ある男の名前が読み上げられる。その男とは、男塾一号生筆頭にして、男塾総代、
剣桃太郎。
その名前を耳にした途端、富樫は食事の動作を忘れたかのように動かなくなった。
男塾の仲間と共に、多くの死闘を繰り広げ、その度に男塾に勝利をもたらしてきた男。
何処か謎めいたところがあり、いつも澄ました顔をしているが、誰よりも友情を重んじていた男。
一号生の誰もが信頼し、いつまでも自分たちの先頭にいて、どんな困難な道でも突き進んでくれると思っていた男。
その男の名前が何故読み上げられる?名前が読み上げられるってどういうことだ?
わからねえ、何もかもわからねえ。そうだ、
太公望ならわかっているはずだ、こいつに訊こう。
富樫は水を得た魚のように目を見開き、
太公望に訊ねる。
「…なぁ、名前がよばれるってことはどういうことだよ?なぁ?」
「…」
太公望は何も答えない。しかし、視線は富樫の瞳から逸らさず力強く、そして何処か哀しさを感じさせる眼差しを向けていた。
富樫は理解する。その沈黙と眼差しが何を意味するかを。否、富樫は気付いていた。
だが、決して認めたくない、認めてはならない事実。それが富樫の思考を停止させていたのだった。
その事実こそ目を背けてはならない、受け止めなければならない現実だと気付いていながら。
「ちくしょう、ちくしょう、桃の馬鹿野郎…」
彼の口から
剣桃太郎を非難する言葉が漏れ出る。しかし、当の非難される人間はもういない。
その言葉は虚しく響き、やがて消えていった。
そのうち、
太公望は富樫から視線を外した。
俯き、傷だらけの学帽を深く被り直した富樫の頬に一筋の涙が流れたからだ。
本人が悟られまいと隠す、男の悔し涙を見てはならない。
そう感じた
太公望は席を外し、富樫の見えないところで腰を下ろした。
そして持参した地図と
参加者名簿を開き、禁止エリアチェックと死亡者の名を二重線を引いて消した。
「……重いのう。ただ線を引くという簡単な作業なのにな」
死亡者の名前を消すこの行為、これはまるで自らの手でその者達を殺したのと同じではないか、という錯覚に思わず陥ってしまう。
太公望はそんな錯覚を振り払うと目の前に広がる海を見渡す。
「静かな朝だのう。鳥のさえずりや、波のさざなみも聞こえない。耳が痛むほどに…」
太公望は呟く。その言葉がかつて、武成王が口にした台詞と酷似していたことも知らずに。
静寂を保つ海を輝かしく照らす朝日。そんな朝の光景を見渡しながら、
太公望はまた呟く。
「この景色を見ながら、一体何人が涙を流すのだろうな…」
「お前はそんな涙を止めようとしてんじゃねえのか?」
太公望は突然聞こえたその声の主を確かめようと後ろを振り向く。そこにはいつもの笑顔を浮かべる富樫が。
「もういいのか富樫?」
「あぁ、みっともないとこを見せちまってすまなかったな」
実をいうと、富樫はまだ吹っ切れていない。未だ桃の死から解き放たれてはいない。
大切な仲間の死を悼んでいたい。声の続く限り彼の名を叫んでいたい。
だが、そんなことは許されない。必要以上にここに留まっては
太公望に身の危険が及ぶかもしれないし、
本当なら助けられる命も見捨ててしまいかねない。
そして何より、このまま女々しく泣いていては桃に笑われてしまうだろう。あいつなら。
(あいつは例え仲間が死んだって前に進むことをやめなかった。だからこそ俺はあいつを心の底から信頼していたんだ。
そんな俺があいつの死で立ち止まっていい訳が無い。
俺が前に進むのをやめちまったら、それこそあいつの死を侮辱することになる。
だから、俺は這ってでも前に進むぜ…桃よ。)
「構わんよ。わしも泣くときは一人になってから泣くからのう」
「へえ、いつもニョホホホとふざけてるお前でも泣くのか」
二人はそんな軽口のやりとりをし、やがて二人の顔に笑みが戻る。
そんな口を利けるならもう大丈夫じゃの、と
太公望は言う。富樫も、当たり前だ馬鹿野郎といつもの調子で返す。
そして富樫は学帽を被り直し、涙の跡を拭い去った。
「さぁ、早く出発しようぜ。桃のためにも、死んだ野郎達のためにもこの糞ゲームをぶっ壊せる奴を見つけにな」
そうだのう、と
太公望が頷く。
「四国には確実に誰かおる。それも強力な力を持つ者がな」
富樫は気付いていなかったが、藍染が逃亡したあと、四国の天気が急変していた。
先程まで満点の星空を眺めることが出来たのに、四国の上空だけ見事に見えなくなっていたのだ。
そして、その直後に放たれた闇夜を切り裂く一筋の雷鳴。
太公望達のいるところからではほとんど気がつかないほどの小規模な稲妻であったが、それはあることを示していた。
四国には人がいて、天候(雷だけかもしれないが)を操る能力者が戦闘を行っていたという事実。
もしかしたら天候を操るものが人を襲ったのかもしれない。ゲームに乗ったのかもしれない。
もしそうだったとすれば、その者と戦闘となった場合の生存率は低いだろう。
しかし今更引くことは出来ない。そう、
太公望は仲間、富樫のあの姿を見てしまったから。
苦しみもがきながらも、死んだ友のために前に進むその姿を見てしまったのだから。
また、戦闘になってしまったとしてもなんとか切り抜けられるだろう。
決して諦めない、決して後ろを振り返らないこの男が相棒である限り。
そんな想いを胸に秘め、二人は四国へ向け泳ぎ始めた。まだ見ぬ仲間を求めて。