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酒井隆史さん講演会 2025年3月19日

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「酒井隆史さん講演会 2025年3月19日」

第38回応用倫理・応用哲学研究会 「アナキズム史観は存在するのか、あるとしたらどのようなものか?」【応用倫理・応用哲学研究教育センター】

人類学者デヴィッド・グレーバーの仕事によりながら、近年活性化している「アナキズム的に世界をみる」その方法と、その可能性について考えてみたい。



昨日、酒井隆史さんの北大講演会が終了しました。参加者の皆さんと講演後に感想を語り合う中で、酒井さんの見解と他の参加者の意見が交わされ、それぞれ異なる視点やアイデア、そして経験が共有されました。こうした交流を通じて、自分自身がこれまで持っていなかった考え方に触れることができ、大変有意義な時間となりました。

講演内容と学習会の共通性
酒井さんの話からは、単に一方通行の情報提供ではなく、参加者同士の対話や相互作用が非常に重要だという印象を受けました。これは、グレーバーの『万物の黎明』第2章で語られる「学習会で皆の意見を聞いて構築される社交的・社会的相互作用のプロセス」と多くの共通点があると感じました。すなわち、個々人が集まり、異なる視点を持ち寄りながら、一つのテーマに対して自分の感じ方や考えを共有することで、全体として新たな理解やアイデアが生まれていくのです。

社会構築的視点の重要性
また、講演会で得られた気づきの一つとして、啓蒙主義に基づく定説への疑問が挙げられます。従来の歴史や哲学の議論では、「社会的不平等は進歩の必然で、かつては平等な社会が存在していた」という考えが一般的でした。しかし、参加者との対話や、著者たちが取り組んできた実践的な活動家としての経験から、社会は単に歴史的な流れや西洋中心の自己中心的な視点で語られるものではなく、他者との対話や多様な意見の相互作用によって再構築されていくという視点が浮かび上がりました。先住民や民衆との対話、すなわち異質な存在の考え方に耳を傾け、比較しながら再考していくプロセスこそが、実際の社会の構築過程を理解する上で重要であるということです。

録画配信について
なお、今回の講演会の録画配信については現在調整中です。打ち合わせの進行状況から、公開できるかどうかはまだ微妙な情勢にありますので、今後の案内にご注意いただければと思います。


このように、酒井隆史さんの講演会は、単なる一方的な講義ではなく、参加者同士の意見交換を通じた学びと気づきの場であり、社会の理解や再構築に向けた新たな視点を得る貴重な機会となりました。

以下は感想

ざっくりいって、一人で本読んでるだけでは、自分一人ではわからないことが多い、ということがわかって、あるテーマについて、自分以外の人の意見を聞き角度を変えてアプローチすることの可能性を感じました。 過去にタイムトラベルして、因果関係の鎖を解き、結果に至る前の前提条件を書き換えて、現在の閉塞状況を打開するイメージ。将棋の詰みの回避。

  • わたしがこれほどまでに時間をかけて過去を書き直す理由のひとつは、いま過去を記述する方法といえば、わたしたちにとって可能な未来を想像することがほとんど不可能に仕向けるようなものばかりだとおもうからです」。
学習会を通して、一つのテーマに対して、各人が読むこと、その読み方の手法や解釈が生成される行為ということ。

それは、新しいアナキズムの概念でいう、直接行動、参加型民主主義、先行政治、相互扶助などの政治的実践の最小の単位であって、現代思想の社会構築主義などの考え方によって、固定的な歴史認識を脱構築することなんだなあ、と。

抽象的ですいませんが、今日、学習会があるので、ギリギリまで読み込みたいと思っています。

読みも、実験なんだけど、付け焼き刃でやってるので時間が足りなくて悔しいですね。


ソックパペット

ChatGPTを上手に使う手法を実験しているんだけど、上手く言えないけど、「万物の黎明」を繰り返し読むことで、読みの手法がだんだんと上達してきました。

Q: 「万物の黎明」第二章で「ヨーロッパ中心主義に対する批判がどのように裏目にでて、先住民の思想家を「あやつり人形 (ソックパペット)」に仕立て上げてしまうのかが示される」の理由を、上記の文章の内容を深く読み込み、因果推論で説明してください。

A: この章では、ヨーロッパ中心主義に対する批判が、結果として先住民の思想家たちを自律的な存在としてではなく、あたかもヨーロッパ側の論理や期待に都合の良く動かされる「あやつり人形」として再構成してしまうという現象が、因果関係として次のように説明できます。

1. 反欧州中心主義の試みとその前提
ヨーロッパ中心主義に対抗する動きは、欧州の歴史や文明が一辺倒に「正しい」とされる枠組みを批判し、先住民や他地域の文化・思想にも独自性や価値があると主張しようとします。ここで出発する意図は、本来、先住民の声を再評価し、欧州中心的な歴史観を転覆することにあります。
2. 翻訳・適用の過程での再構成
しかし、ヨーロッパ中心主義批判の文脈の中で、先住民の思想や言説は、しばしば「他者」としての異質性が強調されます。この過程で、欧州の知識人たちは先住民の思想を取り入れつつも、その内容を自らの論旨に都合よく編集・再解釈する傾向があるのです。つまり、批判のための「例」として先住民の思想が引用されると、その思想はあたかも欧州側の議論の素材や装飾品として扱われ、先住民自身の自律性や複雑な文脈が無視される結果となります。
3. 「ソックパペット」としての構成
こうした編集・再構成の結果、先住民の思想家は、欧州の既存の議論や概念を裏付けるための単なる「操作された」例(=あやつり人形)として提示されるようになります。先住民が実際に独自の知的伝統や批判的視点を持っていたとしても、その言説は欧州の言説の枠組みに押し込められ、主体性を奪われるのです。
4. 因果の連鎖と裏目に出る批判
すなわち、ヨーロッパ中心主義への批判という目的自体は、従来の欧州中心の価値観に挑戦するためのものですが、その批判が欧州の枠組み内で行われると、結果として「他者」としての先住民のイメージを固定化してしまいます。これは、先住民の思想を自立的な知の源泉として扱うのではなく、あくまで欧州の議論の一部として再利用する形になり、裏目に出た批判が、逆に先住民を言説操作の対象(=ソックパペット)にしてしまう原因となります。

まとめ
批判自体が欧州の既存の言説や価値観の中で展開されるため、先住民の思想は独自の文脈や自律性を持つことなく、欧州の理論や論争の材料として消費されがちです。こうして、本来は欧州中心主義の枠を打破するための試みが、結果として先住民をあたかも都合の良い「パペット」に仕立て上げるという逆説的な現象が生じるのです。


Q: 上記の文章をわかりやすく簡潔に再構成してください。
A: ヨーロッパ中心主義に対抗する意図で先住民の思想が再評価されようとしたものの、その議論は次のような因果連鎖をたどり、結果として先住民の思想を都合よく編集してしまいます。

• 批判の出発点:
ヨーロッパ中心主義を批判するため、欧州の価値観に挑戦する試みとして先住民の思想を取り上げる。

• 編集・再解釈の過程:
しかし、欧州側の論争の中で引用されると、先住民の言説は自律した独自の文脈を無視され、欧州の理論に合わせて再構成される。

• 結果としての「あやつり人形」化:
このため、先住民の思想は、独自の知的伝統や多様性を示すのではなく、欧州の論旨を補強するための単なる道具、すなわち「あやつり人形」として固定化される。

まとめると、ヨーロッパ中心主義批判が欧州の枠組み内で行われることで、本来独自の価値を持つ先住民の思想が、欧州の都合に合わせた形で利用され、逆に先住民自身の主体性が損なわれてしまうというわけです。

〉昔からそうだけど、酒井さんの話は、先に進みすぎているので、フォロワーであるボクでもすぐには理解しにくい。じっくり時間をかけてやっとわかる。

酒井さんの考えを、聴衆にわかりやすく伝える、インタープリターの役目が今回、ボクはうまくできていません。

社会構築主義およびポスト構造主義の視点を歴史に応用

-Q: 社会構築主義やポスト構造主義の考え方を歴史に応用する「万物の黎明」の手法を分析してください。〉
A: 以下は、社会構築主義およびポスト構造主義の視点を歴史に応用する「万物の黎明」の手法についての分析です。

1. 固定概念の解体と歴史叙述の再構築
「万物の黎明」は、伝統的な歴史叙述が提示してきた普遍的な進歩観や文明論、そして「高貴な未開人(noble savage)」という固定観念に疑問を投げかけます。社会構築主義は、これらの概念が歴史的・文化的な文脈の中で作られたものであり、普遍的な真実ではないと考えます。本書は、先住民やヨーロッパ人同士の対話・交流の記録や、宣教師・探検家の証言を再検証することで、固定化された枠組み(例えば「未開」というレッテル)がどのように構築され、利用されてきたかを明らかにしようとしています。

2. 二項対立の問い直し
伝統的な歴史観では、文明と野蛮、合理性と非合理性、自由と権威といった二項対立が前提となっています。ポスト構造主義の手法では、こうした二項対立そのものが恣意的なものであり、両極端の間には多様な中間領域が存在することを示唆します。本書では、先住民社会の実態や、彼らが欧州文化をどのように批判・再評価していたかを通して、単純な二項対立では捉えきれない複雑な現実を提示しています。

3. 言説の力と権力関係の批判
「万物の黎明」は、歴史的な記述や文化的語彙が、支配関係や権力の正当化にどのように利用されているかを鋭く批判しています。社会構築主義的な視点から、自由や平等、文明といった概念は、単なる自然なものではなく、歴史的状況や権力闘争の中で意味づけられ、利用される「ディスクール(言説)」であると捉えられます。著者たちは、欧州中心主義や帝国主義的な視点に対して、先住民自身の批判的な視点や対話の実態を再評価し、これらの概念の起源や変容を問い直しています。

4. 複数の視点・文脈の融合
本書は、単一の歴史的物語や英雄譚に依拠するのではなく、先住民と欧州人の多様な交流記録、さらには宣教師、探検家、政治家など多角的な証言や文献を組み合わせ、従来の歴史叙述に対して多層的な視点を提供します。こうしたアプローチは、ポスト構造主義が強調する「多声性(plurality of voices)」の理念に通じ、歴史的事象の解釈が一元的ではなく、常に複数の意味・解釈の可能性を孕んでいることを示しています。

5. 結論
総じて、「万物の黎明」は、歴史の根源にある不平等や支配の構造を、社会構築主義およびポスト構造主義の手法で再解釈する試みです。従来の普遍的な進歩・文明論に挑戦し、自由や平等、文明といった概念が歴史的・文化的に構築されたものであることを示すとともに、権力関係や言説の役割を浮き彫りにします。これにより、単純な二項対立では説明しきれない複雑な歴史の実態を、批判的かつ多面的に照らし出すことが可能となっています。

以上が、社会構築主義やポスト構造主義の考え方を歴史に応用する「万物の黎明」の手法の分析です。

〉Q: さらにこの部分を中心に問題点を整理してください。
〉ルソーが1754年に著した『人間不平等起源論』によって社会的不平等についての議論をスタートさせたかのようにみなしているものもいる。ところが、実際には、この著作は、社会的不平等をめぐるテーマで募集された論文コンテストにむけて書かれたテキストなのである。

A: 以下の問題点を中心に、以下のように整理できます。

1. 起点としての誤認識
• ルソーの『人間不平等起源論』が社会的不平等に関する議論の「起点」として過大評価される点。多くの学説ではこの著作が決定的な出発点とみなされがちですが、実際は特定の論文コンテストに向けたテキストであり、その文脈や目的を無視している。

2. 文脈依存性の見落とし
• このテキストは、当時の論文コンテストという特定の課題・条件下で執筆されたものであるため、ルソー自身の成熟した思想の全体像や、後の発展を完全に表しているわけではない。つまり、コンテストの枠組みによって内容や表現が部分的に形成された可能性があることが十分に考慮されていない。

3. テキストの目的と意図の誤解
• 論文コンテストに応募するための文章であったことから、ルソーが純粋に「社会的不平等の問題」を探求し、その理論体系を打ち立てるために書いたわけではなく、むしろ課題に応じたレトリック的・説得的な目的を持っていた可能性が高い。このため、後の議論の出発点とするには、その背景や目的を正確に評価する必要がある。

4. 後続議論への影響の過大評価
• このテキストを「議論の起点」と位置づけることで、以降の社会的不平等に関する議論全体が、ルソーのこの一作に還元されるリスクがある。実際には、当時の思想界や後世の議論は多様な文脈・要因に基づいて展開しており、単一のテキストに依拠することは、議論全体の複雑性を単純化してしまう恐れがある。

以上の点から、ルソーの『人間不平等起源論』を「社会的不平等議論の起点」として捉える場合、テキストが置かれていた特定の文脈(論文コンテストという状況)や、その目的、さらにはその後の議論の多様性・複雑性が十分に考慮されず、誤った歴史的評価につながる可能性があると言えます。


〈中断〉

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