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霧雨魔理沙
【昼】E-4 人間の里




乙女たちの突き進むこの世界に、音は流れない。




殺し合い。
凄惨で、喧騒たる、狂気を宿した舞台上である筈だった。
だというのに霧雨魔理沙と空条徐倫の両名間に流れる空気は、至極無風。

無風なのだ。

参加者たちの戦闘音はおろか、虫たちの奏でる演奏や自分らの足音すら皆無。
後者の理由については瞭然としている。
現在、魔理沙と徐倫が足としているのは肉親から受けた脚ではなく、魔力の込められた魔法使いたちの翼――空飛ぶ箒だ。
焼べる燃料は操縦者の魔力のみ。エコであるが故に、耳を透き通る穏やかな風切り音だけが乙女たちの間を取り巻いている。


会話らしきものは、しばらく途絶えていた。
魔法の森からこの人間の里までの道程で目撃した燃え盛る木々の光景に唾を飲んだ時以来、ずっと。
炎に包まれた森の異常は、この殺し合いが恙無く進行している何よりの証拠だ。

あの鴉天狗が徐倫に嬉々として見せ付けてきたらしい低俗な新聞記事内容。
途中、二人を襲った謎の半裸の大男の件もある。
間違いなく、現在進行形でゲームは加速しつつあるというのが火を見るより明らかだというのに。
朝の放送で告げられた多くの訃報が、かつて類を見ないほどの超異変を示しているというのに。

何故かな。


(…………緊張感が、イマイチ湧かないってのは)


魔理沙はもう幾度目かの溜息を吐き出した。背後で肩を掴む徐倫に気取られないように、小さく。
現実感の無い絶望を未だ漠然と見つめ続けているのみの魔理沙に、恐怖心はあまり無い。
そしてその危機感の薄さこそが逆に、自分でも意識できるほどに危険とも感じている。

例えばあのワムウとかいう大男に突発的に襲われた時なんかは、それはもう怖かった。
およそ生まれて初めて自分に向けられた、この上ない本気の『殺意』だ。恐怖しない筈がない。
だが勝った。確かに二人は勝利したのだ。
その余韻は安心感へと形を変えゆき、魔理沙の心に自信と希望をもたらせた。
間に挟まれた第一回放送や、徐倫と交わした触れ合いなども経たが。
ズバリ言って魔理沙の体験したイベントはそれくらいしか挙がらない。

ちょいとアレな所もある不屈の精神を掲げる相方を除けば、魔理沙が邂逅した参加者はワムウただひとり。
徐倫だけは姫海棠はたてと会話まで交わしたと言うが、肝心の魔理沙は肝心な時に気絶していたのだからはたての姿は見てすらいない。


要は今の魔理沙には、あまりに変容が不足している。
己にもたらせるべき『変化』……経験こそが人の器を激しく変容させるのだ。良くも、悪くも。


それだけに魔理沙は少し焦り始めていた。
このまま誰にも会えず、自分の知らない所で友達が徐々に居なくなってゆく。
そんなどうしようもない環境に、恐怖を覚えた時点ではもう遅いのだ。
他人から。第三者から知己の死を知らされるのではあまりに手遅れ。
後悔を覚えるより早く、今の魔理沙はとにかく誰か知り合いに会いたかった。顔を見て安心を覚えたかった。
まだまだ会場のどこかに多くうろつく既知の顔をひと目見て「ああ良かった、無事だったのか」と、互いに肩を抱き合わせたかった。
危険そうな連中、胡散臭そうな連中以外なら誰だっていい。

魔理沙はまだこの世界にて、一人として友人に出逢えてすらいない。
それこそが彼女を焦らせる大きな要因となり、次第に口の数も減っていったのだ。
魔女アリスの家にて徐倫と交わした些細な触れ合いもあって、どうにも気まずさはある。
魔理沙の目下の課題は、とりあえずこの無風状態の空気を何とか換気したい、といった所だ。
となれば枠外からの刺激が欲しい。だからこそ彼女たちはこうして人間の里にまで足ならぬ箒を運んだ。
地図を眺める限り、この会場内では唯一人間の里が様々な施設を内包する開けた土地だろう。
必然、参加者の足は多い筈。そう当たりをつけた二人は燃える森をスルーしてまでここまで飛んできたのだった。


「……徐倫」


里内の広い街道を進んでいた時だ。
箒を空中で止めた魔理沙が短く、背後の相方の名を呼ぶ。

「なに? 誰か居た?」

「参加者だ。前方に、ひとり」

魔理沙が半径100メートルに展開していたハーヴェストによる『索敵陣形』が、進行方向に参加者の影を捉えた。
ようやっと三人目だ。徐倫、ワムウときて次なる参加者は果たして何者か。
あわよくば知った顔であるようにと、魔理沙は心中で願う。


「魔理沙!」

「おわあ!? ……ってお前、鈴仙か!」


警戒しながら周囲を探す魔理沙の隣から突然知った声が降ってきた。
驚き、箒から落ちそうになる体を支えながら相手の名前を呼ぶ。
鈴仙・優曇華院・イナバ
魔理沙からしても交流のある顔馴染みだ。

「お前、ここに居たのか……! いやとにかく無事でよかったぜ。ひとりか?」

「……ええまあ。そっちの人間は?」

「コイツは徐倫。ここで出会った参加者だ。安心しろ、信用できる相手だぜ」

兎耳の少女、鈴仙はどこか固い表情で魔理沙たちに歩んでくる。
対照的に魔理沙の表情に浮かぶは安堵。思えば彼女がこの会場にて逢えた最初の顔見知りであり、破顔するのは無理もないこと。
そして鈴仙という少女は多少頼りない性格ではあるものの、殺し合いに乗るような気性はしていない。
従って魔理沙が鈴仙を信用するのに何の疑いなど無い。警戒もせず箒から降りようとした姿勢を、しかし留めたのは相方の冷静な一声。

「待った魔理沙。……簡単に近づくな」

「徐倫……? いや、大丈夫だってコイツは。お調子モノだが悪いヤツじゃ……」

「今。あたしの目には彼女が“突然”目の前に現れたように見えたわ。あれも魔法か何か?」

「魔法使いは私の方だっての。どーせ『波長』でも弄ったんだろ?」

あくまで初対面の相手には警戒を緩めない徐倫に、魔理沙はしかめ面で返答する。

「ごめん。さっき妙なチビッこい生物に見つかったんで慌てて姿を消させてもらったわ」

鈴仙の能力は『波長を操る程度の能力』。他人の認識を弄って自分の姿を消すのは朝メシ前だ。
逆を言えば、透明状態で魔理沙たちを襲わなかったということは自分がゲームに乗っていないことの証明だと鈴仙が説くと、徐倫は素直に理解を示した。
いま自分らに早急必要なのは情報だ。会場をろくに探索出来ていない現状、一人でも多くの参加者と接触を図らなければならない。

「お前が見たっていう生物は『ハーヴェスト』だ。まあ、説明はめんどくさいから省くけど気にすんな。
 ところで鈴仙。お前、このゲーム始まってから誰かに会ったか? 私が会えた幻想郷の奴らはお前が初めてなんだ」

実際には姫海棠はたてが魔理沙と接触したが、当の本人は気絶していたので魔理沙からすれば鈴仙は久方ぶりに見る仲間の顔だ。
それほど仲睦まじい間柄でないにしても、心が浮かれる。それは魔理沙の表情にも嬉々として表れていた。


「……私のことよりも、まず訊きたいことがある。貴方たち、『ディアボロ』って男を見なかった?
 まだら模様のあるピンク髪の人間なんだけど」


一方の鈴仙はというと、その表情は変わらず固い。浮かれた魔理沙に皮肉を浴びせるように、口調は厳しく冷えている。
普段はあまり見せないその姿に魔理沙は違和感を感じ、怪訝を向けた。

「……鈴仙? どうかしたのか? なんかお前、妙に落ち着きがないぞ」

「どうだっていいじゃん。それより見たの? 見てないの?」

「……ディアボロ、だっけ? 見てない。私らがここで見たのは鴉天狗の姫海棠はたてと、えーっと……ウムウ、じゃなくて、ワーム、でもなくって……アイツなんてったっけ、徐倫?」

「ワムウ」

「そ。そのワムーだけだぜ」

「……話にならない」

ボソリと吐き棄てるように毒を吐く鈴仙の様子に魔理沙は顔を歪めた。
さっきから聞いていればこちらの質問を後回しにされ、魔理沙の心配も受け流され、挙句話にならないと一言。
徐々に魔理沙は不機嫌になり、気付けば声も荒げて鈴仙に突っかかるように顔を近づけていた。

「おい、なんだよその態度は? お前ちょっと様子が変だぞ……!」

「そこの人間と、ワムーだっけ? 後は鴉天狗が個人的に気になるけど……たった三人なの? もうすぐ半日経とうって時になって」

「お前で『四人目』だアホ! 喧嘩売ってん……」


「―――ディアボロ。アリス。古明地さとり。シュトロハイム。リンゴォ。八雲藍


今にも食って掛かろうとした勢いの魔理沙に浴びせられた、陳列者の名。
淡々と名を読み上げる鈴仙の瞳は、真っ直ぐに魔理沙を捉えている。

魔理沙の腕が、思わず止まった。


「あと電話で話しただけだけど、永り……八意様ね。それとさっき……あぁいや、何でもないわ」


いま挙げられた者の名は、鈴仙がこれまで出会った人物だ。
たったひとりで行動しているにもかかわらず、魔理沙の倍である『六人』。実際にはここに二ッ岩マミゾウの名も加わるが、相当に怯えていた当初の鈴仙の記憶には殆ど印象に残っていない。

「え……アリス? それに藍やさとりとも……」

幾つか顔見知りの名もいる。
鈴仙は自分と違ってこれだけの人数と交じり、話したとでもいうのか。
魔理沙はよく知る名前が相手の口から飛び出してきたことに、一瞬安堵し。


だが、とてつもなく嫌な予感が頭を過ぎってしまった。


「なあ……アリスはどこに居るんだ? 会ったんだろう? それに藍とかは……」


予感がしたその時にはもう、口をついていた。思わず訊いてしまっていた。
私は一体、何をバカなことを訊いているんだ?

アリスは……とっくに……


「……アリスがどこに居るか、ですって? 魔理沙、あんた……放送聴いてないの?」


次第に鈴仙の表情は険しくなる。
何か、彼女の触れてはいけない線に触れてしまったように。



「アリスは…………私の目の前で死んだわよ」



告げられた、蜻蛉の様な真実。
それは嘗ての放送などより、よほど真実味のある感情を伴って魔理沙の鼓膜に響いた。


アリスが……死んだ?
放送は勿論、聴いた。……聴いていたさ。
アリスの名も呼ばれたのを覚えている。アイツだけじゃなく、他の色んな知り合いの名前まで。
それでも私はきっと、心のどこかで事実から目を背け続けていたんだ。
他人の『死』から逃避して生きてきた私は、情けないことに友達の死を受け入れることが出来なかった。

出来なかった。
出来なかったんだ。
どこまでも『普通』の少女である私に、そんな悲劇は荷が重かった。

だのに。
おい、鈴仙。
何で、お前なんだ。
そんな聞きたくもなかった悲報を担いで持ってきたのが、何で。
何で……お前が…………何で、お前は……!


「アリスは、死んだわ」


そんな平然と、言えるんだ。
そんな顔で、突きつけられるんだ。



「……………………そ、っか」



いや。
違う。
私はなんにもわかっちゃいなかった。

平然なワケが、なかった。
鈴仙は、きっと泣いている。
鉄の仮面で隠した素性の奥底で、哀しんでいる。
そんなことにも気付かないほど、私の心は動揺していた。

いや、これもちょっと違うか。
いつの間にか私の胸倉を掴んでいた鈴仙の顔が歪んで見えないほどに。

私も、気付けば泣いていた。
鈴仙みたいな仮面は私には不釣合い。涙で前が見えなくなるくらい、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて……涙を流した。


「…………そっか……そ、っか」


友から突きつけられた実感。
初めて与えられた『試練』は、すぐに私の中の幻想を粉々に破壊した。

ようやく。
ここに来て、ようやく。
私の心に存在する永い永い迷宮の出口に、辿り着いてしまった。
虚無という名の扉を開けた向こう側、その光景を覗き込んで。
封じ込めていた『その言葉』を、私はとうとう―――



「―――アリスのやつ、死んじまったのか」



否。これは入り口に過ぎないのだろう
幻想郷のヒトの中で最も『死』を知らない子供だった私の、最初の現実。
『幻想』とは対極にある、『現実』という苦難の第一歩を。

私――霧雨魔理沙は初めて認識して。

そのまま、掴みかかられていた鈴仙に寄り添い、嗚咽をあげて。

降り始めた雨の音に、私の子供のような慟哭は掻き消されて。



―――無風だった私の世界に、硝子の割れる音が生まれた。



▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽



「……徐倫。今更になって悪い、けどさ……さっきアリスん家で私が撃った人形、もしまだあるなら……」

「……ああ、ちゃんと拾って来てるよ。必要になるだろうと思って、ね」


徐倫から魔理沙へ。
金色の髪に黒の帽子。お世辞にも達者に作られたとは言えない簡素な人形が、魔理沙の胸に優しく収められる。
今となっては持つ意味も変わってくるこの人形。全てを受け入れるにはまだまだ心の余裕が足りないが、魔理沙は現実を否定せずに一歩踏み出すことが出来た。

大好きな幻想郷。
大好きな友達。
そのひとつひとつが、飛沫となって破裂していくこの空で。
真の意味で向き合わねばならない。戦わねばならない。
まだ十代半ばの少女が胸に抱くには重すぎる決意を、少しずつでいいから。
ゆっくり……ゆっくりと。

ナズーリン
萃香。
美鈴。
勇儀。
マミゾウ。
響子。
妖夢に咲夜……アリス。

瞼の裏に映る彼女達の笑顔。もう二度と拝むことは出来ないのだろう。
九人。九人だ。一度に九人もの友達を喪ってしまった。悲しいのは当たり前だ。
ムカつく奴らも多かったが、それでも宴会であいつらと共に呑む酒の味は格別だった。
誰一人、替えなんて居ない。死んでいった奴らのひとりひとりに思い出があるのだから。
霊夢は……どうしてるんだろうな。
アイツが泣いてるとこなんて想像できない。淡白なやつではあるが、感情を溜め込まずに他人へと即発散させるようなやつだ。
今頃はプンプン怒りながら異変解決に乗り出してる頃だろう。私とは違って。

そう……私とは違って、だ。


「魔理沙。……濡れるわよ。とりあえずそこの民家の中で彼女に話を聞きましょう」


徐倫が気遣うと魔理沙はゆっくり立ち上がり、雨と涙で濡れた顔をゴシゴシと腕で拭う。
やっと出逢えた情報源ともいえる顔見知り。訊くべきことは大いにある。
屋根のある所で腰を落ち着かせる前に、魔理沙がこれだけはと鈴仙に質問する。

「なあ鈴仙。アリスを殺した奴がお前の言ってた『ディアボロ』って人間なのか?」

その名が魔理沙の口から飛び出した瞬間、鈴仙の兎耳がピクリと揺れた。
鈴仙は黙ったまま顔を俯ける。悲しんでいるのか怒っているのか、その心情はよく掴めない。
無言をイエスと受け取った魔理沙も拳を硬く握り締めた。
アリスを殺した下手人が今もどこかで友達の命を奪っている。そう思うとやりきれない感情が胃の中から沸いてきそうだ。
そしてそうであれば鈴仙の今の気持ちも理解できてくる。彼女はそのディアボロを殺すことで、アリスの仇を討とうというのだろう。

だがそれだけだろうか。
どうも今の鈴仙にはアリスの仇を討つという感情だけではない気がする。
上手くは言えないが、何となく鈴仙にとって大切な『別のナニカ』を追い求めているような……そんな風にも見えた。

「……お前の気持ちは分かったぜ。とりあえず積もる話もあるだろうし、どっかの民家で色々と……」

「―――いえ。悪いけど今はそんな悠長に腰を下ろしてる暇は無いのよ。最低限の情報だけ話し合ったら、私はもう行くわ」

しかし魔理沙の声を振り切るように、鈴仙は睨みつけるようにハッキリと言った。
予想外の返答に魔理沙は言葉が出ず、代わりに徐倫が一歩前へ出て物申す。

「待ちなさいよ。自分が欲しい情報が無いと分かった途端、ハイさよならってのは随分身勝手じゃない?」

「あの男は今弱っている。叩くなら今しかないの。それにこっちも大した情報なんて持ってないわよ」

「待て待てそんなわけあるか。少なくともお前はさとりとか藍に会ってんだろ? 特に藍には私も会っておきたいし、場所くらい……」

妙に焦っている鈴仙の姿に困惑しながらも魔理沙は彼女を留めようとする。
八雲藍はあの八雲紫がそこそこ頼りにしている腰巾着。魔理沙としても出来るだけ早目に会って協力を仰ぎたい人物である。


「八雲藍はゲームに乗っているわ。私もレストラン・トラサルディーであの女に襲われた」

「――――――は」


期待と反し、冷たく発せられた言葉。
単なる事実を淡と述べる鈴仙に対し、それを聞いた魔理沙の表情は呆気に取られたというものだ。
徐倫は藍という女を知らないが、二人の会話を聞いて事情は何となく察することが出来た。故にその表情は更に固く引き締まっていく。
一方で魔理沙は藍をよく知っている。だからこそあの堅物が殺し合いに乗っている現実が信じられない。

「……魔理沙。アンタ本当にこのゲームの“怖さ”、未だに分かってないのね」

鋭い目つきで語る鈴仙の姿が、今の魔理沙にはとても遠くの存在に見える。
ゲームの“怖さ”を分かってないだって? そんなワケがあるか。
あの森で戦った風を操る戦士。今まで味わったことのない恐怖と絶望だった。
ついさっきも心で受け入れたばかりだ。身近に居た者の『死』を。喪う『恐怖』を。

「……馬鹿、言えよ。私は……」

「魔理沙。アンタが思ってる以上に、この殺し合いは加速し続けているわ。……最悪の方向に」

クイ、と。
鈴仙の親指が一方向を指した。
そこにあるほんの十数メートル先に立っていた物は……


「な、なんじゃコリャーーーーッ!?」


どこにでも見かけるような『街角掲示板』。人間の里にもいくつか点在している普通の看板であった。
鈴仙に促されるままにその看板を覘いた魔理沙の第一声は、雨天にもかかわらず街道に大きく拡がるほどの驚愕。


「ど、どうしたってのよ魔理沙。急に素っ頓狂な声出して…………って、なんじゃコリャーーーーッ!?」


釣られて掲示板を覘いた徐倫の第一声も魔理沙と同じもの。
両者は二人して、道の脇に立つ掲示板に両手を着けて大口を開けている。
その内容はといえば、通常の人間の里に貼られる様な俗世の掲示物とは趣から異なっており……


―――花果子念報第一誌『ガンマン二人の決闘風景!』

森の中、拳銃を構えて相対する二人の男。
徐倫も魔理沙もその二人を知らなかったが、徐倫だけはこの『記事』をよく覚えている。
間違いない。あの鴉天狗が嬉々として徐倫に見せ付けてきたカメラ内の記事だ。
心臓を撃たれた男の死体。死者への尊厳も何も感じられない、ただただ不快を募るばかりの新聞である。


そして、次。

―――花果子念報第二誌『女の対決!? 空条徐倫への直接インタビュー!』

記事内写真には、横に居る相方同士が互いにクロスカウンターパンチを放つ瞬間。そしてその後二人がノビている間抜けな痴態。
もはや言うまでもなく、忘れようもない自分ら二人の“最低のファースト・コンタクト”がまざまざと描かれていた。
間違いなく『あの時』の事件だ。徐倫への馬鹿げたインタビューも載せられているが、もちろん掲載許可など出した覚えはない。
徐倫も魔理沙も、ハッキリ言って「ふざけんな」と憤慨するしかなかった。最悪だあの鴉天狗。


そして、次。

―――花果子念報第三誌『八雲紫、隠れ里で皆殺しッ!?』

魔理沙のよく知るスキマ妖怪が猫の隠れ里で起こした大立ち回り。
腕だけマッチョ男の方は会ったこともないが、殺された星熊勇儀魂魄妖夢は魔理沙もよく知るところだ。
それだけに、被害者の名にも加害者の名にも驚きしかなかった。
この記事を見れば八雲藍がゲームに興じているという鈴仙の証言も真実味を帯びてくる。


そして……最後。

―――花果子念報第四誌『博麗霊夢空条承太郎再起不能か!?』


「霊夢ッ!?」
「父さんッ!?」


徐倫と魔理沙にとって大事な人間の名前が、大きく見出しに取り沙汰されている。
写真に写るその姿は、あられもない状態であることを除けば間違いなく空条承太郎と博麗霊夢その人だ。


「……は、『博麗霊夢および空条承太郎両名は、紅魔館での戦闘で敗北して重傷を負い、絶命寸前であった所を自動車に乗った仲間に救出されたと見られる』……!?」

空条承太郎。
徐倫の知る限りでも、その凄まじい強さに肩並べる者ナシと呼ばれた最強のスタンド使い。
そして、命を賭して自分を救ってくれた……最愛の父親が。

「……『博麗霊夢、空条承太郎は、今まさに風前の灯の状態にある……幻想郷そのものの命運が、一つの大きな試練に晒されている』……な、なんつーこっちゃ」

博麗霊夢。
魔理沙が最も信頼を置き、その圧倒的な能力とムダに鋭い勘で全ての異変を解決してきた最強の巫女。
そして、生来のライバルを勝手に誓った……誇りある友達が。


【博麗霊夢】   ―――再起不能
【空条承太郎】  ―――再起不能

   『両二名:生死不明』


「「――――――っ」」


声が詰まった。
吐き出すべき言葉が見つからない。

空条徐倫にとって、空条承太郎という父の存在は複雑だ。
娘である自分をロクに気にも掛けてくれないクソ親父。つい最近までの彼女の認識は、そんな愛に飢えた灰色の間柄だった。
だがそうではなかった。彼はどんな時も、いつだって自分を気にしてくれていたこの世でたった一人の“父親”であった。
そしてその瞬間から承太郎の背中は、徐倫にとって常に追い求めていくべき温かな愛であり、また最強の正義そのものであったのだ。
父は自分のせいで心を奪われた。有名ゆえに敵も多かったであろう父は、あろうことか自分を利用されて罠にかけられてしまう。
だから徐倫は刑務所の中で強くなることを決意する。彼女が見つめる先には、いつも父の背中が立っていたのだから。

―――その父親が、敗北した。


霧雨魔理沙にとって、博麗霊夢という友の存在は複雑だ。
いつから一緒につるんでいただろうか。それすらも思い起こせないが、少なくとも知り合って最初の頃の霊夢を魔理沙は好きではなかった。
あらゆる意味で“普通の少女”である自分だからこそ努力は怠れない。人知れず魔法の研究を行い、どれほどの失敗を積み重ねても魔理沙は努力し続けてきた。
影での尽力を魔理沙は決して誰に言うこともなかったが、同年代である霊夢は魔理沙のそんな努力の壁を容易に飛び越えていくのだ。
“天才”と“凡夫”の境界線はいつしか魔理沙を焦らせ、かつては嫉妬していた時期もあった。
だが霊夢は誰に対しても平等であり、他人を見下すことは絶対になかった。その淡白ともいえる性格が、かえって魔理沙の心を次第に惹きつけた。
これは絶対に霊夢には内緒だが、魔理沙にとって博麗霊夢は『目標』だ。自分が越えて行くまで、霊夢が誰に負けることもありえないし、見たくもなかった。

―――その友達が、倒された。


「配信時間は『午前9時55分』……ついさっきよ」


言葉を失う二人に鈴仙は眉をひそめて言う。雨が地に降る打鍵音のみがしばらく世界に響いた。
魔理沙より早く呆然から立ち直った徐倫は、冷静になってこの記事の重要性を見直していく。
筆記者は姫海棠はたて。とても信用ならない人格と記事ではあったが、これに載っている真偽は完全なデマとは言い難い。
写真に写る承太郎は間違いなく我が父親であり(気のせいか少し若い気もするが)、現在進行形で絶命寸前。緊急を要する案件だろう。
その上どうやら追手の存在もあるらしく、ウカウカしていたら二人共々殺されてしまうという状況だ。

徐倫にとっての承太郎。
魔理沙にとっての霊夢。
それぞれ『最強』の二文字を背負う彼らに憧憬のような念を抱いていただけに。
彼女達の『目標』は粉々に崩れ去ったという事実にショックを隠しきれない。

我々が思ってる以上に、この殺し合いは最悪の方向に加速し続けている。鈴仙の言葉は実にして的を射ていた。



「魔理沙」



ギリリと拳を握った徐倫の眼に、既に迷いは浮かばない。
大海のような力強くて吸い込まれそうな瞳が、相方の少女を波立てる。



「ああ」



一歩遅れて、名を呼ばれた少女も。
未だ困惑の気持ちは隠しようもないが、その瞳に宿るは流星のように真っ直ぐで穢れのない光条。

互いの気持ちなど、口には出さずとも自ずと理解する。
二人の意識はここに同調した。

己の認識が甘かった。確かに認めるしかない。
最強のスタンド使いと最強の巫女。
かの有名な二人が同時に敗北したのだ。事態は深刻であり、時間が迫ってきている。
―――取り返しのつかなくなる、考えられる限り最悪のリミットが。

徐倫も魔理沙も、本格的にこのゲームと向き合う時が来たのだ。
二人が目指すべき地点は。見据えるべき目標は。

言うまでもない。



「行くぞ」
「行くぜ」



先程までとはまるで違う、乙女達の煌びやかな瞳を覗いて。


(―――綺麗、だな。……私とは違って)


傍で見ていた鈴仙は、心中でほんの少しだけ羨み。


「魔理沙。少しだけ時間、頂戴。……話があるの」


何かを決するように、その背中を止めた。



――――――そよ風が、吹き始める。



▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

『空条徐倫』
【昼】E-4 人間の里


魔理沙を連れて行かれた徐倫は、手持ち無沙汰で掲示板を確認する。
通常の立て看板ではなく、電子媒体が利用された所謂『電子掲示板』。ネットワークにアクセスし、会場の何処かにいるはたての新聞がリアルタイムで配信されるらしい物だ。
ブン殴って破壊してやろうかとも考えたが、一応これでも情報収集の源にはなる。現にこうして徐倫は父の窮地を知ることが出来た。
もっともこの記事、無駄に読者への不安を募るだけで肝心の追跡者グループに関しての情報がほぼ省かれている。
まるで承太郎や霊夢の死を背中押しするかのような誘導内容。今度あの鴉天狗に遭ったら絶対にタダじゃおかない。

徐倫らの目的など言うに及ばず。当然、承太郎・霊夢の早急なる救出だ。
この記事もついさっき配信されたばかりのもの。彼らは紅魔館周辺を逃走しているとの事で、急げばまだ間に合う筈なのだ。
言われてみれば首の後ろの『星型のアザ』。会場内に幾つもの反応があるので意識しなければ気付きにくいが、その反応のひとつが極端に弱まっているのを感じる。
そして徐倫には痛切に分かるのだ。今や虫のように弱々しいこの反応がまさしく父の発する救援信号だと。
親子の絆。肉親にしか分からない繋がりが故に、余計に徐倫を焦らせる。

「……遅いわね魔理沙たち。時間が無いってのに」

鈴仙に話があると席を外された魔理沙。
折角会えた同郷の友人だ。急いでいるとはいえ徐倫もそれを止めるほど野暮ではない。

どことなく嫌な予感がするのは、先程から更に感じる『もうひとつの星のアザ』の反応のせいだろうか。


「……近い。すぐそこまで来ているぞ」


ひとたび意識すれば、その感覚は頭から離れない。
来る。アザの反応を持つ者が、里の入り口……北からやってくる。
気にはなるが、正直いまの徐倫にはあまり会いたくないタイミングであった。
同じ血族の人間かもしれないし、最悪あのプッチ神父もありえる。
どちらにせよ、会ってそれでサヨナラとはいくまい。時間の無駄とは言わないが、確実に父救出への出発は遅れるだろう。

魔理沙はまだなのか。アザの反応者とは方向が違うので彼女らがカチ合うことにはならないだろうが。






――――――ふわり。






くすぐったい風が、優しく髪を撫でた。

思わず空を仰ぐ。
今まで鼓膜を打っていた雨音はいつの間にか止み、雲の隙間から陽光が射す。

あぁ、晴れやかな心だ。
凄惨であるはずの舞台の上だというのに、徐倫は不思議とそんな清々しい気持ちになる。
何故だろう。
それはきっと、このどこか懐かしさを覚えるそよ風が、まるで遠き子供の頃に触れた父親の手のように愛情塗れていたからだろう。

空条徐倫は知っている。
この木漏れ日のような風を。
この春風のような気持ちを。

空条徐倫は求めていた。
この新緑のような青空を。
この赤虹のような情熱を。



(――――――あ、)



求めていた。求めようとしていたのだ。
だが彼女には使命があった。
因縁に根付く己の宿敵を倒すという、血族の運命<さだめ>が。
個人的な感情に振り回され、目的を見失う愚行は許されない。
だから前へ進んだ。託された意志を胸に秘め、仲間達と共に。

しかし、今。
かつて失ったあの『風』が。
飢えた愛情によってポッカリ空いてしまった心の穴を、埋めてくれたあの『風』が。
再び目の前に。
腕を伸ばせば届く場所へと吹き荒れてきたのなら。



果て無き風の軌跡さえ、掴むことが出来たのなら。


「――――――ウェ、ザー…………」


それを人は、『奇跡』と呼ぶのだろう。




――――――ふわり。



再び、一陣のそよ風が吹き抜ける。

気付けばそこには、男がいた。


「ウェザー…………あたし、あたし……っ」


逢いたかった男がいた。
“あの時”、ひょっとしたら自らの過失のせいで死んでしまったかもしれない男が。
徐倫にDISCを託し、その魂を天に還らされていった男が。


今、再び自分の目の前に。


――――――現れた。


「ウェザー……! あたし、もう一度……こんなそよ風の中で、貴方と話がしたかった……! そして――」


―――訊ねたかったことがあった。

貴方の心は最期に、本当に救われたの?と。
貴方が刑務所を脱獄してからあの瞬間まで、その時間は幸福だった?と。

心の中では後悔していた気持ち。彼にもう一度会って、確かめたかった。
体面では気丈なフリをしていた。しかしその実、徐倫の心は罪悪感でどうにかなりそうであったのは間違いない。
彼女の心は、その精神性を纏めて形容するなら『糸』。幾重にも編み込まれて頑丈な殻を形成した石の編糸だ。
だがひとたび一糸解れれば、露わになるのは歳相応の少女性。内面を突けば容易に傷付く脆き綿だ。

平気である筈もない。
単なる仲間として以上の感情を抱いていたかもしれない男の、その悲劇的な末路へと自ら押し込んでしまったとあれば。
まだ少女である徐倫の、綿のように脆く未完成な心が、易々と耐え切れず筈もなく。
だからこそして徐倫はもう一度彼に会って、訊き質したかった。訊いて、苦しみ続ける自らの心も救われたかった。

永遠に閉じられた選択肢。
本来は絶対にありえなかった奇跡が、IFが、そよ風の起こした軌跡にふわりと乗って。
今、目の前に。
夢ではない。まやかしでもない。
ジンジンと疼く首のアザがそれを如実に囁き続けていた。
目の前に現れたこの男は。
徐倫の目の前で死んでいった、ウェザー・リポートそのものの姿だ。
もう二度と逢えないと絶望した、届かぬ蜃気楼の中に消えていった、孤高の男の姿だ。


―――ああ、もしこの世に神サマがいたのなら。






「――――――ねえ、ウェザー。……どうして、どうして何も言ってくれないの?」






雨が、止み。
風が、吹き。
光が、射し。

まるで春の草原のように心地よい空間の中、徐倫だけが言葉を生んでいた。
ウェザーは徐倫と10メートル離れた場所で、言葉なくこちらを見据えるのみ。
お互い感動の再会であるはずだ。色々と話さなければならないこともある。
すぐにでも駆け寄って、身体を抱き合わせたい。
徐倫の、少女のような衝動は、そこで阻まれた。


思い起こされた、あるひとつの『仮説』に。


魔法の森で……そう、確かあのワムウの襲撃直前での魔理沙との会話だったか。
―――死んだ人間までが参加者に居る『謎』。
―――時間軸の『ズレ』。
『自分の知っている奴が自分の知るそいつではないかもしれない』
『自分を知っているはずのやつが自分を知らないかもしれない』
魔理沙はそんな突拍子のない仮説を吐き出した。過去に敵対していた人間が居るのなら、会場に居るそいつは敵である時代から送られてきたのかもしれない、とも。


徐倫はふと、思い出した。思い出すことができたのだ。
普通なら一笑に付せるか、イカレちまったのかと頭の心配をしてもおかしくはない法螺話だ。
しかしあくまで可能性の一つとして頭の片隅には収めていた。徐倫とて今や屈強なる戦士。起こり得る事態は予想していなければならない。
魔理沙の功績と言ってもいいだろう。過ぎった『最悪の可能性』が、徐倫の心に一抹の警戒心を生み出した。
徐倫は過去にウェザーと直接的な敵対は無かったとしても、彼が『不安定』な状態に陥っていた時期があることはその体験を通して知っている。
知っているだけだ。実際にその状態のウェザーと会ったわけではないし、話したことすら無かった。


だからこれは徐倫の持つ、育まれた歴戦の『勘』だったのだろう。
その仮説が頭に過ぎった瞬間。
ひとひらの風が髪をなびかせた瞬間。
思わず、と言って良いのかもしれない。反射的に徐倫は顕現させた。

己自身ともいえるヴィジョン――『ストーン・フリー』を。

そしてそのタイミングは、完全に合致してしまう。
神が示し合わせたとしか思えぬ機が、通り過ぎる風のように取り巻く形で。



目の前のウェザー・リポートも、徐倫と全く同じタイミングで『もう一人の己』を顕現させた。




あぁ、と。
徐倫はその瞬間、全てを理解したように瞼を下ろし。
そして何かを諦めたように、震えながら息を吐いた。

いつの間にか頬に感じていた生温さ。
その源となって伝う雫をひとつ、腕で荒く拭って。
露わになっていた綿の心を、もう一度強固な糸で縫い直し。
瞼を開けると同時に、スイッチを入れる。





降っていた雨は、何故だか止んでいた。
代わりに、辺りに舞っていたそよ風が一際に荒れ始めた。





▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽


シトシトと降り頻る雨から身を隠す様に、魔理沙と鈴仙は里の大きな柳の下に寄り添う。
少し、徐倫から離れ過ぎではないか。魔理沙の抱くそんな憂心は、目の前の友人の沈痛な面持ちによって掻き消された。
話があるといって連れ出されたものの、鈴仙の瞳はどこか重い。先程までの鋭さとはまた違った感情が渦巻いているようだった。

こちらとしても気になることは多くある。
ディアボロなる男についての詳細。
八雲藍がゲームに乗っていることへの真偽。
あの新聞記事の最後に載っていた写真には、どういうわけか放送で呼ばれた『十六夜咲夜』の姿もあった。
戦場を轟々と駆け巡る情報という名の陣風が、現在の魔理沙には実感不足。足りなさ過ぎる。
あのブン屋の陳家な新聞掲示板も、情報の拠り処として頼るにはあまりに信用が無い。
だから魔理沙はこの危急の事態であるにもかかわらず、鈴仙の『話』とやらに付き合うことにした。


「で、話って何だ鈴仙。私としちゃあ、こっちが訊きたいことだら―――」

「―――あの人間の女、どういう人なの?」


これだ。こちらの話を聞こうともせず遮り、自分本位の話題を引き出す。
切羽詰っているのは鈴仙も同じらしいが、この身侭な態度に魔理沙は良い顔で返事するなどとても出来ない。
自然にその表情は苛立ちに塗れる。

「……あいつは空条徐倫。出会いの顛末は言いたくないから絶対言わないが、何だかんだで色々仲良くやってる。性格以外は悪い奴じゃねえぜ」

極力、不機嫌を抑えて出せた声色だったと思う。
えらく抽象的な質問だったのでこちらも無難な内容で答えたが、鈴仙の言う『話』とは彼女の事だったのだろうか。

「そう…………」

それきり鈴仙は口を閉じ、雨の音のみがこの気まずい空間をしばらくの間支配した。
鈴仙の意図が読めない。何かを思案する風ではあるが、魔理沙には波長を操る能力など持ち合わせていないので彼女の感情がイマイチ掴めない。
数秒、十数秒経ち、そろそろこっちの質問タイムに移っていいかを提案しようと魔理沙が口を開きかけたその時、


「……ねえ魔理沙。あの女の人は……いえ、貴方達はどうして戦いに行くの?」


おずおずと鈴仙が、口に出す。未だ踏ん切りの付かない、迷いと憂いを含んだ疑問であった。
何を訊かれるかと思えば、その答え置かれる処などあまりに明快。故に余計に混乱する。

「それは霊夢や徐倫の親父が死にかけてることについてか? いやそりゃ訊くまでもないだろ」

「あなたにとって霊夢が大事な友達だから? だから助けに行くの?」

何を言っているんだろうコイツは。それはわざわざ言わなきゃならない事柄なのか。
魔理沙がそんな疑問を浮かべる。鈴仙にだって大事な存在の一人や二人居るだろうに。

「当たり前だろ? お前にとっても霊夢は知らない仲じゃないだろ。私からすればアイツとは腐れ縁、尚更だ」

「……新聞に載ってた黒焦げの男。あれは……徐倫さんのお父さん、なんだっけ?」

「らしいな。身内の危険が迫っている……当然、娘の徐倫は焦るだろうぜ。
 私は親に勘当されてるし正直ピンとは来ないが、普通は家族が死にそうだってんなら穏やかじゃいられないだろ」

「家族……お父さん、か」

ボソリと呟き、鈴仙は俯いた。
家族に思うところがあるのだろうか。魔理沙は別段、鈴仙の家庭関係について興味は無かったので、彼女の持つ家族愛などは未把握だ。


「―――お父さんとか、お母さんとかって……どういう存在なのかな」


感情の底に溜まった澱みを吐き出すように、鈴仙が漏らす。
言ったように、親に勘当を受けた魔理沙からすれば耳の痛い言葉ではある。
本人からさらりと聞いただけだが、徐倫も父親の愛情をほとんど受けずに育ったも同然だったという。

親が自分にとって如何なる存在か?
答えなど千差万別なのだろう。育まれた環境によって親に対する子の気持ちとは年月と共に変化していくことだってある。
眩い感情か、暗なる感情か。すぐに答えを出すには難しい問いだ。
ましてや自分に向ける質問などでは決してない。鈴仙が明らかに相談相手を間違えているのは明白だ。


「あー……お前ンとこは親、居ないんだっけ?」

「居ない……んだと思う。少なくとも私の記憶にはそういう相手が居たなんてモノは無いわ」


何とも曖昧な答え。
人間である魔理沙には勿論父があり、母がある。
しかし妖怪や神にとっては必ずしもその限りではない。人間の恐怖や信仰から世に具現化する存在こそが妖怪であり、初めから家族が居ない妖怪なんてザラだ。
もっとも妖怪の誕生する起点などそれこそ千差であり、一概にそういった枠に当て嵌める事も出来ない。

鈴仙は親に対しての記憶が無いのだという。
本人にその記憶が無い以上、また鈴仙が月出身の妖獣である以上、魔理沙には彼女の親への明確な指摘は不可能。
となればこれは本人の問題であることがその悩みの大部分を占める。
鈴仙がこの殺し合いの中、どうしてそのような悩みにブチ当たったのかは興味があるが、残念ながら魔理沙では悩める彼女を導けそうにない。
徐倫へ訊いた方がまだマトモなアンサーが返ってきそうであった。

「私……ちょっと羨ましいな、って思っちゃったのよ。……あの人間のこと」

「徐倫が?」

「うん。父親の為にあれだけ必死になれる。あれだけ覚悟を固めながら瞳を燃やしている。
 あの記事を見て歩みを止めない彼女の目を見て私、綺麗だなって感じた。だから……」



「―――私には無いその感情を燃やせる貴方達を見て、凄く羨ましかった」



隠し持ってきた感情を吐露した後に、鈴仙は再び口を閉じる。
サアサアと雫打つ雨音が、今だけはどこか救われるようだった。

鈴仙の赤い瞳の奥に宿るは『孤独』。静かに寝静まった、途方もない薄寂しさが魔理沙の胸を抉った。
身に覚えがないわけでもない。魔理沙とて、家を飛び出した直後には似たような侘しさがあった。
それでも心のどこかには、かつて与えられた家族愛という温もりが籠っていた。
愛はやがて魔法使いになるという夢に燃べられ、己の成長の促進にもなった。

だが鈴仙は。
初めからそんな愛を受け持たなかった鈴仙は、何を依り処にして生きることが出来たのか。
少し考え、簡単に答えは出た。
永遠亭。今の彼女には温かな居場所が存在するではないか。
あの薬師や月の姫たちに与えられた温かな居場所は、ひとえに『家族愛』に成り代われるただ一つの依り処ではないのか。
魔理沙は普段の鈴仙たちを見ていて、純粋にそう思った。


「……お前、永琳とか輝夜とかてゐには会わなかったのか? あいつらだってきっとお前のこと探し回って―――」

「―――今の私に『家族』は居ないわ。……居ないのよ」


何か迂闊なことを言ってしまったのかもしれない。
魔理沙がそう後悔してしまうほどに、今の鈴仙の言葉は苦痛に塗れた吐露に聴こえた。

地雷を、踏んでしまった。

魔理沙もそこまで気が回らない人物ではない。
永遠亭の人物が放送で誰も呼ばれなかったのをしっかり心に留めていたし、先程聞いた鈴仙がこれまで会った人物の話の中にも居なかった。
だから魔理沙は、当然の如く鈴仙は永遠亭の人間も探しているのだと思い込んでいた。

だから、思わない。
今の鈴仙にとって、永遠亭の人間の名が――特に永琳の名が、地雷になるとは誰も思わない。


突如、魔理沙の視界が反転した。


「―――!? ぐわ……な、何だよッ!?」


気づけば自分の体は冷たく濡れた土の上に転がっている。
魔理沙が対応する間もなく、鈴仙からあっという間に組み伏せられていた。
マウントポジションを許してしまった魔理沙は激しくもがいて解こうとするが、両肩をガッチリ掴まれて抜け出せない。

「お、おい!? なんかの冗談かこれは! どけよ鈴せ……」

魔理沙が抗議を上げかけた丁度その時、更なる異変を察知。
周囲円形100メートルに展開させていた『ハーヴェスト』による索敵陣形、その北方から一匹の哨戒が大慌てで戻ってきた。
敵襲か、はたまた味方か。とにかく敵影は『一人』。方向からして、まずぶつかるのは待機させていた徐倫だ。

「誰か来る……!? おい鈴仙! 気に障ったのなら謝るから、とっととそこ退いてくれ!」

「……ごめん」

鈴仙の口を突いて出たのは謝意。
その表情に浮かぶは、心底すまなそうに淀む物悲しさ。瞳の奥には今なお孤独の灯が小さく揺らめいている。

―――嫌な予感がする。

魔理沙が直感と同時、マウントポジションを奪い返そうと新たなハーヴェストを顕現させた瞬間。
鈴仙の赤い瞳が、更に紅く、晴嵐の如く霞む。


「―――波符『赤眼催眠(マインドシェイカー)』」


しまった……!
『二手』遅れたと気付いた時には、魔理沙の瞳には既に鈴仙の瞳が映っていた。
『視た』。視てしまった。
鈴仙は狂気の瞳により相手の脳を狂わせることができ、マインドシェイカーは瞳を覘いた相手の精神を狂わせるというもの。
永遠亭での死闘を経て、鈴仙は自分の能力がことスタンド使い相手には特攻の効果を貫くことを知った。
魔理沙がハーヴェストなるスタンドを操っていた光景を見て鈴仙は、彼女も自分と同じ『DISC』による能力を得たと即座に確信。
すぐさまそのスタンドを封じる手を執行する。

「ガ、ァア……!? お、まえェ……れい、せん…………っ!!」

「ちょっとだけ静かにしてて。……大丈夫、大丈夫だから」

波長を狂わせられたことにより、魔理沙の精神エネルギーであるハーヴェストは残らず全て掻き消された。
とはいえディアボロの時とは違い、鈴仙が施した攻撃は極力脳に損傷を与えない程度に軽減させた手加減。あくまでスタンドの無効化のみを狙った一手であった。

「れ……せ、ん…………っ! なに、を……ッ」

「アリスは、逝く前に私に言ったのよ。『幻想郷の皆が一人でも多く生き残れるように、貴女の力で守ってあげて』、って。
 それが彼女の最期の意志。私はこの言葉を出来る限り叶えたいと思ってる」

ベッドの上で冷たくなったアリス。彼女の言葉を聞き入れる最後の手段となった『木人形』の胸に泣きつく鈴仙。
そんなアリスだったモノの口から届けられたのは、果てなき愛郷心とでもいう願い。
鈴仙の最優先はディアボロに間違いないが、アリスの想いを成就させることで彼女の魂はきっと浮かばれる。
だから鈴仙は、迷い道迷いつつも幻想の民を可能な限り、その力で守っていくことを決心したのだ。

どんな手を使っても。
その為には、たとえそれ以外の人間がどうなろうとも。
空条徐倫が魔理沙にとって如何なる関係の人物であろうとも。


魔理沙を守るためならば、鈴仙は徐倫を贄に差し出すことだって厭わない。


「よく聞いて魔理沙。……気の毒だけど、あの人間の女は諦めて欲しいの」

「……!?」



告げられたその言葉と同時。

どこからか、音もなくそよ風が吹いた。

嵐の前のような、不吉なる静けさを伴った風だった。



▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

『鈴仙』
【十数分前:昼】E-4 人間の里


今では『家族』と呼べるかもしれないあの人から『縁』と『名前』を剥奪され、流浪に彷徨うこととなった鈴仙。
目的であるディアボロの足跡は完全に見失った。今の彼女の姿は、当てなく漂う流離い兎。


「……北から誰か来る。精神の波長は……揺れが激しく荒々しい。『乗ってる』前提で接触してみるわ」

「危険人物なら回避するという手もあるが?」


里の出入り口で今後の方針を思惑する彼女の長き耳に反応が出た。
周囲の波長を察知する探索能力を持つ鈴仙。こうして常に気を張ってさえいれば、開けた土地で一方的に相手を補足するのはわけない。
『シュトロハイム』の意見も尤もであるが、参加者との接触は一向に掴めないディアボロの手掛かりを得る些細なチャンスでもある。
その旨をシュトロハイムに伝えると、彼は無言で頷き素直に鈴仙の『紙』に入っていく。
八雲藍の時にも試したが、紙から不意打ちのようにシュトロハイムを飛び出させる戦法は中々功を奏していた。
だからまずは一人での接触。状況を見てから手段を選んでいく。
時間の無駄ゆえ、なるべくなら戦闘は回避したい。危険人物と遭遇した場合、彼女の基本的なスタイルは『逃走』に決めていた。

周囲の波長を弄り、第三者からは自分の姿が見えないよう調整する。
実質的な透明化。短時間での使用なら制限下でも問題なく使用可能らしい。
民家の陰に身を隠し、じわじわ迫ってくる人影を、息を潜めて待つ。

相手は人間の男だ。ウールの様な帽子を被った壮年の男で、日本人ではない。
曇天の様な雨雲の下、ゆらゆら揺れ動く蜃気楼みたいな男だというのが、鈴仙の感じた第一印象。
心ここに非ずではないが、その瞳は何処か果てなく遠い場所を見つめているようで、一見してただの人間では無いことがわかる。


「そこの男。止まりなさい」


リンゴォの時と同じく、物陰から半身のみ覘かせて指先を相手に向ける。
背後から声をかけられた男は、振り向くことなく足を止めて鈴仙の言葉に耳を傾けた。


「あなたに訊きたいことがある。おかしな真似さえしなければ私はあなたに何も―――」


交渉の綱を握ろうと鈴仙が内容を喋り掛けた―――その、次の瞬間に二人は既に動いていた。
刹那とも言うべき瞬間であった。紡ぐ言葉を途中で切り、機を制することが出来たのは月の兵士・鈴仙。
彼女は語り掛けていた目の前の男を視界から即座に外し、腕を構えながら自分の後方を翻った。
一見すると何も無いその空間に鈴仙は、迷うことなく指先からの弾丸を乱れ撃つ。

「…………ッ!」

空気を吐き出し、焦るような呻き。その出所は、鈴仙の視線の先。何も見えない宙空からだ。


「―――おかしな真似さえしなければ何もしない……って続けようとしたのに。人の話は最後まで聞きなさいよ」

「……よくわかったな。俺の『本当の居場所』が」


低い声色と共に宙空からぼんやりと姿を現したのは、今しがた鈴仙が後ろ取った筈の男。
肩に手を当てながら息を乱しているのは、先の攻撃が一発貫通したからだろう。見ればその手には『拳銃』も握られている。
鈴仙が矢鱈に撃ちだした指先の弾幕は、男の操る『ヴィジョン』に全て叩き落とされていた。
それを見越した上で鈴仙が放っていたのは、右眼からのレーザー光線・イリュージョナリィブラスト。
牽制である弾幕と混ぜ込んで撃った本命のレーザーが、男の操るヴィジョンの拳を潜り抜けて敵に命中したのだ。
負傷の衝撃で、男の纏っていた『術』が消失し、その全容が再び露わになる。

「蜃気楼みたいな男だとは思っていたけど……まさか本当に『蜃気楼』を纏っていたなんてね。それもスタンドの力なのかしら?」

「……」

膝をつく男を見下ろしながら、鈴仙はなんてことないように余裕を持つ。
敵の能力の正体こそ謎だが、自分と似たようなまやかしを目撃した故におおよその見当は付けられた。

蜃気楼。
密度の異なる大気の中で光が屈折し、本来の位相からズレて物が見えてしまうという現象だ。
この近距離で蜃気楼現象が起こるなど普通はありえないが、事実さっきまで鈴仙が行っていた透明化も似た理屈。
加えて鈴仙は周囲の波長を読み取る気配察知能力も併せ持つ。通常の人間とは違う波長を持つシュトロハイムにこそ通じなかったが、彼女は謂わば歩く索敵レーダー。
対するこの男は『スタンド使い』。光を曲げるなどの能力によりあらかじめ姿を隠していたらしいが、いくら位置を誤魔化そうとも、同じ土俵で鈴仙が遅れをとることは無い。


「『本当の居場所』……って言うのならこっちもその台詞、ソックリ返したいわ。
 私の方もあらかじめ姿を消してあなたに近づいていた筈なんだけど、どうやって接近に気が付いたの?」

「さあな……お互い似たような能力同士、ここは手品のタネ探しに勤しもうぜ」


同じ土俵。そう、両者はこの人間の里内にて、全く同じ状況で互いに接近を許していた。
二人が二人とも我が身を透明のヴェールで隠し、隙を狙って近づいた筈なのだ。
鈴仙が男の『本当の居場所』を察知できたのは索敵レーダーのおかげだが、じゃあ透明化して近づいた鈴仙に男が最初から気付いていた風なのは何故だ?
単に男が常時蜃気楼を纏って身を隠していたと言えばそれまでだが、蜃気楼や光の屈折のみではこっちが探知された説明をつけるのは難しい。
この相手のスタンド、未だ謎は多い。


「動かないで。……その拳銃も渡して」

「……どうやら素直に従うしかなさそうだ」


握っていた拳銃を、男は案外素直に手放した。
地面に捨てられたそれを、鈴仙は相手から目を離さずに拾う。弾は装填されたままだ。

さて、男の処遇はどうするか。簡単に質問に答えてくれるような奴には見えない。
問答無用で襲ってくるような危険人物……生かす価値は、ゼロ。
幻想郷の民ならともかく、おそらく男は『外の世界』の人物。鈴仙からすれば殺しても問題ないような存在だ。
イニシアチブはこちらにあるが……いや、やはり始末するべきだ。
危険人物とはなるべく関わりたくないのも本音だが、殺せる内に殺しておいた方が後の危険の芽は減る。


「いや……悪いけどやっぱりあなたには死んでもらう。来世では人の話を聞ける人間に生まれ変われるよう祈っておくわ」


こうして鈴仙はあっさりと、冷たい死刑宣告を告げた。
たかが地上の人間。それも穢れに穢れた、どうしようもない相手だ。

殺そう。今ここで。

持ち上げた拳銃の引き金に指を掛け、躊躇もなくそれを引いた。



「―――ああそうそう。さっき俺自身が言った言葉なんで実に申し訳ないんだが……」



額に照準を当てられた男の瞳はなんら動揺せず、恐怖も見せず。
燃え盛るようなドス黒い瞳が真っ直ぐに鈴仙を射抜きながら、何事かを呟いてみせた。



―――カチッ―――



続く音は、撃鉄が打たれた音。
確かに鈴仙は引き金を引いた。だが放たれたのは弾丸でなく、何とも虚しく響く鉄のノック音。


(不発弾……!? こんなタイミングで……いや、これは!?)


予想だにしなかった不遇に一瞬だけ指が固まり、しかし手にするその拳銃『ワルサーP38』は、不発であろうとも再度雷管を叩いて試行できるダブル・アクション機構を採用した物だと見て分かる。
すぐさま雷管を叩こうと試みる鈴仙だが、ここで不発弾の正体に気付く。

「み、水!?」

銃口や弾装などありとあらゆるスキマから突如漏れ出した液体が、この不発を導いた原因だと察する。
この男は今までこんな不良品を携帯していたのか。いや、これは最初からこの状態だったというよりは、何らかのトリックを使用してたった今、鈴仙が奪った銃を内部から水まみれにしたという感じだ。

マズイ。コイツの手品のタネが分からない。


「―――お互い似たような能力同士、と言ったが訂正させてくれ。……まさかその程度の能力で俺に“死んでもらう”などと戯言を吼えたのか?」


コンマ数秒、男を視界から外したのが致命的だった。
肩の負傷を意にも介さず、立ち上がった男の傍から再び現れた人型のヴィジョンが、驚愕する鈴仙の頭部を両端から鷲掴みにする。
強靭な膂力を以てミシミシと圧迫される頭蓋と共に、そのまま宙に持ち上げられる鈴仙の細い身体。
それだけならまだ対処しようがあった。理解しがたいのは、直後に喉と肺を襲った不快感、異物感。


「うぶ……!? ァ、ガボォォァアッ!?」


鈴仙の喉をせり上がって来るのは吐き気にも似た感触。だが吐瀉ではない。
気管から。鼻腔から。耳管から。眼窩から。
頭部に集まる穴という穴から一斉に水が漏れ出してきたのだ。

「悪いがよ、銃じゃあ俺は殺せない。次は大砲でも買い揃えるんだな」

次があればな、と男は続けるも、今や鈴仙の耳に溢れるのは男の冷淡な台詞ではなく、激流となって鼓膜を襲う洪水の音のみ。

「がぽ……っ! ぉ、あ……ガ…………っ!!」

「お前は『何』がイイ? 色々出来るぜ。今からでも変更させてやろうか?
 たとえば『焼死』とかはどうだ? 時間は掛かるが『凍死』なんかもある。苦しいのが嫌なら『震死』だと一発オダブツだが」

過剰に膨らみ始める鈴仙の腹部は、かつて無い緊急信号の証。
何をどうやっているのかは知り得ないが、体内から『水』を発生させられている。
非常に危険だ。もし両の肺から全ての空気が吐き出された状態であれば、人はたった数滴の水で……


「―――『溺死』だ。熱くなったお前の頭には水責めが丁度イイ」


視界が、自分を殺す男の顔が、目の前の全てが悪魔の起こす洪水によって歪む。
成す術がなかった。鈴仙に敗因があるのなら、相手の拳銃など拾ってしまった時点で既に敵の術中だったこと。
実銃の方が威力もあるし、妖力を僅かでも温存しておきたいというケチな節制心が働いてしまったのが全ての過失だ。


意識が―――トぶ。




「そこまでだ蛮族め。こんなナリでも我が上官なのでな、放してもらうぞ」




今にも『溺死』しかけていた鈴仙の視界の奥。
殺意に塗れた男の、更に背後から現れたのは機械兵士シュトロハイムの巨躯。
死の間際にどうにか放てたエニグマの紙から、頼りのボディーガードが出現して男の背後を取った。
この敵がどのような索敵能力を持つのかは不明だが、念の為にシュトロハイムを紙に隠していた保険が功を奏したか。
不意を打たれた相手の男は即座に鈴仙を放し、背後より迫る機械兵の拳から身を守った。
スタンドにより防御された為、効果的な一撃にはならなかったが、ガードの上から大きく弾き飛ばされた敵の射程距離から鈴仙は逃れることに成功する。

「鈴仙! 無事ならばすぐにこの男へ攻撃を叩き込むのだァァアア!!」

「がっは……! ぷはァ……ハッ……ハッ……! わ、分かってるわよ!」

「……ッ! テメェ、どこから現れやがった……!?」

狼狽する男が防御した腕に感じる熱は、攻撃されたという確かな手応え。
不可解だ。目の前にいきなり出現した軍服の男は、スタンドへの肉体攻撃を可能としていた。
しかしこのシュトロハイム、人間に見えてその実態は能力によって物理具現したスタンドだ。勿論、敵スタンドへの攻撃も可能である。


「よくもアンタ……ッ! 喰らって狂え―――『幻朧月睨(ルナティックレッドアイズ)』!!」

「……『ウェザー・リポート』!」


ルナティックレッドアイズ。
あのディアボロを一瞬にして戦闘不能にせしめた、鈴仙の対スタンド使いへの切り札である。
この距離なら技が届くのが早いのは鈴仙の方だ。何しろこの眼から眩く赤き光線は、視てしまうだけで全てが終わる。
妖力の温存? ふざけろ。スタンド使い相手なら、もう容赦しない!


「死ね! 視ねェ!! ―――――――――って、え?」


相手のスタンドがこちらを貫くよりも、圧倒的に早く。
鈴仙の光線は確かに目の前の敵を覆い尽くした。

視た。
視てしまったのだ。


こちらを鬼の形相で睨みつける、殺気そのものといった―――己の姿を。


「あ―――ぎゃああアアアァァアアアああああああアアぁああァぁぁアアッ!?!?!?」


絶叫が人里に轟く。
叫びの主は男ではない。技を放った本人――鈴仙の方であった。
脳を掻き回されたと同時、その精神とリンクするシュトロハイムの形を取った『サーフィス』も消失。元の等身大デッサン人形へと戻る。


「……兎如きがするな。獣の目を」


苦しみ悶える鈴仙を映す『鏡』の後ろから、何事もなく男が現れる。
鈴仙とサーフィス、その両方を一度に戦闘不能とした男は合点がいったと頷いた。
そうは見えなかったが、今の軍人もこの兎女が操るスタンドの一種だったのだ、と。
そして再び戦いの主導権を握り返した。実に短い逆転劇だったと、男は落ちた拳銃を拾いつつ、蹲る鈴仙の背を足蹴にする。


男の名はウェス・ブルーマリンと言った。
気象を司るスタンド『ウェザー・リポート』によって、『気流』を操りながらこの里内へ足を運んだ。
里道に流す気流内に乱れた箇所を察知すれば、例え姿を隠そうがすぐに誰か隠れていることくらい分かる。
となればこちらも『蜃気楼』を纏って姿を誤魔化しながら近づけるし、超局地的な『雨』を発生させることで拳銃内の弾丸の火薬を水浸しにも出来る。
人間を溺死させる事も難しくなければ、雨を作る応用で即席の『鏡』だって容易に作れる。

ようは相手が操るらしいレーザーを反射すれば良かったのだ。
最初の攻防で兎女の眼からレーザーが放てることは身に沁みて理解できたし、だったらそれへの対策を作ることも容易だ。
突如飛び出してきた軍人には驚いたが、次に兎女が眼から何か放とうとしていたのは見て取れたこと。
てっきりまたレーザーでも撃たれるのかと思い鏡で反射しようと策を講じたが、今度はそれよりもっと強力な光線だったらしい。
鏡に映る自分の姿を『視た』兎女は、こちらがビビるくらいに苦しみだした。思わぬ収穫というヤツだ。


こうしてそれぞれ自分の『名』を捨て去った復讐鬼……『ウェザー・リポート』と『鈴仙・優曇華院・イナバ』、もとい『ウェス・ブルーマリン』と『鈴仙』の衝突は、天候奏者の勝利で終結した。


▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽


狂う……狂う狂う狂ってしまう……!
アタマが痛い! 脳が……沸騰しそう! 痛……いっ あ、ああぁぁああ……!?
前が見えない脳がはち切れそう口の中が熱い痛い痛い熱い狂うクルう死ぬ■ぬシヌ眼が気分■悪い頭痛が吐き気■■狂いソ■■脳が脳■■不味■イ■死狂■■


(しま……あぁ、あ……! は、早く狂わされた位相を戻さないと……逆の波長を打ち込んで、回復させない……と……ぉ!)


己自身を蝕む『狂気の瞳』の呪いに対抗すべく、鈴仙は暴走する脳内の波長を決死の思いで修復に臨んだ。
ほんの一瞬にて全てを体感する効果ゆえ精神的ダメージは免れようもないが、その波長を正すことで後遺症だけは阻止する。
しかし、この狂気によって生まれた隙はあまりにも大きい。

「……兎如きがするな。獣の目を」

月のエースを下した男ウェスは、地面でのた打ち回る鈴仙の背を、奴隷に鞭打つかのように勢いよく踏みつける。
次いで鳴らされた音は、引き金に指を掛ける音。弾装内の濡れた銃弾を全て装填し直し、その銃口は再び鈴仙の頭を狙う。
徐々に冷静さを取り戻していく鈴仙は、己の敗北――死を悟った。
スタンド『サーフィス』は強制解除され、再び使用するにはもう一度誰かに触れなければ変身できない。
つまりは『シュトロハイム』を出すことは未来永劫不可能となってしまった。

「くそ……くそぉ……! 私はディアボロを殺(け)さなきゃダメなのに……っ! アリスを殺したあの男だけは、絶対に許されちゃダメなのに……っ!」

自然と口から漏れ出たのは、怨み節。
大切な何かを奪っていったあの悪魔に、到達することもなく殺される。
こんなどこの馬の骨とも分からないヤツに邪魔される。なす術なく蹂躙される。


―――『いずれにしろ…お前はディアボロにすら辿り着くことなく、志半ばにして無残に殺されるだろうな』


あの軍人の言葉を思い出す。『うわっ面』ではなく、真に鈴仙の境遇を憂い放った言葉。
鈴仙のように目先しか見えてないモノでなく、真実未来を見通して予言したであろう台詞。
その通りだった。自分は最期まで独りで、何一つ掴むことなく残酷に殺されるのだ。
数秒先に訪れる死の未来を想像し、途端に身が震えてきた。
復讐という負の感情で心がすっかり麻痺していたが、そもそも言って鈴仙という少女の本性は『臆病』一貫。
こうなってしまえばもう恐怖で身が竦む。腕に力が入らない。

ディアボロを追う一連の数時間は、心地よい麻薬でもキメていたかのようなひとときであった。
ほんの一時のヒーロー。悪魔を退治する自分の姿は孤高ではあったが、この上なく正しくて、輝いていて、ある意味理想の像であったのかもしれない。
殻を脱ぎ捨てた月のエースに、もはや恐怖は無い。
そう、思っていた。思えていた。
だが狂気の瞳をこの身に受け、死の大鎌が喉元に突きつけられたと知ると、鈴仙本来の小心な性格が露わとなる。
彼女は大きく変わったが、その根本に渦巻く重い過去は永劫払拭されることはない。
名を捨てようが復讐に動こうが、所詮は月から堕ちぶれた一羽の兎でしかないのだ。


「ディアボロとか言ったか……お前はそいつに『復讐』でもするつもりか?」


しかし怒りを伴って震える少女に穿たれたのは、死の弾丸ではなく雨のように沈む冷たい声色。


「…………え?」

「え?じゃねーよ。お前、誰かに復讐でもしようとしていたのか、と訊いたんだ」


あくまで銃を突きつけた状態ではあるが、鈴仙の怯える様子から戦意消失を感じたウェスは対話の機を見た。
ここでこの兎女を始末するのは容易い。山中で野生の兎を追うことよりも、よっぽど。
だが利用価値はありそうだ。

「……そ、そうよ。私はあの男……ディアボロを追っている。私が殺さなきゃ、ダメなのよ」

「そのディアボロという奴はどんな男だ?」

「…………ピンクの髪をしたドス黒い瞳の男で、アンタと一緒のスタンド使い」

「能力は」

「……おそらく『時間を十数秒吹き飛ばす』能力。私の大事な人もそいつに殺されたわ……!」

沈痛な面持ちで返されたその返答を、ウェスは深く咀嚼する。
さて、兎女が話した内容が真実なら、ディアボロという男は随分と桁外れな能力を行使するらしい。
正直、カチ合いたいと進んで思える相手ではない。今この場でその能力を知れたのはまごうことなき幸運ではあるが。
なるほど、この女を無理に殺さず放っておくだけで、その厄介極まる相手を勝手に追撃してくれるというのだ。
見方を変えれば、コイツを殺して発生するデメリットはメリットよりも高いかもしれない。

それに、先程から感じ始めた感覚。首の『アザ』の反応。
近い。もうこの人間の里のすぐ近くまで迫ってきていることを、ウェスはひしひしと感じていた。


あぁ、どこか懐かしい気もする。
呪われた運命に自らケリをつけることの出来る、この瞬間。
恐らく、いや間違いない。
この『風』は。
強き決意を秘めた中に宿る、この眩い優しさ。
そんな、風。


―――空条徐倫。彼女が、ここへやって来る。


彼女は強い。万全の状態で迎えなければ、俺は敗北するだろう。
気流が徐倫の隣にもう一人、その存在を捉えた。徐倫には仲間がいる。
彼女らしい。どんな場でも、あいつは常に誰かを惹きつける魅力を放っている。
だが、今は邪魔でしかない。多数相手では分が悪いし、何とか引き剥がしたい。彼女との戦いに横槍を入れられるのも無粋だ。


「……ここまでやっておいてなんだが、お前少し俺に手を貸さないか?」

「……本当にここまでやっておきながら、よね。私はたった今あなたに殺されかけたんだけど」

「選択のチャンスをやると言っているんだ。今ここで死ぬのと、俺に協力するとではどちらがイイ?」


死を覚悟していた鈴仙からすれば、突然降って湧いた幸運。
男は選択のチャンスだとぬかしていたが、鈴仙が選べる返答などイエスのみ。
好き放題しておいて腹の立つ持ち掛けであったが、是非もない。

「そーいうの、脅迫って言うのよ。……手を貸すって、私は何をやればいいの?」

「話の分かるオンナは嫌いじゃあない。今からここに『二人』の参加者がやって来るだろう。お前、片方を引き離して殺せ」

殺せ、ときた。
命が掛かっているとはいえ、いくらなんでもこれには鈴仙も難色を示す。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 殺せって……そんな要望聞けるわけないでしょ!」

「ん? お前はゲームに乗った参加者じゃないのか?」

「乗ってない!!」

「……そりゃ悪かったな。野獣みてーな目つきだったもんで、てっきり乗った奴かと思ってたぜ」

何たる誤解だと、鈴仙はショックを隠しきれない。
そんなこと何時誰が言ったのだ。自分はそれほどまでに怖い顔していたとでもいうのだろうか。

「俺は今からここに来る『空条徐倫』をターゲットにする。お前はもう一人の奴を……そうだな、殺せとまで言わない。
 何とか剥がしてそのまま引き留めておけ。出来ればそのままどっかへ消えて欲しいがな」

「引き離す……って、どうやれば……」

「知るか。ンなもんてめえで考えな。それとも考える脳ミソまでさっきので沸騰しちまったか?」

まこと勝手で横暴である。だが命を握られている現状、首を横には振れそうにない。
瞬間、呼吸が落ち着いてきた鈴仙の波長レーダーに波が現れた。
確かに北から二人。片方は知らないが、もう片方の波長は自分もよく知る―――


(魔理沙……!)


自称異変解決のプロフェッサー、霧雨魔理沙。
彼女が生きていて、この場所へとやって来る。
それは逆を言えば、鈴仙の働きによれば魔理沙の命だけは助けることが可能という解釈も出来る。

アリスは最期に言った。
幻想郷の皆を守ってやって欲しいと。
ならばその為には、鬼にも悪魔にもなってやろう。


「……分かったわ。あんたの言うとおり動くわよ。だから早くそこ退いて頂戴」

「決まりだな。言うまでもないがもし裏切ったら……」

「分かってる。……あんたの名前は?」

「訊いてどうする? ……俺は少しここから離れている。お前が行動に出たら俺も動こう」


この男の体のいいように動かされるだけ。
頭では分かっていても、鈴仙には受け入れるしかない。
魔理沙を守るためでもあるし、何より自分は死にたくなかったのだ。


こうして鈴仙とウェスは、二人を嵌める為に待ち伏せを開始した。


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最終更新:2016年09月05日 04:58