◇ ◇ ◇


【0】


「お前の『ザ・ハンド』ってよォ――
 日本語でどういう意味なのか、知ってんのか?

「……さすがに知ってたか。
 怒るなよ。少し意外だっただけだ。だから怒るな。

「問題はこっからだ。
 その『手』ってのは、言うまでもなく人間にとって大事な部位だ。
 二足歩行によって『手』を自由に使えるようになったってのが、人類の発展の第一歩って有名な話もある。

「まあ、んなことはどうでもいい。
 人類全体なんて大規模な話をしようってワケじゃない。
 お前の話だ。お前の『手』はよ――いったい、なんのためにあるんだ?

「『スタンド』のほうじゃねえ。
 お前の、お前自身の手のことだよ。

「俺の答えを聞くんじゃあねえよ。
 俺は頼りになるし、間違わねえから安心?
 違うな。俺の答えは、俺にとっての答えでしかない。
 俺の『手』がなんのためにあったのか――その答えにしかならない。

「お前が決めるんだ。
 お前の『手』の使い道は、お前だけが決められるんだからな――」


 ◇ ◇ ◇


【1】


 育朗と呼ばれていた少年の身体が、異形の姿へと変貌していく。
 その変化が少年自身の能力でないことを、対峙しているカーズは見抜いていた。
 『柱の男』たる彼の眼力は、少年の脳内に埋め込まれた寄生虫の姿を鮮明に捉えているのだ。

 ――バルバルッ!

 奇妙な音ともに、少年の全身にひびが入る。
 体表から柔らかみが消失し、金属じみた硬度に。
 さらに東洋人特有の黄色から、光沢のある濃紺に。
 黒々としていた毛髪も濃紺となって、僅かに逆立つ。
 爪が、肉食動物のそれのように長く鋭利なものとなる。

 ――バルバルバルバルッ!

 眼球全体が淡い光を帯びる。
 額の中心から真紅の触覚が出現。
 そして最後に、両手首より二本の刃が飛び出す。

「ウォォォォーーーム!」

 咆哮をあげた直後、少年――であった異形の姿は掻き消えた。

「ほう」

 嘆息を漏らしつつ、カーズはなにもない空間に右腕を掲げた。
 その前腕部からは、異形のものよりも長大で重厚な刃『輝彩滑刀』が伸びている。

「なかなか早いな」

 硬いもの同士がぶつかり合う鈍い音が、カーズの呟きに重なる。
 異形は、決して消えたのではなかった。
 常人が捕捉できる限界速度を超えて、横合いから斬りかかったのだ。
 しかし常人では追い切れぬ速度でも、カーズならば問題なく視認可能であった。

「やはりッ、このカーズの輝彩滑刀と同じタイプ! 肉体を硬質化させた刃!
 だが……たとえ種類が同一だとしても、はたしてその性能のほうはどうなのだろうなァ。
 貴様ら人間が足りぬ知恵を振り絞って到達した寄生虫移植技術が、我が輝彩滑刀に勝るか……試してやろうッ!」

 言い切るより早く、カーズは輝彩滑刀に籠める力を強くする。
 二つの刃の拮抗が崩れ、異形はのけ反ってしまう。
 逆海老の無理がある体勢となるが、異形はその状態のまま地面を蹴った。
 迫りくる輝彩滑刀を、後方に跳ぶことで危なげなく回避したのだ。
 目を見開くカーズをよそに、異形は跳んだ先にある民家の壁を蹴り飛ばす。
 壁に亀裂が入るほどの力で跳び上がり、カーズへと再び肉薄する。

「バルッ!」

 大きく踏み込んでいたので、カーズは前のめりになっている。
 それを好機と見たのか、異形は独特の叫びとともに右の刃を振り下ろす。

「よもや、このカーズに隙が生まれたなどと思ってはいまいな?」

 嘲笑うような口調とともに、カーズは即座に体勢を立て直す。
 元よりすぐに戻せたものを、あえて持続し続けていたのである。
 異形の刃を難なく受け、しかしカーズは怪訝そうに眉をひそめた。
 先ほどとは異なり、相手がすぐに刃を引いたのである。
 その理由は、すぐに明らかとなった。
 右の刃を弾いた直後に、左手首の刃が接近してきたのだ。

「手数で勝負するかッ! なるほど。我が輝彩滑刀より華奢な刃を使う以上、正しい戦術と言えよう……がッ!」

 カーズは言葉を半ばで呑み込み、死角となる後頭部に伸びる刃を輝彩滑刀で払う。

 右手首の刃が真下から振り上げられる――これを弾く。
 左手首の刃が脳天をかち割らんとする――これをいなす。
 右手首の刃が首を狩り下ろさんとする――これをあしらう。
 左手首の刃が頭上から凪ぎ下ろされる――これを受け止める。
 右手首の刃が斜めに突き上げる逆袈裟――これをかがんで躱す。
 左手首の刃が薙ぎ払うように横に一閃――これを逸らして無力化。
 右手首の刃が返され上段からの袈裟懸――これをのけ反り回避する。
 両手首の刃があらゆる角度からの連撃――すべて輝彩滑刀で受け流す。

「速度ならば勝てるという思い上がり……それが誤ちよッ!」

 攻撃をことごとく払われることに業を煮やしたのか、異形が後方に跳んだ。
 距離を取ろうとしたのだろうが、それを許すカーズではない。
 同じ方向に同じ勢いで跳び、異形との距離を保ち続ける。

「なにをしている! 逃がすはずが――」

 カーズの余裕ぶった言葉は、途中で切り上げられる。
 彼の表情から笑みが消え、口元は苦々しく歪んでいた。
 異形の逆立った毛髪が、矢のように射出されたのだ。
 撃ち出された数本の毛は、すべてが精密にカーズの眼球を貫いていた。
 人間ならば失明に至る大怪我であるが、そこは柱の男。
 眼球が潰されたのならばまだしも、毛髪のような微細なものが刺さったところで、すぐに治癒して終わりである。
 ゆえに、異形の攻撃を嘲笑おうとした。

「ふん! 悪あがきか……ぬうッ!?」

 嘲笑おうとした直後に、異変が起こった。
 カーズの視界が、赤く染まったのである。
 直後、辺りに肉の焦げるにおいが広がっていく。
 そのにおいにより、カーズは異変の理由を察した。

「これは……『燃えて』いるッ! くッ、輝彩滑刀!」

 毛髪が突き刺さった箇所から、炎が上がっているのである。
 炎の向こうで両手を掲げている異形の姿を捉え、カーズは右腕の刃を振るった。
 異形の刃を受けるためではなく――自身の眼球ごと、毛髪を体内から摘出するめに。
 眼球を切り刻んだ痛みの直後、左胸に刃が突き刺さる感覚が走り抜けた。
 自身に突き刺さったのが異形の『右手首から伸びる刃』であることを、カーズは目で見ずとも理解していた。
 両手首から伸びる刃の、ほんの僅かな違いをとうに発見していたのである。
 二つの刃の違いを踏まえた上で、体内に入り込んだ刃がどちらのものであるのか。
 そのくらい、カーズの頭脳をもってすれば簡単に見分けることができた。
 そしてどちらかが分かれば、異形がどのような体勢でいるのかも分かる。
 視覚がなくとも、その他の感覚は鮮明だ。
 聴覚によって足音を捉えているので、どの程度接近しているのかも分かり切っている。
 また、目を刻むついでにターバンを切断したことで、カーズの触角は露になっている。
 体勢と接近具合が分かっており、さらに触角の得る情報もプラスされる。
 もはや、カーズは異形の姿を完全に把握していると言っていい。

「ナメるなよ、寄生虫の宿主の分際でッ!!」

 カーズは、渾身の蹴りを異形の腹があるであろう位置に放った。
 身体とは思えぬ硬い感触であったが、それはたしかに異形の腹部であったらしい。
 触角によって、異形が凄まじい速度で吹き飛んで行くのが分かった。
 続いて、聴覚が民家が粉砕される音を捉える。

「ふん。こんなものか」

 民家がいくつか崩壊する音を聞いてから、カーズは落ち着きを取り戻す。
 予想外の攻撃に取り乱してしまったが、異形は確実に息絶えたはずだ。
 眼球も少しずつ再生しており、二十秒ほど経てば完治するだろう。
 視力を取り戻し次第、一応は死体を確認するとしよう。
 そのように決断し、カーズは治癒の完了を待つことにした。
 結局、どちらの刃が勝っているのかは分からずじまいであったが、あくまで少し好奇心が沸いたにすぎない。
 そんな小競り合いよりも、深遠な目的がカーズにはあるのだ。
 太陽という唯一の恐怖を克服し、なにもかもを支配するという大いなる目的が。
 最終的にその目的さえ果たせるのならば、多少の好奇心など無視して構わない。
 そのように考えていると、カーズの聴覚が捉えるはずのない音を捉えた。


 ――バル……


 目を見開き、カーズは反射的に音のほうを向いた。
 あるはずのない音に続き、カーズの触覚はあるはずのない感覚を捉える。


 ――バルバル……


 さらには、朧気な視界にあるはずのない影が浮かぶ。
 ひどく不鮮明で、それが誰であるのかなど視認できない。
 だが視認できずとも――明らかだ。

「大した生命力だな」

 瞳を閉じて、カーズはゆっくりと告げる。
 言葉の途中で、眼球の再生は完了した。
 勢いよく目を見開くと、視界に映ったのは想像通り――異形の少年であった。

「虫は潰したら死ぬものだッ!」

 カーズの言葉に応えるように、異形の身体が蠢き奇妙な音を奏でる。


 ――バルバルバルバルバルバルバルバルッ!!


 地響きにも似た音を上げながら、異形は跳躍した。
 腕を背後に回すと、両手首から刃が飛び出す。

「いいだろう、人間の英知の結晶よッ!
 我が『光の流法』を……輝彩滑刀の真なる力を見せてくれるッ!!」

 宣言したと同時に、輝彩滑刀が眩く輝き出す。
 刃が特別なエネルギーを纏っているのではない。
 そもそも、そんなものを纏う必要などありはしない。
 余計なエネルギーなどなくとも、真なる力を発揮した輝彩滑刀は万物を切断可能なのだから――!

 輝彩滑刀の表面には、微小にして鋭利な刃が敷き詰められている。
 それらが滑るように走ることで、周囲の光を複雑に反射しているのだ。
 現在、この場には街灯や月光などの僅かな灯りしかないが、それでも十分。
 僅かしかない光を反射し合い、その過程で光度を増幅させ、輝彩滑刀を覆うように集束し、激しく発光する――!


 これがッ!


 これがッ!


 これが『輝彩滑刀』だッ!


 そいつに触れることは、両断を意味するッ!


 二つの影が重なった瞬間、硬いもの同士がぶつかり合う鈍い音が――響くことはなかった。
 なにか柔らかいものを切り分ける際のように、これといった音もなく。
 ただ、異形の両手首から生えた刃が根元から切断されただけであった。
 重力に引っ張られ、二本の刃は地面へと落下していく。

「ふん。『光の流法』の前では、こんなものか」

 地に落ちた刃を眺めながら、カーズは満足気に吐き捨てる。

「バルッ!」

 振り返れば、異形の両手首には切断されたはずの刃が伸びていた。
 その事実に、カーズは特に驚きもしない。
 自身の輝彩滑刀のように肉体を刃としているのならば、即座に再生できてもおかしくはない。
 考慮に入れていた事態である。

「同じことよォ!」

 再生した刃が、先ほど以上の硬度を誇るというワケでもなく。
 またしても、音もなく斬り落とされるだけである。
 切断した端から再生し、また切断する。
 それを繰り返していくうちに、カーズはあることに気付いた。
 眩い光を放つ輝彩滑刀を前にしても、異形は目を背けるどころか表情をしかめることさえしないのだ。
 光の流法を前にして、まったく驚く素振りを見せないというのも腑に落ちない。

「……見えていない、のか?」

 そんな考えが浮かんだのは、先ほど視力を奪われていたゆえである。
 聴覚と触覚を頼りにしていたからこそ、この仮説に思い至った。
 見れば、カーズの触角がある額に、異形にも真紅の部位があるではないか。
 口角を吊り上げ、カーズは異形から距離を取るべく跳んだ。
 ある場所で立ち止まって振り返ると、異形は手首を掲げて追ってきている。
 カーズが輝彩滑刀を体内に収納すると、異形は速度を上げた。

「ふん。光を捉えぬことから察するに、貴様は視力を持たぬのだろう。
 にもかかわらず、輝彩滑刀をしまったことを理解するとは、やはり『感じ取って』いるらしいな」

 そう言っている間に、刃はカーズを真っ二つにせんと振り下ろされた。
 勢いよく迫ってくる刃を見据え、カーズは受けようとも避けようともしない。
 ただ、少しばかり、軽くなにかを蹴り上げるような動作で足を動かすだけである。

「ウォォォーーーーーームッ!」

 雄雄しい雄叫びが響き、辺り一面が赤黒く染め上げられた。


 ◇ ◇ ◇


【2】


 途切れていた橋沢育朗の意識が、ゆっくりと覚醒していく。
 寄生虫・バオーの支配から解かれた証である。
 曖昧な思考のなかで、育朗は実感する。
 彼の――バオーの嫌いなにおいは、もう漂っていない。
 つまりあのカーズと名乗った男は、もうこの世にいないのだろう。
 人を殺めた事実に胸が痛むが、カーズは億泰を虫ケラ扱いして殺した男である。
 殺さねばならない相手であったのだ。
 その事実が、育朗の胸の痛みを和らげた。

「……やはり虫ケラか」

 聞こえるはずのない声に、育朗は息を呑んだ。
 彼の発する嫌なにおいは、もう消えているはずだ。
 にもかかわらず、どうして彼の声がするのか。

「ふん。所詮は人間よ。
 我らと戦える力を手にいれたまではよかったが……目も見えず、触角で捉えるだけか。
 たしかに力だけはあるようだが……敵を判別できぬなど、恐るるに足らぬ。
 それならば、己の意思を持って戦う波紋戦士のほうがよっぽど脅威よ。
 最初から見えぬのならば、波紋戦士と異なり成長する余地もない。殺す価値さえ――ない」

 それだけ言い残し、カーズの気配は遠ざかっていった。
 最初から、ただ行く道に障害物がいたから仕掛けただけかのように。
 一度動かせば、わざわざそれ以上かかわる意味などないかのように。
 心の底から――相手をただの虫ケラとしか見てなかったかのように。
 殺しもせずに、去って行った。
 嫌なにおいがしなくて、当然である。
 対等の相手ならばともかく、脅威となるやもしれぬ相手ならばともかく。
 害にすらならない虫ケラに殺気を振り撒く輩など、この世に存在しない。

(しかし……ならば、この『におい』は……?)

 育朗が腑に落ちないのは、殺気のにおいではない。
 周囲に漂っている『血』のにおいである。
 意識が完全に覚醒するのを待ち、育朗は上体を上げ――言葉を失った。

「……へ、えぁ?」

 思わず零れたのは、言葉ではなかった。
 なにか言おうとするも、視界より伝わる情報を飲み込めずに動転するばかり。

 ――カーズに背を斬り付けられた虹村億泰が、腹を大きく抉られていたのだ。

「お、億泰さんっ!!」

 ようやく状況を理解し、育朗は意識のない億泰へと声をかける。
 返事はない。
 当然だ。
 背中の傷の時点で、放っておいたら死に至る傷だったのだ。
 さらに腹を、しかも背中よりも深く斬り付けられては――
 脳裏を過った最悪の可能性を振り払うべく、育朗は頭を振る。
 そうして、とりあえず止血すべく手を伸ばそうとして――見てしまった。

 ――赤黒い液体に塗れた、自身の両手を。

「……え?」

 去り際にカーズが残した言葉が、フラッシュバックする。
 どうして、カーズはバオーに変身した育朗に視力がないと知っていたのか。
 触角で捉えるだけと知っていたのか。
 恐るるに足らないと結論付けたのか。
 敵を判別できぬ――とは、どういう意味なのか

「ま、まさか……」

 浮かんだ考えを否定しようとするが、育朗にはできなかった。
 バオーとなっている際の記憶はなくとも、血塗れの両手は雄弁だった。
 化物である自分を受け入れてくれた億泰を、いったい誰が殺したのか――その答えを物語っている。
 もはや、億泰を見ることはできなかった。
 優しい彼の言葉を受け入れてしまったせいで、彼はもう助からない。
 自分が死を振り撒く存在であることなど、分かっていたはずだ。
 匿ってくれた六助という老人にも、ともに組織から逃げていたスミレにも、危険が及んでしまった。
 これらの揺らがぬ事実を知っていながら、億泰の優しさに甘えてしまった。
 その結果、億泰が死ぬこととなった。
 しかも――今回は、自分自身が殺してしまった。

「う、あぁぁぁあああああああ!」

 真実から目を背けるべく、育朗は駆け出した。
 どこに行こうとも、血塗れの両手はついてくるというのに――あてもなく、逃げ出した。


 ◇ ◇ ◇


【3】


 育朗の絶叫により、虹村億泰の意識は覚醒した。
 とはいえ覚醒こそしたものの、立ち上がることはできなかった。
 大量の血を流しているからだと気付いたのは、なんとか立とうと数回試みてからであった。

(痛……ッ、てえ。んだよ、こりゃあ。どうなってんだ、クソッ)

 どうにか首だけを、育朗の声がしたほうに向ける。
 遠ざかっていく背中が、やけに小さかった。
 朧気な意識だというのに、彼の悲鳴はやけに鮮明だった。

(なんで泣いてやがんだ、アイツ……バカ野郎が。
 なにあったのかなんて分かんねーが、アイツが泣く必要あるワケねーだろ。
 ちくしょう。全ッ然分かんねえ。なにがあったんだよ。どうなってんだよ、ダボがッ)

 意識を失う直前のことを思い出そうとするも、億泰は特になにも覚えていなかった。
 いきなり斬りかかられたので、なんとか避けようとした。
 即死は避けられたらしいものの、気を失ってしまったようだ。
 そのくらいしか、億泰には分からない。

(なんの参考にもなんねーな、ちきしょう。
 でもよォ、よく分かんねーけど、なんも分かんねーけど、アイツが泣く意味はねえだろ。
 いいヤツなんだからよ。クソッタレ。頭がいいヤツってのは、勝手に抱え込むから困るぜ)

 思い切り声をかけてやろうとして、億泰は困惑した。
 声は出ずに、ただただ空気が口から零れていくだけなのだ。

(なんなんだよッ! 行っちまうじゃねえかッ! 泣きっぱだぞ、アイツ!)

 力が入らない事実に歯を噛み締めようとするも、それさえ叶わない。
 身体に力を籠めることさえ、不可能であった。
 無力感に苛まされて、ようやく気付く。
 たとえ立てなくても、声が出なくても、育朗を引き留めることができるではないか。
 億泰のスタンドならば、『ザ・ハンド』ならば、それができるではないか。

(『ザ・ハンド』ッ!)

 脳内で呼びかけると、『ザ・ハンド』は即座に現れる。
 そのヴィジョンはいたるところにひびが入っており、いまにも崩れてしまいそうだが――たしかに出現した。

(俺とアイツとの距離を削り取れ、『ザ・ハンド』ッ!!)

 崩壊寸前のヴィジョンでありながら、『ザ・ハンド』のスピードはかつてないほどだった。
 目に見えぬほどの速度で右手を振るい、その右手で空間を削り取る。
 驚愕している育朗をよそに、ひたすらに空間を削り続ける。
 削った分だけ、育朗と億泰の距離は狭まっていく。
 一度削ったくらいでは、まだ遠い。
 二度、三度――と、何度も右手を振るい続けてやる。
 戦闘の際に相手を削ってやろうとしたときより、よっぽど鋭く速く――『ザ・ハンド』は育朗との距離を削っていく。
 いままで削ってきたなによりも、いま削っているこれこそを削らねばならない。
 その考えが伝わっているかのように、『ザ・ハンド』の効果は見る見る上昇していく。
 億泰の脳裏を掠めるのは、意識を失っていた際に見た夢だ。
 夢のなかで、いまは亡き兄に質問をされた。
 結局、はぐらかしているうちに目が覚めたのだが、いまならば即答できる気がした。

(やっと分かったぜ、兄貴! 俺の、この『手』は! このためにあったんだッ!!)

 ついに、育朗が億泰のすぐ近くにまで引き寄せられる。
 もう、十分だ。
 『手』が届く距離なのだから。
 未だ事態を呑み込めていないらしい育朗を意に介さず、億泰は彼に手を伸ばす。
 最後の力を振り絞って、なんとか上半身だけを起こす。
 呆然としている育朗の手を思い切り握って、どうにか声を絞り出す。

「泣いてんじゃねえよ、育朗。
 なにあったのかなんて知らねーけど、でもよ一度握った手ェ振り払って逃げようなんて、ひでーじゃねーかよ」

 身体から力が抜け、億泰はくずおれそうになる。
 『ザ・ハンド』に身体を支えさせて、どうにか立て直す。

「俺とお前は、もうダチだろ。離してなんかやんねーよ」

 それだけ言って、億泰は無理矢理笑顔を浮かべてやった。
 身体から力が抜けていることなど、知ったことではない。
 育朗の手が血で塗れていることは分かっていたが、その程度で億泰が手を離すことはなかった。


 ◇ ◇ ◇


【4】


「億泰さん……」

 育朗がぽつりと零した言葉に、返事はない。
 億泰の傍らにあったヴィジョンも、ゆっくりと消滅してしまった。

「僕は……どうしたらいいんだ」

 育朗の疑問に、誰かが答えてくれることはない。
 だから、億泰を眺めていても意味はない。
 そんなことは理解していても、育朗は物言わぬ億泰に尋ねるしかなかった。

「億泰、さ――」

 何度目かになる問いの最中、育朗は目を見開いた。
 億泰の首筋に、光の線が走ったのだ。
 唖然とするしかない育朗の前で、億泰の首がゆっくりとずれていく。
 ゆっくりと時間をかけて首から上が落下し、その背後にいる人物が露になる。

「カー、ズ……」
「安心したぞ。貴様らが動いてなくて、な」

 億泰の首に残された首輪を回収すると、カーズは育朗を見据える。

「どうしたらいいかだと? 簡単だ」

 右前腕から生えた光り輝く剣を掲げ、口元を三日月状に歪める。

「首輪を献上するがいい。
 このカーズが、下らぬ児戯から抜け出すためのサンプルとしてな」

 カーズが剣を振り下ろす寸前に、育朗は高く跳び上がっていた。
 バオーに意識を奪われることなく、育朗自身の意識を保ちながら。

「……ほう。変身せずに、力を引き出したか」

 腰を低く落として構える育朗であったが、カーズは仕掛けようとしない。

「ふん。変身していないときは、決してマヌケではないようだな。
 だが意思がある状態で、手首から刃を出せるか? 髪を飛ばせるか?」

 歯を噛み締めるしかない育朗に背を向け、カーズは億泰の荷物を拾って遠ざかっていく。

「先刻言った通り、やはり貴様に殺す価値はない。
 近くにいるから殺すだけで、遠ざかっていく虫ケラをわざわざ殺す必要がない。はははははッ!」

 哄笑を響かせて去って行くカーズを、育朗は眺めるしかできなかった。
 カーズの気配が完全に消えてから、育朗は地面に両手をつける。
 その血塗れの両手を前に、出てくるのは先ほどと同じ疑問であった。

「いったい、僕はどうすればいいんだ……」

 地面に転がる億泰の首は、やはりなにも答えてくれなかった。



【虹村億泰 死亡】
【残り 95人】


【B-5 路上/一日目 黎明】

【橋沢育朗】
[能力]:寄生虫『バオー』適正者
[時間軸]:JC2巻 六助じいさんの家を旅立った直後
[状態]:健康、両手血塗れ
[装備]:なし
[道具]:基本支給品、ランダム支給品1~2
[思考・状況]
基本行動方針:バトルロワイアルを破壊し、スミレを助けだす。
1:どうしたらいいのか分からない。
[備考]
※『少しだけ』変身せずに、バオーの力を引き出せるようになりました(まだ咄嗟に跳んだだけ)。


【カーズ】
[能力]:『光の流法』
[時間軸]:不明
[状態]:健康、ターバンなし
[装備]:なし
[道具]:基本支給品×2、ランダム支給品2~4、首輪(億泰)
[思考・状況]
基本行動方針:柱の男と合流し、殺し合いの舞台から帰還。究極の生命となる。
1:柱の男と合流。
2:首輪を集めて解析。





【備考】
※B-5の民家が、結構えらいこっちゃです。
※B-5路上に、億泰の死体(背中と腹部を斬られ、首切断)が転がっています。






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前話 登場キャラクター 次話
015:来訪者バオー カーズ 079:カーズのカオスローマぶらり旅
015:来訪者バオー 虹村億泰 GAME OVER
015:来訪者バオー 橋沢育朗 095:Panic! At The Disco! (前編)

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最終更新:2012年12月09日 02:23