神の鉄槌の振り下ろされる先 Der Ring des Nibelungen.
1
『北欧神話』。
文字通り、北欧において信仰されていた神話だ。
民俗学的な観点から言えば……世界の誕生から始まり、神々の伝承が語られ、そして繁栄をきわめた神々が争いによって零落し世界が終わる。しかしその後に新たな支配者と人民が生まれるだろう――といった、実にスタンダードな再生神話を備えた神話体系だ。
魔術的な話をすると、ルーン魔術と呼ばれる魔術形態も元をたどればこの神話に行き着き、西洋魔術師は十字教の術式でなければ大半はこの形態の魔術を使っているといっても過言ではない。
だが一つ。
北欧神話にはさらに『奇異な点』が存在する。ほかの魔術体系には存在しない点だ。
『運命』。
北欧神話において、その言葉はかなり重要な役割を持つ。
もちろん、どの神話にも『運命』という言葉は登場する。十字教でも死者の数は定められていて、人の外たる天使が人を殺めれば世界のシステムに歪みが生じてしまう。
だから、北欧神話において特異なのは『運命』というものの扱い方だった。
絶対的『すぎる』のだ。
世界の全てを支配する隻眼の老人も、規則の抜け穴を通り抜けるトリックスターの悪神も、結局は決められた宿命の元に散った。一度決められたレールは、誰でも覆すことができなかった。
それが『運命』。
そして、魔術世界において神話とは突き詰めて言ってしまうと『再現可能な現象』でもある。
オリジナルと同等のものは現代の技術では不可能だとしても。
もしも誰にも克服不可能な『運命』が部分的とはいえ『再現可能な現象』だとしたら。
それは確実に――『最強の魔術』と言えるものだろう。
2
その日、
必要悪の教会《ネセサリウス》は慌しい雰囲気に包まれていた。
多くのシスターや神父がいそいそと教会内を駆け巡っている中で、その少女はコツコツと革靴の靴音を立てて急ぎ足でとある場所へ向かっていた。
「聞きましたか」
ハーティ=ブレッティンガム。
元拷問官にして、現在は 必要悪の教会《ネセサリウス》にて活動している少女だ。
肩のあたりで切り揃えられたブロンドの髪の向こうの無感情な瞳が印象的な少女だが、最も印象的なのはその服装か。
全身の八割が露出した扇情的――というには幼すぎるが――な 拘束服《ボンテージ》姿。幼い首筋にはゴツゴツとした物々しい首枷がつけられており、ともすると彼女を奴隷のようにも見せるが……、両手の枷を繋ぐ様に伸びた鎖はまるで踊り子のベールのようでもあり、全身から溢れる自信に満ちた雰囲気は、彼女が単なる被虐主義者でないことを示している。
「ええ、もちろんッス」
それに返すのは
ヴィクトリア=ベイクウェル。
彼女もまた、純朴そうな表情とは裏腹に血みどろで命の駆け引きをする 必要悪の教会《ネセサリウス》のエージェントの一人。とある事件をきっかけにハーティと共に活動することが多くなり、最近はすっかりハーティのパートナーを自認するようになっていた。
見た目はブロンドの髪を無造作に伸ばしただけの素朴な容姿の少女だが、彼女もまた身につけている服装は異様だった。一昔前の日本の女学生の制服――スカートが踝丈まで伸ばされている、いわゆる『スケバン』の格好だ。しかも、それが妙に様になっている。
「……状況は、あまりよくないようね」
苦々しい表情を浮かべたままのハーティに、ヴィクトリアは首肯だけで返す。普段は天真爛漫といった風体の彼女のその様子が、端的に状況の悪さを物語っていた。
『やあ! 景気が悪そうな顔してるね! 世界恐慌でも起こったのかい!』
そんな二人の後ろから、陽気そうな声がかけられる。
ヴィクトリアとハーティが弾かれたように声の主の方へ振り返ると、そこには二羽の鴉の人形がバサバサと羽毛と思しきパーツをばら撒きながら飛んでいた。
『やだなあムニン! 景気が悪いわけがないだろう? だって僕ら、この間ライン川で「黄金」を発見したんだよ!』
『ああ! こりゃしまったなフギン! そういやそうだった! みんな、そのせいで景気の悪そうな顔してるんだったな!』
「……くだらない三文芝居はやめてください。今私は気が立っているのよ。……ポーラ」
そう言って、ハーティは懐から鉄槌を取り出し、すっと空を切る。
それだけで、何もなかったはずの空間に切れ目が入って黒子姿の女が虚空から浮かび上がった。
全身を黒い貫頭衣で多い、顔自体も同色のベールで覆っている女性だ。全身真っ黒の上、唯一見えている口元も黒いルージュが引いてある。肌は色白なので、口元と僅かに露出した細い指先とのコントラストが妙に目立つ魔術師だった。
見れば分かるように、自身の霊装を介してしか会話できないという 必要悪の教会《ネセサリウス》を構成する魔術師を代表するような典型的『社会不適合者』である。
「……貴女はあくまで通信担当。その程度のルーン魔術、門外漢の私でさえ見破れる程度のものでしかないですよ」
『おお、こわいこわい! ムニン、僕たちの諜報で仕事もらってるくせにハーティ嬢は相変わらずエラソーだね!』
『言ってやるなよフギン! それ言うとハーティ嬢から「お前だって情報処理は部下任せだろ」ってツッコミが飛ぶぜ!』
「まあまあ、ここで立ち話もナンッスし、本題に入りましょう」
このままだと味方同士で魔術戦(といっても、後方支援タイプのポーラとバリバリの過激派であるハーティとでは戦闘にもならないが)をはじめそうな二人の間に、ヴィクトリアが割って入る。最近はこんな具合に拷問官サマと他の教会魔術師との折り合いをつけさせるのも手馴れてきたスケバンである。
改めて歩きながら、ハーティは黒子姿の女――ではなくその周囲を飛び回っている二羽の鴉に問いかける。そうしないと、目の前の彼女は『誰に向かって話しているんだい?』『ハーティ嬢はまだ頭が眠っちまってるみたいだな!』と取り合ってくれないのだ。
「『黄金』関連の続報は?」
『うんうん! まずはそこだよね! それじゃあムニン!』
『ほいきたフギン! まあ正確に言うと俺らの情報じゃなくて、「俺らを経由して部下どもが解析した情報」なんだけどな!』
『それは言わない約束だよムニン!』
そんなことを言いながら、フギンはバラバラとひときわ激しく飛び回る。ボロボロと、黒い布切れがばら撒かれる――が。
ただばら撒かれているわけではない。落ちていった布切れは、ひらひらと舞い散りながらも不思議と空中で一塊になり、一つのスクリーンのようになる。
そして、フギンの瞳を構成するビー玉から光が照射される。
これがポーラの扱う霊装――『フギンとムギン』の特性の一つだった。
『フギンとムニン』とは、北欧神話において主神オーディンの先触れとして情報収集を行っていた二羽の鴉の名だ。ポーラはこれを『情報を互いに送受信する媒体』と解釈し、フギンの布とビー玉から取得した音や光景をムニンが受信し、それを展開することで遠隔地の情報を取得することができる。
難点として『得られる情報が無差別すぎる』というものが存在しているのだが、それはこの霊装を扱うプロであるポーラの情報取捨選択などで大分軽減されている。彼女もまた、一角のプロということだ。
映像を展開し終えたフギンとムニンが、話を切り出す。
『ライン河流域に突如発生した「黄金」を監視していたところ、その監視網に引っかかった魔術師がいたんだぜ』
『魔術師の名前は「ジークフリート=ドラッヘン」。北欧神話系の、魔剣の術式を主に扱うフリーの魔術師だよ。とはいえ、最近はとある結社に肩入れしているようだけどね』
フギンとムニンの言葉の通り、羽毛のスクリーンには屈強な体躯の男が河の中から出ていく映像が映っていた。両腰と背中に計三本の大剣を差し、さらに全身に赤い刺青を彫った姿は、紛れもなく『魔術師』だ。魔術的な細工が施してあるのか、手のひらサイズの古めかしい袋を手に持っていた。次に場面が切り替わり、水中の映像が流れる。河の中にあったはずの黄金は、跡形もなく消えていた。
「……とある結社、ッスか?」
『ジークフリートの足取りを追ったところ、ヤツの背後にいる組織も見えてきた。名前は「虹の橋を渡る者」。「アスガルド」と呼ばれる主神の居城が存在する世界を発見してテクノロジーを手に入れることを目的とした魔術結社だ』
スクリーンの映像が切り替わり、細かな数値が記された図が表示される。「虹の橋を渡る者」の組織的な戦力を表している図だ。ハーティとヴィクトリアは、軽くそこに目を通していく。
構成員は十数名。主要な術式は北欧神話だが、結社の構成は『黄金』系の流れを汲んでいる。リーダー格の魔術師が一人、幹部級の魔術師が二人。いずれも清教のブラックリストに載っている魔術師だ。
「……異世界渡航者になりたいってことッスか? でも、いくらなんでも位相の違う世界に飛び立ちたいっていうのは無茶すぎないッスか?」
『連中は、アースガルドの住人であるワルキューレ達が下界にしばしば降りてきたことから、アースガルドの入り口……「ビフロスト」とかに「位相」を変換する為の機能が備わっていた、と考えているみたいだよ。その為の術式を開発しているらしい』
「……それで、その術式の開発とやらは上手くいっているの?」
さらりと説明したフギンに、ハーティは静かに問いかける。
総合的に言ってハーティ達がいつも相手をしているような『愚かな行動目的を掲げた背信者』だが、『黄金』を使っているという一点が、事態のややこしさを加速させていた。
ジークフリートが回収したと思われる『黄金』は、『美神の涙』という術式によって生成されたものだ。この『美神の涙』は正体不明の第三者から『誘拐者』と呼ばれる魔術師に伝えられたものであり、正体不明の第三者はここ最近連続して起こっている『成功すればイギリスに破滅を齎す性質の事件』の黒幕の可能性が高い。
その黒幕が絡んだ『黄金』を回収したということは、当然『虹の橋を渡る者』が黒幕と繋がっている可能性も否定しきれない。そしてその可能性が正しいものだった場合、普段なら『愚かな行動目的』と切り捨てられる目標も、『結果的にイギリスを破滅に導きかねない』性質を持ってしまう。
そんな懸念を孕んだ疑問にムニンはあっさりと、
『さあな。そこまでは俺達の情報網にも引っかからなかったぜ。『黄金』が単なる詐欺の為の道具なのか、何か大規模な術式の霊装の材料なのかも今のところは分かっていないな』
「不明ッスか。肝心のところが分かっていないっていうのは正直キツいッスね……」
「ジークフリートのその後の足取りは?」
『掴めていないぜ。どうやら奴さん雲隠れしちまったようだ。イギリスから出ていないのは確実だと思うが」
「……どうするッスか、ハーティ。まず『虹の橋を渡る者』への斥候から始めるッス?」
ヴィクトリアの問いかけにフギンが首(?)を振る。すると、スクリーンの映像が切り替わる。
映像には紳士風の青年が馬鹿笑いしながら炎を振り回しているのが映っていた。
『そっちについては問題ないよ。クリストファーが先行してくれているからね。「久しぶりの対結社戦だーっ!! !!」ってはしゃぎ倒していたから、それなりの成果は持ってきてくれると思うけど』
「(……そういえばあのエセ紳士、この間コーンウォールで財閥の娘とよろしくやっていたとか言ってた気がするんスけど、あれはどうなっていたんでしたっけ……?)」
「それでは、私たちの今回の目的は?」
ブツブツと呟くスケバンをよそに、ハーティはフギンとムニンに向き直って問いかける。対する二羽の回答はシンプルだった。
『残党処理』
『ジークフリート=ドラッヘンは結社の外部の人間だ。そしてクリストファーの術式は尋問には向いていないし「虹の橋を渡る者」を叩き潰したところで、それ以上の情報は得られない可能性が高い。そこで、お前達には「虹の橋を渡る者」の残党を尋問して、ジークフリートを追い詰めてもらいたいってわけだ』
要するに、拷問官ハーティ=ブレッティンガムの面目躍如ということなのだった。スケバンは隣から漂う歓喜のオーラに冷や汗を流しながら言う。
「……なんか急速にハーティの目が輝き始めたんスけど。これ、どう責任取ってくれるんスかポーラ」
『俺らポーラじゃないしぃーフギンとムニンだしぃー』
『だからポーラが悪いわけじゃないしぃー』
「だぁークソ!! 誰も腹話術にツッコまないのを良いことに霊装に責任転嫁しやがったッスっ!?」
3
「やあ、遅かったじゃないか二人とも!」
現場と思しき家屋は、完全に無傷だった。結社相手の戦闘があったとは思えないくらいに穏やかな静寂を守っている。
何の異変もないことが、既に異変でしかない状況。
そんな不自然な空間で、栗色の髪を持つ紳士然とした青年は朗らかな笑みを浮かべていた。
「……クリストファー、相変わらずの火加減ッスね」
「まあね。ぼくはこういった面も含めて『対結社戦のスペシャリスト』な訳だから。仕事も完璧に終わらせているよ」
呆れたようなヴィクトリアの台詞に、クリストファーと呼ばれたジャケット姿のエセ紳士はそんなことを返した。
クリストファーの扱う魔術は、簡単に言うと『聖火崇拝』を軸にしたものだ。ある面で炎というのは神聖な意味を持つ。たとえば魔女狩りにおける『火炙り刑』というのも、元をただせば『穢れた邪悪な背信者を聖なる炎で清める』という宗教的な意味を含んでいるのだ。
クリストファーの扱う魔術――『殲滅せよ、主に背きし椎端を《セイクリッドフレイム》』は、魔女狩りにおける炎の『聖なる役割』を神の子の象徴とされる十字架に対応することで、『十字』の形状のものから炎を放つ術式となっている。
そして、聖なるものから放たれた炎には聖なる力が宿る。
この術式では、自らに敵対するものを『聖なる存在に抗う神敵』と定義し、それのみを攻撃しそれ以外には一切の被害を与えない――そんな『対象選別』に応用していた。
無差別に広がり敵のみを焼き殺し、他の一切には何ら被害を与えない術式。
それが、クリストファーを『対結社戦のスペシャリスト』にまで押し上げている戦力の一つだった。
「それで、残党は?」
「焼き加減はレアで止めておいてあるよ」
「死んでなければそれで良いですけど」
「仕事が終わったのなら、ぼくはこれで。この後も予定が立て込んでいるんでね。……あのクソ女狐が……」
家屋の焼け跡に進もうとするハーティの背中に、クリストファーはそう声をかける。『予定……?』と首を傾げかけたヴィクトリアだが、なんかそれを聞いたら藪蛇そうなのでスルーすることにした。スケバンの地雷探知能力はかなり向上していた。
「……半死半生、といったところね」
家屋の中には五、六個の肉の塊が転がっていた。一人は辛うじて息をしているようだったが、他は全て動かない。クリストファーの魔術は質より量を優先しているので殺傷力は高くなく、精々重傷を負わせる程度が限界なのだが、その程度の火でも呼吸器を炙れば殺すのは容易だったりするのだ。
生き残っている人間に関しても、舌を焼かれ詠唱ができなくされた上で、皮膚を溶かされ身振り手振りによる魔術的記号も作れないようにされていた。――尋問役のハーティが到着するまで、ありとあらゆる方策の『悪あがき』を潰す為に施したであろう『処置』だ。
そんな光景を見て、ヴィクトリアは感心しながら言う。
「クリストファー、火加減上手くなったんじゃないッスか? 最近、問答無用の結社戦以外の任務を任されているって言っていたッスけど、その影響ッスかね?」
「何でも良いわ。私は私の仕事をするだけです」
そんなスケバンとは対照的に、眉ひとつ動かさずにハーティは死なない程度に火傷を負った男に近寄って行った。そしてその白魚のように細い指で顎を持ち上げると、何事かを耳打ちしていく。
「始まったッスねー……」
此処から先は 拷問官《ハーティ》の領域である為、ヴィクトリアにできることは少ない。もちろん、ハーティもそれを織り込み済みの上で、『仕事』の間はヴィクトリアに護衛を任せたいという考えなのだろうが……、
「……忘れられている気がするんスけど、私は本来後方支援専門であって『拷問』中の護衛をするような魔術師ではないッスよ……?」
とはいえ、文句を言っていられる状況でないのも事実である。ヴィクトリアは仕方がなく懐からカーペットを取り出し、床に広げる。彼女の扱う『幻影の王』という魔術は、北欧神話においてフレイが人間界ミッドガルドにて王を務めていた時の伝承を利用したもので、フレイが人間界ミッドガルドを去った後、国の有力者が塚を築いて金銭を納めることでそうしていた三年間もフレイが治めていた時と同じ平和を齎した――というエピソードから、『塚』状の神殿を築くことでフレイの幻影を召還し、それを操る術式となっている。
呼び出したフレイの幻影は『既に人間界にはいない』フレイであるがゆえに殺すことはできず、フレイの幻影であることから魔術生命体を生み出す過程で未だ解析できていない魂を生み出すことができるのと同じように、彼が持っていたと言われていながら未だ解析が出来ていない『接続術式』を部分的にではあるが再現している。この為、ヴィクトリアが作成した普通のフレイ関係の霊装を『幻影の王』に振るわせるだけで、特別な威力が発揮できる――というからくりが出来上がっているのだ。
だが当然、『塚』を壊されれば術式は簡単に終わってしまう。もちろんヴィクトリアも『塚』には幾重にも防御術式や隠蔽術式は施しているのだが、それでも明確な弱点が存在する魔術師というのは脆い(『弱い』のではなく、『脆い』のだ)為、本来なら後方支援を担当しているのが役割的にも正しいのだが……。
「……まあ、相棒が武闘派じゃ、それも無理な願いッスかね……」
残念ながら、彼女の相棒は現場で悪い魔術師を直接 拷問《オシオキ》するタイプの魔術師なので、後方支援に回ることはできなかったりするのだった。清教のブラックさに戦くしかないスケバンである。
無意識に武闘派たるハーティの『相棒』というポジションにいることを前提としているあたり、彼女も実はまんざらでもないのかもしれないが、今そこにツッコめる人間は二重の意味でいなかった。
「さて、設置は完了。あとは配置につくだけッスけど……」
と、そこでヴィクトリアはあるものを目にした。
それは、一つの通信用霊装のようだった。古びた羽ペンと羊皮紙が、ポツンとそこに置かれている。
どうやら北欧神話における『神託』を応用したものらしく、通信内容が自動的にペンで書かれる仕組みらしかった。
ヴィクトリアはすぐさま古代ヨーロッパ然とした美丈夫を呼び出し、警戒態勢にあたらせる。
「これは……? 救援要請ッスかね? 友好関係にある結社に助けを求めようとしたとか?」
もっともこの分では具体的な救助要請を出す前にクリストファーが片をつけたようだが……と思いつつ、ヴィクトリアは内容に目を通す。
『幻影の王』は自動操縦モードだ。少し前に自動操縦用思考ルーチンの開発に成功したので、こういうこともできるようになったのであった。
「えーと、どれどれ」
霊装に書かれた文書には、こんなことが記されていた。
『しくじった。どうやら清教に嗅ぎつけられたらしい。援護を頼む』
「……? 救援要請、成功してるんじゃないッスか? となると、相手の結社から無視を決め込まれた……?」
怪訝に思いながら、ヴィクトリアは続きを読み進めていく。
『やってしまったな。私達としても、貴様らの救援をしたいのはやまやまだが、流石に清教から派遣された「対結社戦のスペシャリスト」を相手にするのは分が悪すぎる』
『待て。この霊装が清教に見つかれば、お前達の居場所も逆探知される恐れがあるんだぞ!?』
『それについても、既に対策が済んである』
「……対策……?」
きな臭い話になって来たなと思いつつ、さらなる情報を読み取る為、ヴィクトリアはさらに視線を進めていく。
その下には、こんな文章が並んでいた。
『そもそも、こちらから提示された「思考によって文章が描かれる」という回りくどい通信霊装の仕組みに違和感を覚えなかったのか? 霊装と貴様らの思考の間に築かれた「ライン」を元手に、「マーキング」されているとは思わなかったのか? ……「そこ」は既に「対象選別」を済ませてあるよ』
そして文章の最後は、こんな言葉で締めくくられていた。
『もっとも、神の鉄槌を受けることになるのは貴様らではなく――貴様らを殺した後の追手たちだろうがな』
瞬間、ヴィクトリアの背筋に冷たいものが走った。
心理的なものではない。
上方に出現した『魔力』の余波に、魔術師としての感覚が否応なく警鐘を鳴らしているのだ。
ハーティはそれに気付いていない。周囲に警戒していたヴィクトリアだけが、そのことに気付けている。
「まずっ、ハーティッ!!」
思わず、ヴィクトリアは声をあげた。
同時に、『それ』が振り下ろされる。
――次の瞬間、『虹の橋を渡る者』のアジトはまるで特撮映画のミニチュアのように粉砕されていた。
4
どこかぼんやりとした意識の中、ヴィクトリアは覚醒した。
あの瞬間、咄嗟に『幻影の王』に上空から来る『衝撃』を相殺する為力を振るわせた結果、何とかヴィクトリアは無事だった。もっとも、衝撃に衝撃をぶつけて相殺した結果、はじけ飛んだ『余波』のせいでそれなりのダメージを負ってしまったのだが。
「……クソったれ。こんな、攻撃……私が止めてなかったら、地盤ごと粉砕されかねない威力だったッスよ……?」
個人レベルで扱う魔術の威力には、どうしても限界がある。
たとえばクリストファーの術式であれば、五〇〇メートルほどの射程距離を誇るかわりに、人一人消し炭にすることすら出来ない出力に甘んじている。ヴィクトリアの相棒でもあるハーティなどは、確かに対魔術師戦ではかなりの強さを誇るが、それはあくまで対魔術師の強さであって、こういった分かりやすい出力の強さは持たない。
「つまり……私と、同じタイプってワケッスか」
ヴィクトリアの『幻影の王』と同じような――『裏技』によって、普通では有り得ない出力を実現させているタイプ。
そんな相手には、今までヴィクトリア達も何度か遭遇してきた。大望遠鏡《テレスコープ》を用いた『術式の星座化』、シェフィールド大学をバベルの塔に見立てた『天使の力《テレズマ》貯蓄庫』、そして複数の人間の魔術を統合して出力を上乗せした『美神の涙』。今回もおそらく、何らかの方法で術式の出力を水増ししているはずだ。
「……っと、いけないッス。ハーティ!? ハーティ生きてるッスか!?」
そこで相棒のことを思い出したヴィクトリアは、あんまりにもな言い方でハーティに呼びかける。
「…………生きてるか、とは随分な言い方ですね……」
果たして、ヴィクトリアの予想通り、ハーティは陰鬱そうだがしかししっかりとした声で応答した。とりあえず無事なことに安堵するヴィクトリア。
「……あれ、でも何か声がくぐもっているような?」
「そこなんだけど、ちょっと面倒なことになってしまったの。怪我はしていないのですが……」
「どうしたッスか?」
「……瓦礫に、埋もれてしまって」
ハーティの方に近づいてみると、屋根やらの建築材が折り重なるようにして山を形作っていた。そして、その横から小さな少女の下半身だけが突き出ている形になっていた。
……非常に扇情的と言えなくもない体勢だが、此処にいるのは女二人。そういう視点で物を見る人間は此処にはいない為、一二〇%笑いものだった。
「ぷくくっ、くすくす、ハーティっ、アナタそれっ……」
「笑っているんじゃありません!! 早くそこの木偶の坊にでもこの瓦礫の山をどかせなさい! 腕まで固定されているから力が入れ辛いんですよっ!!」
「はいはい、分かりましたよーすぐに出してあげま、」
と、暢気に笑いながら『幻影の王』を動かそうとした、その瞬間だった。
ゴバッッ!! !! !! と。
彼女たちの四方八方から、『緑』が吹き荒れたのだ。
「クソっ、ぬかったッス、まだ襲撃は終わっていなかったんて……っ!?」
言いながら、ヴィクトリアは『幻影の王』の右手にある細身の剣を振りかぶらせる。
轟!! !! と暴風さえ発生させるような一振りは、その余波だけでハーティの上にのしかかっていた瓦礫の山を乱暴に吹き飛ばした。
当然、こんなことをすればハーティにも多少のダメージが入るはずだが……、
「っ!! ヴィクトリア! この馬鹿!! 何を考えているんで、……チッ!! 貴女がもたもたしているから!!」
「すみませんッスって!!」
ヴィクトリアに厳しい檄を飛ばしながら起き上がったハーティには、砂埃こそついているものの擦り傷の類すら存在していなかった。
ハーティの着ている 拘束服《ボンテージ》は、当然ながらただのファッションではない。
拷問を受ける罪人は、およそ人間の受けるものとは思えない責め苦を味わう。それこそ、普通の人間なら死んでしまうような。だからそれを防ぐために、魔術的な 拘束服《ボンテージ》というのは罪人へのダメージを抑える為、ある程度の防御力を持っているのだった。これを逆用すれば、自らを守る防護服として機能させることも出来る。
「これは……」
起き上がったハーティが見たのは、瓦礫に生えた無数の植物だった。
ツタが寄り集まって出来た大きな樹は、今も抑えめではあるが成長を続けていた。それが、アジト跡のいたるところから伸びている。
「……何者かが操作していますね。動きに知性が感じられるわ。ヴィクトリア、レーヴァテインへの換装は?」
「時間がかかりすぎるッス。いつ攻撃が来るか分からないこの状況で、換装作業はちょっと……」
「なら私が時間を稼ぎます。だからそちらは自分の作業に集中していて」
言って、ハーティは思い切り地を蹴り植物の群れの中へと飛び込む。
少女の身体からは想像もつかない瞬発力で、まるで雌豹か何かのようにハーティは群れの中心に立った。
「攻撃が、あくまで『操作』であるのなら――」
ガンゴンガガン!! と甲高い音が連続する。
次の瞬間には、人の身体ほどもある幹に無数の『釘』が突き刺さっていた。
たったのそれだけで、不気味に蠢いていた植物がまるで本来の役割を思い出したかのようにぴたりと静止する。
「私の魔術で、動きを止めることは出来ます。……もっとも、一時的に、だけれど」
ハーティの扱う魔術は、拷問魔術だ。
鉄槌や鉄針など、『拷問器具を象徴する武器の要素を抽出した霊装』を扱うことにより、偶像の理論によって『元となった器具をそのまま使った結果』を相手に叩き込むことが出来る。
さらに、魔女狩りの中で魔術師に用いられることが前提だった『拷問』は、『魔術殺し』の側面も持っている。つまり、ハーティの拷問器具で攻撃を受けた者は魔力の流れに乱れが生じ、魔術の行使が不完全になるという訳だ。
(『操作』しているということは、何らかの形で魔力がこの植物に循環している――『霊装として機能している』ということ。勿論別の方式で行っている可能性もあったのですが、流れをせき止めたとたんに停止したところを見ると私の考えは間違っていなかったようですね)
だが、この一瞬でハーティが動きを止めることが出来たのは精々三本。全部で八本ある『植物』は、まだ五本も動く個体が残っていた。次の瞬間には、鉄槌を振るい切って隙が大きいハーティの脇腹を抉り取らんと飛びかかって来る。
「チッ……!! 数が多すぎるのよ!」
鉄槌での防衛が不可能と判断したハーティは、すぐさま足に力を込めて跳躍する。ドッ!! と、人類の限界を軽く超えたハーティは眼下に複数の『植物』を収め、やたらめったらに『釘』を乱射する。
ゴガガガガガガ!! !! という破砕音が連続した。
「これなら、流石に……」
と、表情を緩めたハーティはそこで思わず絶句する。
『植物』のうちの二本が、盾のように他の『植物』の上に重なり、ハーティの『釘』を守る役割を果たしていたのだ。
ハーティの拷問魔術は、相手を殺してしまわないようにと出力に一定のセーブがかかっているものが殆どである。ゆえに『植物』を一撃で貫通するほどの威力はない。それが裏目に出る形だった。
そして何より危険なのは、ハーティが今空中にいて、攻撃されても身動きが取れないということ。
「まず……ッ!!」
自らの失策を悟り、次の瞬間の攻撃に備えて構えるハーティ。
しかし、『植物』は結局動かなかった。
防御の構えをとっていた為多少不恰好な着地になりつつ、ハーティは怪訝な表情を浮かべる。
(あの状況で『植物』が私への攻撃を躊躇う理由はなかったはず。一体、どういった理由で私に攻撃できなかったんです……?)
油断なく鉄槌を構えるハーティだったが――やがて、その必要すらないことに気付いた。
停止している。
不気味に蠢いていた『植物』群が、普通の植物に戻ったかのように、微動だにしていなかった。この状況で『当たり前』な挙動をしていることに、ハーティは逆に違和感を覚えてしまう。
「……一体……どういう……、あ」
考え込みそうになったところで、ハーティはあるものを発見した。
空中から『植物』に向けて乱射した『釘』の流れ弾だ。『植物』に当たらず、どうやらそのまま地面に突き刺さってしまっていたようだった。
そして、それを見た瞬間ハーティの中に電流が走った。
「地面……地脈……そういうことだったんですか!!」
此処で重要になるのは、『地面に「釘」を撃ち込んだだけで植物全体の動きが止まった』という点だ。
実際に操作している植物ならともかく、そうではない『地面』が魔術の制御に関係している、ということは……、
(『地脈』。それを介して術式を管理していた、という訳ね!)
「ヴィクトリア!!」
「はいッスっ!? 私まだ何もやらかしてないッスよ!!」
「違うわ馬鹿! レーヴァテインへの換装はもう良いから、『幻影の王』経由で地脈の様子を探って! 貴女の『幻影の王』は地脈から稼働エネルギーを賄っているんでしたよね!?」
「その通りッスけど……繋がりっつったってエネルギー源程度の微々たるモンッスよ!? 様子を探るなんて……」
「そこから、敵の居場所が感知できるかもしれないの!!」
「なんスってッ!?」
たとえ無茶でも、それが作戦行動に関わるならプロとして最大限の努力をせざるを得ない。ヴィクトリアは『幻影の王』の稼働状況を確認する。
古代ヨーロッパ然とした美丈夫の姿は、普段見るものと何ら変わりない。だが、少しばかり動かしてみるとやはり普段とは違う『何か』があるようにも感じられた。普段この術式を扱うヴィクトリアでさえ、注意深く確認しないと分からない程度の『何か』が。
「……確かに、僅かではあるッスけど、自動操縦用の思考ルーチンに多少のラグが発生している……ッスか……? 多分、地脈に何らかの影響が出ているんだと思うッス。此処に、敵の細工が仕込まれているワケッスね」
「決定ね」
ハーティは即座に判断した。彼女の予想通り、敵は地脈に何らかの細工を仕込み、そこを経由して『植物』を生み出し操作していたのだ。言うなれば、地脈を『植物』と術者を繋ぐためのケーブルに改造していた、といったところか。
「その細工が仕込まれている場所は分かるかしら? そこに行けば、何らかの痕跡が見つかるかもしれないです」
「だからそういうのは本来の使い方じゃないんスって…………んー、遠くはないって感じッスかね。けっこう近場ですよ。ロンドン近郊ッス」
「それだけ分かれば十分ね」
ハーティは頷き、懐からとある霊装を取り出す。戦闘用のものではない。羊皮紙めいたそれは、魔術師同士の連絡をサポートする為の霊装だった。
そしてこの場合、用途も変わらない。
「……あの黒子女の手を借りるのは勘弁したいところだけど、あれでヤツも有能だからね……」
「とか言いつつしっかり仲間としてその技量を信頼しているあたりに、おねーちゃんはハーティの成長を感じるッスよー」
沈黙ののち、鈍い音が響く。
「ブン殴られたいの?」
「殴ってから言わないでくださいッス!!」
そんな漫才を遮るように、通信用の霊装から返事が来た。
『ハロ~。丁度良かった。こっちも連絡があったんだよ』
「フギンね。こちらの方が重要よ。尋問をしに行ったところ、敵の魔術師から攻撃を受けました。真上から、ヴィクトリアが対応しなければ地盤ごと粉砕されかねないレベルの衝撃をね。その後、地脈を用いた植物攻撃まで仕掛けてきました。……ヴィクトリアのお蔭で、攻撃を放った相手はロンドン近郊にいることが分かったわ。こっちで観測した数値を送るから詳しい座標を調べてくれませんか?」
『……了解した……けど、どうやらこれは話が繋がりそうだね』
「どういうことです?」
『テムズ川のロンドン橋でジークフリート=ドラッヘンを捕捉したんだよ』
瞬間、ハーティとヴィクトリアの表情が驚愕に染め上げられる。現状、ハーティ達を襲った『衝撃』と『植物』の使い手も、一番怪しいのはジークフリートだ。そのジークフリートが捕捉されている。しかも、テムズ川といえば御誂え向きにロンドン近郊である。
「それで、そのジークフリートは?」
『既に 必要悪の教会《ネセサリウス》が動いているよ。ジェイルが討伐に向かっているみたいだね』
霊装越しのフギンの言葉に、ハーティは軽く首を傾げる。
「‥…ジェイル?」
「はぁ……ハーティはいい加減同僚の顔を覚えた方が良いッスよ」
「し、仕方ないじゃない! それに、最近は女子寮の人達は名前と顔が一致するようになりましたし!」
『ジェイルっていうのは、
ジェイル=ドント。北欧神話の雷神トールに関連する術式を扱う魔術師だね。まあ、雷神トールの術式はけっこう有り触れているから、かなりアレンジを加えているみたいだけど』
「なるほど。ですが一連の事件の黒幕であるジークフリート=ドラッヘンが一筋縄で行くとは思えません。向こうには『黄金』もあることですし……今報告した戦力のことも含めて伝えておいてもらえますか」
『アイツもアイツで魔術結社一つをたった一人で潰せる稀有な戦力の一人なんだけどな~」
「それでも、よ」
『分かった。そういうことなら任せておいてよ! それじゃあね』
ブッ、と千切れるような音を最後に、通信は切断される。
「行くわよ。こちらとしても、止まる訳にはいきませんからね」
通信霊装を懐に戻したハーティは、くるりと鉄槌を回転させ、
「イギリスの敵に『神の鉄槌』を振り下ろさせてもらいましょう」
「私の場合は、剣ッスけどねー」
二人の魔術師は、そんなことを言い合いながら戦場へと駆けていく。
これから戦うのは、イギリスを何度も破滅に導こうとしてきた事件の黒幕。彼女たちが今まで向かってきた事件の中でも、トップクラスの『壮大さ』を持つ敵だ。まさしく死地に赴いている真っ最中だったが、二人に過度な緊張は見られなかった。
イギリスの危機を目の前にして戦っていたのは、今までも同じ。
自分の命すら危うい戦いを乗り越えてきたのも、今までと同じ。
二人の魔術師にとっては、今回の事件も『そういうこと』なのだった。
5
「そういえば、『虹の橋を渡る者』での尋問ではどんな情報が得られたんスか?」
テムズ川の近くまで来たところで、最終確認のようにヴィクトリアが問いかけてきた。
それを聞いてやっと思い出したように、ハーティは頭を振る。それは、有益な情報が得られなかったということでもある。
「大した情報はなかったわよ。どうやら『虹の橋を渡る者』がジークフリートと手を組んでいたのには、相応の理由があったみたいね。組織としての運営が立ち行かなくなるくらいに切羽詰っていたらしかったです。同盟関係にあった結社とも関係が悪化していたらしかったし、おそらくビジネスに失敗したのね。そこをジークフリートに付け入られたのでしょう」
「はぁー、やっぱり魔術結社は大変なんスねぇ……。私らは国民の血税で食って行けてますけど」
「そう暢気してると、貴女もそのうちクビになりますよ。……あとは、そうですね。救援を要請していた魔術結社の名前は、『川底の黄金を奪いし王』だったかしら。こちらについてもあとで報告しておかな、」
「ハーティ、それは……有り得ないッス」
何気なく言ったハーティに、ヴィクトリアは静かに返した。いつになく真剣な様子のヴィクトリアだが、自分の専門分野でもある『拷問』の成果を否定されたハーティはむっとする。
「何? 私の『拷問』で得た情報が間違いだと言うの? 魔術を使って真実しか吐けないように調整しているというのに、……」
「そうッス。確かに拷問中はハーティの魔術で『真実しか吐けない』ようにしているのかもしれないッス。けど、そもそもその『真実』が本当の意味での『真実』であるかどうかは言った本人にすら分からないんスよ」
血を吐くような調子で言ったヴィクトリアは、さらに続ける。
「必要悪の教会《ネセサリウス》の活動にあまり興味を示さないハーティは知らなくて当然ッスけど、『川底の黄金を奪いし王』っていう魔術結社は、ちょっと前に壊滅してるんス」
「な、なんですって……!?」
「確か、例の聖人様の事件に横槍入れようとしたヤツ……そうだ、ステイルに討伐されたリチャードの一件の直後に、ジェイルが壊滅させていたはずッス。だから、ソイツらが同盟結社として救援を頼まれることなんて絶対にあり得ないんスよ」
「……ってことは……、」
「! ハーティ、見えましたよ!」
驚愕の新事実による動揺が抜けきる前に、考えを進める間もなくヴィクトリアが声を上げる。街道を抜けた先には、二人の魔術師がいた。
一人は、全身に赤い刺青を刻んだ筋骨隆々の男。軽装だが、背負った一本と両手に構えた二本、合計三本の大剣が纏っている明らかに異質な雰囲気が目を惹く。――ジークフリート=ドラッヘンだ。
一人は、これまた赤い髭に赤いスーツの三〇代程度の男。彼もまた軽装だったが、手に持った長大な鉄槌が彼が魔術師であることを教えている。――ジェイル=ドントだ。
人払いの結界が貼られているらしく、周囲に通行人などは一人としていない。
「ジェイル! 助っ人に来たッスよ!!」
そう言って、ヴィクトリアは一気にロンドン橋へと駆けて行く。
しかし、ジェイルはそれに返答しなかった。
にやり、とジークフリートが静かに笑みを浮かべる。
「気を、つけろ……」
ポツリ、とジェイルは言った。
「や、つの……魔術、は…………防げな、ご、ぽッ」
言葉が、途切れた。
同時に、ジェイルの身体が傾き――べしゃり、と半端な水音を立て、ロンドン橋の上に落ちる。
まるで糸の切れた人形のようにあっけない倒れ方だった。
じんわりと、倒れたジェイルの身体から漏れ出していくかのように、橋の上を赤い液体が侵食していく。
そして、それが何を意味するのか、ハーティもヴィクトリアも痛いほど理解していた。
「ジェイ、ル……!」
「遅かったですか……! ヴィクトリア! 行きますよ!」
「……はいッス!」
言葉と同時に、仲間の死に全くへこたれずに二人の魔術師が行動を開始する。
まず、ハーティが動いた。猛獣のように機敏な動きでジークフリートに肉薄した彼女は、まずその両手にある大きな剣に注目する。
「その剣……どちらも『シグルドの剣』ですか!」
「いかにも――これは 破滅の剣《グラム》、そしてこれが 復讐の剣《バルムンク》だ、お嬢さん」
肉薄したハーティは、ジークフリートが『破滅の剣《グラム》』と呼んだ大剣が高い熱を持っていることに一瞬で気付き、触れるのは悪手だと悟った。
ただし、大剣を振るうジークフリートにとってこの距離は逆に不利。刃を当てづらい為、本来の攻撃力を発揮できないのだ。ハーティが相手の戦力も分からないうちから距離を詰めたのも、必要以上に近ければどんな魔術を使おうと本来の力が発揮できないだろうと踏んでのことだった。
しかし、ジークフリートはそんなハーティの予想を軽々と越えていく。
ドッ!! と。
ジークフリートの、何でもない蹴りがハーティの腹に突き刺さった。
「ごっ、はぁっ!?」
たったのそれだけで、ハーティの身体はまるでボールみたいにロンドン橋の上を吹っ飛んでいく。
まだ 拘束服《ボンテージ》の加護があるだけマシだった。これがなければ、ハーティは今頃蹴りの一撃だけで上半身と下半身が分断されていたことだろう。
「なん……げは! がはごふ!!」
「ハーティ!!」
此処で、ヴィクトリア――正確には、その魔術である『幻影の王』がハーティの傍に駆け寄った。
「私は、大丈夫です。それより気をつけなさい。……相手も、私と同じように身体機能を強化しているわ。それも、私よりも遥かに高い強度で」
「ハーティは『とりあえず当たって敵戦力を確認』ってことが多すぎるんスよ。まあ、その 拘束服《ボンテージ》の加護があれば大抵のダメージは大したことなくなっちゃうのかもしれないッスけど……」
ヴィクトリアはそう言って、不気味にこちらの様子を窺っているジークフリートを見る。
その後方に転がるジェイルはさらに赤い染みを広げていたが、もはやヴィクトリアはそのことに拘泥したりしない。プロの世界で味方が死ぬことなど当たり前。……『一定以上に親しい人物』でなければ、彼女達が心を乱すことはない。
「まずは、遠距離攻撃で敵の出方を窺うのが先決ッスよ!!」
『幻影の王』が、その手に持った細身の剣――『勝利の剣』と呼ばれる霊装を振るう。
霊装自体は豊穣神フレイの持っていた『敵を自動で狙い切り裂く剣』という武器を『任意の座標に遠距離から斬撃を加える』武器と解釈した、普通の霊装なのだが、部分的に接続術式を再現しているこの『幻影の王』が扱えば――、
音さえも切り裂かれた。
地盤そのものを粉砕しかねない一撃にすらも対抗できるその斬撃は、ジークフリートの持っている霊装に関係なく、正確無比に彼のみを切り裂――かなかった。
空気の断層さえ生みかねない斬撃は、ジークフリートの掲げた 復讐の剣《バルムンク》に触れた瞬間綺麗さっぱり消失してしまう。
「チッ……大した威力だ。これが限界だな」
必殺の一撃を防御しておきながら、それでもなお不満げにジークフリートが呟き、剣を軽く振るった瞬間だった。
ボッ!! !! と、突如として『幻影の王』の上半身が爆散した。
いや、違う。爆発的な勢いで両断された為、その勢いで『幻影の王』の上半身が吹っ飛んだのだ。
「まずは、厄介な木偶人形を潰せたか……あとは、二人」
「いいえ、『幻影の王』に『死』はないッス!」
ヴィクトリアの言葉通りに、上半身が失せた『幻影の王』に霧のようなものが纏われ、そして一瞬のうちに元の姿が再形成される。手には、先程と同じように『勝利の剣』。
厄介な『幻影の王』を始末しても、地脈を流れる世界の力を元手に『幻影の王』はいつまでも再構成される。ヴィクトリアを殺さない限り、それは決して終わらない。――魔術師ヴィクトリア=ベイクウェルの厄介さは、そこにある。彼女を護る仲間がいれば、その厄介さは数倍以上にも跳ね上がる。
「……チッ、必要悪の教会《ネセサリウス》の癖に、ロシア成教のような真似を……」
悪態を吐きながらも、ジークフリートは 復讐の剣《バルムンク》を盾のように構える。
「……あの『黄金』は、どこへやったのですか。ジークフリート=ドラッヘン」
口許の血を拭いながら、ハーティは毅然とした様子でジークフリートに問いかける。
「私の撃退が困難と踏んで、『黄金』を破壊することで私の目的を潰えさせようという魂胆か? 甘いな。もう既に『アレ』は完成したよ」
戦況が優勢だからか、あるいはこうして話をすること自体に意味を感じているのか、ジークフリートは饒舌に語る。
「そもそも、君たちは知らないのだろう? 私がどうしてあの『黄金』を求めたか。そして、ライン川から取り出した『黄金』をこのテムズ川まで運んできたのか」
「……『黄金』は、この川にあるのですね」
「揚げ足取りのつもりか? もう既に完成していると言っただろう。――ラインの『黄金』。そこのフレイの魔術師ならば、その意味が分かるだろうと思うがな」
「…………、……まさか……『ニーベルング』……?」
「いかにも」
ジークフリートは、堂々と頷いた。
「ライン川に『黄金』を転移するようにあの誘拐犯に教えた術式に仕込んでおいたのも、そしてこのテムズ川で儀式を行おうとしているのも――『ニーベルングの指環』をなぞる為の準備だ」
ニーベルングの指環、という歌劇がある。
生み出したのはリヒャルト=ワーグナー。
北欧神話のシグルズとブリュンヒルデの伝承を下敷きにした物語であるが、これはただの芸術作品ではない。
たとえば現在の魔術界隈でも使われているワルキューレの代表的な術式 九人祝い《ナインサポート》はワルキューレが九人で構成されていたという理論によって構成されているが、ワルキューレが九人姉妹だったとしているのも、このワーグナーによる歌劇のものだ。
この歌劇の中心、『ニーベルングの指環』の元となる『黄金』は、もともとはライン川に棲む乙女が守護しているものであった。『黄金』は愛と引き換えに得ることができ、世界を支配する力を得る能力を持っていた。
ニーベルング族のアルベリヒは愛を捨てることで『黄金』を得て、それにより世界を支配し、自分の世界に住まうニーベルング族を配下に置いたのだった。
「……そういうこと、ッスか。だけど、術式の地理に関係があるのはライン川のみのはず。テムズ川で儀式を行うことは……」
「甘いな。まあ、科学に疎い魔術師では仕方のないことだが」
ジークフリートは溜息を吐き、
「お前たちは知らないだろうがな。……大昔、更新世と呼ばれていた時代、ライン川とテムズ川は陸続きで繋がっていたんだよ」
「!!」
「つまり、地脈の上でラインとテムズはほぼ同等。さらにイギリス、とりわけロンドンには魔術施設が大量に設置されている。この『立地』こそが最高だ」
「世界を、支配する……! それが、アナタの目的ってことッスか!?」
「近いな。だが、そこまで即物的な望みでもない」
ジークフリートは手の中の剣に視線を落とす。
「『世界を支配する』と一口に言っても、その『方法』は何通りも存在する。だが、あらゆる人間の意思を捻じ曲げることが出来るだとか、誰よりも強い力を持っているとかでは、『世界を支配している』とは到底言えないだろう。……特に後者は、ついこの間、第三次世界大戦で十字教の馬鹿どもが盛大に痛い目を見た訳だしな」
「……、」
「『法則』だ」
ジークフリートは長年の研究成果を披露するように、誇らしげな口調で言う。
「私が、地脈に造詣が深いことくらい、貴様らは承知の上だろう?」
……星座形式に術式を直すことにより、『縄を操る魔術』を『地脈を操る魔術』へと変換させようとした、
キース=ノーランド謀反事件。
……地脈に 天使の力《テレズマ》を流すことで、大天使並の量の 天使の力《テレズマ》を貯蓄する神殿『バベルの塔』を生み出した、
フレデリック=モンドリオ謀反事件。
複数の『美神の涙』を自身の手で統括していた誘拐者
ダーフィット=シュルツは、どのようにして遠隔地から術式の発動点を自分の手元に移したのか?
……今なら、分かる。
全てに、『地脈への干渉技術』が用いられていた。
イギリスに甚大な被害を与える性質ばかりに目を取られていたが、そのすべてに『地脈』への干渉という共通点が存在していたのだ。
そして、それの意味することは即ち。
「……データは、十分に取れた。地脈そのものを操作するのに必要な動力も発生した際に生まれる影響も、地脈に莫大な力を流し込んだ時に生まれるリスクも、流し込んだ結果得られる『結果』の性質も」
この男は、ジークフリート=ドラッヘンは、目先に見える『派手な危険』の裏で、着々と『本命の術式』のテストを行っていたのだ。
「なるほど」
ジークフリートの言葉に、ハーティは静かに頷く。
その表情に、絶望や焦燥の色は見られない。
「つまり、今ここで貴方を始末すれば全てが解決するということです」
「……フン。ならばやってみろ魔術師。……ところで、私が今まで何の意味もなく長話をしていたとは思っていないよな?」
ジークフリートがそう言った瞬間。
バガン!! と橋の一部が溶け落ちる。
見ると、分かり辛いが 破滅の剣《グラム》は高熱を放っているようだった。話の間中ずっと、高熱を放ちロンドン橋を落とすつもりだったのだろう。
「なっ!? 野郎、橋ごと私らを叩き落すつもりッスか!?」
「ヴィクトリアは『幻影の王』で自分の身を護っていて!! 私はヤツを叩く!」
「くそう、『ロンドン橋落ちた』にまた新たな一節が加わっちまうッス……」
即席の打ち合わせをし、ハーティは一気にジークフリートの方へと飛びかかって行く。その裏で、ハーティは高速で思考を巡らせていた。
(先程の一撃。攻撃を『吸収』して、それを利用する……といったところでしょうか? 二度攻撃をしかけてきたところを見ると衝撃を小出しにすることもできるのでしょうが、それにしても疑問が残るわ。何故、『幻影の王』にそれを使ったのか。そして何故あのタイミングだったのか。私やヴィクトリアは生身だからそっちに叩き込む方が合理的だし、タイミングにしたって『幻影の王』の攻撃を妨害するようなタイミングの方がこちらのリズムを乱せる。にも拘らず、何の得にもならないあの時点で『幻影の王』に攻撃を加えた。……そこに、あの霊装の弱点も隠されているはず!!)
一瞬で判断したハーティは、『盾』として扱っている 復讐の剣《バルムンク》ではなく、密かに高熱を放っている 破滅の剣《グラム》目掛けて鉄槌を振るう。空気を押し固めて作られた『釘』が放たれ、ガイィン!! という音と共に空中で拮抗する。
破滅の剣《グラム》は『釘』とぶつかった結果刃毀れしたが、そのわずかな傷はすぐさま修復された。破滅の剣《グラム》に、自動再生の機能が備わっているのだろう。
それを認めたハーティは即座に地を踏み締め空中へと飛び上がり、懐から別の霊装を取り出す。それは、木で作られた天秤のような霊装だった。片方には椅子に括り付けられた女のミニチュアが設置され、片方には何も置かれていない。
ハーティがそれを掲げると同時、ゴボッ!! とジークフリートの持つ 破滅の剣《グラム》の周囲に水が発生する。
これはヨーロッパで行われた拷問刑である『水責め』の亜種で、池の畔などに椅子をくくりつけた巨大なシーソーのような道具を取り付け、勢いよく受刑者を水の中に叩き込むのを繰り返す拷問であった。
この術式には他のハーティの術式と同じく『偶像の理論』が用いられている為、実際に発動する為には女のミニチュアに対象の身体の一部を付着させないといけないという条件があるのだが――、
「今の一撃で、貴方の剣の破片を回収させてもらいました」
ハーティはプロの――それも、自らの肉体を使い戦う魔術師である。ただ攻撃を受けただけでは、終わらない。
「さあ、その高熱が貴方に牙を剥く番よ」
ハーティが狙ったのは、あくまでジークフリートではなくジークフリートの持つ 破滅の剣《グラム》だ。そして、その 破滅の剣《グラム》は高熱を持っている。そんなところに、水が纏わりつこうとすれば――、
ドッジュウウウウウウウウ!! !! !! と、水が一気に蒸発する音が響いた。
高熱の水蒸気が、 破滅の剣《グラム》を中心に発生する。
「フン。この程度の熱で 竜血魔装《ファフニール》が破れるものか」
しかし、ジークフリートは何ら慌てない。ジークフリートに人外の膂力を与えている魔術は、同時に攻撃への耐性もまた与えていた。
「伝承においてシグルドは竜の血を浴びることで不死身となった。私はそのシグルドの模倣だ。貴様らイギリス清教の騎士派さえ凌駕する力を、私は事もなげに扱える、と言っている」
「分かっていますよ」
しかし、ハーティはさらりとそれを受け流した。
ゴボボボボ!! !! と、さらに 破滅の剣《グラム》の周囲に水が発生する。
「……何だ? まさか剣の熱を下げようとしているのか……?」
破滅の剣《グラム》は高熱を放っているが、破滅の剣《グラム》自体が高熱を持っているという訳ではない。それは、ハーティが毀れ落ちた破片を簡単に回収できたことからも分かるだろう。だから、熱を一気に下げたとしても刃が熱疲労によって破壊されることは有り得ない。そもそも、水をかけた程度で 破滅の剣《グラム》の熱を下げることなどできはしない。
だが。
ハーティの狙いは、そもそもそこにはなかった。
ハーティは、水蒸気の上からさらに水を重ねた。水蒸気は冷やされ、また水となり 破滅の剣《グラム》を覆う訳だが……当然、それにも限界が生じる。絶えず生み出される水と 破滅の剣《グラム》の間には水蒸気の膜が生じる。そして、高熱の物体と水、水蒸気の膜という条件が揃った時に起こる物理現象が、一つだけ存在してた。
「――あなたは、知らないですか? 『水蒸気爆発』という現象を!!」
ドッッッ!! !! !! と、小型の手榴弾並の爆発が発生した。
空中にいたハーティはその爆風で思い切り吹き飛ばされ、『幻影の王』の傍らまで転がっていく。
「ハーティ!! 大丈夫ッスか!?」
「私のことは良いから!! それより、早くヤツに『幻影の王』の斬撃を叩き込みなさい――今なら確実にやれる!!」
「……っ!!」
『幻影の王』を用いてハーティを助け起こそうとしたヴィクトリアに、ハーティは鋭い檄を飛ばす。それで状況を理解したヴィクトリアは、すぐさま決断し――轟!! と『幻影の王』の一撃が振るわれた。
同時に、ハーティもまた飛び起きて再度の攻撃を開始する。
『幻影の王』の一撃によって払われた水蒸気の先には――折れた 復讐の剣《バルムンク》の手に呆然としているジークフリートの姿があった。
「……貴方の行動は、確かにおかしかった。単純に攻撃を吸収し再利用する術式があるなら、もっと効果的な利用方法があったはず。たとえば自分で空振りを連発し、何かにぶつかった衝撃を吸収する、とか」
鉄槌を構える。
「それをしなかったということは、即ち『対象選別』に条件があったということ。たとえば――攻撃を与えた張本人にしか、『自動攻撃』は使えない、とか」
ジークフリートは剣を構えようとするが、元々が二刀流で戦っていた魔術師だ。どうしても一本の剣が折れたことで行動に精彩を欠いている。
「そして、術式を使用するタイミングもおかしかった。『幻影の王』を狙うにももっとタイミングはあったはずなのに、あそこで振るう必要はない。貴方は、あの場で自分の意思で霊装を振るったんじゃない。振るわざるを得なかったんです。そうしなければ、霊装が蓄えられる『攻撃力』の『限界』に到達してしまうから!!」
それが、ハーティの策だった。
水蒸気爆発を間近で受けたジークフリートには、その威力を 復讐の剣《バルムンク》で受け止める以外の選択肢がなくなる。そして、水蒸気爆発の水はハーティが生み出したものだが、引き起こしたのはあくまで 破滅の剣《グラム》の高熱だ。つまりこの場合、 復讐の剣《バルムンク》が狙えるのは 破滅の剣《グラム》だけになる。
この状況で『幻影の王』の振るう勝利の剣の威力を受け止めれば確実に 復讐の剣《バルムンク》は『限界』を越え崩壊するが、かといって水蒸気爆発の威力を 破滅の剣《グラム》に叩き込めば、それだけで刀身は粉々に粉砕される。破滅の剣《グラム》は修復機能を備えているが、それが完遂するよりも早くハーティがやって来ることは火を見るよりも明らかだった。
つまり、水蒸気爆発を引き起こされた時点でジークフリートは詰んでいたのだ。
(しかし――まだ、安心はできない)
確殺の策を張り巡らせておきながら、ハーティはまだ安堵していなかった。
『虹の橋を渡る者』との攻防の中で受けた、あの衝撃と『植物』。まだジークフリートはそれを見せていない。それに、今までの事件で起こっていた『イギリスを破滅に追い込むような性質』の魔術も、未だに見せていない。
これはあくまで小手調べの領域だ、ということをハーティは強く意識する。
そして。
ドッ!! と。
あっさりすぎるほどあっさりと、ハーティの鉄槌がジークフリートの横っ面に直撃した。
「……は……?」
そう、信じられないものを見たような声で呟いたのが自分だと認識するのに、ハーティは数秒かかった。
ゴロゴロゴロ!! と、ジークフリートは最初のハーティのように無残にロンドン橋の上を転がっていく。ちょうど、ジェイルが倒れていた位置に、だ。
真っ赤な一帯の上に、ジークフリートの身体が独りで転がる。
「…………待って。独りで、ですって?」
そこで、ハーティは違和感を察知した。
ジェイルは――あそこで倒れていた魔術師ジェイル=ドントの死体は、一体どこだ?
「……な、ぜだ……ジェイル……」
ジークフリートは、そう言って殺した男の名前を呼んだ。そこでハーティは、初めて気付く。ジークフリートの腹が、赤く染まっていることに。その赤く染まった腹から、鋭く尖った『植物』が顔を出していることに。
「ま、さか……!」
その植物の出所――ジークフリートのほんの十数メートル先に、赤い髭に赤いスーツの紳士――ジェイル=ドントが何事もなかったかのように佇んでいることに。
あれほどの魔術師が、急にハーティの攻撃を受け止めたのは、なんてことのない、ただ横槍によって予想外のダメージを受けたからという、ただそれだけのことだった。
「ジェイル=ドント! 貴方、生きていたのですか!?」
「無論だよ、ハーティ=ブレッティンガム。私は一度として死んでいない。……私の顛末に関しては、そこのジークとの共同作業でもあったわけだからな」
それは、端的に言えば自白であった。
ジェイル=ドントは、 必要悪の教会《ネセサリウス》を欺きジークフリート=ドラッヘンと手を組んでいた――という、最悪の事実の。
しかし現実として、ジェイルはジークフリートを裏切っている。この意味は一体どういうことか――とハーティが考えを巡らせたところで、瀕死のジークフリートが吼えた。
「何故だ、何故だジェイル!! 何故、こんな仕打ちを、ごぶげば!! 私達は仲間ではなかったのか!! 細かい目的の差異はあれど、『北欧神話の世界をこの世に実現させる』という――」
「騒ぐな、ジーク」
激昂するジークフリートに、ジェイルは静かな言葉をかけた。
「『我々の目的』は、確かにこの『黄金』を加工し『ニーベルングの指環』を作ることだった。しかし……お前は知り得ないタイミングだったが、調整した『ニーベルングの指環』に関して少し問題が出てな」
ジェイルは、呆然とするジークフリートにさらに続ける。
「『ニーベルングの指環』は、世界を支配することができる。だが、同時に『死の呪い』もかけられているのだ。扱う者には、『死』が纏わりつく。やがては術者を食い殺す霊装なんだ、これは。調整によって排除したつもりだったが……やはり、世界を支配するほどの出力を発揮するには、そのデメリットを取り除くことはできなかったらしい」
ジェイルは、そう言って手に持っている『黄金の指環』を撫でる。
「そこで、『呪いの対象』を変更した」
「な……?」
「忘れたか、ジーク。この『黄金の指環』のもととなった『黄金』を回収したのはお前だ。つまり、お前にもこの『黄金』とのラインは形成されているということだ。勿論、『ニーベルングの指環』は一人を呪い殺すだけでは収まらない。ファーゾルドを殺した後も、『ニーベルングの指環』は神々の凋落さえ引き起こしたのだからな。だから、『呪いの空転』を起こすことにしたのだ。……既に死んでいるものを対象に選べば、『ニーベルングの指環』の機能は永遠に死なない者を呪い殺そうとする。……死んでいる者は、もうそれ以上殺すことはできないからな。そうだろう? フレイの魔術師」
「……!」
自身の術式の特性を言い当てられ、ヴィクトリアは思わず息を呑む。
つまり。
ジェイル=ドントは。
自身の持つ霊装のデメリットを完璧な形で排除する為、最大の協力者をその手にかけたのだ。
「ジーク。お前は此処で死ぬが、お前の悲願は私が代わりに達成しておいてやる。…… 両断の剣《ノートゥング》は、私が使っておこう」
「じぇ、いる……貴様ァァあああ……!!」
「感謝しているよ。ジークフリート=ドラッヘン。お前は私を此処まで押し上げてくれた」
あっけない感謝の言葉を最後に。
ずるり、と『植物』がジークフリートの身体から引き抜かれ、背中に備えられていた大剣を奪い主のもとへと帰還する。
ジークフリートは、それを最後に明確に息絶えた。
その瞬間だった。
ハーティとヴィクトリアの第六感とも呼べる感覚に、明らかな『異変』が生じる。
それが何かは、二人には分からない。
だが、奇妙な確信だけがあった。
もう、此処は今までのルールが通用する場ではない。
「さあ始めようか、 イギリス清教の魔術師よ」
ジェイル=ドントは。
雷神トールの鉄槌に、英雄の剣を携えた魔術師は、そう言って笑った。
念願のオモチャを手に入れた、無邪気な子供のように。
「――――『戦争の神』の管理する世界は、君たちが思っている以上に残酷だぞ?」
『運命』が。
人間が太刀打ちすることのできない『大きな流れ』が、二人の少女に牙を剥く。
最終更新:2014年01月30日 20:45