最後につじつまがあってりゃ何やってもいいんだよ
♠ ♥ ♣ ♦
事態は動きつつある。
図書館では
シャッフリンが動かし、そして少し離れた場所では今まさに乱入した狂戦士が動かしている。
否、ここではどうしてもシャッフリンが動かさなければならない。
お互いに同盟を結んで聖杯戦争を勝ち抜くために利益を得ようなどという最初の方便はもはや完全に本音と建前の使い分け以前の茶番と化しており、
お互いがお互いに『殺す機会を見つけるためにとりあえず同じ席を設けている』状態だ。
ここまでのやり取りから分かる『田中』という少女の存在はあまりにも危険だった。
シャッフリン達だけならばまだしも、そのマスターであるおそ松までに臨界点寸前と見える憎悪の矛先が向いている。
そういう私情で動くことはないシャッフリンにも、それが人間の感情の中でも極めて激しいものであり、当人でさえ制御が及んでいないものだと見て取れた。
これでは聖杯を手に入れるという本懐を忘れて、今にもアーチャーに宝具の使用を命令しておそ松たちの殺害を優先する……という事態になってもおかしくない。
そして、シャッフリン達にとってはそのアーチャーこそが目下のところ脅威となる。
シャッフリン達の攻撃では何をしても傷つけられないことが分かっている上に、どんな攻撃手段を持っているのか全く分からないのだから。
だから彼女は、風の実験体をクラブのスートが捕捉したという状況を理解するや、要求した。
『こちらが攻撃されない限り、主従の数が残り十組を割るまで、『風の実験体』の主従には手を出さないと約束する。
何ならマスターに令呪を使っていただき、『人造魔法少女の主従には手を出さない』という制約をかけてもいい。
その代わり、アーチャーのマスターには令呪を一画使うことを要求する。
内容は、『アーチャーに
松野おそ松、シャッフリン主従へのあらゆる敵対行動を禁じる』こと。
これがなければ、今後は同席することなどできない。』
それは、もはや交換条件ではなく脅迫して従わせるに等しい要求だ。
人造魔法少女ならば魔法少女の中でも極めて戦闘向きの性質を持っており、その分だけ潤沢な魔力を持つ『田中』が令呪を使って命じれば、かなり強制的な効力を発動させるだろう。
――そして、それができないのならば、この場でシャッフリンから交渉決裂と見なされてマスター殺害にかかられても仕方ない。
彼女らの元主人であるグリムハートさえかくやというほどの、有無も言わせない要求だ。けれど押し通すしかない。
もちろん、田中たちもこの交渉のテーブルにつくことを決めた以上、この場で襲われた時の対策ぐらいはしているだろう。
(たとえばアーチャー達が一度もテーブルの上に手を置かないのは、テーブルの下で携帯か何かを操作して、この世界の匿名掲示板にでも『遺言(自分たちが知り得る限りのシャッフリン達の情報)』を打ち込み、ボタン操作一つでばらまく準備でも整えているのではないかと踏んでいる)
それでも押し通すしかない。それがジョーカーにできる最大限の譲歩ラインだ。
もはやジョーカーは、『これから悩まされるかもしれない予想できる被害(=ここで田中を殺害しにかかったリスク)』よりも、
『どんな形でいつ嵌め殺されるか予想できない、絶えず背中にある刃(=アーチャー達と令呪の縛りも無しに同盟するリスク)』の方が、よほど危険だという結論に達していた。
そして、ある程度は押し通せるとジョーカーは読んだ。
「どこまで、人の仲間を、踏み躙る、つもりですかっ……悪魔ども!!」
棒立ちのままそう叫んだ田中の声は、ほとんど声というよりも咆哮だった。
【あの、ジョーカーちゃん? 俺ら完全に悪役になってるんだけど……】
【奴等にとって我々は最初からずっと悪役です。問題ありません】
【そういう問題!?】
彼女に、『その場所にいる仲間はおそらく同一人物だ』と理解させるのにはだいぶ時間がかかった。
あらゆる時代と世界から、英霊と召喚者を呼び寄せるのが聖杯戦争だ。
既に失われた命だからといって、臨終の際に聖杯に招かれていても不思議はない。
同じ世界の同じ時代で仇敵同士だった魔法少女たちがここに、1人は『サーヴァント』として、もう1人は『マスター』としてそれぞれ招聘されている例もある。
NPCが作り物なれど命を持っているように、命を作りだす術もある。
ならば風の魔法少女が生きていることに何の不思議があるか。
それでも信じられないようだったので、変身前の少女の特徴を次々と挙げた。
シャッフリンたちは人間の言葉を理解できないけれど、会話を聞いていればマスターの名前が『メイちゃん』だということぐらいは理解できる。
変身前の体格は小学校低学年程度で、髪形はふたつ結び。
魔法少女に変身する直前はこういうポーズを取って叫び、変身した直後にはこういうポーズを取る。
『魔法の国』の人間では知らないはずの私生活に関わる特徴を他のシャッフリンの身振り付きで挙げれば、田中はやっと理解したように顔色を変えた。
そして、理解してしまえば田中は仲間のことを見捨てられない。
仲間の復讐をうたう者が、同じ口で『実はここで生きていました』という仲間を見捨てれば復讐の大義も何もかもなくなる。
それは簡単な論理だし、それが人間の感情だとシャッフリンでも理解できる。
怒りで思考もままらないのか、少女は襲いかからんとするその身体を横合いからアーチャーの腕で抑えられている様子だった。
そのアーチャーが、田中に代わって質問を重ねた。
人質を取るというのなら、まずは現在その『風の実験体とそのサーヴァント』が置かれている状況について詳しく教えてほしい。
人質の正確な状況を知らなければ、こちらは『人質には手を出さない』という保証にどれほどの信頼を置いていいのか分からない。
目下のところ安全な状況にいるのか、すぐに脱落するおそれは無いのか、監視するシャッフリンも含め周囲には他にもサーヴァントやマスターがいるのか。
それを伝えるのが人質を取る側としての義務でしょう、と。
正論だった。だからシャッフリンは説明した。
今のところ、同盟相手らしきマスターがそばに二人いた。
1人は小学生らしき少女で、もう1人は成人男性。見たところどちらも魔術師らしくはない。
彼等が連れているサーヴァントは片方が『ブレイバー』と呼ばれ、もう片方が『シップ』と呼ばれていた。
どちらも基本的な七騎には該当しないクラスだが、何度もそう呼ばれていたのでそれがエクストラのクラス名だと思われる。
あいにくとマスターの目視ではないのでステータスは確認できなかったが、三組の仲は遠目にも良好そうで、同盟関係か、それに近い間柄であることは間違いなかった。
なかった、というのは現在ちょうど別行動になったからだ。
たった今、剣を持ったサーヴァントが襲来し、小学生の従えるマスター二人と交戦状態になった。
小学生のマスターたちは戦場から離脱し、クラブのシャッフリン三体もそちらの動きを優先して負わせている。
風の魔法少女の従えていた『ランサー』のサーヴァントにはかなりの手練れらしき風格があり、マスター二人が逃亡したのもサーヴァントの指示による避難だった。
現在は住宅街を逃走中だが、周囲にそれ以上のサーヴァントの気配は無し。
目下のところ、サーヴァントがその戦闘で負けたとしても直後に脱落する危険は無い模様。
襲撃を受けていると聞いた瞬間にまた田中が身を乗り出したけれど、
アーチャーが小さな首の動きと手の仕草で制して、『話は最後まで聞きましょう』と言わんばかりの余裕を見せていた。
やはりこちらを切り崩す方が物理的にも心理的にも難しい、とジョーカーは確信する。
その微笑のまま、アーチャーから『そのランサーについて分かることは』と尋ねられたので、答える。
ランサーと呼ばれていたが、黒い大剣を使っていた。
黒い軍服じみた、二十世紀初頭の西洋式らしい軍服を着ていた。
外見は十代後半から二十歳前後の、日本人らしき青年だった。
基本的には『ランサー』と呼ばれているが、最初にマスターの少女から『カイおにいちゃん』と呼ばれた。
アーチャーは微笑を崩さないまま、その特徴を聞いていた。
気取られていないか、シャッフリンの注意はそこに向いていた。
実は、同じことを念話でもマスターに話しているが、一つだけアーチャー達には伏せた情報がある。
マスターにはどうしても、報告すべき事柄だと判断した。
その『一つの報せ』を聞いた時、マスターは念話の中だけでやや狼狽した声を上げた。
驚くのも無理からぬ内容の話だった。ただ、それを顔には出していない風だったので、少なくとも田中に不信感を持たれた様子は無かった。
そのことは意外だったが、喜ばしい反応だった。てっきり、主人はもっと考えていることを顔に出すタイプかと思っていた。
もしや己は主人の評価をやや低く見積もり過ぎていたのかもしれない、と内省したほどに。
今のところ、不安要素は残さなかったはずだ。
しかし。
「まだ一つ、お聞きできなかったことがありますね?」
テーブルの対面に座るアーチャーは、即座にそれを見抜いてきた。
「もしや、そのお話に出てきたお若いマスターの男性、松野さんのご身内ではありませんか?」
何故。
シャッフリンがそう問うのと同時だった。
田中の視線がねばっこく、絡みつくような眼へと変わった。
身内を殺されたと主張する田中は、こちらのマスターの身内という言葉が出て、そういう眼をした。
「戦闘に参加していないもう一組の主従に対する言及が少なかったものですから。
もちろん直接的に人質と関係するくだりではありませんでしたし、人質の尾行を優先しているために情報が少なかったのかもしれませんが、
戦闘に対してどう反応したのかの説明ぐらいはあってもいいもののように感じました。
それに、いくらこの世界が『そういう場所』だとはいえ、『我がマスターの身内も生きたままここに招かれている』という結論に至るのが早すぎると言いますか……まるで『実際に身内が殺し合いに招かれているケースを見たことがある』ように感じられました。
あとは松野さんと何事か念話をされていたようで、驚いた反応が読み取れましたし……他にも根拠は幾つかありましたが、まず言葉にできるのはこれぐらいですね」
作り物めいた微笑とともに種明かしされたのは、心を読んだのでも何でもないただの観察眼だった。
少なくとも田中には気取られなかったものを見抜かれているのだから、その見ぬく眼は本物だ。
おそらくは貧者の見識か、人間観察に相当するスキルを持っている。
しかし、手がかりを撒くような話し方になったのはジョーカーの落ち度だ。
失策をしたとほぞを噛みながらも、ジョーカーは反論した。
だとしても、今この場でそれに何の関係があるのか、と。
アーチャーのマスターの仲間を、こちらが人質に取っている状況は何も変わらない。
「ではそのご身内を、こちらに連れてきていただけませんか?
それが、貴方達の要求する令呪を受けるための、最低条件です」
アーチャーはそんな不意打ちを、言い放ってきた。
その理由を尋ねれば、そんなの当然でしょう、と言わんばかりにアーチャーは説いた。
一つ目。
幾らお互いの安全を図るためとはいえ、聖杯戦争の中でたった三度しか使えない令呪をここで一画使ってくれというのは、あまりにも条件として過大なものだ。
こちらがその条件を飲むのなら、そちらも『人質の安全保障』以外に何らかのリターンを支払ってもいいはずだ。
たとえば『分かりやすく他の主従を一組脱落させる成果を見せる』といったことがそれだ。
ちょうどこちらも、ほとんど知識のない『エクストラクラス』についての情報を得たいと思っていた頃だったし、ここでそのサーヴァントを脱落させて、残ったマスターから情報を聞き出せるのは都合が良い。
二つ目。
言語能力も持たない上に、下手に接触すればこの監視状態が露見してしまうシャッフリンが人質を見張るならまだしも、
『シャッフリンのマスターの身内』が、『人質とすぐに接触できる場所』に『コミュニケーションできる同盟者』として存在するのは、あまりにも人質とマスター双方によろしくない。
おそ松の身内ならば裏で手を組むのも容易だろうし、シャッフリンたちが人質に手を出さなくとも、身内のマスターを介して人質のマスターを悪い方向へと誘導し、アーチャーのマスターと殺し合うように仕向ける……などといった悪辣な策を容易に実行することができる。
それなのに『人質には手を出さない』と保証されても、信頼も何もあったものではない。
よって、人質とおそ松の身内が別行動しているこの機をついて、今のうちに身内を始末してほしい。
三つ目。
先ほどのやり取りで改めておそ松も『聖杯を獲ることで殺してしまった人々を蘇生させる』という方針で落ち着いたけれど、本当に同じ願いで聖杯を狙う者同士だという確かな保証が欲しい。
本当に『聖杯によって殺した人々を蘇生させて責任を取る』つもりならば、己の身内だって殺して蘇生するだけの覚悟を持っているはずではないか。
いずれも、きわめて正論だった。
正論だったが、マスターに突きつけたくない正論だった。
これが、先ほどまでの――『おそ松は誰かを殺害した上での聖杯獲得など望んでいなかった』と知る前のシャッフリンならば、
他のマスターに彼の身内(同じ顔なのですぐに兄弟だと分かる)がいたからといって、いちいち報告したりしなかった。
『おそ松が聖杯を望んでいる』以上、それは『マスターの身内だろうと聖杯を獲るためならば殺害していいのだ』と解釈して、勝手に脱落させただろう。
何の躊躇もなしに兄弟の従えるサーヴァントを殺害するか、もしくは拘束して『汝女王の采配を知らず(クビヲハネヨ)』を使うための贄として『魔法の袋』の中に保存したか、どちらかだったはずだ。
しかし、シャッフリン達がそんな風におそ松の意向を決めつけて動いていたせいで、多くの主従を殺害して、主人を泣かせてしまったというこの結果がある。
だからこそ、ジョーカーもクラブたちから『マスターの1人は顔がご主人さまに瓜二つだった』という報告を受けた時に、まずマスターに報告すべきだと判断した。
それに、『おそ松が
ヘドラ討伐にこだわった理由』を聞いた後では、なおさら知らせた方が良いと思った。
知らせた上で、マスターの意向を尊重したかった。
いくら『聖杯に賭ける願いの中に、殺してしまった者の蘇生を追加する』ことで改めて聖杯狙いの方針になったとはいえ、
マスターが基本的には殺人を好まないことをシャッフリンはようやく理解したばかりなのだ。
そんなマスターに、今この場で、新たな人間を、それも近しい人物を殺せという。
もちろん厳密には『殺せ』ではなく『連れてこい』という要求だが、連れてくるにはおそらくサーヴァントの殺害が必須だろうし、連れてきた後で情報を引き出されるだけ引き出されるなどして殺されるのがオチだろう。
さらにアーチャーは、結論を急きたてるように言葉を継いだ。
「この条件を満たしていただけるならば、今この場で我がマスターから令呪を行使していただいても構いません」
「アーチャー! そこまで呑むことは――」
「良いではないですか、マスター。我々の本懐は聖杯を手に入れることです。
ただし、こちらを縛る令呪にも『残り十組になるまでは』という制約を付けましょう。それぐらいの譲歩はあってもいい。
それから、そちら側が後ほど履行する令呪も、『人造魔法少女の主従』ではなく『人造魔法少女のマスター』に手を出さないという条件に変更していただきます。
私はどんな攻撃を受けてもまず壊れませんし、最初の条件ではもし人質のマスターがサーヴァントを乗り替える事態になれば、その時に令呪の効果がどうなるのか読めませんからね」
アーチャーが少女の腕を掴んで制したまま、ごく柔和そうな微笑を向けた。
今ここで先に令呪にかけられてもいいと、太っ腹なところを見せているようで実は違う。
先にリスクを支払っておいて、『私は条件を満たしました。貴方達もできますよね』とプレッシャーをかけるのは、シンプルかつどこでも使われるやり口のひとつだ。
おそらく、このまま人質を取られて脅される展開自体は避けられないと覚悟した上で、少しでもこちらを追い詰めるために条件をつけたのか、あるいはそれ以上の狙いがあるのか。
どちらにせよ主様の顔を曇らせる要求が回避できないことは、シャッフリンにとって歯痒い展開だ――
「マジで!? 弟を1人殺すだけで、俺達殺さないって約束してくれるの!?
よっしゃよっしゃ! 身内なら嵌めるのも簡単だし楽勝じゃん!!」
――だと思っていたのだが、マスターである松野おそ松は明るい声でそう言った。
シャッフリンよりも、よっぽどノリノリで賛同していた。
すごくすごく、嬉しそうだった。はしゃいでいると言ってもいい笑顔だった。
両手をぐっと握り、元気よくガッツポーズまで決めていた。
――――――は?
田中とアーチャーの口が、揃ってそういう形に開いた。
彼等の性格を考えれば、それはよほど珍しい光景なのだろう。
予想もしていなかったものを見た、という顔だ。
実は、ジョーカーも顔には出さないだけで『この反応は予想していなかった』と思っている。
「いやー、良かった。これで関係ない人差し出せって言われたらちょっと抵抗あったけど兄弟なら気楽じゃん。日頃の恨みも晴らせるし!」
もしや『殺しても聖杯で生き返らせればいい』とか説かれたあまり、現実逃避からおかしくなったのではないかという疑いは、その言葉で消え去った。
どう聞いても、どう見ても、身内の方が気楽に殺せるぜ!という喜びを全身で表現していた。
椅子から立ち上がって、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
対面の主従の表情が固まっているのを見れば、シャッフリンでさえ何を思っているのか正確に予測できる。
これは、ひどい。
なぜなら、誰だってきっとそう思う。
「じゃあアーチャーさん、令呪お願いしゃーっす! 俺それを見たら速攻捕まえて来るんで!」
こうして、事態は動く。
気が付けば、ジョーカーではなく、彼のマスターが動かしている。
それが事態を解決する方向なのか、破滅への転がり坂を一直線なのかは別として。
♠ ♥ ♦ ♣
ここ数十分の逃走はなんだったのか。
もっと言えば、ハタ坊の依頼を受けて小学校に向かって、ランサーやブレイバーに見つかった時から、ずっと『なんでこんなことになってるんだろう』と感じっぱなしだった。
しかし、これは本当に、何だ。
一松は眼を瞠ったまま、その『戦闘痕』に釘付けになっていた。
シップの『輸送』スキルによる逃走の経路選択はとても良かった……と思う。
少なくとも、ほぼ見ず知らずの街なのに、一松は走りながら一度も『この道は前にも通った気がする』という不安にかられたりしなかった。
それでも逃げ切れなかったのは、単純に怪物と一松との間にあるどうしようもない体力の差と、怪物がこのあたりの土地勘を持っているかのように的確な追尾をしてきたからだ。
まるで何日も高所から、町全体の風景を俯瞰して記憶していたかのような知り尽くしようだった。
そして、仮にもサーヴァントである望月が下手な攻勢に出れなかったのは、陸上戦用の装備に住宅地への被害を懸念したことと、下手にマスターを刺激すれば、令呪を発動されてバーサーカーがこちらに飛んでくる可能性があったせいだ。
シップは一対一で戦えば、たいていのサーヴァントには負けてしまう。
だから、仕方ない。
もう無理、限界だと路地の上でへたり込むことになったのも、
その後から怪物が「邪魔者は消えろ!」と追いつきつつあったのも、良くはないけれど当然の流れだった。
住宅街の住民に、こんな怪物が歩いてるのに誰も出てこないのかと助けを求めたくはあったけれど、もうすぐ日没という時間であり、
かつ小学生の通学域だから外出を遠慮している住民が多いことを考えれば、仕方がない。
だからここで終わるのだとしても、一松にとっては嫌だったけれど、仕方のない帰結だった。
だが、直後に起こったことは極めて不自然かつ理解を超えるものだった。
大きなスペードマークの描かれた服を来た少女が上空から飛びかかるようにして怪物の眼前へと降り立ち、
持っていた槍をさっと横に薙いだだけでそいつを吹き飛ばした。
「ぐほっ」っといううめき声をあげて、まるで箒で紙屑でも弾かれたように軽々と、2メートルを超える怪物の体躯が、小学生くらいの少女によってぶちのめされた。
怪人の身体は右に門戸を開けていた空き家らしき敷地へと叩き込まれ、その空き家の玄関ドアをたたき割るようにして激突して止まる。
スペードの少女は、玄関の破壊と怪物の動きが停まったのを見ると、表情のない顔でこくりと頷いた。
ステータスが見えることから、彼女もまたサーヴァントだと分かる。
筋力はA、敏捷はA、耐久は……なんだこいつ、肉弾戦に関係ありそうな数値はぜんぶAだ。半端ない。
「いやぁ、間に合って良かった良かった。
なんか道がところどころ石化してたから、その後を追って正解だったー」
しかも、その『スペードのエースの少女』が敬礼を向けた先にいたのは、よりにもよって飽きるほど見慣れた姿だった。
夕陽の街ににじむような赤いパーカーを着た同じ顔の男が、同じ顔をした様々なマークのトランプ兵士たちに囲まれてにこにこしながら歩いてくる。
…………なんで、おそ松兄さん?
そう喋りたくても、息がすっかり切れていて、ぜはっ、ぜはっとしか喋れない。
「おー一松。生きてたか。サーヴァントはか弱そうな女の子って聞いてたから、先に潰されてたらどうしようって心配してたんだぞ。
あ、うちの弟がいつもお世話になってます。兄のおそ松です」
後頭部に右手をやってぺこぺこと、シップに挨拶までしている。
「あ、どうも……えっと、イッチーの兄弟のおひとりさん?」
「まぁ、詳しいことは人の来ないところで、ってことで」
ほれ、と空き家の敷地を指さし、他のトランプ兵士たちが一松とシップの手を引いたり背中を押したりして、敷地内へと入るように促した。
気が付けば、戦闘痕である空き家の玄関先にも、数体のトランプ兵士が群がり、怪人の姿から高校の制服を来た青年へと変わった男をつんつんと突いている。
その中の、鎌を持った1人におそ松が話しかけた。
「えっと……もしかして殺しちゃった? 幾ら聖杯のためとはいえ、アレはちょっとビビったんだけど……」
「人間体に戻って、気を失っているだけのようです。
戦闘不可能になれば元に戻るのか、それともサーヴァントの方が魔力を消費した影響で、マスターも変身体を維持できなくなったのかもしれません」
「そっかぁ。じゃあ魔法のロープだっけ? 一応それで縛っておいて」
「了解しました」
そんな高校生をまたぎながら、トランプたちに引っ張られるようにして空き屋の中へと連れられて行く。
同じ屋根の下で暮らしている実の兄がマスターだったのか、という驚きよりも、その兄がたいそう心得た風にサーヴァントと遣り取りしている、という驚きの方が強かった。
なんでこいつは、こんな状況は全部分かっているみたいな顔で出てくるんだ。
「あの……おそ松兄さん、ありがとう」
ようやく、長距離走によってバクバクと破裂しそうだった心臓も落ち着いてきたので、やっと絞り出した声でそう言った。
状況は分からないが、怪人に殺されそうだったところを救われたのは間違いない。
「べつにー、お礼なんていいって。
もしアイツが先にお前ら殺しちゃってたら、『連れて来る』っていう約束の判定が割と微妙になるところだったんだしー?」
「連れて来る約束?」
手早く縛り上げられて空き家の中へと引きずられてくる元怪人のマスターを不憫そうに見ていた望月が、あれ、と首をかしげた。
そんな望月には構わず、廊下で先頭に立っていた兄は言った。
「一松が逃げ切ってくれたおかげで、ここに来るまでのタクシー代が無駄にならなかったよ」
とてもツヤツヤとしたゲスい笑顔で、そんな台詞を。
言葉と同時に、知らない家の廊下で腕をがしりと掴まれて止められる。
「――え?」
「ひゃ――ちょっと!!」
兄に動きを止められたのと、同時だった。
伏兵でも霊体化させていたのか、トランプ兵士の数が倍に増えた。大半はクラブかダイヤの衣服を着こんだ兵士だ。
クラブマークを付けたサーヴァントたちが揃って望月の身体を壁に抑えつけ、ダイヤの同じ顔が慣れた風にばばっと艤装を剥ぎ取って抵抗手段を奪う。
何をするんだ、と声を上げる間もなく、松野家の長男は言葉を継いだ。
「うん、要するに――後で聖杯にお願いして絶対に生き返らせてあげるから、今は死んでくれない? 一松さん」
…………。
……………。
………………いや、分かってたけどね。
弟を助けるために必死こいて駆けつけてくれるほど、殊勝な人じゃないって分かってました、はい!
でも、やっぱりひどくないか、この展開。
「クソだわ!! お前ほんっとうにクソだわ!!」
憤激しても、とっさにそんな語彙しか出てこない己が恨めしい。
「なんだよー。どうせお前だって『しばらくお互い死なないように協力してやるから俺を殺して来い』って言われたら同じことすんだろー?
それに、長い目で見れば、今リタイアしといた方が絶対にお得だよー?
闇松にはこの聖杯戦争は荷が重いから。それに引き換えうちのシャッフリンちゃん達はめっちゃ優秀だから。
聖杯にお願いして生き返らせてもらった後は、もしお願いに余裕があったら一松にも報酬わけてあげるから!」
「『だから死ね』って言う時点で外道の発想だ、このクソカス松!!」
「それにさ、一松」
長男の顔から、ニヤニヤとした笑みが消えた。
「これ以上、聖杯戦争を続けたい?」
突き放すようにあっけらかんとした、しかし冷たくは無い声でそう聴かれた。
腕を掴まれたその手には、あまり力がこもっていなかった。
「え……」
「クラブのシャッフリンちゃん達が見てたよ。
ずっとガチガチに緊張して、逃げようとするか黙ってばっかりだったって。
これからもっと大変な想いして、それでも聖杯戦争を続けたい?
いくら闇松だからって、マジの殺し合いとか、ヘドラ大決戦とかやりたくないでしょ?」
喧嘩の罵詈雑言とは違う、雑談のようにまったりとした問いかけなのに、答えられなかった。
確かに、その通りだったから。
もう『六人でひとつ』じゃないなら、松野家で平穏な暮らしが続かないのなら。
別にどうなってもいいんじゃないかと、ずっと思ってきたから。
予選の間からずっと、ギリギリまで『興味が無い』ことにして逃げ続けてきた。
それでも『非日常』が避けられない空気になってきたら、壊れるのを見たくなくて自分から家を捨てた。
他のマスターやサーヴァントと関わっていくのは心臓に悪くてたえず緊張したし、
小学生にさえできるコミュニケーションもろくにできずに輪の外にいるのはすごくいたたまれなかった。
「別に一松が死にたくないとか、俺を止めたいとか考えてるなら、
ここでサーヴァント抜きの兄弟喧嘩してもいいけど、どうする?」
怪人に追われている間も、とにかく必死に逃げるだけで、先のアテなんてまるで無かった。
こんなに苦しいのに、なんで逃げてるんだろうと思った。
別に何としても生き延びてやるという覚悟もやる気も何もないのに。
生き延びたところで今後どうしようという計画性も無しに、なんとなく自分を攻撃してこない人達の近くで寄生を続けるだけなのに。
そう思っていた。
ならばここでひと思いに死んでしまう方が、楽かもしれない。
もうあの家には、戻れないのだから。
のたれ死んだところで、本当に悲しんで絶望する人間などいるはずもない。
十四松とかなら悲しんでくれるかもしれないが、それも一時のことで、すぐ家の中も元の空気に戻るだろう。
実の兄からも見放されるなんて、屑の最期としては妥当なものだ。
諦めたように眼を逸らせば、兄は「本当にいいの?」と念を押すように効いてくる。
素直に肯定するのも何となくしゃくだったので、「別に、好きにすれば」と兄の顔を見ないまま吐き捨てた。
そっか、と兄が頷く気配がした。
ああ、これで終われるんだな、と思った。
「っつーわけで、ごめんね? まずは君に退場してもらうから」
「あたし?」
――え?
「あ、でもこの子、殺さずに連れて帰っちゃだめかな?
シャッフリンちゃん達が殺されちゃった時に、非常食になるんだったよね?」
「相手方から、『情が湧いたから殺さずにおいたのだ』と受け取られたら面倒になります。
もったいなくはありますが、殺した方が確実かと」
自分のサーヴァントが非常食呼ばわりされている。
何が起こっているのか、よく分からなかった。
自分が死ねと言われたはずなのに、自分のサーヴァントの方が殺されそうになっている。
何故、どうして。いや、自分のサーヴァントなのだから、自分が死ねば英霊の座とかいう所に還るのだろうけど。
なぜ、自分に向けられるはずの刃を、彼女が受けるような流れになっている?
「いや、ちょっと待って。話の流れは!?
なんで俺じゃなくてそいつが殺される流れになってんの?」
「ああ、言ってなかったっけ? 殺すって言っても、俺と同盟結ぼうって人が何かまず『エクストラクラス』のこととか尋問したいらしいんだよ。
で、マスターとサーヴァント両方とも生け捕りで連れて行くのは難しいから、まずはサーヴァントちゃんに退場してもらおうって流れ」
大鎌のトランプ兵士がその切っ先を向けているのは、
クラブのシャッフリンたちに抑え込まれて壁にほぼ磔状態になっている、望月という真名の少女だった。
いきなりのことで、令呪を使おうという発想さえ、その時は頭から抜けていた。
望月は諦めたような顔で、その命令をした長男へと話しかける。
「えーと、これって命乞いとかは……」
「ごめんね!」
「デスヨネー」
いや、ちょっと待ってよ。
俺は確かにクズだけど、でも。
そいつが先に沈むところは、見たくないと思っていたんだけど。
「代わりに君のマスターは幸せにするから! 聖杯獲って取り戻す的な意味で!」
「それってどっちかって言うとアタシがマスターのご家族に言う台詞じゃね!?
いや、別にそーいう関係じゃないけど!」
そいつは、すごくいい奴だから。
他のマスターと全然話ができなかったのに、願いが何も見当たらなくてひたすら怠けて逃げ回るだけだったのに。
そんな俺を見捨てずに着いてきてくれたぐらい、本当にいい子だから。
「ああ、でも最後に、ひとつだけ言わせてほしいな」
だから、最期だなんて言わないで。
こんなことになるのなら、もっといい子になっておけば良かったなんて、そんな後悔は嫌だから。
本当は、もっと猫と遊ばせてやったり、もっと怠けさせてあげたかったんだから。
「イッチー……本当、はね」
だから、そいつを沈ませないで。
俺の前から、消さないで。
「楽しかった、よ……」
そいつは、俺の――
大鎌が、セーラー服を着た少女の心臓部へと、吸い込まれるように振り下ろされた。
♠ ♥ ♦ ♣
「そろそろあなた方のマスターも標的と接触した頃合いでしょう。
本当に捕獲に成功したのかどうか、確認しに行くだけです」
まずは、図書館から外に出て松野おそ松を捕捉できるかどうかが最初のハードルだった。
青木奈美(彼等にとっては『田中』だが)には、監視役として数体のクローバーシャッフリンが付けられている。
令呪を使ってアーチャーの動きを封じたとはいえ、奈美がテンペストを心配するあまりに接触をはかろうとする可能性などをシャッフリン側も警戒しているだろうし、これは当然の措置だろう。
そして、監視役は多くて数人だろうというアーチャーの読みも、当たっていた。
「こちらは先に令呪を使ったのですから、彼等がこちらの要求を満たしたのかどうか、いち早く確認するのは当然の権利でしょう。
止められる謂われはないはずです。むしろここで妨害した方が、あの人はご身内を逃がす魂胆があるのかと疑いを招きますよ」
早口であれこれと理屈をつけて監視役のシャッフリンを論破し、魔法少女へと変身した
プリンセス・デリュージは日没もおしせまった街中へと繰り出した。
最初のハードルを越えることには成功した。
「気配遮断を使えるのはクラブの十三体のみ。
私を尾行し、何かあったら止めるためにクラブが三体。図書館でアーチャーの監視を続けるクラブが二体。
テンペストの尾行と、私を接触させないよう見張るためのクラブが三体。
残り五体だが、『サーヴァントを殺害しながらマスターをかどわかす』任務なら、気配遮断を持つクラブはそれなりの数が投入されるはず。
つまり、それ以外の場所を監視するクラブは足りていない」
現状を確認するため、聞こえないようひとりごちる。
アーチャーを連れて出なかったのは、クラブの警備を分散させる目的などもあるが、何より機動力と速度の問題があったからだ。
アーチャーは身体それ自体が『完全なる器』と自称するほどの防御性能を有しているが、身体能力は鍛え上げた人間から毛が生えた程度のものでしかない。
魔法少女のように、建物の屋根の上を跳躍しながら短時間で移動するような芸当はできない身体だった。
そして、デリュージが条件を果たしたかどうか見張ると言いながらも、すぐにおそ松達の後を追わなかったのは、
身内同士で嬉々として蹴落とし合う光景なんて絶対に見たくなかったからだ。
デリュージは身内も同然の人達を失ったのに、殺したくてたまらない相手は身内同士で殺し合っても全然平気だなんて、そんなのは忌々しくて仕方がなかった。
「『前の主人』といい『今の主人』といい、どうしてあんな奴に尽くすのか本当に分からない」
一度、外出しようとするデリュージを止めようとしたために気配遮断を解いたクラブたちが、懸命に追いすがりつつも尾行するのを、後ろ眼に見ながら吐き捨てた。
住宅街を出てから図書館へと続く道路に入るならおよそこの経路だろうという道路に出て屋根伝いに進んでいく。
やがて、進行方向から見慣れた顔に赤いパーカーの男が歩いてきた。
片手にはジョーカーが持っていた『何でも入る魔法の袋』を提げて、その周囲はスペードの兵士4体ほどに囲まれている。
相変わらずサングラスに野球帽、コートのままのデリュージが眼前に降り立つと、初めて顔をあげた。
「指定されたモノの確認を」
事務的にそう告げてから、まるでヤクザか何かのような言いぐさだ、と自嘲する。
「はい」
おそ松は魔法の袋の開け口を緩めると、気を失った青年の頭部をそこから引きずり出した。
片手も続けて引っ張り出し、手の甲にあるそいつの令呪も見せる。
「弟さんのサーヴァントは?」
「殺したよ。簡単だった」
流石に実の弟を捕まえたとあっては感傷的になっているのか、さっきまでの明るい顔ではない。声音も、沈んでいるような暗さがある。
「これでいいでしょ。図書館に戻るよ」
「歩いて、ですか?」
「今、人と一緒にいたい気分じゃないし帰りのタクシー代も無いから。歩いてゆっくり戻る」
「では同行しましょうか? 私としても、最期まで成し遂げるかは見届けたい」
「この袋の中に残りのアサシンもみんな入ってるけど、一緒に歩きたい?」
「…………」
「それに、今さら逃げたりしないよ。『身内を監視対象から引き離す』っていう目的は達成したんだから」
まったくその通りだ。そしてまぁ、予想通りの答えだ。
幾ら夜も近いとはいえ、街中で拘束した男1人を抱えて目立たないように歩こうと思ったら、シャッフリンたちの魔法の袋に入れて持ち運ぶしかない。
そしてシャッフリンの魔法の袋の中には、待機中のシャッフリン一同がぎっしりと入っている。
共に図書館まで帰るなんて、あまりにもリスクが高すぎる行為だ。
「分かりました。ではこちらは先に図書館で待っています」
――もっとも、仮に安全に帰る方法があったところで、元からここで共に図書館に戻るつもりはなかった。
――そういう計画のつもりで、ここまで来た。
跳躍し、元来た道を駆けながら『大人しく図書館へと戻る』とおそ松の眼にアピールする。
さて、と後方にいるクラブの三人をちらりと見て、『これからやること』を確認。
ここからが本番だ。
全てを出し抜かなければならない。
『アーチャーがシャッフリン達に手を出さない』という制約を付けたまま、おそ松とアサシンをもうすぐ確実に仕留めるために。
身体をすっぽりと隠していたコートの内側を、再確認する。
そこには、いつも水球を装飾として浮遊させている時の応用で、水球を幾つか隠しながら持ち運んでいた。
まずはこれを使う。
デリュージは図書館へと戻るべく跳躍させていた身体を、いきなり停止させた。
♠ ♥ ♦ ♣
乱入したバーサーカーを制するための戦いは、思いのほか長引いていた。
「えいっ!」
ブレイバーの腕輪から放たれる光の糸が四本。
時に一条の光線のように、時に大きくしなる鞭のように。
様々に軌道を変え、方向を変え、角度を変えながらバーサーカーの少女を捕えようと、その体に肉薄しようと断ち切られては伸ばされる。
それらに囲まれながら、くるくるとバーサーカーは踊るように動く。
右手には長刀を、左手には脇差を。
バーサーカーの『殺しの間合い』が、二度目の本格的な戦闘で編み出したのは、二刀流だった。
複数の敵、複数の手数に囲まれた時のための、攻防一体の構えだった。
長刀がゆらゆらと動くたびに、乱れ飛んでいた光の糸は切断されてはらはらと消え去っていく。
『見えているものならなんでも斬れるよ』の魔法は一撃ごとに『対象を視界に入れる』と『刀を一度振る』というプロセスが必要になるけれど、
逆に言えば、『しっかりと視界にいればチラ見でもいい』し、『刀を振ってさえいれば大振りでなくとも構わない』という強みがある。
そして、ワイヤーがどんな軌道を描こうとも、それらは全てブレイバーの腕輪から放たれるものだ。
犬吠埼樹のいる方向に向かって長刀を揺らめかせ、斬りつければ、光の糸を射出される根元の箇所から断つことができた。
憎悪に満ちた目を光らせていなければ、それは素早い剣舞のようにも見えただろう。
「ずいぶんと可憐なバーサーカーだね」
そして、ワイヤーの隙をついて一撃を入れようとするランサーの接近は、全てくるくると回りながらの脇差しのモーションで、牽制し、防御し、『大剣に阻まれる、見えない剣戟音』を響かせる。
ブレイバーを護身する精霊は、彼女以外を張りついて護れない。
櫻井戒がその『触れずに致命傷を与える斬撃』を回避するためには、黒い大剣を盾として防御に回すしかない。
この攻防をなかなか収束させられない原因は、バーサーカーの地の利と双方の相性にあった。
遊具など数えるほどしかない小さな公園には、バーサーカーを不利にするような遮蔽物となるものがほとんど無い。
すでにその幾つかの遊具も戦いの余波で破壊され、滑り台や鉄棒だった金属の骨組みが地面に転がり、破壊された水飲み場からは吹き出し続ける冷水が地面を水浸しにしている。
そして、ブレイバーに真価を発揮させる『満開』も、さすがに住宅街の真ん中でその巨大な大輪の光を披露すれば、閉じこもっていた一般人たちもさすがに飛び出してくることを思い使えない。
バーサーカーならば周囲の眼を気にすることは恐れないだろうし、そこでNPCとはいえ野次馬が被害を受けることを、彼女のやさしさは望まない。
「このまま、間合いを詰めずに攻撃を続けられるとしたら厄介だな……」
一方で、ランサーの切り札もまた『相手が触ることも厭わしくなる肉体へと変性する』というものだ。
そもそも『触れなくとも斬れる』ことを前提とした敵には、根本的な相性が悪い。
「音楽家は糸をつかったか?……しかし、多角的に攻撃してくるところは、やはり音楽家……」
しかも、彼等にとっては意味不明な言葉を呟き続けており、『これ以上続けても膠着するばかりで時間の無駄だ』といった説得の類も通じない。
(そもそも令呪によって足止めを命令されている)
「ランサーさん! 例えばその剣をもっと大きくのばして、面の攻撃で叩いたりとかできますか?」
「いや、確かにこれは使用者の扱いやすい形をとるものだけれど、戦闘中に剣の大きさを変えられるかは……そういう技に心当たりでもあるのかい?」
今ひとつは、ブレイバーとランサーのコンビネーションが即興のものであるということだ。
かつての彼女が『勇者』の1人として侵略者(バーテックス)達を相手にしてきた戦いでは、まず樹がワイヤーを用いて敵を拘束するのが第一段階であり、
その後に、動きを封じられた敵を仲間たちが総出で叩く――という戦法を取ることが多かった。
しかし現状、ワイヤーを伸ばすことに苦心している段階でランサーが接近するのは、まだ呼吸を合わせられる段階ではないランサーをワイヤーのしなる攻撃に巻き込みかねないものになってしまう。
「いや、待てよ……面の攻撃か」
しかし、そこでブレイバーの言葉を受けたランサーが一つの案を生んだ。
「ブレイバー。そのワイヤーの攻撃を大振りにして注意を引き付けてほしい。
接近戦に持ち込めるかもしれない方法を思いついた」
「は、はい!」
指示に従ったブレイバーが、『蛍ちゃんごめんね』と呟いてから一度に使う魔力消費を増やし、ワイヤーの光りをより強く輝くものにした。
なるべくバラバラな四方向に拡散するように射出し、なるべく動きを目で追いたくなるように大きくワイヤーを操る。
ある者はしならせ。ある者はまっすぐな閃光として。
バーサーカーが一条の閃光の方に対して「ビーム……?」と困惑したような――あるいは、見覚えのあるような声を漏らした。
すぐさま刀を縦に、横に、斜めに、反対斜めに、と動かし続けるでことで攻撃を斬り落とすが、その間にランサーは事を起こす。
「テンペストから近所迷惑だと怒られるかもしれないが……すぐに片づけよう」
ランサーの大剣が公園とその向こうの住宅を取り仕切るセメント塀を大きく切り裂き、剣の先端をちょいっと突き刺して持ち上げることで巨大な一面の盾のように構えていた。
そのまま突進に移行する。
騎士にはあるまじき不格好さだが、頓着するようなランサーでもない。
バーサーカーもその方向を振り向き。刀を振った。
しかし、その幅の広い盾を一刀両断するには、脇差の小ぶりな一撃ではなく、長刀の大きな一撃が必要になる。
頭上から真下へと長刀を振り上げ、振りおろす、数秒とはいえそれに動きが費やされてしまう。
「隙ありっ!」
塀を使った盾が両断され、ランサーが吹き飛んだ盾を回避したのと同時だった。
再生したワイヤーが、とうとう刀の振り下ろされた手に絡みついた。
他のワイヤーも続けざまに縛り、両腕の手首を起点として締め上げるように動きを止めることに成功する。
切断するまでには至らない。
『勇者』だったころも彼女のワイヤーは、星屑のような敵こそ両断したけれど、バーテックスのような強度を持った一角の敵ならば動きを止めるだけで精一杯、ということもよくあった。
また、サーヴァントとしての彼女も、力は強い方では無い。
だからこそ、刀の振りを止めることに専心する。
どうにかして拘束主であるブレイバーの顔を刻もうとするように手首の角度を変えようとするけれど、負けじと関節単位の動きをも封じるようにワイヤーの手綱を握る。
ブレイバーはその状態でも、どうにか笑ってみせた。
「つやつやの顔と笑顔は、女子力のアピールポイントだもん!
そこを斬られたりしたら、お姉ちゃんに顔向けできないよ!!」
いちばん尊敬する人を持ちだしての、身を振るわせようとする一言だった。
しかしその言葉が耳に届いた時、バーサーカーの顔色が変わった。
バーサーカーは、『音楽家を見分けるための特徴に関すること』以外を理性的に考えられない。
だから、すでに『音楽家』だと見定めた人物の発する言葉に、いちいち意味を認識することはない――はずだった。
『■■■■■に顔向けできないよ!!』
今の彼女から、『■■■■』のスキルは喪われている。
しかし、『音楽家だと名乗った者』が、『もはや正しく認識することもできないその言葉』を呼んだことは、彼女自身にも訳が分からないほどの憎悪をもたらした。
「音楽家は……そんな名前を、呼ばないっ!!」
その眼光でワイヤーも切断せんとばかりに、これ以上ないほどの憎悪を眼光ににじませる。
ブレイバー――『■■■■■』と言った少女を眼光で貫き、叫んだ。
「お前が、『アレ』なんかやらなければ!!」
そして、その言葉を言い放たれたブレイバーもまた、何故だかの既視感に襲われた。
それは、その眼と同じ眼を、知っていたから。
自分より少しだけ年上の、背の高い少女が、血を吐くような声で叫んでいたのだから。
同じようにその眼には憎しみがあって、
同じように、憎しみの裏には哀しみがあるように見えたから。
誰かのために、心の痛みを抱えた人の眼だったから。
自分を責めている人の、眼だったから。
――私が、勇者部なんて作らなければ!!
サーヴァントの対応としては失格かもしれない。
しかし犬吠埼樹は、『心の痛みを分かるひと』だ。
「お姉ちゃん?」
だから。
そうつぶやいてしまった。
ワイヤーを引っ張る腕が、その一瞬だけ緩んでしまった。
「ブレイバー! 力を緩めるな!!」
そう叫んで、ランサーが大剣を振りかぶりながら接近するよりも早かった。
バーサーカーは咆哮し、ワイヤーで腕を拘束されたまま、
『■■■■■』と呼んだ少女をこの手で切り裂こうとするように駆け出し、刀を振りぬこうとした。
ランサーがその大剣で斬りはらうよりも、正面にいるブレイバーが先に斬られる。
そう見えた。
しかし、そうはならなかった。
水浸しになっていた地面が、その刹那、バーサーカーの足元だけ一瞬で凍り付いた。
足元の違和感に、バーサーカーは狼狽する。
それは傍目には分かりにくい変化であり、その場にいた二人には、ワイヤーの拘束から抜け出しきれずに止まったようにも見えただろう。
しかし、どちらにせよランサーにとっては好機に違いなかった。
「終わらせる……!」
次の刹那にはもう、漆黒の大剣が打ちおろされようとしている。
それはバーサーカーの頭上から、叩き潰すような力を持った一撃であり、回避不能の致命打になり得るものだった。
しかし、直撃する直前にバーサーカーの姿が書き消えた。
拘束する者のいなくなったワイヤーが、はらはらと地面に落ちる。
「え? 消える魔法?」
「いや、気配ごと消えている。霊体化だ。マスターが令呪を使ったのかもしれない」
実際は『身の危険を感じたら戻れ』という令呪が適用された結果によるものだったが。
「で、でもそれなら! 早くシップちゃんたちを助けにいかないと! 急ぎましょう」
「いや、そちらには僕1人で行こう。ブレイバーにはマスター達の方に向かってほしい。
バーサーカーがどちらに消えたのか分からないんだ。この隙をついて襲われる可能性も充分にある」
「でも、大丈夫ですか? ランサーさんも怪我しているのに……」
改めて観察すれば、ランサーの身体には大剣でも隠しきれずに傷ついた箇所が幾つかあった。
「精霊の加護がある君と、バーサーカーから憎まれてはいないらしい僕と。
戦力の割り振りとしては充分じゃないかもしれないが、均等なものだよ。それに、僕のマスターのことも頼みたい」
「分かりました。お気をつけて」
大切なマスターを託されては断れない。
ブレイバーは合流を優先するために、ランサーを見送った上で自分のマスターと念話を繋げるよう集中した。
しかし気持ちは切り替えても――犬吠埼樹という少女の記憶には、あのバーサーカーの『心の痛み』を抱えた眼が、いつまでも焼きついていた。
♠ ♥ ♦ ♣
アーチャーのマスターである少女と別れてから、しばらくの後。
赤いパーカーに、平凡な外見の青年は、路地裏に入っていくと魔法の袋を開けた。
中にいた若い男性を、どさりとそこに吐き出す。
そこに、バーサーカーに襲われた時に逃がされた猫たちもわらわらと集まってきた。
ちょっと野暮用を済ませるだけだと、アイツは言った。
自分の人間関係を清算してくるだけであり、面倒くさいけど楽勝だから、と。
むしろ、お前がいた方が大いに邪魔なだけでむしろ足手まといだと。
信頼してもいいのか胡散臭かったけれど、彼の周囲を囲む四人のトランプ兵士が、有無を言わせず従わせてくる。
今でも、さあ急ぐぞを言わんばかりに赤いパーカーの袖を引いてくる。
だから、意に沿わなくとも、今は一つのことをやるしかない。
この場から一刻も早く、離れるのだ。
大丈夫、みんな出し抜けると、アイツは言った。
♠ ♥ ♦ ♣
越谷小鞠は、セイバーリリィの背中におぶさって、彼女の疾走に任せていた。
アスファルトの歩道が、住宅街が、ものすごい速さで後ろへと流れていく。
どうしてそうなったのか――少し、時間をさかのぼる。
数十分前に聞いた会話のことと、そして、それ以前に起こったことまで、遡る。
尾行していた野球服の青年が、いきなりドブ川でバタフライを始めた時にはリリィも小鞠も仰天した。
リリーが、これは何かの鍛錬なのでしょうか、と呟いた。
いや、十一月のドブ川で泳ぐ鍛錬の必要な日本人って何者ですか。
呆然としていた二人は、しかし数秒後に我に返った。
このままドブ川を下って行けば、『今のK市』の海に出る可能性もある。
そうなれば、あとは泳ぎながら白骨になるだけだ。
すかさずセイバーリリィが実体化して疾走し、青年の行き先に回り込むことに成功する。
ドブ川にどぼんして青年の進路をふさぎ、半ば体当たりするようにして止めた。
セイバーの英霊が身体を張って止めたのだ。
壁のような障害物にでも激突したかのように岸辺まで吹き飛び、そのまま水でも飲んだのか気絶した。
放っておくわけにもいかないので、そのままリリィに背負ってもらって、松野家まで送り届けた。
リリィは海外からの留学生で、小鞠はホームスティ先のお宅の娘さんということにしよう、などと道中で対NPC松野家の皆さんようの設定を作った。
そして松野家の呼び鈴を鳴らしたのが、黄昏時にもさしかかった頃だ。
リリィが背負っている青年と同じ顔をした青年が3人ばかりで出迎えたのを見た時は、二人そろって仰天した。
聞いてない。
いい歳をした一卵性兄弟の成人男性が、こんなにたくさん実家暮らしを続けている家庭だったなんて聞いてない。
結果的に彼等は、その家の五男がおぼれているところをを助けた恩人(ということになった)として、大いに感謝され、かつお菓子とか諸々を差し出されてのもてなしを受けた。
その歓待でのドタバタ劇は、なんせ『全員童貞かつトト子以外の若い女性には縁が無い松野家に、金髪美少女と童顔の女子中学生がやってくる』という衝撃的なものだったので、
30分アニメのAパートを丸ごと使用して1エピソードが作れるぐらいには濃いものだったけれど、完全な余談でしかないので割愛する。
補完SSの類でも生まれない限り、兄弟たちのテンパり劇場は陽の芽を見ることはないだろう。
結局色々とやらかした兄弟がいったん引っこんで、リリィと小鞠は今、松野家の茶の間にいる。
『どうしようセイバーさん……この中の誰がマスターなのか分からないよ。というかそもそも、服の色ぐらいでしか見分けられないよ……』
『いえ、コマリ。もし家のいる彼等の中にマスターがいるとすれば、私を見てサーヴァントだと気づき、他の家族のいない場所で接触を図ろうとするでしょう。
彼等は六つ子だと仰っていました。つまり、外出している残り二人のどちらかがマスターではないでしょうか』
『なるほど……でも、だとしたら、いったん帰らせて、明日また来た方がいいのかな。
でも、それだとまた家に来る口実を考えないといけませんよね……んー、わざと忘れ物をして帰る、とか……?』
そんな風に、念話で話し合いをしていた時だった。
カバンから軽快な着メロが鳴り響き、小鞠はびくりと身を震わせた。
以前に住んでいた村では富士宮このみの使っていた携帯電話を羨ましく使わせてもらったりしていたものだが、このK市の越谷家では、持っていた方が都合が良いからと携帯を持たされた設定になっている。
持ちたくて持ちたくて仕方がなかったはずなのに、いざ手元にあると着信が鳴るたびにびくりとしてしまうのは何とかしたいところだ。
携帯を取り出して画面を見れば、着信の主は『夏海』と表示されていた。
「はい、あたしだけど」
電話向こうにいるはずの妹は、無言電話をしてきた。
「ちょっと、どうしたの。夏海でしょ?」
『………………』
「おいこら。返事しなさいよ」
『ねっ…………』
「ね?」
携帯の耳をあてた箇所から、呼気を吸うような音が聞こえてきた後、
『ねえちゃんの、バカ―――――ッ!!!』
「……っつー。な、何すんのよなつみぃ! 耳がきーんってなったんだからね、今!」
さすがに他人様の家で大声を出すのはまずいので、口元に手をあてながら精いっぱい威嚇する声を出す。
『姉ちゃんが何やってんだバカ! 臨時下校だから教室まで迎えに行ってやったのにいねぇし!
先に帰ったのかと思ったら家にもいないし!待ってても帰ってこねぇし! 兄ちゃんに聞いても見てないって言うし! なんかテロがあった時、姉ちゃんが現場の近くにいたって言うし!!』
一気に吐き出された虚勢じみた怒鳴り声は、小鞠の胸をついた。
そうか、悪いのは自分だったと、言葉を聞くにつれて理解できる。
NPCたちは危機感が足りていない。そういう風にできている。
しかし、不人情ではない。
『テロが起こった時に現場のすぐ近くにいた姉』を、臨時下校になった学校で、妹が『一緒に帰ろう』と心配してやってこないはずがない。
いつも姉に対する敬意なんてあって無きがごとしのいたずらをして姉を怖がらせたり、おちょくったりするけれど、いつだって家出をする時は姉を連れ出したりして、小鞠を巻き込みたがるのが夏海だ。
教室まで小鞠の様子を見に来るのは、予想できない方が悪いぐらいに予想できたことだ。
NPCだからと言って、冷淡に接していたつもりなんか無かったのに。
セイバーリリィと話し合いながら帰りたかったから。
そのことで頭がいっぱいになって、妹のことを今まで忘れていたのは、姉の小鞠だった。
慌てて、今どこにいるのかの説明を始める。
『えっとね、今、下校の途中に川でおぼれてた人を見つけて……いや本当、うそみたいな本当の話だって。
それで家まで送ったら感謝されちゃったから、お邪魔させてもらってたの。
もうすぐ帰るから……うん、大丈夫』
その後に、忘れてはならない言葉を添える。
『心配かけて、ごめんね?』
夏海は最後に、ずっとやわらかい声で『バカ』と言った。
『母ちゃんが、夕飯はシチューだって』と付け加えてくれたので、許されたのだと分かる。
通話は切れた。
「帰りましょう、リリィさん」
「そうですね」
苦笑しながら頷きあった時だった。
「ハァ!!?? 何言ってんだこのクズ長男!!」
さっきの夏海もかくやというほどの罵声が、松野家の廊下から聞こえてきた。
「金がないのは、どうせテメェがパチですったせいだろうが!
弟の金でタクシー呼ぶとか馬鹿なの?んなもん一晩かかってでも歩いて帰れ!」
『……だよ……。いち……がさぁ……』
受話器の向こうからも声は聞こえてくるけれど、そこまでは聞き取れない。
常人より優れた聴覚を持っているセイバーリリィが、その会話を小鞠に伝えてくれることになった。
「どうしたのチョロ松兄さん。そんな大声出したらお客さんに聞こえるでしょ?」
「いやそれがさ、うちのバカ長男が、パチンコでアリ金すって帰りの交通費が無いことに気付いたから、タクシーを呼んでくれって言うんだよ」
「うっわー完全に自業自得じゃん。それで弟にたかる?
しかもなんでタクシー? 電車やバスに比べてずっと高いじゃん」
『おいこらその声はトッティだな!?
別に自分の帰り賃欲しさにタクシー呼ばせるほどお兄ちゃんはクズじゃありませーん!
途中で一松を迎えに行かなきゃいけねぇんだよ! そのためにタクシー使う必要があるの! 急がなきゃ間に合わない案件なの!!』
これはリリィが聞きとった電話相手の声だ。
「え?一松兄さん絡みってどういうこと? それも急がなきゃ間に合わないって何?」
『え……えーと、確かめてみないと分かんないけど、とにかく大事なこと! もしかすると、一松様の人生に関わることかもしんない!』
「なんっか怪しい。兄さんタクシーでどっか遊ぶとこ行くために適当なこと言ってない?」
『ち、がーう!! 下手すると一松がもう戻ってこられないかもしれないんだって!!』
「だからそれが何なのかって、聞いてるんだけど――」
バン、と木の板に掌を叩きつけるような音がした。
小鞠もここで、そっと廊下をのぞいてみる。
同じ顔をした1人、青いパーカーの人が、お札を一枚、黒電話を置いた台にばしっと置いた音だった。
「全財産だ。チップはとっておけ」
「いや千円じゃ大した距離走れないからねカラ松兄さん。っていうか『チップ』と『お釣り』ってぜんぜん違う意味だからね」
「やめた方がいいんじゃないの? またぼったくられるかもしれないよ?」
緑パーカーと桃色パーカーが遠慮がちに止める中で、背後から更に黄色いパーカーの人が現れた。
リリィが助けた後に着替えた、野球服の人だった。
同じように財布から千円札を電話台に置いた。
「はい、結局粉飾決算じゃなかったから、今月は余裕あるよ」
「十四松兄さんまだ株やってたの!?」
その間に、青パーカーは緑パーカーと受話器を交代する。
「なぁおそ松。一松を迎えに行くって本当か?」
『そうだよカラ松! もしかしてお金出してくれんの! なにお前神なの!?』
「一松が、言ってたんだ」
『お?』
「『六つ子で良かった』って。なんか、思いつめてるみたいだった……」
「うんうん。言ってた言ってた」
横からそう口を挟んだのは、黄色いパーカーの人だった。
『へぇ……』
「そのことと関係あるのか」
『たぶんね』
「家出したとかじゃ、無いんだな?」
『そうならないようにする。……時間はかかるかもしれないけど、絶対に皆で家に帰れるような形を考えるから』
その台詞はリリィに聞きとってもらったものだが、その声色が真剣であることは、おぼろに聞こえるだけだった小鞠にもよく分かった。
直後、それを聞いた他の六つ子たちも財布から金を取り出し始めていた。
「もういいよ。これで何かの勘違いだったら、明日は性根叩き直すために二人とも無理矢理ハロワに連れて行くから」
「だね、闇松兄さんの口からそういうこと言われると、エスパーにゃんこのこと思い出しちゃった」
憎まれ口めいたことを言いながらも、全員の表情が笑みに変わっている。
「……というわけで、ここに四千円集まった。これで、一松のいそうな場所ぐらいには行けるか?」
『行ける行ける! じゃあまずウチにタクシー呼んで!
そこで金を先払いしてもらって、まず俺のいるとこまでタクシーつけてもらうから!
そっから小学校の近くの、入り口にアーチがある住宅街に乗りつけてもらう!』
「頼んだぞ、兄さん(ブラザー)」
『任せなさーい。……そうだよなぁ。俺、長男(ブラザー)だもんなぁ』
「あと、マミーが言っていた。今夜はハムカツだ」
『マジで! めっちゃ楽しみにしてる!!』
そしてまた、通話は切れた。
思い出した。
中学二年生になった春に、久々に夏海に連れられて家出をしたことがあった。
その時に迎えに着てくれたのは、一つ年上のお兄ちゃんだった。
考える。
越谷小鞠は、幼く見られることが多いけれど、越谷夏海のお姉ちゃんだ。
家に帰れば妹が待っている、お姉ちゃんだ。
だけど、だからこそ、松野家の長男とやらは、会っておいた方がいいマスターだ。
なぜなら、色々と変わった家族だけれど。
きっと、悪い人ではない。
越谷家の小鞠と、同じ側にいるマスターだ。絶対にそうだ。
だからその人に会ってみようと、松野家長男が指定していた場所に寄り道することにした。
最終更新:2016年07月19日 00:00