「なるほど」
やや間延びした声が、約30平米の室内を巡った。オフィキス社内で最も角に位置する部屋だ。
海上都市ヌーフは興業区に位置し、小規模なコンビナートの様相を呈する水産管理施設に擁される様な形で、この民間警備会社は建っている。
くだんの管理施設は日の出を迎えると共に大型のマナ循環設備が稼働を始めるため、その駆動音と振動がこの部屋に届くのだ。
彼女にとっての目覚まし時計代わりであり、いつもの様にその揺れと音で眠りから覚めたのが2分ほど前。
艶のあるモカブラウンの髪を解けさせたまま、セラミック製の白い自動ドアの前で直立しているのが今だ。
平時のルーティンとしてはこのままシャワールームへ向かい、27分ぴったりでバスタイムを済ませて身だしなみを整えるのだ。
トリシャは、数字に従って生活をする事に何よりの重きを置いていた。しかし、先の通りこれは平時に限られる。
そうとは見えないものの、彼女はいま非常事態の最中にある。
「よいしょ」
堅く閉ざされた自動ドアの窪みに手を引っ掛け、横へのスライドを試みる。
「なるほど」
不動のドアへ向けて、今一度納得の返事。返す返すもこのドアは生体認証を用いた自動ドアであるが、悲しきかな今はその役割を忘れている様だ。ひょっとすると永劫に忘れ去ってしまったのかも知れないが。
さておき、このままではバスタイムどころか業務すらままならない。優先順位は無論のことバスタイムなのだが。
トリシャはおもむろに身を翻すと、ネグリジェ姿のまま個人用の端末を立ち上げる。そして机の引き出しを開くと、デフォルメされた兎のストラップが付いた小型のメモリを取り出して、スロットへと差し込んだ。
寸刻置いて、モニタが燐光を放ちながらデスクトップを映し出す。トリシャは慣れた手つきで仮想マウスを操作すると、社内のセキュリティ管理端末にアクセスする。
およそ無骨なインターフェースで拵えられた室内の見取り図から、一番開けた空間の端。すなわち玄関のドアをクリック。
管理メニューのうちパスワードの再設定を選択する操作には、1ミリの無駄も無かった。
淀み無い手付きで9京5428兆9566億6168万2176通りあるパスワードの内から一つを設定すると、すぐさま複合化して小型メモリへと転写。即席の電子キーを作成する。
そしてコピーの進捗を示すバーが98パーセントに達した時、メモリへ手を掛ける。ディスプレイに「完了」と表示された頃には、既にメモリが端末のスロットから引き抜かれた後だった。
そのまま流れる様な仕草で裏口を出て、メインドアへと向かう。
再設定したパスワードが変更されるまでが13秒。電子キーの読み込みを考えると、3秒は欲しい。
つまり10秒足らずでこの施設の角から入り口まで辿り着かねばならないのだ。進行ルートを直線化すると120米丁度。
要求速度は時速にして43キロメートルとコンマ2が下限だ。
だがしかし、彼女もただの高校生と見紛われる童顔の事務勤め(オフィスレディ)ではなかった。
元・マディス連邦軍事庁対奇獣課に所属し、ヴァレンシアで〝三本指〟と讃えられるマーゲリック・ゴルドーの片腕を務めた女だ。
軽質マナ駆動式(ディーゼルエンジン)の小型2輪よりちょっと早い速度で走るなどお手の物。
時には壁すら利用しながら、ネグリジェ姿で興業区の隙間を滑走する。そしてぴったり10秒で辿り着いたトリシャは、自動ドアの横に備えられた長方形のカバーを開き、精密な動作で一度も利ポジショニングする事なく電子キーをスロットへ挿入した。
その横顔にはまだ余力すらありそうだったが、手加減したのだから当然だ。
お風呂は好きだが、別に汗をかくのは好まない。
故に猶予ギリギリの時間で辿り着いたのであるが、電子キーはすんなり填まった様だ。
ウィン、と小気味の良い音と共にガラス張りの自動ドアがスライドする。中々にスリリングなミッションだったが、完遂してみればあっけないものだ。
自動ドアのランプが再施錠を示す赤い点滅へと変化したのを確認すると、トリシャは漸く口を開いた。
「さて、バスタイムにしましょう」
サイズが合わないのか、玄関で履いたお客様用のスリッパをしたした鳴らしながら、勝手知ったる会社のバスルームへ向かっていった。
「こ、これは一大事に御座るな……!」
そう、並ならぬ苦境をものともせず、持ち前の機転で全てを合理的に解決するのがこのトリシャ・ルネ・オランドという女性なのだ。
「着痩せ……いや、矯正……?見紛う筈が無い。Gだ、Gは御座った……ッ!」
最終更新:2020年10月18日 16:06