11月2日。少女は今までにないほど慟哭した。愛する人が自分の手を振りほどいて離れていった。愛する人は少女の傍にいることより、自分の矜持を守るための戦いを選んだ。その矜持を守るための戦いが少女のためでもあること、彼がそういう選択をする人間なのはある程度理解していたが、いざ実際にそうされるとそのショックは計り知れない。少女は大粒の涙をこぼし、多くの人間に醜態を晒し、学校をサボり寮にも戻らず、近くの公園のベンチで泣き続けた。いくら平日に昼間でも半日も泣き続けて風紀委員も警備員も通りすがりのスキルアウトにすら遭遇しなかったことに疑問すら感じなかった。
もう涙が枯れた頃には夜になっていた。涙というのは精神的なショックも一緒に流してくれるのか、その時にはかなり冷静になっていた。皆に心配をかけたであろう罪悪感、丸一日何も口にしておらず、突然の空腹感に襲われる。とりあえず、ベンチから立ち上がってコンビニを探す。朝、慌てて飛び出したので財布は持ち合わせていなかったが、スマホは持っていたので電子マネーで支払いは出来る。
少女はコンビニに向かって歩いていた。距離にして約150m。その間に何を買おうか考える。丸一日食事を抜き、泣き疲れて冷静になったとはいえ食欲が湧くほどではなかった。何か軽いものでも食べようと考えていた。足を止めた。

目の前に男が立っていた。都市迷彩服にタクティカルベスト、身体の随所に軍用の装備らしきものが見られる。腰の拳銃と予備マガジン、手榴弾、スタングレネード、簡易な応急キット、サバイバルナイフ。戦場の最前線にいるべき背格好の男だ。ボサボサの黒髪に狂気的な笑みを浮かべる。多少のテロ騒ぎがあるとはいえ、平和な学園都市にとっては外観だけで異物だと判断できる。それ以前に彼に対する恐怖、そして敵愾心というものを本能的に感じる。
イルミナティ幹部、ヴィルジール=ブラッドコードはそう思われる男だった。

「お前が、マサミ・カザカワか」
「え?…あ、はい。そうですけど」

正美つい答えてしまった。「ここでNOと言っておけば」と後悔するが、おそらく答えがNOでも結果は変わらなかっただろう。
背後から別の迷彩服の男が現れ、彼女を羽交い絞めにする。正美は必死に抵抗する。まだ自由なままの足で背後の男を蹴るがびくともしない。巨大な岩を蹴っているような気分だ。
正面のヴィルジールが近づく。一歩一歩近づく毎に軍用ブーツの足音がガツガツと耳に響き、風川の心が恐怖で満たされていく。ヴィルジールが風川の頭に手をかざした。

SUPC(王子様が来るまで眠ってろ)

突如、バチッと静電気のような音とともにヴィルジールが仰け反った。かざした右手からは肉の焼ける匂いと共に水蒸気のようなものが吹き上がる。

「チッ。あの野郎。厄介なことしやがって」

風川は静電気がヴィルジールの仕業だと考えていた。自分は電気系統の能力者ではないし、自分の能力にそういった応用や副作用は存在しないはずだ。ヴィルジールでも正美でもない。この静電気の正体はこの場にいる人間では分からなかった。

(でも…誰が?)

ヴィルジールは面倒くさそうにポケットからスタンガンを取り出すと、それを正美の首元に当てた。スイッチを入れ、バチバチと電撃が彼女の身体を走ると共に気を失った。

* * *


目が覚めた時、無機質な天井が目に映った。コンクリートむき出しの打ちっぱなしな天井。しかし肌寒さは感じない。エアコンにより温度が管理されており、正美自身も高級そうなソファーの上に寝かされ、掛け布団をかけられていた。最高級の毛を産出する羊の群れに包まれたかのような心地良さだった。だが知らない天井、知らないソファー、顔を傾けると小さなテーブルがあり、そこに申し訳程度にミネラルウォーターが置いてある。それに不安を感じずにはいられなかった。
カチコチに固まった身体を動かし、ソファーから足を下ろして立ち上がる。もう何日も身体を動かしていない気怠さを感じる。手を組んで身体を思い切り上下に伸ばす。

「やぁ。お目覚めのようだね。風川正美

居た。自分だけだと思っていた部屋にもう一人、カラスの羽毛を被った骸骨のような人(?)が部屋の対面側にあるソファーに座っていた。イルミナティの頭領、$ruby(レイヴンフェイス){双鴉道化}だ。仮面の下の眼光はまっすぐと正美を見つめる。カメラ内蔵のオブジェのように刹那も視線を逸らさない。
正美は小さな悲鳴を上げて腰を抜かした。尻餅をつき、そこで初めて自分の足が視界に入る。真っ白なロングスカート、肌触りの良いシルク生地だ。更に顎を引き、腰、腹、胸元に目を向ける。彼女は自分がドレスを着ていることに気づいた。スレンダーラインのウェディングドレスだ。
彼女は寒気がした。外気温の低下ではなく、知らない間にドレスに着替えさせられたこと、未婚どころか彼氏と付き合って1年も満たない女子中学生にウェディングドレスを着せる感覚、そして「自分が寝ている間、誰かに制服を脱がされた」こと。

「安心したまえ。君の着替えは女性に任せた。それくらいのデリカシーは弁えている」

当然のように正美の心を見透かした双鴉道化による彼女を安心させるための発言、正美が自分の言葉を信じ易いようにリラックスする暗示のようなものもかけている。変にパニックを起こされては話が抉れてしまうからだ。

「私は君に危害を加えないし、他の者にも傷つけさせない。君は勝者への褒美だからな」

自分を景品扱いする双鴉道化の言葉を前にして正美の身体に悪寒が走った。リラックスの暗示など突風に吹かれた灯のように吹き飛んだ。自分がドレスアップさせられたのも身柄の安全を約束されたのも“景品”だから。いずれは素性の知らない“勝者”のモノになってしまう。正美はここで初めて自分は誘拐され、人身売買にかけられたことを実感する。
双鴉道化が歩み寄り、上体を屈めて正美に目線を合わせる。仮面の目にあたる部分の穴から中の人の目は見えない。穴の奥からは蛍の光のようなものしか見えなかった。

「風川正美。これから二つの戦いが始まる」

1つ目は君が“風川正美”と決着をつけるための戦い
2つ目は君の守護者を選ぶための戦い

「この二つに勝利した時、君と君の守護者は何者にも負けない強さを得るだろう」

正美は双鴉道化が言っていることが分からなかった。一つ目の戦い、まるで自分と風川正美が別人であるかのような物言いが気になった。そういえば私はあのカラス男に名乗ったのか?ふとその疑問が始まる。あのカラスは最初から自分のことを何もかも知っているかのように喋っていた。正美はそれが当然のことであるかのように受け取っていたが、今考えるとおかしなことしかなかった。

「どうして私の名前を?」
「知っているとも。君の生まれ、育ち、母の名、そして君の本当の名前も。私は君以上に君のことを知っている」

学園都市中を探しても見つけられなかった過去を知る人間。それが自分を誘拐した敵であっても藁に縋る思いでマントを掴む。しかし、霞を掴むように虚しく手は透き通っていった。

「君の過去を話そう。―――ただし、君が一つ目の戦いに勝利すればの話だ」

正美がその言葉の意味を尋ねようとした時、既に双鴉道化は扉を開いて向こう側へと姿を消していった。慌てて指でも挟みこんで閉じるのを阻止しようとしたが、ドレスのせいで走り難く、間一髪のところで扉は閉じられ、鍵がかけられた。
拳で扉をドンドンと叩くが、向こうから返事が来ることは無かった。ドアは内側から開けられないようになっている。鍵穴もない。あったとしてもどうすることも出来ないが。
また何も出来ない囚われの姫君となってしまった正美はへたり込む。

「な・る・ほ・ど~。そういうことね」

正美が背後を振り返る。さきほどまで横になっていたソファーに一人の女性が座っていた。20代かそこら、白衣に眼鏡と理知的な印象を持たせる。

「あなた…誰?」
「そうねぇ…。あのカラスみたいに言うなら、“一つ目の戦いの使者”と言ったところかしら?」
「一つ目の戦いの……使者?」
「本当はそれに相応しい人間がいたんだけど、昨日ヘマやっちゃって御用になったからね。私は代役ってところよ。まぁ、それでも貴方を苦しめるには十分な情報量を持ってるのだけれど」

正美は既に一つ目の戦いが始まったことを知る。

「じゃあ、話しましょうか。『風川正美の誕生秘話』を」

律子はニッコリと笑った。正美を苦しめようという悪意に満ちた笑顔で。

* * *


双鴉道化が部屋から出ると背後からドンドンと正美が扉を叩く音が聞こえる。しかし、それを意に介するつもりはない。彼女の意識は既に別の人物へと向けられていたからだ。

「君はここに来ると思っていたよ。箕田美繰

部屋の出入り口の脇で彼女は腕組みをして身体を壁によせていた。11月の寒空に素肌を多く晒した露出度の高い格好、コンクリートの壁はさぞ冷たいだろうと双鴉道化は思っていたが、美繰に冷たがるような素振りは無い。

「彼女の人生を狂わせる一因となった君としても『彼女が過去にどう決着をつけるのか』気になるといったところか?」

押し黙ったままだった美繰が瞳だけを双鴉道化に向けた。

「多少の罪悪感はありますが、詫びるつもりはありません。記憶を失った彼女に詫びたところで意味は無いでしょう」
「なるほど。それはそうだ」

「ところで――」と前置きをし、美繰が腕を解き、壁から身を離して双鴉道化と向き合う。いつも慈母のような笑みを浮かべる彼女とは打って変わって、イルミナティ十三幹部の一人に相応しい冷酷で圧倒的な強さを誇る面持ちに変わる。

「ミランダがどこに行ったのか、知りませんか?」
「彼女が幼稚園児を誘拐しないか心配なのかい?」

彼女の背後から8匹の稲妻の蛇が現れ、口を開いて牙を双鴉道化の首元へと差し向ける。全身がバチバチと音を立てて放電し、時折ノイズのようなものが走る。この蛇の身体、存在自体がプラズマのような不安定さを持っているようだ。

“八雷神”
イザナミが黄泉の国においてまとっていたと言われる八つの雷神。美繰が主に使う魔術「$ruby(ヨモツイクサ){黄泉軍}」「黄泉醜女(ヨモツシコメ)」が集団戦用の魔術とすれば、八雷神は強力な個人との戦闘に対する魔術だ。

「それも一理ありますが…今回は真面目な話です」

切り札の八雷神で脅しをかける本気さに双鴉道化は「ほぅ」と感心する。神道系皇室派のこと以外で彼女がここまで激情を向けるのは滅多にない。いや、初めてだからだ。

「計画が発動した今、私達は用済みになりました。各々の幹部が学園都市で自分の強欲のままに動き出すわけですが、皆の強欲が上手く噛みあうわけではありません」
「そうならないように調整するのがこの私の役目なのだがね」
「それでも限界があるでしょう。私とミランダの目指すものは真逆です。私は“守護者”に戻りたい。対して彼女の願いは世界の“破壊者”になること。私と彼女の願いは根底から相反します」

双鴉道化はふふんと鼻で笑った。

「心配はいらない。猶予は一週間ある」

どうして心配ないと言い切れるのか、そして一週間の猶予の意味を美繰は尋ねた。

「神は七日間かけて世界を作ったんだ。人間如きが世界を壊すなら一週間以上はかかるだろう」

あまりにも信憑性に欠けた根拠に思わずため息が出た。この調子で来るということは話をはぐらかしたいということだ。幹部として双鴉道化に接して10年近く経つとこういった癖が随分と分かるようになる。そして、これ以上問い詰めても建設的な答えは得られないということも。
美繰はこれ以上何もしゃべること無く、双鴉道化に背を向けて立ち去った。その後ろ姿は何か決意に満ちたようなものが感じられたが、それが何なのか双鴉道化には解らなかった。

(神は7日間かけて世界を作った。人間如きが世界を壊すなら、一週間以上はかかるだろう――――それでも、もし本当にたった一手で世界を滅ぼす存在が現れたとしたら、それはもう人間ではない。“魔神”と呼ぶべき存在だろう)




第二学区 特殊犯罪者収容所
学園都市における犯罪者収容施設は少年院がほとんどだが、大人の犯罪者を収容するための刑務所も存在する。その中でもとりわけ危険で凶悪な犯罪者を収容するのがここ特殊犯罪者収容所、通称「特犯」である。周囲を騒音対策の防壁でグルリと囲まれ、その中も風紀委員や警備員の施設が大半を占める。トラブルが起きれば周囲の施設の風紀委員と警備員が即座に対応し、それから逃れられても防壁で逃げられない。厳重なセキリュティの中で囚人たちは獅子の群れに放り込まれた檻の中の羊のように震えあがる。
周囲を高い壁と有刺鉄線で囲まれた特犯の唯一のゲートを一人の警備員が駆け付けた。警備員の制服を中途半端に着て、11月だというのに汗をダラダラと流しながらゲートの前に辿り着く。
男は警備員であり、この特犯の看守でもある。今日は夜勤組と交代する予定だったのだが、寝坊で大遅刻という失態を犯してしまった。
ゲートのセンサーにパスを翳し、指紋、網膜、手首の静脈をスキャン、パスワードを入力して中に入る。厳重なセキリュティでご苦労なことだが、急いでいるときに限って何重ものセキリュティが鬱陶しい。
扉が開き、中に入る。すぐ目の前に鉄格子の扉、その両脇に2人のガードマンがいて彼らに敬礼するのが日課となっていた――――今日、その日課は出来なかった。
ガードマンが倒れていた。2人とも意識を失い、長い蔦で全身を巻かれて身動きが取れない状態になっていた。

「おい!大丈夫か!?」

男はガードマンたちに駆け寄る。うつ伏せで倒れているガードマンを仰向けに寝かせる。顔は生者のものとは思えないほど青白い。微かだが呼吸はあった。脈もある。まるで過労か何かで倒れているかのようだ。もう一人のガードマンも同じ症状だった。
とりあえず2人が生きていることに安堵する。しかし犯人がまだ見つかっていない。中への扉は開かれたままで犯人は内部に侵入した可能性が高い。犯人との交戦、囚人の大脱走という最悪の事態が頭に思い浮かぶ。
男は銃を構え、更に奥へと進んだ。不気味なほど静かで暴動が起きている様子はない。犯人は静かに目的のみを遂行するクレバーな人物だとプロファイリングする。
囚人の部屋があるフロアに辿り着いた。冷たい鉄の廊下に鉄の扉、一室に2~3人ほど収容する。扉が左右にいくつも並んでおり、どれも閉じられたままだった。とりあえず囚人の大脱走は起きていないようだ。まだ起床時間にもなっていないため、この異常事態に誰も気づいていない。呑気ないびきが聞こえる。男は一安心して溜息を吐く。

――その瞬間だった。奥の暗闇の方で鉄の扉が開閉する音がした.囚人部屋の扉であることはすぐに分かった。誰かが、少なくとも2人は脱走したという事態が発生した。
男は拳銃を構えながら音の発生源へと駆ける。他の閉じられた部屋には目もくれない。30秒ほど走ると扉の一つが空いたままになっていた。部屋番号:B68。銃口を向けて中を確認する。

「くそっ!やられた!」

蛻の殻だった。本来いるべき2人の収容者の姿は無く、ガードマンの身体に巻きついていた蔦と同じものが部屋中に張り巡らされていた。人に忘れ去られて数十年経過しているような光景だった。
(は、早く本部に報告しないと!)
男はズボンのポケットからスマホを取り出そうとする。手に何かが絡みついた。それは蛇のように滑らかに身体を這い、数秒も経たず全身に絡みついた。
それが蔦であると理解した時、男は既に意識の紐が切れていた。

部屋番号B68収容者
寅栄瀧麻(トラサカ タツマ) 仰羽啓靖(オオバ ヒロノブ)



神谷稜は目を覚ますと公園のドーム型の遊具の中に居た。穴から差し込む光が鬱陶しい。再び目を閉じて戦うその時まで養生したかったが、遊びに来た子供に見つかって通報される事態は避けたかった。稜は嫌々ながらも立ち上がり、服に付いた砂を掃う。
ここ3日間洗わず着っぱなし制服は血と砂に塗れて許容しがたいほど汚れていた。少し匂いも気になる。どこかのネカフェかランドリーで洗いたいが、その間に着る服は持ち合わせていない。それにお金を使えば、それだけで自分の位置を特定されてしまう。
学園都市の紙幣や硬貨にはICチップが埋め込まれており、一円単位でお金の流れが管理されている。道端に落ちている100円玉を然るべき機関に持ち込んで調査すれば、どの造幣局を出てから現在に至るまでの経路を把握することが出来る。そんな完全管理都市で逃げ回ることは不可能に近いのだ。そこまでキッチリ調べ上げるには色々と手続きを踏まなければならないが、稜を探すために一七六支部がどこまで捜索レベルを上げているか分からないため、迂闊なことは出来ない。

(おそらく、あいつらが動くのは夜だ。それまでにどうにかしてやり過ごさないと……)

風紀委員にも警備員にも見つからず、尼乃昂焚や双鴉道化が動き出した時にすぐに動けるようにするにはどうすればいいか。その算段を頭の中で組み立てる。昨晩、呼び出された場所が第二三学区であることから、彼らの目的とそれを成すための場所はある程度把握することが出来る。しかし、気分は最悪だった。
ガラガラ蛇男とカラスモドキのことを考えるだけで反吐が出る。あの2人には敵意と殺意以外のものを向けられない。自分の矜持を守るための戦いなら良かった。それだけなら同じ戦う者として彼らの余裕や強さへの羨望とそれを越えようとする熱意があった。だが、風川正美に手を出したのなら話は別だ。あいつにもしものことがあったら、そんな余地など与えない。



殺す



目が合った途端に閃光真剣で殺す。プラズマの刃でズタズタに引き裂いてやる。血潮も臓器もぶち撒けて誰のどの部分の肉か分からないほど分解してやる。プラズマの熱量で焼いてやる。
どす黒い感情が稜の中で渦巻く。もし現実になったとしたら、彼は風紀委員としての誇りや人としての倫理を捨て去るだろう。敵を徹底的に殺す鬼神と化し、尼乃昂焚と双鴉道化の人としての尊厳を徹底的に踏みにじる。
俺はもう誰も失わない。誰にも負けない。絶対に間違わない。

「絶対に見つけて殺してやる」
「随分と物騒なことを言うじゃないか。神谷稜」

稜の身が一瞬硬直した。今の独り言を聞かれたばかりか、自分を知る人間に自分の位置を悟られてしまった。今の自分の最大の弱み、位置情報と風紀委員らしからぬ殺意を相手に握られた。最大にして最悪の切り札を声の主に与えてしまったのだ。

「誰だ!?姿を見せろ!」

稜が閃光真剣を出して身構える。ドーム型の遊具の出入り口から一人の男が姿を現した。朝日を背にしており逆光で顔がよく見えない。体格や服装から男性であることは容易に推測できた。
男がドーム型の遊具の中に入った。逆光も弱まり、その面貌や服装の詳細が明確になる。純白の上下スーツにネクタイ、赤のシャツ、少し高級そうなてかてかと光る革靴、いかにも高級感あふれる格好だが、その顔は似つかわしくない三枚目といった感じだった。
肩まで伸ばしたパーマのかかった黒髪に太い眉という時代錯誤なダンディズム。何十年前のドラマとかにいそうな、そんな感じの二枚目ぶる三枚目の男といったところが第一印象だった。

「誰だ…?アンタは?どうして俺の名を?」

稜が訪ねた途端、男が謎のポーズを取り出した。どこかの戦隊ヒーローだろうか。

「美女の瞳から涙が零れれば、地に落ちる前に駆けつける。学園都市の闇夜を掛けるダンディズム溢れるオジサマとはこの俺、一番垂万桜のことよ」
「いや、知らねえよ。誰だよ」
「え?マジで知らないのかよ」

しばらく二人の間に沈黙が走る。稜はこんな男に警戒したのかと落胆の意味で、万桜は本当に自分が無名であることを嘆いて口を噤んだ。

「まぁ、とにかく俺は色々とやっていてな。情報屋も齧ってるからお前さんのことはよく知ってる」

万桜はとりあえず、稜の名前を知っている理由を述べ、彼に背を向けた。

「ついて来な。そこらをほっつき歩いていると風紀委員か警備員に捕まるぜ。今のお前は脱走兵みたいなもんだからな」

この男は稜の顔、名前、それどころか脱走兵のようなものという現状まで知っている。ネットやテレビは注意深く見て自分の脱走が報道されていないことは確認していたので、彼がかなり腕のいい情報屋だということが推察できる。
「俺を……どうするつもりだ?」と稜は万桜に尋ねると、彼はハットを目深く被る。

「ちょっとばかし良い情報を手に入れたんだが、中々買い手がつかなくてな。こいつに一番の値段をつけてくれる奴を捜していたのさ」
「それが……俺だと言いたいのか?」
「ああ。今のお前なら喉から手が出るほど欲しい情報だぜ?」

自分が喉から手が出るほど欲する情報、それは尼乃昂焚や双鴉道化に関する情報だ。稜はこの男がそれを知っているとは到底思えなかった。

「シャワーと洗濯機ぐらい貸してやる。イケてるダンディなおじさんの気まぐれは受け取っておくもんだぜ」

自分の体臭と服の汚れに対する我慢がほとんど限界だった稜にとって、万桜の出した待遇はこれ以上に願ってもないものだった。まだ信用は出来ないが、付いて行って損は無いだろうと判断するには十分だった。

* * *


稜は喫茶店「$ruby(デーメーテール){恵みの大地}」のカウンターでコーヒーを啜っていた。砂糖もミルクも一切入ってない純粋なブラックコーヒーだ。あまりコーヒーを飲まない稜の舌はそれを苦さとしか受け取らない。もっとコーヒーに対して舌の肥えた人なら原材料のコーヒー豆や焙煎方法などを舌で感じ取ることが出来るのだろうか。
隣に座る万桜は嗜むようにコーヒーを飲んでいた。ただ一人の大人として純粋にコーヒーの味を楽しもうと、変なかっこつけも二枚目ぶった動作もなかった。彼が「いつもの2つ」と頼んでいたので飲んでいるものは同じのはずだ。
たった一杯のコーヒーは稜がまだ子供であることを感じさせる。

「――――で、どうして俺はウェイターの格好をしているんだ?」
「男性用の服はそれだけなのよ。丁度いいサイズがあって良かったわ」

カウンターの向こう側で店主の大地芽功美が布で洗ったカップを拭いている。稜がこの店に行くのは初めてだが、それでも彼女の機嫌が悪いことは容易に察することができる。

「それともメイド服の方がお好み?」
「断・固・拒・否・する!」
「そう。残念ね。似合いそうなのに」

芽功美と稜のやり取りを眺めて万桜は苦笑いを浮かべる。

「今日のお前は冗談がきつくないか?」
「機嫌が悪いのよ。定休日なのに『CLOSE』の看板を無視してズカズカと勝手に入って来たお客さんがいるからね」

万桜は再び苦笑いを浮かべる。コーヒーを飲み終え、おかわりを催促した。カップの底をトントンとカウンターに当てて音を鳴らす。

「二杯目は『マオちゃんスペシャルブレンド』で頼みたい。けっこうビターな奴で」
「今からでも大丈夫よ」
「そいつは安心だ」

芽功美は万桜からカップを受け取ると、コーヒーポッドから注ぐ。稜と万桜が最初に頼んだ「いつもの」と同じポッド、中身も変えていないはずだ。稜は不思議に思っていた。「いつもの」と「マオちゃんスペシャルブレンド・けっこうビターなやつ」が同じものだとは考えられない。それは万桜の言葉で推察できる。
芽功美がコーヒーを追加したカップを万桜に渡すとカウンターの奥の暖簾の向こう、おそらく店のキッチンがあるであろう場所へと消えて行った。

「なぁ。そろそろ教えてくれよ。アンタの言う“情報”ってやつをさ」

稜が口を開くと、万桜が大きく溜息を吐き、口元に持って行っていたカップをテーブルの上に置いた。

「坊主。将来の夢とかあるか?なりたい職業とか」

万桜の語りに稜は「はぁ?」と疑問形で返した。今このタイミングで将来の夢の話を持ち出した万桜の真意が分からない。万桜が稜に売りたがっている情報に関わることなのだろうか。この答え次第で稜が情報を売るのに相応しい人間だと判断するつもりだろうか。とりあえず、正直に答えることにした。

「ある。教師になって、警備員(アンチスキル)になって、この街に住む人達を救いたい」
「そうか。じゃあ、お前はそれになる“覚悟はあるか”?」

稜は硬直した。もし問いかけが「なれるか?」だったら「なれる」と簡単に答えることはできる。大能力者で成績は映倫でトップクラス、風紀委員として多くの実績も残している。教師どころかそれ以上の地位だって夢ではない。しかし、万桜が聞いているのは能力ではなく覚悟の問題だった。
稜には枷がある。風紀委員の研修中に仲間を死なせた過去が――自分の無力さを知り、幼くして皆を守るという理想を諦めるには十分過ぎる凄惨な重荷を背負っている。稜はその重荷を下ろすことも振り払うこともない。その重荷は常に稜に囁き続ける。

“お前なんかが誰かを救えると思っているのか?”

「覚悟はある。それが間違いで、俺じゃ誰も救えないと分かったとしても、俺はその道を選ぶ」

それは凄惨な過去に対する抵抗、神谷稜という人間が風紀委員であり続ける理由だ。

「そうか……。もし俺が警備員のお偉いさんならお前の履歴書に不採用の判子を押すけどな」

稜はどうしてか尋ねようと思ったが、口を噤んだ。万桜はそれを察して続けて理由を述べた。

「一度大失敗した人間にもう一度チャンスを与えられるほど、世の中は甘くない。お前はこれからもずっと“失敗者”の烙印が押され続ける。お前がどれほど努力して、どれほど実績を積み上げたとしてもな。もう一度、誰かが命の危機に晒されるシチュエーションにでもならない限りはな」

稜の胸の底が痛み始めた。心臓は圧縮を続けて押し潰されそうになり、胃はキリキリと金切り声を上げる。急性かつ過度なストレスが稜に降りかかる。

「お前は悲惨な事件を気にするあまり風紀委員としての本質を見失っている。風紀委員の本質だけじゃない。お前自身の在り方、風川正美に対する在り方。中三とは思えないくらい今のお前は歪んでいる」

万桜の言葉がうずくまる稜の背中に次々と突き刺さる。

「お前が尼乃昂焚と双鴉道化を相手にするなら、お前は自分の在り方を見直すべきだ。そうしない限り、今の2人はお前を歯牙にもかけないだろう」

万桜の口から衝撃の単語が飛び出した。稜は彼を怪しい情報屋ぐらいしか考えていなかった。もしかしたら見た目に寄らず学園都市トップクラスの腕利きの情報屋かもしれない。だが学園都市の外側、魔術という未知の領域の人間を知っていることは稜の万桜に対する評価を大きく変更させた。
自分への苦しみよりも大きな疑問が浮かび上がる。一番垂万桜という男の存在、彼が何者なのかという疑問。

「あんたは……一体、何者なんだ?」
「名乗っただろ?美女の瞳から涙が零れれば、地に落ちる前に駆けつける。学園都市の闇夜を掛けるダンディズム溢れるオジサマってな――――けど、今のお前には、俺の昔の通り名を教えておこう」

万桜は稜に顔を近づけ、耳元で昔の通り名を囁いた。










“双鴉道化だ”






「尼乃昂焚と今の双鴉道化は、俺が育てた」

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最終更新:2014年12月21日 15:06