暗く沈んだ廃墟街の一角で、気怠げに老朽化した家屋の屋根へと腰を下ろしているのは英霊ヘクトールだ。
  その姿は完全に草臥れた壮年男性でしかなく、かつてトロイア戦争にて獅子奮迅の活躍を見せ、彼の死さえなければ結末は違ったかもしれないと惜しまれたほどの男とは到底思えない。
  が、彼にしてみればそう軽視してくれることこそが一番都合がいいのだ。
  常に本気を出さないように見せかけてはいるが、実際のところはその真逆。
  ヘクトールは常に本気でいる。ただ、それを悟られないようにしているだけ。
  それに気付けずまんまと油断した相手には、お礼の代わりに正確無比な刺突が飛んでくる。

  そのスタンスを崩すつもりは、たとえ聖杯戦争だろうと――いや、聖杯戦争だからこそ、ない。
  ヘクトールがこの地ですべきことは単純明快。マスター・ルアハを勝利させることだ。
  彼女が最終的に何を志すにせよ、この電子世界の露と消えさせる訳にはいくまい。
  その為ならば、ヘクトールは手段を選ばない。
  彼らしいやり方で、確実に勝利を掴むために暗躍する気でいる。

  そんな彼にとって、先程遭遇したサーヴァントは先行きを曇らせる暗雲に他ならなかった。
  聖餐の杯を自称する聖職者が垣間見せた、まさに不朽と言う他ない防御力。
  完全な無防備を全力で突いたにも関わらず、自分の槍は彼の柔肌一枚切り裂くことすら出来はしなかった。
  マスターに狙いを定めて戦うにしても、まず一筋縄では行かないだろうとヘクトールは思う。
  あの男は恐らく、自分と同じか、もしくは馬鹿の振りをした知略家だ。
  少なくともみすみすマスターを無防備にし、殺せるチャンスを簡単にくれるとはとてもではないが思えない。

  それに加えて何らかの……恐らくは対城宝具級のとんでもない切り札を隠し持っていると来た。
  自分の宝具も生半可な英霊のものには決して負けない自負はあるが、それでも過信は禁物だ。
  そういう点を踏まえて、現状ヘクトールにはあのサーヴァントを討伐する手段がない。
  真っ向勝負が通じず、策謀にも長け、尚且つ敵対するより何倍も味方にした方が恐ろしい相手となればいよいよ八方塞がりだ。
  聖杯も、随分と厄介な輩を呼んでくれたものだと嘆息する。

  とはいえ幸い、あちらに急いで事を起こすつもりはないようだった。
  対策を考える時間は余るほどある。
  それは敵にとっても同じことと思うとまた気が滅入るが、ここは素直にありがたいと思っておくことにした。

 「ま、目下の問題は奴さんじゃあないんだよねぇ」

  ヘクトールは肩を竦める。
  たとえ難儀であろうとも、抜け道がある以上はそこを突けばいい話だ。
  聖餐杯もサーヴァントであるのには違いないのだから、何かしら隙はある筈。
  真に問題とすべきなのは、その抜け道すら見つからない事柄。
  即ち、彼のマスター。
  幽霊屋敷の自動人形。
  ランサーは未だその本当の名前を知らないが――ルアハ・クラインその人である。


  聖杯戦争を認識はしているようだが、しかしそこから先のステージへ進む気配がない。
  それがルアハの現状だ。最低ラインに達してこそいるものの、やはりそれまででしかない。
  悪罵を叩くつもりはないが、単純な事実として、この地に集ったマスターの中でルアハは間違いなく最も大きな遅れを取っていることだろうと思う。
  実質、今のヘクトールは孤軍奮闘状態だ。
  マスターの指示は期待できず、方針から戦闘に至るまで、全てを己の体と頭で対応しなければならない。
  これは言うまでもなくなかなかに芳しくない状況だ。
  トロイア戦争の経験が活きる場面といえば聞こえはいい。しかし無論、ヘクトールが全身全霊を注がずとも罷り通る状態であるに越したことはないのだ。
  一人の存在の有無で勝敗すら左右される状況を、この戦争にまで持ち込む理由もないだろう。

  自動人形を自称する彼女。
  まず、そこから間違っている。
  モラトリアム期間から今に至るまで付き合ってみて、疑いは確信へと変わっていった。
  ルアハは人間だ。少なくとも、それだけは間違いない。

  彼女がどういう経緯でそうなったのかは、ヘクトールには定かではない。
  何かがあったであろうこと、そこにあの馬鹿でかい邸の主「だった」という人物が関わっていることまでは分かった。ただ、根本からしてヘクトールとルアハは生きた世界が違うのだ。
  異形都市インガノックについての知識を、彼は持たない。
  だからルアハの体がどうなっているのかにまでは、彼はまだ踏み込めずにいた。

  とはいえ彼女が仮に正気に戻ったとして、やはり戦力にはまずならないだろうことも彼は理解している。
  これで実は魔術の心得があった、それも高位のものだ、なんてことになれば話は変わってくるが、まさかそこまで美味しい話が転がっている筈もない。
  されど、何を目指すかがはっきりとしたならば、やりやすくはなる。
  茫洋とした霧の中を闇雲に進み続けるよりかは、遥かにだ。
  だからヘクトールとしては、ルアハには早いところ現状を脱却して欲しかったが、あの状態の彼女にそれを面と向かって言うのは酷であるし、それ以上にそんな力技でどうにかなるとも思えない。
  今は待つしかないのが実情だった。彼女が何らかの転機に触れ、殻を破ることを。

  ……その時、ヘクトールは遠くの方から地鳴りのような音を聞いた。
  砲――だろうか。
  あの封鎖終局四海で耳にした音とよく似ている、そんな感想を抱く。

 (おいおい、まさかこんな真っ昼間からおっ始めてんのか? いやぁ、命知らずだねぇ。若いっていうかなんというか……オジサンもああいう時期があったっけなあ)

  音の方角は街の方からだった。
  十中八九聖杯戦争に関連した、攻撃行動に伴って発生したものだろうと推察できるが、こんな白昼から堂々とここまで聞こえる音を鳴らすとなれば人目を相当引き付けるのは想像に難くない。
  居場所を特定してくれと言っているようなものだ。
  流石に今から出撃するような真似はしないが、もしも近場だったなら、ヘクトールは赴いていたろう。
  聖杯戦争の定石に当て嵌めて考えれば、愚策もいいところの掟破りである。

 「それにしても――定石、ね」

  思えばそれは、今更の話だった。
  この聖杯戦争は、その様式からして定石を外れている。
  七騎で行う筈の前提は崩れ去り、舞台はそもそも現実ではない仮想の空間だ。
  またしても、ヘクトールが召喚されたのは『まともな聖杯戦争』ではなかった。
  前に召喚されたのは聖杯戦争と言うより、聖杯争奪戦とでも言うべき様式であったし、どうにも自分は聖杯戦争に関しては引き運がよろしくないらしい。

  こんなにも普通でない聖杯戦争なのだから、何かしらの裏がある可能性もヘクトールは考えていた。
  存在だけは知らされているが、未だ姿を直接現さない正体不明のルーラー。
  この仮想世界が如何なる経緯で――誰の手によって創り上げられたのか。
  ルーラーを召喚する前に、もっと言えば聖杯戦争の機構が整うよりも前に、まず世界を創造した人間が居るはずだとヘクトールは考察する。
  そしてその人物もルーラーと同じく、未だに表舞台に姿を見せる気配がない。
  このことから、ヘクトールはどうにもきな臭さを感じずにはいられないのだ。
  何か、裏がある気がしてならない。
  無双の将軍としてではなく、頭の切れる政治家として八面六臂の活躍を見せたとも伝えられる彼らしく、槍兵は誰も思案の先を向けなかった点に危惧を飛ばす。
  今は無問題だが、いつか問題にならないという保証はないのだから。


 「……さてと。もう昼時だ。一旦オジサンも、マスターんとこに戻るとしますかね……」

  ――わざとらしく独り言を呟いたかと思えば、ヘクトールはぐるりとその首を回した。

 「っていう訳で、見張り番代わってくれるかい?」

  視線が合う。
  それを認識した瞬間相手は弓を引いた。
  ヘクトールもにやりと笑い、槍を握った。
  遠くの屋根の上から彼を睥睨する弓兵のサーヴァントは、獣の耳を生やしていた。
  なかなかに奇抜な見た目だが、重要視すべきはそこではない。
  真に重要視すべきは、どうやらあちらは面倒な搦め手に訴える気配も、それに応じる気配もないということだ。

 「いいね――やり易くて助かるぜ!」

  寸分狂わない精度で放たれた数発の矢を、軽やかな槍捌きで一矢残さず払い除ける。
  第二射がやって来るのを悠長に待つお人好しはいない。ヘクトールは蔓の張った屋根瓦を踏み台に隣の家屋へと飛び移り、また屋根を伝ってアーチャーへの距離を詰めに掛かった。
  ――が。

  アーチャーも当然、同じ手を使って撹乱に出る。
  ここまでは予想通りだが、問題はその動きだ。
  ヘクトールの乱雑な挙動に比べて、アーチャーの動作はまさに流れるようでさえある。

  『飛び移る』のではなく、『飛び越える』かのように建物と建物をたやすく行き来し、矢を放つのだ。
  速度ならば、恐らく互角。ステータスにしてAランクであるのは間違いない。
  そしてあの動きは、スキルによるものだろう。個人の技量として考えるにはあまりにも華麗過ぎる。彼女自身の敏捷性も相俟って、移動力では完全にヘクトールはアーチャーを下回っていた。

  身を穿たんとする矢は、四方八方よりヘクトールを針の筵にせんとやって来る。
  一発の無駄撃ちも期待できない。
  そのことは、戦っている彼が最もよく理解していた。
  流石はアーチャーのサーヴァント。その名に違わず、弓を使う正統派の英霊。
  この現代では弓を得物にする者など奥地の部族程度しかいないであろうが、だからと言って決して型落ちなどではないのだと、彼女の奮戦ぶりが証明しているようであった。
  当然ヘクトールは、いつもの如く微塵の油断もしていない。
  一撃一撃が必ず致死に繋がるというほどの火力でこそないが、だからこそ恐ろしいのだ。

  脚力と飛び越えのスキルを併用して繰り出される弓射は、ヘクトールを早くも追い込みつつある。
  未だ傷一つ負ってはいないし、これから負ってやるつもりもなかったが、戦況は防戦一方もいいところだ。
  楽に勝たせちゃくれないらしい――それを悟るや否や、槍兵は不意に動きを止める。
  殺到する槍の旋風を打ち払って、彼は静かに、しかし確たる力強さで呟いた。


 「一旦、"仕切り直し"と行こう」


  発言と同時に、彼はアーチャーへの突貫を開始した。
  速い。
  これまでの戦闘の流れなど完全に無視した唐突さで、しかし先程とは比べ物にもならないペースでもって、俊足のアーチャーとの距離を詰めていく。
  それにアーチャーは驚きの表情を見せたが、理由に思い当たったのか、すぐに再び足を動かした。


  仕切り直しというスキルが有る。
  それは戦場を離脱する能力であり、同時に戦闘を文字通り『仕切り直す』力でもある。
  ヘクトールは今、完全に自身の劣勢で進んでいた戦闘の流れをこのスキルによって仕切り直し、戦闘の開始時と何ら変わらないまっさらな状態に流れを引き戻してから動き始めたのだ。


  前方から飛来する矢を苦ともせず間合いを詰めること数秒。
  遂にアーチャーはヘクトールの槍の間合いへと入る。

 「――そらよ!」

  裂帛の気合を孕んで突き出された一刺は、彼が大英雄と称されるのを裏付ける程に鋭敏であった。
  速度も威力も狙いも、互いの間合いも含めて全てが確実。
  当たれば殺すと言っては大袈裟だが、限りなくそれに近いものが、今は放った一撃だ。
  耐久力に悖るサーヴァントなら、少なくとも大きな手傷を与えられる筈――だが。

 「甘いぞ」

  笑ったのはアーチャーだ。
  その俊足は至近距離においても遺憾なく発揮され、ヘクトールの一撃を間一髪、されども予定調和のものとして回避する。だがそれを予期していないほど、彼は無能ではない。
  追撃はアーチャーの喉元を狙う事にした。ど真ん中に狙いを定めれば、回避の難易度は僅かながら上昇する。
  ましてや槍の名手が放った攻撃であれば、掠り傷程度の当たりでも頸動脈へ達する可能性は十分に存在するのだ。戦いを決着へと導くにあたり、ヘクトールの取った手段は実に彼らしい最良のものであった。

 「うおっ――!?」

  が、その槍はまたしてもアーチャーを捉えない。
  突き放つ一瞬の間隙を縫って、アーチャーの矢がヘクトールの肩口に一本突き立った。
  痛手としては大したことはないし、戦闘を行う上で支障が出るほどの傷でもない。
  それでも、ある意味では通常時のクリーンヒット以上の結果を、今しがた放たれた一矢は生み出した。
  ヘクトールほどの使い手でも、攻撃の瞬間というデリケートなタイミングに予期しない痛手が与えられれば、たとえそれが小さなものであれ、微量な軌道のブレを生むのは避けられない。
  アーチャーは意図的にそれをこの一瞬で作り出し、彼の槍を再度避けてのけたのだ。

  それは彼女のもう一つのスキル――『追い込みの美学』に起因する。
  敵に敢えて先手を取らせ、行動を確認してから先回りして行動するという、狩人ならではの技。
  彼女はヘクトールの攻撃行動を視認し、それよりも速く矢を射り、彼の必殺を無力化したのである。

  槍兵は、これ以上は思う壺だと判断しその場を飛び退いた。
  そこへ間髪入れず降り注ぐ矢の雨を、不完全な体勢から全弾打ち落とす辺りは流石にトロイアの大英雄というべきだ。窮地にあっても、そこに隙はない。
  アーチャーも、既にそれは学習した。英雄として、槍兵として、敵のランサーは疑うべくもない強者だ。
  長期戦になろうともどっしりと構えて戦えるだろう隙のなさ、技量、足の速さに優れる自分と同等クラスの敏捷性、どれを取っても一級品の難敵。
  そう認め、評価したからこそ、冗長さは無用だとアーチャーは判断した。

 「決めるぞ」

  静かに、厳かに、その弓と矢が上空を向く。
  その動作を見て、瞬時にヘクトールはこれから何が起こるのかを悟り、動きを止めた。

  ……迎え撃つ気か。
  となれば、敵も宝具を撃ってくると考えて間違いあるまい。
  迎撃を受けて呆気なく死ぬようでは笑い話にもならない。
  油断なく敵の動向を窺いながら、自身の宝具を開帳すべくその矢を引き絞り――


 「――参った! 降参だ、降参!!」


  いざ天へと矢文が放たれんとする瞬間、ヘクトールは自身の槍を地面へ突き立て、ひらひらと両手を上げた。




  アーチャー・アタランテには、ヘクトールの行動が一瞬理解できなかった。
  いざこれから宝具の衝突と身構えつつ、発動へ一手をかけんとした丁度その瞬間の出来事だった。
  ヘクトールは白旗を揚げ、これ以上の交戦意思がないことを示し始めたのだ。

 「……命乞いのつもりか?」
 「半分正解だが、半分不正解ってとこだな」

  彼女の顔が怪訝さを増す。
  虚を突かれはしたが、アタランテは油断はしていない。
  一秒後に突如敵が発言を撤回し、その槍先で自分の心臓を穿たんとするかもしれない――そこまでの警戒を払いながら、戦意を捨てたヘクトールへと相対していた。

 「あんた、今宝具を発動しようとしたろ? そして当然、オジサンも宝具は持ってるわけだ。……自分で言うのも何だけど、結構派手なヤツだぜ。
  おたくの宝具がどんなもんかにも拠るけどよ、下手すりゃ相討ち、上手く行きゃあこっちの一人勝ちにだってなり得るかもしれねえ。それくらいには良いモンを、オジサンは持ってるわけさ」
 「だからこれ以上は無益だと? ……戯言を。自信家なのは結構だが――」
 「そう早合点しなさんなって。けど無益ってのは当たってるぜ。当然、オジサンが打ち負けて敢えなく座へさようならー、なんてこともあり得るわけだ。
  お互いに抱えるリスクは同じ……なら折角だし、ここは一つ、勝負を持ち越さねぇかって話ですよ」

  下らない。
  アタランテは失笑でそれに応じる。

 「持ち越してどうする。遅かれ早かれ、殺し合うことは変わらないだろう」
 「そりゃごもっともだ。けど、丸っきり変わらないって言うとちと語弊がある」

  ヘクトールとて、それなら今ここで決着を着ける方を選ぶ。
  だが、少なくとも彼は違うと読んでいた。
  戦いの際に相手から垣間見えた、鬼気迫るもの。
  言い方を変えれば、焦りとでも言うべき感情。
  それがどこから来るものか、ヘクトールには察することができた。

 「――手を組まねぇかい、『麗しのアタランテ』」

  アタランテの顔色が、明らかに変わった。
  当然だろう。
  真名を看破されて平然としているサーヴァントの方が、聖杯戦争では異質に部類される。

 「その俊足、岩と岩を飛び回るような足捌き……
  おまけに狩人めいた戦い方。悪いね、オジサン今日は冴えてるみたいだわ」
 「……貴様……」
 「怖いねぇ、睨まないでくれよ。オジサンこれでも、おたくを脅すつもりなんてこれっぽっちもないんだぜ?
  オジサンはちとばかし、厄介なマスターに喚ばれちまった身だ。
  悪い奴じゃあ決してないんだが……こればかりは実際に会わないと分からないと思うけどな、とにかく、ちょっと問題ありな娘を抱えちまったわけよ」

  交渉の際には、嘘と真実の割合が重要だというのは昔からの定説だ。
  しかしこの場に限って、ヘクトールは一切の嘘を語ってはいなかった。
  ルアハは悪人ではない。ただ、難儀な人物である。
  彼の聖杯戦争に暗雲を立ち込めさせる要因の一つとなり得るくらいには、厄介なものを抱えている。

 「そんで、見たところそっちも同じなんだろ? だったらお互い、マスターが危険に曝される機会は少ないに越したことはねぇってもんだ。悪い話じゃないと思うんだが、どうだい?」
 「…………」

  ヘクトールの理屈には筋が通っていた。
  故にアタランテも、逡巡を余儀なくされる。
  彼の提案は、決して彼女にとっても悪いものではなかったからだ。

  間桐桜
  アタランテのマスターは、心に深い傷を負った子どもである。
  今も廃墟の一室でぼんやりとした時間を、孤独にひっそりと送っている。
  それが彼女のためにならないと理解はしているが、こればかりはどうしようもなかった。
  安全のことを抜きにしても、公共機関に預けるのが彼女のためになるとは到底思えない。
  かと言って――あの暗い部屋で延々と代わり映えのしない時間を過ごすことが、彼女にとっての幸福になるかと問われれば、それはもっとあり得ないことだった。

  ヘクトールと同盟関係を結べば、少なくともその点については改善される。
  彼女は、一人ではなくなる。
  言うまでもなく、そこには敵のマスターが全くの善玉とは限らないという問題があったが……

 「もしも、だ」
 「うん?」
 「もしも私のマスターに危害を加えようとしたならば、私は汝のマスターを殺すぞ。
  問答の余地なく、必ずその心臓へ矢を穿つ。――構わないな」
 「……ああ、了解さ。マスターにはその点、きっちり言い含めとくからよ。安心していいぜ」

  そのリスクを押してでも、この同盟関係には利点が大きかった。
  ヘクトールという戦力を新たに加えられたことで、桜への守りの盤石さもまた向上する。
  疑心に任せて切り捨てるには、あまりに惜しい話であった。
  だからアタランテは、この話を呑むことにした。
  ……無論、いざとなればいつだとて、彼らを殺すことは躊躇わない。そう覚悟した上で、だ。

 「ふー、よかったよかった。これでオジサンもちったぁ楽になるぜ」

  伸びをするヘクトールの気の抜ける態度に辟易しつつ、アタランテは踵を返す。
  桜へも、この件のことを知らせなければならない。
  拠点をあちらのものに変えるならば、迎えに行く、ということになるか。

 「……ランサー。聞いていなかったが、汝らの拠点は何処だ」
 「ん? あぁ、あれだよ。見えるだろ」

  ヘクトールが指差した、その先。
  廃墟街の中でも一際大きな、幽けく聳える屋敷。
  幽霊屋敷と噂される――アタランテが桜に与えているものとは比べ物にならないほど、大きな建物だった。




  昼間でも光の通りが悪く薄暗い部屋から、間桐桜は連れ出された。
  夜に帰ってくる筈のアーチャーに連れられて向かった先は、とてもとても、大きな建物。
  薄暗いのは変わらないし、埃臭かったが、それでも前の家よりはずっと広く伸び伸びとした空間だった。
  別に、桜は広いところへ行きたいわけじゃなかった。誰かと会いたいわけでは、もっとなかった。
  アーチャーが無事ていてくれれば、それ以外に望むことなど何もなかった。
  何もないということは幸福だ。楽しいことがない代わりに、苦しいこともないのだから。

  バネの壊れたソファーにコートを羽織って座り、桜は室内の人影を順を追って見つめていく。

  見慣れた、アーチャー。
  少し気を張っているように見え、いつもより怖い印象を受けたが、やっぱり彼女の存在は安心できる。

  次に、知らない男の人。ランサー。
  槍を持って、どこか気怠げな雰囲気を漂わせている。
  初めて桜と出会った時はにへらと気の抜けたように笑い、「オジサンが守ってやるからなぁ」とか言っていた。
  きっと強い人なのだろうと桜は思う。彼がアーチャーを守ってくれるなら、それはいいことなのだろう。

  ――そして、自分を人形と呼ぶ、女の子。

  桜よりはずっと年上の彼女。
  桜はアーチャーのマスターだが、彼女はランサーのマスターであるらしかった。
  彼女を見た時桜が抱いた感情は――幼い彼女が持つ語彙では表現できないものだった。
  成長を遂げ、とある少年と出会う頃の桜であったなら、親近感という言葉を使ったに違いない。
  見た目は違う。歳は、彼女の方がいくつも上だと分かる。
  けれど、彼女はとても、自分に似ていた。

 「どうぞお寛ぎ下さいませ、マスター・桜様」
 「……ありがとうございます」

  その口調や動作はまるで、機械のよう。
  けれど姿形も、瞳も、紛れもなく人のもので。
  どこか孤独に閉じている印象を受ける彼女の雰囲気は――何度見ても、自分に似ている。桜はそう思った。

 「……あの」
 「何でしょう、桜様」
 「……お名前は、なんていうんですか」
 「私に型式番号は付属していません。私はオーダーメイドです」

  型式番号。
  オーダーメイド。
  桜には、よくわからなかった。
  ただひとつだけわかったのは――

 「……わかりました。よろしくお願いします、お人形さん」

  やっぱり、この人は人形なんかじゃないんだという、幼少期特有の直感による確信だった。
  だからと言って、どうするわけでもない。
  何も変わらない。
  ただぼんやりと流れる時間を過ごすだけ。
  何も、変わらない。そう、何も。

  間桐桜は、もう一度人形を見た。
  綺麗な瞳と、綺麗な姿をしていた。
  こうして桜の世界に、人が増えた。




 「な、言ったろ? オジサンのマスターは善玉だってさ」
 「確かに急を要する危険はないようだが、まだ完全に信用したわけではない」
 「つれないねぇ」

  ヘクトールは肩を竦める。
  一方のアタランテはと言えば、自分の判断は正解だったようだと改めて思い始めていた。
  彼にはこう言ったが、あの少女が桜に危害を加えはしないだろうことは、見ればすぐに分かった。
  同時に、彼が難儀と称した理由もだ。
  アタランテは一応声を抑えて、ヘクトールへと問い掛ける。

 「ランサー。彼女は、人間だな」
 「……まぁ、そうだろうねぇ。どっからどう見てもありゃ人間だぜ」

  機微は無機質で、実際にその口調も機械的だが、しかし英霊たる彼らの目までは誤魔化せない。
  自動人形を名乗る少女は、桜と変わらないひとりの人間だ。
  如何なる経緯があって、彼女は自動人形になったのか。
  それにアタランテは踏み入るつもりはないが、確認の為の問いだった。
  肯定が返ってくれば、だろうな、とだけ答えてまた沈黙する。

 「名前も分からねぇってのは色々と面倒なんだが、こればかりはあちらさんの問題だ。お手上げってやつさ」
 「そうか。……ところで、ランサー。もう一つ確認しておきたいことがある。
  ルーラーによって発布された討伐令――令呪一画を報酬とした、殺人鬼狩りのクエスト。
  汝は、あれに一枚噛む気でいるのか?」
 「迷うところではあるけど、現状は取り敢えず見送るつもりでいるぜ」
 「なら良い。私もそのつもりだ」

  ヘクトールとアタランテの考えは一致していた。
  討伐クエストに直接は参加せず、あくまでその達成に向けて動く主従を狙う。
  令呪は確かに魅力的だが、下手をすれば二十以上の主従が殺到するような乱痴気騒ぎに関わるには、一画ぽっちの報酬は少々釣り合わないと彼らは考える。

 「……夕方までは私が遊撃を行う。汝はその間、引き続きここの防衛を頼む」
 「あいよ、了解。狩人さまのお手並み拝見ってな」
 「軽口は身を滅ぼすぞ、ランサー」

  溜息を吐き、アタランテは桜を見た。
  その目は、自動人形を見ていた。
  ――行ってくる。
  そう静かに呟いて、彼女は霊体となり、動乱のK市へと姿を消した。


【A-8/ゴーストタウン・幽霊屋敷/一日目・午前】


【ルアハ@赫炎のインガノック-what a beautiful people-】
[状態] 健康
[令呪] 残り三画
[装備] なし
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:自動人形として行動


【ランサー(ヘクトール)@Fate/Grand Order】
[状態] 疲労(小)、肩に軽度の刺し傷
[装備] 『不毀の極槍(ドゥリンダナ)』
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:とりあえず、程々に頑張るとするかねえ
1:拠点防衛
2:『聖餐杯』に強い警戒
3:アーチャー(アタランテ)との同盟は、今の所は破棄する予定はない
[備考]
※アタランテの真名を看破しました。


【間桐桜@Fate/Zero】
[状態] 健康
[令呪] 残り三画
[装備] 大人用コート(下は全裸)
[道具] 毛布
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:アーチャーさんの言いつけを守ってじっとする
1:…アーチャーさんにぶじでいてほしい
2:どうして、お人形さんは嘘をつくの?


【アーチャー(アタランテ)@Fate/Apocrypha】
[状態] 疲労(小)、精神的疲労(大)、聖杯に対する憎悪
[装備] 『天窮の弓(タウロポロス)』
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:もう迷わない。どれほど汚れようとも必ず桜を勝たせる
1:遊撃。何かあればすぐ桜の元へ戻れるようにしておく
2:討伐クエストには参加しない。むしろ違反者を狙って動く主従の背中を撃つ
3:正体不明の死霊使い、及びそれらを生み出した者を警戒する
4:ランサー(ヘクトール)との同盟関係を現状は維持。但し桜を脅かすようであれば、即刻抹殺する

BACK NEXT
想いは伝わらない 間桐桜&アーチャー(アタランテ) 狩る者、狩られる者
不毀なるもの ルアハ&ランサー(ヘクトール) 狩る者、狩られる者

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2016年05月25日 16:52