その名前が呼ばれた瞬間、俺の中で全てが崩れ落ちた。
嘘だ嘘だと心の中で叫ぶ声が聞こえる。そうであるはずの事実を必死で否定する俺がいる。
それが無意味だと、心のどこかで理解していながらも。自分の行為が愚かな、そして虚しい現実逃避であると知っていながらも。
俺は呆然としたままに、何も考えられず、その場に倒れ込んだ。

立ちあがる気力、起き上がる意志さえ湧きあがらなかった。
灰色のアスファルトを呆然と見つめながら俺は動けなかった。動こうとしなかった。
無様に這いつくばったままの恰好で、その場に凍りつく。何も考えられなかった。
何も、考えたくなかった。


俺は彼女の死が現実のものとは思えなかった。俺は彼女の死が受け入れられなかった。
ひょっとしたら何かの手違いなんじゃないかと思えた。読み上げられた名前の意味を、俺は勘違いしているんじゃないかって思った。
自分の作り上げた幻想だとはわかってる。そんな考えは突拍子もない、頭のおかしなやつのおとぎ話でしかないんだって、知ってるさ。

けど、おかしいだろう。こんなことが正しくあっていいはずがないだろ。


 だって 徐倫が死んでいいはずなんて ないんだから。


なんで、彼女なんだ。なぜ、彼女じゃなければいけなかったんだ。
おかしいはずだ。他の誰だって良かったはずだ。
彼女である理由が見当たらない。彼女が死んでいいわけがない。

徐倫は強い人だ。ひょっとしたら俺よりも強いかもしれない、誰よりも強いかもしれない。
だって彼女はいつだって前を向いて歩く人だったんだ。牢屋に閉じ込められても、泥の中に突き落とされても、彼女のあの眼はいつも希望に満ちていた。
そんな、そんな彼女が死ぬだなんて…………きっと何かの間違いにきまってる、そうにきまってる。

希望に満ちている彼女だったなら、どんな困難であろうと切り抜けれたはずだ。
あのタフで強靭な彼女が折れるはずがない。どんな難敵であろうとあの強力な拳は、蹴りは、誰にだって防げやしないはずなんだ。
だから……徐倫が死んでいいはずがないんだ。あの徐倫が、あの徐倫が死んでしまったなんて、そんなことが……ッ!

「……嘘だ」

嘘だ……嘘だ、嘘だッ!
そんなはずがない……。そんなことが、あって、たまるかッ!

あり得ない。あってはならないッ!
嘘だ嘘だ嘘だ。嫌だ。信じられない。信じたくない!
あの徐倫が、あの徐倫が! 死んだなんて、そんなことが!


「違う……、違うッ!」


喉が張り裂けんばかりに、俺は叫んだ。高まる感情そのままに、力一杯拳を叩きつけた。
アスファルトが歪み、ひび割れた。狂ったような俺の叫びが壁に反響し、あちこちに響き渡った。

嫌だ、信じたくない! こんなことって……ッ! こんなことが……あって、たまるもんかッ!

なんで彼女なんだ! 彼女には、まだまだやらなきゃいけないことがたくさんあったじゃないかッ
父親を救いだしたばかりなんだ。ようやく自由になれたんだ。あの鉄格子から解き放たれ、あと一息で全てが終わるはずだったじゃないかッ
なんでだ……。なんで、徐倫なんだ……ッ! 彼女が死んでいいはずがないじゃないかッ……!
彼女が何をしたって言うんだ……? 彼女がいったいどんな理由で……死ななければいけなかったていうんだッ



徐倫はただの少女だったんだ。心優しい、素敵な素敵な、少女だったんだ。
彼女は誰よりも家族を、そして父を、愛していた。
友人を愛し、生命を愛し、生きることを愛していた彼女は……ただの少女だったはずだというのにッ!




「死ぬべきはこの俺だッ! 死ぬべきは俺だったはずなんだ……ッ!」


なのに、なんで。


「彼女が死ぬぐらいだったら、この俺が……、この俺を……ッ!」


――― 殺してくれ…………ッ!



空虚な叫びがこだまする。返事をするものは誰もいなかった。


握り拳が血を噴いた。犬歯が破った唇から、血の雫が垂れ落ちる。
身体の震えが止まらなかった。自分が抱く感情が、怒りかなのか、悲しみかなのか、虚しさなのか。
俺はいったい何のか、もう、わからなかった。

なにもかもわからない。なにもかもわかりたくない。

崩れ落ちた時に打った膝が時間が経つにつれ、じんわりとマヒしていく。
その感覚だけがやけに生々しく、俺の記憶に鮮やかに焼きついた。


「……徐倫」


彼女の名前を初めて呼んだ。
涙は流れなかった。不思議と涙は湧きあがらなかった。
俺は、動けなかった。










空条承太郎川尻しのぶが歩いていた。二人の間に会話はなく、一組の男女は黙々と足をすすめていく。

まずは駅に向かう、と承太郎は言った。しのぶには反対する理由も見当たらなかったので、彼女はとりあえず彼の判断に従うことにした。
承太郎の狙いはとにかく人に会うことだった。
杜王駅はここらあたりで一番大きな建物で、人目も引くし、まずは寄ってみようと思う参加者も多いはずだ。
加えて禁止エリアが近くに設定されたのも好都合だった。
禁止エリアが近くに設定されたことで、そのことに興味を持つものがいても不思議ではない。
或いは逆に、禁止エリアが設置されたことで、その場から離れようとする参加者もいるかもしれない。
あてもなく彷徨うよりはよっぽど確率よく、誰かしらに遭遇できるはずだ。承太郎はそう思い、まずは駅を訪れようと思ったのだ。

二人は歩いた。朝日輝く杜王町を、何の話をすることもなくただ進んでいく。
何の変哲もない一日が始まろうとしているかのように、街は穏やかな様子だった。
だが、とても静かだった。街に誰一人いないかのように、静かだった。

いつもなら通勤通学で賑わい出す道路も。朝の通勤ラッシュで混む中央線も。活気に溢れる街市場も。
何の騒音もなく、がらんとしていた。あまりにもの寂しいので、その様子はゾッとさせるような異様さがあった。
駅に近づくにつれてしのぶは承太郎との距離を少しだけ縮めた。男はなんの反応も見せず、ただ淡々と歩き続けた。


駅が見えてきたころだった。一度として止まることのなかった二人の足が次第にゆるんでいくと、ついには完全に止まった。
女性は思わず男の背中に身を寄せ、そのジャケットの裾を握った。
承太郎は何も言わなかった。ただ黙ったまま彼女を振り払うようなことを彼はしなかった。
かわりに男は警戒心を高め、眼の前の光景に目を鋭くさせる。
スタンドは出さなかった。だがいつ襲われてもいいように、彼は戦闘態勢を整えていた。

一人の男が道路を歩いていた。
まだそれほど年はとっていない。若者と呼ぶにふさわしぐらいの年頃だ。身長は高く、少し華奢ではあるがその体は鍛え抜かれている。
引き締まった腕にはほどよく筋肉がついていて、しなやかな足はガゼルのようにたくましい。
顔は中性的で、一目見た時には女性と勘違いしてしまいそうになる。
だがよく見ればその凛々しい眉、高くとがった鼻が印象的で、彼は美男子と呼ぶにふさわしい顔立ちをしていた。

しかし、そのいかつい肉体も。整った容貌も。眼に入らないほどに、彼の様子は異常だった。
まるで幽霊のように顔は真っ青。左右に揺れながら今にも倒れそうなほど、頼りなく歩いている。
亡者のように虚ろな表情。生気を感じさせない空虚な瞳。
男は生きていながら死んでいるも同然な様子で、自分がどこにいるかもわかっていないかのようだった。

しのぶが押し殺すように、そっと息を吐いた。誤魔化しきれない不安が、その吐息には込められていた。
男が二人のいるところまであと十メートルというところまで近づいたとき、承太郎は初めて口を開いた。

「そこで止まれ」

大きく叫んだわけではない。だが、無人の街並みにその声はよく通った。男はその場に立ち止まると、ゆっくりと時間をかけ顔をあげた。
承太郎の反響した声が消えるまでの、その長い時間を使って、ようやく男は眼の前に二人の男女が立っていることに気がついた。
くすんでいた瞳に僅かながらも光がさす。男の表情に生気らしきものが初めて浮かぶ。
彼は唾を飲み込むと、言葉を紡ごうとした。二度三度とどもりながら、ようやく言葉を捻りだす。

「―――承太郎さん」

その声は掠れくぐもっていて、とても聞き取りづらかった。
ナルシソ・アナスイは男の名前を呼ぶ。膝つきそうな身体をなんとか奮い立たせ、彼は目の前に立つ男の名を呼んだ。
承太郎さん、彼はもう一度言った。しゃがれた声、潰れた喉。だがアナスイは喋るのをやめなかった。
警告を受けたことも忘れ、更にもう一歩、前に踏み出す。身体を固くしたしのぶが後ずさる。警戒心剥き出しに承太郎が拳を握る。

アナスイは目の前で起きているそんなことにすら気がつかなかった。彼は何も知らず、そのまま進み続ける。
彼はふらりふらりと揺れながら、なんとか崩れ落ちずに立ち続けた。何かに縋りつく様な口調で、彼は言葉を紡いだ。


「徐倫が……、徐倫が――――――」
「……!」

彼女の名前が聞こえた瞬間、空条承太郎の顔が強張った。しのぶは掴んだ上着越しに、男の体に走った緊張感を感じ取る。
アナスイは気づかない。彼の声は今にも泣き出しそうだった。


「徐倫が…………死んだ」
「―――ッ!」


男の呼吸が止まった。女の上着を握った拳が震える。そしてナルシソ・アナスイは、その場に崩れ落ちた。

アナスイの精神力が限界を迎えたのだ。地に伏せた彼の瞳は虚空を見つめ、何も写してはいなかった。
自らが口にした言葉が彼の心をズタズタに切り裂いていった。言葉にしてしまったことで、彼はその事実を自身が認めたかのように思えたのだ。
必死で否定してきたその事実を。死にもの狂いで眼を逸らしてきたその現実を。
アナスイは自らが口にした言葉に呆然としながら、次々と口をつく言葉を止められなかった。


「承太郎さん、徐倫なんです。徐倫が…………、徐倫が…………―――」
「それ以上口を開くな」


凍りつくような承太郎の声。有無を言わせぬ言葉が続きを遮った。
殺される。死んだも同然のアナスイの本能をそう目覚めさせるほどに、承太郎の迫力は圧倒的だった。
ピシャリとアナスイを黙らせ、男は大股で彼に近づいていく。アナスイはごくりと唾を飲み込む。地に這いつくばったままの体勢で、彼を見上げた。
三メートル弱、スター・プラチナの拳が叩き込める位置まで近づくと承太郎は道路に倒れ伏す男を見下ろした。
何の感情も宿さない無機質な目。彼は品定めするような眼でアナスイを見つめる。

「勝手に盛り上がってるところに水を差すようだが、俺がアンタと会ったのはこれが初めてだ」
「…………え?」

アナスイの眼が大きく見開かれる。承太郎は自らの言葉に男が大きく衝撃を受けていることに気がつきながらも、言葉を止めるようなことはしなかった。
自分の言葉が目の前の青年を傷つけるかもしれない。そうわかっていても、それを気にかけるほどの余裕を今の彼は持ち合わせていなかった。
畳みかける様に言葉を繋げた。承太郎の話は続く。

「俺はアンタの顔も知らなければ、名前も知らない。記憶力には自信があるほうなんだが、悪いな。
 もし、俺が一方的にアンタの名前を忘れて―――」
「何を……、何を言ってるんですか、承太郎さんッ!」

初めてアナスイの顔に表情らしきものが宿った。
気の毒になるほどの狼狽。額に汗すら滲ませ、アナスイは跳ねあがるように、その場で立ちあがる。

「俺です! ナルシソ・アナスイです!
 徐倫と一緒に、あのエンリコ・プッチと戦っていたスタンド使い! たった今の今まで一緒にいた……―――!」
「知らねーな。残念ながら」
「そんな…………、まさか、もしかして……あなたは―――」
「……娘のことを知っていて、スタンド使いであることを考えると―――どうやらアンタは俺の『未来』からやってきたようだな」


アナスイは話した。隠す必要もない相手だったのでありのままに、彼は全てを打ち明けた。
互いに時を越えて参加者が集められていたことを知っていたのが幸いした。アナスイの情報公開はすんなり進んでいく。
承太郎は必要最低限だけ口をはさみ、可能な限りアナスイを話させ続けた。その内、口をはさむことすらしなくなった。
アナスイの話は続く。徐倫との出会いに始まり、緑色の赤ちゃん、ヘビー・ウェザー、新しいスタンド『C-MOON』、そして『空条承太郎』。
彼は必死だったのだ。承太郎に自分の存在を認められようと必死だった。アナスイにとってもはや承太郎が……、承太郎だけが頼りだったのだ。


もはや否定しようもなく、徐倫は死んだ。彼は、そのことを半ば諦めていた。
ショックだった。悲しかった。ショックだとか悲しいとか虚しいだとか……そんな言葉では表せないほどに、彼の心は傷だらけだった。
この気持ちを理解できるのは承太郎だけだとアナスイは思っていた。
承太郎だけが……、娘をなくした父親だけが、今の自分の気持ちを理解してくれると思っていた。

だが現れた空条承太郎は自分のことを知らなかったのだ。自分を知る、はるか昔から、彼は呼び出されていたのだ。
その事に気がついた時、アナスイは愕然とした。そして、再び途方もない絶望に叩き落とされた気分がした。


徐倫を失った喪失感を、俺は独り抱えていかなければいけないのか。
彼女の死を、彼女の弔いを、俺は独りで行い、そして残されたこの世界を生きていかなければいけないのか。
徐倫がいなくなるということは世界を失うのも同じだ。そんな重荷を、俺独りで抱えていけるだろうか。


アナスイは承太郎に理解して欲しかったのだ。自分たちがどれほど大きなものを失って、どれほど取り返しのつかない人を弔わなければいけないのか。
誰かと徐倫の死を共に嘆き、悲しみ、涙したかった。励まし、励ましてもらい、共に涙すれば、その時初めて徐倫の死を受け入れられる気がしたのだ。
そうした時、ようやく彼女の死に始めて向き合える気が、アナスイにはしたのだった。



そして! 承太郎こそが! 承太郎ならば、自分のこの想いを!
自分と同じぐらいの喪失感を! 悲しみを! 虚無感を! 抱いていると思ったのに!



アナスイの話が終わった。口の中はカラカラに乾ききっている。額の汗をぬぐう暇もないくらい喋り通しであった。
承太郎は奇妙なほどに無表情だった。徐倫が必死で彼を救いだそうとした時のことを話しても。徐倫がどれだけ傷つき、苦労して彼を救ったのかを伝えても。
空条承太郎は不気味なほどに平然としていた。まるで何も感じていないような、そんなふうに思えるほど。


「……エンリコ・プッチ」
「そうです。ヤツが……ヤツこそが、全ての黒幕でDIOの遺志を継ぐものだったんです」

懐より取りだした名簿を睨め付け、男は確かなんだろうな、とアナスイに念を押す。
青年が頷いたのをじっと見つめ、信用に足ると判断したのだろう。男は名簿のプッチという名前を記憶に刻み込んだ。
今、彼の中で抹殺対象が一つ増えた。エンリコ・プッチと言う顔も知らぬ邪悪を必ずや仕留めて見せると、空条承太郎は決意を固めた。

「情報提供感謝する」
「な……! ま、待って下さい、承太郎さん……ッ!」

上着を翻し、川尻しのぶの元へ戻る男の背中にアナスイはそう叫んだ。
数歩進んだところでようやく立ち止まった承太郎。無言のままに振りかえる。
あなたはこの後、どうするつもりなんですか。そう喉元まで込み上げていた言葉を、アナスイは飲み込んだ。
今まで男の眼を見る余裕すらなかったアナスイ。今初めて承太郎の眼を見つめ、彼はその薄暗く広がる闇に気がついた。
徐倫にどこか似た瞳を持ちながら彼女が決して持ち得なかった、腐臭を放つ、どこまでも底なしのほの暗い瞳。

背筋を伝っていく汗が凍りつきそうだ。無言のままに男が放つ殺気に足が竦んだ。
言葉以上にそれが物語っていた。ナルシソ・アナスイは理解する。
空条承太郎の悲壮な覚悟を。自らの正義と納得のために戦い続けようとする、男の意地を。


それでも彼は口を開いた。何故だか彼自身もわからないが、口を開かずにはいられなかった。

「あなたは、プッチを殺すつもりなんですね……」

承太郎は何も返さない。徐倫によく似た目でアナスイを見返す。
沈黙が何よりも多くを物語っていた。彼はそれをYESと解釈し、そのまま言葉を重ねる。

「あなたは、徐倫の仇を討とうとしている……」

無言のままだ。一秒だって視線を逸らさない承太郎。アナスイが目をそむけたくなるほどに、真っすぐな視線で見つめてくる。
我慢比べのような沈黙がそのまま流れ……先に視線を切ったのは承太郎だった。
ふと遠くを見つめるような眼になると、男は虚空に目を向けた。そうして彼はアナスイに背中を向け、無言のままに立ち去ろうとする。
アナスイはその背中に叫んだ。

「承太郎さんッ!」
「てめーには関係のない話だ」
「どうしてッ」
「…………」

その背中から怒気が滲み出た。彼はここが境界線だと無言で主張している。それを超えるようであれば無傷の保証はできやしない、と。
だがアナスイは我慢できなかった。何故だか理由はわからなかったが、アナスイは承太郎を止めずにはいられなかった。
考える間もなく、言葉が口をついて出る。彼はなんとしてでも、承太郎をその場に引き留めたかったのだ。


「あんたなら……、あんたならわかってくれると思った!
 あんたならわかるはずだと思ったのにッ! あんただけが、この俺と同じだと思ったはずなのにッ!」


承太郎は何も言わない。振り返った彼の表情は、深くかぶった帽子のひさしに隠れ、何も伺えない。
アナスイは止まらない。彼はそのまま、言葉を続けて、叫んだ。


「徐倫は……死んだんだぞ! 徐倫はもう二度と、笑うことも、泣くことも、動くことも……できないんだぞッ!」
「…………」
「もう二度とッ! もう二度とだッ! あんたは、それがわかってるのに……なんで復讐なんかができるんだッ!」
「………………」
「なんであんたは涙一つ見せないんだ! なんであんたはそうやって……無表情のままなんだッ!」
「………………」
「答えろよッ! 空条承太郎ッ!」

会話の途中、誰かが息をのむ音が聞こえた。見れば視界の端で川尻しのぶの顔が青ざめていくのが目に映る。
だがアナスイはもう止まらない。ナルシソ・アナスイの感情は、今、爆発していた。
徐倫を失った悲しみが。徐倫を救えなかった不甲斐なさが。理不尽さへの怒りが。一人の女性を失った喪失感が。
アナスイは止まらない。空条承太郎へのやつあたりという形で、今、彼の気持ちは解き放たれていく。

大声で叫んだアナスイは肩で息をする。承太郎は何も言わない。彼は今どんな表情を浮かべ、どんなことを考えているのだろうか。
だがそんなことはどうでもよかった。今この瞬間、アナスイは心底、空条承太郎が憎かった。
会話中顔色一つ変えなかった冷徹さが。微動だにしなかった表情が。スカしたようにポケットに突っ込まれた両腕が。
今の彼には男の全てが憎かった。八つ裂きにしてやりたいほどに、なんとかして傷つけたいと思えるほどに、アナスイは空条承太郎が憎かった。


アナスイが叫んだ。





「徐倫は…… ――― あんたの娘なんだぞッ!」





瞬間 ――― 空条承太郎が僅かに首をあげ、そしてアナスイと視線が交わった。



胃を抉るような衝撃が走った。ヘビー級のボクサーが力任せに叩き込んだような拳。そんな拳が何度も何度も、それこそ百を超えるほどに、アナスイを襲った。
気がつけば視界が反転。青空が上に、アスファルトが目の前に。身体全体を固い地面に叩きつけられて、息がとまる。
その後地獄のような時間が彼を襲った。身体をくの字に折り曲げると、青年は全身を喰らう痛みに呻き、もがいた。
痛みのあまり滲んだ視界。彼はそんな世界で、自分の身に何が起きたか理解した。

空条承太郎のスタンド、『スター・プラチナ・ザ・ワールド』。
男が時を止めている間に自分を叩きのめしたということを、アナスイは理解した。

地べたに這いつくばるアナスイに影が落ちる。苦悶の表情を浮かべながらも、なんとか見上げればそこには承太郎がいた。
男の表情はわからない。そうなることを狙ってか、逆光が男の顔に影を落としている。彼の顔色はうかがえない。
承太郎は落ち着いた口調で語りかけた。その冷静さが、何の感情も込められていない言葉が、なによりも恐ろしかった。

「テメーにとって娘がどんな存在だったかはしらねーが……俺は娘を失った。
 娘を失った父親の気持ちをてめーに押し付けようなんて思ってはいねーし、押しつけて理解してもらおうとも俺は思わねェ」
「がァ ――― ハ……ッ!」
「誰も俺のことを理解できるはずがないんだ。俺がテメーのことを理解できねェように、な。
 テメーが俺に感情を押し付けるのは勝手だ。だが、それが気に食わなかったんでちょいとお痛を味わってもらったぜ。
 事後報告になって申し訳ねェな。その点だけは謝るぜ」

目の前をゆっくりと通っていく一組の靴。地に這いつくばり、未だダメージの残るアナスイにそれを止める術はない。
承太郎が遠ざかっていく。一歩、また一歩。また遠くなる。その間、アナスイは必死で立ちあがろうとしていた。
立ちあがらなくてもいいのに。立ちあがったところで何ができるかもわからないというのに。
それでも彼は、今必死でもがいていた。必死で震える、手に、足に鞭打ち、男は這い上がろうと足掻いていた。


 ――― ナルシソ・アナスイの目に光が宿る。

その目に宿ったのは希望ではない。悲しみでもない。
怒りだった。まごうことなき、純粋な怒り。しかしそれは彼のやつあたり的な怒りではない。

男はなんとか立ち上がる。
胸が痛む。吐き気がこみ上げる。拳を叩き込まれた胃がひっくり返そうだ。
だがそれでもアナスイは立ち上がったのだ。どんな困難にも決して怯まず、決着ゥつける“彼女”の姿を思い出し……男は立ちあがったのだ。


「承太郎さん……、いや――― 空条承太郎ッ!」


その場を去ろうとする男に指を突きつけ、彼は叫んだ。

「あんたは、自分の納得のためだけに動いてる……!
 娘を失った無力感、娘に何もしてやれなかったという罪悪感に突き動かされ……! 無茶で無謀な破壊衝動に犯されているッ!
 悪党退治だなんて崇高な義務感に……あんたは酔っているだけなんだッ」

空条承太郎は振り向かない。
一度だけ、ぴたりとその場で立ち止まったが、やがて気を取りなおしたように足を動かしだした。
アナスイはやめなかった。彼は肺一杯に空気を吸い込むと、力の限りに、怒鳴った。



「徐倫はこんなことを望んでいやしないッ」



男は足をすすめようとして……その足を浮かしたままの状態でしばらく固まった。
そして次の瞬間、目にも止まらぬ速度で振り向くと同時に、アナスイ目掛けて一目散に向かっていった!

男の反応を予期していたように、アナスイも既に行動を終えていた。
スター・プラチナの拳が迫る。真っ向勝負でダイバー・ダウンが迎え撃つ。凄まじい轟音が響き、二つのスタンドは拮抗した。
空条承太郎が初めて感情をあらわにした。怒りに燃えた瞳が、スタンド越しにアナスイへと突き刺さる。


「てめェに、なにが、わかるってんだ……ッ!」
「ああ、わかるさ……! すくなくとも徐倫がそんなことは望んでいないってことぐらいは、わかってるつもりだ……!」


凄まじいスピード、とんでもないパワーで押してくる。
迫りくる拳の嵐。ダイバー・ダウンはおされていく。アナスイは無理することなく一度後ろに飛び下がり、距離を取る。
逃がさんとばかりに、承太郎は猛追。再び拳を振り上げ、彼は言う。アナスイも負けじと答える。


「てめェが! 娘の名を呼ぶんじゃねェッ!」
「徐倫はアンタをみすみす殺すために! 命をかけて、傷だらけになって! 救い出したんじゃないんだぞッッッ!」


ダイバー・ダウンが押し返した。承太郎は怒っている。だがそれ以上に、アナスイも怒っていた。
流れは再び中立に。パワーA同士のスタンド、突きの速さ比べは際限なく加速していく。
両者の顔が、怒りに、そして痛みに歪んだ。歯をくいしばって耐える二人の男。アナスイは、その食いしばった歯の隙間から、振り絞るように言葉を吐いた。


「何度でも言ってやる……!」


次の瞬間、ダイバー・ダウンの一撃が、スター・プラチナのガードをこじ開けた。
驚愕に染まる承太郎の瞳。ガラ空きのボディに迫るダイバー・ダウン。
アナスイが吠える。ナルシソ・アナスイの渾身の一撃が、魂の叫びが承太郎を穿たんと迫る……!



「徐倫は……そんなことを望んでいやしないッ!」



そして次の瞬間! ダイバー・ダウンの拳が数ミリまで迫ったその瞬間!   ……――― 時が止まった。


   ……――――――


そして時が動き出す。


途端、アナスイの身体は木の葉のように吹き飛び、きりもみ回転しながら近くのゴミ山に突っ込んだ。
青年の口から血が噴き出す。すぐには立ちあがれないほどのダメージを前に、彼はどうすることもできなかった。
空条承太郎の手加減抜きの攻撃を喰らったのだ。むしろそれだけで済むほどにアナスイはタフで、承太郎を追い込んでいた。

帽子をかぶりなおした男はその場を立ち去ろうと一歩踏み出し、途中で止まる。しばらくの間、彼は自らの拳を見つめていた。
生々しく残った感触がやけに鮮やかで、気味が悪いなと承太郎は思った。
そういえばスタンドで人を吹っ飛ばしたのは久しぶりだなと思い出し、彼はやれやれ、といつもの口癖を口にした。
頭を振り、その場を後にする。だが直後、背後から聞こえた物音に気がつき、振り返った彼は驚愕に動きを止めた。

ナルシソ・アナスイはダウンしていなかった。
彼はなんとしてでもこれだけは言ってやりたいと。それだけを口にせずには意識を手放せないと言わんばかりで。
フラフラになりながらもゴミ捨て場を抜け出し、半分座り込んだまま……男に指を突きつけ、彼は声を張り上げた。

無様な姿だとはアナスイもわかっている。
情けなくて、カッコ悪い。徐倫が生きていたなら、絶対に見せたくない姿だ。


「止めてやる……ッ!」


だけど……もう、徐倫は死んだんだ。
もう徐倫は……いないんだ。


その瞬間、アナスイはようやくその事実を受け入れた。そしてその事実を受け入れ、だからこそ、そう宣言した。


「俺は、絶対に、あんたを……止めてみせる!」


それが徐倫の望んだことだと、心の底から思ったから。
徐倫が生きていたならば、必ずやそうしただろうと確信できたから。


徐倫は死んだ。もういない。


それはあまりに悲しいことだった。絶望して、膝をつきそうになりそうだった。
地団太ふんで一日中、いや、一年中一人部屋にこもって泣きつくしたい。
徐倫を想って涙で海が作れるほどに泣いていたい。もうこの身体が枯れ果てるほどに悲しみに浸りたい。
だけどそんなことをしている暇はない。そんなことに暇をさいて止められるほど、徐倫のお父さんは弱くないんだ。

アナスイは涙していた。放送で徐倫の死を聞き、徐倫の死を受け入れてから初めて、彼は泣いた。
アナスイは泣いた。自分の弱さに泣いた。何もできなかった自分の非力さに泣いた。
何もできなくてごめんと徐倫を想って泣いた。惨めでダサくて、自分が情けなくて泣いた。

涙と鼻水で顔はぐちょぐちょだ。疲労とダメージで視界が暗くなる。
それでもアナスイは繰り返し喚いた。もはや承太郎がそこにいるのか、立ち去ったのかもわからなかったが、何度も、何度も、叫んだ。
止めてやる。俺があんたを止めてやる。腕を振り回し、あらぬところを指さし、そう叫ぶ。
そうやって繰り返して、繰り返して、疲れ果てた彼は地面に倒れ込み……やがて静かになった。


それでも彼の涙は止まらなかった。彼は夢見心地のまま涙し、最後に徐倫……と彼女の名を呼ぶと、そうして気を失った。





空条承太郎は、そんな彼を見つめ……しばらくの間動かなかった。

気がつけばしのぶがそばに寄り添っている。数十秒がたち、安全だと判断した川尻しのぶは、男の傍をすり抜ける。
彼女は気を失った青年の隣にしゃがみ込み、容体を見守った。
気を失ったわ。そう彼女は確認し、男を見た。空条承太郎は何も言わずにその場に立ちつくしている。しのぶは何も言えなかった。
本当は一言二言、小言を言い、盛大にため息を吐きたい気分だったがグッとこらえた。
代わりに彼女はアナスイの脇に腕を射し込み、なんとか彼の体を持ち上げようと奮闘する。小柄な彼女にアナスイの大きさと重さはたいそうな負担だった。
承太郎は手伝わなかった。かわりに彼女の腕からデイパックを半ば強引に奪い取ると、それを代わりに持ってあげた。


十数分の奮闘を経て、しのぶはなんとか青年を安全な場所へと無事寝かしつける。
駅の脇の飲食店、ソファの上に彼を放り投げると、彼女は一息ついた。
引きずっているうちに足を何度か家具にぶつけたりしたが、この際贅沢は言わないだろう。
胸を見れば呼吸に合わせてしっかり上下している。死んではいない。素人判断だが、触った感じだと骨折もしてなさそうだ。

しのぶは、ふぅ……と大きく息を吐き、少しだけ休憩を取る。
さり気なさを装って店を見渡せば、厨房のほうから立ち上るタバコの煙が見えた。
しのぶは今度は我慢せずに、やれやれの言葉とともに大きくため息を吐いた。やれやれ。ほんとうに、やれやれだわ。


「行きましょう。時間がもったいないわ」

数分の後、充分休息がとれたと判断したしのぶ。付添いの男にそう声をかけた。
承太郎は黙って頷く。火をつけかけていた二本目のタバコをもみ消すと、脇に置いていたデイパックを手に取った。
しのぶは気がつく。承太郎は彼女の分のデイパックも持ってくれていた。



 “てめェに、なにが、わかるってんだ……ッ!” 『徐倫は…… ――― あんたの娘なんだぞッ!』
 “てめェが! 娘の名を呼ぶんじゃねェッ!” 『徐倫はこんなことを望んでいやしないッ』

店の扉を潜り抜け足早に男の横に並んだ時、唐突に彼とナルシソ・アナスイとの会話を思い出した。しのぶの胸が痛んだ。
そっと見上げれば承太郎はいつも通りのむっつりとした顔で、何を考えているのかまったくわからない。

ナルシソ・アナスイ。空条承太郎。どちらも一人の少女を失い、ひどく傷ついている。
しのぶは悲しかった。これは二人の男の問題で、話し合えばわかりあえるものでないともわかっていた。
どちらの言い分も痛いほどわかるので、だからこそ、余計に胸が苦しかった。

それでも、としのぶは思う。それでも、自分は空条承太郎から目を離すわけにはいかない。

青く若いナルシソ・アナスイは一見、若さゆえに無謀で無茶をしでかしそうに思える。
でもしのぶは彼なら大丈夫だ、という奇妙な安心感があった。アナスイならば立ちあがれると何故だか信じられた。
あの青年は少女の死にひどく傷つき、取りみだし、喪失感に苦しんでいた。
だけど……泣いていた。少なくとも泣けたのだ。彼は。

アナスイは徐倫のことを思って泣いていた。
しのぶと承太郎のまえで、それはもう惨めになるほど、ボロボロ、ボロボロと。
涙を流して、泣くことができたのだ。

もう一度隣の男の顔を見上げる。民家を出発後、たまたま化粧室による機会があり、二人はそこで身なりを整えていた。
彼の頬に涙の跡はもう残っていなかった。そのことが何故だか、しのぶの心を寂しくさせた。

どうかしたか。目線を辺りに配り、血に飢えた殺人鬼に警戒しつつ、承太郎がそう言った。
なんでもないわ。しのぶはそう返し、そっと目を伏せた。
何故だか気を抜いたら、泣きだしそうだった。だがそれはあまりにかっこ悪いと思い、彼女はグッとこらえた。

隣の女性の様子に気が付いているのか、いないのか。
承太郎はぶっきらぼうに、駅内を捜索するぞと彼女に告げる。しのぶは黙って頷いた。
そのまま近づきすぎず、離れすぎずの距離を保ったまま……一組の男女は駅の中へと姿を消していった。







湿った風が通り抜けると、ゴミ捨て場のアルミ缶が転がり……寂し気な音をたて、転がっていく。

アナスイの残した涙の跡は、もう残っていなかった。








【D-8 杜王駅入り口 / 1日目 朝】
【空条承太郎】
[時間軸]:六部。面会室にて徐倫と対面する直前。
[スタンド]:『星の白金(スタープラチナ)』
[状態]:体力消耗(中)、???
[装備]:煙草、ライター
[道具]:基本支給品、ランダム支給品1~2(確認済)
[思考・状況]
基本行動方針:バトルロワイアルの破壊。危険人物の一掃排除。
0.???
1.杜王駅内を捜索する。

【川尻しのぶ】
[時間軸]:The Book開始前、四部ラストから半年程度。
[スタンド]:なし
[状態]:疲労(中)、精神疲労(中) すっぴん
[装備]:なし
[道具]:基本支給品、ランダム支給品1~2(未確認)
[思考・状況]
基本行動方針:空条承太郎についていく
1.空条承太郎についていく

【備考】
※アナスイと承太郎の話を聞いて、しのぶもなんとなく時間軸の違いに気がつきました。ですがまだ確信はありません。
※アナスイと一方的な情報交換をしました。
 その結果、承太郎はジョンガリ・Aリキエル、エンリコ・プッチを危険人物と判断しました。発見したら殺りにいきます。
 ウェザー・リポートは灰色です。ヘビー・ウェザーになったら容赦はしないと思っています。
※承太郎はアナスイを殺す気は『今のところ』ありません。危険人物ではないと判断しました。
※化粧室に寄った際、しのぶは化粧を落としました。すっぴんです。


【D-8 杜王駅脇の飲食店 / 1日目 朝】
【ナルシソ・アナスイ】
[スタンド]:『ダイバー・ダウン』
[時間軸]:SO17巻 空条承太郎に徐倫との結婚の許しを乞う直前
[状態]:全身ダメージ(極大)、 体力消耗(中)、精神消耗(中)、気絶中
[装備]:なし
[道具]:基本支給品、ランダム支給品1~2(確認済)
[思考・状況]
基本行動方針:空条徐倫の意志を継ぎ、空条承太郎を止める。
0.徐倫……
【備考】
※骨折はしていません。承太郎はちゃんと優しく、全力で手を抜かずに、オラオラしました。
※放送で徐倫以降の名と禁止エリアを聞き逃しました。つまり放送の大部分を聞き逃しました。






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前話 登場キャラクター 次話
104:ダイヤモンドは砕けない 川尻しのぶ 114:スター・プラチナは笑わない
104:ダイヤモンドは砕けない 空条承太郎 114:スター・プラチナは笑わない
096:囚われ人と盲目者 ナルシソ・アナスイ 131:死神に愛された者たち

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最終更新:2014年06月09日 23:47