剣が主か主の剣か◆cNVX6DYRQU
白井亨が生きた時代は近代剣術の興隆期と重なる。
竹刀と防具の普及によって怪我の心配なく毎日何十、あるいは何百もの試合をする事ができるようになり、
遺恨を残す心配なく他流試合を行えるようにもなって流派間の交流が盛んになった。
これによって剣術の技は大いに発展したが、一方でそれが剣術が本道から外れる端緒となったという批判もある。
剣士達が竹刀の打ち合いを制する事ばかりを考えるようになり、剣術は実戦では通用しないただの競技に堕したと。
そんな中にあって、白井亨は小手先の技に頼らぬ真の剣術を追求した剣客である。
といっても竹刀剣術を軽侮していたわけでは決してない。
むしろ積極的に竹刀稽古を取り入れ、その熱心さはあの千葉周作も驚嘆したほどであった。
その一方で、竹刀剣術を剣法の真理に背くと嫌い心法を重視した寺田宗有に弟子入りして学び、その流儀を継いだ。
他にも小笠原源信斎という剣客が明国の武術を元に開発した「八寸の延金」なる技を復活させるなど、
偏見に囚われる事無く、ただ真摯に剣術の奥義を追求し続けた剣客である。
五尺三寸の長竹刀をもって江戸中の剣客を薙ぎ倒した大石進に唯一人完全な勝利を収めたという事からも、
彼の中で古流の強さと近代剣術の技が互いの持ち味を殺すことなく共存していたことが伺える。
そんな白井であるから、このような異様な事態にも必要以上に慌てたりはしなかった。
「どうやら、私の理解を越えることが起きているようだな」
手も触れずに吹き飛ばされた村山という男の首、煙に包まれたと思ったらいつの間にか橋の上に立っていた己、
そして、行李の中にあった人別帖に記されている遙か昔の剣客達の名前……
「狐狸妖怪の仕業か、或いは神仏が私に課した試練か」
考え込む白井だったが、誰かが近付いてくる気配を感じて顔を上げ、皮肉な巡り合せに思わず苦笑する。
歩いてきた剣客が手にしている得物が、あの大石進が使っていたのと同様の五尺三寸の長竹刀だったからだ。
柳生厳包が白井の存在に気付くのが遅れたのは厳包の感覚が鈍いからでは決してなく、葛藤のさなかにあったせいだ。
(但馬守宗矩、十兵衛三厳……いや、いかん。臣たるもの、己の望みより先に主君の御為を考えねば。
上様御乱心……これは殿にとっては願ってもない好機になるやも知れぬ)
将軍に剣法を上覧せよと言われて来てみればいきなり数十人に一人しか生き残れぬ殺し合いを強要される……
死病に罹った家光が乱心してこのような暴挙に出たと厳包が考えたのも無理のない事であろう。
これが正しければ、将軍に斯様な愚行を許した事実はそれを補佐する幕閣に天下の政を担う資格がない証拠となる。
そして、幕閣の失脚は、厳包の主君徳川光友の天下の権を握らんとする野心を実現する大きな一歩になるだろう。
ならば厳包がこの場でするべき事は一つだ。
この試合の主催者が徳川家光である事をその眼で確かめ、その非道を糾弾し、殺し合いを中止させるよう申し入れる。
もしそれで家光が怒って厳包を討たせようとすれば、斬り抜けた上で藩に報告し、その後の指示を仰ぐ。
危険を伴う方法ではあるが、光友が堂々と将軍や幕閣を糾弾する為には臣である自分が筋を通さねばならぬのだ。
今後の指針は決まった……なのに厳包がすぐに行動に移れなかったのは、尾張を発つ時に聞いたある言葉のせいだった。
『柳生宗冬は父や兄に似ぬ柔弱な男と聞きます。もし試合をする事になっても厳包殿の勝利は疑いありません。
不世出の剣士と謳われた彼の兄が先年亡くなったのは天が厳包殿を援けるものと言えるでしょう』
同僚が、おそらくは善意から発した言葉……しかしその言葉は棘のようにずっと厳包の胸に刺さっていた。
まるで十兵衛が存命なら厳包に勝ち目がなかったとでも言うようなその言葉を、厳包は決して受け入れられない。
尾張柳生は新陰流正統、宗矩だろうが十兵衛だろうが立ち会えば必ず勝てるという自負が厳包にはあった。
無論、宗矩も十兵衛も既に故人であるから立ち会うなど不可能……そう思っていた所に、あの白洲での出来事だ。
宗矩も十兵衛も生きていた……死を偽装した理由はわからないが、それは厳包にはどうでも良い事だ。
それよりも彼等二人の生存は厳包にとっては尾張柳生の江戸柳生に対する優位をはっきりと示す正に好機と言える。
だが、尾張藩士としては今は家光を探す事を第一に考えるべきであり、余計な勝負で危険を冒すのは愚策だ。
臣下としての使命か、剣士としての欲求か、その葛藤に悩まされながら橋を渡る途中、厳包は漸く彼に気付いた。
「私は白井亨と言います。あなたは?」
「柳生厳包と申す。一つ伺うが、貴殿はこの場にて命じられた通り殺し合いをするつもりか?」
厳包の名を聞いて白井は驚いた顔を見せるが、すぐに笑って言う。
「まさか。そのような恐ろしい事に加担するつもりはありません。殺し合いなど、何とかして止めねば。
殺し合いでなければ貴方のような高名な剣士とは是非一手お手合わせを願いたいところなのですがね」
「ならば――」
ならばこの邪悪な企てを叩き潰す為に協力しよう……厳包はそう言うつもりだったのだが、
「ならばまずは一勝負致そうか。幸いな事に貴殿の得物は木刀、こちらもこのように妙な武器だが真剣ではない」
実際に口から出た言葉はそれだった。
己の言葉に戸惑う厳包を他所に、白井は可笑しそうに微笑むと話を進める。
「それは新陰流の袋竹刀を元に、打たれて怪我をする危険を更に小さく改良した割竹刀と申す稽古や試合用の刀です。
確かに私達に渡されたのが共に真剣でなかったのは天の導きかもしれません。では一勝負……どうかされましたか?」
白井が怪訝そうに聞いてくるが、まさかここまで来て言を翻す訳にはいかない。
「いや、この割竹刀とというのは良い出来だと考えていたまで。この場を生きて帰れれば当家にも導入してみようかと。
ただ、これはいかにも長すぎるようだが、これも稽古の為にわざとそうしているのか?」
「いえ、それが特別に長いだけですよ。まあ、特別に長いのはこの木刀も同様ですが」
そう言って白井が掲げる木刀も四尺を越える、舟の櫂のように太く長大なものだ。
「ならば条件はそう変わらぬな。いざ、参ろうか」
二人は行李を置いて武器を構え、しばらく睨み合っていたが、やがて厳包が竹刀を下げて言う。
「どうやら貴殿にはその木刀は少々重過ぎるようだな」
確かに、構えていたのは短い時間だったにもかかわらず、白井の腕は既に疲れを覚えていた。
「お恥ずかしい事です。しかし、気遣いは無用」
「いや、貴殿が実力を発揮できねばせっかく勝負する甲斐がないというもの。よろしければ武器を交換いたそう。
この竹刀なるものは長い割には軽いし、こちらも使い慣れぬ竹刀などよりその木刀の方が都合が良い」
そうまで言われ、白井も素直に武器の交換に応じてついに二人の剣客の勝負が始まった。
「やあっ」
攻勢に立ったのは白井……間合いの優位を活かして竹刀稽古で鍛えた二段打ち・三段打ちの技で厳包を攻め立てる。
小兵の白井には長すぎる竹刀だが、かつて戦った大石進の太刀筋を思い出して徐々に扱い方を掴んで行く。
そして、長竹刀の特性を完全に体得して一気に攻め立てようとした矢先、竹刀が急に軽くなった。
厳包が木刀で竹刀の先二尺余を切り飛ばしたのだ。
「これは……!」
「良い腕だが、貴殿の剣には勢いが欠けているようだな」
真剣を持てば甲冑すら切り裂こうかという厳包の剛剣に、さすがの白井も驚愕して後ずさる。
「今度はこちらから参ろう」
先程までは間合いに於いて白井の一尺余の有利だったのが、竹刀を切断されたせいで今では一尺の不利。
しかも、竹刀を切り飛ばす技を見せられたばかりでは厳包の木刀を迂闊に受ける事もできず、白井は忽ち追い詰められる。
だが、そのまま屈するような白井ではない。
後に跳躍して距離を取ると、厳包の間合いの外から渾身の突きを繰り出す。
もちろん、そのような間合いからの突きが届く筈もないのだが、何という事か、白井の竹刀が伸びて炎の如く厳包に迫る。
しかし……
「ふん!」
厳包がキッと睨むと伸びたかに見えた竹刀の切っ先が消え失せる。
竹刀が伸びたのではなく、あれは剣気……剣気を高める事で剣が伸びたように錯覚させる古流の心法だ。
並の剣士ならば為す術なく剣気に貫かれるか剣気を避けようとして隙を作る所だが、流石に厳包ほどの剣士には通じない。
しかし、白井は怯んだ様子もなくもうひと突き、再び竹刀の切っ先が伸びて厳包に迫る。
「無駄な事を……」
厳包は通じぬと分かっている技を繰り返す白井に鼻白んだ様子を見せると再び白井の剣尖を睨み……今度は剣が消えない。
「何!?」
何故なら今回の白井の剣は実体……切っ先が伸びたと見えたのは白井の踏み込みが厳包の見立てよりも深かったせいだ。
数万試合の竹刀稽古によって磨きぬかれた白井の足捌きが、さしもの厳包の眼力をも凌いだのである。
対処が遅れた厳包の手元にまでつけこんだ切先は輪を描いて厳包の木刀を跳ね飛ばさんとする。
「ぬうっ」
辛うじて木刀が飛ばされるのを防いだ厳包だが、体勢が崩れたところへの白井の袈裟斬りを避けきれずに掠られる。
「惜しい……」
思わず呟いた厳包の言葉の意味を吟味する間もなく白井は更に踏み込んで横面を打ち込み――
「何を!?」
白井の一撃は厳包に防がれた……厳包の腕で。
戸惑って動きが止まった白井の竹刀を厳包が素手で掴む。
普通の試合なら審判が厳包の反則を宣する所だが、この御前試合に審判は……少なくとも真っ当な審判はいない。
厳包は片手で竹刀を掴んだまま突きを繰り出し、白井は何とか腕で受けるが数間も吹き飛び、行李にぶち当たって砕く。
「ぐ……」
白井が何とか顔を上げると厳包が無表情に木刀を構えて近付いてくる……こちらを殺す気なのは明らかだ。
(惜しい腕だが已むを得ぬ)
厳包は苦さと共に白井の殺害を決意する。
新陰流の敗北、或いは卑怯な手を使ったという謗りは尾張藩、そして新陰流四世宗家である先君義直の恥となる。
今の勝負、厳包自信は負けたとも卑怯とも思わぬが、剣を知らぬ世人はそう受け取らないかもしれない。
故に、実に惜しい剣士ではあるがここで白井を殺し、その口を塞いでおかねばならない。
白井は立ち上がってじりじりと下がるが、厳包はどんどんと間合いを詰めていく。
一足一刀の間合いまで近付いて一気に飛びかかろうとしたところで、厳包は風を切って飛んで来た礫を叩き落す。
その後も白井は連続して、地に倒れた折に拾ったのであろう小石を厳包の顔面めがけて投げてくる。
ただの礫ではあるが、白井は手裏剣でも一流を拓いた程の達人、厳包も簡単には近付けない。
そんな中、飛んで来た礫の一つを叩くと、礫が割れて中から真っ黒い液体が吹き出す。
それは行李の中にあった墨壷。
吹き飛ばされて行李にぶつかった時に、白井が咄嗟の早業で拾い上げておいたものだ。
素早く身を翻して墨を浴びずに済んだのは流石は
柳生連也斎と讃えられるべき入神の動きだったが、
厳包が眼を離した隙に白井は背を向けて駆け去り、厳包に追う間も与えずに川に身を投じた。
「しまった!」
急いで川を覘くが流れが速く、既に白井の姿は見えない。
(万に一つも生きて帰すわけには行かぬ)
素早く行李を拾うと、厳包は足早に川下目指して進んでいく。
(もはや迷うまい。迷いは剣に澱みを生む)
要は尾張藩士としての使命を妨げない範囲で剣士としての道を全うすれば良いのだ。
戦意のある剣士は打ち倒して尾張柳生の強さを示し、戦意のない者は生かしておいて将軍の非道の証人とする。
江戸柳生にしても、宗矩が死を偽装した上にこのような御前試合に加担した事が知れれば取り潰しは免れまい。
となれば今回の件を明らかにしようとする厳包を江戸柳生は全力で阻止しようとする筈だ。
どうせ敵対する相手ならば、各個撃破できる今の内に主だった者を倒しておくのは理に適っている。
そのように自分の中の葛藤に折り合いをつけると、厳包は修羅の道に踏み出した。
【はノ肆 川沿い/一日目/深夜】
【柳生連也斎@史実】
【状態】健康
【装備】
宮本武蔵の木刀(宮本武蔵が巌流島で使用した木刀)
【所持品】支給品一式
【思考】
基本:主催者を確かめ、その非道を糾弾する。
一:白井亨を見つけ出し、口を封じる。
二:戦意のない者は襲わないが、戦意のある者は倒す。
三:江戸柳生は積極的に倒しに行く。
【備考】※この御前試合を乱心した将軍(徳川家光)の仕業だと考えています。
厳包が歩み去ってしばらく後、川の中から這い出す影が一つ……白井だ。
白井は川に飛び込んだ後、下流に流れたと見せて橋脚に必死にしがみ付いてその場に留まっていたのだ。
「私が甘かった……」
やっとの事で岸に上がった白井は呻くように言う。
今まで木刀でも竹刀でも無数の勝負を経験してきたが、それは全て互いに武器を持って向かい合ってから始まり、
一定の規則の元に行われる試合だった。
しかし、この島で行われている試合はそんな生温いものではない。
厳包の言葉を疑いもせずに得物を交換した時点で、剣の腕など関係なく自分は負けていた、白井はそう考える。
二度とこのような失態を犯さぬ為には、常在戦場の心意気を持った真の剣客になる事が絶対に必要だろう。
「やはりこれは神仏が私に与えた試練……いや、機会なのでしょうね。ならばそれをものにするのみ」
白井が剣を学んだのは、人を斬る為では決してない。
しかし、剣士として進歩するのに必要であるのなら、白井はどんな事でもするつもりだ。
厳包が放置していった竹刀を杖に、白井は歩み出す……真の剣士へと向かう茨の道を。
【とノ肆 橋の袂/一日目/深夜】
【白井亨@史実】
【状態】左腕骨折、全身ずぶ濡れ、体力低下
【装備】大石進の竹刀(切断されて長さは三尺程です)
【所持品】なし
【思考】
基本:甘さを捨て、真の剣客になる
一:休息や手当てができる場所を探す。
【備考】※この御前試合を神仏が自分に課した試練だと考えています。
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最終更新:2009年08月19日 06:54