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 さて遺伝学説は実際に、「知能テスト」の合理化として機能した。特にヨ-ロッパでは知能テストは、上級学校の進学を決める資料として利用されたことがある。
 しかし、人間の発達に関する遺伝的考えかたは、他の要素と結びついて発展した。
 ひとつは、知能テストの創造、発展である。
 知能テストは、フランスの心理学者ビネーが1904年に最初に作り上げ、第一次大戦のときに、アメリカ軍が応用して以来、国際的に広まったとされる。知能テストは、国民教育制度が成立して、国民全体が学校教育を受けるようになったことを背景としていた。フランス政府は、義務教育になって、学校教育についていけない生徒が増大し、その原因が先天的な知的障害にあるのか、あるいは家庭の状況にあるのかを判定する基準作りを、ビネーに依頼したのである。ビネーは、知能を、身体・筋肉的反応の能力と切り離し、問題を判断し、推論し、解決する能力と考え、年齢とともに発達すると考え、その年齢にふさわしい数値を「平均」とし、それよりも高い(上の年齢に相当するレベル)数値を「上級」、低い数値を「遅滞」として、「遅滞」を援助必要な者と認定するように、テストを作成した。
 アメリカ・スタンフォード大学のターマンが、ビネーテストを精緻化し、ビネーでは3段階のおおざっぱは分類であったものを、100段階の指数で評価できるように改訂した。100を基準とする知能指数IQである。当時アメリカが、第一次大戦に参戦するときに、ごく少数の軍人しかいなかったために、急遽兵を募集したが、その中から将校を選抜するために、知能テストを利用し、それが大きな成果を納めたことから、知能テストの社会的評価が高まったと言われている。知能テストが、固定的で遺伝的である知的能力を計測できるという「仮定」が、この時から生まれたとされる。

 これも、国民皆兵制度と結びついていた。
 ヤングというイギリスの社会学者は、知的な能力をもつことが社会的に成功する条件になっている現代社会では、世代的に遺伝してますます知的能力の格差が広がり、それが強固な支配階級を形成していく社会を描いている。(ヤング「メリトクラシーの興隆」)
 また1970年代に、アメリカで黒人の知能は民族的に低いとする学説が現れ、大きな論争になった。日本でも「人間の知能は80%遺伝で決っている」という教育改革案がでたことがある。このように知能テストは単にそれ自体だけではなく、社会的に影響をもっている。
 知能について様々な定義がある。
1 知的能力
2 先天的な知的能力
3 知能テストによって計測された能力
 知能を積極的に認める人は、多くの場合2の立場を前提にしている。先天的で文化的な影響、環境の影響を受けていない知的能力があり、それが出産後の発達を大きく規定するという立場である。
 知的な能力が、先天的な素質として存在していることは疑いない。最近の遺伝学の進展によって、人間の遺伝的な詳細が明らかにされつつあり、次第に遺伝子レベルでの先天的な資質が明確になるだろう。しかし、先天的に「学力」をもって生れる人間が、絶対に存在しないこともまた疑いない。
 知識は後天的にのみ獲得される。「学力」は資質を土台として、環境や様々な影響を受けながら、本人の意欲に基づいて獲得される。その中でまた人間の内的な資質も変化していく。
 基本的な問題は二つある。
 第一に、生得的な能力は仮に存在するとして、それを後天的に獲得されたものと分離して計測することが可能か、という問題。可能であるとする人は、言語を使用しないテストを考案し、そのため知能テストは図形を使用したテストが多い。しかし、図形の説明や問題は言語によらざるをえないから、この説明は不十分になる。また知能テストが練習効果があることが知られており、それは先天的な能力であることと矛盾する。結局この批判に対しては、「知能は知能テストによって計測される能力である」という定義で逃げてきた。しかし、これは完全に同義反復である。
 第二に、生得的な能力は、仮に計測可能だったとして、どのような教育的な意義があるかという点である。知能テストは、診断的な意図と選別的な意図の二つの利用が成されてきたのである。現在の日本では知能テストは、学校教育ではあまり実施されず、小学校入学のときのクラス分けや、養護学校への入学を決める判定材料として実施されている。特別の事情がない限り結果は知らせない。結果を知らせないテストに、意味があるだろうか。そして、知能テストを結果を、授業の問題を解決するための指針とし利用している学校は、ほとんどないと思われる。
 小学校入学時の知能テストについては、大きな問題を生じさせる。知能テストが結果が低い場合、教育委員会は親に「養護学校」や「特殊学級」に入ることを勧めることが多いが、親がそれを望まなかったとき、普通学級に入れるか否かの「決定権」は誰なのか、法的には明確でない。そのために、それぞれの立場や考え方、力関係などによって決ることになる。
 この点の解明が、法的にも教育的にも必要である。
最終更新:2008年08月16日 10:56