今朝方までの眩い晴天は時間を経るにつれて薄暗い雲の割合を多くし、下校時刻となった夕刻に至った現在ではどんよりとした黒い雲が完全に夕日を隠してしまった。
時期は春とはいえゴールデンウィーク前。夕刻から夜に移り変わりゆく今の時間帯で完全な曇り空ともなれば少々以上に肌寒い。
第十八学区の都市設計に合わせた効率重視のシンプルな高層ツインビルからなる校舎。そのため、敷地が狭小なので屋外より屋内の能力開発施設の方が充実しており、
レベル5の測定に耐える環境を整えると謳われる、学園都市が誕生してからそれ程間を置かずに設立されたここ
白帝学園でも、その整えられた通路を冷たさが増した風は我が物顔で吹き抜けていく。
「はぁ~」
青空を覆い隠すどんよりとした雲のような陰鬱な溜息を吐く少女がここに一人いる。白帝学園高校2年生で、
明知中等教育学院が管轄する支部に所属する風紀委員
江城椎野。
今の江城の顔は、まるで出口の見えない迷路に迷い込んだ者が浮かべる表情に瓜二つだ。それもその筈、江城はまさにこれからその出口が見えない迷路の発信地である学院へ赴こうとしているからだ。
(斗修も友佐も容態が安定してきたとはいえ一時的に離脱は免れない。卒業式の件で斗修への賛否両論が明知支部内でも起きている。新しい風紀委員も入ってきた。貴道が支部を纏めてくれている今の内に支部の体制を建て直さないと)
卒業式の件。一部では『伝説の卒業式』と囁かれている数ヶ月前に発生した一大抗争は、学院が生徒全体へ緘口令を敷いた事でごく一部を除いて明知の外へは漏れ出ていない。
江城としても、あの結末を外部へ垂れ流す事に強い拒否感があった事は否定しない。昔から外部への醜態となるケースには特に厳しく対処する学院が緘口令を敷く程だ。
そこにどれ程の醜態があったのか。当事者の一人として動いた江城自身も未だ整理が付いていないのが本音だ。
(今回は私も皆に任せっきりというわけにはいかない。でも、どうする?貴道は斗修が復帰すれば彼女に支部長の座を譲ろうとする筈。そうなったら羽衣は絶対反対するだろうし、他の生徒からも反対の声が挙がるのは必至よね)
本来支部のリーダーを務める・務めないに風紀委員では無い一般生徒が口を挟める余地は存在しない。
しかし、今回は事が事だ。たとえ処分を受けた斗修が反省を活かした上で支部長になったとしても『伝説の卒業式』を在校生として体験した現三年生から反発の動きが出て来るのはまず間違いない。
それだけ現在の明知中等教育学院は荒れている。学年・三部制度・抗争…荒れた要因はそれぞれ違えど、それ等が複雑怪奇に入り乱れて縺れ合って解こうにも解けなくなってしまっている。
(今の一年は先輩達から伝聞で『伝説の卒業式』を耳にする。そこに悪意ある誇張も混じる。唯でさえ最近の明知は陰湿なイジメが増えてきてるのに、風紀を取り締まる私達の足場がガタガタ状態じゃ話にならな……)
「オ~~~~~~イ!!江~~~~~~城~~~~~~~~!!!」
「ンッ!?こ、この声、は…!!」
吐く溜息の数を数える事すら億劫になった最近では無意識に溜息を吐いている事も珍しくなくなった江城が、混迷深まる明知へ向かう為に正門へ重い足を動かしていたところに突如頭上から降ってきた聞き覚えがあり過ぎる声。
高層ビルの一角に存在する生徒会室に備え付けられている大きな窓が全開となっており、そこから上半身ごと身を乗り出し書類を丸めてメガホン代わりにしている男が江城の瞳に映る。
「江~~~~~~城~~~~~~~~!!返事せんか~~~~~~!!」
「ヤバッ!!Gさんに捕まったら…!!無視無視!」
まずい。あのじじくさい人間にホイホイ捕まったら面倒な事になる。そう考えた江城は聞こえていないフリをしてやり過ごす事にした。
さっきまで重かった足取りも心無しが軽くなった。それが嬉しいのか悲しいのかの判断はさておいて、グングン進む速度を上げる江城の眼前には生徒が往来する校門が待ち構えていた。
「よしっ!逃げ切れ…」
「こ~~~~んの~~~~~~おおぉ!!わしから~~~~逃げれると~~~~~思うな~~~~~~よ!!!」
今まで見えなかった出口のように感じられる校門を見て顔を綻ばす江城の背筋が一瞬で冷たく震える。
本能が告げるままに後ろを振り返ると、そこにはビルの壁面を蹴ってこちら目掛けて猛スピードで飛来してくる男が満面の笑みを浮かべていた。
「捕まえた~~~~~!!!」
「ギャアアアアアアア!!!」
「やれやれ。あれだけ声を張り上げとるんじゃ。ぬしの耳にも届いておるだろう?それを無視とはわしは悲しいのう」
「『慣性統御』で突っ込んで女の子に抱き着いてきたセクハラGが何言ってるんですか?」
「わしを来栖先生と同類に見るな。これでもわしは精神が枯れ果てた少年じゃ。いかがわしい情念をおぬしに抱いていると本気で思っておるのか?」
「……いえ。別に。それに、実際抱き着いてなんかいませんしね。後ずさりした私の慣性を操作しただけですもんね」
「その通り。相変わらず察しが良いのう」
「そりゃこうして二人揃って空中をプカプカ浮かんでれば気が付きますよ…
帝白紫天会長?」
突如発生した騒がしい喧騒がこれまた一瞬で終わり、現在男子一人と女子一人が仲良く揃って白帝学園のツインビル付近をプカプカ浮遊している。
これは江城の能力『反発加速』によるものでは無く、彼女がGさんと呼んだ現白帝学園高校生徒会会長帝白紫天の能力『慣性統御』によるものである。
「何じゃ、その改まった物言いは。普段通り『Gさん』でよい。おぬしに会長と呼ばれると、どうしてか体がムズ痒くなってたまらん」
「では『ゴキブリ』なんかどうですか?確か『G』という渾名が生まれた要因の一つですよね?」
「それは幾らなんでも直接過ぎるのう。わし自身自分の事をゴキブリのような生き物だと自覚しておるが、一応白帝の体面も考えてやれ」
「クスッ。冗談です」
江城としては帝白との付き合いはかれこれ5年目に突入する。学院時代自分が行う決闘の審判役を数多く務めたのが帝白である。
それが始まりとなり、腐れ縁となって、現在もこうやって冗談を言い合ったり喧嘩したりする仲を築いている。
江城にとって帝白は一個上の先輩だが、彼を先輩として意識する事は余り無い。対等の関係。それが江城の考える帝白との付き合いである。
「それで、あんなに大声を張り上げてまで私を呼ぶだなんて一体何があったんですか?」
「それをわしに聞くかのう?わしがおぬしに問いたい事は、他ならぬおぬしの顔に書いておると思うんじゃがのう?」
(やっぱりねー)
江城の予想は的中していた。人を楽しませる事に長ける帝白は、何より人をよく見ている。本人さえ気付いていない無意識の機微にさえ気付く観察眼の鋭さは何度も舌を巻かされた。
だが、今回の件を帝白へ伝えるわけにはいかない。緘口令を敷かれている事もあるし、何より部外者である帝白に頼る事などできない。
もう帝白紫天は明知の生徒会会長では無いのだ。たとえ今すぐ解決が困難な問題であっても、あくまで明知の問題は卒業生であり今や部外者である彼では無く、在校生や江城達当事者の手で解決しなければならないのだ。
「部外者は口を挟まないで下さいねGさん?」
簡潔に。より簡素に。無駄な言葉を削いだ一言で帝白の反論を封じる。こういうのは長ったらしくグダグダ言うのではなく、一言でピシャリと言い捨てるくらいで丁度良い。
江城の読みはこれまた当たった。帝白は江城の一言に僅か目を細めるも反論の言葉を紡いでこない。
帝白が分を弁えている人間である事も江城は知っている。それでも踏み込んで来る時は、帝白にとってどうしても譲れない事情がある時に限った話である。
「ふむ。ぬしがそれでよいのであればわしも安易に口は挟まぬよ」
「そうそう。わかればいいんですよ」
「わしも老いぼれ。無理は利かぬ。腰も痛い気がするし、耳も遠い気がする。特に最近は耳が遠くなった気がする。自分の声すらも声を張り上げんと聞こえん気がして仕方ないんじゃよ」
物分りの良い帝白の返答に満足気に何度も頷く江城の鼻先と頬をそよ風が刺激する。表面の中央に【尊大な羞恥心】と描かれた扇子を江城に向けて仰ぐ帝白は、
しきりに体のあちらこちらにガタが来た老人のような仕草を連発しながら、再び手に持っていた書類をメガホン状にし、根元を口に接着させながら下校している生徒達が歩く下方へメガホンを向けた。
「ぬしのように~~~~~~~~!!!やんちゃで~~~~~!!利かん坊で~~~~~!!学院時代決闘に明け暮れた戦闘狂ムググホホホッッッ!!?」
「ハァハァハァ……!!!」
メガホン状の書類を無理矢理潰した勢いで口元がちょっとやばい事になってる帝白を睨み付ける江城。その鋭い眼光は戦闘狂を名乗るに相応しい。
実際江城は学院時代戦闘狂を格好良いと思っていた。学年ではおそらくトップクラスの決闘回数を誇る。そんな江城は当時の自分を黒歴史扱いにしている。
今の江城を評するなら「落ち着いていてしなやかな感じの人物」という評価に落ち着くだろう。故に、事ある毎にボケた老人の如く昔の黒歴史を口にする帝白に江城は結構容赦無い。
「いい加減にしてよね、オトボケG!!痴呆になるにはまだ早過ぎるわよ!!」
「すまんすまん。わしもな、一応気を付けてる気は何時もしておるんじゃが、どうしたって真実というのは何時も一つじゃからのう」
「どっかの探偵の名台詞パクって誤魔化そうとすんな!!」
「あぁ、唇が切れてしもうたわい。……ようわかった。江城。おぬし、またわしと喧嘩する気かのう?」
「…Gさんが望むならやったるわよ。最近イライラしてたし、鬱憤晴らしには丁度いいかもね。やるならこのビルの屋上でね。そこなら誰にも見られる事は無いでしょ」
江城・帝白共に好戦的な目の色に変わる。こうやって学院時代から足掛け4年以上事ある毎に喧嘩してきた。
学院時代は決闘、白帝ではこういうくだらないやり取りからよく喧嘩に発展した。ジャンケンみたいにすごく小さな勝負から学校中を巻き込む大喧嘩まで。
後腐れの無いよう互いに全力で挑んで。全力を出し切って。最後には「何でこんな喧嘩に発展したんだっけ?」と互いに首を傾げながら笑い合える…そんな楽しい喧嘩を何度も。
「全くもってぬしも懲りん奴じゃ。ふん、受けて立つわい。今回の決闘は…」
「決闘は…?」
「にらめっこ三本勝負じゃ!!」
ある有名な女子校に通う生徒は第十八学区を「大人達にとっては理想郷なのだろうが、押し込まれる子供達にとっては監獄」と評価した。
それは真実であろう。しかし、何時も真実が一つとは限らない。受け手である生徒に命分だけの数があるように、各々の受け取り方次第で真実は幾らでも増える。
「ブワッハッハッハ!!!卑、卑怯よその顔はぁ…ブフッ!!ブフフッフッフッ!!!」
「わしの変顔レパートリーをなめるなよ?道化師メイクを用いて人を笑いの渦に巻き込んだ数は到底数え切れん。まさに、わしは変顔の最高到達点に立つ人間の一人よ!!」
「ヒィヒィ。それって何の自慢にもなっていな……ハハハッッハハァッ!!お、お腹がい、いたい~」
第十八学区らしい効率重視の高層ツインビルの屋上で激闘を繰り広げた子供二人の表情は、どう見ても監獄に閉じ込められた顔では無い。
表情筋と腹筋が攣ってしまう程笑い転げる江城は当然として、今なお変顔を彼女へ披露し続ける道化師メイクの帝白の充実感溢れる表情は今が彼等にとってとても楽しい事の証明であると言える。
「見事三連勝を果たしたわしの変顔だぞ?完勝じゃ完勝。それを自慢して何が悪いのだ?」
「ヒィヒィヒィ。ま、まぁ悪くはないけど……あぁ、笑った笑った。こんなに笑い転げたのって何時以来かしら?さすがの私でも、あのカリカリした状況でにらめっこ三本勝負が来るとは予想できなかったわ。どうして今回の喧嘩がにらめっこなのよ?」
「そりゃ決まっておるじゃろ。おぬしが暗い顔をしとったからじゃ」
「…ッ!」
帝白という人間は人を楽しませる事に長ける。そして人をよく見ている。そんな人間が、落ち込んでいる江城の姿を見て何もしないわけなど無い。
5年目を迎える付き合いの長い江城椎野の沈痛な面持ちを眺めて、彼女を元気付けようと動かないわけが無い。
考えてみればすごく簡単に思い付く内容に江城が気付けなかったのは、彼女の余裕の無さを証明しているとも言い換えられる。
「おぬしが何を抱えておるか…予想できん事は無いが、今回は深く立ち入る事はせん。だがの、わしはおぬしの友じゃ。友達であり可愛げのある頼もしき後輩の先輩じゃ。
そんなおぬしを元気付ける事ぐらいはさせてくれ。部外者のわしができる事は最初から限られておる。それでも…わしはおぬしの沈む顔など余り見たくないんでのう」
「Gさん…」
「で?どうじゃ。少しは元気が出たかのう?あれで元気がこれっぽっちも出ないとあらば、わしも落ち込んでしまうのう。老いぼれは気分の浮き沈みも激しいんじゃ」
「…ううん。ありがとうGさん。元気出たよ。元気百倍だよ」
「そうか!ふぅ、ぬしはお淑やかな淑女を目指しておるようじゃが、わしからすれば喜怒哀楽激しいお転婆な活発少女の方が馴染み深くて好きなんだがのう」
「そういう口説き文句はGさんとは別の格好良い男性に言って貰いたいわ。Gさんは精神が老いぼれ過ぎて全然恋愛対象に入らないし」
「心配御無用。わしも恋愛などに現を抜かしておる暇は無いのでな」
「言ったな~。クスクスッ」
こういう関係で良い。一転して淑やかな笑みを零す江城椎野と道化師メイクに染まる顔を扇子で仰ぐ帝白紫天の関係はこれで良い。先輩と後輩の間柄でよく喧嘩する友達。
笑い合う二人は揃って空を見上げる。雲行きが急速に怪しくなってきた空を見て、江城と帝白は屋上から地上へ降りた。
帝白はもう追及する事は無いようだった。その事実に幾分か寂寥感を抱かずにはいられなかった江城は、尊敬する友であり先輩である彼へ精一杯の笑みを向ける。
「今日はありがとうGさん。私…頑張ってくるね!」
「うむ。気張れよ!」
「うん!」
短い言葉を交わした後に江城は足早に校門へ向かっていった。多少元気になったらしい江城の後姿を見送った帝白は目を閉じその場でしばらく逡巡していたが、後方から接近してきた馴染みに気付き、再び目を開けた。
「何か用かのう矯星?今日中に片付けなければならぬ生徒会の仕事は無かった筈じゃが?わざわざわしと扇子の間にプラズマで描いた速記式暗号を浮かべる程じゃ。喫緊の用なんじゃろう?」
「私も質問があるぞG。江城と話し込んでいたようだが、一体何を話していたんだ?」
帝白の質問に質問で返した緑のベレー帽を被る背の高い少女
矯星美璃亜。彼女は白帝学園高校に設置されている
九九支部の長を務めながら、白帝学園高校生徒会書記も兼任する。
帝白と同じく明知中等教育学院卒業生であり、当時は明知中等教育学院風紀支部長を務めた才女。矯星にとって帝白は今も昔も良きライバルであり良き理解者であったりする。
「色々話したかったんじゃが、詳細はなーんも教えてくれんかったわい。あやつが落ち込み始めた…というか何日か理由を明かさずに学園を欠席した日にちを考えると……」
「丁度明知の卒業式と符号する。以前貴様と私の会話でも出たな。今時不良のお礼回りも古臭いと考えていたが……。私も詳しく調べてみたが、符号する該当日時において明知で事件が発生したのは確かだ。だが、詳細は明知支部と風紀委員を統括する上層部しか知らないようだ」
「外部への醜態を嫌う我が母校だが、それでもここまで情報が統制されているとはのう。彼奴なら…今の学院長ならばそこまでやってのけてもおかしくは無いが…」
帝白や矯星の脳裏に浮かぶのは現明知中等教育学院の学院長兼理事長である壮年男性。少年なのに老人の雰囲気を醸し出す帝白とは全くの正反対で40代にも関わらず20代の青年と見間違う程若々しい。
二人にとっては僅か一年の付き合いでしか無かったが、あの学院長の本性に気付けている人間がどれだけいるかは定かでは無い。勿論帝白と矯星…特に帝白は現明知中等教育学院学院長
蕩魅召餌の本性を全てではないものの深い割合で見抜いている。
「では、やはりこれは江城が悩んでいる一件と関わりがあるのかもしれないな。G。これを貴様に。中身は見ていないから安心しろ」
「手紙?差出人は?」
「来栖先生だ。先生とは私的に付き合いがあってな」
「ほう…。どれどれ」
矯星から手渡された手紙と明知で教鞭を執る教師の名に目を細める帝白は、封筒の封を切り中の手紙を取り出し、広げながらさっと目を通す。
極一部の者しか知らない矯星オリジナル速記法で記された簡素な内容の意味を理解した帝白は無造作に手紙を宙へ放り投げる。
怪しくなった雲行きと共に流れるように吹く風に乗って束の間空中を漂う手紙を矯星の能力『流星創雨』で生み出したプラズマレーザーで焼却し、痕跡を消し去った帝白は扇子を閉じ踵を返す。
「何か困った事があれば何時でも私を頼れG。貴様の為なら労力は惜しまない」
「うむ」
矯星の温かな励ましを受け取った帝白は扇子を広げ裏面の中央に描かれた【臆病な自尊心】を彼女へ見せる事で応え、江城が通っていった轍をなぞるように白帝を後にする。
ライバルの背中を見送る矯星は、ふと掌を宙へ持っていった。滑らかな手に落ちて来る雨の粒。それは、学園都市が誇る最高峰コンピュータ『樹形図の設計者(ツリーダイアグラム)』によって予言された本格的な降雨が開始される予兆であった。
「ふぇ~。第十九学区でしかもどしゃぶりの雨とくれば、そりゃ実質的に予約状態だよねぇ」
屋台『
百来軒』を引いて第十九学区にまで来た福百は、どしゃぶりの雨を避けるように近隣の廃れた建物の屋根の下へ屋台を移動させる。
雨が路上を転がる空き缶や建物の屋根に衝突する事で奇妙な音色を発し、さながら即席の音楽隊と化している中で福百は待ち人である常連客をずっと待っていた。
「おぅ。どしゃぶりの雨に負けずにやってるねぇ」
「ようやっと来たか来栖先生。待ちくたびれたよ」
「すまねぇな店主。色々気をつけながらここまでようやく来たんだ。思った以上に時間が掛かったわ」
待ち人来たる。雨粒塗れ安物のビニール傘を畳みながら屋台の暖簾を揺らしたのは、明知の教師であり『百来軒』初期からの常連客である来栖。
先日の休日に来栖の方から福百へお願いし、この日時と場所を指定させて貰ったのだ。その理由について福百は詳しく知らされていないが、どうも数年ぶりに再会する生徒と会う場所として『百来軒』を選んだそうだ。
「まぁいいさ。教え子との記念すべき再会の場としてわざわざ『百来軒』を選んでくれたんだ。店主として誉れに思うこそすれ、邪険にあしらうなんて事はしないよ。初期からの常連客たっての頼みだしね」
「恩に着る。今日は替え玉2つ3ついかせて貰うぜ」
「おうさ!たらふく平らげていってくれ!」
約一週間ぶりの顔合わせとなった福百と来栖は教え子が到着するまで世間話に興じていた。『百来軒』最初の客が最近店に顔を出さなくなってちょっと寂しいとか、
明知生との触れ合いで木登りが得意になってしまったとか他愛の無い話に花を咲かして20分経った頃、近場からバイクの接近を告げる排気音が木霊するようになった。
「おんや?雨が止んだ?いや、でも今晩はずっとどしゃぶりって予言だった筈なのに」
「あー来たんだよ、俺の教え子がな。あいつ、相変わらず面白ぇ事するな」
コップに注がれた水を飲んでいた来栖は、屋台周辺限定で雨音がしなくなった現象を不思議に思う福百の疑問に応える。
福百が外を覗けば、そこには雨粒が空中で全て静止している異様な光景があった。そして、福百の視線の先からは、屋根の下へ停めたバイクから降りて歩いて来る和服に身を包んだ少年がいた。
「ここが噂に聞く『百来軒』かのう?…おぉ、お久し振りですな来栖先生。待ち合わせの時刻には間に合いましたかの?」
「あぁ。帝白よぉ、お前が約束を破った事なんて今まで一度も無ぇじゃねぇか。店主、俺とこいつに大盛り頼むわ。味は任せるぜ!」
「あいよ!ようこそ教え子さん!ここが知る人ぞ知る…らしい『百来軒』だよ!今日は再会を祝う席だそうで。私も全力で作るよ。腹一杯堪能していってね!」
「うむ。よろしく頼む」
臙脂色の作務衣を着こなし、草履を履き、扇子を広げ、差していた唐傘を畳みながら屋台の暖簾をくぐるじじくさい少年帝白紫天が席に着いた。
今ここに『百来軒』を舞台とし、明知の現役教師と明知を卒業した元生徒会長が2年ぶりに顔を突き合わす事と相成ったのである。
…to be continued
最終更新:2015年12月29日 23:25