高坂甚太郎、叢に柳生連也に逢うとの事 ◆F0cKheEiqE
はてさて今年の夏は例年に比べまして大層寒うございますが、
ここにおられる紳士淑女がたは、こうしてアタシの話をわざわざ聞きにいらしておられる所を見れば、
皆様は無事達者に暮らしてらっしゃるのは一目瞭然。イヤアこれほどうれしい事もなし。
神様仏様天神様…マア、とかく感謝の心は忘れられない次第でございます。
しかしそんな達者な皆様が、寒い夏の無聊の慰めに、
こうしてアタシのクダラナイ話を聞きにいらしてくれるは勿怪の幸い、
マアここは一つ、アタクシ、衛府零史計の昔語りに、些か付き合って頂きましょう。
さて、本日のお話でございますが、
所で旦那方、「寛永の三甚内」を御存じで?
エッ、御存じない!
これは勿怪の幸い、ココに来られるような紳士サマならコレを知らなきゃ恥をかく、
一つ教えてさしあげましょう。
そもそも「寛永の三甚内」と申しまするは、
寛永といえば三代将軍家光公の御代であらせられましたが、
この頃江戸の町を跳梁跋扈した三人の大泥棒、
すなわち、庄司甚内(しょうじじんない)、飛沢甚内(とびさわじんない)、
そして『向坂甚内(こうさかじんない)』の事でございまして、
果たしてこの三人、真に人か物ノ怪か、
姓は違えど何れも甚内、人とも思えぬ大暴れ、
江戸は町人から武士までそれはもう震え上がっておったものでございました。
さて、庄司甚内というは盗賊ながら日本を回国し、
孝子孝女を探し、廃れたる堂宮を起こしたぁ立派なヤツ、
剣術槍術に一流を極わめ、果てには忍術に妙を得て、
力量、人の三十倍、日に四十里を歩し、
昼夜眠らずといえどもケロリとしていたとの事でございます。
続けて、飛沢甚内。
こいつぁ同じ甚内と申しましても、
剣術槍術弓術柔術、どれをとってもテンで駄目、
ところがどっこい、早業は一流、
幅十間の荒沢を飛び越え、その身はもはや鳥獣よりも身軽と来ては、
自分で名付けて飛沢甚内、と云う訳でございます。
最後に、『向坂甚内』。
コイツぁ少し変わり種、生まれは何と甲州武田の長臣高坂弾正の妾腹の子でありまして、
幼名を『
高坂甚太郎』と申したとの事でございます。
さてこの甚太郎、齢若き頃から大層無頼でございまして、
かような話が残っておりまする。
それは江戸は神田、弘治三年、
端午の節句の夜でございましたが、
当時江戸におわしました武田の信玄公、
武田家例に依って武田の家宝鎧、“楯無”を飾り、
酒宴を催したとの事でございます。
その時信玄公は“楯無し”の由来を語り、
その霊験あらたなるを讃え、家臣一同追従し敬い申しましたが、
しかるに誰やら笑う者がございます。
声のする方をきっと見ると、果たして高坂甚太郎。その時実に齢十三でございましたが、
信玄はたいそうあやしみまして、尋ねて言うに、
「これ甚太郎、何がおかしい?」
甚太郎なおも笑って、
「私触りましてござります。…幾度も幾度も手を触れました。
併し神罰下りませぬと見え、この通り無事にござります」
信玄公、例の饅頭頭をプクリと膨らまして、
「子供の癖に大胆千万、今に神罰が下ろうぞ」
すると甚太郎はクスクスと笑い、
「もしお許さへ出ましたなら、楯無を盗んでお目にかけます」
「楯無を盗む?これは面白い。よし許す、盗んで見ろ」
「かしこまってござります」
で、甚太郎は御前よりその侭姿を消してしまったそうでございます。
「甚太郎めに何が出来る」
信玄公、侍臣を顧てニヤニヤ苦笑を洩らしましたが、
間も無く彼の心からはそんな約束をしたことも甚太郎のことも忘れられてしまったのでありました。
ところで、武田家の家例として楯無の鎧はその夜の中に、
しかも深夜丑の刻に信玄公自ら親しく附き添って宝蔵へ納めねばならぬという決まりがございました。
で、時刻が来るとやおら信玄公は立ち上がり、
楯無の鎧を箱に入れ大切に輿に乗せ、四人の武士が担って宝蔵へと運び、
信玄公白身、鍵を取ってギイと宝蔵を開けたのでございます。
かくして楯無の鎧は宝蔵に無事運ばれまして、
信玄公は殿として最後に宝蔵から出て来たのでございますが、
再び鍵を手に取って宝蔵の戸を閉じようとしたおり、ふと不安が心を掠めたのでございます。
「どうもおかしい、誰か蔵の中にいるような気がする」
で、じっと隙かして見たが燈火の無い宝蔵の内は、
所謂鳥羽玉の闇でございまして、物の文色も解らない。
「心の迷だ」と口の中で云うと、結局宝蔵の屋をギイと閉じ、ピーンと錠を下しました所、
その時、幽に蔵の中から只一声ではあったけれど、
笑声が聞えて来た・・・・否、聞えて来たように思われたのでございました。
信玄公、心には掛かったけれど「空耳」であろうと思い返えし、
スタスタと廻廊を引っ返えしてしまったのでございます。
その翌朝のことでございました。
近習の真田源五郎が信玄公の前へ畏まりまして、何を言うたかと申せば、
「高坂甚太郎の伝言をお聞きに入れとう存じます」
「何んだ?」
とは、信玄公、
審そうに真田源五郎に訊いたのでございます。
「昨夜甚太郎私に向かいこのようなことを申しました。
『明朝宝蔵を開きますよう。楯無の鎧は甚太郎めが盗み取りましてござります』、と…」
「あっ」
これには信玄公も驚いた。
この時初めて昨夜の約束を稲妻のように思い出したのでございます。
信玄公は足に火でも付いたかの如く褥を蹴って飛び上り、
日頃の沈着も忘れたかのように宝蔵の方へ走って行ったのでございます。
扉を開けるのももどかしく、宝蔵の中へ踏ん込んで見れば、
外光を受けて灰に明るい蔵の奥所の一所に、楯無を納めた楯に体を椅せかけながら、
手に火の点いた種ケ島を握り、大胆にも筒口を信玄公へ向け、
小気味の悪い三白眼をさも得意そうに光らせた高坂甚太郎が坐っていたのでございます。
「殿!種ケ島の強薬、鎧槽にぶっ放しましたら楯無は微尽に砕けましょう。
殿に向かって打ち出しましたら殿のお生命もございますまい。
私に力さえ有りましたら楯無は持ち出したでございましょうよ」
「さりとはさりとは呆れた奴!どこから這入った?どうして這入った?」
「私から見ますればお館などは、それこそ隙だらけでございますよ。ケ、ケ、ケ、ケ」
何とまあ大胆不敵!
遺伝的に“生来的犯罪人”がいるとする妄説をこの世で最初に述べたのだ、
海を挟んで遥か彼方、イタリアのロンブロオゾなる学者であったと聞きますが、
もし仮に“生来的犯罪人”などと言うモノが本当にいるならば、
高坂甚太郎を於いて外にはいないでございましょう。
その笑みに漏れる残忍には、さすが豪勇の信玄公も棘然としたということでございます。
さて、この怪男児高坂甚太郎。
齢十四にして甲斐武田を出奔し、諸国を充ても無く放浪しておりましたが、
年定かにあらねど、後にお玉ヶ池附近に道場を構え剣術の指南をしていた
宮本武蔵に弟子入りし、
二天一流の奥儀悉く伝授を得て、遂に武蔵の高弟となったとのことでございます。
しかし術は学べど心は学ばず、生来の殺生癖故に、活胴(いきどう)を試みんと思い立ち、
密かに柳原の土手へ出で往来の者を相手に辻斬りを働くようになったとの事でございますが、
ある夜飛脚を殺し、切っ先に何やら妙な手ごたえを覚えたのを怪しみ、
骸の懐中を探れば何と金五十両が出てきたではないか!
これより悪行たいそう面白く、やはり生来の殺生癖・盗癖も手伝って、
辻斬りして金子を奪うなどの乱暴狼藉数限りなし!
これには師匠の武蔵もすっかり匙を投げて、遂には甚太郎、破門されてしまったとの事。
しかしそれで懲りる甚太郎でも無し、むしろタガが外れて暴れるわ暴れるわ、
慶長十八年、遂に捕らえられ磔にされてくたばるまでに、
盗賊の大親分として、好き放題の無頼渡世を繰り広げたとの事で御座います。
さて、長々と「寛永の三甚内」に付いて語らせていただいた訳ですが、
旦那方の内、勘の良い方はもう気が付かれている様に、
今日の物語の主役の一人は、そう『向坂甚内』でございます。
本日のお話は、『向坂甚内』が、まだ『高坂甚太郎』と言ったころの物語…
一つ、聞いておくんなせぇ
◆
いざ鳥刺が参って候
鳥はいぬかや大鳥は
ハァほいのホイ
相も変わらぬ鳥刺歌を歌いながら気楽にフラフラと夜道を歩くのは、
鳥刺姿の高坂甚太郎である。
呑気な鳥刺歌は朗々たる響きで口より紡がれるが、
甚太郎以外に聞く者はおらず、ただ夜空に吸い込まれるのみであった。
「ハァほいのホイ…と。しかし歩けど歩けどサッキの仏頂面以外にゃ誰にも逢わねぇ…
人別帖にゃ随分と名前が書いてあったが…ひょっとするとこの島は相当広ぇのかも知れねぇなぁ」
甚太郎は竹竿の先に刺さった兎を見遣って、ふと考えるような仕草をしたが、
指をパチンと鳴らして悪戯小僧の様な笑みを浮かべた。
「となりゃあまずは腹ごしらえが必要ってぇもんだ。
鍋とか火打石とか…まあ、コイツを食うのに必要なモンをそろえねぇとナ」
道から出て、ちょいと地面に腰を下ろすと、背に負う行李より地図を取り出す。
隠密行脚を信玄公より仰せ仕るだけの事はあって、夜目は利くし、
星と月からおおよその方角だって解る。
「今の所、俺等(オイラ)は只管北へ北へと進んでた訳だが、
コイツ(兎)を食おうと思ったら、やっぱ南の城下へ行かなきゃなんねぇか?
イヤイヤ、良く考えたら行李に握り飯が入ってたんだったな。まずはコッチから頂くとするかね」
行李より笹の葉に包まれていた握り飯を取りだすと、
大口開けてモグモグと甚太郎は握り飯を頬張った。
飯を食べて気が乗って来たのか調子良く大声で歌まで歌い始めたが、
歌い飽きた物か、件の鳥刺歌とは違う歌であった。
木曽のナー 中乗りさん
木曽の御岳 ナンジャラホーイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ
ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ
袷よナー 中乗りさん
あわしょやりたや ナンジャラホーイ
足袋よそえて ヨイヨイヨイ
ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ
木曾に伝わる盆踊歌で、俗に「木曽節」と呼ばれる代物だ。
しかしこうして握り飯を頬張りながら歌を呑気に吟じるその姿は、
年相応の無邪気な子供にしか見えないのが恐ろしい。
一皮剥けば、将来の姿である殺人狂の大泥棒の片鱗をこれでもかと見せつける、
並みの兵法者が裸足で逃げ出す業前を持った『恐るべき子供』であるのに。
さらに調子に乗って来たのか、これまた別の歌も歌い始めた。
甲斐の虎たぁ信玄坊主~
過ぎたる~者は三弾正~
保科弾正ぉ、槍弾正~
真田弾正ぉ、攻め弾正~
高坂弾正ぉ、逃げ弾正~
俺等(オイラ)の親父、逃げ弾正~
あぁ、逃げ弾正ったぁ、逃げ弾正~
ハァほいのホイ
歌詞から察するに自分で作った歌らしい。
ちなみに、戦国の三弾正と言えば
“槍弾正”が保科正俊、“攻め弾正”が真田幸隆、“逃げ弾正”が高坂昌信であった。
さて、さても歌い続ける甚太郎であったが、不意に歌を止めると、
切れ長の三白眼をスウッと細めると、握り飯を残さず呑みこみ、
音も無くするりと立ち上がり、傍らに置いていた竹竿を手に取った。
そして背後の藪にこう、声をかけた。
「誰だか知らねぇが…出て来なせぇ」
果たして、一人の男が姿を現した。
それは…
◆
柳生連也斎厳包は、川に落ちた
白井亨を追って、川沿いに南に進んでいたが、
ここで大きな問題に直面した。
川が二股に分かれているのだ。
流石の尾張柳生の麒麟児、柳生連也とて、
こればかりは剣理を以てしても見抜く事が出来ぬ事である。
「ええい、南無三!」
流石にどちらの川を白井亨が流れて行ったかなど、
お釈迦様ぐらいしか御存じあるまい。
故に神頼み、否、“南無三宝”故に仏頼み。
柳生連也の時代ならば神仏習合故に、
神頼みでも間違いではないが、そんな理屈は脇に置く。
兎に角、柳生連也は彼の側から見て、右側を流れている川に沿って走り出した。
つまり地図の上では城下町の西側を流れる川に沿っていった訳である。
仏様も案外当てにならぬ。
読者の方々は、白井亨が東側の川の流れに流されていった事を知っていると思うが、
そんな事は柳生連也のつゆ知らぬ事、かくして見当違いの方向へ連也は走る破目になり、そして…
◆
(俺に気が付くとは…こんな状況で大声で歌など歌っているから、
どんなタワケかと思って見てみれば中々どうして…)
静かな夜に良く通る若い少年と思しき歌声を耳にした連也は、
流石に興味を引かれて声のする方へと行ってみれば、居るは鳥刺と思しき年若き少年、
しかし身に纏う剣の気は結構な代物である。
裏柳生衆を全国各地にばらまき隠密陰謀に精を出す江戸柳生と異なり、
尾張柳生の柳生連也は然程、隠密の技に長けている訳ではないが、
それでも気配は充分に消えてつもりであった。
少年は思いの外“使う”様だ。
(大小は無い、背に負う竹竿はヘナヘナだが…油断は禁物)
柄頭に右手をやりながら、
連也はゆっくりと藪から隠れた姿を出した。
◆
さて、何と柳生連也と出会った甚太郎!
天下の柳生剣士と甚太郎との出会いは如何なる運命の変転を呼び込むのか!
其れはまた別の物語
【にノ参 道の外れの草叢/ 一日目 / 黎明】
【高坂甚太郎@神州纐纈城】
【状態】健康
【装備】竹竿@神州纐纈城
【所持品】支給品一式(握り飯を幾つか消費)
【思考】:適当にぶらぶらする。
一:若い侍(柳生連也斎)に対応する。
二:まずは島をぐるっと回ってみる。
三:襲われれば容赦しない。
【備考】※歌はかなりの範囲に鳴り響いています。
何処まで聞こえていたかは、他の書き手氏に任せます。
【柳生連也斎@史実】
【状態】健康
【装備】宮本武蔵の木刀(宮本武蔵が巌流島で使用した木刀)
【所持品】支給品一式
【思考】
基本:主催者を確かめ、その非道を糾弾する。
一:少年(高坂甚太郎)に対応する
二:白井亨を見つけ出し、口を封じる。
三:戦意のない者は襲わないが、戦意のある者は倒す。
四:江戸柳生は積極的に倒しに行く。
【備考】※この御前試合を乱心した将軍(徳川家光)の仕業だと考えています。
時系列順で読む
投下順で読む
最終更新:2009年12月05日 13:13