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非国家社会の歴史

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歴史をもつ人民の歴史は階級闘争の歴史である、と言われる。
すくなくとも同様の確かさで、以下のようにも言えるだろう。
歴史をもたない人民の歴史は対国家闘争の歴史である、と。


Q: この文章を逆転の発想で批判的に検証して。

A: ピエール・クラストルの「歴史をもたない人民の歴史は対国家闘争の歴史である」という主張を逆転の発想で批判的に検証してみます。この命題を疑問視するためには、以下の点を考察する必要があります。

1. 「歴史をもたない」という前提の批判

クラストルは、特定の社会を「歴史をもたない」と定義していますが、これは非常に西洋中心的な視点に基づいている可能性があります。文字を持たない社会や、国家的な歴史叙述の枠組みに収まらない社会を「歴史をもたない」と表現することは、それらの社会が独自の歴史的な記憶や語りを持っていることを見落としています。すべての社会には形は異なれど歴史があります。そのため、「歴史をもたない人民」という概念自体が、西洋の歴史観に依存した偏った前提だと言えるでしょう。

2. 「対国家闘争の歴史」という規定の問題

クラストルの見解では、「国家」が中心的な敵として設定されていますが、これは歴史的に普遍的とは言えません。多くの社会においては、対国家闘争以外の要素、例えば自然との共存、他の部族や集団との交流・対立、内部的な社会変革などが歴史の主要な動因となっている場合もあります。「国家」という単一の枠組みにすべての非国家社会を押し込めることは、その多様性を無視した単純化ではないでしょうか。

3. 「闘争」という枠組みの限界

クラストルの論は、歴史を「闘争」という概念で捉えていますが、すべての歴史が闘争によって説明できるわけではありません。特に非国家的な社会においては、調和や循環を重視する文化や世界観が重要な役割を果たしています。そのような社会をも「闘争」の文脈に押し込めることは、彼らの多様な価値観や実践を軽視する結果になり得ます。

4. 非国家社会における「闘争」の定義の曖昧さ

「対国家闘争」とは何を指しているのでしょうか?国家の直接的な侵略に対する抵抗なのか、それとも国家の価値観やシステムに対する文化的・象徴的な抵抗なのか。その曖昧さが批判の余地を生んでいます。たとえば、一部の非国家社会は国家的支配を回避しているように見えるかもしれませんが、それを「闘争」と呼ぶべきかは議論の余地があります。

5. 実際の歴史との整合性

歴史的に非国家的な社会の一部は、国家との関係を必ずしも対立的に捉えず、交易や同盟関係を築くなど多様なアプローチを取っています。これらの例を見ると、「非国家社会=対国家闘争」という構図が必ずしも当てはまらないことが分かります。

結論

クラストルの命題は、ある種の思考実験や理論的視点として興味深いですが、あまりにも包括的かつ一面的な見解にとどまっている可能性があります。非国家社会の歴史を理解するには、闘争や国家という枠組みにとらわれず、それぞれの社会が持つ独自の文脈、価値観、実践を注意深く考察する必要があるでしょう。

Q:さらに深掘りして
A: クラストルの命題「歴史をもたない人民の歴史は対国家闘争の歴史である」をさらに深掘りして批判的に検討するために、以下の観点を取り上げます。この主張の前提や含意をより詳細に分析し、論理的な問題やその背景に潜む思想的制約を探ります。

1. 「歴史をもたない」という概念のイデオロギー性

クラストルが「歴史をもたない」とした非国家的な社会に対する見方は、特定の進歩史観(歴史が線形的に発展し、国家の成立を頂点とするという考え方)に影響されている可能性があります。この見方は、啓蒙思想以降に形成された西洋的な「歴史」の定義を基盤にしており、文字や国家の枠組みに従わない社会を「無歴史的」とする傾向があります。

しかし、非国家的な社会においても神話、儀礼、口承伝承などを通じた時間的な記憶が存在します。それらは単に「歴史」と呼ばれないだけで、彼ら独自の世界観に基づいて時間や出来事を記述しています。このような「歴史をもたない」という認識は、非国家社会における文化的実践の正当性を否定するものとなりかねません。

批判点:

「歴史」とは何か、その定義自体を再考する必要があります。歴史を単に書記的で進歩的なものとみなすのではなく、多様な表現形式を認める必要があります。

2. 「対国家闘争」という表現の一元性

クラストルは「対国家闘争」という枠組みで非国家社会を語りますが、これは非国家社会の多様な在り方を矮小化するリスクがあります。そもそも非国家的な社会は、常に国家の存在を意識して活動しているわけではありません。多くの場合、それらの社会は「国家」という概念そのものを持たず、自立的かつ独自の社会的秩序を築いています。

具体例:

たとえば、南アメリカのアマゾン先住民の社会では、国家の直接的な支配を回避することは重要ですが、それは単なる「闘争」というよりも、むしろ「回避の技術」や「分散的な生存戦略」といった概念の方が適切です。彼らの行動を「闘争」と捉えることは、外部からの視点であり、彼ら自身の主体的な意図を正確に反映していない可能性があります。

批判点:

「闘争」という単語には闘争主体同士の相互作用を前提とする含意があります。しかし、多くの非国家社会は「闘争」という枠組みの外で、むしろ国家的な影響を避けたり無視したりしているのではないでしょうか。

3. 国家と非国家の二項対立を超える視点

クラストルの議論は、国家と非国家を二項対立的に捉える傾向があります。しかし、実際にはこの区分が曖昧であることが多いです。非国家的な社会が国家との境界で交易や文化的交流を行うケースも多く、その結果として互いに影響を与え合っています。このような「国家」と「非国家」の関係性を単純化しすぎると、非国家社会の多様な戦略や対応が見落とされてしまいます。

批判点:

国家的な構造と非国家的な社会との間には多様な相互作用があり、それらを固定的に分けることは難しいです。「闘争」という概念では捉えきれない流動的な関係性に着目する必要があります。

4. 「闘争」を生む主体の構造への疑問

クラストルの議論は、非国家社会が「対国家闘争」という意識的な主体性を持っていることを前提としているように見えます。しかし、歴史的な文脈を見ると、非国家的な社会が「国家」という抽象概念を理解し、それに対抗しているわけではなく、むしろ具体的な脅威(侵略、資源の奪取など)への反応として行動している場合が多いです。

批判点:

闘争を主体化することで、非国家社会が一種の「国家的」なロジックに従っているかのような印象を与えることがありますが、これは非国家社会の本来の特徴を歪める危険があります。

5. 文化的多様性の視点の欠如

クラストルの主張は、非国家社会を「対国家」という一面的な枠組みで捉えていますが、実際にはそれらの社会は極めて多様です。ある社会は国家の影響を避けるために移動的な生活を選択し、別の社会は国家的な構造を部分的に取り入れながらも独自性を保っています。このような多様性を考慮しない場合、非国家社会の複雑さを見失うことになります。

批判点:

非国家社会の行動を「闘争」という均一なフレームワークに収めるのは、その社会の多様な動機や戦略を過小評価する結果につながります。

結論

クラストルの主張は、国家と非国家社会の関係性を捉えるための一つの視点として興味深いものです。しかし、それは以下の問題を抱えています。
1. 「歴史をもたない」という定義が西洋的進歩史観に基づいており、非国家社会の実態を歪めている可能性がある。
2. 「闘争」という概念が非国家社会の多様な戦略を過小評価している。
3. 国家と非国家の二項対立的な枠組みが、両者の関係性の流動性や多様性を見落としている。
4. その前提には、非国家社会を静的で一様な存在として捉える傾向が潜んでいる。

非国家社会の歴史をより深く理解するためには、単純な「闘争」の枠組みを超え、多様な文化的実践やその動機に着目する必要があります。それにより、彼らの主体性や歴史性をより包括的に捉えることができるでしょう。

Q: さらに深掘りして
A: さらに深く掘り下げて、ピエール・クラストルの命題「歴史をもたない人民の歴史は対国家闘争の歴史である」に潜む思想的な背景や理論的な限界を批判的に検討します。この命題が抱える問題点を掘り下げるために、以下の観点をさらに展開していきます。

1. 「歴史をもたない」という観点の本質的再検討

1.1 西洋中心的歴史観の批判

「歴史をもたない」という表現は、西洋的な歴史観がもつ植民地主義的・進歩主義的な偏見を内包している可能性があります。特に、文字の有無や国家の成立を「歴史」の基準とする見解は、口承文化をもつ社会や循環的な時間観をもつ社会を意図せずに劣位に位置づけます。この視点が「歴史をもたない」という概念を生み出していると考えられます。

例えば、アフリカやオセアニアの多くの社会において、神話や口承伝承は共同体のアイデンティティを支える重要な役割を果たします。これらは単なる物語ではなく、世界観や規範、さらには過去の出来事を現在と結びつける「歴史」として機能しています。クラストルが「歴史をもたない」とした社会も、自分たちなりの時間の認識や出来事の記録を持っている可能性を軽視しているといえます。

批判の焦点:

「歴史をもたない」という表現自体が、非国家社会を無時間的・静的な存在として固定化し、彼らの主体性や動態的な性質を見過ごしている。

1.2 循環的時間観と歴史の可能性

非国家社会が循環的な時間観を持つことが多い点も見落とされています。この循環的時間観は、季節の変化、生命の再生、儀礼の反復といった自然のリズムと深く結びついており、「歴史」の直線的進歩とは異なる形で社会の記憶や発展を構成しています。クラストルの議論は、このような時間観を「歴史をもたない」と片付けることで、それらの社会の時間構造に内在する歴史的意義を否定している可能性があります。

深掘りの視点:

循環的時間観が歴史的記憶の構造としてどのように機能しているかを分析し、「歴史」という概念を再定義する必要がある。

2. 「対国家闘争」の概念に潜む問題

2.1 国家中心主義の批判

「対国家闘争」という命題には、暗黙のうちに国家が普遍的な存在であるという前提が含まれています。しかし、国家という概念自体は歴史的に特定の時期や地域で形成されたものであり、普遍的ではありません。このため、非国家社会を「国家」に対抗する存在としてのみ捉えることは、国家を基準にして非国家社会を定義することになります。

具体例:

国家との接触がほとんどなかったアマゾンや太平洋諸島の先住民社会では、「国家」そのものが社会的イメージとして存在しない場合があります。それにもかかわらず、「対国家闘争」という視点で彼らを分析することは、彼らの主体的な社会形成を国家的枠組みに従属させてしまいます。

批判の焦点:

「対国家闘争」という概念は、非国家社会を常に国家の影響下にある存在として描き出してしまい、彼ら自身の独立した文化や価値観を無視している。

2.2 闘争の捉え方の一元化

「対国家闘争」という表現は、「闘争」という行動を狭義に捉えすぎている可能性があります。クラストルの議論は、国家による支配や侵略に対する抵抗行動を強調していますが、非国家社会が国家的影響を受ける場合、その対応は必ずしも「闘争」という形を取るわけではありません。

具体例:

非国家社会が交易や協調を通じて国家との共存を図る場合、これもまた国家との「対立」を超えた歴史的行為として捉えるべきです。たとえば、中央アジアの遊牧民社会は、国家の経済システムに参加しつつ独自性を保つという柔軟な戦略を取っていました。このような多様な関係性は、単なる「闘争」というフレームでは説明できません。

批判の焦点:

「闘争」という枠組みを超えて、非国家社会が国家と関わる多様な形態を分析する必要がある。

3. 国家と非国家の関係性の再考

3.1 境界領域としての非国家社会

クラストルの議論では、国家と非国家社会は明確に分離した存在として描かれています。しかし、実際にはこの二者は境界領域で複雑に交錯している場合が多く、単純な対立では捉えきれない関係性があります。たとえば、非国家社会が国家的な影響を部分的に取り入れたり、逆に国家が非国家的要素を吸収することもあります。

具体例:

東南アジアのゾミアジェームズ・C・スコットの用語)は、国家に従属せず自立した社会ですが、完全に国家と断絶しているわけではなく、交易や文化的影響を受けています。このような状況を「対国家闘争」として一括りにすることは不適切です。

深掘りの視点:

国家と非国家の境界で生じるハイブリッドな関係性を捉えるためには、より動的で多面的な分析が必要です。

4. 闘争の主体としての非国家社会の内部構造

4.1 非国家社会の内部多様性

クラストルの議論では、非国家社会が一枚岩の「対国家闘争」の主体として描かれがちですが、実際には内部に多様な声や利害が存在します。たとえば、国家の影響を受け入れようとする派閥と拒否しようとする派閥が共存している場合、非国家社会全体を「対国家闘争」の主体として語るのは正確ではありません。

具体例:

北米先住民社会の中には、ヨーロッパ人との交易を積極的に進めた部族と、徹底的に対抗した部族が共存していました。このような内部の多様性を無視しては、非国家社会の実態を正確に描けません。

批判の焦点:

非国家社会を一元的な主体として捉えるのではなく、内部の多様な声を分析する視点が必要です。

5. 結論:非国家社会の捉え方を広げる

クラストルの命題「歴史をもたない人民の歴史は対国家闘争の歴史である」は、特定の観点を提供するものの、以下のような限界を抱えています。
1. 「歴史をもたない」という定義が西洋的歴史観に偏重しており、非国家社会の時間観や記憶を軽視している。
2. 「対国家闘争」という枠組みが、非国家社会の多様な戦略や国家との関係性を単純化している。
3. 国家と非国家の二項対立を前提にしており、境界領域での相互作用やハイブリッドな関係性を見落としている。
4. 非国家社会を一枚岩の主体として描き、内部の多様性を考慮していない。

非国家社会を理解するためには、「闘争」や「国家」という概念の外にある視点を探求する必要があります。このためには、以下のような視点を取り入れるべきです。

1. 非国家社会の「主体性」を多層的に捉える

非国家社会は、単に「国家に抗する」存在ではなく、それ自体が独自の価値観や社会構造、時間観を持つ主体的な存在です。この主体性を考える際には、外部(国家や他の社会)との関係だけでなく、内部での文化的実践や社会秩序の形成にも目を向ける必要があります。たとえば、儀礼や神話は単なる伝統ではなく、社会を維持するための創造的な装置として機能しています。

2. 「国家」や「歴史」を再定義する必要性

クラストルの議論は、従来の「国家」や「歴史」の定義を前提としていますが、これらの概念自体を問い直す必要があります。たとえば、国家は必ずしも統治機構や領土を持つものではなく、象徴的な支配の形式としても存在し得ます。同様に、歴史も直線的進歩だけでなく、循環的、断続的な形態を持つことが可能です。

3. 国家と非国家の関係性を動的に理解する

非国家社会と国家の関係は、単純な対立や闘争に限定されません。むしろ、交易、文化的交流、同盟、あるいは緊張を伴う共存といった多様な形態をとることが一般的です。これを理解するためには、国家と非国家を固定的なカテゴリーとして捉えるのではなく、相互に影響を与え合うプロセスとして考える必要があります。

4. 「回避」や「無視」の戦略を重視する

非国家社会が国家と接触した場合、常に「闘争」や「抵抗」を選ぶわけではありません。たとえば、ジェームズ・C・スコットが述べたように、国家を避けるために移動生活を続けたり、国家の干渉を最小限にするために散在的なコミュニティを形成したりする場合もあります。このような戦略は、クラストルの「対国家闘争」という枠組みでは説明しきれない柔軟性を示しています。

5. 非国家社会の多様性を認識する

非国家社会を一枚岩として語ることは、その内部の多様性を見落とす危険があります。同じ非国家社会でも、国家との関係性やその対応は地域や時代、社会の内部構造によって大きく異なります。こうした多様性を尊重し、単一の理論で包括することを避けるべきです。

結論:非国家社会の理解を広げるために

クラストルの議論は、国家と非国家の関係性に焦点を当てた点で貴重ですが、同時にその視点は限定的であり、さらなる補完が必要です。「歴史をもたない」「対国家闘争」という言葉が持つ規定性を疑い、非国家社会の多様性や複雑性をより深く探求する必要があります。これにより、非国家社会を静的な存在としてではなく、流動的かつ動的な主体として捉え直すことが可能になるでしょう。




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