臥竜◆L0v/w0wWP.



城下へ入る、堀に架かった橋を、濡れ鼠となった白井亨義謙は
切断された長竹刀を杖代わりにふらふらと渡っていた。

青黒く倍ほどの太さにに腫れ上がった左腕はだらりとだら下がり、
足取り重く、半開きの眼は焦点が定まっていない。

休息するべき場所を探し、城下に向かおうとした亨であったが、
向こうから走り寄ってくる影に気がつき、再び橋桁の下に潜り込んだ。
足音が遠退いたのを確認し、再び川から這い出し、城下へと歩み始めた。

結果としてはそれがまずかった。真冬の寒さとまではいかないものの、
現在の周囲の気温はそう高くは無い。普通ならば、すこし涼しい程度の
感じ方だろうが、長時間川の水に浸かっていた亨の体に吹き付ける夜風は、
その体力をみるみる奪い去っていった。左腕の激痛や、水面に全身を
打ち付けた痛みよりも、今の亨の一番の敵はこれであった。

いかな、日頃弛まぬ鍛錬を積んでいるとは言え、亨も人の子である。
精神で支えていても、体がそれについていかない。髪は乱れに乱れ、
唇は紫色に変色し、顔はすっかり青ざめている。
それでも、歩みを進めているのはまさに、彼の鋼の精神が為せる技であった。



朦朧とした意識の仲、亨は慎重であった。
今すぐにでも、体を地面に投げ出したい衝動に駆られつつも
なるべく人目につかない裏手の路地を歩み、粗末な溝板長屋の一角に入り込んだ。
その内の木戸にも垂れかかるように、扉を開ける。長く夜風に当たっていたせいで、
体は既に鉛のように重い。このままでは発熱の危険性もあるだろう。

粗末な障子戸、たやすく蹴破られるだろうが一応つっかえ棒が必要だ。
それに着替えを――――そう思考している最中…暗闇というのに
一瞬、亨の視界が白濁、大きくよろめき、そのまま竃に足を突っかけ転倒した。

「ぐ…うぅッ…」

既に亨の疲労は頂点に達していた。身体が思うように動かなず、
起き上がることすらままならない。さらに、竃の釜やら、薪やらを
ひっくり返し、大きな音を立ててしまった。もし周囲に誰かが――
――それもこの死合に乗っている人物が、周囲にいるとすれば、
自分は格好の餌食である。

(まずい…この場からも離れねば――――)

這ってでも場所を移そうと、顔を上げた亨の眼前に――

―――あるはずのないものが見えた。



「……っ!私はっ…!?」

いつの間にか意識を喪っていた亨が目を覚ました時、周囲はまだ夜の闇に包まれていた。
どれほど、眠っていたのかは解らないが、誰にも襲われなかった幸運を亨は神仏に感謝した。
そして自らの身体の違和感に気がつく。

(いくらか楽になっている…)

まだ、頭はぼうっとしているし、疲労感、左腕の痛みも変わらない。
だが、濡れ鼠のままであるにも関らず先程までの寒気は無くなっており、
身体もなんとか起せるまでになっていた。そう月明かりの射す角度から考えても
そう長い時間寝ていたわけではないにもかかわらずだ…。

「これは……っ!?」

そこで亨は右手に通うほのかな温もりに気がつく。

その右手には闇の中であるにも関らず、ほんの僅かな…淡い光を放つ水晶の珠。
どういう仕掛けか、その珠の中にはうっすらと『孝』という文字が浮かんでいる。

(そうか…光は…)

意識を手放す直前、亨が見たものの正体はこの珠の放つ光であった。
竃から飛び出たのであろうか?この不思議な珠が一体、自分の身体にどう
作用したかは見当もつかないが、亨がこの珠に対して一つの結論を下す。
もし、白井亨が浮世の習俗に多少の興味を抱いていれば、この珠について、
また別の考察を巡らせたのであろうが、兵法の秘伝書や漢籍ならばいざしらず
ひたすら剣を究める事のみを求めたこの男に、婦女子に人気の読本の内容を
知れという方が無理な話であった。

―これぞ、神仏が我に与え給うた天佑神助であると―



部屋にあった町人の着流しに着替え、掻巻を羽織った白井亨は
隅に立てられた衝立の陰に身を潜めていた。片膝を突いて
いつでも立ち上がれる体制を取り、右腕に握った竹刀を
床に突き立て、ただひたすら息を潜めていた。

楽になったとは言え、左腕はまだ鈍痛に苛まれ、疲労も取れてはいない。
おそらく、今、他者の襲撃を受ければひとたまりもないだろう。
だが、亨の目には確かな決意が宿っていた。ただでは死なぬ、
この試練に屈する事はないという決意が。

亨としては、やはりこの死合に乗るつもりは無かった。
これが如何なる者の課した試練か、これを確かめる。己のみの力で。
自ら徒に剣を振るうつもりも無い。だが―――――――

(―――先程のような事ではいけません…)

先程の柳生連也斎を称する男に不覚を取った。
所詮自分はお座敷剣法家である事を、思い知らされた。
自らに勝負を仕掛ける者には容赦をするわけにはいかない。
我も彼も「参った」の一言は吐かない、吐かせ無い。
勝負が生死に直結する命のやりとり。
例え、己が斃れる結果に終わろうとも、
真の剣客たる刺客を得るにはこの心構えで望もうと。

(と言っても、今の私には生死のやりとりをする道具は備わっておりませんが…)

今の亨はまさに牙折れ、爪を剥がれた龍である。
だが、その心の牙は鋼をも貫くほどに鋭く研ぎ澄まされていた。


【とノ参 ドブ板長屋/一日目/黎明】

【白井亨@史実】
【状態】左腕骨折(回復中)、体力低下(回復中)
【装備】大石進の竹刀(切断されて長さは三尺程です)、町人の着流し、掻巻
【所持品】「孝」の霊珠
【思考】
基本:甘さを捨て、真の剣客になる
一:自ら、この死合を仕掛けたものの正体を掴む。他者とは馴れ合わない。
二:自ら勝負を仕掛けるつもりは無いが、仕掛けてきた相手には必ず止めを刺す。
三:命を落とすまで勝負を諦めない。本当に戦闘不能になれば、自害する。
四:もうしばらく休息を取ったら、武器を探す

【備考】※この御前試合を神仏が自分に課した試練だと考えています。
    ※珠の正体には気付いていませんが、何か神聖な物である事は感じ取っています。
    ※八犬士の珠は、少なくとも回復、毒消しの奇跡を発現出来ます。他の奇跡が発現するか、
     邪心を持つ者が手にすればどうなるか、また亨の怪我が完治するまでどの程度かかるか
     この場に参加する二犬士以外の珠が存在するかは、後続の書き手さんにお任せします。

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剣が主か主の剣か 白井亨 ただ剣の為に

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最終更新:2010年05月22日 10:27