『4seasons』 冬/きれいな感情(第五話)より続く
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§10
――暗闇。
――暗闇。
――暗闇。
――暗闇。
――暗闇。
暗闇の中、私はぽかりと浮かんでいる。水の中をたゆたっているように、ふわふわと私は揺れている。
ここはどこだろう。今はいつだろう。わからない。何もわからない。その何もわからないことこそが、私に今夢を見ているのだとわからせた。
ここはどこだろう。今はいつだろう。わからない。何もわからない。その何もわからないことこそが、私に今夢を見ているのだとわからせた。
――寒い。
――暗い。
――苦しい。
それも当たり前の話だ。なぜならここは何もない宇宙空間なのだから。そこに私は浮かんでいるのだから。
凍えそうに寒いのはそのせいだ。闇に閉ざされて何もみえないのはそのせいだ。苦しくて苦しくて今にも胸がつぶれてしまいそうなのはそのせいだ。
遠く、手の触れられないほど遠くに、星の光が見えている。
明るく輝く四つの星は、その近くにいけば暖かいのだろう。けれど私がいるここまでその熱量が届くことはない。今こうして見えている光であっても、その光子の波はもう何年も前に星を飛びだしたもので、それを発した星々は、ほら、何光年もの彼方に佇んでいる。
穏やかな光を投げかける赤色巨星は、全てを包み込んでしまいそうなほど大きくて、きっとこんな星の惑星には緑豊かで知的な王国が築かれているだろうと思わせた。
暖かな光を投げかける純白の恒星は、周囲に星間物質のベールを纏っていて貴婦人のように優雅な佇まいだ。きっとこんな星に近づけばどんな傷も治ってしまうだろう。けれどその光に篭められた力も、私のところまでは届かない。
キラキラと強い光を放つ元気な星と、控えめなオレンジ色に輝く星は、お互いがお互いの周りを回っている連星だ。最初は元気な星がオレンジの星の周りを回っているように見えていたけれど、その一瞬後にはオレンジの星が元気な星の周りを回っているようにも見えた。くるくるくるくるとワルツのように回っていて、けれど全体を覆うのはオレンジの光だった。
――ああ、いいな。あそこにいけたらいいな。
そう思う私は、けれどただその場に漂うのみで、腕を振り回しても足を蹴立ててもどこにいくこともできないのだった。
当たり前だ、と私は苦笑する。作用反作用の法則があるのだから、その場でいくら動いても加速度を得る事なんてできやしない。宇宙空間でどこかにいこうとしたら、何かを捨てて反作用を受けないといけないのだ。
夢の中のはずなのに、ニュートン力学は変なところでシビアなんだな。そんなことを考えて、私はまた苦笑する。
――さて、何を捨てようか。
そう思って自分が持っているものを見渡しても、どれもこれも大切なものばかりで、何一つ捨て去ることなんてできないのだった。
例えばそれは子供の頃の夢だとか。
あの夏の夜の草いきれだとか。
ずっと憧れていたきれいな自分だとか。
女の子になった日に流した涙だとか。
家族で山登りにでかけていって、山頂から見下ろした朝焼けの色だとか。
それを捨て去ってしまえばもはや自分が自分ではなくなってしまう、私が持っているのはそんなものばかりだ。そうして自分が自分ではなくなってしまったならば、あの星の元へと辿り着いたところできっと意味がないのだ。
だから私は、ただ悄然としてふわふわと漂っている。
けれど、そのときすぐ近くに、突如として光り輝く新星が現れた。
そのあまりの光の強さに目がくらむ。暗黒の空間が白い光の洪水で満ち、閉じた眼蓋の裏で赤い斑点がちらついた。
その爆発はきっと超新星爆発なのだろう。ぎりぎりまで縮退していった物質が限界を超えて爆発するスーパーノヴァ。
その後に誕生するのは、全てを吸い込んで黒く黒く無限に縮退していくブラックホールか。
それとも圧縮された物質がついに巨大な原子核になり、やがて中性子と陽子で構成された超密度の強靱な星、中性子星を作り出すのか。
けれどそれはそのどちらでもなかった。
そこに忽然と現れたのは、やはりというかなんというか、泉こなたなのだった。青い長髪をなびかせて、素っ裸のこなたがそこに浮かんでいる。なぜか無重量状態でもピンとアホ毛が立っているのがおかしかった。
まあ、夢だから仕方がない。いっそ早く醒めてくれないものかと考えていた私の前で、こなたは口を開く。
『好きだよ、かがみ』
ああ、夢だから。これは全部夢だから。
その含羞に赤らんだ頬も。切なげに見上げた眼差しも。胸の前でぎゅっと組んだ腕も。全部全部夢だから。
『なんていうか、まるであんたらしくないわね。こんな夢見てる自分が恥ずかしくなってくるわよ……』
こなたは素っ裸のまま私に抱きついてくる。猫みたいに身体を擦りつけてきて、感触を楽しむように重ねた頬をすり寄せた。
『むふー、恋する乙女は皆こんなものなのだよ、かがみん』
そう云って、猫口の端をきゅっとつり上げて、いつもみたいにニマニマと笑う。
『これが夢なら、私は何したって構わないのよね?』
『夢じゃなくても、何したって構わないよ』
そういうこなたは夢の存在なのだから、その言葉に何の保証もあるわけがない。
けれど今目の前にこなたがいることは間違いがないので、せめてその身体を思い切り抱きしめた。ん、と小さく息を吐く音が聞こえてきて、私の胸の中でこなたはうっとりと目を閉じる。
けれど抱きしめた腕の感触は、どこか普段とは違っていた。
『なによこれっ』
よくよく見直してみると、その腕は私の腕ではない。手の指はごつごつと節くれ立ち、関節と関節の間に淡い毛が生えている。曲げた腕には筋肉の筋ができ、二の腕に力こぶが膨らんでいる。慌ててこなたの身体を離して自分の身体を見下ろせば、肩幅は広く胸の膨らみも腰のくびれもなく、股間には見たことがない器官がついている。
――男だ。
私は男の身体になっていた。
『かがみ、素敵だよ』
そう云って抱きついてこようとするこなたを必死の思いで押しとどめる。
『駄目っ、駄目だってば、こんなの私じゃないわよ!』
『でも、それなら私のことが抱けるじゃん?』
その指摘に動きを止めた私に、こなたはしなだれかかってくる。柔らかい身体、甘い匂い、すべらかな肌。その感触に一瞬陶酔しかけてしまって、けれど私はやっぱりそれが間違っていると思う。
『やめて、違うよ! やっぱりこれは違うよ!』
私はこんなものが欲しかったわけじゃない。こんな風にこなたを抱きたかったわけじゃない。ただ私のままでいたかっただけだ。女としてこなたを好きな、私のままでいたかっただけなのだ。
そう思って、泣きそうになりながらこなたのことを突き飛ばす。作用反作用の法則に従って、二人の距離がどんどん開いていった。こなたは漂っていきながら、眼をまじまじと開いて私のことを見つめていた。
『ごめんなさい』
『……謝んないでよ……』
うつむく私に、こなたは再度謝罪の言葉を口にする。
『あんなことしちゃって、ごめんなさい』
『……こなた?』
あんなことって、どんなことだろう。
二人の距離は、すでに互いの表情が見えないほど離れていて。
そう思った私の意識は、半ば暗闇の中に溶け始めていた。
凍えそうに寒いのはそのせいだ。闇に閉ざされて何もみえないのはそのせいだ。苦しくて苦しくて今にも胸がつぶれてしまいそうなのはそのせいだ。
遠く、手の触れられないほど遠くに、星の光が見えている。
明るく輝く四つの星は、その近くにいけば暖かいのだろう。けれど私がいるここまでその熱量が届くことはない。今こうして見えている光であっても、その光子の波はもう何年も前に星を飛びだしたもので、それを発した星々は、ほら、何光年もの彼方に佇んでいる。
穏やかな光を投げかける赤色巨星は、全てを包み込んでしまいそうなほど大きくて、きっとこんな星の惑星には緑豊かで知的な王国が築かれているだろうと思わせた。
暖かな光を投げかける純白の恒星は、周囲に星間物質のベールを纏っていて貴婦人のように優雅な佇まいだ。きっとこんな星に近づけばどんな傷も治ってしまうだろう。けれどその光に篭められた力も、私のところまでは届かない。
キラキラと強い光を放つ元気な星と、控えめなオレンジ色に輝く星は、お互いがお互いの周りを回っている連星だ。最初は元気な星がオレンジの星の周りを回っているように見えていたけれど、その一瞬後にはオレンジの星が元気な星の周りを回っているようにも見えた。くるくるくるくるとワルツのように回っていて、けれど全体を覆うのはオレンジの光だった。
――ああ、いいな。あそこにいけたらいいな。
そう思う私は、けれどただその場に漂うのみで、腕を振り回しても足を蹴立ててもどこにいくこともできないのだった。
当たり前だ、と私は苦笑する。作用反作用の法則があるのだから、その場でいくら動いても加速度を得る事なんてできやしない。宇宙空間でどこかにいこうとしたら、何かを捨てて反作用を受けないといけないのだ。
夢の中のはずなのに、ニュートン力学は変なところでシビアなんだな。そんなことを考えて、私はまた苦笑する。
――さて、何を捨てようか。
そう思って自分が持っているものを見渡しても、どれもこれも大切なものばかりで、何一つ捨て去ることなんてできないのだった。
例えばそれは子供の頃の夢だとか。
あの夏の夜の草いきれだとか。
ずっと憧れていたきれいな自分だとか。
女の子になった日に流した涙だとか。
家族で山登りにでかけていって、山頂から見下ろした朝焼けの色だとか。
それを捨て去ってしまえばもはや自分が自分ではなくなってしまう、私が持っているのはそんなものばかりだ。そうして自分が自分ではなくなってしまったならば、あの星の元へと辿り着いたところできっと意味がないのだ。
だから私は、ただ悄然としてふわふわと漂っている。
けれど、そのときすぐ近くに、突如として光り輝く新星が現れた。
そのあまりの光の強さに目がくらむ。暗黒の空間が白い光の洪水で満ち、閉じた眼蓋の裏で赤い斑点がちらついた。
その爆発はきっと超新星爆発なのだろう。ぎりぎりまで縮退していった物質が限界を超えて爆発するスーパーノヴァ。
その後に誕生するのは、全てを吸い込んで黒く黒く無限に縮退していくブラックホールか。
それとも圧縮された物質がついに巨大な原子核になり、やがて中性子と陽子で構成された超密度の強靱な星、中性子星を作り出すのか。
けれどそれはそのどちらでもなかった。
そこに忽然と現れたのは、やはりというかなんというか、泉こなたなのだった。青い長髪をなびかせて、素っ裸のこなたがそこに浮かんでいる。なぜか無重量状態でもピンとアホ毛が立っているのがおかしかった。
まあ、夢だから仕方がない。いっそ早く醒めてくれないものかと考えていた私の前で、こなたは口を開く。
『好きだよ、かがみ』
ああ、夢だから。これは全部夢だから。
その含羞に赤らんだ頬も。切なげに見上げた眼差しも。胸の前でぎゅっと組んだ腕も。全部全部夢だから。
『なんていうか、まるであんたらしくないわね。こんな夢見てる自分が恥ずかしくなってくるわよ……』
こなたは素っ裸のまま私に抱きついてくる。猫みたいに身体を擦りつけてきて、感触を楽しむように重ねた頬をすり寄せた。
『むふー、恋する乙女は皆こんなものなのだよ、かがみん』
そう云って、猫口の端をきゅっとつり上げて、いつもみたいにニマニマと笑う。
『これが夢なら、私は何したって構わないのよね?』
『夢じゃなくても、何したって構わないよ』
そういうこなたは夢の存在なのだから、その言葉に何の保証もあるわけがない。
けれど今目の前にこなたがいることは間違いがないので、せめてその身体を思い切り抱きしめた。ん、と小さく息を吐く音が聞こえてきて、私の胸の中でこなたはうっとりと目を閉じる。
けれど抱きしめた腕の感触は、どこか普段とは違っていた。
『なによこれっ』
よくよく見直してみると、その腕は私の腕ではない。手の指はごつごつと節くれ立ち、関節と関節の間に淡い毛が生えている。曲げた腕には筋肉の筋ができ、二の腕に力こぶが膨らんでいる。慌ててこなたの身体を離して自分の身体を見下ろせば、肩幅は広く胸の膨らみも腰のくびれもなく、股間には見たことがない器官がついている。
――男だ。
私は男の身体になっていた。
『かがみ、素敵だよ』
そう云って抱きついてこようとするこなたを必死の思いで押しとどめる。
『駄目っ、駄目だってば、こんなの私じゃないわよ!』
『でも、それなら私のことが抱けるじゃん?』
その指摘に動きを止めた私に、こなたはしなだれかかってくる。柔らかい身体、甘い匂い、すべらかな肌。その感触に一瞬陶酔しかけてしまって、けれど私はやっぱりそれが間違っていると思う。
『やめて、違うよ! やっぱりこれは違うよ!』
私はこんなものが欲しかったわけじゃない。こんな風にこなたを抱きたかったわけじゃない。ただ私のままでいたかっただけだ。女としてこなたを好きな、私のままでいたかっただけなのだ。
そう思って、泣きそうになりながらこなたのことを突き飛ばす。作用反作用の法則に従って、二人の距離がどんどん開いていった。こなたは漂っていきながら、眼をまじまじと開いて私のことを見つめていた。
『ごめんなさい』
『……謝んないでよ……』
うつむく私に、こなたは再度謝罪の言葉を口にする。
『あんなことしちゃって、ごめんなさい』
『……こなた?』
あんなことって、どんなことだろう。
二人の距離は、すでに互いの表情が見えないほど離れていて。
そう思った私の意識は、半ば暗闇の中に溶け始めていた。
「本当に、ごめんなさい!」
そう叫んだこなたの声が私の本物の耳に聞こえてきて。
そうして私は、ぽっかりと夢から浮上する――。
眼を開けると、天上が高い。
眼に見える天上は白い化粧板に盤面のような溝が刻まれていて、ああ、ここは自分の部屋ではないのだなと思う。薄暗いのは陽が落ちているからではなく、ベッドの周りを覆ったカーテンが陽射しを遮っているからだと気がついた。
お世話になったことはないけれど、この場所に見覚えはある。私は、保健室のベッドで眠っていたのだ。
――さっきまで見ていた夢のことは、すっかり目覚めた今でも鮮明に覚えていた。
酷い悪夢を見た。本当に、酷い悪夢を見た。冬だというのにぐっしょりと寝汗をかいていて、それが気持ちが悪かった。心臓は様々に渦巻く感情にドクドクと音を立てて暴れていた。私はそんな胸を押さえながら、そこに柔らかな膨らみがあることに心の底から安堵する。
カーテンを透かして、何人かの人影が見えていた。背後の窓から差し込む陽射しを背負って、話し合っている何人かの人たちがカーテンに影を落としていた。
「泉はこう云っているが、お前はどうだ」
桜庭先生の声は、いつも通りに淡々としていたけれど。やる気のなさそうな口調は影を潜めていて、代わりにほんの少しの緊張感を孕んでいた。
「いや、それはいいッスけど……。滅茶苦茶痛かったッスよ……」
くぐもった声で不満そうに云うのは件の男の子だろうか。
どうやら私が寝ている横であの出来事の後始末をしているらしい。私も話に参加しないといけないな。そう思って身を起こすと、衣擦れの音が聞こえたのか、「ちょっと待ってください」と声がしてカーテンが開けられた。
「柊さん、起きましたか」
そう云ったのは擁護教諭の天原先生だった。つややかな黒髪は背中を半ば覆っていて、前髪は綺麗に切りそろえられている。日本人形のように清楚な印象を与える女性だ。
「はい、ご迷惑をおかけしました」
その声は少しかすれていて、私は小さく咳払いをする。
「――かがみ?」
問診をしたり脈を取られたりしているうちに、閉じられていたカーテンを開けてこなたが顔を出した。その向こうに件の男の子の心配そうな顔が垣間見えていた。鼻にはガーゼが詰められているようで、先ほどのくぐもった声はそのせいだろうと思った。けれど視線を隠すようにこなたがカーテンを引いて、その顔もすぐに見えなくなる。
「こなた、あんた……」
「よかった、かがみ大丈夫?」
そう云って私の額に手を当てるこなただった。
「大丈夫みたい、ってかおでこ触っても熱はないわよ」
「――そっか」
笑いながらペロリと舌を出す。
天原先生は、そんなこなたに先ほど私にしたのと同じような説明をした。緊張やストレスから迷走神経が刺激されて、脳に酸素がいかなくなって気を失うのだそうだ。
「その後中々眼が醒めなかったのは、疲れや寝不足の影響だったのでしょうね」
「あー、つまり寝ちゃってたってことですか?」
「そうとも云いますね」
「なるほど、つまりかがみんにねぼすけ属性が追加された、と……」
「されてねぇよ。なにがつまりだ」
突っ込まれて嬉しそうに笑っているこなたを見て、私は少しだけ安堵する。
――けれど。
眼に見える天上は白い化粧板に盤面のような溝が刻まれていて、ああ、ここは自分の部屋ではないのだなと思う。薄暗いのは陽が落ちているからではなく、ベッドの周りを覆ったカーテンが陽射しを遮っているからだと気がついた。
お世話になったことはないけれど、この場所に見覚えはある。私は、保健室のベッドで眠っていたのだ。
――さっきまで見ていた夢のことは、すっかり目覚めた今でも鮮明に覚えていた。
酷い悪夢を見た。本当に、酷い悪夢を見た。冬だというのにぐっしょりと寝汗をかいていて、それが気持ちが悪かった。心臓は様々に渦巻く感情にドクドクと音を立てて暴れていた。私はそんな胸を押さえながら、そこに柔らかな膨らみがあることに心の底から安堵する。
カーテンを透かして、何人かの人影が見えていた。背後の窓から差し込む陽射しを背負って、話し合っている何人かの人たちがカーテンに影を落としていた。
「泉はこう云っているが、お前はどうだ」
桜庭先生の声は、いつも通りに淡々としていたけれど。やる気のなさそうな口調は影を潜めていて、代わりにほんの少しの緊張感を孕んでいた。
「いや、それはいいッスけど……。滅茶苦茶痛かったッスよ……」
くぐもった声で不満そうに云うのは件の男の子だろうか。
どうやら私が寝ている横であの出来事の後始末をしているらしい。私も話に参加しないといけないな。そう思って身を起こすと、衣擦れの音が聞こえたのか、「ちょっと待ってください」と声がしてカーテンが開けられた。
「柊さん、起きましたか」
そう云ったのは擁護教諭の天原先生だった。つややかな黒髪は背中を半ば覆っていて、前髪は綺麗に切りそろえられている。日本人形のように清楚な印象を与える女性だ。
「はい、ご迷惑をおかけしました」
その声は少しかすれていて、私は小さく咳払いをする。
「――かがみ?」
問診をしたり脈を取られたりしているうちに、閉じられていたカーテンを開けてこなたが顔を出した。その向こうに件の男の子の心配そうな顔が垣間見えていた。鼻にはガーゼが詰められているようで、先ほどのくぐもった声はそのせいだろうと思った。けれど視線を隠すようにこなたがカーテンを引いて、その顔もすぐに見えなくなる。
「こなた、あんた……」
「よかった、かがみ大丈夫?」
そう云って私の額に手を当てるこなただった。
「大丈夫みたい、ってかおでこ触っても熱はないわよ」
「――そっか」
笑いながらペロリと舌を出す。
天原先生は、そんなこなたに先ほど私にしたのと同じような説明をした。緊張やストレスから迷走神経が刺激されて、脳に酸素がいかなくなって気を失うのだそうだ。
「その後中々眼が醒めなかったのは、疲れや寝不足の影響だったのでしょうね」
「あー、つまり寝ちゃってたってことですか?」
「そうとも云いますね」
「なるほど、つまりかがみんにねぼすけ属性が追加された、と……」
「されてねぇよ。なにがつまりだ」
突っ込まれて嬉しそうに笑っているこなたを見て、私は少しだけ安堵する。
――けれど。
ああ、こいつもいつも通りだ、なんてことは決して思わない。
あんな出来事の後で、こいつがいつもと同じだなんて事はありえない。今朝は騙されてしまったけれど、もう二度と騙されやしない。本気で仮面を被ったこなたは、どうやら私にも簡単には見破れないほどの演技をするようだ。ほっとしたのは、こなたが仮面を被れるほどの余裕を取り戻していたのは確かだと思ったからだ。
『周りの状況に合わせて的確に演技をしていくようなやつだった』
ふと、いつだかそうじろうさんが云っていた言葉を思い出す。
それは濡れたような月の下で、夜の海を見下ろしながら聞いた言葉だ。銀の糸のようにたなびく煙。風にゆれる木々の梢。無意識の底にたゆたう海。そんな光景を思い出す。
そう、それは秋にお墓参りについていったとき、夜のラウンジでそうじろうさんが云った言葉だ。
なるほど、と実感が沸く。当時はぴんとこなかった台詞だけれど、こんなこなたを見てしまえば、その言葉も納得がいくというものだ。
天原先生が出してくれた濡れタオルで顔を拭いて、身だしなみを整えてから起き上がる。こなたが心配そうによってきたけれど、大丈夫だからと云って押しとどめ、私はカーテンを引いて外に出た。
そこにはおよそ予想通りの人たちがいた。
窮屈そうにしている例の男の子。白衣に両手をつっこんでいる桜庭先生。こなたの担任の黒井先生。それと、いるとは思っていなかったけれど、我がC組の学級委員長。
思い起こせば彼女もあのとき教室にいたはずだったから、目撃者として呼ばれたのだろうか。天原先生とこなたもすぐにカーテンの向こうからやってきて、それで話の出席者は全員だろう。
「……あー、なんつーか、悪かったよ、柊。あんなにショック受けるとは思わなかったんだ」
私と眼が合った途端、ばつが悪そうに眼を伏せて男の子が云う。
その態度を見る限り、本当にあの発言に他意はなかったのだろう。私を傷つけようとして云った言葉ではなかったのだろう。
無邪気に他人を傷つけ、しかもそれに気づいていない人間と、明確な悪意を持って誰かを傷つける人間、より度し難いのはどちらなのだろう。そんな答えがでるはずもない疑問をちらりと考える。
「うん、もういいわよ、気にしてないから。私もちょっと過剰反応だったかもしれないしね」
「まあでも、あれは一、二発ぶん殴られても仕方ないと思うよ。私も正直むかついたもん」
委員長がそう云うと、男の子はますます縮こまっていった。そんな彼を見て、私はなんだか酷く悲しくなってしまった。これから先、私は彼にどんな種類の好意も抱くことはないだろう。そう思ってしまう私が、そうさせてしまった彼が、なんだか酷く悲しいと思った。
「せやけどまあ、泉がしたんは明らかにやりすぎやなぁ」
「私が診た限りでは、投げられた打ち身は大したことはないです。鼻も骨は折れていませんし、出血ももう止まっているようで、怪我の程度としては軽傷もいいところですね」
「まあ警察沙汰にするほどのことでもないだろう。上に報告はするが、学年内で収めるよ。……で、残るは当事者間のことになるわけだが」
――どうだお前は、親御さんを呼ばれたいか?
桜庭先生は、ずいと見上げるようにして、糸目を見開いて男の子の顔を凝視する。
「……あ、いや、オレは……できれば云わないで欲しいと……」
ちらりとこなたの方を見て男の子は云った。それもそうなのだろうと思う。どう見ても小学生みたいなこなたにぶん投げられ良いように殴られて、それをよくもやったなと糾弾すると云うのは、男の子にとっては屈辱なのだろう。
「せやけど泉の方は――」
黒井先生がそう云いかけた言葉を、こなたが叫ぶようにして遮った。
「そ、それだけはどうかご勘弁をっ! レバ剣でもなんでも差し上げますからっ」
「うぉいっ、いくらウチでもそこまで公私混同せんわ! そもそもウィズが片手剣もらってもしょーもないやん」
「そ、それじゃ夜天の魔導書で手を打つというのは? あれドロップするネームドってプレイスホルダーが無駄に強い上にタイマーは二十四時間だしライバルは多いしで、わたしプルには自信が――」
「ええから受験生は勉強せえっ!」
他のメンバーが眼を白黒させている前で、ついに雷が落ちてこなたの饒舌をせき止めた。本当にこいつは仮面を被っているのだろうか。ちらりとそんなことを思う。
きっと大部分は素のままなのだろう。賑やかで無邪気な仮面で傷口を覆って、さも本人もそれに気がついていないように振る舞っているのだ。その傷は、今もどくどくと血を流しているはずなのに。
――けれどきっと、それは私がしていることと同じことなのだ。
「まあ、泉もいいんじゃないですか。謝っていたことですし。……お前はどうだ?」
桜庭先生が水を向けると、男の子もしぶしぶと云った感じでうなずいた。
「本当、ごめんね?」
可愛く小首を傾げて、両手を顔の前で合わせてウィンクをするこなただった。その余りの白々しさに、男の子以外の、普段からこなたのことをよく知っている全員が仰け反った。
「ま、まあ。お前は二度と他人に対してああいう発言はするな。泉は二度と他人に手をあげるな。以上終わり」
――はい。と異口同音に答えたところで、桜庭先生がひらひらと手を振って解散をうながした。やはり皆緊張していたのだろう。その瞬間、保健室にいた誰もがほっとしたようだった。
こなたは黒井先生に頭を押さえられながら出口に向かっていき、委員長は私の背中をぽんと叩いて笑いかけてくれた。
「――ありがとう」
私がそう云ったとき、こなたががらりとドアを開けて。
――その瞬間、沢山の声が降ってきた。
「お姉ちゃん、こなちゃん、大丈夫?」
「こなたさん、かがみさん、どうなりましたか?」
「かがみちゃんに泉ちゃん、平気なの?」
「おお、ちびっ子っ! お前マジですごかったんだってなっ」
全員一斉に喋りだして、何がなんだかわからない。
案の定、そこにはつかさにみゆき、あやのとみさおが、心配そうな顔をして私たちが出てくるのを待っていたのだった。一人だけずれた発言をしている奴がいるようだけれど、きっと気のせいだろう。
こなたが私の方を振り向いて苦笑とも取れる笑いを見せて、私もそれに笑い返した。けれど、そうして保健室から出ようとしたときに、桜庭先生の声が聞こえてきたのだった。
「あー、柊姉。お前はちょっと残れ」
振り返ると、桜庭先生と天原先生が真剣な眼差しで私のことをみつめている。
――ああ、そうか。
二人がどんな話をしたいのか。なんとなくそれに気がついた。
「おや、まだなんや話が残ってたんかいな」
「いや、こっちの話ですよ」
「……ああ、なるほど。そっちの話やな」
黒井先生は頬を掻きながら、つかさ達に一言二言声を掛けて去っていった。私は心配そうなつかさ達にごめんと謝って、ドアを閉めて桜庭先生達に向き合った。
「――どっちの話、なんでしょう?」
「そりゃ勿論、三年C組の話だ」
苦笑している桜庭先生に近づいて、私は小声でこう云った。
「お話は外に聞こえないようにお願いします。きっとみんな聞き耳立てていますから」
「ああ、わかってる」
私たちは奥のスペースまで引っ込んで、並んでいるベッドに腰を掛けた。私に向き合うように桜庭先生と天原先生が座っていて、なんだか面談みたいだなと私は思った。
「――柊は、同性を好きになれる人間だろう?」
「……はい。私はバイみたいですけれど。……やっぱりわかっちゃいますか?」
「まあ、同類はな。なんとなくわかるもんだ」
そう云って、白衣のポケットから煙草を取り出して吸おうとする桜庭先生だった。けれど口にくわえたところでそれを天原先生が取り上げて、プラスチックの禁煙パイポと取り替えた。
文句も云わずにそれをくわえているところを見ると、きっと良くある儀式みたいなものなのだろう。
「そうですね」
私はそれを、眩しい物を見るような思いで眺めていた。
「泉か」
「……はい」
「泉のほうは――」
「こなたは、ヘテロでしょう。あんなですけど、本質は至ってストレートだと思います」
「そうか……あいつのことは良く読めないが。お前がそう云うならそうなのだろうな」
私はうなずいて思う。
そう、あいつは異性愛者だ。もし私に性的な関心があったなら、あんな風に無邪気に触れてくるはずがない。べたべたと相手に甘えて気を惹こうとする女性もいるけれど、そんな媚態は見ればそれとわかるものだ。それに、そんな目的だったならもっと意味ありげに触れようとするだろう。
こなたのあの触れ方は、あのいじり方は、ただ楽しい玩具を見つけた子供のそれだった。その度に私が顔を赤らめたり憎まれ口を叩いたりするのを見て、それを楽しむための接触。あるいは身体同士を触れあわせることで仲の良さを確認する、女の子同士の無邪気なスキンシップ。
実際に、私のセクシャリティは見破ったみゆきが『期待するな』と云っているのだ。その時点で、こなたが私のことを好きになれる可能性はほとんどないと云っていいだろう。
「柊さんは、自分の性的指向についてどれくらい把握していますか? 今苦しい? 自分は間違っていると感じている?」
「とりあえず、セクシャリティやジェンダーに関する本は色々と読みました。私は私を受け入れています。でも……」
「でも?」
天原先生は優しく私の手を取って、穏やかな口調で問いかける。
「苦しいです。私は苦しいです……こなたのことが好きだから」
そう云ったら涙が零れてしまいそうになって、私は慌てて顔を手で覆ってうつむいた。
「少しはわかるつもりですよ。本当に……親友を好きになってしまうと辛いものよね」
うつむいたままの私の肩をふわりと抱きしめて、天原先生がそう云った。
「はい……」
口を開いたら、こらえていた涙が零れ出してしまった。ぽろぽろと零れていく涙を止めようもなくて、私は肩を振わせて泣き出した。本当に私は近頃泣いてばかりいる、そんなことを心のどこかで考えた。
ベッドがギイと軋み、衣擦れの音が聞こえてくる。桜庭先生が立ち上がったのだろう。
そのまま窓際の方まで歩いていくと、桜庭先生はがらりと窓を開けた。カチカチと音がしているところからすると、きっと煙草を吸おうとしているのだろう。天原先生も、今度はそれを止めなかった。
「泉さんって、どこかひかるちゃんに似ている気がするわ」
そんなことを云うので、私は思わず笑ってしまった。泣きながら笑ってしまった。
「私も、私もそう思ってました」
「ふふ、私たちって、どこか似ているのかもしれませんね。お互いに似たような女の子を好きになってしまって」
――よかったら、泉さんの素敵なところ聞かせてくれないかな?
天原先生のそんな言葉に促されて、私はこなたのことを語り始めた。不思議なほど素直に、私はそうすることができたのだ。
こなたがどれだけ優しいか。
こなたがどれだけ可愛いか。
いつも周りに気を配っていて、けれど明るくて、一緒にいると楽しくて、私の厭な所も全部長所に変えてくれて。
実は私以上にツンデレなところがあるだとか。家庭の事情で本当は寂しがり屋だったりするのだとか。家事とか料理が得意で女の子らしいところも沢山あるのだとか。
閉口するようなオタク趣味もあるけれど、ときに呆れるほど自分自身に気を遣わない所もあるけれど。そんなこなたの全てを私は好きなのだと。
私は、語った。
誰にも云えなかった気持ちを、赤裸々にありのままに解放していった。
それはつかさにもみゆきにも云えなかった言葉だ。死ぬまで心の裡に秘めていようと思っていた言葉だ。いくら理解してくれていても、異性愛者の二人には云えるはずもない、そんな恋心を私はぽつりぽつりと天原先生に伝えていった。
天原先生は口を挟まず、たまに相づちを打ちながらただ聞いてくれていた。優しく肩に回された手が、私に勇気を与えてくれていた。
一言一言、口に出す度に気持ちが軽くなっていく。
澱のように心の中に降り積もっていて、今にもその中で窒息しそうだった淀んだ思いが、少しずつ透明になっていく。
窓から冷たい風が吹きこんでくるけれど、不思議なほど寒くはなかった。微かに漂ってくる煙草の匂いも、なぜだか嫌だとは思わなかった。遠くから聞こえてくる車のクラクション。一、二年生だろうか、窓の外を通っていく生徒達の笑い声。カチカチと時を刻んで揺れる壁掛け時計の音。
そんな保健室で、私は、少しだけ立ち向かうための力を得ることができたのだ。
『周りの状況に合わせて的確に演技をしていくようなやつだった』
ふと、いつだかそうじろうさんが云っていた言葉を思い出す。
それは濡れたような月の下で、夜の海を見下ろしながら聞いた言葉だ。銀の糸のようにたなびく煙。風にゆれる木々の梢。無意識の底にたゆたう海。そんな光景を思い出す。
そう、それは秋にお墓参りについていったとき、夜のラウンジでそうじろうさんが云った言葉だ。
なるほど、と実感が沸く。当時はぴんとこなかった台詞だけれど、こんなこなたを見てしまえば、その言葉も納得がいくというものだ。
天原先生が出してくれた濡れタオルで顔を拭いて、身だしなみを整えてから起き上がる。こなたが心配そうによってきたけれど、大丈夫だからと云って押しとどめ、私はカーテンを引いて外に出た。
そこにはおよそ予想通りの人たちがいた。
窮屈そうにしている例の男の子。白衣に両手をつっこんでいる桜庭先生。こなたの担任の黒井先生。それと、いるとは思っていなかったけれど、我がC組の学級委員長。
思い起こせば彼女もあのとき教室にいたはずだったから、目撃者として呼ばれたのだろうか。天原先生とこなたもすぐにカーテンの向こうからやってきて、それで話の出席者は全員だろう。
「……あー、なんつーか、悪かったよ、柊。あんなにショック受けるとは思わなかったんだ」
私と眼が合った途端、ばつが悪そうに眼を伏せて男の子が云う。
その態度を見る限り、本当にあの発言に他意はなかったのだろう。私を傷つけようとして云った言葉ではなかったのだろう。
無邪気に他人を傷つけ、しかもそれに気づいていない人間と、明確な悪意を持って誰かを傷つける人間、より度し難いのはどちらなのだろう。そんな答えがでるはずもない疑問をちらりと考える。
「うん、もういいわよ、気にしてないから。私もちょっと過剰反応だったかもしれないしね」
「まあでも、あれは一、二発ぶん殴られても仕方ないと思うよ。私も正直むかついたもん」
委員長がそう云うと、男の子はますます縮こまっていった。そんな彼を見て、私はなんだか酷く悲しくなってしまった。これから先、私は彼にどんな種類の好意も抱くことはないだろう。そう思ってしまう私が、そうさせてしまった彼が、なんだか酷く悲しいと思った。
「せやけどまあ、泉がしたんは明らかにやりすぎやなぁ」
「私が診た限りでは、投げられた打ち身は大したことはないです。鼻も骨は折れていませんし、出血ももう止まっているようで、怪我の程度としては軽傷もいいところですね」
「まあ警察沙汰にするほどのことでもないだろう。上に報告はするが、学年内で収めるよ。……で、残るは当事者間のことになるわけだが」
――どうだお前は、親御さんを呼ばれたいか?
桜庭先生は、ずいと見上げるようにして、糸目を見開いて男の子の顔を凝視する。
「……あ、いや、オレは……できれば云わないで欲しいと……」
ちらりとこなたの方を見て男の子は云った。それもそうなのだろうと思う。どう見ても小学生みたいなこなたにぶん投げられ良いように殴られて、それをよくもやったなと糾弾すると云うのは、男の子にとっては屈辱なのだろう。
「せやけど泉の方は――」
黒井先生がそう云いかけた言葉を、こなたが叫ぶようにして遮った。
「そ、それだけはどうかご勘弁をっ! レバ剣でもなんでも差し上げますからっ」
「うぉいっ、いくらウチでもそこまで公私混同せんわ! そもそもウィズが片手剣もらってもしょーもないやん」
「そ、それじゃ夜天の魔導書で手を打つというのは? あれドロップするネームドってプレイスホルダーが無駄に強い上にタイマーは二十四時間だしライバルは多いしで、わたしプルには自信が――」
「ええから受験生は勉強せえっ!」
他のメンバーが眼を白黒させている前で、ついに雷が落ちてこなたの饒舌をせき止めた。本当にこいつは仮面を被っているのだろうか。ちらりとそんなことを思う。
きっと大部分は素のままなのだろう。賑やかで無邪気な仮面で傷口を覆って、さも本人もそれに気がついていないように振る舞っているのだ。その傷は、今もどくどくと血を流しているはずなのに。
――けれどきっと、それは私がしていることと同じことなのだ。
「まあ、泉もいいんじゃないですか。謝っていたことですし。……お前はどうだ?」
桜庭先生が水を向けると、男の子もしぶしぶと云った感じでうなずいた。
「本当、ごめんね?」
可愛く小首を傾げて、両手を顔の前で合わせてウィンクをするこなただった。その余りの白々しさに、男の子以外の、普段からこなたのことをよく知っている全員が仰け反った。
「ま、まあ。お前は二度と他人に対してああいう発言はするな。泉は二度と他人に手をあげるな。以上終わり」
――はい。と異口同音に答えたところで、桜庭先生がひらひらと手を振って解散をうながした。やはり皆緊張していたのだろう。その瞬間、保健室にいた誰もがほっとしたようだった。
こなたは黒井先生に頭を押さえられながら出口に向かっていき、委員長は私の背中をぽんと叩いて笑いかけてくれた。
「――ありがとう」
私がそう云ったとき、こなたががらりとドアを開けて。
――その瞬間、沢山の声が降ってきた。
「お姉ちゃん、こなちゃん、大丈夫?」
「こなたさん、かがみさん、どうなりましたか?」
「かがみちゃんに泉ちゃん、平気なの?」
「おお、ちびっ子っ! お前マジですごかったんだってなっ」
全員一斉に喋りだして、何がなんだかわからない。
案の定、そこにはつかさにみゆき、あやのとみさおが、心配そうな顔をして私たちが出てくるのを待っていたのだった。一人だけずれた発言をしている奴がいるようだけれど、きっと気のせいだろう。
こなたが私の方を振り向いて苦笑とも取れる笑いを見せて、私もそれに笑い返した。けれど、そうして保健室から出ようとしたときに、桜庭先生の声が聞こえてきたのだった。
「あー、柊姉。お前はちょっと残れ」
振り返ると、桜庭先生と天原先生が真剣な眼差しで私のことをみつめている。
――ああ、そうか。
二人がどんな話をしたいのか。なんとなくそれに気がついた。
「おや、まだなんや話が残ってたんかいな」
「いや、こっちの話ですよ」
「……ああ、なるほど。そっちの話やな」
黒井先生は頬を掻きながら、つかさ達に一言二言声を掛けて去っていった。私は心配そうなつかさ達にごめんと謝って、ドアを閉めて桜庭先生達に向き合った。
「――どっちの話、なんでしょう?」
「そりゃ勿論、三年C組の話だ」
苦笑している桜庭先生に近づいて、私は小声でこう云った。
「お話は外に聞こえないようにお願いします。きっとみんな聞き耳立てていますから」
「ああ、わかってる」
私たちは奥のスペースまで引っ込んで、並んでいるベッドに腰を掛けた。私に向き合うように桜庭先生と天原先生が座っていて、なんだか面談みたいだなと私は思った。
「――柊は、同性を好きになれる人間だろう?」
「……はい。私はバイみたいですけれど。……やっぱりわかっちゃいますか?」
「まあ、同類はな。なんとなくわかるもんだ」
そう云って、白衣のポケットから煙草を取り出して吸おうとする桜庭先生だった。けれど口にくわえたところでそれを天原先生が取り上げて、プラスチックの禁煙パイポと取り替えた。
文句も云わずにそれをくわえているところを見ると、きっと良くある儀式みたいなものなのだろう。
「そうですね」
私はそれを、眩しい物を見るような思いで眺めていた。
「泉か」
「……はい」
「泉のほうは――」
「こなたは、ヘテロでしょう。あんなですけど、本質は至ってストレートだと思います」
「そうか……あいつのことは良く読めないが。お前がそう云うならそうなのだろうな」
私はうなずいて思う。
そう、あいつは異性愛者だ。もし私に性的な関心があったなら、あんな風に無邪気に触れてくるはずがない。べたべたと相手に甘えて気を惹こうとする女性もいるけれど、そんな媚態は見ればそれとわかるものだ。それに、そんな目的だったならもっと意味ありげに触れようとするだろう。
こなたのあの触れ方は、あのいじり方は、ただ楽しい玩具を見つけた子供のそれだった。その度に私が顔を赤らめたり憎まれ口を叩いたりするのを見て、それを楽しむための接触。あるいは身体同士を触れあわせることで仲の良さを確認する、女の子同士の無邪気なスキンシップ。
実際に、私のセクシャリティは見破ったみゆきが『期待するな』と云っているのだ。その時点で、こなたが私のことを好きになれる可能性はほとんどないと云っていいだろう。
「柊さんは、自分の性的指向についてどれくらい把握していますか? 今苦しい? 自分は間違っていると感じている?」
「とりあえず、セクシャリティやジェンダーに関する本は色々と読みました。私は私を受け入れています。でも……」
「でも?」
天原先生は優しく私の手を取って、穏やかな口調で問いかける。
「苦しいです。私は苦しいです……こなたのことが好きだから」
そう云ったら涙が零れてしまいそうになって、私は慌てて顔を手で覆ってうつむいた。
「少しはわかるつもりですよ。本当に……親友を好きになってしまうと辛いものよね」
うつむいたままの私の肩をふわりと抱きしめて、天原先生がそう云った。
「はい……」
口を開いたら、こらえていた涙が零れ出してしまった。ぽろぽろと零れていく涙を止めようもなくて、私は肩を振わせて泣き出した。本当に私は近頃泣いてばかりいる、そんなことを心のどこかで考えた。
ベッドがギイと軋み、衣擦れの音が聞こえてくる。桜庭先生が立ち上がったのだろう。
そのまま窓際の方まで歩いていくと、桜庭先生はがらりと窓を開けた。カチカチと音がしているところからすると、きっと煙草を吸おうとしているのだろう。天原先生も、今度はそれを止めなかった。
「泉さんって、どこかひかるちゃんに似ている気がするわ」
そんなことを云うので、私は思わず笑ってしまった。泣きながら笑ってしまった。
「私も、私もそう思ってました」
「ふふ、私たちって、どこか似ているのかもしれませんね。お互いに似たような女の子を好きになってしまって」
――よかったら、泉さんの素敵なところ聞かせてくれないかな?
天原先生のそんな言葉に促されて、私はこなたのことを語り始めた。不思議なほど素直に、私はそうすることができたのだ。
こなたがどれだけ優しいか。
こなたがどれだけ可愛いか。
いつも周りに気を配っていて、けれど明るくて、一緒にいると楽しくて、私の厭な所も全部長所に変えてくれて。
実は私以上にツンデレなところがあるだとか。家庭の事情で本当は寂しがり屋だったりするのだとか。家事とか料理が得意で女の子らしいところも沢山あるのだとか。
閉口するようなオタク趣味もあるけれど、ときに呆れるほど自分自身に気を遣わない所もあるけれど。そんなこなたの全てを私は好きなのだと。
私は、語った。
誰にも云えなかった気持ちを、赤裸々にありのままに解放していった。
それはつかさにもみゆきにも云えなかった言葉だ。死ぬまで心の裡に秘めていようと思っていた言葉だ。いくら理解してくれていても、異性愛者の二人には云えるはずもない、そんな恋心を私はぽつりぽつりと天原先生に伝えていった。
天原先生は口を挟まず、たまに相づちを打ちながらただ聞いてくれていた。優しく肩に回された手が、私に勇気を与えてくれていた。
一言一言、口に出す度に気持ちが軽くなっていく。
澱のように心の中に降り積もっていて、今にもその中で窒息しそうだった淀んだ思いが、少しずつ透明になっていく。
窓から冷たい風が吹きこんでくるけれど、不思議なほど寒くはなかった。微かに漂ってくる煙草の匂いも、なぜだか嫌だとは思わなかった。遠くから聞こえてくる車のクラクション。一、二年生だろうか、窓の外を通っていく生徒達の笑い声。カチカチと時を刻んで揺れる壁掛け時計の音。
そんな保健室で、私は、少しだけ立ち向かうための力を得ることができたのだ。
「なにか困ったことがあったらいつでも掛けてこい」
そう云って桜庭先生は、二人分のケータイ番号をメモに書いて渡してくれた。
「ありがとうございます。どうしようもなくなったら、また泣きつくかもしれません」
「柊さんは頑張りすぎる傾向があるから気をつけてくださいね。それは一人で立ち向かうには大きすぎるものですから」
「はい。でもきっと大丈夫です。……頼れる、友達がいますから」
「――そう」
にっこりと笑った天原先生のことを、私はとてもきれいだと思う。
そうしてもう一度お辞儀をして、私は保健室のドアを開けて外に出た。
そう云って桜庭先生は、二人分のケータイ番号をメモに書いて渡してくれた。
「ありがとうございます。どうしようもなくなったら、また泣きつくかもしれません」
「柊さんは頑張りすぎる傾向があるから気をつけてくださいね。それは一人で立ち向かうには大きすぎるものですから」
「はい。でもきっと大丈夫です。……頼れる、友達がいますから」
「――そう」
にっこりと笑った天原先生のことを、私はとてもきれいだと思う。
そうしてもう一度お辞儀をして、私は保健室のドアを開けて外に出た。
――ドスン。
その途端何かが床に落ちる音が聞こえてきて、思わず声を上げて飛びずさってしまった。
「どうした柊」
その音に驚いたのか、桜庭先生もこちらに駆けてきた。
「……な、なにやってんのよあんたたち」
頭痛い。
そこに、床に転がりながら喜色満面の笑みを浮かべるみさおがいた。こなたはその袖を掴んだまま、心底嫌そうな表情を浮かべているのだった。
――これはつまり。
「か、かがみ。これはその、みさきちがどうしてもって……」
「おー、かがみ、すっげーぜちびっ子のアイキドー。お前も投げられてみろよ!」
「場所と状況を考えろこのバカっ! 遊んでる場合か!!」
「どうした柊」
その音に驚いたのか、桜庭先生もこちらに駆けてきた。
「……な、なにやってんのよあんたたち」
頭痛い。
そこに、床に転がりながら喜色満面の笑みを浮かべるみさおがいた。こなたはその袖を掴んだまま、心底嫌そうな表情を浮かべているのだった。
――これはつまり。
「か、かがみ。これはその、みさきちがどうしてもって……」
「おー、かがみ、すっげーぜちびっ子のアイキドー。お前も投げられてみろよ!」
「場所と状況を考えろこのバカっ! 遊んでる場合か!!」
本当に、こいつらは頼れる友達なんだろうか。
思わず天原先生に云った言葉を撤回したくなる。
思わず天原先生に云った言葉を撤回したくなる。
――あやのとつかさとみゆきは、少し離れたところで他人のふりをしているのだった。
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『4seasons』 冬/きれいな感情(第七話)へ続く
『4seasons』 冬/きれいな感情(第七話)へ続く
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- 今回も読みました、頑張ってください! -- 名無しさん (2008-06-23 00:25:26)
- あえて言おう…男ざまぁwww -- 名無しさん (2008-06-22 20:32:46)
- 反作用という言葉がうまく生かされていたと思う。 -- 名無しさん (2008-06-22 15:07:16)
- 今回も面白かったです。GJです。
-- 名無しさん (2008-06-22 15:05:36) - 理解ある友人達と、同じ立場の先生達……かがみは確かに恵まれてる。
でもやっぱり、頼るのが下手だなとも思う。こなたは輪をかけてだけど。 -- 名無しさん (2008-06-21 23:10:53)