「はぁ……」
春もたけなわ、お日様が出てる時間もだいぶ長くなってきました。
とはいえ時刻はすでに6時過ぎ、夜の帳はゆるりと降り始めて薄暗い中ネオンに彩られた商店街をトボトボと歩きます。
今日は機関の定期集会の日で今はその帰り道。
思わず口を突いて出た大きな一息が充実した会合の余韻を覚ますものだったとしたらどれだけ幸せだったでしょう。
だけどそんなのはあたしの儚い願望。実態はただの溜息なのです。
佐々木さんのチカラと、あたしの素性をついにキョンさんに打ち明けたあの記念すべき日以来、ようやくスタートラインに立てたはずなのに事態にこれといった進展もなく、機関全体のテンションが落ち気味なのです。
これを打開する妙案もなく例によって今日もぐだぐだでした。
あたしが議長を務めたので余計にヘコみます。
送りの車があったけど思わず辞退しちゃいました。一人になって少し頭を冷やしてたかったから。
「ふぅ……」
さっきから定期的に湧き上がってくる溜息をまた一つ盛大に大気開放。
溜息を吐くほど幸せが逃げるなんて言うけれど、人間落ち込むことに身を任せたいときだってあるのです。
大きく息を吐いてストレスとか厭なことを吐き出してる気になれば少しは気分も晴れるもの。なによりも深呼吸にはリラックスの効果があるのです。
何気なく視線を漂わせると暖色にライトアップされたショーウィンドウが視界に入ってきました。
中に飾ってあるのはキレイ目なワンピース。あたしのお気に入りのブランドなのです。ついこの間も買い物をしたばかり――――、
思考を割り込んで数週間前の出来事がフラッシュバックしました。
それは概ね厭とか恥ずかしいとか、あわよくば無かったことにしたいそういった負の類のモノなんですけど、時おり甘いような、そしてラストは……、酸っぱいような妙な思い出なのです。
…………。
やだ、あたしったらボーっとしちゃいました。
しかしそれも仕方のないことなのです。あの『痛キモチイイ』ような不思議な感覚が鮮烈に焼きついて頭から離れないんですもの。
あのあと恐怖に慄きながら佐々木さんにオシオキとばかりに強制連行されて辿りついたのは、その……、町外れにあるカラオケボックスだったんですけど、普通に歌い始めるはずもなく執り行われたのは…………、延々たるくすぐりの刑。
くすぐりが拷問の一つってのは本当なんだってことをこの身に刻みつけるように実感してしまったのです。
マイクコードで手首縛って、おしぼりで目隠しして……、どうしてああも機転が利くんでしょうか。……変な趣味に目覚めてしまいそうなのです。
「はぁ……」
陶然と回顧に耽ったあたしの口から熱っぽい吐息を思わず漏れ出てしまいました。今までの溜息と明らかに一風趣の異なった息吹。
否が応にも身体が反応して熱く昂ぶります。
こそばゆい感覚を突き詰めるとそこにあるのは極度の緊張による痛み、でもそれすらも通り越してしまうと弛緩の境地に上り詰めてしまうのです。
そうなると普段無意識の内に押し込めているものが全部開放されちゃうような感覚に陥ってしまうの。
もちろんこんなの初めて知ったことですけど。今から思えばあれは知っちゃダメなコトだったような気がします。
佐々木さんのガラス細工のように繊細な指先は信じられないくらいに器用で、探知機でもついてるかのようにあたしの弱いところを次々に探し当てて、そこばかりをそれはもうねちっこく執拗に責め立てたのでした。……佐々木さん恐るべし、なのです。
あの日以来、その、とっても恥ずかしい話なんですけど、どうにもあの感覚が病み付きみたいに忘れられなくなっちゃって……、でも独りではどうしようもなくて、つい夜な夜なイケナイ遊びに耽――――、ってダメダメ、天下の往来でこれ以上考えるのはNG!
火照った頬を戒めるかのようにペチペチと叩いてなんとか気を取り直します。
違うっ、違うのっ、こんなはずじゃなかったのです。それに思考が脇道に逸れすぎっ!
色香で惑わせたキョンさんを舞台裏で操って佐々木さんを真の神様に祀り上げる悪女を目指したあたしはどこへ行ってしまったの?
一回挫けたからってそれで終わり? そんなヤワい精神構造で小悪魔が務まると思ってるの? 本当の小悪魔ってのは厚顔無恥でちょっとしくじってもぺロッと舌を出して帳消しにできるそれはもう無尽とも言える生命力を持った強い強い生き物なのです。
店先で年頃の女子がぎゅっと目を瞑ってひたすらぺちぺちとやり続ける姿は異様の他なんでもありません。
お店の人ごめんなさい、営業妨害じゃないのです。
手を止めるとじんじんと疼く頬に火が灯ったみたいに熱が帯びてきました、それに触発されたように本当に今まで立ち消えになっていたヤル気と自信が沸々と盛り返して来ました。
よしっ、気合は十分!
とにかく!
ヘコんでても良いことなんてないことはこの数週間でおなか一杯になるくらいに分かったのです。やっぱり自分で動き出さなきゃ何も始まらない。
失敗と失態は取り返せば良いの。
『求めよ、さらば与えられん』
なんて素晴らしい言葉があることでしょう。今のあたしにぴったりなフレーズなのです。
たった今からこれがあたしの座右の銘。
クリスチャンでもないのにお言葉だけ拝借するなんて調子良過ぎかな。でも、それは仕方ないことなのです。なんてったってあたしの唯一神は佐々木さんだから。
確かに前回の『傾国の美女作戦』は大失敗に終わりました。敗因はキョンさんのニブチンさを甘く見すぎていたことと、佐々木さんの監視を怠ったこと。
この対策さえすれば今度こそうまくいくはず。
ショーウィンドウの照明を背にあたしは胸の前でぐっと掌を握りこみます。
道行く人たちの半分が眉を顰めながら奇異の視線を向けて、残りの半分がいかにもわざとらしくそそくさと足早に通り過ぎていくけど、そんなことじゃこの決意表明は……、揺らぎません。揺るがないのよっ。
心意気も新たに作戦第二弾をぶち上げます。半分ヤケ気味に腫れた頬を膨らませながら。その名も、
『熱愛の猛進作戦』
乙女がどうとか、恥じらいがどうとかそういうの気にしてちゃあの超次元鈍感男の相手など到底できないということ。
演技も……演技も不要なのです! あの後、どうしても納得がいかなくて忌憚のない第三者の意見が欲しいあまりに『藤原』さんの前で披露したところ、
「学芸会レベルの茶番だな」
の一言でバッサリ斬り捨てられてしまったあたしの三文芝居なんか、ないほうがっ、いいのよ。
鼻先にツーンとこみ上げてくるものを、すんっ、と乱暴に鳴らして思わず目じりにうっすら浮かんだ雫を払うようにかぶりを振ります。
要は小細工なしの真っ向勝負!
これでダメならさすがにあたしも諦めるのです。
そうっ、言うなればこれは意地。女の意地を賭けた勝負なのです。負けられない!
夜空を見上げれば眩いばかりの繁華街の電飾に負けじと皓々と輝くお月様。
月影を真正面から浴びながらあたしはリベンジを固く誓ったのでした。
//////////
金曜日の午後7時10分前。
この前と同じく地域の中で最も栄えた繁華街でキョンさんと待ち合わせ。
例によってキョンさんのアポをとるのは至難の業で。艱難辛苦と紆余曲折を経てようやく会う約束を取り付けることができました。
約束の日時が週末の平日で中途半端な時間になってしまってるってところに、その痕跡が窺えるのです。
初めて目にする人がローマ字読みするとツッコミ風になってしまうファッションビルの入り口でキョンさんの姿を探しますが、まだ来てないみたいなのです。
スカートのポケットの中でメール着信音が鳴ったのでケータイを開いて確認。
『ターゲットS、学習塾にて数学の講義を受講中。不審な動きはなし』
ふふふ。同じ轍は踏まないのです。今回は佐々木さんの監視付き。部下から定時連絡を入れてもらうようにしました。
安堵して姿勢を正し直します。
ちなみに今日のあたしのお洋服ですけど前回と一緒。強いて言えばお星様のネイルアートを入れたくらいかな。お仕事があるのでネイルチップですけど。
誤解のないように説明しますけど、決して手を抜いたワケではありません。
キョンさんは女の子の服装の細かいところまでは興味は示さないタイプだから、過剰にドレスアップしても自己満足にしかならないというむしろ学習の成果なのです。……というのはあくまでも本音半分。残り半分は十代女子の厳しいお財布事情に由るものなのです。
その代わり! 今回はちゃーんと奥の手を用意してきました。
二つある尻尾を一つにまとめて一つに……、そうっ! ズバリ、ポニーテール!
キョンさんの琴線に触れる超重要スタイルだっていう下調べは随分前からついていたんだけど、奥の手は常に取って残しておくもの。策士たる者の基本的な心得なのです。
でも今日は勝負の日なので惜しみなく投入。振り返ってショーウィンドウを姿見代わりにポニーの出来栄えを再確認。
結い位置はあごと耳の延長線のベストポジション。毛先までストレートにまとまった艶のあるサラサラの髪を肩越しに確認すると、力強くうなずきます。
イケる。これなら間違いなく一目でキョンさんのハートも直撃のはず。
自分の世界に入っていっちゃいそうになったけど、写り込む人影の中に小さく写るキョンさんの姿を見つけると、慌てて我を取り戻して振り返ります。
やっぱり出会い頭の第一印象は大切よね。
「こんばんは」
グラビアアイドルばりの極上の営業スマイルでキョンさんをお迎え。対するキョンさんはの倦怠感溢れんばかりの随分なおざりな態度で応えてくれました。
「お前も暇だね。バイトはどうした? オフならオフでもっとプライベートは有効に使えよ」
相変わらず手厳しいのです。
広義で言えばこれも仕事の一環です、という台詞を飲み込んで、
「学校の後で疲れてるところ呼び出しちゃってごめんなさい」
と、ペコリと頭を下げました。ポニーの尻尾がキョンさんに差し出されるような格好になります。
すぐに頭を上げてすかさずキョンさんの表情をチェック。
視界に入ってきたのは、口を半開きにしたままぎこちなく佇むキョンさん。それはまるで何かを言おうとした瞬間に待ったがかかったような、言うなればぶっきらぼうに「まったくだ」とでも返そうとしたときにカウンターパンチをもらったような、おかしな表情。
「んん? どうかしましたか?」
心の中でガッツポーズを作りながら、素知らぬ調子で問いかけます。
「い、いや。なんでもない」
んもうっ、そこで「髪型、変えたんだな」の一言があれば女の子も喜ぶのに、天邪鬼なんだから。
まぁ、いいのです。キョンさんの強硬な態度も崩せたしツカミはOK。
「じゃあ行きましょうか?」
一気に畳み掛けるようにあたしは素早くキョンさんの腕に飛びつくと、ギュッと身を寄せてリードします。
「おいっ、行くってどこへだ?」
「バイキング!」
//////////
駅前の高層階、海を見渡せる夜景の素敵なホテルレストランの窓際の席に十代のカップルが一組。
一流ホテルというほどではないのである程度のラフさは許されるとしてもちょっと浮き気味であるのは否めないのです。
金曜の夜ということでお客の入りも良くて家族連れも多く、満席に近いくらいに混んでるので、なんとかその中に紛れ込めているのが救いですけど。
せめてキョンさんがもう少し気合入れてオシャレしてきてくれれば良かったんだけど、まぁ贅沢は言わないのが吉です。
このバイキングは期間限定で催されているもので、3000円で普段ご縁のないような料理が取り放題、食べ放題、飲み放題という庶民にとっては一大イベントなのです。そのため、みなさん実に気合が入ってるのです。その例外に漏れずキョンさんも。
キョンさんはあたしに借りを作るのが厭みたいなので、露骨に奢ることは控えて招待券を手配しました。誰かに譲ってもらったわけでもなくわざわざ機関の経費で購入して。
親戚から招待券をもらったけど、家族は都合がつかなくて行けないという設定を作ることでキョンさんをその気にさせることに成功しました。
優雅にホテルで夜景と夕食を楽しみながらでくつろいじゃったりしてますけど、ここに至るまでには聞くも涙の長い道のりがあったのです。
だけど、その労苦の甲斐あって育ち盛りの男子の食欲を煽るために企画したこの計画は結果的に成功でした。
現にキョンさんはさっきから大皿をいっぱいにして戻ってきては、舌鼓を打って非常にご機嫌なのです。
食べるのに夢中で料理の感想以外あたしとほとんど喋ってないのがそこはかとなく残念ですけど。
あたしですか? 正直な話少食なのでバイキングのメリットは無いの。あくまでもキョンさん優先。泣けてくるくらいの健気さなのです。
と、切なさを噛み締めるようにエビチリを一口食べたとき、キョンさんが向かいの席に戻ってきました。あ、今度はにぎり寿司なんだ。
「どうした? さっきからあんまり箸が進んでないように見えるんだが」
「そんなことないのです。ちゃんと食べてますから。お寿司美味しそうね」
「回ってない寿司なんて久しぶりだな」
嬉々としながらキョンさんはアナゴを頬張りました。
幸せそうな笑顔は見てて癒されるものがあるんだけど、あたしと二人でいるときその表情が見たいのです。
「適当に見繕ってきたんだが、自由に取ってくれ」
「あ、うん。ありがとう」
「さすがホテルのレストランだ。いくらでも箸が進むね。今日は偶然家族が出払ってて夕飯をどうしようか困ってたところだったんだ。ちょうどよかったぜ」
「そう言って喜んでもらえるとこっちも嬉しいのです」
「妹を連れてきてやりたいな。あいつを連れて来たら次から次へと目移りして目を回しそうだ」
そんな風に無邪気に話すキョンさんはなんだか普段より随分子供っぽくて、完全に毒気を抜かれてしまいました。
でも、レストランに来てから初めて会話が続いたような気がします。さすがにキョンさん食べるペースも落ちてきたし、お話するならこのタイミングかも。
「キョンさんって好き嫌いないんですか?」
「……ねぇな。特殊にカテゴライズされるもの以外だったら結構何でもいけるかもな」
「女の子の好き嫌いも?」
「ぶっ、っごほっ、ごほ、ごほっ」
慌てて口許を押さえてお寿司を噴出すの阻止して激しく咳き込むキョンさん。、
「あああっ、はい! お茶!」
渡した湯飲みをひったくると一気に流し込みます。
ちょっとした冗談なのにそんなに動揺しなくても。それとも、心当たりがあるっていう裏返しなのかな。
「っ――――、はぁっ! おまえなっ、俺を殺す気か?」
「ちゃんとお茶をパスして助けたじゃないですかぁ。そこまでびっくりする方がどうかしてるのです」
「いいや、全然関係の無い話をいきなり振ったお前が悪い」
反射的に言い返そうと息を呑んだあたしでしたが、キョンさんの酷い有様を目の当たりにして言葉を失ってしまいました。
あ~あ、ほっぺとお洋服にご飯粒いっぱいを貼り付けて……。
ハンカチを取り出すとあたしは席を立ちました。キョンさんは一体何をやらかす気だと言わんばかりに身構えます。もうっ、失礼ね。
「ちょっとじっとしててください。上着脱いで。シミになるといけないから、応急処置だけどやってあげる」
鳩が豆鉄砲を食らったように硬直したまま瞬きだけを繰り返すキョンさんの隙を突いてハンカチで顔についたご飯粒をパッパッと払って、背中から無理やりジャケットを脱がしにかかります。
お醤油のシミがついたところにハンカチのキレイな部分をそっと当てながらお冷の水をちょっとだけ垂らして馴染ませておいて、乾いた部分を当てて汚れを吸い出すことを繰り返すと、……よかった、だんだん薄くなってる。
この間キョンさんはテーブルの料理に手を伸ばすこともせずに黙ったまま見てるだけ。きっと今顔を上げたらバッチリ目が合っちゃうんだろうなぁ、なんて思うと勝手に照れてしまいました。
それをごまかす様にあたしは更に手元に意識を集中させます。
レストランで膝の上でせっせと染み抜きをする女子と、それを呆けたように見守る男子。
客観的に描写するとなんだか奇妙な光景ですけど、ジャケットを返したときのキョンさんの顔を目の当たりにしてそんなことは瑣末事のように吹き飛んでしまいました。
「ありがとうな」
穏やかに微笑みながら礼を言ったキョンさんの表情は、つい数分前まであたしが欲してやまなかったものだったから。
////////////
ちょっぴり幸せな気分に浸りながら、心行くまで食事を楽しんでレストランから出てくると時刻は午後8時20分。
花の金曜日ということもあって、繁華街はまだまだ宵の口とばかりに活気に満ち溢れていました。心なしか道行く人たちの足取りも軽いように思えるのです。
この後ですけど、洋画を見てさらに良い雰囲気になって、映画館の熱気を冷ますために公園に入ってベンチでさらにさらに良い雰囲気になって、その後は、い、いけるところまで!
ってのがあたしの計画だったんだけど、レストランから出ると同時にその計画にいきなり黄信号が灯りました。
食事中は結構良い雰囲気だったにもかかわらず、それはそれ、これはこれと言わんばかりにキョンさんの態度は待ち合わせた直後の硬いものへと逆戻り。
キョンさん~、さっきの優しい顔はどこへ隠しちゃったんですか?
映画に誘うと家族が心配するから帰る、とかいい加減なことを言い出したので、さっき今日は家族が不在だって言ってたじゃないですか、と問い詰めてなんとか引き止めたのです。
けれど、このままじゃ本当に半ば義務的に映画を観るだけでスタッフロールと同時にさっさと帰ってしまいそうな雰囲気がありありね。
席を取ってキョンさんを残してホールのドアを閉めて廊下に出てくると、途方に暮れて大きく息をつきす。
辺りを見回すと映画館は大入りらしく飲み物を販売している売店の店先には列が出来ていました。
映画に誘ったのは暗闇でキョンさんの手をそっと握って女の子を意識させようってのが目的でしたけど、こんなテンションじゃ何を仕掛けても効果がないよね。
と、暗く一人ごちると、ずーんっと重く沈んでしまいそうになります。
……アレを使うしかないのかな。
手提げのバッグから取り出したるはピンク色の小瓶。心なしか水よりは粘度が高いように緩やかに揺れる液体を眺めつつ逡巡します。
ああ、こうやって神妙にしてると誤解されちゃいますね。中身は危ないクスリとかでは断じてないのです。
持って来たのはお酒。アルコール度数の高い焼酎。
正直道具に頼るのは矜持に反する行為なのです。それだけに悩む。うぅ……、どうしよう。酔わせて手篭めにするなんて、姑息なナンパ師みたいなのです。少なくとも女の子がやることじゃないよね。
その時、スカートの中でケータイが震えました。お決まりの定時報告。
『ターゲットSに動きなし。依然講義を受講中』
という内容を確認してパタンと閉じます。
それが合図になったかどうか分からないけど、瞬間佐々木さんの存在を強く意識したことは間違いありません。
あたしが手をつけようとしてるのは禁断の恋愛。モタモタとしてる余裕などないのです。
そう、長期戦は色んな意味でダメ。次回はないものと思わないとっ。
顔を上げるといつの間にか売店の列は捌けてすぐに注文ができる状態。あたしは重い足を引きずるようにしてカウンターに向かいます。
「いらっしゃいませ」
鬼気迫る雰囲気が出てしまっていたためか、店員の男性の顔が一瞬引きつりました。
「グレープジュース2つ」
この言葉と同時に賽は投げられました。橘京子、プライドを削ってまで勝ちたい一世一代の大勝負の幕開けなのです。
////////////
席に戻ると紙カップを両手に持つあたしをキョンさんが訝って迎えてくれました。
「あれ? トイレに行ったんじゃなかったのか? 飲み物はいらんと言っただろ」
「映画は2時間あるんですよ? 備えあれば憂いなしってやつです。もし、要らなかったらあたしが頂いちゃいます」
上っ面はいつもの調子の茶目っ気があってちょっとテンション高めのあたし、でもその薄皮一枚裏側はここからの展開に怯えまくりなのです。
今一つ釈然としない様子のキョンさんでしたけど、あたしが座るとともにブザーがなって開演となりました。
今から始まるのは前回もプログラムに組み込んでいたアクション映画。
シリーズ三作目らしいけど、白状すると前作をちゃんと観たことないのです。ではなぜこれを選んだかというと、途中にロマンティックというか、ちょっとえっちなシーンがあったりするから。
映画に触発されてキョンさんがあたしのことを意識したりすれ儲けもの。なんにせよ二人のテンションとムードを高めるのが目的なのです。
映画自体は前作を知らなくても十分楽しめる内容で、のっけから派手なアクションシーンが連発。緊迫する場面の連続で思わず引き込まれてしまいました。
それはキョンさんも同じらしくて、視線は正面を向いたまま集中しているみたい。
そのまましばし純粋に映画を楽しんで、オープニングから30分くらい経った頃、運命の瞬間は突如訪れたのでした。
やっぱり喉が渇いたのか、口寂しくなったのか、目の前にあるから単に反射的に取ってしまっただけなのかは分かりませんけど、とにかくキョンさんは何気ないごく自然な動作でジュースを取ってストローに口を付けたのでした。
コクコクと五回は喉が鳴ったかな。思いのほかたくさん飲んだのです。
フィ――――――ッシュ!!!
と思わず心の中でガッツポーズ。
何か間違ってるような気もするけど、この際ニュアンスだけそれっぽければ何でもいいの。
言うまでもなくキョンさんが今のんだのは橘京子謹製のグレープチューハイ。
あまり焼酎を混ぜ過ぎるとバレるリスクが高くなるため、配合には最新の注意を払いましたけど、キョンさんは変な素振りを見せることなくカップを戻しました。
やったのです。こんな量で酔っ払うこと期待などできませんけど、お酒が入って少しでもノリが良くなれば御の字。とにかく第一関門はクリア。
そんな風に映画を無視して一人盛り上がるあたしなど全く構わずにその後キョンさんは映画の幕間のタイミングで何度もカップを取り上げたのでした。
カップは不透明だけれど、液体の影から察すると半分以上は飲んじゃったみたい。
これだけ飲めばちょっとは……、といそいそとキョンさんの横顔を窺ってみましたけど、両の眼はバッチリと開いたまま、顔色は分からないけど何の変化もみられません。
まぁ、こんなもんか。と落胆しかけた自分を納得させて、いい加減あたしも映画に視線を戻したのでした。
時間は過ぎて映画も佳境に差し掛かり、お待ちかねというか、あたし的に見所というか、んん……もうっ、どちらも微妙に意味合いが違うんですけど、とにかく件のシーンに差し掛かりました。
スクリーンの中で美形の白人俳優と女優がベッドの中で抱き合ってお互いを求め始めました。わわっ、激しいのです。
とはいえ、たかだかR‐15なので当然ながらお二人はシーツに包まっていてナニがドウなってるのかは分からないんだけど……、あの一枚の布の裏側では一体どんな攻防が繰り広げられているのか逆に想像が掻きたてられてしまいます。
俳優が一言『愛してる』と耳元で囁くと、そこからはひたすらキスシーン。
え、ええー? そんな、のっけからいきなり、し、舌を絡めて、うわ……、お、オトナのキッスの応酬なのです。
ゴ、ゴクリ……、と生唾飲み込んで思わず食い入るように見入ってしまう前に、一片の理性から待ったがかかりました。
バカ、ここで映画にのめり込んでどうするの?
我に返ってキョンさんの横顔を窺うと、キョンさんはべつだん興奮した様子も、慌てた様子も見せず普通にスクリーンに集中してるようでした。
平静を装ってるのか本当に平然としてるのかまでは分かりません。相変わらず読めないなぁ。
でもでも作戦は作戦。映画に誘ったのは今この瞬間のためといっても過言じゃないんだもの。やるしかないのです。
あたしは膝の上で掌を一度グッと握って覚悟を決めると、右手をゆっくりと上げて隣の席の肘掛の上にあるキョンさんの手に重ねました。
っ、着地成功……。喫茶店で閉鎖空間にご招待したとき以来の素肌のコンタクト。
ただ手が触れているだけの状態にも関わらず、あたしの心臓はどんちゃん騒ぎのビッグマーチ。脈が鼓膜の内側で聞こえるくらいです。
分厚くて節くれだっててとても男の子してるキョンさんの手の感触を堪能してしまいました。
あたしがこれだけドキドキしてるんだもの、キョンさんだって少しは意識してるはず……、チラと横目で窺うと――――、寸分の変化もみられないキョンさんの横顔。
ええ? なんでなんで? ま、まさか映画にのめりこんでて気づいてない、とか?
……ありえるのです、何せ相手は究極ニブチン朴念仁。この程度じゃ足りないってことね。
ここでスルーされるのは女としてのプライドが許さないのです。
うー、仕方ない。は、はしたないって思われるかもしれないけど……。
恥ずかしさに耐えながらおそるおそるあたしは重ねた手を握って、キョンさんの指の間に絡めます。いわゆる『恋人繋ぎ』の完成……。本当は掌同士で合わせるんだけど、密着度はさっきの比じゃないのです。
こんなステディな恋人みたいなことをやっちゃうなんて、ひょっとしたら大胆過ぎたかも……、などと思いながらもさすがに気づいただろうとフライングしたり顔を浮かべながら横を向くと、真正面からばっちり目が合っちゃいました。
お互い顔から火が出たように赤面する――――、はずなのに頬を赤らめたのはあたしだけ。
キョンさんは困ったように眉を下げながら、
「橘、手、手」
と、ぞんざいに顎で促しましたが、展開についていけないあたしが固まったままでいると、今度は焦れたように、
「手が重なってるんだよ。どけろ。お前夢中になりすぎだぞ」
そんな超絶勘違いの発言を、しれっと余裕たっぷりに言ってのけてくれたのでした。
唖然としたあたしは字面の如く開いた口が塞がりません。
こ、こんの男はぁ~~~~、性懲りもなくよくもそんなデリカシーのない言葉を……。
そこに怒りの波が遅れてやってきて、わなわなと身体が震え始めました。
温厚だと自他共に認めるあたしがこんな風になるなんて滅多にないのです。
大きく深呼吸して必死に抑えようとしたけれど、無理!!!
許せない! 女の子に恥をかかせるなんて最っ低!!
溢れた怒りを押し留めることができず、思い切りキョンさんの甲の肉をつねりました。
「イテッ」
間抜けな声が傍らからあがりました。天罰なのです。
つねられたトコをさすりながら不審な視線を送ってくる気配はしますけど、もちろん無視。
手を自分の膝の上に戻すと、スカートの裾がシワになっちゃうくらいに強く握り締めながら視線を前の席に座る人の後頭部に突き刺した状態で怒りを滾らせます。
しかしこの憤りは素直に収まらず、喉が乾いたあたしはひったくるようにカップを取って煽るように一気に飲み干しました。
飲んだときは味なんて意識する余裕なんてなかったけど、飲み干してから言い様のない味というか食感を覚えたのです。
熱い……。喉から食道までが疼くような感じ。さっきまで飲んでたジュースと比べて明らかな違和感があります。
吐息が喉に絡まるような妙な感覚、……アレ、これってお正月に飲むお屠蘇みたいな……って、えええっ!?
慌てて確認すると膝元のカップ置きにはしっかりと自分のジュースがあり、その横には空スペース。
なんてこと、よく見もせずに取ったのが仇となって間違えてキョンさんのジュースを飲んでしまったのです。
こ、これって間接……、じゃなくてっ! 変な味は確実に仕込んだお酒のせい。
まずいなぁ、あたしにはブランデー入りのババロアでベロンベロンになってしまった前科があるのです。
だ、大丈夫かな……。大丈夫、よね?
粗相をキョンさんに悟られぬようにカップをそっと戻して、映画なんかそっちのけで弱気な自分に言い聞かせながら身体の反応を窺います。
気が気でないまま時間は過ぎて、映画もいよいよラストシーンというところで身体からの応答がありました。
突きつけられたその応えは……、案の定、恐れていた事態。
身体が内側からポカポカと熱くなって、頭が痺れたようにジンジンしてきました。症状は時間とともに悪くなるばかりで、ありていに言えばとっても、ツライ……。
うぅぅ、まるで風邪を引いたように苦しいのです。
盛った毒に自爆するなんて、なんてドジ。ばかばか。間抜けな自分が厭になるのです。
回る視界にスクリーンの光は刺激が強すぎたので、目を閉じたまま夜店で取った金魚のように口をパクパク空けて喘いでいると、横から声が掛かりました。
「どうした? なんか辛そうだぞ」
薄目を開けるとスクリーンを遮って覗き込むキョンさんの顔。
そんなに目一杯身体を伸ばして心配してくれると……、ちょっと嬉しくなってしまうじゃないですか。
回らない頭でそんな馬鹿なことを考えていると、キョンさんはみるみる深刻な顔つきになりました。
「すごい汗じゃないか。お前、大丈夫か?」
「え、ええと……。ちょっと気分が、優れなくて。大したことはないんですけど」
自分で言っててなんて説得力のない台詞だろうと呆れたくらいですけど、こんなことでせっかくの逢引きがお開きになるのは勘弁なのです。
病気じゃないんだし、どんどんお酒も抜けていくはずなんだからこのままちょっと我慢していれば映画が終わる頃には……、
そんなことを思った矢先でした。急に身体が宙に浮くような感覚がすると、あたしはキョンさんに肩を貸されて席を立ってました。
「キョ、キョンさん?」
「外の空気吸ったほうがいい。出ようぜ」
あたしの前で初めて見せたキョンさんの自発的な姿。
普段は受身ばっかりなのに肝心なところではしっかりサポートしてくれるんだ……、こんな緩急をつけるのは反則なのです。こんなんだから、みんな惑わされちゃうんだなぁ。
そう思うと胸がシクシクと疼きました。ふふ、この症状はきっと酩酊とは無関係かな。
「ちょっと、すいません」とあたしを支えながら道をあけてくれるキョンさんの真剣な横顔を、ホールを出るまであたしはじっと見つめ続けていました。
館内の廊下に出るとひんやりとした空気が心地よく、思わず気が抜けてそのまま一気に力が抜けて膝から崩れそうになっちゃうところをキョンさんが抱きとめてくれました。
ああ、不可抗力ながらついにハグまで……、せっかく冷めかけていたのにまたぶり返してしまいます。
「おいおい、しっかりしろ。マジでやばいなら救急車呼ぶか?」
未成年飲酒で酔っ払って救急車なんて、みっともないにもほどがあると青ざめたあたしは、力を振り絞って断固拒否します。
「少し休めば大丈夫です。お手洗いまで連れてってくれますか?」
キョンさんはいささか釈然としない顔をしながらも了承してくれると、しゃがんで後方に手を広げた姿勢になりました。
「……えーっと?」
意図が分からず一瞬戸惑ったけど、茹だった脳みそを頑張って回してようやく何を促していることに気づくと、一拍置いて沸騰したように顔がヒートアップ。それこそボンッって音がしそうな勢いで。
え、ええ~~~? こんなところでおんぶですかぁ?
嬉しくて恥ずかしいような、どっちにしろせめて心の準備くらいさせて欲しいと身悶えていると、キョンさんはそんなあたしの心の機微など解さず、
「連れてってやるから早くしろ」
と急かします。
うぅ……、恥ずかしいけどしょうがないよね。うん、だって非常事態なんだもの。
そんな言い訳とは裏腹に身体は正直に滞りなく前に傾いて、キョンさんの背中に遠慮がちにもたれ掛かりました。
さすがに首に手を回すことはできず、肩に捕まります。
キョンさんの腕があたしの太ももの裏側に回ると準備は完成。
そこからなんの抵抗もないようにキョンさんはすっとごく自然に立ち上がりました。
重いと言われるのはやですけど、簡単に持ち上げられてしまうのはそれはそれでなんだか全体的にボリュームが足りてないみたいで悔しいなぁ。
なんて、乙女心と葛藤しながらもキョンさんの足取りは確かで着実に歩みは進みます。
飲んだ量からすればキョンさんのがずっと多いはずなのに、酔った素振りなんて微塵も感じられない確かな足取りに理不尽さを感じながらも、定期的な上下の振幅が気持ちよくていつまでもこうしていたい気分になりました。
息を吸うとキョンさんの使ってるシトラス系のシャンプーの香り。そして、その中に漂う仄かな男の人の匂い。
身体全体でキョンさんを感じて、余計に頭がクラクラとしてきました。
キョンさん、これは逆効果ですよ……。
お酒とキョンさんの両方に酔いしれて、気持ちよく、苦しくて、切なくて、ワケがわかんなくて、もう、前後不覚でどうにか、なっちゃいそうなの、です。
まるで手の隙間から一握の砂がサラサラと零れ落ちるように、言った矢先から言葉を忘れていくような蒙昧さのままそんな台詞を一人ごちた刹那、
『カチリ』
と、何かスイッチが入ったような音が脳裏に響き渡りました。
それは自分の中で勝手に作り上げた擬音なのかもしれないけど、この瞬間何かが切り替わったのは間違いないのです。
だって、なんかあたしとっても、変な、気分なんですもの。うふふ。
なんだかじっとしてるのが、もったいない気分。
んん……、もうっ、じれったいなぁ。
意味不明に逸る気を紛らわすように両手をキョンさんの肩に乗せるのを止めて、首に手を回して思い切り後ろから身体をあずけてみました。
当然の如くキョンさんはびっくりして慌てます。
「うおっ。なんだ!? こらっ、じっとしてろ!」
非難の中にも明らかな動揺が見えるのです。ふふ、もしかして変なこと考えちゃってます?
反応が面白くてよりいっそうぎゅっとして密着度を一層高めてあげちゃいました。
「さてさてここで問題です。あたしが今キョンさんの背中に押し付けてるのは何でしょう?」
「そんなもん知るかっ」
……この台詞にはカチンときたのです。
分からないってことですか? いくら控え目だって言ってもこれだけやれば弾力くらいは伝わってるはずなのです。む~~~~~~。
このどうしようもない鈍感男をどうにかしてやりたくて強攻策に出ることにしました。
抱きつく腕を緩めて少し身を起こすと、ろうそくの日が消えるか消えないかの微妙な加減で、
ふーーっ
と、耳元に優しく息を吹きかけてみました。
そうするとさすがに効果は覿面。
頭の先からつま先まで芯が通ったみたいにキョンさんは直立して身を震わせます。
うふっ、ゾゾゾ、という音が聞こえてきそうなくらい。
「なっ!? お前っ、さっきから何かおかしいぞ?」
色を成したキョンさんが背中越しにあたしの表情を覗き込んできましたが、その刹那キョンさんの顔が引きつりました。それはもう、見たくないものを見てしまったような、いわゆる「げっ」といった感じのとっても失礼な表情。
何よ? 確かにフワフワして不思議な気分だけど、そこまで変な顔してるつもりはないのです。
抗議の一言でも言ってやろうとしたとき、目の前で美味しそうな果実が実ってるのを発見しちゃいました。紅く染まったキョンさんの耳たぶ……。
うふふ、いただきまぁーす。あむっ。
「っ―――――!」
この攻撃、いえ口撃は見事にキョンさんの急所に的中したらしく、声にならないような悲鳴をあげてキョンさんはバランスを崩しました。
同時に宙に放り出されたあたしはそのまま上からキョンさんに覆いかぶさるような形でドサリと赤のカーペットの上に倒れこみます。
「イタタ……」
膝を強く打った痛みを合図に状況を把握しようと目を開けると、開眼一番に網膜に飛び込んできたのはキョンさんの顔がドアップ。
どうやらあたしがキョンさんを押し倒しているような体勢になっちゃってるみたいなのです。
吐息が届くような至近距離でお互い目を見開いたまま見つめ合うこと数秒。
キョンさんの顔は微妙に口もとが引きつってて、目じりの辺りが痙攣しててムードもへったくれもないですけど、そんなのはご愛嬌の範疇。細かいことを気にしてたらキリがありません。
だってこんなのは千載一隅の大チャンスなんですもの。
視線を少し落とせばそこにはさっきよりも格別に美味しそうな二房一組の瑞々しい果実。
えいっ、奇襲!!!
んちゅっ!
――――、とうとう初キッス達成――――――――。
ああ……、これが夢見ていたキョンさんの唇の感触。温かくて重厚で、口付けているだけで安心できるようなそんな不思議な感覚がするのです。
んー、とキョンさんを味わうかのように強く押し付けます。
ほんのり漂うのはグレープとアルコールの怪しい香り。
心は充足しているはずなのに、身体は貪欲にもっと強い刺激を求めてあたしをいけない衝動へといざないます。
さっきの映画のシーンで観たディープキスを思い起こさせて、それを今すぐやれと。
こんな大胆な自分が信じられないという戸惑いは確かにあります。でも、それはどこか遠い別の場所からもう一人の自分が頑張って叫んでるんだけど、全然声が届いてないような希薄な意識で、自分にブレーキが掛からないまま本能の暴走は止まりません。
ちょうちょが花弁を貪るかのようにキョンさんの唇を割って舌を挿れようとしたそのとき、キョンさんの身体が魚のように飛び跳ねて、凄い勢いであたしを押しのけました。
「きゃん!」
と、腕力も質量もないあたしは簡単に吹き飛ばされて上半身を仰け反らせます。
「なっ、なっ、なんてことしやがるっ!?」
拒絶は反射的なものだったのか、怒りよりも混乱が上回っているような様子でキョンさんは気色ばみました。
驚くのは仕方ないとして、せっかくの乙女の口付けなのにそれをばっちいものみたいに拭うのはいただけないのです。キョンさんってば、ひどい。
「何って、キスですよ。キーッス!」
「お前と俺がそんなことをする理由がどこにある? つーか、お前気分が悪かったんじゃなかったのか?」
そう問われて初めて自覚したんだけど、館内で苦しんでいたのが嘘のように今は何ともありません。
身体が芯から熱くて、気持ちが昂ぶってどこか夢見心地なのを除いては。
「おい」
「……なんですか?」
「いい加減どいてくれ」
「やです」
今のあたしがどこか変だってことは自分でも承知してることですけど、さっきからのやりとりの中でキョンさんの様子も少しおかしいことに気づきました。
普段のあたしに対する強気でぶっきらぼうなキョンさんはすっかり鳴りを潜めて、なんだか受身でしどろもどろな感じ。
ここでなんだかピンと閃くモノがありました。
もしかしてキョンさん、相手が強引だと強く出られないタイプ?
視界はぐるんぐるんでおぼつかないくせにやたらと冴えてるなんてなんだか不思議。何はともあれここは押せ押せで行くしかないのです。
珍しくも優位な状況にあたしは楽しくて仕方なくて、ニンマリと笑ってしまいました。理性という歯止めが利かなくて、愉悦と欲望丸出しのイヤラシイ顔になっちゃってるに違いないです。
目の合ったキョンさんが小動物のようにギクリと瞠目して身体を強張らせたのがその証拠。
「ふふ、キョンさんかわいい……」
「アホなこと言ってる場合かっ。この体勢を何とかしろ! 人が来るぞ?」
キョンさんに指摘されて今の体勢を省みてびっくり。
殿方に跨って見下ろすこの体位は、その、女性が上の、アレなんですもの……、やだ、あたしったらこんなこと考えてばっかり……。
意識すると急激にフラチな衝動が込み上げてきて、じっとしてられなくてむず痒いような妙な感覚に囚われます。
「う、上でもぞもぞするなっ」
キョンさんは真っ赤に顔を染め上げて必死の抗議をします。うふっ、まるでリコピンたっぷりのトマトみたいなのです。
無意識のうちに腰とか足とかが動き出しちゃってたみたい……。やだ、はしたない。
でもどちらかと言えばそういう方面に疎いあたしは、次に何をして良いかが分からず、逸る身体を持て余してしまうのでした。
こんなことなら、もっと予習しとけばよかったのです。
イニシアチブを握りつつもこのあとどういう展開にもっていくべきなのか考えあぐねていると、下からちょっと苦しそうなキョンさんの声。
「誰かに見られたらどうするんだ? 何の悪ふざけか知らんが、悪いことは言わん、どいてくれ」
誰かに見られたら。
この言葉が鍵の様に混乱したあたしの思考に作用して、眩い光が降り注ぐような感覚に陥ります。それは一言で言えば不意に啓けてしまったってこと。
全てが分かって、そして繋がってしまいました。
あ~あ、キョンさん。墓穴、掘っちゃいましたね。
誰かに見られるのがまずいのなら、誰にも見られない場所に移動すればいいのよ。
そして、あたしはそういう所に移動できるチカラを持ってる、そうなればもう話は決まりよね?
「じゃあ、二人っきりになれるトコへ行きましょうか?」
あまりに都合の良い展開が嬉しくて楽しくて、薄く笑いながらキョンさんの手首を掴みます。後は目を瞑ってもらうだけ。そうするには――、
「んん……っ」
もう一度口付けるだけで事は足りました。
顔を近づけてキョンさんが怯んで目を閉じた一瞬の隙を縫って空間移動を敢行なのです。
キスしたまま五感が薄らぐようないつもの不思議な感覚がすると、そこは同じようで違う場所。
その証拠にさっきまで漏れ聞こえていた映画の音声や人の喧騒がなく、静寂に包まれています。
名残惜しくもゆっくりと唇を離して身を起こし、キョンさんの反応を窺いました。
キョンさんはしばらく目を白黒させてからビタリと静止するという実に分かりやすいリアクションを見せてくれました。
ふふっ、無音の違和感にキョンさんも気づいたみたいなのです。
「お前、まさかっ」
「はい。そのまさかなのです。これで心配は無用ね」
「……なんか悪いモンにでも当たったのか? この期に及んで驚くつもりもないが、まさか実は二重人格ですなんて言い出すんじゃないだろうな?」
「失礼ね。これは素直はあたしの欲求なのです。キョンさんのこともっとシリタイっていう……」
突如言いたい言葉が煙のように消え失せてしまいました。
あれっ、なんで?
戸惑う猶予も与えず間髪入れずに襲ってきたのは、ものすごい倦怠感。瞼が重くて、重くて仕方が、ない。
「おいっ、橘?」
「っはぃっ! ええ? ああ、と、とにかく、今夜は帰さないのです、分かり合えるまでじっくり、じっくり……、トコト、ン……」
が、がんばるのよあたし。こんなところでうつらうつらと船を漕いでる場合じゃないのです。
けれど、不本意ながらも意識はどんどん遠のいていくばかり。
ええ~、ちょっとぉ~! こんなのってないのです~~~!!!
恨み節も暖簾に腕押し、ぬかに釘、自分との戦いにも関わらず全く抗うことなど許されないまま、問答無用でブツリとワイヤーが切れたように瞼が強制シャットダウン。
一時はお酒で勢いがついて怪我の功名なんて思ったあたしが馬鹿だったのです、最後に待ってたのはやっぱり因果応報。
気を持たせるなんて神様も意地悪なのです、と不遜にも神相手に毒づいてハッと気づきます。
…………、佐々木さんならいかにも当然の天罰かぁ。
などと馬鹿なことを考えて自嘲気味に笑いながらあたしの意識は徐々に霧散していったのでした。
////////////
意識を手繰るように覚醒して目を開けると、強烈な光線が飛び込んできて、反射的に手で遮ります。
うぅーん、眩しいっ!
おかしいなぁ。部屋の電気を消し忘れてベッドに入った覚えはないのに。
寝起きにも関わらず、目覚めは抜群に良いみたいで珍しく頭はクリアに冴え渡ってるのです。ただ目だけが明るさに慣れないようなもどかしい感覚。
「橘! おいっ、しっかりしろ」
そこへ投げかけられたキョンさんの声?
え? どうして眠ってたあたしの傍にキョンさんが?
瞬時にあらぬ想像が駆け巡って、あたしは飛び起きます。
ゴチン!
目を瞑ったまま急に動いたのが仇となり、額を何か柔らか硬いモノにぶつけて、視界にお星様が飛び散りました。
なに? なに? なんなのいったい!?
せっかく踏ん張った腹筋も空しく上半身は重力に従って逆戻り。感じた落下の衝撃はいつも私が使ってる枕とは違うものでした。
んん? なんか後頭部にちょっと硬めの低反発素材のような柔らかい感触が……。って、それどころじゃない、痛いぃ。
あまりの痛さに両手で患部を押さえると、ついでとばかりに涙まで浮かんできました。
うぅ……、最悪の目覚めなのです。
「った~~~~~~いぃ!」
「ってぇ」
ようやく拓けた視界に待ってたのは、あたしと同じ格好で額を押さえながら痛みに耐えるキョンさんの顔。上からあたしを覗き込むような姿勢でしかもかなり距離が近い。
この体勢、頭に感じる人肌のような柔らかい感触、これって……、
キョンさんの膝枕――――――――!??
いくら察しの悪いあたしでもここまでヒントが出ればピンとくるのです。
流石に同じ過ちは繰り返さないように今度は横に身体を回転させて、文字通り転がるように離れると、不意に落下感襲われて反射的に頭だけは守ろうと下手くそながらも受身を取ります。
ドン
と、尻餅をついて身体が止まったことを確認すると、そこはあたしの部屋でも、キョンさんの部屋でも、ましてはそういうホテルの一室でもなく、素っ気もない無骨な硬いアスファルトの上。
ワケも分からず取り乱したままに立ち上がると、目の前にはベンチに座って顔を歪ませながら額を押さえるキョンさんの姿。
明るいのはあたし達のいる水銀灯の下だけで辺りは真っ暗。今は夜?
聴覚が戻ってくると少し風が吹いていて、ザワザワと木の葉が擦れる音が聞こえてきました。
「――ッ、たた」
遅れて襲ってきたのは芯からズキンと響く頭痛。
さっきぶつけたのとは明らかに違う種類のもの。それが呼び水になって断片的な記憶が戻ってきました。
そうだ、キョンさんとデートしてて、バイキングで夕食を楽しんで、その後映画館へ行って……、焼酎入りのジュースを飲んじゃって、廊下でおんぶされながらキョンさんに絡んじゃって、今の頭痛はその名残!
芋づる式に記憶が呼び戻ってきたけど、ここでピタリと止まってしまいました。
それからあたし、どうしたんだろう……。
途切れたフィルムのように断絶があって、いくら頑張っても思い出せません。
「なんだ、随分と元気そうじゃないか」
「キョンさん、どうしてあたしこんなとこで……」
「覚えてないのか?」
「……はい」
額を赤くしたキョンさんは少し困ったように鼻の頭を掻きました。
どうしてそんな微妙な表情をするんですか? ま、まさかあたしとんでもない粗相をやらかしちゃったりしました?
「気分はもういいのか?」
言われて改めて自分の体調を省みました。それ自体がすでに何も変調がない証拠なのです。ぐるんぐるんに回っていた視界も、熱くて仕方なかった身体もすっかり元通り。
「……大丈夫みたい」
「そりゃよかった。大変だったんだぜ? いきなり落ちたからな。気絶したんじゃないかって思ったくらいだ」
お酒が回ってくだをまいてるうちに寝ちゃったってことかな?
おそらくはそんなところだろうと思うけど、キョンさんには大変な迷惑をかけてしまったのです。
でも、なんだかんだ言ってちゃんと介抱してくれるなんて、やっぱり優しい。
それにしてもここまでどうやってあたしを運んだろう……。おんぶ? ま、まさかお姫様だっこってことはないよね?
膝枕の感触を思い出しながら妙な妄想を膨ませると舞い上がってしまいます。
「えー、その……、なんだ……」
キョンさんが少し照れて落ち着かない様子で切り出します。らしくない妙に歯切れの悪い調子で。
「急にお前のキャラがおかしくなったのはなぜだ? 頭の大切な部品が脱落したんじゃないかって疑っちまうくらいにぶっ飛んでたぞ」
どうやら酔っ払ってかなりみっともない姿をお見せしてしまったようなのです。
どんな状態だったのかは思い出せないけど、キョンさんの様子からしてとにかく完全にキャラが壊れちゃってたってことは間違いなさそうなのです。
うぅー、恥ずかしいなぁ。
まさかお酒に酔ってましたなんて正直に白状することはできず、けれど説明せずに変人のレッテルを貼られるのはもっと受け入れられず、結局あたしが用意した嘘の答えは、
「く、九曜さんに作ってもらったサプリメントが身体に合わなかったの、かなぁ?」
なんて酷い出来の嘘。無理のある設定が災いして自信が持って言い切れず、目が泳ぎまくって余計に嘘臭い雰囲気を増幅させてしまいました。最悪の悪循環なのです。
「九曜自作のサプリメントだと? サプリメントって栄養剤か何かか?」
コクリとうなずいてみたものの、いくらなんでもこれじゃあ信じる方が無理があると自己嫌悪に陥りそうになりました。
「……お前、口にするモンは選べって。あいつがまともなモンを作ると思うのか?」
……あたしは首を振るしかありませんでした。ああっ、ごめんなさい九曜さん。
でもでも、助かったのです。ありがとう、九曜さん。
この窮地でキョンさんを納得させることができたのは、まさにあなただからこそ。
あなたの正体不明、意味不明のキャラクターにはいくら感謝の意を述べても足りないのです。
ひとまず一難去ってホッと息をつこうとしたところへ、まだ早いとばかりにキョンさんが「もう一つあるんだ」と口を開きました。
「アノ事なんだが……、無かったことにしないか? お前もクスリでワケが分からない状態だったと思うし不本意だろ?」
アノ事???
意味不明な内容にあたしは戸惑います。
きっとやらかしてしまった中身に含まれている事なんだけど、今のあたしには知る由もないのです。
「あの、あたし、なにか失礼なことをやっちゃいました?」
おそるおそる訊いてみると、キョンさんは目をぱちくりと瞬かせた後、素の表情に戻ると小さく首を振ってみせました。
「いや、覚えてないならいいんだ。気にするな。俺も気にしないようにする」
「えぇ~? すごく気になるんですけどっ」
なんて、粘ってみてもキョンさんは教えてくれません。
このままじゃ夜、眠れそうにないのです。なんかあたし的にはすっごく嬉しかった事のような気がしてならないのです。ああっ、もどかしいっ。
「もう一人でも大丈夫だろ。解散だ。メシうまかったぜ。じゃあな」
地団駄を踏むあたしを気にかけず、キョンさんは一人矢継ぎ早に別れの台詞を言い放つと、さっさとベンチを立って行ってしまおうとします。
「ちょっ、キョンさん!」
慌てて追おうとしますが、キョンさんは半身に振り返って肩越しに、
「ポニー。なかなか似合ってたぜ」
と予想だにしないタイミングで大切な言葉をそれはもうぞんざいに投げつけてきたのでした。
虚を突かれたあたしは完全に機能停止。
ただ手を振って歩いていくキョンさんの背中を見送ることしかできませんでした。んもうっ、こんなの反則なのです。
…………なんだかすっごく消化不良な感じがすんですけどっ。
やりきれない気持ちを抑えるようにあたしはベンチの傍らでしばらく立ち尽くしました。
徐々に頭が冷えて来ると思い出したことが一つ。
そうだっ、定時連絡!
あたしは慌てる手の上でケータイを躍らせてもたつきながらも、報告を確認します。前回の酸っぱい失敗がちょっとトラウマになっているのかも。
気を失っている間に一通の着信あり。
『ターゲットS経路Cで帰宅完了。自宅に入ったまま動きなし』
「ふうっ」
とりあえずブッキングの心配だけは拭い去ることができました。
そのままピッピッと操作してよくやってくれた部下にお礼と解散のメールを送ります。
送信完了っと。
さて、今回は何だか良かった事と悪かった事がごちゃまぜになったような変な結果に終わってしまいました。
少なくともレストランではちょっと良い雰囲気で、映画館は自爆の大失敗があったものの、さっきのキョンさんの表情からすれば壊滅的ではなかったような気がするのです。
ああ~、なんとか思い出せないかなぁ。何があったのか、何をやってしまったのかとても気になるのです。
記念になるくらいの金星を獲った!
っていう感覚だけはうっすら残っているものの、その金星の中身がさっぱり思い出せません。これ以上無駄な記録はないのです。
脳みそを急かすように頭を小突いてみますけど、もちろんこんなことで思い出せたら最初から悩みません。
水銀灯のスポットを浴びて佇みながら記憶を浚ってみましたけど、程なくして諦めました。
……帰りましょう。取りあえず後退はしてないはず。作戦の度に総計ではプラスの方向に向かってるのは間違いないのです。その進度は亀さんが三歩進んで二歩下がるような感じですけど。それでも明日に繋がるのなら贅沢は言わないのです。
さぁ、撤収――――。
踵を返そうとしたとき、突如身体を襲ってきた怖気にあたしは硬直しました。
背中を這ってゾワゾワと前に回りこんでくるような黒い威圧感。なぜか脳裏に浮かんできたのはまるで太い昆布がうねくっているようなそんなイメージ。
……なに、これ?
振り返るなと本能が告げているけど、あたしの帰り道はこっちとばかりに身体が独断専攻で180度回転。
そこに待っていたのは、イメージそのままの地上で蠢く昆布の群生……、ってそうじゃなくて!
「く、く、九曜さん!?」
シンと静まり返った公園に素っ頓狂な声を響かせてしまいました。
なぜ九曜さんがここに……、瞬間背筋に冷たいモノが走りました。
……そうでした。理由の察しはつくのです。……覚悟まではまだ、っできてないけど。
夜に九曜さんにお会いするのは……、初めてのような気がします。いえっ、初めてですっ。
だって、お顔はおろか全身もすっぽりと覆い隠してしまいそうな大ボリュームの艶やかな漆黒の髪の毛は、暗闇と完全に同化して顔面だけが中に浮いてるような感覚に陥るんですもの。
こんなきょうれ、いえっ、鮮烈な光景は一度見たら絶対に忘れないもの。
九曜さん、そういうのは夏にやりましょうよ、ね。懐中電灯なしでそれができるなんて、すばらしい特技なのです。
淡雪のように真っ白なお面を浮かび上がらせて、視線は虚空に彷徨わせたまま。一体どこを見てるか見当もつきません。あたしを見ていないのは確かだけど。
「――――、栄養剤を――――」
やや色彩に寂しい薄い唇がなんの前触れも無く開くと、感情の読み取れない完璧に平坦な音声が滑り出てきました。
出てきたその単語にあたしはビクリと身体を震わせます。
「――――、あなたに―――、栄養を…………あげる――――」
「いえっ、あのっ……、さっきのはですね。言葉のアヤというか、成り行き上致し方なかったというか、とにかくごめ、って、ひぃぃ!」
ビュム!
音を当てるとするならばそんな風切音。とにかく普通の人間には到底出せないような異音を伴って、九曜さんはカタパルト発進のように高速水平移動してあたしに急接近。
まるで能面が襲い掛かってくるような恐怖に駆られて、瞬間冷凍されたようにあたしの身体は固まります。
こ、これはっ、冗談抜きでトラウマになっちゃいますよぅ。九曜さぁん。
その隙を縫ってガッシとあたしの両腕を掴まれてしまいました。
二人で揺りかごを作るような形になるけど、揺りかごなんて平和でのどかな雰囲気など微塵もないのは言うまでもありません。
信じられないことに九曜さんはそのまま後ろに水平移動を敢行。あたしは引っ張られるままに前進するしかありません。
「――――、行こう――――」
「ええっ!? ちょっ、あのっ、待、…………ええっ? えええ~~~~?」
顔を付き合わせたまま、前代未聞のスタイルで強制連行されるあたし。
この展開と、体勢と、九曜さん。全てが信じられなくて混乱は留まることを知らずに膨れあがるばかり。
「――――、栄養――――、注入――――」
ちゅ、注入!? 栄養剤って普通飲むものですよねっ? あのっ、できればあたし服用する方でお願いしたいんですけど……。
そんな願いなど聞き入れられるはずもなく速度は順調に加速。程なくしてあたしは全力疾走を強いられていました。
「えーん。九曜さぁーん、ごーめーんーなーさい――――――――!」
行き先不明の変則二両列車は甲高い泣き言の汽笛を鳴らして闇を切り裂き、夜の公園を暴走します。止まることを知らず、短めの尻尾をたなびかせながら、どこまでも、どこまでも――――。
復讐は何も生み出さない。そんな言葉が胸に沁みます。厳密には復讐とリベンジは意味合いが違うんですけど、とにかく浸りたい気分がそんな感じなので些事は不問なのです。
プライドの復権を賭けて意気揚々と臨んだ作戦第二弾ですけど、性懲りも無く待ってた結末は前回の焼き直し。
悲惨な爆走の行く末に行き着いた終着駅で悪夢のような終焉を迎えたのでした。くすん。
―完―
春もたけなわ、お日様が出てる時間もだいぶ長くなってきました。
とはいえ時刻はすでに6時過ぎ、夜の帳はゆるりと降り始めて薄暗い中ネオンに彩られた商店街をトボトボと歩きます。
今日は機関の定期集会の日で今はその帰り道。
思わず口を突いて出た大きな一息が充実した会合の余韻を覚ますものだったとしたらどれだけ幸せだったでしょう。
だけどそんなのはあたしの儚い願望。実態はただの溜息なのです。
佐々木さんのチカラと、あたしの素性をついにキョンさんに打ち明けたあの記念すべき日以来、ようやくスタートラインに立てたはずなのに事態にこれといった進展もなく、機関全体のテンションが落ち気味なのです。
これを打開する妙案もなく例によって今日もぐだぐだでした。
あたしが議長を務めたので余計にヘコみます。
送りの車があったけど思わず辞退しちゃいました。一人になって少し頭を冷やしてたかったから。
「ふぅ……」
さっきから定期的に湧き上がってくる溜息をまた一つ盛大に大気開放。
溜息を吐くほど幸せが逃げるなんて言うけれど、人間落ち込むことに身を任せたいときだってあるのです。
大きく息を吐いてストレスとか厭なことを吐き出してる気になれば少しは気分も晴れるもの。なによりも深呼吸にはリラックスの効果があるのです。
何気なく視線を漂わせると暖色にライトアップされたショーウィンドウが視界に入ってきました。
中に飾ってあるのはキレイ目なワンピース。あたしのお気に入りのブランドなのです。ついこの間も買い物をしたばかり――――、
思考を割り込んで数週間前の出来事がフラッシュバックしました。
それは概ね厭とか恥ずかしいとか、あわよくば無かったことにしたいそういった負の類のモノなんですけど、時おり甘いような、そしてラストは……、酸っぱいような妙な思い出なのです。
…………。
やだ、あたしったらボーっとしちゃいました。
しかしそれも仕方のないことなのです。あの『痛キモチイイ』ような不思議な感覚が鮮烈に焼きついて頭から離れないんですもの。
あのあと恐怖に慄きながら佐々木さんにオシオキとばかりに強制連行されて辿りついたのは、その……、町外れにあるカラオケボックスだったんですけど、普通に歌い始めるはずもなく執り行われたのは…………、延々たるくすぐりの刑。
くすぐりが拷問の一つってのは本当なんだってことをこの身に刻みつけるように実感してしまったのです。
マイクコードで手首縛って、おしぼりで目隠しして……、どうしてああも機転が利くんでしょうか。……変な趣味に目覚めてしまいそうなのです。
「はぁ……」
陶然と回顧に耽ったあたしの口から熱っぽい吐息を思わず漏れ出てしまいました。今までの溜息と明らかに一風趣の異なった息吹。
否が応にも身体が反応して熱く昂ぶります。
こそばゆい感覚を突き詰めるとそこにあるのは極度の緊張による痛み、でもそれすらも通り越してしまうと弛緩の境地に上り詰めてしまうのです。
そうなると普段無意識の内に押し込めているものが全部開放されちゃうような感覚に陥ってしまうの。
もちろんこんなの初めて知ったことですけど。今から思えばあれは知っちゃダメなコトだったような気がします。
佐々木さんのガラス細工のように繊細な指先は信じられないくらいに器用で、探知機でもついてるかのようにあたしの弱いところを次々に探し当てて、そこばかりをそれはもうねちっこく執拗に責め立てたのでした。……佐々木さん恐るべし、なのです。
あの日以来、その、とっても恥ずかしい話なんですけど、どうにもあの感覚が病み付きみたいに忘れられなくなっちゃって……、でも独りではどうしようもなくて、つい夜な夜なイケナイ遊びに耽――――、ってダメダメ、天下の往来でこれ以上考えるのはNG!
火照った頬を戒めるかのようにペチペチと叩いてなんとか気を取り直します。
違うっ、違うのっ、こんなはずじゃなかったのです。それに思考が脇道に逸れすぎっ!
色香で惑わせたキョンさんを舞台裏で操って佐々木さんを真の神様に祀り上げる悪女を目指したあたしはどこへ行ってしまったの?
一回挫けたからってそれで終わり? そんなヤワい精神構造で小悪魔が務まると思ってるの? 本当の小悪魔ってのは厚顔無恥でちょっとしくじってもぺロッと舌を出して帳消しにできるそれはもう無尽とも言える生命力を持った強い強い生き物なのです。
店先で年頃の女子がぎゅっと目を瞑ってひたすらぺちぺちとやり続ける姿は異様の他なんでもありません。
お店の人ごめんなさい、営業妨害じゃないのです。
手を止めるとじんじんと疼く頬に火が灯ったみたいに熱が帯びてきました、それに触発されたように本当に今まで立ち消えになっていたヤル気と自信が沸々と盛り返して来ました。
よしっ、気合は十分!
とにかく!
ヘコんでても良いことなんてないことはこの数週間でおなか一杯になるくらいに分かったのです。やっぱり自分で動き出さなきゃ何も始まらない。
失敗と失態は取り返せば良いの。
『求めよ、さらば与えられん』
なんて素晴らしい言葉があることでしょう。今のあたしにぴったりなフレーズなのです。
たった今からこれがあたしの座右の銘。
クリスチャンでもないのにお言葉だけ拝借するなんて調子良過ぎかな。でも、それは仕方ないことなのです。なんてったってあたしの唯一神は佐々木さんだから。
確かに前回の『傾国の美女作戦』は大失敗に終わりました。敗因はキョンさんのニブチンさを甘く見すぎていたことと、佐々木さんの監視を怠ったこと。
この対策さえすれば今度こそうまくいくはず。
ショーウィンドウの照明を背にあたしは胸の前でぐっと掌を握りこみます。
道行く人たちの半分が眉を顰めながら奇異の視線を向けて、残りの半分がいかにもわざとらしくそそくさと足早に通り過ぎていくけど、そんなことじゃこの決意表明は……、揺らぎません。揺るがないのよっ。
心意気も新たに作戦第二弾をぶち上げます。半分ヤケ気味に腫れた頬を膨らませながら。その名も、
『熱愛の猛進作戦』
乙女がどうとか、恥じらいがどうとかそういうの気にしてちゃあの超次元鈍感男の相手など到底できないということ。
演技も……演技も不要なのです! あの後、どうしても納得がいかなくて忌憚のない第三者の意見が欲しいあまりに『藤原』さんの前で披露したところ、
「学芸会レベルの茶番だな」
の一言でバッサリ斬り捨てられてしまったあたしの三文芝居なんか、ないほうがっ、いいのよ。
鼻先にツーンとこみ上げてくるものを、すんっ、と乱暴に鳴らして思わず目じりにうっすら浮かんだ雫を払うようにかぶりを振ります。
要は小細工なしの真っ向勝負!
これでダメならさすがにあたしも諦めるのです。
そうっ、言うなればこれは意地。女の意地を賭けた勝負なのです。負けられない!
夜空を見上げれば眩いばかりの繁華街の電飾に負けじと皓々と輝くお月様。
月影を真正面から浴びながらあたしはリベンジを固く誓ったのでした。
//////////
金曜日の午後7時10分前。
この前と同じく地域の中で最も栄えた繁華街でキョンさんと待ち合わせ。
例によってキョンさんのアポをとるのは至難の業で。艱難辛苦と紆余曲折を経てようやく会う約束を取り付けることができました。
約束の日時が週末の平日で中途半端な時間になってしまってるってところに、その痕跡が窺えるのです。
初めて目にする人がローマ字読みするとツッコミ風になってしまうファッションビルの入り口でキョンさんの姿を探しますが、まだ来てないみたいなのです。
スカートのポケットの中でメール着信音が鳴ったのでケータイを開いて確認。
『ターゲットS、学習塾にて数学の講義を受講中。不審な動きはなし』
ふふふ。同じ轍は踏まないのです。今回は佐々木さんの監視付き。部下から定時連絡を入れてもらうようにしました。
安堵して姿勢を正し直します。
ちなみに今日のあたしのお洋服ですけど前回と一緒。強いて言えばお星様のネイルアートを入れたくらいかな。お仕事があるのでネイルチップですけど。
誤解のないように説明しますけど、決して手を抜いたワケではありません。
キョンさんは女の子の服装の細かいところまでは興味は示さないタイプだから、過剰にドレスアップしても自己満足にしかならないというむしろ学習の成果なのです。……というのはあくまでも本音半分。残り半分は十代女子の厳しいお財布事情に由るものなのです。
その代わり! 今回はちゃーんと奥の手を用意してきました。
二つある尻尾を一つにまとめて一つに……、そうっ! ズバリ、ポニーテール!
キョンさんの琴線に触れる超重要スタイルだっていう下調べは随分前からついていたんだけど、奥の手は常に取って残しておくもの。策士たる者の基本的な心得なのです。
でも今日は勝負の日なので惜しみなく投入。振り返ってショーウィンドウを姿見代わりにポニーの出来栄えを再確認。
結い位置はあごと耳の延長線のベストポジション。毛先までストレートにまとまった艶のあるサラサラの髪を肩越しに確認すると、力強くうなずきます。
イケる。これなら間違いなく一目でキョンさんのハートも直撃のはず。
自分の世界に入っていっちゃいそうになったけど、写り込む人影の中に小さく写るキョンさんの姿を見つけると、慌てて我を取り戻して振り返ります。
やっぱり出会い頭の第一印象は大切よね。
「こんばんは」
グラビアアイドルばりの極上の営業スマイルでキョンさんをお迎え。対するキョンさんはの倦怠感溢れんばかりの随分なおざりな態度で応えてくれました。
「お前も暇だね。バイトはどうした? オフならオフでもっとプライベートは有効に使えよ」
相変わらず手厳しいのです。
広義で言えばこれも仕事の一環です、という台詞を飲み込んで、
「学校の後で疲れてるところ呼び出しちゃってごめんなさい」
と、ペコリと頭を下げました。ポニーの尻尾がキョンさんに差し出されるような格好になります。
すぐに頭を上げてすかさずキョンさんの表情をチェック。
視界に入ってきたのは、口を半開きにしたままぎこちなく佇むキョンさん。それはまるで何かを言おうとした瞬間に待ったがかかったような、言うなればぶっきらぼうに「まったくだ」とでも返そうとしたときにカウンターパンチをもらったような、おかしな表情。
「んん? どうかしましたか?」
心の中でガッツポーズを作りながら、素知らぬ調子で問いかけます。
「い、いや。なんでもない」
んもうっ、そこで「髪型、変えたんだな」の一言があれば女の子も喜ぶのに、天邪鬼なんだから。
まぁ、いいのです。キョンさんの強硬な態度も崩せたしツカミはOK。
「じゃあ行きましょうか?」
一気に畳み掛けるようにあたしは素早くキョンさんの腕に飛びつくと、ギュッと身を寄せてリードします。
「おいっ、行くってどこへだ?」
「バイキング!」
//////////
駅前の高層階、海を見渡せる夜景の素敵なホテルレストランの窓際の席に十代のカップルが一組。
一流ホテルというほどではないのである程度のラフさは許されるとしてもちょっと浮き気味であるのは否めないのです。
金曜の夜ということでお客の入りも良くて家族連れも多く、満席に近いくらいに混んでるので、なんとかその中に紛れ込めているのが救いですけど。
せめてキョンさんがもう少し気合入れてオシャレしてきてくれれば良かったんだけど、まぁ贅沢は言わないのが吉です。
このバイキングは期間限定で催されているもので、3000円で普段ご縁のないような料理が取り放題、食べ放題、飲み放題という庶民にとっては一大イベントなのです。そのため、みなさん実に気合が入ってるのです。その例外に漏れずキョンさんも。
キョンさんはあたしに借りを作るのが厭みたいなので、露骨に奢ることは控えて招待券を手配しました。誰かに譲ってもらったわけでもなくわざわざ機関の経費で購入して。
親戚から招待券をもらったけど、家族は都合がつかなくて行けないという設定を作ることでキョンさんをその気にさせることに成功しました。
優雅にホテルで夜景と夕食を楽しみながらでくつろいじゃったりしてますけど、ここに至るまでには聞くも涙の長い道のりがあったのです。
だけど、その労苦の甲斐あって育ち盛りの男子の食欲を煽るために企画したこの計画は結果的に成功でした。
現にキョンさんはさっきから大皿をいっぱいにして戻ってきては、舌鼓を打って非常にご機嫌なのです。
食べるのに夢中で料理の感想以外あたしとほとんど喋ってないのがそこはかとなく残念ですけど。
あたしですか? 正直な話少食なのでバイキングのメリットは無いの。あくまでもキョンさん優先。泣けてくるくらいの健気さなのです。
と、切なさを噛み締めるようにエビチリを一口食べたとき、キョンさんが向かいの席に戻ってきました。あ、今度はにぎり寿司なんだ。
「どうした? さっきからあんまり箸が進んでないように見えるんだが」
「そんなことないのです。ちゃんと食べてますから。お寿司美味しそうね」
「回ってない寿司なんて久しぶりだな」
嬉々としながらキョンさんはアナゴを頬張りました。
幸せそうな笑顔は見てて癒されるものがあるんだけど、あたしと二人でいるときその表情が見たいのです。
「適当に見繕ってきたんだが、自由に取ってくれ」
「あ、うん。ありがとう」
「さすがホテルのレストランだ。いくらでも箸が進むね。今日は偶然家族が出払ってて夕飯をどうしようか困ってたところだったんだ。ちょうどよかったぜ」
「そう言って喜んでもらえるとこっちも嬉しいのです」
「妹を連れてきてやりたいな。あいつを連れて来たら次から次へと目移りして目を回しそうだ」
そんな風に無邪気に話すキョンさんはなんだか普段より随分子供っぽくて、完全に毒気を抜かれてしまいました。
でも、レストランに来てから初めて会話が続いたような気がします。さすがにキョンさん食べるペースも落ちてきたし、お話するならこのタイミングかも。
「キョンさんって好き嫌いないんですか?」
「……ねぇな。特殊にカテゴライズされるもの以外だったら結構何でもいけるかもな」
「女の子の好き嫌いも?」
「ぶっ、っごほっ、ごほ、ごほっ」
慌てて口許を押さえてお寿司を噴出すの阻止して激しく咳き込むキョンさん。、
「あああっ、はい! お茶!」
渡した湯飲みをひったくると一気に流し込みます。
ちょっとした冗談なのにそんなに動揺しなくても。それとも、心当たりがあるっていう裏返しなのかな。
「っ――――、はぁっ! おまえなっ、俺を殺す気か?」
「ちゃんとお茶をパスして助けたじゃないですかぁ。そこまでびっくりする方がどうかしてるのです」
「いいや、全然関係の無い話をいきなり振ったお前が悪い」
反射的に言い返そうと息を呑んだあたしでしたが、キョンさんの酷い有様を目の当たりにして言葉を失ってしまいました。
あ~あ、ほっぺとお洋服にご飯粒いっぱいを貼り付けて……。
ハンカチを取り出すとあたしは席を立ちました。キョンさんは一体何をやらかす気だと言わんばかりに身構えます。もうっ、失礼ね。
「ちょっとじっとしててください。上着脱いで。シミになるといけないから、応急処置だけどやってあげる」
鳩が豆鉄砲を食らったように硬直したまま瞬きだけを繰り返すキョンさんの隙を突いてハンカチで顔についたご飯粒をパッパッと払って、背中から無理やりジャケットを脱がしにかかります。
お醤油のシミがついたところにハンカチのキレイな部分をそっと当てながらお冷の水をちょっとだけ垂らして馴染ませておいて、乾いた部分を当てて汚れを吸い出すことを繰り返すと、……よかった、だんだん薄くなってる。
この間キョンさんはテーブルの料理に手を伸ばすこともせずに黙ったまま見てるだけ。きっと今顔を上げたらバッチリ目が合っちゃうんだろうなぁ、なんて思うと勝手に照れてしまいました。
それをごまかす様にあたしは更に手元に意識を集中させます。
レストランで膝の上でせっせと染み抜きをする女子と、それを呆けたように見守る男子。
客観的に描写するとなんだか奇妙な光景ですけど、ジャケットを返したときのキョンさんの顔を目の当たりにしてそんなことは瑣末事のように吹き飛んでしまいました。
「ありがとうな」
穏やかに微笑みながら礼を言ったキョンさんの表情は、つい数分前まであたしが欲してやまなかったものだったから。
////////////
ちょっぴり幸せな気分に浸りながら、心行くまで食事を楽しんでレストランから出てくると時刻は午後8時20分。
花の金曜日ということもあって、繁華街はまだまだ宵の口とばかりに活気に満ち溢れていました。心なしか道行く人たちの足取りも軽いように思えるのです。
この後ですけど、洋画を見てさらに良い雰囲気になって、映画館の熱気を冷ますために公園に入ってベンチでさらにさらに良い雰囲気になって、その後は、い、いけるところまで!
ってのがあたしの計画だったんだけど、レストランから出ると同時にその計画にいきなり黄信号が灯りました。
食事中は結構良い雰囲気だったにもかかわらず、それはそれ、これはこれと言わんばかりにキョンさんの態度は待ち合わせた直後の硬いものへと逆戻り。
キョンさん~、さっきの優しい顔はどこへ隠しちゃったんですか?
映画に誘うと家族が心配するから帰る、とかいい加減なことを言い出したので、さっき今日は家族が不在だって言ってたじゃないですか、と問い詰めてなんとか引き止めたのです。
けれど、このままじゃ本当に半ば義務的に映画を観るだけでスタッフロールと同時にさっさと帰ってしまいそうな雰囲気がありありね。
席を取ってキョンさんを残してホールのドアを閉めて廊下に出てくると、途方に暮れて大きく息をつきす。
辺りを見回すと映画館は大入りらしく飲み物を販売している売店の店先には列が出来ていました。
映画に誘ったのは暗闇でキョンさんの手をそっと握って女の子を意識させようってのが目的でしたけど、こんなテンションじゃ何を仕掛けても効果がないよね。
と、暗く一人ごちると、ずーんっと重く沈んでしまいそうになります。
……アレを使うしかないのかな。
手提げのバッグから取り出したるはピンク色の小瓶。心なしか水よりは粘度が高いように緩やかに揺れる液体を眺めつつ逡巡します。
ああ、こうやって神妙にしてると誤解されちゃいますね。中身は危ないクスリとかでは断じてないのです。
持って来たのはお酒。アルコール度数の高い焼酎。
正直道具に頼るのは矜持に反する行為なのです。それだけに悩む。うぅ……、どうしよう。酔わせて手篭めにするなんて、姑息なナンパ師みたいなのです。少なくとも女の子がやることじゃないよね。
その時、スカートの中でケータイが震えました。お決まりの定時報告。
『ターゲットSに動きなし。依然講義を受講中』
という内容を確認してパタンと閉じます。
それが合図になったかどうか分からないけど、瞬間佐々木さんの存在を強く意識したことは間違いありません。
あたしが手をつけようとしてるのは禁断の恋愛。モタモタとしてる余裕などないのです。
そう、長期戦は色んな意味でダメ。次回はないものと思わないとっ。
顔を上げるといつの間にか売店の列は捌けてすぐに注文ができる状態。あたしは重い足を引きずるようにしてカウンターに向かいます。
「いらっしゃいませ」
鬼気迫る雰囲気が出てしまっていたためか、店員の男性の顔が一瞬引きつりました。
「グレープジュース2つ」
この言葉と同時に賽は投げられました。橘京子、プライドを削ってまで勝ちたい一世一代の大勝負の幕開けなのです。
////////////
席に戻ると紙カップを両手に持つあたしをキョンさんが訝って迎えてくれました。
「あれ? トイレに行ったんじゃなかったのか? 飲み物はいらんと言っただろ」
「映画は2時間あるんですよ? 備えあれば憂いなしってやつです。もし、要らなかったらあたしが頂いちゃいます」
上っ面はいつもの調子の茶目っ気があってちょっとテンション高めのあたし、でもその薄皮一枚裏側はここからの展開に怯えまくりなのです。
今一つ釈然としない様子のキョンさんでしたけど、あたしが座るとともにブザーがなって開演となりました。
今から始まるのは前回もプログラムに組み込んでいたアクション映画。
シリーズ三作目らしいけど、白状すると前作をちゃんと観たことないのです。ではなぜこれを選んだかというと、途中にロマンティックというか、ちょっとえっちなシーンがあったりするから。
映画に触発されてキョンさんがあたしのことを意識したりすれ儲けもの。なんにせよ二人のテンションとムードを高めるのが目的なのです。
映画自体は前作を知らなくても十分楽しめる内容で、のっけから派手なアクションシーンが連発。緊迫する場面の連続で思わず引き込まれてしまいました。
それはキョンさんも同じらしくて、視線は正面を向いたまま集中しているみたい。
そのまましばし純粋に映画を楽しんで、オープニングから30分くらい経った頃、運命の瞬間は突如訪れたのでした。
やっぱり喉が渇いたのか、口寂しくなったのか、目の前にあるから単に反射的に取ってしまっただけなのかは分かりませんけど、とにかくキョンさんは何気ないごく自然な動作でジュースを取ってストローに口を付けたのでした。
コクコクと五回は喉が鳴ったかな。思いのほかたくさん飲んだのです。
フィ――――――ッシュ!!!
と思わず心の中でガッツポーズ。
何か間違ってるような気もするけど、この際ニュアンスだけそれっぽければ何でもいいの。
言うまでもなくキョンさんが今のんだのは橘京子謹製のグレープチューハイ。
あまり焼酎を混ぜ過ぎるとバレるリスクが高くなるため、配合には最新の注意を払いましたけど、キョンさんは変な素振りを見せることなくカップを戻しました。
やったのです。こんな量で酔っ払うこと期待などできませんけど、お酒が入って少しでもノリが良くなれば御の字。とにかく第一関門はクリア。
そんな風に映画を無視して一人盛り上がるあたしなど全く構わずにその後キョンさんは映画の幕間のタイミングで何度もカップを取り上げたのでした。
カップは不透明だけれど、液体の影から察すると半分以上は飲んじゃったみたい。
これだけ飲めばちょっとは……、といそいそとキョンさんの横顔を窺ってみましたけど、両の眼はバッチリと開いたまま、顔色は分からないけど何の変化もみられません。
まぁ、こんなもんか。と落胆しかけた自分を納得させて、いい加減あたしも映画に視線を戻したのでした。
時間は過ぎて映画も佳境に差し掛かり、お待ちかねというか、あたし的に見所というか、んん……もうっ、どちらも微妙に意味合いが違うんですけど、とにかく件のシーンに差し掛かりました。
スクリーンの中で美形の白人俳優と女優がベッドの中で抱き合ってお互いを求め始めました。わわっ、激しいのです。
とはいえ、たかだかR‐15なので当然ながらお二人はシーツに包まっていてナニがドウなってるのかは分からないんだけど……、あの一枚の布の裏側では一体どんな攻防が繰り広げられているのか逆に想像が掻きたてられてしまいます。
俳優が一言『愛してる』と耳元で囁くと、そこからはひたすらキスシーン。
え、ええー? そんな、のっけからいきなり、し、舌を絡めて、うわ……、お、オトナのキッスの応酬なのです。
ゴ、ゴクリ……、と生唾飲み込んで思わず食い入るように見入ってしまう前に、一片の理性から待ったがかかりました。
バカ、ここで映画にのめり込んでどうするの?
我に返ってキョンさんの横顔を窺うと、キョンさんはべつだん興奮した様子も、慌てた様子も見せず普通にスクリーンに集中してるようでした。
平静を装ってるのか本当に平然としてるのかまでは分かりません。相変わらず読めないなぁ。
でもでも作戦は作戦。映画に誘ったのは今この瞬間のためといっても過言じゃないんだもの。やるしかないのです。
あたしは膝の上で掌を一度グッと握って覚悟を決めると、右手をゆっくりと上げて隣の席の肘掛の上にあるキョンさんの手に重ねました。
っ、着地成功……。喫茶店で閉鎖空間にご招待したとき以来の素肌のコンタクト。
ただ手が触れているだけの状態にも関わらず、あたしの心臓はどんちゃん騒ぎのビッグマーチ。脈が鼓膜の内側で聞こえるくらいです。
分厚くて節くれだっててとても男の子してるキョンさんの手の感触を堪能してしまいました。
あたしがこれだけドキドキしてるんだもの、キョンさんだって少しは意識してるはず……、チラと横目で窺うと――――、寸分の変化もみられないキョンさんの横顔。
ええ? なんでなんで? ま、まさか映画にのめりこんでて気づいてない、とか?
……ありえるのです、何せ相手は究極ニブチン朴念仁。この程度じゃ足りないってことね。
ここでスルーされるのは女としてのプライドが許さないのです。
うー、仕方ない。は、はしたないって思われるかもしれないけど……。
恥ずかしさに耐えながらおそるおそるあたしは重ねた手を握って、キョンさんの指の間に絡めます。いわゆる『恋人繋ぎ』の完成……。本当は掌同士で合わせるんだけど、密着度はさっきの比じゃないのです。
こんなステディな恋人みたいなことをやっちゃうなんて、ひょっとしたら大胆過ぎたかも……、などと思いながらもさすがに気づいただろうとフライングしたり顔を浮かべながら横を向くと、真正面からばっちり目が合っちゃいました。
お互い顔から火が出たように赤面する――――、はずなのに頬を赤らめたのはあたしだけ。
キョンさんは困ったように眉を下げながら、
「橘、手、手」
と、ぞんざいに顎で促しましたが、展開についていけないあたしが固まったままでいると、今度は焦れたように、
「手が重なってるんだよ。どけろ。お前夢中になりすぎだぞ」
そんな超絶勘違いの発言を、しれっと余裕たっぷりに言ってのけてくれたのでした。
唖然としたあたしは字面の如く開いた口が塞がりません。
こ、こんの男はぁ~~~~、性懲りもなくよくもそんなデリカシーのない言葉を……。
そこに怒りの波が遅れてやってきて、わなわなと身体が震え始めました。
温厚だと自他共に認めるあたしがこんな風になるなんて滅多にないのです。
大きく深呼吸して必死に抑えようとしたけれど、無理!!!
許せない! 女の子に恥をかかせるなんて最っ低!!
溢れた怒りを押し留めることができず、思い切りキョンさんの甲の肉をつねりました。
「イテッ」
間抜けな声が傍らからあがりました。天罰なのです。
つねられたトコをさすりながら不審な視線を送ってくる気配はしますけど、もちろん無視。
手を自分の膝の上に戻すと、スカートの裾がシワになっちゃうくらいに強く握り締めながら視線を前の席に座る人の後頭部に突き刺した状態で怒りを滾らせます。
しかしこの憤りは素直に収まらず、喉が乾いたあたしはひったくるようにカップを取って煽るように一気に飲み干しました。
飲んだときは味なんて意識する余裕なんてなかったけど、飲み干してから言い様のない味というか食感を覚えたのです。
熱い……。喉から食道までが疼くような感じ。さっきまで飲んでたジュースと比べて明らかな違和感があります。
吐息が喉に絡まるような妙な感覚、……アレ、これってお正月に飲むお屠蘇みたいな……って、えええっ!?
慌てて確認すると膝元のカップ置きにはしっかりと自分のジュースがあり、その横には空スペース。
なんてこと、よく見もせずに取ったのが仇となって間違えてキョンさんのジュースを飲んでしまったのです。
こ、これって間接……、じゃなくてっ! 変な味は確実に仕込んだお酒のせい。
まずいなぁ、あたしにはブランデー入りのババロアでベロンベロンになってしまった前科があるのです。
だ、大丈夫かな……。大丈夫、よね?
粗相をキョンさんに悟られぬようにカップをそっと戻して、映画なんかそっちのけで弱気な自分に言い聞かせながら身体の反応を窺います。
気が気でないまま時間は過ぎて、映画もいよいよラストシーンというところで身体からの応答がありました。
突きつけられたその応えは……、案の定、恐れていた事態。
身体が内側からポカポカと熱くなって、頭が痺れたようにジンジンしてきました。症状は時間とともに悪くなるばかりで、ありていに言えばとっても、ツライ……。
うぅぅ、まるで風邪を引いたように苦しいのです。
盛った毒に自爆するなんて、なんてドジ。ばかばか。間抜けな自分が厭になるのです。
回る視界にスクリーンの光は刺激が強すぎたので、目を閉じたまま夜店で取った金魚のように口をパクパク空けて喘いでいると、横から声が掛かりました。
「どうした? なんか辛そうだぞ」
薄目を開けるとスクリーンを遮って覗き込むキョンさんの顔。
そんなに目一杯身体を伸ばして心配してくれると……、ちょっと嬉しくなってしまうじゃないですか。
回らない頭でそんな馬鹿なことを考えていると、キョンさんはみるみる深刻な顔つきになりました。
「すごい汗じゃないか。お前、大丈夫か?」
「え、ええと……。ちょっと気分が、優れなくて。大したことはないんですけど」
自分で言っててなんて説得力のない台詞だろうと呆れたくらいですけど、こんなことでせっかくの逢引きがお開きになるのは勘弁なのです。
病気じゃないんだし、どんどんお酒も抜けていくはずなんだからこのままちょっと我慢していれば映画が終わる頃には……、
そんなことを思った矢先でした。急に身体が宙に浮くような感覚がすると、あたしはキョンさんに肩を貸されて席を立ってました。
「キョ、キョンさん?」
「外の空気吸ったほうがいい。出ようぜ」
あたしの前で初めて見せたキョンさんの自発的な姿。
普段は受身ばっかりなのに肝心なところではしっかりサポートしてくれるんだ……、こんな緩急をつけるのは反則なのです。こんなんだから、みんな惑わされちゃうんだなぁ。
そう思うと胸がシクシクと疼きました。ふふ、この症状はきっと酩酊とは無関係かな。
「ちょっと、すいません」とあたしを支えながら道をあけてくれるキョンさんの真剣な横顔を、ホールを出るまであたしはじっと見つめ続けていました。
館内の廊下に出るとひんやりとした空気が心地よく、思わず気が抜けてそのまま一気に力が抜けて膝から崩れそうになっちゃうところをキョンさんが抱きとめてくれました。
ああ、不可抗力ながらついにハグまで……、せっかく冷めかけていたのにまたぶり返してしまいます。
「おいおい、しっかりしろ。マジでやばいなら救急車呼ぶか?」
未成年飲酒で酔っ払って救急車なんて、みっともないにもほどがあると青ざめたあたしは、力を振り絞って断固拒否します。
「少し休めば大丈夫です。お手洗いまで連れてってくれますか?」
キョンさんはいささか釈然としない顔をしながらも了承してくれると、しゃがんで後方に手を広げた姿勢になりました。
「……えーっと?」
意図が分からず一瞬戸惑ったけど、茹だった脳みそを頑張って回してようやく何を促していることに気づくと、一拍置いて沸騰したように顔がヒートアップ。それこそボンッって音がしそうな勢いで。
え、ええ~~~? こんなところでおんぶですかぁ?
嬉しくて恥ずかしいような、どっちにしろせめて心の準備くらいさせて欲しいと身悶えていると、キョンさんはそんなあたしの心の機微など解さず、
「連れてってやるから早くしろ」
と急かします。
うぅ……、恥ずかしいけどしょうがないよね。うん、だって非常事態なんだもの。
そんな言い訳とは裏腹に身体は正直に滞りなく前に傾いて、キョンさんの背中に遠慮がちにもたれ掛かりました。
さすがに首に手を回すことはできず、肩に捕まります。
キョンさんの腕があたしの太ももの裏側に回ると準備は完成。
そこからなんの抵抗もないようにキョンさんはすっとごく自然に立ち上がりました。
重いと言われるのはやですけど、簡単に持ち上げられてしまうのはそれはそれでなんだか全体的にボリュームが足りてないみたいで悔しいなぁ。
なんて、乙女心と葛藤しながらもキョンさんの足取りは確かで着実に歩みは進みます。
飲んだ量からすればキョンさんのがずっと多いはずなのに、酔った素振りなんて微塵も感じられない確かな足取りに理不尽さを感じながらも、定期的な上下の振幅が気持ちよくていつまでもこうしていたい気分になりました。
息を吸うとキョンさんの使ってるシトラス系のシャンプーの香り。そして、その中に漂う仄かな男の人の匂い。
身体全体でキョンさんを感じて、余計に頭がクラクラとしてきました。
キョンさん、これは逆効果ですよ……。
お酒とキョンさんの両方に酔いしれて、気持ちよく、苦しくて、切なくて、ワケがわかんなくて、もう、前後不覚でどうにか、なっちゃいそうなの、です。
まるで手の隙間から一握の砂がサラサラと零れ落ちるように、言った矢先から言葉を忘れていくような蒙昧さのままそんな台詞を一人ごちた刹那、
『カチリ』
と、何かスイッチが入ったような音が脳裏に響き渡りました。
それは自分の中で勝手に作り上げた擬音なのかもしれないけど、この瞬間何かが切り替わったのは間違いないのです。
だって、なんかあたしとっても、変な、気分なんですもの。うふふ。
なんだかじっとしてるのが、もったいない気分。
んん……、もうっ、じれったいなぁ。
意味不明に逸る気を紛らわすように両手をキョンさんの肩に乗せるのを止めて、首に手を回して思い切り後ろから身体をあずけてみました。
当然の如くキョンさんはびっくりして慌てます。
「うおっ。なんだ!? こらっ、じっとしてろ!」
非難の中にも明らかな動揺が見えるのです。ふふ、もしかして変なこと考えちゃってます?
反応が面白くてよりいっそうぎゅっとして密着度を一層高めてあげちゃいました。
「さてさてここで問題です。あたしが今キョンさんの背中に押し付けてるのは何でしょう?」
「そんなもん知るかっ」
……この台詞にはカチンときたのです。
分からないってことですか? いくら控え目だって言ってもこれだけやれば弾力くらいは伝わってるはずなのです。む~~~~~~。
このどうしようもない鈍感男をどうにかしてやりたくて強攻策に出ることにしました。
抱きつく腕を緩めて少し身を起こすと、ろうそくの日が消えるか消えないかの微妙な加減で、
ふーーっ
と、耳元に優しく息を吹きかけてみました。
そうするとさすがに効果は覿面。
頭の先からつま先まで芯が通ったみたいにキョンさんは直立して身を震わせます。
うふっ、ゾゾゾ、という音が聞こえてきそうなくらい。
「なっ!? お前っ、さっきから何かおかしいぞ?」
色を成したキョンさんが背中越しにあたしの表情を覗き込んできましたが、その刹那キョンさんの顔が引きつりました。それはもう、見たくないものを見てしまったような、いわゆる「げっ」といった感じのとっても失礼な表情。
何よ? 確かにフワフワして不思議な気分だけど、そこまで変な顔してるつもりはないのです。
抗議の一言でも言ってやろうとしたとき、目の前で美味しそうな果実が実ってるのを発見しちゃいました。紅く染まったキョンさんの耳たぶ……。
うふふ、いただきまぁーす。あむっ。
「っ―――――!」
この攻撃、いえ口撃は見事にキョンさんの急所に的中したらしく、声にならないような悲鳴をあげてキョンさんはバランスを崩しました。
同時に宙に放り出されたあたしはそのまま上からキョンさんに覆いかぶさるような形でドサリと赤のカーペットの上に倒れこみます。
「イタタ……」
膝を強く打った痛みを合図に状況を把握しようと目を開けると、開眼一番に網膜に飛び込んできたのはキョンさんの顔がドアップ。
どうやらあたしがキョンさんを押し倒しているような体勢になっちゃってるみたいなのです。
吐息が届くような至近距離でお互い目を見開いたまま見つめ合うこと数秒。
キョンさんの顔は微妙に口もとが引きつってて、目じりの辺りが痙攣しててムードもへったくれもないですけど、そんなのはご愛嬌の範疇。細かいことを気にしてたらキリがありません。
だってこんなのは千載一隅の大チャンスなんですもの。
視線を少し落とせばそこにはさっきよりも格別に美味しそうな二房一組の瑞々しい果実。
えいっ、奇襲!!!
んちゅっ!
――――、とうとう初キッス達成――――――――。
ああ……、これが夢見ていたキョンさんの唇の感触。温かくて重厚で、口付けているだけで安心できるようなそんな不思議な感覚がするのです。
んー、とキョンさんを味わうかのように強く押し付けます。
ほんのり漂うのはグレープとアルコールの怪しい香り。
心は充足しているはずなのに、身体は貪欲にもっと強い刺激を求めてあたしをいけない衝動へといざないます。
さっきの映画のシーンで観たディープキスを思い起こさせて、それを今すぐやれと。
こんな大胆な自分が信じられないという戸惑いは確かにあります。でも、それはどこか遠い別の場所からもう一人の自分が頑張って叫んでるんだけど、全然声が届いてないような希薄な意識で、自分にブレーキが掛からないまま本能の暴走は止まりません。
ちょうちょが花弁を貪るかのようにキョンさんの唇を割って舌を挿れようとしたそのとき、キョンさんの身体が魚のように飛び跳ねて、凄い勢いであたしを押しのけました。
「きゃん!」
と、腕力も質量もないあたしは簡単に吹き飛ばされて上半身を仰け反らせます。
「なっ、なっ、なんてことしやがるっ!?」
拒絶は反射的なものだったのか、怒りよりも混乱が上回っているような様子でキョンさんは気色ばみました。
驚くのは仕方ないとして、せっかくの乙女の口付けなのにそれをばっちいものみたいに拭うのはいただけないのです。キョンさんってば、ひどい。
「何って、キスですよ。キーッス!」
「お前と俺がそんなことをする理由がどこにある? つーか、お前気分が悪かったんじゃなかったのか?」
そう問われて初めて自覚したんだけど、館内で苦しんでいたのが嘘のように今は何ともありません。
身体が芯から熱くて、気持ちが昂ぶってどこか夢見心地なのを除いては。
「おい」
「……なんですか?」
「いい加減どいてくれ」
「やです」
今のあたしがどこか変だってことは自分でも承知してることですけど、さっきからのやりとりの中でキョンさんの様子も少しおかしいことに気づきました。
普段のあたしに対する強気でぶっきらぼうなキョンさんはすっかり鳴りを潜めて、なんだか受身でしどろもどろな感じ。
ここでなんだかピンと閃くモノがありました。
もしかしてキョンさん、相手が強引だと強く出られないタイプ?
視界はぐるんぐるんでおぼつかないくせにやたらと冴えてるなんてなんだか不思議。何はともあれここは押せ押せで行くしかないのです。
珍しくも優位な状況にあたしは楽しくて仕方なくて、ニンマリと笑ってしまいました。理性という歯止めが利かなくて、愉悦と欲望丸出しのイヤラシイ顔になっちゃってるに違いないです。
目の合ったキョンさんが小動物のようにギクリと瞠目して身体を強張らせたのがその証拠。
「ふふ、キョンさんかわいい……」
「アホなこと言ってる場合かっ。この体勢を何とかしろ! 人が来るぞ?」
キョンさんに指摘されて今の体勢を省みてびっくり。
殿方に跨って見下ろすこの体位は、その、女性が上の、アレなんですもの……、やだ、あたしったらこんなこと考えてばっかり……。
意識すると急激にフラチな衝動が込み上げてきて、じっとしてられなくてむず痒いような妙な感覚に囚われます。
「う、上でもぞもぞするなっ」
キョンさんは真っ赤に顔を染め上げて必死の抗議をします。うふっ、まるでリコピンたっぷりのトマトみたいなのです。
無意識のうちに腰とか足とかが動き出しちゃってたみたい……。やだ、はしたない。
でもどちらかと言えばそういう方面に疎いあたしは、次に何をして良いかが分からず、逸る身体を持て余してしまうのでした。
こんなことなら、もっと予習しとけばよかったのです。
イニシアチブを握りつつもこのあとどういう展開にもっていくべきなのか考えあぐねていると、下からちょっと苦しそうなキョンさんの声。
「誰かに見られたらどうするんだ? 何の悪ふざけか知らんが、悪いことは言わん、どいてくれ」
誰かに見られたら。
この言葉が鍵の様に混乱したあたしの思考に作用して、眩い光が降り注ぐような感覚に陥ります。それは一言で言えば不意に啓けてしまったってこと。
全てが分かって、そして繋がってしまいました。
あ~あ、キョンさん。墓穴、掘っちゃいましたね。
誰かに見られるのがまずいのなら、誰にも見られない場所に移動すればいいのよ。
そして、あたしはそういう所に移動できるチカラを持ってる、そうなればもう話は決まりよね?
「じゃあ、二人っきりになれるトコへ行きましょうか?」
あまりに都合の良い展開が嬉しくて楽しくて、薄く笑いながらキョンさんの手首を掴みます。後は目を瞑ってもらうだけ。そうするには――、
「んん……っ」
もう一度口付けるだけで事は足りました。
顔を近づけてキョンさんが怯んで目を閉じた一瞬の隙を縫って空間移動を敢行なのです。
キスしたまま五感が薄らぐようないつもの不思議な感覚がすると、そこは同じようで違う場所。
その証拠にさっきまで漏れ聞こえていた映画の音声や人の喧騒がなく、静寂に包まれています。
名残惜しくもゆっくりと唇を離して身を起こし、キョンさんの反応を窺いました。
キョンさんはしばらく目を白黒させてからビタリと静止するという実に分かりやすいリアクションを見せてくれました。
ふふっ、無音の違和感にキョンさんも気づいたみたいなのです。
「お前、まさかっ」
「はい。そのまさかなのです。これで心配は無用ね」
「……なんか悪いモンにでも当たったのか? この期に及んで驚くつもりもないが、まさか実は二重人格ですなんて言い出すんじゃないだろうな?」
「失礼ね。これは素直はあたしの欲求なのです。キョンさんのこともっとシリタイっていう……」
突如言いたい言葉が煙のように消え失せてしまいました。
あれっ、なんで?
戸惑う猶予も与えず間髪入れずに襲ってきたのは、ものすごい倦怠感。瞼が重くて、重くて仕方が、ない。
「おいっ、橘?」
「っはぃっ! ええ? ああ、と、とにかく、今夜は帰さないのです、分かり合えるまでじっくり、じっくり……、トコト、ン……」
が、がんばるのよあたし。こんなところでうつらうつらと船を漕いでる場合じゃないのです。
けれど、不本意ながらも意識はどんどん遠のいていくばかり。
ええ~、ちょっとぉ~! こんなのってないのです~~~!!!
恨み節も暖簾に腕押し、ぬかに釘、自分との戦いにも関わらず全く抗うことなど許されないまま、問答無用でブツリとワイヤーが切れたように瞼が強制シャットダウン。
一時はお酒で勢いがついて怪我の功名なんて思ったあたしが馬鹿だったのです、最後に待ってたのはやっぱり因果応報。
気を持たせるなんて神様も意地悪なのです、と不遜にも神相手に毒づいてハッと気づきます。
…………、佐々木さんならいかにも当然の天罰かぁ。
などと馬鹿なことを考えて自嘲気味に笑いながらあたしの意識は徐々に霧散していったのでした。
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意識を手繰るように覚醒して目を開けると、強烈な光線が飛び込んできて、反射的に手で遮ります。
うぅーん、眩しいっ!
おかしいなぁ。部屋の電気を消し忘れてベッドに入った覚えはないのに。
寝起きにも関わらず、目覚めは抜群に良いみたいで珍しく頭はクリアに冴え渡ってるのです。ただ目だけが明るさに慣れないようなもどかしい感覚。
「橘! おいっ、しっかりしろ」
そこへ投げかけられたキョンさんの声?
え? どうして眠ってたあたしの傍にキョンさんが?
瞬時にあらぬ想像が駆け巡って、あたしは飛び起きます。
ゴチン!
目を瞑ったまま急に動いたのが仇となり、額を何か柔らか硬いモノにぶつけて、視界にお星様が飛び散りました。
なに? なに? なんなのいったい!?
せっかく踏ん張った腹筋も空しく上半身は重力に従って逆戻り。感じた落下の衝撃はいつも私が使ってる枕とは違うものでした。
んん? なんか後頭部にちょっと硬めの低反発素材のような柔らかい感触が……。って、それどころじゃない、痛いぃ。
あまりの痛さに両手で患部を押さえると、ついでとばかりに涙まで浮かんできました。
うぅ……、最悪の目覚めなのです。
「った~~~~~~いぃ!」
「ってぇ」
ようやく拓けた視界に待ってたのは、あたしと同じ格好で額を押さえながら痛みに耐えるキョンさんの顔。上からあたしを覗き込むような姿勢でしかもかなり距離が近い。
この体勢、頭に感じる人肌のような柔らかい感触、これって……、
キョンさんの膝枕――――――――!??
いくら察しの悪いあたしでもここまでヒントが出ればピンとくるのです。
流石に同じ過ちは繰り返さないように今度は横に身体を回転させて、文字通り転がるように離れると、不意に落下感襲われて反射的に頭だけは守ろうと下手くそながらも受身を取ります。
ドン
と、尻餅をついて身体が止まったことを確認すると、そこはあたしの部屋でも、キョンさんの部屋でも、ましてはそういうホテルの一室でもなく、素っ気もない無骨な硬いアスファルトの上。
ワケも分からず取り乱したままに立ち上がると、目の前にはベンチに座って顔を歪ませながら額を押さえるキョンさんの姿。
明るいのはあたし達のいる水銀灯の下だけで辺りは真っ暗。今は夜?
聴覚が戻ってくると少し風が吹いていて、ザワザワと木の葉が擦れる音が聞こえてきました。
「――ッ、たた」
遅れて襲ってきたのは芯からズキンと響く頭痛。
さっきぶつけたのとは明らかに違う種類のもの。それが呼び水になって断片的な記憶が戻ってきました。
そうだ、キョンさんとデートしてて、バイキングで夕食を楽しんで、その後映画館へ行って……、焼酎入りのジュースを飲んじゃって、廊下でおんぶされながらキョンさんに絡んじゃって、今の頭痛はその名残!
芋づる式に記憶が呼び戻ってきたけど、ここでピタリと止まってしまいました。
それからあたし、どうしたんだろう……。
途切れたフィルムのように断絶があって、いくら頑張っても思い出せません。
「なんだ、随分と元気そうじゃないか」
「キョンさん、どうしてあたしこんなとこで……」
「覚えてないのか?」
「……はい」
額を赤くしたキョンさんは少し困ったように鼻の頭を掻きました。
どうしてそんな微妙な表情をするんですか? ま、まさかあたしとんでもない粗相をやらかしちゃったりしました?
「気分はもういいのか?」
言われて改めて自分の体調を省みました。それ自体がすでに何も変調がない証拠なのです。ぐるんぐるんに回っていた視界も、熱くて仕方なかった身体もすっかり元通り。
「……大丈夫みたい」
「そりゃよかった。大変だったんだぜ? いきなり落ちたからな。気絶したんじゃないかって思ったくらいだ」
お酒が回ってくだをまいてるうちに寝ちゃったってことかな?
おそらくはそんなところだろうと思うけど、キョンさんには大変な迷惑をかけてしまったのです。
でも、なんだかんだ言ってちゃんと介抱してくれるなんて、やっぱり優しい。
それにしてもここまでどうやってあたしを運んだろう……。おんぶ? ま、まさかお姫様だっこってことはないよね?
膝枕の感触を思い出しながら妙な妄想を膨ませると舞い上がってしまいます。
「えー、その……、なんだ……」
キョンさんが少し照れて落ち着かない様子で切り出します。らしくない妙に歯切れの悪い調子で。
「急にお前のキャラがおかしくなったのはなぜだ? 頭の大切な部品が脱落したんじゃないかって疑っちまうくらいにぶっ飛んでたぞ」
どうやら酔っ払ってかなりみっともない姿をお見せしてしまったようなのです。
どんな状態だったのかは思い出せないけど、キョンさんの様子からしてとにかく完全にキャラが壊れちゃってたってことは間違いなさそうなのです。
うぅー、恥ずかしいなぁ。
まさかお酒に酔ってましたなんて正直に白状することはできず、けれど説明せずに変人のレッテルを貼られるのはもっと受け入れられず、結局あたしが用意した嘘の答えは、
「く、九曜さんに作ってもらったサプリメントが身体に合わなかったの、かなぁ?」
なんて酷い出来の嘘。無理のある設定が災いして自信が持って言い切れず、目が泳ぎまくって余計に嘘臭い雰囲気を増幅させてしまいました。最悪の悪循環なのです。
「九曜自作のサプリメントだと? サプリメントって栄養剤か何かか?」
コクリとうなずいてみたものの、いくらなんでもこれじゃあ信じる方が無理があると自己嫌悪に陥りそうになりました。
「……お前、口にするモンは選べって。あいつがまともなモンを作ると思うのか?」
……あたしは首を振るしかありませんでした。ああっ、ごめんなさい九曜さん。
でもでも、助かったのです。ありがとう、九曜さん。
この窮地でキョンさんを納得させることができたのは、まさにあなただからこそ。
あなたの正体不明、意味不明のキャラクターにはいくら感謝の意を述べても足りないのです。
ひとまず一難去ってホッと息をつこうとしたところへ、まだ早いとばかりにキョンさんが「もう一つあるんだ」と口を開きました。
「アノ事なんだが……、無かったことにしないか? お前もクスリでワケが分からない状態だったと思うし不本意だろ?」
アノ事???
意味不明な内容にあたしは戸惑います。
きっとやらかしてしまった中身に含まれている事なんだけど、今のあたしには知る由もないのです。
「あの、あたし、なにか失礼なことをやっちゃいました?」
おそるおそる訊いてみると、キョンさんは目をぱちくりと瞬かせた後、素の表情に戻ると小さく首を振ってみせました。
「いや、覚えてないならいいんだ。気にするな。俺も気にしないようにする」
「えぇ~? すごく気になるんですけどっ」
なんて、粘ってみてもキョンさんは教えてくれません。
このままじゃ夜、眠れそうにないのです。なんかあたし的にはすっごく嬉しかった事のような気がしてならないのです。ああっ、もどかしいっ。
「もう一人でも大丈夫だろ。解散だ。メシうまかったぜ。じゃあな」
地団駄を踏むあたしを気にかけず、キョンさんは一人矢継ぎ早に別れの台詞を言い放つと、さっさとベンチを立って行ってしまおうとします。
「ちょっ、キョンさん!」
慌てて追おうとしますが、キョンさんは半身に振り返って肩越しに、
「ポニー。なかなか似合ってたぜ」
と予想だにしないタイミングで大切な言葉をそれはもうぞんざいに投げつけてきたのでした。
虚を突かれたあたしは完全に機能停止。
ただ手を振って歩いていくキョンさんの背中を見送ることしかできませんでした。んもうっ、こんなの反則なのです。
…………なんだかすっごく消化不良な感じがすんですけどっ。
やりきれない気持ちを抑えるようにあたしはベンチの傍らでしばらく立ち尽くしました。
徐々に頭が冷えて来ると思い出したことが一つ。
そうだっ、定時連絡!
あたしは慌てる手の上でケータイを躍らせてもたつきながらも、報告を確認します。前回の酸っぱい失敗がちょっとトラウマになっているのかも。
気を失っている間に一通の着信あり。
『ターゲットS経路Cで帰宅完了。自宅に入ったまま動きなし』
「ふうっ」
とりあえずブッキングの心配だけは拭い去ることができました。
そのままピッピッと操作してよくやってくれた部下にお礼と解散のメールを送ります。
送信完了っと。
さて、今回は何だか良かった事と悪かった事がごちゃまぜになったような変な結果に終わってしまいました。
少なくともレストランではちょっと良い雰囲気で、映画館は自爆の大失敗があったものの、さっきのキョンさんの表情からすれば壊滅的ではなかったような気がするのです。
ああ~、なんとか思い出せないかなぁ。何があったのか、何をやってしまったのかとても気になるのです。
記念になるくらいの金星を獲った!
っていう感覚だけはうっすら残っているものの、その金星の中身がさっぱり思い出せません。これ以上無駄な記録はないのです。
脳みそを急かすように頭を小突いてみますけど、もちろんこんなことで思い出せたら最初から悩みません。
水銀灯のスポットを浴びて佇みながら記憶を浚ってみましたけど、程なくして諦めました。
……帰りましょう。取りあえず後退はしてないはず。作戦の度に総計ではプラスの方向に向かってるのは間違いないのです。その進度は亀さんが三歩進んで二歩下がるような感じですけど。それでも明日に繋がるのなら贅沢は言わないのです。
さぁ、撤収――――。
踵を返そうとしたとき、突如身体を襲ってきた怖気にあたしは硬直しました。
背中を這ってゾワゾワと前に回りこんでくるような黒い威圧感。なぜか脳裏に浮かんできたのはまるで太い昆布がうねくっているようなそんなイメージ。
……なに、これ?
振り返るなと本能が告げているけど、あたしの帰り道はこっちとばかりに身体が独断専攻で180度回転。
そこに待っていたのは、イメージそのままの地上で蠢く昆布の群生……、ってそうじゃなくて!
「く、く、九曜さん!?」
シンと静まり返った公園に素っ頓狂な声を響かせてしまいました。
なぜ九曜さんがここに……、瞬間背筋に冷たいモノが走りました。
……そうでした。理由の察しはつくのです。……覚悟まではまだ、っできてないけど。
夜に九曜さんにお会いするのは……、初めてのような気がします。いえっ、初めてですっ。
だって、お顔はおろか全身もすっぽりと覆い隠してしまいそうな大ボリュームの艶やかな漆黒の髪の毛は、暗闇と完全に同化して顔面だけが中に浮いてるような感覚に陥るんですもの。
こんなきょうれ、いえっ、鮮烈な光景は一度見たら絶対に忘れないもの。
九曜さん、そういうのは夏にやりましょうよ、ね。懐中電灯なしでそれができるなんて、すばらしい特技なのです。
淡雪のように真っ白なお面を浮かび上がらせて、視線は虚空に彷徨わせたまま。一体どこを見てるか見当もつきません。あたしを見ていないのは確かだけど。
「――――、栄養剤を――――」
やや色彩に寂しい薄い唇がなんの前触れも無く開くと、感情の読み取れない完璧に平坦な音声が滑り出てきました。
出てきたその単語にあたしはビクリと身体を震わせます。
「――――、あなたに―――、栄養を…………あげる――――」
「いえっ、あのっ……、さっきのはですね。言葉のアヤというか、成り行き上致し方なかったというか、とにかくごめ、って、ひぃぃ!」
ビュム!
音を当てるとするならばそんな風切音。とにかく普通の人間には到底出せないような異音を伴って、九曜さんはカタパルト発進のように高速水平移動してあたしに急接近。
まるで能面が襲い掛かってくるような恐怖に駆られて、瞬間冷凍されたようにあたしの身体は固まります。
こ、これはっ、冗談抜きでトラウマになっちゃいますよぅ。九曜さぁん。
その隙を縫ってガッシとあたしの両腕を掴まれてしまいました。
二人で揺りかごを作るような形になるけど、揺りかごなんて平和でのどかな雰囲気など微塵もないのは言うまでもありません。
信じられないことに九曜さんはそのまま後ろに水平移動を敢行。あたしは引っ張られるままに前進するしかありません。
「――――、行こう――――」
「ええっ!? ちょっ、あのっ、待、…………ええっ? えええ~~~~?」
顔を付き合わせたまま、前代未聞のスタイルで強制連行されるあたし。
この展開と、体勢と、九曜さん。全てが信じられなくて混乱は留まることを知らずに膨れあがるばかり。
「――――、栄養――――、注入――――」
ちゅ、注入!? 栄養剤って普通飲むものですよねっ? あのっ、できればあたし服用する方でお願いしたいんですけど……。
そんな願いなど聞き入れられるはずもなく速度は順調に加速。程なくしてあたしは全力疾走を強いられていました。
「えーん。九曜さぁーん、ごーめーんーなーさい――――――――!」
行き先不明の変則二両列車は甲高い泣き言の汽笛を鳴らして闇を切り裂き、夜の公園を暴走します。止まることを知らず、短めの尻尾をたなびかせながら、どこまでも、どこまでも――――。
復讐は何も生み出さない。そんな言葉が胸に沁みます。厳密には復讐とリベンジは意味合いが違うんですけど、とにかく浸りたい気分がそんな感じなので些事は不問なのです。
プライドの復権を賭けて意気揚々と臨んだ作戦第二弾ですけど、性懲りも無く待ってた結末は前回の焼き直し。
悲惨な爆走の行く末に行き着いた終着駅で悪夢のような終焉を迎えたのでした。くすん。
―完―