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 古い共同体で親を中心とする大人が、子どもたちに習俗や生活技術を教えている時代、そして、豊かな親が子どもに家庭教師を雇って教育を授ける場合には、教育制度は成立していないし、制度についての社会的合意は必要ではない。
 しかし、地域社会、あるいは国家が住民や国民に対して制度として学校教育を提供する場合には、どのような制度にするかについて、住民や国民の間のコンセンサスを形成する必要がある。
 2001年に起きた教科書採択に関する状況を振り返ってみよう。
 10年近く前から、「新自由主義史観」の立場にたつ人々が、日本の歴史教育について大規模な批判活動を展開し、更に自分たちの理念に適う教科書作りをめざし、2002年からの採用をめざして検定にかけた。そして多数の修正を経て合格し、採択のプロセスに入った。いくつかの私立の学校とごく少数の採択区の協議会が採用を決めたが、教育委員会がそれを否決するところが出てきた。そういう中、文部科学省が、教科書採択に不当な圧力があるので、圧力に影響されることのないように採択を決めるようにという異例の通達を出した。
 さて、では「圧力」とは何か、実はこの単純な事実自体にも、多くの見解の相違が見られるのである。
 誰の目にも明らかな圧力は、中国や韓国から寄せられた。政府からの抗議だけではなく、交流を中止するなどの動きが相次いだ。
 また民間の動きも、「新しい歴史教科書」の採択・不採択をめざす両派がそれぞれ集会を行って圧力をかけた。

 扶桑社の中学歴史教科書の採択をめぐり、反対運動の重点地域の一つとされる東京都国立市で二十二日、公正な採択を求める市民団体と、不採択を主張する市民団体が、それぞれ街頭で演説、ビラを配るなどした。
 国立市民などで構成する「国立の正常化を推進する市民の会」は、JR国立駅南口で街頭演説。採択反対派を「民主主義を言いながら、教科書採択に関しては不当な政治的圧力をかけている」と批判。
 また、検定を通った教科書のうち、特定のものだけ採択反対の運動を展開する不公平さを指摘した上で、「圧力に屈せず、公正な採択を」と訴えた。
 一方、反対派の「国立市の教科書採択を考える会」は「扶桑社の教科書は悪いことには目をつぶり、個人は国家のいうことを聞け、という教科書」などと演説。ビラを配って反対の署名を集めた。*52)採択めぐって両派街頭活動 東京都国立市(産経新聞)2001.7.23 http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku2/html/13723news02.html

 このように教育意思といっても、国、自治体、学校、親のレベルがある。そうした集団・組織の意思が複雑に絡み合っていると言える。したがって、どのような意思形成が望ましいのか、十分に考える必要があるのである。国レベルでは、文部省や議員が立案し、国会で決める。選挙された議員によって構成される国会で決めるということで、国民が決めているという制度が、とりあえず実現していることになる。この点については、2で扱う。
 しかし、自治体の場合には、多少問題が錯綜している。
 行政機構の一部である「教育委員会事務局」が、文部省に相当し、地方議会が国会に相当するという意味で、国レベルと同じであるが、それに加えて、「教育委員会」という行政委員会が存在するのである。
 この点については、3で扱う。
 学校の教育意思形成については、多様な形態が存在する。
 文部省の位置づけでは、文部省-国会という形に対応する意思形成機関は存在しない。学校の意思は、校長が権限を有しており、職員会議は諮問機関である。無理に言えば、職員会議や各種委員会が、文部省等に相当し、校長が国会に相当する。しかし、明らかに校長は、総理大臣にも相当するから、校長は、立法者であり、かつ、行政の長でもあることになる。
 また、通常、学校では親の意思は、学校の教育意思形成には関与しない。PTAなどが実質的な意思形成に対する権限をもっていることは、ほとんどない。
 しかし、ヨーロッパでは、通常、親や生徒を含む「学校協議会」が意思決定をする場として認められ、機能している。この点については4。
 生徒の意思形成は、児童会や生徒会、自治会である。しかし、これも、学校の意思形成だけではなく、生徒の意思形成機能としても、かなり弱いものになっているのが現実であろう。
最終更新:2008年08月04日 21:51