.0 ハンガリ 53.4 オランダ 65.9 ハンガリ 62.1
3 ベルギー 58.0 ベルギー 52.9 オランダ 52.0 カナダ 61.3 オランダ 61.9
    カナダ 
                 数字は平均正答率

表3
順位 第1回 (70年/ 得点) 第2回 (83年 / 正答率)
1 日本 31点/ 80点満点 ハンガリー 72%
2 ハンガリー 29点/ 80点満点   日本 67%
3 オーストラリア25点/ 80点満点 オランダ 66%*42)藤田英典「教育改革」岩波新書p26:27より

 オランダは、ナショナルカリキュラムも、競争的な入学試験もなく、世界で最も自由な教育制度をもった国である。そして、完全な学校選択の自由が保障されている。そして新自由主義とも無縁である。
 つまり、藤田が批判するように、学校選択の自由化は、必ずしも市場の論理による競争激化に至るわけでもなく、また、学力の低下をもたらすわけでもないのである。
 子どもは本来好奇心をもっており、その好奇心を解放して育てていけば、勉強を好んでやるものなのだ。子どもの知的な好奇心を増進させ、それを学習に結びつけていく学校組織は、学校が教育理念を明確にして子どもに提示し、子どもがそれを選択していくレールによってこそ可能である。
 つまり「学校選択の自由化」の目的は、学校を社会的選抜の手段から、人生選択の手段へ転換させ、競争によって他律的に学習の動機を与えるのではなく、子どもの内部にある学習意欲を引き出し、育てていくことによって、学習の動機を与えるような機関にすることである。社会的な選抜は、学校を卒業した後で、社会自身が行えばよいことである。

8-6-3 選択主体を変える条件

 最後に、現在いくつかの自治体で進められている「学校選択の自由化」の具体的あり方との関連で少し確認しておこう。入学試験を必要としないレベルの学校選択の自由化を行うためには、法律で定め、国家的な規模で実施される必要があるが、現在は市町村レベルで取り組まれており、限界があるものである。今後都道府県や国のレベルで必要な施策が実施されることで、競争原理によらない、本来の知的欲求に依拠した教育、そしてそれに基づく人生選択がなされる可能性が開けてくるのである。そのために必要な条件を整理しておこう。
 第一に私立学校を含めた学校選択である。
 以前は「学校選択」とは、指定された公立学校に通うか、あるいは試験なり、高額な授業料を払って私立学校に通うかの選択が可能であったことを意味していた。現在提起されている「学校選択」は、公立か私立を選択できるというシステムそのものを批判の対象としている。端的に言えば、私立に通うと、公立学校を支える税金を支払い、私立学校に通うための余分の授業料も払わなければならないという、二重払いとなることに対する異議申し立てである。
 一九二0年にオランダで戦われた「学校闘争」も私立学校側からの公費補助要請運動であった。オランダでは、ここでの妥協として、私立学校も一定の条件を満たせば、公費で運営することを保障するシステムを実現して以来、学校選択が実質化したのだった。
 アメリカで、新自由主義的な立場から主張されたバウチャー制度も、私立学校に通わせる親にも公費保障をすべきだという主張があった。
 現在日本の各地で進められている「学校選択の自由化」は、ほとんど私立学校も含めた選択システムを志向しているようには見えない。しかし、公立私立問題も、学校選択の本質的な部分を形成している。言葉を変えれば、「学校設立の自由」の問題とも言える。
 ただし、私立学校の自由な選択の拡大が、社会的格差の拡大に機能しないような方策が必要であろう。
 第二に、学校の固有な教育方針を可能にするシステムである。教員採用、教科書採用、財政保障等々さまざまな問題があるが、これらについては他の章で論じられるのでここでは触れない。
 第三に、学校選択だけではなく、学校設立の自由と学校教育における教授の自由がとも実質的に保障されることである。既存の学校を選択できるだけでは、本当の選択は保障されない。通いたい、あるいは通わせたい学校がなければ、比較的容易に学校を設立することができるのでなければならない。生徒数という条件で公費補助(オランダ)したり、教育委員会との間に契約を結ぶ(アメリカのチャータースクール)方式など、世界には様々な学校設立を容易にするやり方があるが、これまでのような高度な標準的な基準を必須とするのではなく、より柔軟な基準によって学校設立を許可していく必要がある。高い標準が満たされていても、学校設立が自由に行えないことによって失う教育価値の方が大きいのである。
最終更新:2008年08月04日 21:41