かぽーん
湯気が立ち昇る露天風呂で、二人の男が肩を並べて湯に浸かっていた。
その一方の男である荒木は岩肌へと背中を預け、大きく息を吐き、のんびりと一心地ついている。
バトルロワイヤル運営という激務に勤しむ中で、ようやく休みを取れたといった形だ。
もう一方の男である太田は、湯に浮かんだ盆から冷酒を小さなグラスへ注ぎ、それをグイッっと一気に呷る。
これが太田にとっての休養なのだろうか、彼はアルコールが臓腑に染み渡っていくのを感じながら、
ゆっくりと肩から力を抜いていった。
「しかし太田君、お風呂の時も帽子を被っているのかい?」
かぽーん、とどこからともなく聞こえてきた音を機に、荒木が太田に声を掛けた。
太田を見てみれば、確かに緑色のハンチング帽を頭の上に乗せている。
ここが露天風呂であることを考えれば、それはいかにも不釣合いであり、風情があるとは言えない。
果たして、それが太田順也のお酒を楽しむ姿なのだろうか。
「ンフフ、まぁ、ここは彼に倣ったということで」
太田は再びグラスにお酒を注ぎながら鷹揚に答えた。
それを聞いた荒木は「ああ」と思わず頷く。
「成る程、
空条承太郎か。他人の行動を真似してみて、その人が抱いたであろう感情に思いを馳せる。
僕達のような監視体制では、うん、それも中々に趣深いものになるね」
一種、杜撰とも言えるバトルロワイヤルの監視を思い出し、荒木は納得した。
そういった中で、どのように参加者の気持ちを推し量るかは、殺し合いを運営する側の妙味と言って良い。
そして自分の意識を向こうへ飛ばすというなら、お酒がもたらす酩酊状態は、助け舟となってくれる。
だとしたら、そうやって呑むお酒は、さぞかし美味しく感じることであろう。
「どうです、荒木先生も一杯?」
荒木の心情を察したのか、太田はもう一つのグラスにお酒を注ぐ。
「うーん、そうだな……まぁ、ここはお言葉に甘えさせて、ご相伴に与かろうか」
「では、どうぞ、どうぞ」
太田は表情筋を失ったかのように、ごっそりと削げ落ちた頬を器用にも緩ませ、
嬉しそうに冷酒の入ったグラスを荒木へ手渡した。
「へぇ、これは」
と、お酒を口に含んだ荒木は思わず感嘆の声を漏らした。
お酒の舌触りはなめらかで、素直に喉を降りていく。
そして口に含んだ瞬間、鼻に昇ってくる果実のような甘い香り。
風呂で体温が上がっているのにも関わらず、次の一杯が欲しくなる逸品だ。
酒に詳しくない荒木にも、この味の良さはすぐに理解できた。
「こちらもどうぞ、荒木先生」
荒木の反応に気を良くした太田は、どこからか盆を手繰り寄せ、その上に乗った肴も薦める。
ガラスの小皿にはきゅうりの浅漬けがあった。ツヤのある緑色が見事に光を照り返す。
しかし、不精な男の手料理と言った具合に、そのきゅうりは形も不揃いなブツ切りだ。
料理の背景に野暮ったい男が見えてしまうようでは、人に出すのは少々ご遠慮願いたいところ。
とはいえ、ここまでされて、全く品に手を出さないのは失礼だ。
「それじゃあ、頂くよ」
荒木は箸を手に取ると、意を決してきゅうりを口の中に放り込んだ。
その瞬間、ヒンヤリとした冷たさが荒木の口から身体中の隅々にまで広がっていった。
キンッと冷え、まるで氷塊でも口にしたような心地。熱い湯の中では、何とも嬉しい計らいだ。
きゅうりの瑞々しさと塩気も、また丁度いい。一噛みするごとに、汗で水分を失い、
粘っこくなった口の中を洗うように、爽やかさを届けてくれる。
ここまで来ると、きゅうりの不細工なブツ切りの意味が分かってくる。
形が大きいから、その分、長く口の中に残り、冷たさを味わわせてくれるのだ。
お店などで良く見る普通の薄切りでは、こうはいかない。それでは一、二回の咀嚼で終わりだろう。
だが、この不恰好な品は違う。
パリッ、ポリッ、バリッ、ボリッ、ムシャ、ムシャ。
何とも面白い音だ。一つ、また一つと荒木はきゅうりの浅漬けを口にし、リズム良く咀嚼音を奏でる。
そして音楽でも演じようというのか、きゅうりは歯で潰されるたびに勢い良く水と塩を飛び出させ、
荒木のリズムを更に加速させていく。
「次はこちらです、荒木先生」
太田もその流れに遅れまいと二品目を手際よく出す。
新たな盆の上に乗ったガラスの小鉢には、丸まった白い何かがあり、赤いソースがどろりと掛かっている。
「これはなんだい、太田君?」
「鱧の湯引きを冷水で締めて、そこに梅肉のソースを和えたものです」
「へー」
と、荒木は頷き、興味深げに料理を眺めてから、一気にそれを口に運んでいった。
舌に訴えてきたのは、白身魚の淡白な味わいと、梅の酸っぱさ。別に不味くはないが、美味くもない。
失望を交えた表情で荒木は淡々と顎を動かし始めるが、すぐに荒木の顔は一変した。
氷のように冷えた鱧は、噛んでいくごとに、その中から旨味を解放していくのだ。
そうして染み出た鱧の旨味は梅の酸味と手を取り合い、舌の上で見事に踊っていく。
まるで味のカーニバル。まるで鱧と梅のパレード。祭りのようなそれは、胃に飲み込んでも尚、口で残響し、深く味の余韻を残す。
そして口内に根強く居座るそれを、冷酒で一気に喉の奥に押し込んでやると……。
「か~~~~~~~~っ、美味い!!」
荒木は堪らず吼えた。その反応に太田の顔は綻ぶ。
「いや~、いい呑みっぷりですねぇ、荒木先生。ささ、もう一杯どうぞ」
「うん、じゃあ、もう一杯貰おうか。だけど、その前にお礼というか、僕も太田君に注がせてもらえないかな?」
「ンフフ、これは恐れ多い。とはいえ、荒木先生に注いでもらうお酒は何とも美味そうです。僭越ですが、お願いしても?」
「勿論だよ、太田君」
トクトクトクと二人は酒を注ぎ合うと、グラスを互いにぶつけ、口に運んでいった。
そうして始まる二人の歓談は、酒の勢いもあってか、実に愉快でリラックスできたものであった。
しかし、いい加減酔いが回ったのだろうか、荒木が湯から上がり、岩べりに腰を掛けるのと同時に、
太田は唐突にこんなことを呟いた。
太田は飽きることなくグラスに手酌で冷酒を注ぎ、それをぐいっと一気に呷った。
荒木はその様子を笑いながら、皮肉っぽく訊ねる。
「おや、太田君は承太郎が好きなんじゃないの?」
「いえ、彼も好きですが、それ以上にジョセフが、というわけです。
というか、この帽子は、ほんの冗談のつもりだったんですが……」
苦笑を漏らしながら、太田はひょいっとハンチング帽を取ってみせる。
すると、その下からは、丁寧に折られた手拭いが現れてきた。やはり風呂には頭に乗せた手拭いこそが似合っている。
太田もそんな昔ながらスタイルに情緒を感じたのか、再びグラスに冷酒を勢いよく注いで、自ら興に乗じていく。
そしてその酒をグビグビと口に流し込むと、太田は実に気持ちよさそうに声を発した。
「ジョセフはね、面白いんですよ。努力を嫌い、楽を好む。一見、不快を生む人物像ですが、不思議と愛着が湧く。
それに何より闘い方が、魅せてくれる。どうしようもない力と対峙した時、彼は力以外を武器として闘ってくれる。
それはまぁ人として当然のことなんですが、彼の血統を考えれば、ちょっと違います。
ジョセフは十分に強くなれる余地を残しているし、力をつけることこそが正解だと言えるもんです。
ですが、ンッフフ、彼はその選択をしない。少なくとも積極的には、そうしない。
あくまで楽をする。戦闘でも楽を求める。相手とまともに向き合わない。その態度は正直クズです。しかし、そこには人として嫌らしさがない。
そこにある両面的価値が、いやはや、僕の琴線に触れてきます」
そのまま太田は身振り手振りを交えて、ジョセフというキャラの魅力を熱っぽく語っていく。
荒木も最初は楽しく聞いていたが、太田の長々と続く、終わりの見えない演説に嫌気が差したのか、
咳払いを何度かして太田の口を閉ざすのに成功すると、ズバリ訊いてきた。
「結局、太田君は何を言いたいんだい?」
「あー、その、何というかですねぇ」途端に言いよどむ太田だが、ここでいつまでも躊躇していてもしょうがないと判断したのか、
やがて臍を固めて口を開いた。「ジョセフをこの殺し合いに参加させるのは止めにしませんか? 可哀想というか、勿体無いというか」
「…………君は何を言っているんだい?」
その言葉と共に荒木の殺気が、太田の身体を烈風のように切り裂いていった。
瞬く間に、太田の顔から血の気が引いていく。先ほどまであった酒の酔いも風呂の熱も、どこかへ行ってしまったような寒さだ。
自分がどうしようもない失態を演じてしまったことに遅まきながら気がついた太田は、慌てて謝罪の言葉を並べる。
「す、すいません、荒木先生。大分、酔っていたようです」
それを聞いた荒木はすぐに表情に柔らかさを取り戻し、太田に応えた。
「幾ら何でも酒の呑み過ぎだよ、太田君。大体、あのジョセフの参加を是非に、と言ってきたのは、君じゃないか」
「そうでした」ペチッと太田は自らの頭を軽く叩く。「一体どうしたんでしょう、僕は?」
「それはこっちの台詞だよ、太田君。しかし、君にそこまで関心を持たれるジョセフは運が良いのか、悪いのか」
荒木はジョセフの運命の奇妙さを思ってか、幼さを感じさせる、その至って無邪気な顔から微笑を零した。
不気味である。顔は幼いのに、眼光は鋭く、老獪ささえ感じさせるほどの妖しい輝きをしている
そして身体はというと、青年のように瑞々しく張りがあり、筋肉もまるで衰えることなど知らんとばかり隆起している。
改めて、太田は思う。このような人物と同じ時間、同じ場所で、そして同じ試みをしているということに胸の高鳴りが抑えられない、と。
堪らず太田はゴクリと唾を飲み込んだ。すると、その音が大きかったのか、荒木は身体を隠すように湯に飛び込み、困ったように苦笑を浮かべた。
「太田君、人の裸を見て、生唾を飲むというは勘弁してくれないかな」
「すみません、つい興奮してしまいまして」
「興奮……冗談には聞こえないんだけど?」
「冗談を言っているつもりはありませんから」
何の迷いもなく太田の口から放たれる言葉。
バシャン、と大きな音を立て、荒木は慌てて湯から飛び出した。
「おや、荒木先生、もう出るんですか?」
太田の手が、荒木の肩をガッチリと掴んだ。先ほどまで確かに湯に浸かっていた太田は、いつの間にか立ち上がり、
音も無く一瞬で荒木の背後に忍び寄って、出入口の前まで来ていた荒木を捕らえたのだ。電光石火の早業である。
「こ、これ以上いたら、のぼせてしまうからね」
太田の不必要な接近に、荒木は背筋が粟立つのを感じながらも、何とか答えることに成功した。
だが、それでは納得できなかったのか、素っ裸の太田は自分の顎を荒木の肩の上に乗せ、
これまた裸の荒木をなだめるかのように耳にそっと優しく息を吹き込んでいく。
「まあまあ、折角の機会ですし、もっといいじゃないですか」
そう言って、太田は荒木の方にもう一歩踏み込んだ。
既に会話には問題ない距離のはず。いよいよ太田の行動が理解しかねる。
その前進の意味は一体何なのだ。ひょっとして太田はここで事に及ぼうとしているのだろうか。
そんな危惧を抱いた荒木は、太田を刺激すまいと、努めて冷静に、なるたけいつものように平然と言葉を発した。
「太田君、お酒の席の強要は無粋だよ。風流とは言えない。それでお酒が美味くなるのかな?
それに実際、僕は湯中りしている、少しだけどね。こう日が照っている中で、湯に浸かり、お酒を呑んでしまっては、当然さ。
まあ、雪が降るような寒さとなれば、また違ってくるんだろうけど……。取り敢えず、今回はここで失礼させてもらうよ」
「はぁ……そうですか、残念です」
ポタリ、と太田の腕が荒木の肩から落ちた。完全に腑に落ちたのかは知らないが、太田から解放された荒木は急いで、
かといって太田の感情を逆撫でしないように急ぎ過ぎず、そんな微妙な速度で風呂を出て行った。
その背中を見送った太田は元の場所に戻り、湯に浸かると、再び冷酒をグラスに注ぎ込んだ。
「僕としたことが、はしゃぎ過ぎたかな。確かにお酒の無理強いは無粋だ」
反省を表す太田だが、その言葉とは裏腹に酒の入ったグラスを自分の口に遠慮なく傾けた。
消沈したままでは、酒が不味くなるということなのだろうか、彼は鼻歌まで交えて、楽しそうに酒を呑んでいく。
確かに荒木と別れは残念なことだし、自らの態度も改める必要があった。それは厳然たる事実だろう。
だけどそれとは別に、太田の脳裏に、ある面白い考えが浮かんだのだ。
「僕もジョセフと話でもしてみようかな」
荒木はバトルロワヤルの参加者と接触し、随分と楽しそうにしていた。
そんな風に荒木のはしゃいだ姿を思い出したら、太田も是非自分もという気持ちが込み上げてきたのだ。
それに折角だということもある。この機会を逃したら、大好きなジョセフと語り合う時間など、二度と持てやしないのだろうから。
「まあ、それはともかく」
太田は新たな冷酒を口に含むと、何かに感じ入るように呟いた。
「荒木先生との雪見酒は、さぞかし美味そうだ」
誰もいなくなった湯船で手足を思いっきり伸ばした太田は、晴れ渡る青空を見上げながら、そんなことを思った。
最終更新:2017年04月01日 02:15