どんな微かでも
みんなを愛してた。
♠ ♥ ♦ ♣
サーヴァントとしての健脚で、
櫻井戒は駆けた。
松野一松とそのサーヴァントがどちらの方角に追われていったのかは、すぐに分かった。
あの怪人のたどって行った道の、ところどころ――まるで、何気なく左手で触るような位置に、石化した跡が点々と続いていた。
ほどなくして、探していた紫パーカーの青年は、猫背のまま向こうから歩いてきた。
1人きりだった。
少しの距離があるところで、こちらに気付いたように立ち止まった。
「松野さん、無事で良かった……シップはどうしたんだい?」
暗いぼそぼそとした声で、松野一松は答える。
「死んだよ。怪人もいなくなった」
「それは……」
陰鬱な声に、鳴から聞いたシップのステータスの低さに、そういうこともあるのかと腑には落ちる。
どんな言葉を駆けるべきか躊躇った。
しかし――すぐに、彼を話をするために探していたわけではないと思い出した。
「なら、都合がいい」
携えていた大剣を、そのまま松野へと向けた。
相手が、ぎょっとしたようにその眼を見開く。
「なんで……?」
「僕のマスターの身に降りかかる危険を、いち早く取り去るためだよ」
櫻井戒は、松野一松、シップの主従とこのまま関係を持ち続けることを、極めて危険だと判断していた。
それは、彼等が同盟を組むにしてもメリットが少なすぎる、むしろ鳴たちのお荷物になる弱さの主従であり、共にいれば彼等をかばうだろう鳴の負担が増えるから――というだけの理由ではない。
そもそも、松野一松の雇い主である人物のことを、鳴も蛍たちも楽観的に考えすぎている……と思っている。
ブレイバーにも英霊になるだけの思慮深さはあるようだが、それでも『物事の裏を読む』ことができるほど人間の悪事に精通しているわけではない。
おそらく、依頼人は『
一条蛍をマスターだと疑って、身辺を探るために調査員を雇った』わけではない。
いくら信頼できる会社に頼んだとはいえ、聖杯戦争のことを何も知らない一般人(松野が依頼を受けなければそうなる予定だった)に『一条蛍はマスターなのかどうか』を探り出せるかどうかは怪しいし、
そもそもとっくに一条蛍の個人情報をある程度は手に入れる段階まで調べあげているのだ。
『依頼人は一条蛍を既にマスターだと確信しており、それ以上の手がかり(例えば彼女の周囲に他のマスターが接触していないかどうか等)を求めて調査員を雇った』と考えるべきだ。
だとすれば、避けなければならない展開は、その依頼人に『一条蛍と接触している東恩納鳴』のことまで割れてしまうことだ。
『なるべく他のマスター殺害に鳴を巻き込みたくない』というランサーの方針を維持するためにも、鳴にはできる限り、小学生としての日常に浸かっていてもらわなければならない。
そこを脅かされてはならない。
さらに言えば、この依頼人であるマスターを討伐することにも、鳴を巻き込むのに気が進まない。
『松野一松が依頼人に送る報告を逆に利用して、依頼人を捕まえる罠をしかければいい』と鳴は乗り気になっていた。
しかし、そのマスターを捕えてどうするつもりなのか。
まさか脱出狙いに転向させるなど叶うはずもないのに、殺さずには済ませられない。
彼女には見えていない。しかし、それでいい。
実際にそのマスターを殺す現場になど、居合わせなくてもいい。
そもそも、相手も社会人でありそれなりに地位のある人物が予想される以上、簡単に『おびきよせ作戦』に引っかかるはずもないのだ。
一条蛍がマスターだと確信しているのなら、わざわざ意味ありげな餌に食いつかなくとも、一条蛍を先に捕まえて拷問でもするのが最も手っ取り早いのだから。
もっとも効率的に解決させる方法ならば、外道の手段がある。
『一条蛍の調査中』に、松野一松が、『明らかに事故(
ヘドラに巻き込まれた等)ではない形』で、遺体として発見されることだ。
そうすればどうなるか。
警察が呼ばれる。警察が松野一松の遺族に連絡を入れる。
当然、調査を依頼していたフラッグ・コーポレーションにも連絡が入る。
すると、『松野一松が誰から依頼を受けて調査をしていたのか』が警察に伝わる。
警察に、その依頼人を捕まえることまでは期待していない。
しかし、『捜査線上に、その依頼人の名前が上がる』ところまで行けば充分だ。
サーヴァントの霊体化があれば、セキュリティの堅固な会社から情報を盗み出すことはできなくとも、警察の会話を立ち聞きするぐらいはできる。
それさえできれば、櫻井戒だけで、そのマスターを暗殺する機会が訪れる。
それは、思いついただけの策だった。
実際に実行するとなれば、断念していたはずの策だった。
櫻井戒は己のことを手段を選ばない屑だと規定しているけれど、基本的には幼いころから武道の道に通じてきた好青年でもあり、
聖杯戦争で勝つためならば積極的に人道をふみにじっていくような外道ではない。
何より、それは正しい魔法少女――
プリンセス・テンペストの説いた『正義のため』に反する行いだ。
仇敵である『聖贄杯』でもあるまいに、そこまでの非道を行う必要はないと判断していた。
しかし、彼の言い放った言葉――『聖杯を獲る手段が他になければ、無辜のマスターを殺すのか』という欺瞞を撃ちぬく言葉は、決定的だった。
これ以上、遠慮も配慮も何も無しに、それを言う人物と共にいてはいけない。
松野にこれから口止めをしたところで、彼と一緒にいれば、鳴はその言葉をいやおうにも思い出すだろう。
そうなれば、遠からずごまかしきれなくなる。
己が生還するための道は、ランサーが聖杯を獲るための道であり、なおかつ犠牲の上に成り立つ道だということに。
そうなれば、鳴という少女は――あの無垢な正しい魔法少女は必ず、自分を止めるために動くだろう。
己が身を戦場で危険にさらすことになっても、令呪の全てを使い切ることになっても――最悪は、ランサーを止めるために立ちはだかり、敵に無防備な背中を晒すことになっても。
それは、絶対に阻止しなければならない。
「あなたは厳しいことを言いながらも、僕のことを優しい人間だと見積もり過ぎているよ。
僕はマスターを……大切な人達を不幸にしないためなら、何でもする」
遣り切れない、とは思っている。
己の眼差しは、憂いを隠せていないかもしれない。
しかし、それでも非道を実行する。
英霊になる以前の、生前の行状からもずっとランサーはそうだった。
大切な女性を救うためならば、親友といっていい仲だった者が相手でも、実際に殺すことこそなかったもの、殺す覚悟で相対したこともあった。
そもそも、一族の呪いを解いて妹を救うためであり、かつ叛逆すれば己と妹も殺される境遇だったとはいえ、
アサシンの連続殺人どころではない――数百人か数千人単位かで無辜の人間が殺されることになる『黄金錬成』の儀式を、肯定する側にいたのだ。
いずれ学校が戦場になり、彼のクラスメイトたちも皆がその生贄にされる可能性があると知っていながら、それを黙認するような立場の人間だ。
己を腐りっきった屑と自称するまでに至るほど、必要とあれば手を汚すことに躊躇はしない。
「これは別にあなたを恨んでいるわけでも、見下しているわけでもありません……いや、何を言っても言い訳か」
すぐに終わらせよう、と言葉を途切れさせ、苦しませない斬り方を心掛けるように構えた。
松野はただ、それを呆然と見ていた。
呆然と見つめたまま口を開いた。
「……いやー、ジョーカーちゃんの言う通り演技してほんと正解だったよ、これ」
ごくカラっとした、さっきまでのぼそぼそ喋りとは似ても似つかない声だった。
「それにしても、まさか出会いがしらに殺す宣言されるとか、アイツ何やらかしたんだろ」
右手を後頭部にあててぼりぼりと掻くのと同時に。
その周囲に、サーヴァントの少女たちが出現していく。
驚いたが、同時に納得もし、先刻の『サーヴァントは消えた』という言葉に納得しかけた己を叱責した。
バーサーカーのマスターがばらまいていった魔力の残り香にしては、気配が濃すぎると思っていたところだ。
シップとは似ても似つかない、白黒の巻き毛にトランプ柄の衣装を着た幼い兵士たちだった。
紫のパーカー周囲にはハートが囲み、スペードとクラブの柄が前線に出て槍と棍棒を突き出す布陣だ。
先頭には、ひと目で実力者だと分かるだけの気迫を持った、スペードのエース。
「貴方、松野さんじゃありませんね。……いや、『松野さん』ではあるのか。ご兄弟ですか?」
よく見れば、紫パーカーの男はさっきまでと違うズボンを着ている。
まるで、顔が瓜二つの男と、着ているパーカーだけ入れ替えたかのように。
「同じ顔が、二つあったっていいよな?」
そう言うと、男は素早くわしゃわしゃわと髪を撫でつける。
わざとらしくぼさぼさにしていた頭髪を、アホ毛2本のみの髪型へと戻した。
松野一松では絶対にしない、明るいにこにことした自然な笑顔で名乗る。
右手の人差し指で、鼻の下を得意げにこすった。
♠ ♥ ♦ ♣
「――ダメ」
その一言で、望月の心臓に吸い込まれようとしていた鎌はぴたりと止まった。
その鎌は、一松の額に刺さる直前で動きを止めていた。
……一松の、額?
気付けば一松は、望月の前に立っていた。
兄の手をふりほどき、望月の前に、彼女を庇うように、そこに立っていた。
「一松、何してるの?」
望月へのとどめを制止した兄は気が付けば目の前にいて、一松にそう訊ねていた。
自分が庇ったことを自覚して足はがくがく震えはじめたけれど、心底から『止めろ』と思ったことは事実なので今さらどくわけにもいかない。
「そんなにその子が大事だったの?」
うるっせぇ、と言わんばかりに真正面からガンを飛ばすようににらみつける。
ところが。
視線がぶつかった次の瞬間、おそ松は笑った。
ふっと、わざと作っていた挑発的な表情から、自然な笑顔へと戻るように笑った。
「あのさぁ、一松」
うん、と一つ頷き。
次の瞬間、がいん、と頭を派手に叩かれた。
容赦のない、げんこつだった。
「お前、こんなに大事なことを、なんで言わなかったの」
戸惑ったようにどよどよっとなるサーヴァントの少女たちを待っててね、と制して、
据わった眼で詰め寄られる。
いや、なんで今まで言わなかったとか、こいつにだけは言われたくない。
「俺、お前のことは外で映画を見ただけでもきっちり報告をいれてくれる子だと思ってたんだよ?
なんで今回は言わなかったの、すっげぇ大事なことじゃん!?」
苛ついたようにダンダンダン、と地団太を踏み鳴らされた。
なぜ急にこんなに怒り始めたのか、一松には分からない。
「な、なにそれ。自分だってこっそり聖杯戦争やってたくせに」
もう長男にとって、彼等を始末することは確定だったはずだ。
どうしていきなりごね始めたのか、一松には分からない
「そこじゃねぇよ! どうでもいいんだよ聖杯戦争なんか!!」
言い切った。
さっきまで聖杯に願って死んだ人たちを取り戻すとか何とか言っていたくせに、『どうでもいい』とか掌を返した。
じゃあ報告しろと言っていたのは何だ。
分からない。
この長男のラインが分からない。
聖杯戦争がどうでも良くなるほどの重大事なんか――
「友達ができたなら、ちゃんと言えよ!!!!!!!」
――――――――――えっ
全く予想もしていない方向からガツンと殴られた、気がした。
「お前が猫以外の他人を庇うなんてよっぽどのことじゃん!!
なんで言わないの!? 友達多いトッティならともかく、お前は言わなきゃだめだろ!!
お前に友達ができないの十四松とかみんな気にしてたの、知ってるだろ?
お兄ちゃん、てっきり弟のガールフレンドぶっ殺すとこだったじゃん!」
「い、いや、今まで、友達とか考えたことなかったし。こいつサーヴァントだし」
いや、弟のガールフレンドぶっ殺すも何も、直前にその弟を殺そうって話してたじゃないかアンタ。
色々とツッコミどころ満載な雰囲気におののきながらも、ぼそりぼそりと答えると、兄は納得したように「あー」と頷いた。
「なるほどね。自覚無かったんだ。まぁ分かるよ。
初めての経験だもんね、それは仕方ない。でもさ、俺びっくりしたよ。本当にびっくりしたよ。
お前でも、女の子をかばって身体張ったりするようになったんだ」
そう語るうちに、1人で納得したのか、うんうんと頷く。
右手がゆっくりと、こちらの頭上にのびた。
ぽむ、と掌が髪の上に置かれる。
「やるじゃん! すっげぇ見直した!
お前が女の子から『楽しかった』って言われるなんてよっぽどのことじゃん。すごいすごい」
ワシワシと撫でられた。
褒められている。すごく撫でられている。
こちらとサーヴァントを殺そうとした人間に、今は褒められている。
その時だった。鎌を持ったジョーカーの少女が、硬い声で会話に割り込んだ。
「マスター。田中が、あと数分でこの近辺に到着するとクラブの5から報告がありました」
「マジで? 俺らがちゃんと捕まえたか確認しに来るの?」
「そのようです。向こうとしては、約束の成立を確認したい立場ですので」
「んー、田中ちゃんの令呪だと『一松とそのサーヴァントに手を出すな』とまでは言ってないしなぁ。
しばらく、俺の気が変わったことは、ばれない方がいいと思う」
「御意。具体的には?」
「そうだなー」
ちら、とこちらの格好を上から下まで見られた。
「ねぇ、何の話してるの?」
「よぉし。一松、『ばんざい』しようか」
「は? なんでばんざい?」
「いいからいいから」
ぐい、と両腕が引っ張られて頭上へと上がる。
直後、パーカーの裾を掴まれて強引に脱がされた。
ばんざいの状態だったので、するりと袖を抜かれる。
「え、いやちょと待てゴラ!」
話の流れは見えないしさすがに気持ち悪いわ! と思ったら、
腕まで自由になった直後に、ぼすっと何かを投げつけられた。
兄の着ていた、赤いパーカーだった
「はい、これ着て。さすがにズボンまで履きかえてる暇はないか。
それから髪はちょっと整えないとね。
あとボソボソ喋るのもなるべく禁止。闇のオーラも引っ込めてほしい。
田中ちゃん達には『弟』とは言ったけど『一卵性』とは言ってないから、たぶんこれでばれないでしょう!
あとは、ジョーカーちゃんが考えた言い訳を覚えて――「いや、何言ってんの?」
「ん? 正しい『おそ松兄さん』のやり方」
「正しいおそ松兄さんのやり方って何だー!?」
「言っとくけど、これ別にお前のためとかじゃないよ?」
嫌な予感がする。
嫌な予感がすることなのに、この兄がわざわざ『弟に責任はない』とか言及しているのが、なおさらいつもと違う。
「ちょっとけじめをつけるだけだから。
こっから先は、ギャグとか言わない自己責任アニメみたいな感じで」
♠ ♥ ♦ ♣
松野家長男であるおそ松の眼から見て。
いや、おそ松以外の眼から見ても。
松野一松には、友達ができない。
本人は、友達なんか一生要らないと言っている。
でも、本当は友達がほしいと思っていることを、松野家の兄弟は知っている。
松野家の六つ子の四男にとって、友達を作るということは他のどんな行為よりもハードルが高い。
それだけ、一松は兄弟以外にとてつもない壁を作っている。
まともに会話ができないし、善意を示されても受け取ることを拒否するし、人と距離を縮めるのが怖いから毒舌を吐いて突き放す。
自分には価値が無いから、友達になってくれる人間なんているはずがないと諦めている。
この先、ニートが珍しくやる気を発揮して、猫カフェとかの面接を受けて仕事に就けることがあったとしても。
独り立ちがしたくて、財力も住むアテも何もないのに、家を飛び出してどうにか生きていくことができたとしても。
そういうハードルを越えられた時も、ついぞ友達を作ることだけはできないのではという気がする。
イヤミやチビ太、ハタ坊、トト子といった幼なじみとはずっと交流があるけれど、一松が彼らのことを『友達』の括りにいれないのはたぶん、
あくまで『六つ子』として親しくなった関係であり、『一松が自力でつくった友達』ではないからだ。
それはきっと、松野家に宝くじが当たって、それこそ一生遊んで暮らせるだけのお金が手に入るよりも珍しく、とてつもない重大事だ。
なぜなら、お金は世の中のどこにでもあって、たまたま六つ子のところには入ってこないだけに過ぎないけれど、
『一松の友達』は、一松自身が頑張らなければ世界のどこにも存在しない。
一松は、頑張れない。
兄弟(みんな)がいるから友達は要らないと、自分に言い聞かせていた。
その、一松が。
自分が死んでも守りたいほど――誰かのことを大切に想い、近い距離に置いている。
サーヴァントだから、という理由だけではない。
サーヴァントが死んでもマスターは即死しないのに、それでもおそ松の手を振り払って庇おうとした。
直後に一松と眼をしっかり合わせて、本気の眼なのかどうかも確かめた。
まったく、おそ松の愚弟ときたら、自分が自分にとってどれだけの偉業を成し遂げたのか、ぜんぜん自覚していなかった。
その相手は幼い女の子で……見た目の年齢差とか考えると犯罪じみてくるから、『ガールフレンド』なのかとか考えるのは、ひとまず止めておくけれど。
『イッチー』というあだ名で呼ばれて、『楽しかった』と本心から言ってもらえる関係を作っている。
あの性格がひんまがった一松を相手に、『楽しかった』と言ってくれている。
なんだ、この女の子めちゃくちゃいい子じゃん、と思った。殺そうという発想はもう無かった。
精神年齢を比べれば、おそ松は、一松よりもずっと子どもだ。
だがしかし、おそ松は一松の兄であり、一松はおそ松の弟だった。
聖杯に願いを賭けて、最終的にみんな生き返らせればいい、という神父の話は、ころりと信じた。なぜならおそ松は、バカだから。
それに、ヘドラのとてつもない被害だとか、自分が命令して
シャッフリンがやってきた罪の重さだとかを考えると、
『これはいつもと同じで、どうにかやり直しの効くイベントなんだ』と思いながら聖杯戦争に臨める方が、正直なところ楽だったから。
それに、その案ならば、最終的には兄弟の誰も喪わずに、確実に元の世界に帰ることができるから。
少なくとも、六つ子の誰かを永久に失うことになるなんて、最初から考えもしていなかった。
とりあえず『また兄弟揃ってのニート生活に戻る』ことは大前提のように、ことさら意識するまでもなく、そう動くつもりだった。
聖杯を獲って一攫千金だと目が眩んでいた時も、シャッフリンのしでかしたことに怯えて泣いてしまった時も、今になってもずっとそうだった。
だって仕方ない。
別に他人なんかどうなってもいいとまでは思わないけれど、会ったことのない有象無象の命と、身内のそれとで、前者を取れと言うのはちょっと有り得ない。
『いつも通り』ならば、『いつも通りにやってもいい』ならば、六つ子は平気で兄弟同士を蹴落とし合う。
自分の保身のために襲われている兄弟を見捨てて逃げるぐらいは平気だし、聖杯はおろかおやつの取り合いをするだけで殺し合いに発展する。
別にすごく仲の良い兄弟じゃない。
5人の敵と言っても正しい関係だ。
だけれど、せっかく兄弟が真剣にがんばって、きっと緊張したり、不器用に話しかけたり、たぶん猫と遊んだりしながら友達を作ったのに、女の子を庇う気概を見せたのに。
それを応援しないなんて、そんなのは兄弟(強敵)として失格なのだ。
この戦争が終わるまでの関係だろうと、二人にとって後味の悪い終わらせ方なんてしたくない。
世の中には、お互いに憎からず思っていても、振られて別れて、離ればなれになってしまうような二人だっているのだから。
……一松が探さないなら、俺達も探さないよ?
弟の猫(ともだち)がいなくなった時、一松にそう言った。
弟は、自分で探り探りして、そして見つけたのだ。
本気の本気で睨み返してきたのが、その証拠だ。
だから、お兄ちゃんは応援する。
そういうものだ。
とてもシンプルな理由だ。
弟にはじめて友達ができて、兄は本当に嬉しい。
すごく寂して、すごく嬉しい。
たとえ今が聖杯戦争の真っ最中だろうと、
『田中』を初めとする身内を失った人たちからクズ外道と謗られようとも、
こればっかりは仕方ないし、絶対に譲れない。
♠ ♥ ♦ ♣
住宅街の中にぽつんと作られたある程度の広場――公民館の駐車場に、戦場は移されていた。
「最初は『ちょっと理由があって、アンタらと一緒にいるのが良くないからウチの弟を探さないでください』ってお願いしに来たつもりだったんだけど。
なんか試しに一松の振りしてみたら、『交渉の余地無し』って感じ?」
スペードのエースが、眼にも止まらぬ敏捷さで槍の穂先から火花を生み出し、捌いている。
火花を生むのは、おそ松の台詞が届いているのかいないのか、青年の携える闇色の大剣が、受け止め、押して押され、弾くことで生まれる剣戟だった。
眼にも止まらぬ速さ。それはありきたりの表現だが、おそ松の視界では本当に追いつけないどころか、火花の煌きさえ残像でぶれて見えるほどのありさまだ。
おそ松どころかそれ以下のスペードの上位ナンバーでさえも、割って入ることを許されないレベルの戦闘だと悟り、ただ槍を構えるのみに徹している。
剣戟の風圧だけで、駐車場のアスファルトに亀裂が入り、破片となって散っていく。
両者の風圧はの余波は、やや離れた場所で観戦するおそ松たちにも届いていて、その迫力に周りを囲むハートシャッフリンたちを振るえさせつつも、
『エースが戦っているのだから自分たちもしっかししなければ』と言わんばかりに背筋を伸ばしてまっすぐな防御陣をつくらせる。
何も知らぬ者から見れば、黒いセイバーの青年とランサーの少女の激突かと錯覚しそうなほどの、真っ向からの決闘じみた攻防だった。
『マスター、戦況はスペードのエースに有利です。ご安心を。
得物と技量では相手の方が上、敏捷さと小回りでこちらが勝っていると言ったところでしょうか』
そばにいるジョーカーから、念話が届く。
ひょえー、シャッフリンちゃんってこんな強かったのかー、とおそ松はその感想を念話に出さずに内心にしまった。
直接話すこともできる状況ではあるのだが、ある理由から、この戦闘では念話で話そうということになった。
『……なんかごめんね? ころころスタンス変えちゃうマスターに巻き込んじゃって』
『変わっておりません。我々の仕事は、一貫して主様に下郎の刃を近づけないこと』
『……ありがと』
すぐそばにいるハートの3番の服を着たシャッフリンの手を、ぎゅっと握りしめた。
よく目を瞠って見れば確かに、敵のランサー(ランサーなのになぜか剣使いだ)は、大剣を生かした押しつぶすような打ち下ろしの攻撃をよく行い、スペードのエースは小回りを利用した攻撃を駆使しているように見えた。
スペードのエースは槍を振り回しての足払い、足先狙い中心の攻撃に切り替えて攻勢を続けている。
圧倒的に身長で上回っているランサーは、低所からの攻撃を裁くために必死になっているように見えた。
『ここで仕留めますか?』
『んー。でも、あのひとを消しちゃうと、田中ちゃんの仲間も半日以内に死んじゃうんでしょ?
ならいいや。ただでさえ約束破って逃げることにしたのに、これ以上恨み買うのも良くないと思うし』
『御意。しかし、敵の方はこちらを仕留めるまで退くつもりは無いようです』
『どうにかやっつけて、一松を諦めてくれたらいいんだけどねー。
あ、でもスペードちゃんたちの方が危ないようなら、その時は遠慮しないでいいから』
『各スペードにそう伝達します』
やがて両者は、いったん仕切りなおすように間合いを取った。
槍使いの筋骨たくましい身体と、魔法少女のみずみずしい白肌を、汗が幾筋も浮いてはすべっていく。
おそ松は、早く終らせたい一心で呼びかけた。
「ねぇ、そろそろ止めにしない?
これってそっちのマスターに無断でやってるんでしょ?
早いとこ終わらせないとマスターが来ちゃうよ?」
「そういうわけにはいかない。
貴方の弟は、僕のマスターの生命線になる情報を握ってしまっている。だから、このまま消えられては困る。
あの人の様子だと、威圧されたり拷問でもされたりしたら、すぐに情報を吐いてしまいそうだろう?」
「あーそれは有りそう。うちの兄弟どいつもクズだから」
『マスター、そこは嘘でも否定すべきかと』
「――じゃなくて。ほらそこは俺からよく言って聞かせるから。
もう絶対にそっちに関わらせないから」
「それだけじゃない。貴方はどうやって弟さんの危機を察知して、タイミングよく現れた?
貴方も僕たちの動きを見張っていたんじゃないのか?」
「ぎくっ」
「しかも、カマをかければそこまで動揺するということは、『弟のことが心配でつい』というわけでもなさそうだ。
そうやって得た情報を、誰かに売ろうとしていたか、聖杯を狙っていて利用できると踏んでいたか」
「ぎくぎくっ」
「ちなみに、その『売ろうとしていた相手』のことは教えてもらえるかな?」
「いや~、それは無理かなぁ。正直に言ったらおれもジョーカーちゃんも、たぶん全方向から許してもらえないなぁ……」
『まさにこのサーヴァントのマスターを人質に取っていましたからね』
『ジョーカーちゃんのせいだからね!?』
「なら仕方ない。今は貴方を拷問して洗いざらい吐いてもらう時間も惜しいんだ。
つまり、分かるだろう?」
「い、いや、でもさ? スペードのエースちゃん達も強いよ? すぐには倒せないよ?」
「ここからは、そうはならない」
そう言い放ったのは、おそ松だけでなく、己の両手にある大剣――偽槍に対してもだった。
己が腐っていることが鳴に露見して、信用を失ったり嫌われたりするのはちっとも構わない。
けれど、それであの無垢な少女が、ランサーのために穢れようとすることだけは、あってはならない。
一刻も早く、全ての災いの種を潰す。
しかし、単純な力量のぶつけ合いでは、スペードのエースが現状で上回っている。
状況の膠着を打破するためには、単純な白兵戦に勝る技を繰り出すしかない。
もしもマスターがこの場に来てしまえば、穢れを見せまいとしてきた、これまでの全てが無駄になる。
その焦りが、らしくない早急な判断に繋がっていく。
禁忌であり切り札となる宝具の使用を、そこに決断させた。
「行くぞ――そして来い、偽りの槍よ」
元々、彼はその宝具――『創造』の使用を、生前から極力は拒んでいた。
一度でも吸い取られれば、魂を吸いつくされて心の無い戦奴にされる不安は、彼にとって何よりも忘れ難いものだ。
しかし、サーヴァントとしての彼はその『戦奴にされる』という状態まで宝具――真名を開放して、初めて行使する手段となっている。
そのために、生前は戦わない時でも絶えず感じていた喰いつくされるような灼熱地獄も、召喚されてからはまるで感じたことがない。
その安堵が、彼の鬼札を切る判断を緩めてしまったことは否めない。
かくして、彼は開いた。
地獄への扉を。
ココダクノワザワイメシテハヤサスライタマエチクラノオキクラ
『許許太久禍穢速佐須良比給千座置座』
「血の道と 血の道と 其の血の道 返し畏み給おう」
その詠唱が始まった時、『黒円卓の聖槍(ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌス)』が哭き始めた。
猛悪なまでの、凶念がやって来る。
寄越せ、寄越せ、魂を寄越せ。
「な、なにこれ!? 何かヤバい! 分かんないけどヤバいことだけは分かる!」
『おそらくは、固有結界の詠唱かと』
その槍の意味をしらないシャッフリン達にも、おそ松にも伝わるほど、凶暴な『飢え』が槍から叫ばれている。
それも、敵に向かって訴えるものではない。
使い手である、櫻井戒への要求であり、支配欲であり、代償であり、蹂躙だった。
にも関わらず、それらを向けられていないシャッフリンの全てが、間接的に伝わってくる余波の振動ひとつで『食われる』恐怖を、『地獄の業火で焼かれるように』料理される感覚を知覚してたじろいでしまう。
その吠え猛りを直接に受け止めることが、そのまま櫻井にとっての狂信となる。
この狂った穢れに耐えきれる己は、この凶暴さを利用しようとする櫻井戒は、
まぎれもなく、魂から腐りきった屑である。
「禍災に悩むこの病毒を この加持に今吹き払う呪いの神風」
この世に存在する天つ罪、国つ罪の全てを己が被ろう。
畔放(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、頻播(しきまき)、串刺(くしさし)、生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)糞戸(くそへ)。
ありとあらゆる、全ての穢れを己に集めよう。
「橘の 小戸の禊を始めにて 今も清むる吾が身なりけり」
生膚断(いきはだたち)、死膚断(しにはだたち)、白人(しらひと)、胡久美(こくみ)、己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜犯せる罪、昆虫(はうむし)の災、高つ神の災、高つ鳥の災、畜仆し(けものたおし)、蠱物(まじもの)する罪。
全ての罪悪を、全ての病を、全ての災害を、引き受けよう。
「千早振る 神の御末の吾なれば 祈りしことの叶わぬは無し」
全ての穢れは、己にあり。
我が祈りは、無双なり。
なればこそ、愛しい者たちが穢れを被る道理は無し。
それが叶わぬことなど有り得ないと、眩しい世界を守るために己を穢す祈りの歌だ。
「創造」
人間が、己自身を毒の地獄へと変性させる。
此処にいるのはもう――いやとっくに、『優しくも厳しいお兄さんの櫻井戒』などではない。
全身が腐りきった、異形への創造だ。
それまでの激しい剣戟と比べれば、いっそ軽くおだやかな動きで大剣が動いた。
スペードのエースはそれを槍の先端で難なく止め、打ち払う動きにつなげようとする。
つなげようとした――できなかった。
先端が、その瞬間に腐り落ちた。
日中にいちど折られ――そしてダイヤのシャッフリンが鍛えなおしたスペードの槍が、ほぼ『溶けた』と言っていい腐敗速度でボトリと落ちた。
「!?」
スペードエースはその表情に驚愕を浮かせながらも、とっさの判断から槍の石突でランサーの身体を打つべく槍を回転させる。
回転させようとした――すでに槍の石突まで、得物の全体に腐敗が進行していた。
瞬く間にボロボロと形を崩していく槍に、スペードのエースは数秒も断たないうちに無手となる。
「――!」
それでも闘志を失わず、ランサーに組み付いて得物を奪おうとした身体が抉られるように倒れた――得物も使わない、ただの蹴りに倒された。
まるで、蹴激の威力だけではない、身体を真の意味で『削る』ような別の力が、そこに働いたかのようにキレイに倒された。
「エースちゃん!?」
おそ松の悲鳴は、おそらくエースの耳に届かなかった。
倒れた瞬間に、巨大な大剣がその顔面に真上から刺さったからだ。
シュウシュウと、硫酸でも爆ぜるような腐敗の音が、致命傷を受けたエースの鼻梁あたりから聞こえてくる。
彼女は顔面を潰されてもまだ戦おうとするかのように、どこかにいった得物を探すかのようにジタバタと動いていたが、ランサーはそれをすっかり無視して剣を引き抜いた。
残ったスペードの軍団を突破しようと、散歩か何かと変わらぬ平常の足取りでスタスタ歩く。
そこからは、腐敗地獄だった。
しかもその地獄そのものは、先ほどまで人間の姿だったサーヴァントただ1人を指していた。
槍をひとたび振るうごとに、受け止めたスペードの槍の方が腐る。
数で包囲してランサーを槍で突き刺したところで、刺した槍の方が腐って、ランサーにはボロボロの木切れで突かれたほどの傷跡さえ残らない。
刺した槍から腐敗が伝染して、シャッフリン自身が両手から腐っていく。
シャッフリン達に、初めから回避するという選択肢は無い。
避けたり、逃げたりすれば、後方にいるジョーカーとマスターが護れない。
スペードのキングが腐敗した大剣で腹を貫かれ、
スペードのクイーンがそのまま振り回された大剣をぶつけられてキングごと腐り、
スペードのジャックがランサーの身体に槍を突きたてたばかりにその両手をボロボロと腐り落とし、
スペードの10がジャックを開放しようと支えて、ジャックに触れた面から腐り始め、
クラブのジャックが、気配遮断で潜っての不意打ちを頭部に与えようとして、頭部に振り下ろした棍棒が腐ったためにバランスを崩して落下し、
クラブの9が、少しでもランサーの足を止めようと足元にしがみついて上半身を腐らせた。
「相手が悪かったね」
数字の大きい方から次々と倒れていくシャッフリンたちを哀れむかのように、腐敗地獄は宣告する。
その声まで、声帯を腐らせたかのようにヒビ割れていた。
姿は人間で、しかしそこからは鼻が曲がりそうな――曲がるのを通り越して鼻まで腐りそうなほどの腐臭がおびただしい。
素手だろうと、武器越しだろうと、『相手に触れることでしか戦えない』者に、
黒円卓の第二位が破れる道理など絶対に有り得ない。
時間をかけないという宣言の通り。
一分も断たないうちに、兵士たちの数が半分を割った――それも、致命傷を受けたのはほとんど上位ナンバーだった。
戦場の兵士たちに使う用語で言えば、壊滅状態だった。
折り重なったトランプ兵士たちのさらに向こう側には、ガタガタ震えるハートに囲まれて、それ以上にガクガクと震える彼女たちのマスターがいる。
初めて目の当たりにする『可愛がっていたシャッフリン達が犠牲になっていく姿』に、歯の根がカチカチとなっている。
しかし彼は、震えながら、ハートの3番を付けたシャッフリンと、ジョーカーの柄に鎌を持ったシャッフリンを両腕で抱きしめるようにしている。
彼女たちと念話で何事かを話すように、視線を交わしている。
そして、傷つきながらも立ち上がろうとしている生き残りシャッフリン達に、泣きそうな声で言い放った。
「ジョーカーちゃんごめん。令呪、使う。
『諦めるな。命令を待つんじゃなく、周りを見て戦え』」
マスターの身体から、令呪の発動を示す魔力光が放たれた。
その輝きに呼応するように、シャッフリン達の眼に戦意が宿り始める。
戦線に加わらずに待機していたダイヤのスート十三体までも加わり、マスターを囲んでいたハートのスートのうち約半数も前線に加わるよう前にでる。
「もう一回! もう一回、令呪を使うから。『■■、■■■■■■■■■■、■■■』」
二回目の令呪は、ごく小声だった。
何を言っているか、唇の動きだけではランサーにもいまいち読み取れない。
しかし、一回目の令呪を重ねがけするような類のそれだったらしく、生き残ったシャッフリンたちが、ボロボロの者も含めて気力をより充溢させたように立ち上がる。
「それは根本的な打開策にはならないよ。僕みたいな屑と出会ってしまったのが運の尽きだ」
幾らなんでも、令呪の大判振る舞いにもほどがあった。
ここでシャッフリン達が倒されたらマスターの死も避けられないとはいえ、それでランサーの腐敗を食い止められない以上は焼石に水にもほどがある。
だが。
「…………屑って誰のこと?」
櫻井戒の言った言葉に対して、松野おそ松が顔を上げた。
ふたたびランサーと目を合わせ、そう訊ねた。
「僕のことだよ。松野さんたちとは、住んでいる世界が違うことがよく分かっただろう。
とても家族には見せられたものじゃない。こんな腐った世界に好きこのんで浸かっていられる、汚い手も平気で使う人でなしが、屑でなくて何なんだ?」
それは、彼を諦めさせるための台詞だった。
戦争も殺戮も、裏社会の黒円卓のことも何も知らない、
ただの貧相で弱っちい『バカ兄貴』が、そこそこ強いサーヴァントを引いただけでどうにかなる世界ではないのだと、
そう悟すための、台詞だった。
だから、
「そんなわけ、ないじゃん」
真っ向からの否定が返ってくるなんて、思わなかった。
「アンタ、兄弟が誘拐されたのに見捨てて家で梨食ってたことある?」
「――え?」
何か、ひどく人間失格な行為を聞いた気がする。
おそ松が口火を切るのに合わせて、シャッフリン達も腐らずに残っていた武器を構えて臨戦態勢を取った。
時間をかけるわけにもいかないランサーは、戦闘の続きを再開してシャッフリン達をどかすために大剣を振るい始める
しかし、声も枯れよとばかりの大声で、その男はがなり立て始めた。
「おやつの今川焼欲しさに弟妹(きょうだい)とガチで殺し合ったことは?
弟がそこそこ頑張ってたバイトを、気に入らないからってだけでメチャクチャに荒らしたことある?
女を買う金を作るためだけに、家財道具全部売り払って家族に怒られたことあんの!?
自撮りの背後に全裸で映り込んだことは!?
リア充がバーベキューしてるのにムカついて石投げたことは!?
ハロウィンの日に知り合いの家に勝手に上がりこんで、家財道具ぜんぶ巻き上げたことはあるか!! どれも無いんじゃないの!?」
大剣の一刺しで、クラブのシャッフリンを庇ったハートの腹を貫く。
しかし嫌が応にも耳に入って来るのだ。
櫻井戒は、悪の組織に所属する堕落した存在だ。
しかし、社会的な常識はバッチリある。
だから『そんなゲスいことをする人間が本当にいるのか?』と素で思ってしまう。
危うく自分が8歳の妹からおやつを取り上げて1人ゆうゆうと食らう光景を想像しそうになり、イカンイカンと首を横に振った。
「就活に充てるために貰った金で、真昼間っから酒飲んだことは?
弟が勝ってきたパチンコの金、根こそぎぶんどったことある?
親友が金を貸してくれなかったからって、八つ当たりでそいつの車をボコボコにしたことある!?
小さな女の子を連れてパチンコに行ったことは?
ゲームなんだって勘違いして、たくさんの人を殺すように命令して自覚無しだったことはあんの?
どれも無いのに、自分のことを『屑』とか言ってんじゃねぇバーカバーカ!!」
どうやらハートのシャッフリンに限れば、他のシャッフリン達より頑健さが抜きんでているらしい。
刺しても払っても腐敗の進行速度が遅いし、それを心得ているかのようにクラブがやスペードの残党が攻撃されそうになると庇うように前に出てくる。
しかしなぜだろう。
黒円卓で、様々な悪逆非道に手を染めた狂人たちなど見慣れているはずなのに。
何百人を殺したとか犯したとか聞かされるより、
常識ある人間として、そっちの方が生理的に屑に感じてしまう不思議。
――いや、違う。
松野おそ松が自分のことをどう罵ろうと、櫻井戒が屑だということに変わりないはずだ。
櫻井戒が己のことを屑だと自称するのは、べつにただの自虐とか被虐趣味だとかでは断じてない。
妹や大切な人を穢さないためならば、自分がどんな汚れ役でも引き受けると、
家族や近しい人達を守り抜くという、誇りも確かに存在する自己認識なのだ。
「だいたいアンタ、俺が弟の為にここにいると思ったか!!
違うもんね!! 俺、嫌々やってるだけだからね!!
実はさっきだって、弟殺せば聖杯が手に入るって思ったら弟殺しかけたからね!!
本当は今だって、こんなんとっとと終わらせてハムカツ食いたいぐらいしか考えてないからね!!」
何度も何度も起き上がる、ハートのシャッフリンたちに焦燥を感じる。
ハートたちが倒れそうになったら武器を持たないダイヤのシャッフリンがそれを支え、敏捷さでわずかに勝るスペードの下位ナンバーたちは攻撃するよりもちょろちょろと駆けまわり、ランサーの視界を遮るようなものを投げつけて攪乱に徹し始めている。
そいつらを掃討するための効率的な攻撃手順を、頭の中で組み立てる。
しかし、声は聞こえている。
そして思う。
「弟妹(きょうだい)は、もっと大切にした方がいいんじゃないかな?」
思っただけでなく、口に出してしまった。
櫻井戒にとって、日常とは眩しく美しいものだ。
弟妹(きょうだい)とは(妹しかいないけれど)、無垢でかわいらしくて仕方がないものだ。
誘拐されたのに忘れ去って呑気に梨を食べるなど考えられない、外道の所業だ。
『日常』を踏み躙るような発言を口にされて、つい『相手の言葉に耳を傾けている』ことを認めてしまった。
「うっ、せー、よ!! やっぱりお前は『屑』じゃねえだろ!
『弟を大切に』とか『長男だから』って言われるのが一番ムカつくんじゃボケェ!!」
彼の『己は真底から腐った屑である』という自己規定に、『この眩しい日常で生きることを選べない人間だから』という憧れもあったことは想像に難くない。
「弟達なんか嫌いだし! 死ねばいいのにって割と本気で思ってるし!!
何かあると比べられるし、どこ言っても指さされるし、
こっちが寂しがってるのに遊んでくれないし、お兄ちゃんだからって優しくしてくれたことなんかほとんど無いし!
家族に見せたくないとかバカじゃねぇの! どうせどんな弟妹(きょうだい)だって、そのうち自然に汚れてくもんなんだよ!
今は可愛い年頃かもしれないけどな! どうせあと十年もしたら溺愛された反動で頭がアホの子とかになって、危ない彼氏とかにガンガン貢いだりして家族の頭が痛くなったりするんだからな!」
「ひ、人の妹を一緒にするな! 僕の妹は誰にも汚させない!!」
つい、ガチの反論になった。
逆に言えば、櫻井戒には、日常こそが地獄だったと主張する人種への耐性が無い。
そして、このK市に松野家ほど、眩しい若者時代だとか、あたたかな日常だとか、美しい兄弟愛に対する幻想を破壊する家庭はない。
一方でおそ松は、信じている。
味方は己とシャッフリンだけであり、兄弟は五人の敵である。
世界はすべからく、五人の敵に比べれば取るに足りない中立であり、
六つ子に産まれてしまった日常とは、常に甘やかな地獄なのだ。
「汚さないとか無理に決まってんだろバーカ!
むしろ俺だったら率先して道連れにするね!
誰か1人だけ上に行くとか絶対に許せるか!
行先が地獄でも皆一緒なら怖くねぇだろそっち選ぶわ!!
キレイなままでいてほしかったら時間でも止めてみろバーカ!!」
もはや、何を言っているのかを自覚しているかさえ怪しい。
けれど、自分自身と兄弟に対する扱いならば、彼はとてもよく知っていた。
なにせ、彼の自意識はたいそう小さくて扱いやすい。
おそ松にとって、時間とは止まらなくていいものだ。
なぜなら彼は、十年たってもやっぱりバカだから。百年先も、生きていればバカをやっているから。
「ふざけるな! 大切な妹を邪道に引っ張りこむなんて、そんなことができるわけないだろう!」
この『聖杯戦争』の中で、櫻井戒も、大切な妹と同年代のマスターを穢れた行いに巻き込むまいとした。
けれど頼もしい彼女は、隙あらばとランサーを助けようと、自ら戦場に出ようとして、なかなかうまくいかなかった。
そんな思いもあって、ランサーはいっそう強く否定の言葉を吐いた。
大切な存在を、自分と道ずれに地獄に落としても上等だなんて、そんな行いがあってたまるか。
そんな人間がいるとしたら、それこそが真のクz――
「――っ!」
その考えが、脳裏をよぎりそうになったのと同時だった。
一斉に槍と棍棒を叩きつけられた櫻井戒の身体に、『それらが身体を擦る感覚』と、『切り傷を受けたような痛み』が襲いかかったのだ。
「痛い、だって?」
有り得ない。
大剣を大振りに振りぬいて包囲を振りほどき、見下ろせば。
確かに振り払われたシャッフリンの得物には腐食が起こり始めているものの、その速度はスペードのエースを潰した時に比べれば極めて遅々としており、未だ形が崩れていない。
そして己の身体を見下ろせば、武器を撃ち込まれた箇所には、確かに血が滲みはじめている。
「まさか……」
ダメージが、わずかなりとも通るようになっている。
黒円卓第二位の『創造』が、ただの社会最底辺の一般人の心底からの叫びを聞いただけで、綻びそうになっている。
原因があるとしたら、しかしそのせいでしか有り得ない。
エヴィヒカイトの『創造』とは、『そうではないはずがない』と当たり前のように狂信している自分論理の思い込みに由来する。
『それが当然の摂理なのだ』と当たり前のように完全に信仰していなければ、その鉄壁は途端に乱れて崩れ去る。
本来ならば、ただの一般人が『お前はクズじゃない』と吐いたところで『なんでこいつは水が低い所から高いところに流れるようなことを言っているんだ』としか響かないはずの狂信が、ぐらぐらと揺るがされている。
攻撃が有効になったのを見て、シャッフリンたちの眼に『狙い目だ』という不屈の意思が強く輝き始めた。
円形にランサーを包囲し、残ったわずかな人数でも頼りにしあうように目線を交わし合う。
そう、シャッフリンたちだって、もはや人数が三分の一以下に減り、ほとんどが負傷しているか、地面に倒れてもがいている。
それでも、その動きはむしろ洗練されたものになっていた。
洗練されているというよりも――よく、連携が取れていた。
結果的にランサーを『(狙っての事かは怪しいにせよ)おそ松の言葉が効力を発揮するまで、足止めしきる』という役割を果たせるほどに。
誰かに武器が直撃しそうになれば、誰かが手を引いて回避させる。
まだ少しは戦闘力のあるスペードやクラブが犠牲になりかければ、ハートが盾になって少しでも持たせる。
その原因は、重ねがけした令呪の一つ目にあった。
『命令を待つのではなく、横を見て戦え』と。
元々、シャッフリンとはジョーカーという指揮官があってこその存在だ。
しかし、横の連携が取れないわけではない。
彼等は、複製されたホムンクルスだ。個にして全であり、全にして個である。
とあるシャッフリンの後継機では、それを利用した52体全員による『踊ってみた』動画が作られたほど、動きを合わせることは難しくない。
そのことに『集団で一つの作業をすることに慣れている』人物が気づいて、『それが実現しやすいように』令呪で能力を手助けしてやれば、
ジョーカーの命令を待たない一糸乱れぬ連携など、できないはずがない。
「君たちは弱い……しかし、しぶとくて強い」
次々と増えていく切り傷に舌打ちし、ランサーは思うままにならない己が身体でシャッフリンと相対する焦燥を感じた。
松野家のバカ息子は、1人1人ならただのゴミだ。
二十数年生きてきて、それはおそ松も何度となく身にしみている。
そして、シャッフリン達も1人1人ならそう強くない。
スペードのエースは強かったけれど、あれも『先陣を切る』という斬りこみ隊長として求められる役割のための強さでしかない。
しかし今、おそ松にはシャッフリン達がいる。
シャッフリン達には、おそ松がいる。
自分1人では勝てなくとも、自分『達』ならば勝てるかもしれないと、賭けている。
(不味いな……彼等を見つけてから、一体どれほどの時間が経過した?)
本当なら、とっくに口封じを完了させているはずだった。
己が切り札が解除されかかっているという前代未聞の事態もあり、しかしここで撤退するわけにもいかないとランサーは懸命に打開策をひねり出そうとする。
「……ッェ」
しかし、その好機らしきものは向こうからやって来た。
おそ松が、えずくような呼吸を一つ吐いた。
そして次の瞬間、立て続けにゲホゲホと咳きこみ始めて、身を折ったのだ。
ランサーの視力なら、彼が口から吐き出したものの色は分かる。
赤だ。
吐血した。
ハートの3が気遣うように彼を助け起こし、彼の方もそれに甘えるように身をくの字に折ってぶるぶると震えている。
目にするのは初めてだが、包囲を続けながらも主人の方を心配げに見ているシャッフリン軍団を見て、ランサーもさすがに察した。
魔力切れだ。
当然の帰結だった。
プリンセス・テンペストはおそなくとも身体を改造された人造魔法少女であり、保有する魔力量は一般的な魔術師よりもよほど潤沢にできている。
対して、松野おそ松は、魔術師の素養も何もあったものではないただの屑ニート。
シャッフリンはサーヴァントとしては破格なほどに燃費の良い性能をしているけれど、
しかしそれでも、マスターの魔力を必要としない時は『他のサーヴァントをエネルギー源として使った場合』のみだ。
いくら全員で個だからといって、性能Aランクがごろごろと並ぶスペードのエースを含めた53体のサーヴァントを、一般人1人の魔力で動かしていたことには変わりない。
しかも夕刻からずっと、おそ松を守るためにシャッフリンはほぼフルメンバーで働かされっぱなしだった。
今や普段は魔法の袋の中に待機させているシャッフリンも、戦闘向きではないダイヤやハートの下位ナンバーも含めた、フルメンバーで動かし続けている。
令呪を二回も消費したのは、大判ぶるまいでも何でもなかった。
そうしなければ、本当に魔力が足りなかったのだ。
(そう言えば……)
己が常に浴びている偽槍の苦痛に比べれば、ここで伝播する偽槍の邪気は大海の中の一滴のようなものであり、おそ松と櫻井戒では住む世界が違うと先ほどは諭そうとした。
しかし、その一滴こぼれただけの灼熱でも、ただの一般人にとっては業火の炎に充てられるような苦痛のはずだ。
腐り切ったランサーの身体からは、そばにいるのも耐えがたいほどの腐敗臭がしたはずだ。
なぜ、その邪気に耐えてまでここにいる。
自他共に認めてしまうほどの屑が、なぜその地獄のなかで正気を保って啖呵を切り続けていた。
この男は、決して何の頑張りも責任もなしに、ノーリスクでこの場所に立っているわけじゃない。
むしろ、全力でそれらの上に立っている。
――誰のために?
それを考えた時に、理解できた。
二回目の令呪を唱えた時の唇の動きを、今ならはっきりと読唇できる。
そりゃあ小声で言いたくもなる。
妹が大好きな櫻井戒だって、そんなことを言うとなればつい小声にもなるだろう。
『弟と、そのガールフレンドを、守護れ』
まったく、聖杯戦争で自らのサーヴァントに命じる令呪ではないと、戒でさえそう思う。
理解すれば、決して嘲りではない笑みが口元に浮かぶのは抑えられなかった。
「ずいぶんと無理をする……何故そこまで?」
「しーて言えば……さっき、すげぇ嬉しいことがあったから」
弱々しく笑って、そう言った。
紫のパーカーで口元をぐしぐしと拭い、ハートの3とジョーカーに寄りかかるようにして無理矢理立っている。
なんだ、そうか。
先ほどは弟なんか嫌いだと言ったけれど。
それはそれで、嘘では無かったのかもしれないけれど。
けれど、決してそれが全てでもなかったのだ。
ここで退けばランサーに追われて殺される人間がいて、
彼はその人を殺させないためにここにいる。
君も、同じじゃないか。
僕と正反対のようで、しかし、守りたいものは同じじゃないか。
揺らぎは消えた。
『こんなあり方の人間がいるならば、自分はどうなのだろう』と揺らがされていた迷いが、消えた。
きっと今ならば、創造を復活させて彼等を殲滅できるだろう。
しかし。
「ねえ、もう、良くない?」
互いが互いのことを正しく理解したときに、戦う理由は消滅した。
ここまで全力の全開を出せたのが、すべて特定の人間のためだったのだ。
逆に言えば、そこまでの事情がなければ彼はここまで出来なかったし、
なんだかんだでこの人間が、それ以外の目的でランサーたちの情報を『聖杯戦争を賢く生き延びるやり方』のために使って、それでランサーとそのマスターが窮地に陥るところはなかなか想像できない。
互いに互いの立場を何となく理解したので、『相手もそうなんだな』と了解すれば、まぁお互いが不利になる行動はとりたくないな、という気持ちも生まれつつある。
拳を交わして友情が、なんていうきれいな戦いでは無かったけれど。
「ああ、そうだな。……すまなかった」
ランサーの停戦宣言を聞いて、おそ松はそのままずるずるとアスファルトの駐車場に倒れ伏した。
ハートの3番が、かいがいしくひざまくらの姿勢を取る。
他のシャッフリン達も、盾となる数人のハートを残して霊体化した。
「あー……………疲れた」
「しかしどうしたものかな。僕のマスターの同盟者を探ろうとしてる人物の情報は、結局手に入らないままだ」
「いや、そこはアンタ1人で決めることじゃないでしょ」
マスターにもっと相談してからだ、と暗に言われた。
億劫そうにしながらも、ひざまくらのままでおそ松はゆるゆると突っ込む。
「例えばさ、人間の気持ちをエスパーする猫がいて、それが弟妹と仲良かったりするじゃん?」
「は?」
「人の気持ちが分かっちゃう猫だからさ、色々と暗黒面なことを弟妹に吹きこんだりもしちゃうわけだよ。メンタル追い詰めるかもしれないんだよ。
でもさ、その弟は、猫と仲良くしたがってるわけだよ。……俺はそういう時に、猫を取り上げるのは、気が進まないんだけど」
「……それは、猫自身が善意であるという前提だろう?」
「ここには悪意のある猫しかいないっけ?」
「まぁ……そうでもない、か」
妹と同じ字を名前に持つ少女のことを思い出せば、否定することはできない。
言い負かされたような悔しさに見下ろせば、『してやった』という顔をしているにやけ顔がある。
直後に、またゲホゲホと咽始めたけれど。
男女問わず、こういう陽気なタイプにランサーは弱い。いや変な意味ではなく。
「互いの問題が片付いたら、また会えるといいね」
「そん時は同じ戦いもう一回やれって言われても、できないからね」
そんな言葉を別れのあいさつ代わりに、ランサーは背を向けて帰還を始めた。
彼のマスターの元へと。
そして、残されたマスターは呟くのだ。
「もう、働きたくない……」
♠ ♥ ♦ ♣
目覚めた元山のところへと戻ってきたバーサーカーは、明らかに様子が違っていた。
呆然として、ぶつぶつと言葉を呟き、それ以外には反応もない。
「音楽家は、また『アレ』をする……呼ばれた……私のことを呼んだ……」
いつもの動作ではあったかもしれないが、こんなに同じ言葉ばかり繰り返し呟くのは初めてだった。
妄執だけでなく、恐怖めいた感情を感じさせるのも初めてだった。
予選からずっとそばにいれば、分かって来るものだ。
「アレは良くない……とても、良くない……アイツは私を呼んだ……おねぇ……なんて呼んだ?」
ひとまず動かないバーサーカーから脇差を縛られた後ろ手で拝借し、ロープの拘束を外した。
それでもまだ、呟き続けている。
それは、サーヴァントの少女を『音楽家』だと判断して襲い掛かったことに関係しているのではないか。
元山がそう推測するのは、難しくないことだった。
同時に、初めての本格的な罪悪感が彼の胸を刺した。
彼女には、特定の復讐相手がいて、その『音楽家』を探しているのだ。
おそらく、その音楽家とやらの『人を不幸にする音楽』によって、打ちのめされるほど酷い目にあったのだろう。
しかし自分は、『不快な音を撒く者』が相手だったとはいえ、彼女の復讐とは直接的に関係のないNPCやマスター達をして、
『あれが音楽家かもしれない』と適当なことを言って彼女の復讐心を利用していたも同然のことをしていた。
それは己が芸術を完成させるためには正すべきことだったけれど、
バーサーカーにしてみれば、本命の音楽家はどこだろうと焦燥に苛まれる日々だったのかもしれない。
幾ら元山のために召喚されたサーヴァントだからと言って、元山はこれまで、彼女の助けになったことがあるのだろうか。
彼女のために『音楽家』を探してやりたい。
君と話がしたい。
元山は初めて、そう思った。
だから、二画目の令呪であっても、バーサーカーのために、ためらわなかった。
「バーサーカー。『落ち着いて、君の本当の仇について思い出してくれ』」
それは、いわば彼女の狂化を一時的にでも解こうとする命令であり、いくら令呪の魔力をもってしても、彼女の精神汚染の深さを加味すればそう通用しないはずの命令だった。
しかし、彼女の願いは『音楽家に一太刀でも浴びせる』ことだ。
ほんの数十分の短い時間であれど、彼女に『マスターとサーヴァントの意思が合致した命令である』という多大な魔力ブーストをもたらした。
だから、彼女に対して、『落ち着いて』そして『音楽家のことを思い出す』効力をもたらした。
「私は――」
だから彼女は、その瞬間だけ取り戻していた。
『家族想い』の、不破茜を。
最終更新:2016年07月18日 23:38