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きれいなひと

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匿名ユーザー

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「みなみちゃんは、きれいだね」
 友人である小早川ゆたかは、私を見ながらそんなことを言った。その言葉をなぜ今言ったのか、彼女の意図が分からずに、私は
卵焼きを挟んだままの箸を空中で止めてしまった。物を食べようと口を開けている瞬間に言われると何故か不思議な抵抗を感じて
しまうのは私の問題だろうか。
 どう答えたものだろう。上手く言葉が見つからなかった私は、とりあえず卵焼きを口の中に放り込んだ。もぐもぐと咀嚼しなが
ら、返し方を考える。
「私は、そうでもない、と思う」
 他の人に言われたなら思わずその場から逃げ出してしまっていたかもしれないが、彼女の前から逃げ出すわけにはいかない。私
は彼女から逃げてはいけない。何故か、そう思ってしまうのだ。
 ゆたかは、私を見てにっこりと笑う。
「そんなみなみちゃんが、きれいだと思う」
 私は伝える言葉に迷う。浮かんだ言葉が口から出ていくその前に、何かが私にブレーキをかける。それはまるで、呪いのようだ
った。想いを伝えることができなくなる呪い。思っていることと違うことを言ってしまう、そんな呪い。
「……私は、」
 うん、とゆたかは頷いた。そして、私の言葉を待ってくれている。
「私には、ゆたかの方が、きれいに見える」
「そんなこと、ないよ」
 また、ゆたかは笑った。



 きれいなひと(レイニーロジック・Ⅲ)


 上手くしゃべれないことが、ずっと私にとってコンプレックスだった。言葉はいつも想いを完全には伝えてくれなくて、良かれ
と思って放った言葉は、いつも誤解を孕んで相手には正しく伝わってはくれない。私が全然意図していないものだけがどんどん雪
が積もるように滞積していって、いつの間にか全く知らないところまで連れて行かれてしまう。そんなことを繰り返していくうち
に、私は言葉が嫌いになっていた。伝わらない言葉を当たり前のものとして受け入れていた。
 岩崎さんは、せっかく運動神経いいのに部活には入らないの?
 ピアノ弾けるんだ。すごいねぇ。
 勉強もできて、怖いものなしって感じだよね。
 でもなんか、いつも怒ってるみたい。
 私じゃない私のイメージは増幅されて、どんどんどんどん大きくなっていく。それはたぶん仕方のないことで、そして私に原因
がある。分かってはいるのだけれど、十六年付き合ってきた自分を変えるのはなかなか難しい。
 まあ、いつも向かい風に向き合っているようなものだろう。抵抗はあっても、歩けないほどではない。たいていのことは少しだ
けの我慢で通り過ぎていってくれる。

 バスに乗る前、どんよりと暗い色で光を遮っていた黒い雲は、バスから降りるころには我慢しきれなくなったのか、雨粒を落と
し始めていた。私は鞄の中から折りたたみの傘を取り出すと、バスのステップを降りて、同じようにバスから降りる同じ制服の人
たちから少し離れたところで、その傘を開いた。傘を掲げて顔を上げると、自分と同じような行動を取った人がたくさんいた。
 次々と開いていく傘に、まるで花が咲いていくみたいだな、と私は思った。

「きれいなものに憧れるっていうのは、誰でも持っている感情だと思うんだ」
 ゆたかはそう言って、ぱたんと教科書を閉じた。放課後の教室で、私たちは二人だけで居た。今日の授業で分からなかったとこ
ろを教えて欲しい、と言ったのはゆたか。何か、早く帰りたくない理由でもひょっとしたらあるのかな、と思ってしまったのは私
だ。
「わたしはぜんぜんきれいじゃないから、みなみちゃんが好き」
 私は綺麗じゃない、とか、ゆたかの方が綺麗だ、とか、そんな言葉は今この場所ではなんの意味も持たないことを私は知ってい
た。気の利いた言葉の一つでも言えたのなら良かったのかもしれない。だけど、私には呪いがかけられていて、上手い言葉は出て
こない。私に呪いをかけたのは、いったい誰なのだろう?
「ゆたか」
 私はそれ以上言葉をかけることも、動くこともできずに彼女を見ていた。彼女は笑顔を崩さずに、鞄の中に教科書やノートをし
まっている。ぱちん、と鞄が閉まる。ゆたかは顔を上げる。思った以上に彼女との距離が近かったことに、私は驚いた。
「やっぱりわたしは、お姉ちゃんと似てるんだな、って思った」
「泉、先輩?」
「うん」
 ゆたかは鞄を持って立ち上がる。私も慌てて、自分の鞄を持って立ち上がった。似てるってどういう意味だろう。ぐるぐると私
の中で言葉が渦を巻く。いつも言葉は私を迷わせる。
「だから」教室のドアの手前で、ゆたかは振り返った。「わたしはみなみちゃんに触れちゃ、いけないんだ」


 最近、私は教室の中で、よく声をかけられるようになった。勉強を教えて欲しいとか、体育のこととか、宿題のこととか、いろ
いろだ。理由はよく分からなかったけれど、お願いをされて無視できるほど、私の神経は太くなかった。一つ一つこなしていくう
ちに、私の周りには少しずつ人が増えていくようになった。いろんな人と喋るのは難しくて疲れるけれど、なんとかやってみよう
と思った。ゆたががそんな私を、隣でにこにこと笑いながら見ていたからだ。
 岩崎さんって、すごくきれいな笑い方するんだね。
 不意にそんな風に言われたとき、私は照れる前に困惑した。どこかで聞いたことのある言葉だったからだ。
「……そうでも、ない」
 そう?
「綺麗なのは、みんな同じ」
 一拍遅れて、私は、私が言葉を使っていたことに気付く。ああ、喋ることができた。できてしまった。これは変化なのだろうか。
変化なのだとしたら、私は前と後ろ、どちらに向かって進んでいるのだろう。

 私は綺麗なんかじゃない。
 そんな言葉が浮かんで、私の中のどこか見えないところに沈んでいった。本当はもっと他のことを言いたかったのかもしれない。
本当はもっと別のことを伝えたかったのかもしれない。

 友達という存在のことを語るには、私は少し経験不足だ。広い意味で定義したならば、私にも友達と言える存在はいたのかもし
れない。けれど、休日に一緒にどこかに遊びに行ったり、家に呼んだりお邪魔したりという関係性を持ったことはなかった。
 今、こうやって自分の部屋にゆたかがいる。そうなって初めて、なぜ私はもっと早くからそうしなかったんだろう、と思った。
ほんの少しだけ、ゆたかと出会ったときのように、ほんの少しだけ私から動けば、まったく違ったことになっていたかもしれない
のだ。そんなことを、私は知った。
「でも」私の思いを聞いて、ゆたかは言った。「もしそうだったら、わたしはここにいなかったかもしれないね。みなみちゃんは
委員長やったり球技大会で活躍したりして、みんなの人気者で、周りには人がいっぱいいて、わたしは近くにいけなかったかもし
れない」
 そんなことはない、と私は言った。私が私で、ゆたかがゆたかである以上、きっと友達になっている。私の言葉に、ゆたかは淡
い笑顔で答えた。
「わたしはきれいじゃないから、みなみちゃんに触れるわけにはいかないの」
 ときどき、ゆたかの言葉が分からないときがある。ゆたかは私には見えないものを見て、私には分からないことを考えている。
「みなみちゃんだって、そうだと思うけど」
 ゆたかはゆたかで、私は私。当たり前のことだ。そんな当たり前のことを、私はゆたかといるとすぐに忘れそうになってしまう。
「分かりたい、から」
「うれしいな」
「私も、嬉しい」
 例え、言葉が想いを伝えてくれないものだとしても。
 ゆたかは立ち上がると、きょろきょろと辺りを見回して、そしてベッドの向こう側に置いてあるグランドピアノに目をつけた。
「みなみちゃん、お部屋にピアノあるんだ」
 頷く。普通は部屋にはピアノはないものなのだろう。自分は普通じゃないということがまた自覚できてしまう。


「何か弾いてもらっても、いい?」
 また頷く。私は立ち上がると、ピアノの前へ移動して、椅子に座る。鍵盤にそっと指を這わせる。ピアノ本体に触れていたゆた
かは、私のすぐそばまで来て、床に座り込んだ。
「ゆたか?」
「ここで聞きたいな」
 楽譜も特に用意していないので、覚えている曲の中から適当に選んで、鍵盤を叩いた。私はピアノを弾くのが好きだった。理由
なんてなかった。理由なんてないと思っていた。
 ちらりとゆたかを見る。ゆたかは椅子の脚に背中を預けるようにして座って、目を閉じていた。頭が私の太股にほとんど乗っ
かっていて、私がペダルを踏む度にかくんかくんと揺れる。その振動すら心地よいとでも言うみたいに、ゆたかは目を閉じていた。
 理由はあった。
 あったんだ、と私は気付いた。
 音は広がって、拡散して、私たちの周りに漂っている。私の一部も拡散して、広がって、ゆたかの周りを漂っている。たぶん、
それが理由だった。私の知らなかった私の理由だった。
「みなみちゃんが、いるね」
 ぽつりと呟いたゆたかの言葉を聞こえなかった振りをして、太股に感じるゆたかの体温を想いながら、私はピアノを弾き続けた。
 降っていた雨はいつの間にかやんで、窓から差し込んでくる赤い光が部屋の中を染め上げていた。
「みなみちゃんは、ちゃんと上手くできるよ」
「そう、かな」
「だいじょうぶ」
「……ゆたかが、いるから」

 触れてはいけない。
 そう思った次の瞬間に、もう、それは終わっている。

 曲が終わる。ささやかな高揚感を抱えたままで、私は手を下ろした。下ろした手が、ゆたかに触れた。ほんの少しだけ身じろぎ
したゆたかは、それでも私が触れることを拒絶しなかった。
「……だめだよ、みなみちゃん。私に触れたら」
「私は、」
 うん、とゆたかは頷いた。そして、そのまま私の次の言葉を待ってくれている。私は何を言おうとしたのだろうか、と考える。
何が言いたかったのだろうか、と考える。床に座ったまま私を見上げるゆたかと目が合う。
 手を。そう望んだ私の想いが通じたのだろうか。ゆたかはどこか戸惑うような仕草で、私の手に、手を重ねた。家族じゃない人
と手を触れ触れあわせるのなんていつ以来なのかな、と私は考える。自分の意志で誰かと手を繋ぎたいなんて思ったのはいつ以来
かな、と考える。言葉なんかに頼らなくても伝わるものがあるんだ、なんて幻想を信じてもいいような気すらしてくる。
「みなみちゃんの手、きれいだね」
「ゆたかの手は、あたたかいよ」
「本当に」ゆたかは呟くように、言った。「みなみちゃんは、きれいだなぁ」
 きらきらと光る雫が彼女から夕日を弾きながら落ちて、カーペットに吸い込まれていった。
 最後に残った残光が、まるで呪いのように、私の中にあるものに絡みついていく。
 頬を撫でる向かい風を感じながら、私は目を閉じて、ただ、それを受け入れた。















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  • 不思議な感覚… -- 名無しさん (2008-05-02 23:20:25)
  • 上手く言えないけどきれいな文章だね -- 名無しさん (2008-01-03 18:21:31)
  • 読みたくなる文章ですね -- 名無しさん (2007-12-16 00:11:38)
  • 繊細な文章がすごく好きだ -- 名無しさん (2007-08-21 03:07:59)

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