◇ ◇ ◇
【0】
「お前の『ザ・ハンド』ってよォ――
日本語でどういう意味なのか、知ってんのか?
「……さすがに知ってたか。
怒るなよ。少し意外だっただけだ。だから怒るな。
「問題はこっからだ。
その『手』ってのは、言うまでもなく人間にとって大事な部位だ。
二足歩行によって『手』を自由に使えるようになったってのが、人類の発展の第一歩って有名な話もある。
「まあ、んなことはどうでもいい。
人類全体なんて大規模な話をしようってワケじゃない。
お前の話だ。お前の『手』はよ――いったい、なんのためにあるんだ?
「『スタンド』のほうじゃねえ。
お前の、お前自身の手のことだよ。
「俺の答えを聞くんじゃあねえよ。
俺は頼りになるし、間違わねえから安心?
違うな。俺の答えは、俺にとっての答えでしかない。
俺の『手』がなんのためにあったのか――その答えにしかならない。
「お前が決めるんだ。
お前の『手』の使い道は、お前だけが決められるんだからな――」
◇ ◇ ◇
【1】
育朗と呼ばれていた少年の身体が、異形の姿へと変貌していく。
その変化が少年自身の能力でないことを、対峙している
カーズは見抜いていた。
『柱の男』たる彼の眼力は、少年の脳内に埋め込まれた寄生虫の姿を鮮明に捉えているのだ。
――バルバルッ!
奇妙な音ともに、少年の全身にひびが入る。
体表から柔らかみが消失し、金属じみた硬度に。
さらに東洋人特有の黄色から、光沢のある濃紺に。
黒々としていた毛髪も濃紺となって、僅かに逆立つ。
爪が、肉食動物のそれのように長く鋭利なものとなる。
――バルバルバルバルッ!
眼球全体が淡い光を帯びる。
額の中心から真紅の触覚が出現。
そして最後に、両手首より二本の刃が飛び出す。
「ウォォォォーーーム!」
咆哮をあげた直後、少年――であった異形の姿は掻き消えた。
「ほう」
嘆息を漏らしつつ、カーズはなにもない空間に右腕を掲げた。
その前腕部からは、異形のものよりも長大で重厚な刃『輝彩滑刀』が伸びている。
「なかなか早いな」
硬いもの同士がぶつかり合う鈍い音が、カーズの呟きに重なる。
異形は、決して消えたのではなかった。
常人が捕捉できる限界速度を超えて、横合いから斬りかかったのだ。
しかし常人では追い切れぬ速度でも、カーズならば問題なく視認可能であった。
「やはりッ、このカーズの輝彩滑刀と同じタイプ! 肉体を硬質化させた刃!
だが……たとえ種類が同一だとしても、はたしてその性能のほうはどうなのだろうなァ。
貴様ら人間が足りぬ知恵を振り絞って到達した寄生虫移植技術が、我が輝彩滑刀に勝るか……試してやろうッ!」
言い切るより早く、カーズは輝彩滑刀に籠める力を強くする。
二つの刃の拮抗が崩れ、異形はのけ反ってしまう。
逆海老の無理がある体勢となるが、異形はその状態のまま地面を蹴った。
迫りくる輝彩滑刀を、後方に跳ぶことで危なげなく回避したのだ。
目を見開くカーズをよそに、異形は跳んだ先にある民家の壁を蹴り飛ばす。
壁に亀裂が入るほどの力で跳び上がり、カーズへと再び肉薄する。
「バルッ!」
大きく踏み込んでいたので、カーズは前のめりになっている。
それを好機と見たのか、異形は独特の叫びとともに右の刃を振り下ろす。
「よもや、このカーズに隙が生まれたなどと思ってはいまいな?」
嘲笑うような口調とともに、カーズは即座に体勢を立て直す。
元よりすぐに戻せたものを、あえて持続し続けていたのである。
異形の刃を難なく受け、しかしカーズは怪訝そうに眉をひそめた。
先ほどとは異なり、相手がすぐに刃を引いたのである。
その理由は、すぐに明らかとなった。
右の刃を弾いた直後に、左手首の刃が接近してきたのだ。
「手数で勝負するかッ! なるほど。我が輝彩滑刀より華奢な刃を使う以上、正しい戦術と言えよう……がッ!」
カーズは言葉を半ばで呑み込み、死角となる後頭部に伸びる刃を輝彩滑刀で払う。
右手首の刃が真下から振り上げられる――これを弾く。
左手首の刃が脳天をかち割らんとする――これをいなす。
右手首の刃が首を狩り下ろさんとする――これをあしらう。
左手首の刃が頭上から凪ぎ下ろされる――これを受け止める。
右手首の刃が斜めに突き上げる逆袈裟――これをかがんで躱す。
左手首の刃が薙ぎ払うように横に一閃――これを逸らして無力化。
右手首の刃が返され上段からの袈裟懸――これをのけ反り回避する。
両手首の刃があらゆる角度からの連撃――すべて輝彩滑刀で受け流す。
「速度ならば勝てるという思い上がり……それが誤ちよッ!」
攻撃をことごとく払われることに業を煮やしたのか、異形が後方に跳んだ。
距離を取ろうとしたのだろうが、それを許すカーズではない。
同じ方向に同じ勢いで跳び、異形との距離を保ち続ける。
「なにをしている! 逃がすはずが――」
カーズの余裕ぶった言葉は、途中で切り上げられる。
彼の表情から笑みが消え、口元は苦々しく歪んでいた。
異形の逆立った毛髪が、矢のように射出されたのだ。
撃ち出された数本の毛は、すべてが精密にカーズの眼球を貫いていた。
人間ならば失明に至る大怪我であるが、そこは柱の男。
眼球が潰されたのならばまだしも、毛髪のような微細なものが刺さったところで、すぐに治癒して終わりである。
ゆえに、異形の攻撃を嘲笑おうとした。
「ふん! 悪あがきか……ぬうッ!?」
嘲笑おうとした直後に、異変が起こった。
カーズの視界が、赤く染まったのである。
直後、辺りに肉の焦げるにおいが広がっていく。
そのにおいにより、カーズは異変の理由を察した。
「これは……『燃えて』いるッ! くッ、輝彩滑刀!」
毛髪が突き刺さった箇所から、炎が上がっているのである。
炎の向こうで両手を掲げている異形の姿を捉え、カーズは右腕の刃を振るった。
異形の刃を受けるためではなく――自身の眼球ごと、毛髪を体内から摘出するめに。
眼球を切り刻んだ痛みの直後、左胸に刃が突き刺さる感覚が走り抜けた。
自身に突き刺さったのが異形の『右手首から伸びる刃』であることを、カーズは目で見ずとも理解していた。
両手首から伸びる刃の、ほんの僅かな違いをとうに発見していたのである。
二つの刃の違いを踏まえた上で、体内に入り込んだ刃がどちらのものであるのか。
そのくらい、カーズの頭脳をもってすれば簡単に見分けることができた。
そしてどちらかが分かれば、異形がどのような体勢でいるのかも分かる。
視覚がなくとも、その他の感覚は鮮明だ。
聴覚によって足音を捉えているので、どの程度接近しているのかも分かり切っている。
また、目を刻むついでにターバンを切断したことで、カーズの触角は露になっている。
体勢と接近具合が分かっており、さらに触角の得る情報もプラスされる。
もはや、カーズは異形の姿を完全に把握していると言っていい。
「ナメるなよ、寄生虫の宿主の分際でッ!!」
カーズは、渾身の蹴りを異形の腹があるであろう位置に放った。
身体とは思えぬ硬い感触であったが、それはたしかに異形の腹部であったらしい。
触角によって、異形が凄まじい速度で吹き飛んで行くのが分かった。
続いて、聴覚が民家が粉砕される音を捉える。
「ふん。こんなものか」
民家がいくつか崩壊する音を聞いてから、カーズは落ち着きを取り戻す。
予想外の攻撃に取り乱してしまったが、異形は確実に息絶えたはずだ。
眼球も少しずつ再生しており、二十秒ほど経てば完治するだろう。
視力を取り戻し次第、一応は死体を確認するとしよう。
そのように決断し、カーズは治癒の完了を待つことにした。
結局、どちらの刃が勝っているのかは分からずじまいであったが、あくまで少し好奇心が沸いたにすぎない。
そんな小競り合いよりも、深遠な目的がカーズにはあるのだ。
太陽という唯一の恐怖を克服し、なにもかもを支配するという大いなる目的が。
最終的にその目的さえ果たせるのならば、多少の好奇心など無視して構わない。
そのように考えていると、カーズの聴覚が捉えるはずのない音を捉えた。
――バル……
目を見開き、カーズは反射的に音のほうを向いた。
あるはずのない音に続き、カーズの触覚はあるはずのない感覚を捉える。
――バルバル……
さらには、朧気な視界にあるはずのない影が浮かぶ。
ひどく不鮮明で、それが誰であるのかなど視認できない。
だが視認できずとも――明らかだ。
「大した生命力だな」
瞳を閉じて、カーズはゆっくりと告げる。
言葉の途中で、眼球の再生は完了した。
勢いよく目を見開くと、視界に映ったのは想像通り――異形の少年であった。
「虫は潰したら死ぬものだッ!」
カーズの言葉に応えるように、異形の身体が蠢き奇妙な音を奏でる。
――バルバルバルバルバルバルバルバルッ!!
地響きにも似た音を上げながら、異形は跳躍した。
腕を背後に回すと、両手首から刃が飛び出す。
「いいだろう、人間の英知の結晶よッ!
我が『光の流法』を……輝彩滑刀の真なる力を見せてくれるッ!!」
宣言したと同時に、輝彩滑刀が眩く輝き出す。
刃が特別なエネルギーを纏っているのではない。
そもそも、そんなものを纏う必要などありはしない。
余計なエネルギーなどなくとも、真なる力を発揮した輝彩滑刀は万物を切断可能なのだから――!
輝彩滑刀の表面には、微小にして鋭利な刃が敷き詰められている。
それらが滑るように走ることで、周囲の光を複雑に反射しているのだ。
現在、この場には街灯や月光などの僅かな灯りしかないが、それでも十分。
僅かしかない光を反射し合い、その過程で光度を増幅させ、輝彩滑刀を覆うように集束し、激しく発光する――!
これがッ!
これがッ!
これが『輝彩滑刀』だッ!
そいつに触れることは、両断を意味するッ!
二つの影が重なった瞬間、硬いもの同士がぶつかり合う鈍い音が――響くことはなかった。
なにか柔らかいものを切り分ける際のように、これといった音もなく。
ただ、異形の両手首から生えた刃が根元から切断されただけであった。
重力に引っ張られ、二本の刃は地面へと落下していく。
「ふん。『光の流法』の前では、こんなものか」
地に落ちた刃を眺めながら、カーズは満足気に吐き捨てる。
「バルッ!」
振り返れば、異形の両手首には切断されたはずの刃が伸びていた。
その事実に、カーズは特に驚きもしない。
自身の輝彩滑刀のように肉体を刃としているのならば、即座に再生できてもおかしくはない。
考慮に入れていた事態である。
「同じことよォ!」
再生した刃が、先ほど以上の硬度を誇るというワケでもなく。
またしても、音もなく斬り落とされるだけである。
切断した端から再生し、また切断する。
それを繰り返していくうちに、カーズはあることに気付いた。
眩い光を放つ輝彩滑刀を前にしても、異形は目を背けるどころか表情をしかめることさえしないのだ。
光の流法を前にして、まったく驚く素振りを見せないというのも腑に落ちない。
「……見えていない、のか?」
そんな考えが浮かんだのは、先ほど視力を奪われていたゆえである。
聴覚と触覚を頼りにしていたからこそ、この仮説に思い至った。
見れば、カーズの触角がある額に、異形にも真紅の部位があるではないか。
口角を吊り上げ、カーズは異形から距離を取るべく跳んだ。
ある場所で立ち止まって振り返ると、異形は手首を掲げて追ってきている。
カーズが輝彩滑刀を体内に収納すると、異形は速度を上げた。
「ふん。光を捉えぬことから察するに、貴様は視力を持たぬのだろう。
にもかかわらず、輝彩滑刀をしまったことを理解するとは、やはり『感じ取って』いるらしいな」
そう言っている間に、刃はカーズを真っ二つにせんと振り下ろされた。
勢いよく迫ってくる刃を見据え、カーズは受けようとも避けようともしない。
ただ、少しばかり、軽くなにかを蹴り上げるような動作で足を動かすだけである。
「ウォォォーーーーーームッ!」
雄雄しい雄叫びが響き、辺り一面が赤黒く染め上げられた。
◇ ◇ ◇
【2】
途切れていた
橋沢育朗の意識が、ゆっくりと覚醒していく。
寄生虫・バオーの支配から解かれた証である。
曖昧な思考のなかで、育朗は実感する。
彼の――バオーの嫌いなにおいは、もう漂っていない。
つまりあのカーズと名乗った男は、もうこの世にいないのだろう。
人を殺めた事実に胸が痛むが、カーズは億泰を虫ケラ扱いして殺した男である。
殺さねばならない相手であったのだ。
その事実が、育朗の胸の痛みを和らげた。
「……やはり虫ケラか」
聞こえるはずのない声に、育朗は息を呑んだ。
彼の発する嫌なにおいは、もう消えているはずだ。
にもかかわらず、どうして彼の声がするのか。
「ふん。所詮は人間よ。
我らと戦える力を手にいれたまではよかったが……目も見えず、触角で捉えるだけか。
たしかに力だけはあるようだが……敵を判別できぬなど、恐るるに足らぬ。
それならば、己の意思を持って戦う波紋戦士のほうがよっぽど脅威よ。
最初から見えぬのならば、波紋戦士と異なり成長する余地もない。殺す価値さえ――ない」
それだけ言い残し、カーズの気配は遠ざかっていった。
最初から、ただ行く道に障害物がいたから仕掛けただけかのように。
一度動かせば、わざわざそれ以上かかわる意味などないかのように。
心の底から――相手をただの虫ケラとしか見てなかったかのように。
殺しもせずに、去って行った。
嫌なにおいがしなくて、当然である。
対等の相手ならばともかく、脅威となるやもしれぬ相手ならばともかく。
害にすらならない虫ケラに殺気を振り撒く輩など、この世に存在しない。
(しかし……ならば、この『におい』は……?)
育朗が腑に落ちないのは、殺気のにおいではない。
周囲に漂っている『血』のにおいである。
意識が完全に覚醒するのを待ち、育朗は上体を上げ――言葉を失った。
「……へ、えぁ?」
思わず零れたのは、言葉ではなかった。
なにか言おうとするも、視界より伝わる情報を飲み込めずに動転するばかり。
――カーズに背を斬り付けられた
虹村億泰が、腹を大きく抉られていたのだ。
「お、億泰さんっ!!」
ようやく状況を理解し、育朗は意識のない億泰へと声をかける。
返事はない。
当然だ。
背中の傷の時点で、放っておいたら死に至る傷だったのだ。
さらに腹を、しかも背中よりも深く斬り付けられては――
脳裏を過った最悪の可能性を振り払うべく、育朗は頭を振る。
そうして、とりあえず止血すべく手を伸ばそうとして――見てしまった。
――赤黒い液体に塗れた、自身の両手を。
「……え?」
去り際にカーズが残した言葉が、フラッシュバックする。
どうして、カーズはバオーに変身した育朗に視力がないと知っていたのか。
触角で捉えるだけと知っていたのか。
恐るるに足らないと結論付けたのか。
敵を判別できぬ――とは、どういう意味なのか
「ま、まさか……」
浮かんだ考えを否定しようとするが、育朗にはできなかった。
バオーとなっている際の記憶はなくとも、血塗れの両手は雄弁だった。
化物である自分を受け入れてくれた億泰を、いったい誰が殺したのか――その答えを物語っている。
もはや、億泰を見ることはできなかった。
優しい彼の言葉を受け入れてしまったせいで、彼はもう助からない。
自分が死を振り撒く存在であることなど、分かっていたはずだ。
匿ってくれた六助という老人にも、ともに組織から逃げていた
スミレにも、危険が及んでしまった。
これらの揺らがぬ事実を知っていながら、億泰の優しさに甘えてしまった。
その結果、億泰が死ぬこととなった。
しかも――今回は、自分自身が殺してしまった。
「う、あぁぁぁあああああああ!」
真実から目を背けるべく、育朗は駆け出した。
どこに行こうとも、血塗れの両手はついてくるというのに――あてもなく、逃げ出した。
◇ ◇ ◇
【3】
育朗の絶叫により、虹村億泰の意識は覚醒した。
とはいえ覚醒こそしたものの、立ち上がることはできなかった。
大量の血を流しているからだと気付いたのは、なんとか立とうと数回試みてからであった。
(痛……ッ、てえ。んだよ、こりゃあ。どうなってんだ、クソッ)
どうにか首だけを、育朗の声がしたほうに向ける。
遠ざかっていく背中が、やけに小さかった。
朧気な意識だというのに、彼の悲鳴はやけに鮮明だった。
(なんで泣いてやがんだ、アイツ……バカ野郎が。
なにあったのかなんて分かんねーが、アイツが泣く必要あるワケねーだろ。
ちくしょう。全ッ然分かんねえ。なにがあったんだよ。どうなってんだよ、ダボがッ)
意識を失う直前のことを思い出そうとするも、億泰は特になにも覚えていなかった。
いきなり斬りかかられたので、なんとか避けようとした。
即死は避けられたらしいものの、気を失ってしまったようだ。
そのくらいしか、億泰には分からない。
(なんの参考にもなんねーな、ちきしょう。
でもよォ、よく分かんねーけど、なんも分かんねーけど、アイツが泣く意味はねえだろ。
いいヤツなんだからよ。クソッタレ。頭がいいヤツってのは、勝手に抱え込むから困るぜ)
思い切り声をかけてやろうとして、億泰は困惑した。
声は出ずに、ただただ空気が口から零れていくだけなのだ。
(なんなんだよッ! 行っちまうじゃねえかッ! 泣きっぱだぞ、アイツ!)
力が入らない事実に歯を噛み締めようとするも、それさえ叶わない。
身体に力を籠めることさえ、不可能であった。
無力感に苛まされて、ようやく気付く。
たとえ立てなくても、声が出なくても、育朗を引き留めることができるではないか。
億泰のスタンドならば、『ザ・ハンド』ならば、それができるではないか。
(『ザ・ハンド』ッ!)
脳内で呼びかけると、『ザ・ハンド』は即座に現れる。
そのヴィジョンはいたるところにひびが入っており、いまにも崩れてしまいそうだが――たしかに出現した。
(俺とアイツとの距離を削り取れ、『ザ・ハンド』ッ!!)
崩壊寸前のヴィジョンでありながら、『ザ・ハンド』のスピードはかつてないほどだった。
目に見えぬほどの速度で右手を振るい、その右手で空間を削り取る。
驚愕している育朗をよそに、ひたすらに空間を削り続ける。
削った分だけ、育朗と億泰の距離は狭まっていく。
一度削ったくらいでは、まだ遠い。
二度、三度――と、何度も右手を振るい続けてやる。
戦闘の際に相手を削ってやろうとしたときより、よっぽど鋭く速く――『ザ・ハンド』は育朗との距離を削っていく。
いままで削ってきたなによりも、いま削っているこれこそを削らねばならない。
その考えが伝わっているかのように、『ザ・ハンド』の効果は見る見る上昇していく。
億泰の脳裏を掠めるのは、意識を失っていた際に見た夢だ。
夢のなかで、いまは亡き兄に質問をされた。
結局、はぐらかしているうちに目が覚めたのだが、いまならば即答できる気がした。
(やっと分かったぜ、兄貴! 俺の、この『手』は! このためにあったんだッ!!)
ついに、育朗が億泰のすぐ近くにまで引き寄せられる。
もう、十分だ。
『手』が届く距離なのだから。
未だ事態を呑み込めていないらしい育朗を意に介さず、億泰は彼に手を伸ばす。
最後の力を振り絞って、なんとか上半身だけを起こす。
呆然としている育朗の手を思い切り握って、どうにか声を絞り出す。
「泣いてんじゃねえよ、育朗。
なにあったのかなんて知らねーけど、でもよ一度握った手ェ振り払って逃げようなんて、ひでーじゃねーかよ」
身体から力が抜け、億泰はくずおれそうになる。
『ザ・ハンド』に身体を支えさせて、どうにか立て直す。
「俺とお前は、もうダチだろ。離してなんかやんねーよ」
それだけ言って、億泰は無理矢理笑顔を浮かべてやった。
身体から力が抜けていることなど、知ったことではない。
育朗の手が血で塗れていることは分かっていたが、その程度で億泰が手を離すことはなかった。
◇ ◇ ◇
【4】
「億泰さん……」
育朗がぽつりと零した言葉に、返事はない。
億泰の傍らにあったヴィジョンも、ゆっくりと消滅してしまった。
「僕は……どうしたらいいんだ」
育朗の疑問に、誰かが答えてくれることはない。
だから、億泰を眺めていても意味はない。
そんなことは理解していても、育朗は物言わぬ億泰に尋ねるしかなかった。
「億泰、さ――」
何度目かになる問いの最中、育朗は目を見開いた。
億泰の首筋に、光の線が走ったのだ。
唖然とするしかない育朗の前で、億泰の首がゆっくりとずれていく。
ゆっくりと時間をかけて首から上が落下し、その背後にいる人物が露になる。
「カー、ズ……」
「安心したぞ。貴様らが動いてなくて、な」
億泰の首に残された首輪を回収すると、カーズは育朗を見据える。
「どうしたらいいかだと? 簡単だ」
右前腕から生えた光り輝く剣を掲げ、口元を三日月状に歪める。
「首輪を献上するがいい。
このカーズが、下らぬ児戯から抜け出すためのサンプルとしてな」
カーズが剣を振り下ろす寸前に、育朗は高く跳び上がっていた。
バオーに意識を奪われることなく、育朗自身の意識を保ちながら。
「……ほう。変身せずに、力を引き出したか」
腰を低く落として構える育朗であったが、カーズは仕掛けようとしない。
「ふん。変身していないときは、決してマヌケではないようだな。
だが意思がある状態で、手首から刃を出せるか? 髪を飛ばせるか?」
歯を噛み締めるしかない育朗に背を向け、カーズは億泰の荷物を拾って遠ざかっていく。
「先刻言った通り、やはり貴様に殺す価値はない。
近くにいるから殺すだけで、遠ざかっていく虫ケラをわざわざ殺す必要がない。はははははッ!」
哄笑を響かせて去って行くカーズを、育朗は眺めるしかできなかった。
カーズの気配が完全に消えてから、育朗は地面に両手をつける。
その血塗れの両手を前に、出てくるのは先ほどと同じ疑問であった。
「いったい、僕はどうすればいいんだ……」
地面に転がる億泰の首は、やはりなにも答えてくれなかった。
【虹村億泰 死亡】
【残り 95人】
【B-5 路上/一日目 黎明】
【橋沢育朗】
[能力]:寄生虫『バオー』適正者
[時間軸]:JC2巻 六助じいさんの家を旅立った直後
[状態]:健康、両手血塗れ
[装備]:なし
[道具]:
基本支給品、ランダム支給品1~2
[思考・状況]
基本行動方針:バトルロワイアルを破壊し、スミレを助けだす。
1:どうしたらいいのか分からない。
[備考]
※『少しだけ』変身せずに、バオーの力を引き出せるようになりました(まだ咄嗟に跳んだだけ)。
【カーズ】
[能力]:『光の流法』
[時間軸]:不明
[状態]:健康、ターバンなし
[装備]:なし
[道具]:基本支給品×2、ランダム支給品2~4、首輪(億泰)
[思考・状況]
基本行動方針:柱の男と合流し、殺し合いの舞台から帰還。究極の生命となる。
1:柱の男と合流。
2:首輪を集めて解析。
【備考】
※B-5の民家が、結構えらいこっちゃです。
※B-5路上に、億泰の死体(背中と腹部を斬られ、首切断)が転がっています。
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最終更新:2012年12月09日 02:23