「んふ……、うふふふふふ……」
まずいなぁ。笑いが止まらないのです。
晴れ渡る空で瞬く星の下、あたしは凱旋行進のように意気揚々と家路につきます。
吹き付けるそよ風が心地よくて、頭で結って垂らした二本の尻尾を拍子よく揺れて、心をよりいっそう躍らせました。
気分が良い時には何事も鮮やかに明るく輝いて見えるのです。
ありふれた街路防犯灯の素っ気無い白い光が神々しく見えるくらい。
電柱の下のスポットライトであたしは立ち止まって、携帯を掲げて紐で繋がっているガラス玉を目の前で揺らしてみせます。
その表面に写りこむのは球面に伸ばされて間抜けに磨きがかかったあたしのニヤケ顔。それすらも愛らしく見える始末。
ストラップのように見せかけているのはフェイク。この球には他言無用の真の機能が隠されているのです。
こんなに易々と手中にできるとは思ってませんでしたけど、無理も試してみるもんです。
一目には確かに100円ショップで並んでるような安っぽいガラス玉のアクセ。小学生でも喜ばないくらいにちゃっちい。
だけどその球の中空には三次元的に浮かび上がる不可思議な『09』の文字。つつくと面白いように中の文字が宙をクルクルと回ります。
うふっ、カワイイ。妙にハマって連続で上手く回そうと小突くタイミングを計って思わず遊んでしまうあたし。
原理はさっぱりですけど、その輪郭が僅かに揺らぎながら淡く発光していていることからなにかしらの方法で文字が映し出されていると思うの。ホログラフィーに近いようなそんな感じ。
こんなの見たことがないのです。現代の科学が到底及ばない未来の技術だからこそ成せるものだと確信が持てます。
そんな異彩を放つガラス玉を目の前で揺らしながら再び歩みを前へ。電柱の照明範囲から出て闇に包まれると、透けてまるで数字だけが空中に浮いているかのように惑わされます。
その様はすごく幻想的で、あたしは性懲りもなく自ずとうっとりと見入ってしまうのでした。
//////////
七月某日。
機関の活動は相変わらず行き詰まっていて計画は遅々として進まず、閉塞感すら漂い始めました。
今日だって本当は定例会があるはずなのに上げる議題がないからと中止になる体たらく。
ああ、なんて情けない。
こうなってくるとまた強攻策に走らざるを得ないなんて不穏な考えがよぎるけれど、それも能がない話なのです。
ようやくキョンさんの誤解も雪解け間近なところまで漕ぎ着けたというのに、ここでまた乱暴に事を運んで失敗でもすれば今まで以上に事態は悪化するのは必至。
そうなればあたしが今まで失敗続きの中で四苦八苦して育んできたこの実りがすべて無駄になってしまうのです。
しかしリスクを恐れていては何も変わらないのも事実で、ここんところこの板ばさみなのです。
そこにきてあたし自身が作戦の連敗で挫けてるから、もうどうしようもない。
厳密に言えばキョンさんを見送った後にあたしに訪れる報復行為が一番堪えてるのです。どうして毎回決まったように会っちゃいけない人があたしの前に現れるのかなぁ。
前回の九曜さんには色んなモノを色んなトコから色んな風に……、って止しましょう。思い出すだけで気が滅入る……。
どうしていつもドジを踏んじゃうんだろう。もう少しってところまでは毎回イケてるような気がするんだけれど、後一歩のところでしくってる気がするのです。
運のせいにするつもりはないけれど、なんだか凹みきってしまってもう一回リベンジっていう気力が湧いてこない。
奥の手にとっておいたポニーテールも使ってしまったし、秘策は全て出し切ってしまいました。作戦がないと動きようがありません。
……、あたしどうすればいいんだろう。
って、ダメダメ。また気分が沈んでくるのです。
せっかくオフになったんだから、気分転換でもしないと。
拳骨を作って頭を小突いて仕事のことを頭から追い出します。
たまにはゴールデンタイムにテレビを観てダラダラするのも悪くありません。
茶筒を傾けて急須にお茶っ葉をサラサラと適当に流しいれて、お気に入りのちゃぶ台に置いたポットでお湯を注いで、コンビニで買ってきたかりんとうを引き寄せれば、和む準備は完成。
テレビの電源をつけてリモコンを押す指に任せてチャンネルを回します。
ドラマは初回から観てないのでパス、スポーツも興味ないのでパス、そうやって切り捨てていくうちに、ピタリと指が止まりました。
あ、いいえ、止まったのは正確には指じゃなくて目。
画面に描かれた精緻で鮮やかな背景絵にあたしは釘付けになってしまったのです。安いテレビでも十分に魅力的に写るくらい人を惹きこむ力のある画。
なに、これ? アニメ? 映画?
反射的にあたしは時計を見ます。
確かにヒット作の映画上映番組枠がある時間帯だけど、こんな映画知らないなぁ……。
でも、なんか絵が綺麗だし、主人公が年の近い女のコだし、親しい友達の男子が二人居て雰囲気からして青春モノ、かなぁ? 面白そう……、そんな軽い気持ちで自然と画面に引き込まれていきました。
…………。
……………………。
…………………………………………。
エンドロールはおろか提供番組コールまできっちり見送って、コマーシャルが始まってようやく我に返りました。
あたしは感動のあまり涙と鼻水でくずくずになっちゃってて、ティッシュで何度も自分の顔を拭ったけれど、次々と溢れてきて全然止まりません。
ああ……、ダメ。
あたしこういうちょっと切ない系の話には弱いのです。
ものすごく要約すれば、女のコはすれ違いを重ねた末に親友の男の子の内の1人とようやく気持ちを通わせるに至るけれど、その男の子は実は未来人で自分の生きる時代に帰らなければならず別れがやってくる、そんなお話。
2人はまた逢おうって誓うけれど逢える保障はなくて、でも別れないといけなくて、ってところがホロリとくるのです。
主人公の女のコの気持ちがよく描かれていて、あたしとは全然性格が違うタイプの娘だったけれど思わず感情移入しちゃいました。
物語の中で軸を成すのがタイムリープと呼ばれる時間遡行。
女のコはひょんなことから時間を巻き戻せる能力を手に入れて、時に遊び半分に、時に他人を救うために時間をまたいで奔走するんですけど、展開が読めなくてお茶とお菓子の存在を忘れて見入ってしまったのです。
ああ、あたしの身の回りにもこんなドラマチックな展開はないものかなぁ。
あたしならもっとうまいこと時間をやり繰りして、2人のイケ面男子とうまいことやりつつウッハウハ――――、って虚しいからヤメヤメ。
でも、タイムリープはうらやましい。この能力があれば失敗に気づいた時点で何度でもやり直せるんだもの。どんな不運や苦境も向かい風すらも関係なし、全部やり直して事前に潰してしまえるのです。
これこそあたしに必要な力、どうせならこういう超能力が欲しかったのになぁ。
「ふぅ……」
無念さと虚しさに思わずため息が漏れてしまいました。
そうだよね。時間の壁を越えるなんて都合のいい能力、そんなのはアニメの中だけの――――、って、待って。
「いるじゃない! 未来人!!」
ここまで考えてようやく思い出すなんて、我ながらなんて鈍い……。
これじゃキョンさんのこと言えないのです。
そう、あたしのごく身近に時間を越えて現代に来てる人が居たのでした。極めて非協力的で、ろくに能力を見せてくれたこともないからすっかり忘れてた。
自称『藤原』さん!
あれほどらしくない未来人も珍しいんじゃないかな。
あたしの中ではすっかり理屈っぽい嫌味なイメージが先行し過ぎて、未来人なんていう属性は完全に抜け落ちていたのです。
灯台もと暗しとはこのこと。
彼ならあるいはこのあたしの夢を現実にできるかもしれない。
そう閃くと、時間など気にする余地もなくあたしは携帯を開いて彼を呼び出したのでした。
藤原さんは電話に出てくれたけれど、時間も時間だったこともあって輪を掛けて不機嫌でした。
用件はなんだと急かされましたけど、大事な話があるので是非とも会って話をしたいと粘りに粘って約束を取り付けました。
今から待ち合わせってところで当然ひと悶着ありましたけど、急を要する話と押し切りました。
じゃあ今すぐ電話で話せよってことになるけど、そこをなんとかするのが交渉術なのです。
意外と話し込むとヘタレな彼の一面を垣間見ることができるの。居丈高な藤原さんだけどつけ入るところは結構あるのかもしれません。
深夜の公園の噴水前で待ち合わせ。
約束の時間よりも随分前に着いてしまったので、藤原さんを待つことになりました。
時間を計算せずに電話を切ってからすぐに家を出たことを少しだけ後悔しました。
夜の公園はお世辞にも居心地が良いとは言えず、女のコ1人で人を待つのはちょっと怖くて、こうなるのは不本意ではあったけど、居ても立ってもいられなかったから仕方がないのです。
だって、夢見たアイデアが現実のものとなるかもしれないのよ?
浮き足立つなって方が無理があるのです。
約束の時間を5分だけ過ぎて並木道の向こうから歩いてくる藤原さんの姿を見つけました。その足取りは遅くて、うわ……、いかにもダルそう。
ん~、もうっ、待ってるあたしが見えてるんだから早く来てよ。
「遅いです!」
「何を言う。こんな時間にいきなり呼び出す方がよっぽど非常識だ」
藤原さんはカジュアルシャツをチノパンにインさせて、いつも通り隙のないスタイルで登場。
憮然とした表情で傲岸不遜にあたしを見下ろしてきます。
「それは重々承知なのです。それだけに値する話をさせてもらうつもりだから」
「ふん。やけに自信ありげだな」
「当然」
人を食ってかかるような藤原さんに呑まれない様にあたしは胸を張ります。さぁ、ここからが自称策士、橘京子の腕の見せどころ。
「春先からあたしが単独でキョンさんを篭絡しようと企ててることは知ってますよね?」
「企てなどと称するに足りえる高尚なものなのか? 僕が把握してるのはお前が滑稽な一人相撲をとってることだけだ」
――っむかつく~! でもダメ。冷静にならないと。こんなのいつものことなのです。藤原さんのペースにはまってしまわないようにしないとっ。
長ったらしいノイズを取り除けば要するにイエスということね。
変に曲解してくるのなら、こっちだって自分勝手に解釈して対抗してやるのです。
「今回はあなたに協力を願いたいの」
「ふん、何を言い出すかと思えば。何度も言っただろう? 現地人と共闘する気などないと。ましてやお前の計画性のまるでない行き当たりばったりに僕が手を貸すとでも思ってるのか?」
予想はしてたものの藤原さんの態度は強硬で、これを切り崩すのは一朝一夕じゃ無理ね。
けれどこの反応は最初から見込んでいたこと。あくまでも形式的な切り出しでしかありません。
あなたが非協力的なのは当初から分かってるもの。ここに来て今更このヒネくれものを性根からどうにかしてやろうなんて面倒なことはやりません。
変則的な手合いは搦め手で生け捕ってやるのが一番。
一転、あたしはお手上げのジェスチャーで引いてみせました。まるで誰かさんを真似るかのように。
食ってかかってくると予期していたのか藤原さんは少し調子を外されたたしく、その表情が少しだけ揺らぎます。
鳴かぬなら、鳴かせてみせようホトトギス。
だけど、やり方はちょっとだけ乱暴。懐柔ではなく外堀を埋めさせてもらうわよ?
「レンタルビデオショップ」
まっすぐに藤原さんの目を見ながら、その瞳の奥の動きを追うようにあたしは1つのキーワードを口にしました。
だけどさすがに唐突過ぎたらしく、藤原さんは訝しげに目を細めるだけ。「なんだこの女、気でも触れたのか?」みたいな視線を容赦なくぶつけてきます。
ふふふ、その顔いつまで続くかな?
「興味深い話を耳にしました。1ヶ月くらい前の話ですけど、あたしの部下が商店街のレンタルショップで藤原さんを見かけたそうです。ビデオ鑑賞がお好きなんですね。さすがは未来から来たお人、趣味が『高尚』だなぁ……、あたしと違って」
そう言い放った瞬間、面白いように藤原さんの背筋が伸びて表情が歪みました。
ふふ……、ギクリという擬音が聞こえてきそう。
ちなみに最後の嫌味はおまけ。仕返しなのです。
喫茶店で九曜さんと喜緑さんのやりとりを見て独り大爆笑した藤原さん。
何がそんなにってのは置いといてウケたってことは意外の裏返し。つまり、未来から来た彼だけど歴史の通過ポイントや流れは知っていても、すべての事象を逐一把握しているわけではなさそうってことなのです。
そうなれば彼を嵌めることだってできるわけで、思い切って試してみたけれどビンゴだったみたいね。良かった。
仰け反った藤原さんにさらに追い討ちをかけるかのように、あたしは携帯を開いて1枚の画像を見せます。
「ちなみにこれがその時の写真です。でもこの写真変なんですよねぇ……。そこからじゃよく見えないかもしれませんけど、藤原さんがいるこのコーナー、18歳未満立ち入り禁止のはずなんです。なんかの間違いかなぁ……」
わざとらしく人差し指を頬に当てて悩んだふりをしながら、斜めから掬い上げるように藤原さんを覗いました。
薄暗い夜闇に青ざめた顔を浮かび上がらせる藤原さん。よく見ればその肩はプルプルと小刻みに震えて動揺が隠し切れない様子。
ここまで余裕がない彼を見るのは初めて。さすがにこれは効果的だったのです。
そうだよね。アダルトコーナーをうろついてたってだけならここまでうろたえもしないだろうけれど、この写真にはその他の致命的な要素がてんこ盛りなのです。
藤原さんが向かい合ってる棚の品のない色使いのポップには……、その……、『熟女特集』と記されてるわけで……、しかも彼はその棚の商品を手に取っちゃってしっかり裏返して真剣に品定めしちゃってるわけで……、色々と救いようがないのです。
「状況解説要ります?」
「そ、それをよこせっ!」
「わっ!」
目を血走らせて半狂乱のままあたしの携帯を奪い取ろうと藤原さんが掴みかかってきましたけど、なんとか反応できて後ろに跳ぶことで難を逃れました。
動きは案外遅くて鈍いように感じたけれど、追い詰めすぎは禁物かな。
「待って。落ち着いて。一方的にこれをどうこうしようって腹はないのです。ただあんまりあたし達をナメないでってこと。写真を見せたのは今一度あくまで立場は対等ってことの再確認ってことだけよ」
そう言ってパチンと携帯を閉じました。
「……引き換えの条件はなんだ?」
少し平静を取り戻した藤原さん。
あくまで対等だと言っておいてこの展開は自分でもおかしくなるけれど、ふふ……、あなたのその冷静な一面は美徳だと思います。
「最初の公言通りあなたの協力を仰ぎたいの。まずはあたしの話を真剣に訊いてくれる?」
こうして、あたしはようやく本題に入ったのでした。
//////////
「バカなことを……、これだから感化されやすい俗人は始末に負えない」
立ち話も何なので、近くのベンチに腰掛けて話を始めて、ことの顛末と提案を一通り話し終えて藤原さんから返ってきた第一声がこの言葉。
この期に及んでまだ毒が出るとは筋金入りね。
「でも、どうしても試したいの。これぞあたしの瑕疵を補完する夢のようなアイテムなのです。こういうのって実際にあります?」
核心を前に藤原さんは口元を引き締めて俯きました。正直に話すかどうか迷ってるようなそんな感じかな。
「……あるには、ある。時間軸上情報転送装置、通常の時間移動とは全く異なる原理を用いて情報だけを過去に転送するものだ」
「情報……転送?」
「ふん」
鸚鵡返しするだけのあたしを藤原さんは冷たく一瞥して、さもうざったそうに鼻を鳴らしました。
見るからに人を馬鹿にしている態度。
カチンとくるものがありますけど、ガマンガマン! ここは聞き役に徹しないと。
「一般的に時間移動とは物質を伴う移動を指す。僕自身がこの時代に来ているのがその証拠だ。もっと分かりやすく言えば、異なる時間軸に居る自分に会いに行けるタイムトラベルを意味する」
「過去に行って赤ん坊の自分や未来に行って大人になった自分に会いにいけるってこと?」
「そうだ。だがこれはお前が映画で見たものとは性質が異なる。どこが違うか分かるか?」
こう問われてピンとくるものがありました。確かに違うのです。
映画の主人公の女のコがやっていたタイムトラベルは、未来の情報を持ったまま過去に巻き戻るというもの。移動ではなく巻き戻し。この点が藤原さんがやってるのと違う。
そうか。一言にタイムトラベルと言っても色々あるんだ。
「つまりお前が望む行為は俺が今持ってる装置では成し得ないってことだ。もしやるとしたら別の代物を用意する必要がある」
「その装置を貸してもらうことはできないの?」
「僕の時代でもまだ確立していない途上の技術だ。そんな実験段階の危ないものを易々と貸し出せるわけないだろう。諦めろってことだよ」
……うーん。なんだかやるせない。
だって、要するにあるけど貸せないってことでしょ? なんて中途半端。いっそないと言い切ってくれた方がよっぽど割り切れます。
貸すという単語が出てくるくらいだから、なんとなく手にすることもできないような機密ではない雰囲気がするんですけど、これは勝手な解釈かな。
どっちにしろもう少しつついてやるのです。
「本っ当に貸せないんですか?」
「くどい」
「……無理にでも持ってきて、って言ったら?」
少しだけ目を眇めて研いだ眼光で藤原さんの瞳を射抜きます。
さっきの脅迫まがいを思い起こしたのか。藤原さんが息を呑むのが分かりました。即否定が返ってこない。
「釘を刺しておきますけど、本当に無理かどうかは調べればすぐに分かることよ? 機関の諜報能力を甘くみないで欲しいのです」
ブラフをばっちり打ってあくまでも自分優位にあたしは最終審議に入ります。
毎回やりにくいキョンさんの相手を務めてるのは伊達じゃないのよ。
「もし嘘だとバレたら……、怒りのあまりどうにかなっちゃって、さっきの写真をキョンさんに送っちゃうかもしれません。DVDのパッケを手に取りながらおっしゃったあなたの素敵な独り言の台詞付で。なんてこぼしたか覚えてます?」
頬の筋肉を目いっぱい引きつらせて目を剥く藤原さん。
さぁ、出てくる答えはシロ? それともクロ?
あたしは携帯のメモに記録した目を疑うような台詞を棒読みで読み上げるように聞かせます。
本当にこんなこと口にしたのかなぁ?
「『こ、これがまぼろしのだんちづましりーず……、このじだいはきせいがあまいとはみみにしていたが、まさかこん……』」
「わ――――――! やめろぉ――――――!! 持ってくる! 持ってくるからやめてくれ」
大慌てで口を塞ごうとする藤原さんを身を捩ってかわしつつ、やっぱり本当だったんだと呆れつつ、あたしは口元を歪めたのでした。
//////////
こんな風に策を実らせて手に入れたのがこのガラス玉ストラップ、のように見える『時間軸上情報転送装置』。
先ほど藤原さんから譲り受けたものです。3日ぶりに会った藤原さんは少々痩せこけてくたびれてたように見えましたけど、それは気のせいってするのが小悪魔のたしなみ。
『09』という数字は残りの使用回数を示します。キリの悪い数字なのは早速あたしがさっき試しに1回使ってみたから。
本物かどうかを検めるという意図もありますけど、本番でいきなり使うのはリスキーだし、あらかじめ感触をつかんでおくのは作戦を立てる上で重要ですから。
使った感想はというと、……んー、なんて言ったらいいんだろう、……地味だけどすごい?
あたしの想像はもちろん映画が基準なわけで、映画のように主人公の女のコが勢いよくジャンプするのがきっかけで時間移動が巻き起こる、といった感じのものを無意識のうちに期待しちゃってたんですけど、この装置はそんなドラマティックな要素と無縁のもの。
時計が無数に並んだ空間を飛ぶとか、風景がすごい勢いで巻き戻っていくとかそういうスペクタクルは一切なし。
ただガラス球を手のひらにぎゅっと握りこんで巻き戻したい時間を念じるだけ。ちょっとした立ち眩みを感じるだけで、目の焦点が戻ればハイ到着、こんな感じ。
なんとも華がない。そう言った意味で地味。
未来の技術なのに夢がないのはいただけません。
けどまぁ、プラス思考をすれば身の丈に合ってると言えなくもなくて、走ったり駆け上がったりジャンプしたりというのは正直あたし向きではありません。
途中ですっ転んでなんだかよく分からないままにぐだぐだでタイムリープ! なんて十分にありえるのです。ああっ、その姿が目に浮かぶよう……、格好悪すぎる。
ダメなイメージを打ち消すようにおでこを手のひらで叩きました。
……とにかくっ、これであたしは時を操る能力を得たのです。
試しに待ち合わせの前まで戻って装置をもらう前に藤原さんに機能を説明して差し上げると、さすがの彼も驚いたらしく目を丸くしました。事情を知ってるだけにほんの一瞬でしたけど。
ちなみにこの装置では過去に戻ることしかできません。しかも現在時刻から12時間以内という限定つき。元々イリーガルっぽい代物だけにこのあたりは仕方ありません。
詳しくは分かりませんけど、あんまり派手にやると時間を管理する組織とやらに発覚する可能性も高くなっちゃうんだって。
途中で邪魔が入るのは望むところじゃないので、あたしも納得しました。
この仕様で大して支障が出るとも思えないし、これで十分。
携帯をスカートのポケットに仕舞うと、あたしは唇をぎゅっとひきしめました。
『無限の告白作戦』、満を持して発動!
小悪魔系真超能力者、橘京子のチカラを篤とお見せしちゃうのです。
さぁキョンさん! 今回という今回は逃さないわよ。
//////////
3回目ともなればキョンさんを誘うのも手馴れたもので、相変わらず電話とメールでガンガン押しまくって約束を取り付けました。
力技だけど何度も何度もお願いすれば案外根負けしてくれるのがキョンさんの良いところなのです。
土曜日に電話したとき、たまたま急遽日曜日の予定が消えた直後で、すかさずスケジュールを埋めさせてもらうという形で約束を取り付けました。
急な話だったけど、あたしの方は準備万端なので願ったり適ったり。
幸先がいい、今回は流れそのものがあたしにキている、そう思ったりしたのでした。
……にもかかわらず日曜の昼前に夏を意識して買ったばかりのミュールのかかとでけたたましく坂道を蹴って下るあたし。
道路のあちこちにできた水溜りを避けながらあたしは走ります。深く眠ってたので気づきませんでしたけど昨日の深夜に雨が降ったみたい。
本格的な夏の到来を感じさせるほど日差しは強く、アスファルトの照り返しも半端じゃありません。お肌が焼けちゃうかも……、でも暢気に日傘など差してる余裕などありません。
待ち合わせに間に合うかの瀬戸際なんですからっ。
なりふり構わず汗だくになって疾走します。ああ、もうっ、お化粧が台無し。こんな顔キョンさんに見せられないかも。
でも、こんなことでイチイチ時間を戻していたらキリがありません。
すぐに喫茶店に入ればお化粧はなんとでも直せます。間に合う可能性が残っている以上急ぐしかないのでした。
断っておきますけど、普段からあたしは決して時間にルーズじゃありません。遅刻なんてもってのほか。そうでなきゃ機関の幹部なんて務まらないもの。
だけど今日は自分のスケジュールを律する体内時計が狂ってしまってました。
言い訳するつもりなんてないけれど、原因は例の装置の存在が一枚どころか何枚も噛んでいることは間違いないのです。
その気になれば時間は戻せると無意識のうちに隙ができてしまっていたにちがいありません。
間に合うかなぁ。ギリギリかも。
電話で遅刻を知らせることができればいいんだけど、何回コールしても出てくれなかったのです。
仕方がないので、
『ごめんなさい、ちょっとだけ遅れます。待っててくださいね? お願いですよ?』
とメールを入れておきましたけど返信はなし。……不安になるのです。
キョンさん、まさか約束そのものをすっぽかすつもりなんてないですよね? ね?
インクの染みが広がるようにじわりと胸の奥が疼いて、切なさに押しつぶされそうになるけれど、ハッと気づいて踏みとどまります。
勝手にキョンさんを疑い始めるなんてどうかしてるのです。
今まで厭々ながらも2回ともちゃんと来てくれました。信じなきゃ。
とにかく電車に間に合うことだけ考えるのです。
このペースで駅まで行って予定の電車に乗れれば最低でも2、3分程度の遅れで着くはず。数分程度ならいくらなんでもキョンさんも待ってくれるはず。
手首を返して時計に目にやりつつそう言い聞かせながら、信号無視で一気に加速して横断歩道を突っ切ろうとしたその時でした。
――――ブチッ!
引きちぎれたような不吉な音がして、あたしは大きくバランスを崩します。
きゃっ! わっ! ととっ……!
前のめりにたたらを踏んで、なんとか転ぶのだけは免れました。
え? 何? つまづいた? 違う、もしかして……。
厭な予感を覚えつつも足元を見下ろすと、ヒモが切れて無残な姿に変わり果ててしまったミュール。
ヒールが高めでオフホワイトが基調のかわいいやつなのです。ベルトがチューブとヒモが組み合わさってできてるんだけれど外側のヒモが根元から半分以上ブッチリいっちゃってる。
決して安物なんかじゃないのです。使い方をまずっただけ。ミュールはこんな風に全力疾走に耐えるようにできてないもの……。
買いたてのお気に入りが台無しになって凹むあたし。だけど、それどころじゃないことに気づきます。
靴がこんなんじゃ間に合わない。それ以前にデート自体できないのです。
ケンケン足で待ち合わせ場所に向かう間抜けな自分の姿を一瞬思い浮かべて大慌てで打ち消しました。冗談じゃない。
どうしよう……時間を戻す? 戻すとしてもいつまで戻す?
悩みます。昨日の夜まで戻るのは簡単。
早起きしてテキパキ準備をこなせば遅刻のリスクそのものをなくせるけど、遠足前日のような明日が待ち遠しくて心休まらない気分をもう一度味わって、おやつにつまんでもらうために作った慣れないサンドイッチを作り直すのは気が重いのです。
……、5分だけ戻ってもっとそっと走ろう。
そう決断したあたしは虎の子のガラス球を携帯ごと取り出して、手のひらに収めました。
まさかこんなに早く使うなんて思いもしなかったけど、こんなときのための転ばぬ先の杖。
『5分――――』
と念じてあたしの意識は跳ねたのでした。
//////////
不意にチューニングが合ってテレビの画面が急に写ったように視界に飛び込んできたのは上下に揺れる景色。
それに遅れて酸欠による苦痛と、脚の筋肉痛を知覚して、あたしは今走っていることを認識しました。
目の前50メートルに迫る交差点は、さっきあたしが立ち往生した場所。
それに気づくとがむしゃらに走るのを止めました。
ミュールの紐になるべく負担がかからないように注意しつつ、スピードをセーブ。
紐の状態は――――、大丈夫みたい。さっきみたいに無茶をしなければきっと大丈夫なのです。
一度目より遠慮がちに、小走りに赤信号を渡って歩道の直線コースに入ったところで定期入れを取り出して、それをリレーのバトンのように持ちながら疾走します。
角を曲がれば駅の入り口はもう目の前で、人が居ない改札にICカードをたたきつけて突入。
電車がホームに入ってくる音を耳にして、ギリギリなのを悟りました。
えぇー? や、やばいかもっ!
上り階段上がった時点で発車のベルが鳴り出して、焦りが極限に達します。
このままじゃ間に合わない。一か八かのラストスパート!
勝負に出たあたしはリミッターを解除して残りの十数段をがむしゃらに駆け上がったけれど―――――――、ホームであたしに突きつけられた光景は既にドアが閉まってゆっくり走り出してしまった電車。
………………。
ちょっと待ってよぉ。タイムリープまで使ったのにぃ。
呆然としてを見送るほかなく、息を整えることも忘れて駅のホームにぽつねんと取り残されて立ち尽くします。
顔を伝う汗が雫になって落ち、ようやくあたしは我に返りました。
次の電車はっ!?
電光掲示板を確認すると、次発は13分後。
駅から待ち合わせ場所までの時間を考慮したら15分くらいの遅れ?
うーん……、待っててくれないかも。
そうだっ、タクシーはどうかな。お昼のこの時間、道が空いてるとは思えないけれど10分以上待つことと比べたら早いかもしれません。
お金がどうとかは二の次。んんっ、もう! どうして最初から思いつかなかったんだろう。
散財でも時間優先を踏み切ったあたしは改札を出ると、こぢんまりしたバスターミナルでタクシーを探します。無駄になってしまった運賃がつらいけど、お金を払い戻してる暇はありません。
……あった! よかった、ここで1台も居ないとかなると目も当てられないのです。
少しだけ安堵したあたしは急いで駆け寄りました。
車で結構詰まっている国道を運転手さんに無理言って飛ばしてもらいました。
間に合うかどうか気が気じゃなかったけど、この僅かな時間も有効利用しないとダメ。
だって今のあたしお化粧も髪もボロボロなんだもの。タクシーを降りて颯爽と登場したのに、身だしなみがぐちゃぐちゃなんじゃコントみたいになっちゃう。そんなんじゃムードも何もないのです。
バックミラーに運転手さんの冷たい視線を感じながらも、手鏡を片手にせっせと最低限直せたところで待ち合わせの駅前の風景が飛び込んできました。
時間はっ……、待ち合わせに10分遅れ。
さすがに間に合いませんでした。でもっ、電車で来るよりは早く着けたのです。
手元もよく見ないまま化粧道具をカバンに押し込んで、定番の待ち合わせ場所になっているファッションビルの入り口付近にキョンさんの姿を探します――――、いない。
支払いを済ませてドアが開くなり滑り降りるようにタクシーを飛び降りて、待ち合わせのショーウィンドウ前まで駆けたけれど、やはりキョンさんを見つけることができません。
どうして? ひょっとしたらキョンさんも遅れてる?
そのとき、バッグの中で携帯が震える音が聞こえました。弾かれたように反応して急いで取り出すとメール着信の表示。キョンさんからだ。
どうか『俺もちょっと遅れる』といった内容であることを祈りながら、おそるおそる内容を確認します。
しかし、そんな祈りも虚しく突きつけられたのは、
『5分待ったが、来ないから帰るぞ』
という文字で表されたシビアな現実。
そ、そんなぁ……。もう少しくらい待ってくれたっていいのに。
だけど、そんなことを今更伝えてもキョンさんが戻ってきてくれるとはとても思えず携帯を握り締めたままあたしは人波に取り残されて棒立ちになるしかありません。
力のない視線を手元に移すと、視界の端に写るのは存在を主張するかのように揺れるガラス球。
独特の字体で浮かぶ数字は『08』。
……こうなった以上は仕方がありません。使うとしましょう。
まさかこんな短時間で連発する羽目になるとは思いもよらなかったけど。
えーっと、どこからやり直そう……。
ホームまで行った時間のロスが5分くらい? いえ、もっと短かったかも。
ということは、改札をくぐる前まで戻ってすぐにタクシーに乗っても下手をしたら間に合わないかもしれないのです。
もっと前でタクシーを拾えればいいけど、行く途中の道路は閑散としてて車はほとんど走ってなかったように思えるのです。
……横着はよそう。今だってそれで失敗したばかりなのです。下手にやり直してまた二度手間になるのはいただけません。
もう一度昨日からやり直そう。うん。それが一番確実よ。
どうせなら最大の12時間巻き戻ってもっと対策をきっちり練るのです。
そう念じてあたしはガラス球を強く握りこみました――――、全然雰囲気に合ってないけど、とりあえず景気づけに、
いっけぇぇえぇぇ――――――!
と叫びながら。
//////////
ふっ、と途切れた意識を取り戻す妙な感覚にとらわれて、真っ先に感じたのは暖かいものに包まれているような感触。
その刺激に小さく叫んで妙に反響して戻ってきた自分の声を耳にして、反射的にバスルームだって感じ取りました。
見慣れたユニットバスを視界に収めて再確認。
そういえばこの時間はお風呂に入っていたのでした。
……とりあえずタイムリープは成功かな? だけど、これは心臓に悪いのです。移動先のシチュエーションを考えて心の準備をしてからやらないとびっくりしちゃう。タイムテーブルを把握しておかないと。
それはそうと……、えっーと、今は身体洗う前? 洗った後?
髪を触ると、しっとり濡れているのです。
ということは洗った後、か。
そんな時間移動特有の混乱を実感しながらあたしは失敗を反省すべく今後の行動の指針を練ったのでした。
目覚ましの音に起こされて、眠い目をこすりながら時間を確認すると朝の8時。
昨日よりも30分早い目覚めなのです。
待ち合わせは11時なので、8時半起きでも時間そのものに問題はまったくありません。問題はこの後のお弁当作り。
お手製のサンドイッチを作るのに手間取ってしまったのが一番大きな時間のロスになってしまったのです。
元々料理が得意なわけでもないし、作り慣れてないものに手を出してしまったのが敗因。
だけど2回目となれば話は別。下準備もさくさく済ませて後はパンに挟んで盛り付けるだけ。
予定よりも随分と早く準備が完了できそうかも。うふっ、これなら余裕なのです。
失敗をリセットして思うようにやり直せるってのは結構快感かもしれません。
そんな風に上機嫌であたしはバターとタルタルソース、マスタードを塗った生地にトマトとレタスとベーコン手際よく挟んで次々と仕上げていきます。
男の子が好みそうな具沢山のクラブハウスサンド。
女性の社会進出とか言われても、料理のできる女がポイント高いのは変わりありません。
おやつにさりげなく差し出してアピールなのです。
あーん、とかやっちゃったりして、とか想像すると否が応にも口元はだらしなく歪んでしまいます。やだ照れる……、って前回もやった妄想を繰り返してる場合じゃないです。
トリップしそうになった意識を呼び戻して、出来上がったサンドを小さなバスケットに詰めればできあがり。
壁掛け時計を見上げて時間を確認。今から家を出ればゆっくり歩いて2本くらい早い電車に乗れるくらいの余裕があるのです。
時計に向けて思わずVサインを作っちゃいました。
玄関先で壊れるかもしれないミュールはやめて、スニーカーを履こうかとも思ったけれど歩けば全然問題はないわけでこの案はボツにしました。
だって折角のデートなのにスニーカーなんて味気ないのです。
少しでも魅力的な自分を見て欲しいからそこは譲れません。
いつもカワイイ系の服ばっかりじゃ飽きられると思って、今回は短いスリーブのカットソーにクロップドパンツを合わせてちょっとスマートな感じのアレンジにしてみたのです。
このファッションにスニーカーじゃ一段落ちるのです。やっぱりこのミュールじゃなきゃダメ。
そんな女子のこだわりを思索しながら約束の時間より15分も早く待ち合わせ場所に到着。
ゆっくりキョンさんを待とうと一息吐こうとしたとき、
「早いな」
と背後から声がかかりました。振り向くと何食わぬ平素の顔で見下ろしてくるキョンさん。
対して完全に不意を突かれて硬直してしまっているあたし。
「……どうした??」
と声をかけ直されてようやく口が動きました。
「キョンさんこそ早いですね。いつも結構ギリギリなのに」
「ちょっとついでの用事があったんだ」
なるほど。とあたしは別の意味でも納得します。
5分しか待ってくれなかったのは、きっと早く着き過ぎて約束の時間まで待つ時間が長かったからだ、とひとり分析を裏にあたしはペースを握るために切り出します。
「暑いしとりあえずどこかでお茶しませんか?」
「いいぜ。今日の会合の趣旨から説明してもらおうじゃないか」
冗談交じりにそう言うキョンさんは数ヶ月前の警戒と嫌悪に塗り固められたぶっきらぼうな態度とは比べ物にならないほどくだけたもの。
まさしくあたしの苦心惨憺の賜物なのです。
ふふっ、今日はこの笑顔をあたしだけのものにしてやるのです。
こぼれ出た含み笑いを愛想笑いの中に隠して、あたしはキョンさんと並んで一歩踏み出しました。
//////////
アーケードにある適当なお店に入ってちょっと早めのランチを摂った後、そのまま道すがら目に留まった雑貨屋さんとか服屋さんとかにキョンさんを引っ張り込んでウィンドウショッピング。
常にテンションを上げてるのはあたしだけど、キョンさんは顔をしかめながらも相手してくれるので疲れはしません。
ああ、こうしてると恋人気分で本当にデートしてるみたいなのです。って、あたしが浸ってどうするの。キョンさんをその気にさせないと意味がない。
あー、でも、こうやってキョンさんの服を選ぶのって悪くない。悪くないなぁ、と目に付いたポロシャツをキョンさんに合わせてみたとき。事件は起こりました。
「あんたちこんなとこで何してんの?」
凍りつくような抑揚のない声がキョンさんの背中越しに投げかけられました。
キョンさんに隠れて主の姿は見えないけれど、この声……、聞いたことがある……。
こう感じたのはあたしだけじゃなかったらしく、見上げたキョンさんも表情が固まっちゃってるのです。
ただその様子から見てショックの度合いにはあたしとかなり差があるみたい。まばたきすら忘れるくらいなんてちょっと普通じゃありません。
キョンさんがじっくり5秒くらい間を作ってから異常に緩慢な動作で振り向くと、視界が開けてそこに居たのは予想通り涼宮さん。
口元をへの字に曲げて腕を組んで有無を言わさず威圧してくるその姿には異様なオーラが漂っててそれだけで及び腰になってしまうのです。
ギロリと、そんな音が伴いそうなくらいの迫力で大きな瞳をぐるんと回して、今度はあたしをターゲッティング。
思わず口の中で軽く息を呑んでしまいました。キョンさんの心地が分かるかも。こ、怖い……。
「……誰?」
「えっ? あ、あのっ」
一度きりだけど涼宮さんとは面識があるはずなのです。春にSOS団のみなさんとも一同に会したことがあるもの。
だけど涼宮さんはあたしを覚えてなかったみたい。うう……、あたしってそんなに影薄いかなぁ。
圧倒されちゃってる上に、まさかこう切り出されるとは思いもせず、あたしは言葉に詰まってしまうのでした。
そこに助け舟を出してくれたのがキョンさん。
「橘だよ。佐々木と一緒に会ったことあるだろ」
「あー、そう言えば。このコも一緒にいたかもね。うっすら思い出したわ」
ひ、酷い。佐々木さんのおまけ扱いなのは仕方ないとしても、あんまりなのです。
一瞬視線を和らげた涼宮さんですけど、再びキッと目ヂカラを戻すとキョンさんに詰め寄ります。
「で? あんたこのコと何してるわけ?」
「何って言われても困るところがあるんだが……、説明を頼む」
ええー? そこであたしに振ってくるんですか? 庇ってくれる素振りを見せておいてそれはないよぉ。
なんか今のキョンさんはしどろもどろでひどく頼りないのです。
涼宮さんに尻に敷かれまくってるってのは聞いてはいたけれど、まさかこんなに露骨にうだつがあがらないなんて……、かっこ悪い。
軽くショックを受けたあたしですけど、睨みを効かせた涼宮さんを無視することはできず必死に言葉を捜します。
「ええと、これはですね。SOS団のみなさんと佐々木さんを中心として集まってるあたしたちの親睦を深めさせてもらうための、事前会合みたいなものなのです」
涼宮さんのプレッシャーに耐えながらも、なんとか言いたいことは言い切ったあたし。
だけども涼宮さんは眉を少し跳ねさせただけで、その険しい表情は崩してくれません。
「へぇ、親善大使ってわけ?」
「そ、そうなんです。そう言えばもっと話が早かったですね」
打ち解けた感があってついついあたしは少し溜飲を下げたけれども、それはとんでもない勘違い。
あたしが手にしたポロシャツに視線を落とすと涼宮さんは目を細めていっそう不機嫌になってしまったのでした。
「親善大使がキョンの服も選ぶわけ?」
「ええ!? いえ、あの、それはっ、まずは心の壁を崩して打ち解けるのが大切ですから、……親睦の一環なのです」
「ふぅぅぅぅぅん」
涼宮さんはちっとも納得してない様子で、疑惑の視線を保持したまま。
だけど不意を突くように一転キョンさんの方にくるりと砲門を回すように向き直ると、今度はキョンさんに追及を浴びせかけます。
「どうしてあたしに黙ってたわけ? こういう話は上に上げるのがスジってもんじゃないの?」
「そう目くじら立てるなって。こいつが今説明しただろ、事前会合なんだよ。組織のトップはどかっと腰据えて構えてるもんじゃないのか?」
「そんなのが通用するのは大昔の話よ。いい? 今の情報化社会にCEOがそんな悠長なことやってちゃあっという間に足元すくわれちゃうんだから。どんな些細な事でも団活に関わることは全部まっ先にあたしの耳に入れること! 分かったわね?」
恐ろしい。決して主張は間違ってないけれど、その言い様はまさに恐怖政治の絶対君主。キョンさんが恐れおののくのも分かる気がするのです。
ちょっとだけがんばってみたキョンさんでしたけど、10倍返しの反論を聞き入れる用意はないらしく、以後は貝のように口を噤んで眉間にしわを作ったまま目を閉じてしまいました。
涼宮さんの長い長い説法は組織論から始まって、ついにはあの時間外取引による公開株式買い付けの事件まで及び、最後の方は結局最初の話と何が関係あったのかよく分からなくなってしまいました。
一つだけ確かなことは、たっぷりまくしたてるだけまくしたてて見事にあたしを呆気にとらせてみせたってこと。
「――――ということだから」
と最後だけあたしに言い聞かせるように振り向いた涼宮さん。
えっ? 何? どういうこと?
「そーゆーことで今後ウチの団員と勝手に接触して連れまわしたりしないでちょうだい。もしどうしてもっていうならあたしを通しなさい。話くらいは聞いてあげてもいいわ。ホラ、いくわよキョン」
「おいっ、待てよっ!」
涼宮さんは問答無用でキョンさんの襟首を掴んで強制連行。対するキョンさんはなすすべもなく店外へひきずられていきます。
「ちょ、ちょっと! ――――――っ」
振り向きざまの肩越しに切れ上がったまなじりから放たれた炯々とした視線は仕留めた獲物を独占して辺りを牽制する肉食獣そのもの。
釘を刺されてしまったあたしは金縛りにでも遭ったようにその場を動けず、ただただ2人を見送ることしかできませんでした。
……ダメ、涼宮さんとやりあうなんてとても無理。逆立ちしたって言い負かせそうにないのです。出会ってしまったのがそもそもの間違い。
アーケードでショッピングの選択がミスだったって納得することにしましょう。
なんら落ち込むことなんかありません。
間違ったらやり直せばいい、それだけよ。
どうしようかな。いっそのことこの駅で待ち合わせるのをやめようかな。
そう軽く思いついたけど、今日会った直後のキョンさんの台詞を思い出してやっぱり取り下げます。
確か待ち合わせの前にキョンさんはこの駅の近くで用事を済ませてきたと言いました。
ということは待ち合わせ場所を変えるとキョンさんに手間がかかってしまいます。
そもそも直前になって待ち合わせ変更は心象が良くないのです。これが元で来て貰えないことになってしまったら本末転倒。
待ち合わせはこのままでいきましょう。要するにすぐに離脱すればいいんだわ。
ふふっ、あたしってばこんなことに気づくなんて中々冴えてるのです。
ようやく手にしたポロシャツを戻してメンズショップの片隅で不敵に、きっと傍目には不気味に微笑んで、あたしはガラス球を手に心の中で唱えたのでした。
//////////
広く生い茂った木々の枝から燦々と木漏れ日が降り注ぐ小道を歩きます。
キラキラと自然が創り出す照明に思わず目を奪われてしまいます、……きれい。
そんな幻想的とも言える光景を慈しむようにあたしは目を細めました。
鼓膜を震わすのはあたしたちの足音と時おり微風に吹かれて枝葉がそよぐ音だけ。
生命力に溢れた瑞々しい若葉の緑に囲まれて、少し鼻を衝くような新緑と土の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、身体が活性化するみたいに全身が満たされていきます。
時間の流れが普段の半分くらいに感じるのどかさ。
ああ、本当に生き返るような心地なのです。
「気持ちいいですねぇ。来てよかったと思いませんか?」
「……お前、その台詞3回目だぞ」
「それだけ心の底からそう思ってるってことなのです」
「それはまぁ、否定はしない。会うなりいきなり電車に乗ろうって言い出したのにはびっくりしたけどな」
痛いところを突かれて軽く跳ねるあたしの心拍。
んもうっ、せっかく癒しに浸っていたのに台無しなのです。
傍を歩くキョンさんの横顔にジト目を投げかけてみるけれど、穏やかな表情で気持ちよさそうに空を見上げている様に毒気を抜かれてしまいました。
皮肉は余計だったけど、同意してくれたのはどうやら本心みたい。
こんな機転が利いたのは、日ごろから近場のデートスポットの情報収集をこまめにやってきたお陰なのです。よかった。
涼宮さんとのエンカウントを避けるために選んだ行き先は山手にある植物園。広大な敷地に樹木を植栽したレクリエーション施設なのです。
電車とバスを乗り継いで結局1時間半もかかってしまいました。
何もこんなに遠くまで逃げなくても、って最初はあたしも思いましたけど、念を入れといて越したことはないのです。
涼宮さんに遭遇して実感したけれど、休日の街中なら誰にだって会う可能性はあるし、同じ過ちを繰り返さないように安全策を採用したのでした。
そっと取り出した携帯にぶら下がったガラス球に記された数字は『05』。
……ここで、あれっ? って追及しないで欲しいのです。
お昼ごはんを食べてから広場でバトミントンをやったんだけど、……その、エキサイトし過ぎてまたミュールが……、とにかくそういうことなのです。
まだまだ半分と言えば聞こえはいいけれど、予想外の消耗なのは否めません。油断は禁物。
キョンさんに悟られないようにバッグに仕舞って遅れ気味だった歩みを戻すと、道行く先が小高い丘になっててちょうど休憩するのにうってつけのテーブルが見えました。
時間は3時前。身体を動かしたから男の子なら小腹が空いてるはずなのです。
「キョンさん、あそこでちょっと休みませんか?」
「ああ、いいぜ」
うふっ、ここで用意してきたサンドイッチの出番ですよ。
木を組んで作った屋根の下、テーブルを挟んで向かい合って座ってあたしはいそいそとバスケットを差し出しました。
「あの、お腹空いてませんか? おやつに作ってきたんです。よかったら食べてくれませんか?」
「これはまた意外だな。お前、料理できたのか」
「……深い意味は聞かないでおきます。でも食べたらきっと二度とそんなこと言わせないんだから」
キョンさんはおそるおそるとも言えるくらいにそろりと手に取ると、回して眺めて、匂いを確かめてから口にしました。
もうっ、なんて疑り深い。
変なものなんか入れるつもりなんかないし、味だって保障付きなのです。……、作るの2回目だし。
視線を落ち着きなく漂わせながらたっぷり咀嚼して、ようやく喉を通過。
そんなに必要以上にゆっくり味をみられると、見ているこっちが疲れちゃいそう。
じっと見守るあたしに向けられた言葉は、
「……言うだけのことはあるな」
の一言。
しかもその表情は認めたくない気持ちがにじみ出てるような苦い顔。
褒めてくれてるのになにもかもが台無しなのです。
どうして素直に美味しいって言ってくれないんですか?
分かりました。そっちがそうならこっちだってやり方があるのです。
あたしは目の前のバスケットから両手でむんずと1つ掴み上げると、急転にこやかにゆるりとキョンさんの口元に差し出しました。
「はい、あーん」
最初に自分で取った一斤を飲み込んだ直後のキョンさんは、呆気にとられたように目を白黒させます。
まるで自分の目の前で起こってることが信じられないっといった風に。
「キョンさん。あーん」
催促してみるとさすがに状況を受け入れるしかなかったらしく、キョンさんは身を引いて拒絶の意思を露わにしました。
「何考えてるやがる。調子にのるんじゃない」
「いいじゃないですかっ。美味しいものを作ってきたんだからこれくらいの役得があっても罰はあたらないのです。それに誰も見てませんよ?」
「……どこからツッコんで欲しいんだ?」
強硬な態度で睨んでくるキョンさん。
こうなってしまっては崩すのは容易ではありません。いい加減宙のままで攣りそうだし、差し上げた腕を一旦下ろしました。
「……どうしてあたしが相手だとそう強気なんですか? 女のコによって態度を変えるのはよくないです。さっきの涼宮さんの前と随分対応が違うのです」
頬を膨らませて正当な主張をしたつもりでしたけど、言い終わってからやらかしてしまったことに気づきました。だけど、時はすでに遅くて、
「どうしてそこでハルヒが出てくる? 今日ハルヒになんて会ってないだろ?」
そうでした。確かにキョンさんは会ってません。いや、厳密にはあたしも会ってないんだけど、タイムリープによる上書き前を知るのはあたしだけ。うっかりしてたのです。
こういうの気をつけないと。とんちんかんなことばかり言ってるとますます変なコだと思われちゃいます。
「……どうした?」
「えっ? ああ、ごめんなさい。……あたしの勘違いでした」
そんな風に曖昧にごまかすしかなく、しょぼくれるあたしに呆れたように一瞥をくれてキョンさんは2つ目のサンドイッチに手を伸ばします。
せっかく問い詰めてやるチャンスだったのに、凡ミスのせいで流れてしまいました。もったいない。
でも、いいか。
次に手が伸びるってことは美味しいって思ってくれてるからだろうし。
手作り弁当が成功ならとりあえずはそれで満足としましょう。
さしてお腹が空いていなかったあたしはバスケットの中身をすべてキョンさんにあげることにして、頬杖を付きながら無言でパクつくキョンさんをちょっとだけ幸せな気持ちで見守りました。
//////////
お弁当作戦は見事成功!
と一瞬喜んだのもつかの間、大変なことになってしまいました。
あの後森を抜けてしばらく散策してから館内に入って高山植物の特別展示を楽しんでいたときにアクシデントは起こりました。あたしじゃなくて、キョンさんに。
展示を見てるうちにキョンさんの顔色はみるみる悪くなっていって、しまいには顔に脂汗を浮かべてお腹を押さえながらトイレに駆け込んでしまったのです。
具合は良くならず、さっきから休んでお手洗いに行っての繰り返し。
「これで3回目……か。大丈夫かなぁ」
出てくるたびにやつれていくキョンさんを見るのはつらいのです。
どうしちゃったんだろう。
お手洗いの入り口に視線をやりながら館内の休憩スペースに設置されたソファに腰掛けて考え込んでると、まず思い当たるのはくだんのお弁当。
もしかして食中毒?
そうだとしたらとんでもないことをしでかしてしまったのです。
確かに今日は日差しが強くて真夏、までは行かなくても汗ばむような陽気で、朝に作ったサンドイッチをバスケットに入れたまま昼過ぎまで持ち歩いた、という要素を足し合わせると完全にシロとは言い切れません。
「あっ! キョンさん。気分はどうですか?」
出てきたキョンさんにそう声を掛けたものの、返事を待つまでもなく一目で状態は最悪と分かりました。
歩みも心もとなく生気の抜け落ちてしまった様子は見るに耐えません。
救急車を呼ばないといけないレベルかも。
ふらふらのキョンさんに肩を貸してソファまで連れてきて座ってもらいました。とってもしんどそうなのです。
「キョンさん、横になりますか? あんまり辛いようなら救急車呼びましょうか?」
「……横にならしてくれるか? こんなとこで119番なんかしたら注目を浴びるだろうが、そこまで大事じゃない」
キョンさんは力なくそれだけ言うと倒れるようにソファに横たわりました。
少しでも楽になってもらおうとそっと傍らに腰掛けると、頭を持ち上げてひざの上に乗せます。
膝枕、確かに一度はやってみたかったことだけど、こんなシチュエーションじゃそんなお気楽なこと言ってる場合じゃないのです。
本当にこうする方が楽なのか、抵抗する気力もないのか分からないけどキョンさんはなすがまま。
目を瞑ったまま眠ったように仰向けになっています。
額に手を当ててみると、それほど熱くない。
とりあえず熱はないみたい。問題は腹痛と吐き気かぁ。
正直あたしの手料理との関係があるのか確証はないです。あのとき一緒にあたしも食べて揃って下したのなら間違いないけれど、結局キョンさん一人で平らげてしまったので分からない。
もしかしたら昨日の晩御飯とか今朝の朝食に当たったかもしれないし、そもそもこの症状が食あたりと無関係なのかもしれない可能性だってあるのです。
だけど……。だけどっ! こんなに苦しそうなキョンさんを見てるのは心が締め付けられるみたいに苦しい。
疑惑がある以上確かめる責があたしにはあるのです。
どうかあたしのせいでこうなっちゃったんじゃありませんように!
祈るようにぎゅっと目を瞑って――――『7時間』。
あたしはまた時間を遡りました。
//////////
「キョンさん。あーん」
リトライすればちょっとは違う結果に、なんて淡い期待は実らず、何度繰り返そうが返ってくるのは代わり映えしないネガティブなリアクション。
「何考えてるやがる。調子にのるんじゃない」
キョンさんは思いきり厭そうに顔をしかめました。
かなり割愛したけれど戻ったのは自宅でサンドイッチを作り終えた直後。
前回は家を出るまで日の差した部屋のちゃぶ台の上に放置していたけど、今回は冷蔵庫に入れました。
とにかくこの暑さで痛んでしまっていたかもしれないという可能性を潰すためにバスケットを冷やすことにしたのです。
駅までの道すがらコンビニで保冷剤を買ったまでは予定通りだったんですけど、ここでまた想定外のアクシデントが……。
店を出たところで乱暴な運転をする自動車を避けた際に泥を撥ねられてしまったのでした。
これは完全に誤算。
家に着替えている暇はなく、仕方ないのでレジを済ませた直後まで戻って車をやり過ごしてクリアしました。
そこからは一度辿った時間経過だから順調だったけれど、タイムリープの残数はこれで『03』。もう無駄遣いは許されません。
「……どうした? 急に黙り込むなよ」
「――呆れてたんですよ。どうしてあたしが相手だとそう強気なんですか? 女のコによって態度を変えるのはよくないです」
回想に夢中になってたことをうまく誤魔化して会話に戻ります。
同じ轍を2度踏む必要はないので今回は涼宮さんの名前は省略。こうすればペースを握るのはあたしのまま。
「どういう意味だ?」
大胆にもすっとぼけてきたのはちょっと予想外。よくもまぁぬけぬけとっ。当然納得できないあたしはつっぱねます。
「まさか自覚ないんですか? 相手が涼宮さんだと最初は覚めた感じでも徹しきれずに結局言いなりになっちゃうじゃないですか」
「それは、お前も分かるだろ。ハルヒがヘソを曲げるとややこしくなるんだよ」
「じゃあ朝比奈さんは? 必要以上に優しいのはどうして?」
キョンさんは目を見張りました。どうしてお前がそんなことを知ってるとでも言いたげに。
本当のところキョンさんと朝比奈さんが普段どんな雰囲気なのか詳しく知らないけれど、彼女のことになると目の色が変わるあたりから察して適当にカマかけてみたら図星とは分かりやす過ぎるのです。
「他のコの言うことは聞いてあたしだけダメだなんて差別ですよ。差別。美味しいものを作ってきたんだからこれくらいのこと聞き入れてくれたっていいじゃないですかっ」
必死の詰問は基本的に女のコに甘いキョンさんの良心を揺さぶるに足りたらしく、憮然とした表情ながらも、ついに、
「……一口だけだぞ」
と言わせたのでした。
半分ダメ元だったからちょっと拍子抜けだけど、これは素直に喜ぶべきだわ。
春にはあんなに毛嫌いされていたあたしがここまで至ったのは、アプローチを重ねて少しずつキョンさんの心の城壁を溶かしてきたからだと思うの。
この『あーん』はその集大成と呼べるべきもの。嬉しくてたまらないのです。
やったぁ、ついに待望のシチュエーション到来!
嬉々としながらあたしはキョンさんに冷えたサンドイッチを差し出して、キョンさんは眉間にしわを限界まで寄せて一口食んだのでした。
ああ、やりなおせるってやっぱりいい……。
達成感と純粋な幸せを感じながら、あたしはしばし満たされた気分に浸ったのでした。
この流れならきっとキョンさんの腹痛も発症しないと思ったけれど―――――――、この1時間後には例によって館内でキョンさんを膝枕して沈む展開がリピートされたのでした。
どうして? やっぱりこの腹痛は避けられないの?
今回はあたしも1つ食べてみたけれど、今のところあたしの身体に異常はありません。時間差で来るのかもしれないけどね。
作り置きのサンドイッチが痛む可能性は排除したにもかかわらずキョンさんがお腹を壊したってことは――――、あたしのサンドイッチは無関係ってこと?
…………待って、サンドイッチを作ったとき衛生に問題があってすでに菌が入ってたって可能性は?
作ってからの保存状態が悪かったって決め付けていたけれど、こういった可能性だってあるのです。
よくは思い出せないけれど、きっちり手を洗って万全だったとは言い切れないところに不安がよぎります。
いっそのことお弁当を作るのを止めたらどうか、なんて考えが頭をよぎったけれど、そうなるとさっきの『あーん』もなくなってしまう……。それは惜しい。
一回経験できたからいいじゃない、っていうのは何か違います。ああいうのは2人で覚えてて意味があるんだもの。
お店で売ってるサンドイッチをバスケットに詰め替えてくるって手もあるけれど、……どうかなぁ。それはそれで小悪魔っぽいけれど、味を褒めてもらっても嬉しくなくなっちゃうから却下。
とにかくまだタイムリープの回数は残っているんだから、原因を絞り込む余地はあるはず。
落ち着こう。まだお弁当をボツにするような残数じゃない。
よし、これでいこう。
そう決意して、あたしはまた今朝に舞い戻ったのでした。
//////////
お弁当を作る前まで戻って、調理器具と手を念入りに洗って3度目のサンドイッチ作りに励みました。
2度目のときよりも手早く作り終えてすぐに冷蔵庫に保管。
これで食品管理は万全のはず。
キョンさんは今頃朝ごはん食べてるかな。何を食べてるのか気になります。
痛んでるかもしれないから食べないで、なんておかしなこと言い出せないし、そんなこと言い出したら昨日や一昨日の食事だって怪しくなってきてキリがない。
そこはもうあたしの手の及ばないところだとあきらめることにしましょう。
時間が随分と余ってしまったけど、おとなしく家で待機しました。
新しいことをやりだすとまたどんな事故に巻き込まれるかもしれないから。
ミュールを履いて走らなくても済む時間帯に家を出て、コンビニで保冷剤を買ってから店内で自動車をやり過ごして、待ち合わせのキョンさんを連れて植物園に向かって――――――。
また広場でミュールを壊したのはご愛嬌……。全部覚えきるには無理がありました……。
――――――サンドイッチを食べるときにはうっかり涼宮さんに会ったと口に出さないように気をつけて、キョンさんに『あーん』して、成功分岐を辿るように着いた館内展示。
いささか疲労感が拭えません。よく考えれば幾度ものリピートであたしの脳は24時間近く覚醒しっ放しなんだもの、同じことを繰り返すのも楽じゃないし当然かもね。
冷房の効いた高山植物室でチベットの可憐で清々しい小さな花に夢中のふりをしながらキョンさんの顔を伺います。
「こういうのを見に山に行くのも悪くないかもな」
あたしの視線に気づいてこっちを向いたキョンさんの顔は――――、普段と変わらない平常状態。
前回、前々回と違ってこれは新たな展開なのです。ということは、やっぱりあたしが原因? ああ、なんて申し訳の立たないことをしてしまったんでしょう。
でも、原因が分かって回避できてよかった。キョンさんをひどい目に遭わせないで済んで本当に良かった。
大きく息を吐いて、一仕事やり終えた脱力感があたしを襲いました。
でも気を緩めてる場合じゃないのです。とにかくこれで念願のデートの続きができんだから。
「おい」
「……はい?」
「疲れたのか?」
「ううん。キョンさんと一緒に山にハイキングに行ったらどんな感じかなって、考えてただけなのです」
機転で吐いた嘘だけれど、もしそうなったらと本当に思いを馳せてみます。
2人だけで山の奥深く焚き火を囲んで星空を見上げるなんてロマンチックじゃないですか。そして夜は狭いテントに2人で入って寄り添うようにくっついて綺麗な虫の鳴き声を聞きながら――、なんて考え出すとまた妄想が止まりません。
だけども相変わらずキョンさんは持ち前の鈍感さで見事にそんな夢をぶち壊してくれます。
「ハルヒと佐々木、その取り巻き全員で山に行ったらとてもじゃないが収拾つきそうにないな」
もうっ、あたしは2人でって意味で言ったのに全然分かってない。
そんなあたしの心の機微など解しないキョンさんの表情は穏やかで、少し笑いがこぼれていました。少しみんなで行く登山の雰囲気を想像したのかな。
それを見てると憎みきれなくて、自然とあたしの機嫌も直ってしまいます。
ダメだなぁ……、甘いなぁ……、あたし。
本当は自分がキョンさんをコントロールしなきゃダメなのに、と軽く嘆息。
だけど実際に心はちっとも沈んでなくて、それはポーズだって気づきます。
それがまた厭で自分をごまかすようにあたしは次のコーナーに向かうキョンさんの背中を追ったのでした。
//////////
今日のデートを締めくくるのは夜景の見える展望台。
夜景を見ながらキョンさんを堕とす、というプラン自体に変更はないけれど、場所を近場に変えました。
夜景のスポットはいくつかあってその中でも極上の場所があるんだけれど、山の上にあって遠すぎるので止めにしました。
だって山手の方から降りてきたばかりなのに、また山登りなんて疲れちゃいます。
だから小高い丘になったこの公園で妥協。
標高が低いので平面的な景色になってしまうけれど、ここは恋人たちがモニュメントに鍵を取り付けて永遠の愛を誓い合うという恋愛成就あらたかな公園ってのがポイントが高いのです。
らせん状になった面白い橋を登って展望台に着くと、時刻は7時を過ぎてちょうど良い頃合。
大小のビーズを散らしたような綺麗な夜景があたしたちを迎えてくれました。
レストランがあってそこで優雅に食事でもと思ったけれど、残念ながらディナーは一万円越え確実なので高校生のデートにはとても使えません。
「キョンさんお腹空いてないですか?」
「3時過ぎにお前のサンドイッチ食ったばかりだから、それほどじゃない」
というやり取りをしてやっぱり作ってきてよかった思い直したのでした。
丘から張り出した展望台で2人並んで柵に上半身をあずけながら、しばらく夜景にみとれます。
一番手前にはライトアップされて淡く輝くらせん状のスロープがあって、その奥にはビル郡の彩色豊かな光の粒が広がっていて、さらにその向こうには真っ黒な海、そして空と海との境界を縁取る対岸の光はまさに幽玄で、引き込まれてしまいます。
それはキョンさんも同じみたいで正面に広がる圧巻のパノラマに釘付けになっていました。
時間も忘れて別世界に浸れば否が応にも漂うのは甘い空気。
周りに居るのは寄り添って愛を語り合うカップルばかりで、いつでも告白できる雰囲気が出来上がっているのです。
今こそ今日の集大成を組み上げるとき。
「キョンさん……」
「……なんだ?」
肩を寄せて腕を絡ませてみるとキョンさんは少したじろぎました。
だけどその程度じゃこのムードは消えません。
キョンさんの動揺に揺れる瞳を斜め下から見上げてがっちりとロックオン。ちょっとだけ口を開けて小首を傾げて切なげに品を作って追い討ちをかけます。
まるで全身を待ち針で縫い付けられたみたいにキョンさんの身体が強張っているのが腕越しに伝わってくるのです。
うふっ。緊張しちゃってかわいい。
「今日は楽しんでもらえましたか?」
「ああ……」
喉が渇いているのか掠れたキョンさんの声はどこかセクシーで、あたしも雑念を捨てて陶然と身を委ねます。
「今までずっと言いそびれてたことがあるの。初めて2人で逢ったとき、キョンさんは笑い飛ばしたけれどあのときだってあたし本気だったのです。……今日のあたし達結構いい感じだって思いませんでした?」
「…………」
「こんなに遅くまで付き合ってくれたのは、キョンさんだってそれなりに居心地が悪くないって思ってくれたからでしょう?」
ここでそっと離れて少し距離をとりました。軽く一息吐いて間を作ります。
言葉を失ったように見守るだけのキョンさんを前に、祈るように手を胸の前で組んで一番大切な言葉を紡ぐ決心を固めました。
「……あたし、キョンさんのことが……、すっ――――き、――――ッ! …………すきですっ……ひっく!」
――――――――――――――――――――!!!
突然あたしを襲った悪魔のような生理現象。咄嗟に言い直してみたけれど余計に滑稽になる始末。
輝ける夜景はみるみる霞んで目の前が真っ暗になりました。
どうしてこのタイミングでっ、よりによって一番のヤマ場でっ、……しゃっくりが、――ひっく、って止まらない!??
――――夏を飛び越えて一気に秋がやってきたような冷めた風があたしたちの間を吹き抜けました。
辺りに響くのは不規則なあたしの促音だけ。
漂っていた濃密で甘やかなオトナの雰囲気は霧散して名残すらなく――――。、
どうして? なんで? 普段はしゃっくりなんて滅多に出ないのに――――。
目の前で佇むキョンさんは、困りきったようにゆっくり目を閉じて――――。
ああっ、ダメです。違うのっ。やめて。こんなっ、こんなはずじゃ――――。
でも網膜に写るキョンさんは止まらず、どうしたものかと額に手を――――。
ダメ! ダメェェ――――――――――――――――――――――――――。
と心の中で叫んだあたしはもはや反射的にバッグの中で光る『01』の数字を躊躇いなく握り締めたのでした――――。
//////////
……。
…………。
………………。
しゃっくりってどうして出るのかな?
確か肺の下にある膜、あれ何だっけ?
ええと、横隔膜、そう横隔膜の痙攣。
子供の頃よく出てからかわれたっけ。
刺激物食べた後に出やすくなるのよ。
アルコールとか辛子とかそういうの。
最近は全然出なくなってたのになぁ。
直す方法はいくらでもあるのになぁ。
どうして予防方法だけないのかなぁ
生まれてこの方初めてしゃっくりについて真面目に考えました。
結局時間を戻して、事前にたっぷり間を作って時間を変えて、ツバを何回も飲み込んで、1分くらい息を止めても、「好きです」の瞬間にこの謎の生理現象を抑えることはできず……、放心のままに立ち尽くします。
キョンさんに背中をさすってもらいながら、あたしは無為に思考を漂わせて半ば現実逃避して途方にくれるしかないのでした。
ずいぶん長い間キョンさんは何も言わず世話をしてくれたけれど、一向にしゃっくりは止まる気配をみせず、ついに暖かい手があたしからそっと離れました。
「……大丈夫か?」
一拍空けて考えてみたけれど、ただしゃっくりが止まらないだけで身体自体はどうともなく、そう問われればコクンと頷くしかありません。
「その……、なんだ。一緒に帰る……か?」
また一拍空けてあたしは考えます。
1人残されるのは寂しいけれど、これ以上失態をさらし続ける方がもっと苦痛なのです。
この質問にはフルフルと首を振りました。
「どうか気を遣わないでください。――ひっく、あたし――ひっく、もう少しここに残ります」
そうかとキョンさんは返すと、背中を向けてゆっくりと歩き出しました。
だんだん小さくなる姿を思わず追いかけたくなるけれど、じっと耐えるしかありません。
視線を足元に落して、唇をかみ締めながらひたすら忍びます。
だけど溢れかえる悲壮感はどうしようもなくて、9回もやり直した挙句、こんな終わり方って――――、と押しつぶされそうになったそのとき、
「橘」
不意に掛けられた声に顔を上げると、少し離れたところで振り向いたキョンさん。
「今のは忘れる。だからお前も忘れろ。なんか前も似たようなことがあったけど気のせいだ。今日は植物園から戻ってきて別れたってことにしとこうじゃないか。……サンドイッチうまかったぜ。この夜景も捨てがたいけど芋づるで思い出しちまうからダメだ」
キョンさんの瞳には憐れみも蔑みも同情もなく、向けられた視線はただ真摯でまっすぐ。
「キョンさん」
その毅然とした態度にあたしの中の何かが呼応しました。
くたびれて折れそうになっていた何かが奮い立って応えたような、そんな感覚がしたのです。
「真剣なやつには俺も真剣に相手してやる。だから――――」
そこまで言いかけてしばらく逡巡して、やがてキョンさんは自分で打ち消すかのようにかぶりを振って身を翻して再び歩き出しました。背中が完全にこっちを向く際に軽く片手だけ挙げる合図だけ残して。
頬に熱を感じながらあたしはそれを見送るだけ。
キョンさんは言い切らなかったけれど、何と続けたかったのか分からなかったけれど、あたしは改めて言葉が欲しいと思いませんでした。
だって、キョンさんのハートを感じられたから。
クールで固めてる普段からは想像もつかない熱い気持ちを身体全体で受け止めて四肢の隅々まで染み渡らせます。
喉から断続的に出てくるしゃっくりなんかもうどうでもよくて、出るに任せたまま。
夜景に背を向けて放射状に何本もの長い影を伸ばしたまま、心を蝕んでいた呵責の念が洗い流されていくような心地よい感覚に身体を解き放ったのでした。
自分の中で整理をつけて帰り道を一歩踏み出そうとしたそのとき―――――――――、舗装の上を滑り込んでくる人影の存在に気づきました。
「残念でしたね」
反射的に身を震わすあたし。
思えばもはやお約束の展開ですけれど、何度繰り返されそうが慣れそうにありません。
誰だろう。聞いたことあるような、ないような不思議な声。
怪訝に思いながら顔を上げると、スーツ姿に身を包んだ大人の女性が立っていました。
……知らない人。
直感でそう思ったけれど、軽くウェーブがかかった栗色の髪と、シャツを押し上げる大き過ぎるバストに記憶が呼び起こされます。
「あ、朝比奈さん?」
「ご名答です。その節は本当にお世話になりました」
成人した朝比奈さんは大人特有の隙のない愛想笑いを浮かべて軽い会釈してみせました。
その内に隠された感情は……、巧みに隠蔽されていて全く読み取れない。
分かったのはこの台詞がどうとっても皮肉のほか何物でもないってことだけ。
「何の用ですか?」
あたしの問いに朝比奈さんは目をパチクリとさせました。
けれど、それはほんの一瞬の表情、またすぐに本性不明の柔らかい笑みに戻ります。
どこまでも和んだ雰囲気に呑まれてあたしは戸惑いました。
変だな。警戒しなきゃ、いつでも逃げられるようにって考えとかなきゃって思うのに、抑えつけられたように警戒心が沸いてこないのです。
朝比奈さんは変わらず世話話をするかのようにのどかな調子で切り出してきました。
「時間法って知ってますか?」
「はい?」
「うふふ、知らなくて当然よね。ごめんなさい。つい、意地悪したくなっちゃいました。でもなんとなく感覚で分かるんじゃないかな。時間は個人の勝手で自由に戻したり進めたりしちゃいけないってこと」
会話を振っておきながら、まるであたしに取り合うつもりはないと言わんばかりに、ひとりで話を進める朝比奈さん。
しかし、言葉を拾っているとなぜこのタイミングで彼女があたしの前に現れたのか、薄々気づける部分があって急に背筋が寒くなりました。
だけども相変わらず危機感に迫られないあたし。
なんで? どうして?
混乱の渦中にあるあたしに朝比奈さんはヒールを響かせて歩み寄ります。手を後ろに組んで、まるで庭を散歩するような間延びした足取りで。
大人の朝比奈さんは背が高くて、その足が進むたびにあたしの身体がその大きな影に侵されていくのを目の当たりにしてようやくあたしはギョッとできました。
しかしそれも刹那のこと、身体は石膏で固まったように動かず肩に触れられても身じろぎひとつすることができません。
うまく言い表せないけれど、何が怖いって理解が追いつかないまま身体が竦んじゃってる……ような感じ?
「未来人のあたしが登場した時点でなんとなく分かるでしょう?」
肩に手を置いた朝比奈さんは横目でそう語りかけてきました。
潤滑油が切れたようにぎこちなく瞳を動かして視線が合うと、目を細めてにっこり微笑みを返してきます。
けれどちっとも和まない。それはもう異様ともいえるくらいに。
朝比奈さんは不意にくるりと身をターンさせてポールダンスを踊るようにあたしの背後をとると、後ろから首に手を回して抱きすくめてきました。
ビクンと撥ねたあたしの身体。本能が一瞬だけ身体を動かしたように思えました。
朝比奈さんは力を抜いていて、両腕の束縛そのものは格好だけ。
だけど朝比奈さんが少し体重を預けて来た瞬間、感じたのは芳しい香水の匂いや起伏豊かな柔らかな人肌の感触なんかじゃなくて、
ズォォオォォォン!
と圧し掛かる凶悪なまでの精神的な重圧!
「ひっ」
と声が漏れて初めてあたしの心は身体が何に怯えていたのかようやく理解に及びました。
背中越しに流れ込んできた感情はすべてを塗り潰してしまいそうな消し墨よりも明度も艶もない暗黒の濁流。
自分のしでかした罪の重さが伝わってくる心地がします。
巧妙なる偽装でカットオフされていた彼女の怒りやら恨みやら、……嫉妬やらあらゆる負の感情を真っ先に見抜けなかった自分を責めました。
だけど心と身体に恐怖がくまなく行き渡った今、あたしにできることはカタカタと膝を笑わせながら立ちすくむことしかありません。
「うふふ、オシオキの時間ですよ? 彼も待ってます。行きましょうか?」
耳元で囁かれた艶っぽいその吐息が耳朶を撫でて、言葉が鼓膜を振るわせた瞬間、ぞわりとした感覚が身体の中を這い回りました。
ついでに飛んでいきそうになった意識のしっぽをなんとか捕まえたけれど、いっそのこと気絶した方が幸せだったかもと後悔します。
魂の抜けかかったまま、朝比奈さんに手を牽かれてトボトボと歩き出すあたし。
おかしいな。あたしの思い描いていたエンディングと違う。全然違う。
これじゃまるっきりサスペンスドラマで警察に連行されていく殺人犯のシーンなのです。
映画のラストはもっとしんみりだったはず。
キョンさんを見送ってあのまま、悲しいけどちょっと幸せ、みたいな気分に浸るはずだったのに。どうして、どうしてこんなホラー風味に……
「あ、朝比奈さぁん。台本はちゃんと読んでくれないとこま、――イタッ!」
口を開いたとたん拳固が飛んできました。こめかみに青筋を躍らせてにっこりの「に」に濁点をつけたような刺々しい笑みを浮かべた朝比奈さんはあたしを問答無用で夜景の舞台から退場させます。
えーん。こんなのあんまりなのです。
ドキュメンタリー作品『時をかけるあたし』は、こんな感じで半泣きのまま締まりのない幕を迎えたのでした。くすん。
まずいなぁ。笑いが止まらないのです。
晴れ渡る空で瞬く星の下、あたしは凱旋行進のように意気揚々と家路につきます。
吹き付けるそよ風が心地よくて、頭で結って垂らした二本の尻尾を拍子よく揺れて、心をよりいっそう躍らせました。
気分が良い時には何事も鮮やかに明るく輝いて見えるのです。
ありふれた街路防犯灯の素っ気無い白い光が神々しく見えるくらい。
電柱の下のスポットライトであたしは立ち止まって、携帯を掲げて紐で繋がっているガラス玉を目の前で揺らしてみせます。
その表面に写りこむのは球面に伸ばされて間抜けに磨きがかかったあたしのニヤケ顔。それすらも愛らしく見える始末。
ストラップのように見せかけているのはフェイク。この球には他言無用の真の機能が隠されているのです。
こんなに易々と手中にできるとは思ってませんでしたけど、無理も試してみるもんです。
一目には確かに100円ショップで並んでるような安っぽいガラス玉のアクセ。小学生でも喜ばないくらいにちゃっちい。
だけどその球の中空には三次元的に浮かび上がる不可思議な『09』の文字。つつくと面白いように中の文字が宙をクルクルと回ります。
うふっ、カワイイ。妙にハマって連続で上手く回そうと小突くタイミングを計って思わず遊んでしまうあたし。
原理はさっぱりですけど、その輪郭が僅かに揺らぎながら淡く発光していていることからなにかしらの方法で文字が映し出されていると思うの。ホログラフィーに近いようなそんな感じ。
こんなの見たことがないのです。現代の科学が到底及ばない未来の技術だからこそ成せるものだと確信が持てます。
そんな異彩を放つガラス玉を目の前で揺らしながら再び歩みを前へ。電柱の照明範囲から出て闇に包まれると、透けてまるで数字だけが空中に浮いているかのように惑わされます。
その様はすごく幻想的で、あたしは性懲りもなく自ずとうっとりと見入ってしまうのでした。
//////////
七月某日。
機関の活動は相変わらず行き詰まっていて計画は遅々として進まず、閉塞感すら漂い始めました。
今日だって本当は定例会があるはずなのに上げる議題がないからと中止になる体たらく。
ああ、なんて情けない。
こうなってくるとまた強攻策に走らざるを得ないなんて不穏な考えがよぎるけれど、それも能がない話なのです。
ようやくキョンさんの誤解も雪解け間近なところまで漕ぎ着けたというのに、ここでまた乱暴に事を運んで失敗でもすれば今まで以上に事態は悪化するのは必至。
そうなればあたしが今まで失敗続きの中で四苦八苦して育んできたこの実りがすべて無駄になってしまうのです。
しかしリスクを恐れていては何も変わらないのも事実で、ここんところこの板ばさみなのです。
そこにきてあたし自身が作戦の連敗で挫けてるから、もうどうしようもない。
厳密に言えばキョンさんを見送った後にあたしに訪れる報復行為が一番堪えてるのです。どうして毎回決まったように会っちゃいけない人があたしの前に現れるのかなぁ。
前回の九曜さんには色んなモノを色んなトコから色んな風に……、って止しましょう。思い出すだけで気が滅入る……。
どうしていつもドジを踏んじゃうんだろう。もう少しってところまでは毎回イケてるような気がするんだけれど、後一歩のところでしくってる気がするのです。
運のせいにするつもりはないけれど、なんだか凹みきってしまってもう一回リベンジっていう気力が湧いてこない。
奥の手にとっておいたポニーテールも使ってしまったし、秘策は全て出し切ってしまいました。作戦がないと動きようがありません。
……、あたしどうすればいいんだろう。
って、ダメダメ。また気分が沈んでくるのです。
せっかくオフになったんだから、気分転換でもしないと。
拳骨を作って頭を小突いて仕事のことを頭から追い出します。
たまにはゴールデンタイムにテレビを観てダラダラするのも悪くありません。
茶筒を傾けて急須にお茶っ葉をサラサラと適当に流しいれて、お気に入りのちゃぶ台に置いたポットでお湯を注いで、コンビニで買ってきたかりんとうを引き寄せれば、和む準備は完成。
テレビの電源をつけてリモコンを押す指に任せてチャンネルを回します。
ドラマは初回から観てないのでパス、スポーツも興味ないのでパス、そうやって切り捨てていくうちに、ピタリと指が止まりました。
あ、いいえ、止まったのは正確には指じゃなくて目。
画面に描かれた精緻で鮮やかな背景絵にあたしは釘付けになってしまったのです。安いテレビでも十分に魅力的に写るくらい人を惹きこむ力のある画。
なに、これ? アニメ? 映画?
反射的にあたしは時計を見ます。
確かにヒット作の映画上映番組枠がある時間帯だけど、こんな映画知らないなぁ……。
でも、なんか絵が綺麗だし、主人公が年の近い女のコだし、親しい友達の男子が二人居て雰囲気からして青春モノ、かなぁ? 面白そう……、そんな軽い気持ちで自然と画面に引き込まれていきました。
…………。
……………………。
…………………………………………。
エンドロールはおろか提供番組コールまできっちり見送って、コマーシャルが始まってようやく我に返りました。
あたしは感動のあまり涙と鼻水でくずくずになっちゃってて、ティッシュで何度も自分の顔を拭ったけれど、次々と溢れてきて全然止まりません。
ああ……、ダメ。
あたしこういうちょっと切ない系の話には弱いのです。
ものすごく要約すれば、女のコはすれ違いを重ねた末に親友の男の子の内の1人とようやく気持ちを通わせるに至るけれど、その男の子は実は未来人で自分の生きる時代に帰らなければならず別れがやってくる、そんなお話。
2人はまた逢おうって誓うけれど逢える保障はなくて、でも別れないといけなくて、ってところがホロリとくるのです。
主人公の女のコの気持ちがよく描かれていて、あたしとは全然性格が違うタイプの娘だったけれど思わず感情移入しちゃいました。
物語の中で軸を成すのがタイムリープと呼ばれる時間遡行。
女のコはひょんなことから時間を巻き戻せる能力を手に入れて、時に遊び半分に、時に他人を救うために時間をまたいで奔走するんですけど、展開が読めなくてお茶とお菓子の存在を忘れて見入ってしまったのです。
ああ、あたしの身の回りにもこんなドラマチックな展開はないものかなぁ。
あたしならもっとうまいこと時間をやり繰りして、2人のイケ面男子とうまいことやりつつウッハウハ――――、って虚しいからヤメヤメ。
でも、タイムリープはうらやましい。この能力があれば失敗に気づいた時点で何度でもやり直せるんだもの。どんな不運や苦境も向かい風すらも関係なし、全部やり直して事前に潰してしまえるのです。
これこそあたしに必要な力、どうせならこういう超能力が欲しかったのになぁ。
「ふぅ……」
無念さと虚しさに思わずため息が漏れてしまいました。
そうだよね。時間の壁を越えるなんて都合のいい能力、そんなのはアニメの中だけの――――、って、待って。
「いるじゃない! 未来人!!」
ここまで考えてようやく思い出すなんて、我ながらなんて鈍い……。
これじゃキョンさんのこと言えないのです。
そう、あたしのごく身近に時間を越えて現代に来てる人が居たのでした。極めて非協力的で、ろくに能力を見せてくれたこともないからすっかり忘れてた。
自称『藤原』さん!
あれほどらしくない未来人も珍しいんじゃないかな。
あたしの中ではすっかり理屈っぽい嫌味なイメージが先行し過ぎて、未来人なんていう属性は完全に抜け落ちていたのです。
灯台もと暗しとはこのこと。
彼ならあるいはこのあたしの夢を現実にできるかもしれない。
そう閃くと、時間など気にする余地もなくあたしは携帯を開いて彼を呼び出したのでした。
藤原さんは電話に出てくれたけれど、時間も時間だったこともあって輪を掛けて不機嫌でした。
用件はなんだと急かされましたけど、大事な話があるので是非とも会って話をしたいと粘りに粘って約束を取り付けました。
今から待ち合わせってところで当然ひと悶着ありましたけど、急を要する話と押し切りました。
じゃあ今すぐ電話で話せよってことになるけど、そこをなんとかするのが交渉術なのです。
意外と話し込むとヘタレな彼の一面を垣間見ることができるの。居丈高な藤原さんだけどつけ入るところは結構あるのかもしれません。
深夜の公園の噴水前で待ち合わせ。
約束の時間よりも随分前に着いてしまったので、藤原さんを待つことになりました。
時間を計算せずに電話を切ってからすぐに家を出たことを少しだけ後悔しました。
夜の公園はお世辞にも居心地が良いとは言えず、女のコ1人で人を待つのはちょっと怖くて、こうなるのは不本意ではあったけど、居ても立ってもいられなかったから仕方がないのです。
だって、夢見たアイデアが現実のものとなるかもしれないのよ?
浮き足立つなって方が無理があるのです。
約束の時間を5分だけ過ぎて並木道の向こうから歩いてくる藤原さんの姿を見つけました。その足取りは遅くて、うわ……、いかにもダルそう。
ん~、もうっ、待ってるあたしが見えてるんだから早く来てよ。
「遅いです!」
「何を言う。こんな時間にいきなり呼び出す方がよっぽど非常識だ」
藤原さんはカジュアルシャツをチノパンにインさせて、いつも通り隙のないスタイルで登場。
憮然とした表情で傲岸不遜にあたしを見下ろしてきます。
「それは重々承知なのです。それだけに値する話をさせてもらうつもりだから」
「ふん。やけに自信ありげだな」
「当然」
人を食ってかかるような藤原さんに呑まれない様にあたしは胸を張ります。さぁ、ここからが自称策士、橘京子の腕の見せどころ。
「春先からあたしが単独でキョンさんを篭絡しようと企ててることは知ってますよね?」
「企てなどと称するに足りえる高尚なものなのか? 僕が把握してるのはお前が滑稽な一人相撲をとってることだけだ」
――っむかつく~! でもダメ。冷静にならないと。こんなのいつものことなのです。藤原さんのペースにはまってしまわないようにしないとっ。
長ったらしいノイズを取り除けば要するにイエスということね。
変に曲解してくるのなら、こっちだって自分勝手に解釈して対抗してやるのです。
「今回はあなたに協力を願いたいの」
「ふん、何を言い出すかと思えば。何度も言っただろう? 現地人と共闘する気などないと。ましてやお前の計画性のまるでない行き当たりばったりに僕が手を貸すとでも思ってるのか?」
予想はしてたものの藤原さんの態度は強硬で、これを切り崩すのは一朝一夕じゃ無理ね。
けれどこの反応は最初から見込んでいたこと。あくまでも形式的な切り出しでしかありません。
あなたが非協力的なのは当初から分かってるもの。ここに来て今更このヒネくれものを性根からどうにかしてやろうなんて面倒なことはやりません。
変則的な手合いは搦め手で生け捕ってやるのが一番。
一転、あたしはお手上げのジェスチャーで引いてみせました。まるで誰かさんを真似るかのように。
食ってかかってくると予期していたのか藤原さんは少し調子を外されたたしく、その表情が少しだけ揺らぎます。
鳴かぬなら、鳴かせてみせようホトトギス。
だけど、やり方はちょっとだけ乱暴。懐柔ではなく外堀を埋めさせてもらうわよ?
「レンタルビデオショップ」
まっすぐに藤原さんの目を見ながら、その瞳の奥の動きを追うようにあたしは1つのキーワードを口にしました。
だけどさすがに唐突過ぎたらしく、藤原さんは訝しげに目を細めるだけ。「なんだこの女、気でも触れたのか?」みたいな視線を容赦なくぶつけてきます。
ふふふ、その顔いつまで続くかな?
「興味深い話を耳にしました。1ヶ月くらい前の話ですけど、あたしの部下が商店街のレンタルショップで藤原さんを見かけたそうです。ビデオ鑑賞がお好きなんですね。さすがは未来から来たお人、趣味が『高尚』だなぁ……、あたしと違って」
そう言い放った瞬間、面白いように藤原さんの背筋が伸びて表情が歪みました。
ふふ……、ギクリという擬音が聞こえてきそう。
ちなみに最後の嫌味はおまけ。仕返しなのです。
喫茶店で九曜さんと喜緑さんのやりとりを見て独り大爆笑した藤原さん。
何がそんなにってのは置いといてウケたってことは意外の裏返し。つまり、未来から来た彼だけど歴史の通過ポイントや流れは知っていても、すべての事象を逐一把握しているわけではなさそうってことなのです。
そうなれば彼を嵌めることだってできるわけで、思い切って試してみたけれどビンゴだったみたいね。良かった。
仰け反った藤原さんにさらに追い討ちをかけるかのように、あたしは携帯を開いて1枚の画像を見せます。
「ちなみにこれがその時の写真です。でもこの写真変なんですよねぇ……。そこからじゃよく見えないかもしれませんけど、藤原さんがいるこのコーナー、18歳未満立ち入り禁止のはずなんです。なんかの間違いかなぁ……」
わざとらしく人差し指を頬に当てて悩んだふりをしながら、斜めから掬い上げるように藤原さんを覗いました。
薄暗い夜闇に青ざめた顔を浮かび上がらせる藤原さん。よく見ればその肩はプルプルと小刻みに震えて動揺が隠し切れない様子。
ここまで余裕がない彼を見るのは初めて。さすがにこれは効果的だったのです。
そうだよね。アダルトコーナーをうろついてたってだけならここまでうろたえもしないだろうけれど、この写真にはその他の致命的な要素がてんこ盛りなのです。
藤原さんが向かい合ってる棚の品のない色使いのポップには……、その……、『熟女特集』と記されてるわけで……、しかも彼はその棚の商品を手に取っちゃってしっかり裏返して真剣に品定めしちゃってるわけで……、色々と救いようがないのです。
「状況解説要ります?」
「そ、それをよこせっ!」
「わっ!」
目を血走らせて半狂乱のままあたしの携帯を奪い取ろうと藤原さんが掴みかかってきましたけど、なんとか反応できて後ろに跳ぶことで難を逃れました。
動きは案外遅くて鈍いように感じたけれど、追い詰めすぎは禁物かな。
「待って。落ち着いて。一方的にこれをどうこうしようって腹はないのです。ただあんまりあたし達をナメないでってこと。写真を見せたのは今一度あくまで立場は対等ってことの再確認ってことだけよ」
そう言ってパチンと携帯を閉じました。
「……引き換えの条件はなんだ?」
少し平静を取り戻した藤原さん。
あくまで対等だと言っておいてこの展開は自分でもおかしくなるけれど、ふふ……、あなたのその冷静な一面は美徳だと思います。
「最初の公言通りあなたの協力を仰ぎたいの。まずはあたしの話を真剣に訊いてくれる?」
こうして、あたしはようやく本題に入ったのでした。
//////////
「バカなことを……、これだから感化されやすい俗人は始末に負えない」
立ち話も何なので、近くのベンチに腰掛けて話を始めて、ことの顛末と提案を一通り話し終えて藤原さんから返ってきた第一声がこの言葉。
この期に及んでまだ毒が出るとは筋金入りね。
「でも、どうしても試したいの。これぞあたしの瑕疵を補完する夢のようなアイテムなのです。こういうのって実際にあります?」
核心を前に藤原さんは口元を引き締めて俯きました。正直に話すかどうか迷ってるようなそんな感じかな。
「……あるには、ある。時間軸上情報転送装置、通常の時間移動とは全く異なる原理を用いて情報だけを過去に転送するものだ」
「情報……転送?」
「ふん」
鸚鵡返しするだけのあたしを藤原さんは冷たく一瞥して、さもうざったそうに鼻を鳴らしました。
見るからに人を馬鹿にしている態度。
カチンとくるものがありますけど、ガマンガマン! ここは聞き役に徹しないと。
「一般的に時間移動とは物質を伴う移動を指す。僕自身がこの時代に来ているのがその証拠だ。もっと分かりやすく言えば、異なる時間軸に居る自分に会いに行けるタイムトラベルを意味する」
「過去に行って赤ん坊の自分や未来に行って大人になった自分に会いにいけるってこと?」
「そうだ。だがこれはお前が映画で見たものとは性質が異なる。どこが違うか分かるか?」
こう問われてピンとくるものがありました。確かに違うのです。
映画の主人公の女のコがやっていたタイムトラベルは、未来の情報を持ったまま過去に巻き戻るというもの。移動ではなく巻き戻し。この点が藤原さんがやってるのと違う。
そうか。一言にタイムトラベルと言っても色々あるんだ。
「つまりお前が望む行為は俺が今持ってる装置では成し得ないってことだ。もしやるとしたら別の代物を用意する必要がある」
「その装置を貸してもらうことはできないの?」
「僕の時代でもまだ確立していない途上の技術だ。そんな実験段階の危ないものを易々と貸し出せるわけないだろう。諦めろってことだよ」
……うーん。なんだかやるせない。
だって、要するにあるけど貸せないってことでしょ? なんて中途半端。いっそないと言い切ってくれた方がよっぽど割り切れます。
貸すという単語が出てくるくらいだから、なんとなく手にすることもできないような機密ではない雰囲気がするんですけど、これは勝手な解釈かな。
どっちにしろもう少しつついてやるのです。
「本っ当に貸せないんですか?」
「くどい」
「……無理にでも持ってきて、って言ったら?」
少しだけ目を眇めて研いだ眼光で藤原さんの瞳を射抜きます。
さっきの脅迫まがいを思い起こしたのか。藤原さんが息を呑むのが分かりました。即否定が返ってこない。
「釘を刺しておきますけど、本当に無理かどうかは調べればすぐに分かることよ? 機関の諜報能力を甘くみないで欲しいのです」
ブラフをばっちり打ってあくまでも自分優位にあたしは最終審議に入ります。
毎回やりにくいキョンさんの相手を務めてるのは伊達じゃないのよ。
「もし嘘だとバレたら……、怒りのあまりどうにかなっちゃって、さっきの写真をキョンさんに送っちゃうかもしれません。DVDのパッケを手に取りながらおっしゃったあなたの素敵な独り言の台詞付で。なんてこぼしたか覚えてます?」
頬の筋肉を目いっぱい引きつらせて目を剥く藤原さん。
さぁ、出てくる答えはシロ? それともクロ?
あたしは携帯のメモに記録した目を疑うような台詞を棒読みで読み上げるように聞かせます。
本当にこんなこと口にしたのかなぁ?
「『こ、これがまぼろしのだんちづましりーず……、このじだいはきせいがあまいとはみみにしていたが、まさかこん……』」
「わ――――――! やめろぉ――――――!! 持ってくる! 持ってくるからやめてくれ」
大慌てで口を塞ごうとする藤原さんを身を捩ってかわしつつ、やっぱり本当だったんだと呆れつつ、あたしは口元を歪めたのでした。
//////////
こんな風に策を実らせて手に入れたのがこのガラス玉ストラップ、のように見える『時間軸上情報転送装置』。
先ほど藤原さんから譲り受けたものです。3日ぶりに会った藤原さんは少々痩せこけてくたびれてたように見えましたけど、それは気のせいってするのが小悪魔のたしなみ。
『09』という数字は残りの使用回数を示します。キリの悪い数字なのは早速あたしがさっき試しに1回使ってみたから。
本物かどうかを検めるという意図もありますけど、本番でいきなり使うのはリスキーだし、あらかじめ感触をつかんでおくのは作戦を立てる上で重要ですから。
使った感想はというと、……んー、なんて言ったらいいんだろう、……地味だけどすごい?
あたしの想像はもちろん映画が基準なわけで、映画のように主人公の女のコが勢いよくジャンプするのがきっかけで時間移動が巻き起こる、といった感じのものを無意識のうちに期待しちゃってたんですけど、この装置はそんなドラマティックな要素と無縁のもの。
時計が無数に並んだ空間を飛ぶとか、風景がすごい勢いで巻き戻っていくとかそういうスペクタクルは一切なし。
ただガラス球を手のひらにぎゅっと握りこんで巻き戻したい時間を念じるだけ。ちょっとした立ち眩みを感じるだけで、目の焦点が戻ればハイ到着、こんな感じ。
なんとも華がない。そう言った意味で地味。
未来の技術なのに夢がないのはいただけません。
けどまぁ、プラス思考をすれば身の丈に合ってると言えなくもなくて、走ったり駆け上がったりジャンプしたりというのは正直あたし向きではありません。
途中ですっ転んでなんだかよく分からないままにぐだぐだでタイムリープ! なんて十分にありえるのです。ああっ、その姿が目に浮かぶよう……、格好悪すぎる。
ダメなイメージを打ち消すようにおでこを手のひらで叩きました。
……とにかくっ、これであたしは時を操る能力を得たのです。
試しに待ち合わせの前まで戻って装置をもらう前に藤原さんに機能を説明して差し上げると、さすがの彼も驚いたらしく目を丸くしました。事情を知ってるだけにほんの一瞬でしたけど。
ちなみにこの装置では過去に戻ることしかできません。しかも現在時刻から12時間以内という限定つき。元々イリーガルっぽい代物だけにこのあたりは仕方ありません。
詳しくは分かりませんけど、あんまり派手にやると時間を管理する組織とやらに発覚する可能性も高くなっちゃうんだって。
途中で邪魔が入るのは望むところじゃないので、あたしも納得しました。
この仕様で大して支障が出るとも思えないし、これで十分。
携帯をスカートのポケットに仕舞うと、あたしは唇をぎゅっとひきしめました。
『無限の告白作戦』、満を持して発動!
小悪魔系真超能力者、橘京子のチカラを篤とお見せしちゃうのです。
さぁキョンさん! 今回という今回は逃さないわよ。
//////////
3回目ともなればキョンさんを誘うのも手馴れたもので、相変わらず電話とメールでガンガン押しまくって約束を取り付けました。
力技だけど何度も何度もお願いすれば案外根負けしてくれるのがキョンさんの良いところなのです。
土曜日に電話したとき、たまたま急遽日曜日の予定が消えた直後で、すかさずスケジュールを埋めさせてもらうという形で約束を取り付けました。
急な話だったけど、あたしの方は準備万端なので願ったり適ったり。
幸先がいい、今回は流れそのものがあたしにキている、そう思ったりしたのでした。
……にもかかわらず日曜の昼前に夏を意識して買ったばかりのミュールのかかとでけたたましく坂道を蹴って下るあたし。
道路のあちこちにできた水溜りを避けながらあたしは走ります。深く眠ってたので気づきませんでしたけど昨日の深夜に雨が降ったみたい。
本格的な夏の到来を感じさせるほど日差しは強く、アスファルトの照り返しも半端じゃありません。お肌が焼けちゃうかも……、でも暢気に日傘など差してる余裕などありません。
待ち合わせに間に合うかの瀬戸際なんですからっ。
なりふり構わず汗だくになって疾走します。ああ、もうっ、お化粧が台無し。こんな顔キョンさんに見せられないかも。
でも、こんなことでイチイチ時間を戻していたらキリがありません。
すぐに喫茶店に入ればお化粧はなんとでも直せます。間に合う可能性が残っている以上急ぐしかないのでした。
断っておきますけど、普段からあたしは決して時間にルーズじゃありません。遅刻なんてもってのほか。そうでなきゃ機関の幹部なんて務まらないもの。
だけど今日は自分のスケジュールを律する体内時計が狂ってしまってました。
言い訳するつもりなんてないけれど、原因は例の装置の存在が一枚どころか何枚も噛んでいることは間違いないのです。
その気になれば時間は戻せると無意識のうちに隙ができてしまっていたにちがいありません。
間に合うかなぁ。ギリギリかも。
電話で遅刻を知らせることができればいいんだけど、何回コールしても出てくれなかったのです。
仕方がないので、
『ごめんなさい、ちょっとだけ遅れます。待っててくださいね? お願いですよ?』
とメールを入れておきましたけど返信はなし。……不安になるのです。
キョンさん、まさか約束そのものをすっぽかすつもりなんてないですよね? ね?
インクの染みが広がるようにじわりと胸の奥が疼いて、切なさに押しつぶされそうになるけれど、ハッと気づいて踏みとどまります。
勝手にキョンさんを疑い始めるなんてどうかしてるのです。
今まで厭々ながらも2回ともちゃんと来てくれました。信じなきゃ。
とにかく電車に間に合うことだけ考えるのです。
このペースで駅まで行って予定の電車に乗れれば最低でも2、3分程度の遅れで着くはず。数分程度ならいくらなんでもキョンさんも待ってくれるはず。
手首を返して時計に目にやりつつそう言い聞かせながら、信号無視で一気に加速して横断歩道を突っ切ろうとしたその時でした。
――――ブチッ!
引きちぎれたような不吉な音がして、あたしは大きくバランスを崩します。
きゃっ! わっ! ととっ……!
前のめりにたたらを踏んで、なんとか転ぶのだけは免れました。
え? 何? つまづいた? 違う、もしかして……。
厭な予感を覚えつつも足元を見下ろすと、ヒモが切れて無残な姿に変わり果ててしまったミュール。
ヒールが高めでオフホワイトが基調のかわいいやつなのです。ベルトがチューブとヒモが組み合わさってできてるんだけれど外側のヒモが根元から半分以上ブッチリいっちゃってる。
決して安物なんかじゃないのです。使い方をまずっただけ。ミュールはこんな風に全力疾走に耐えるようにできてないもの……。
買いたてのお気に入りが台無しになって凹むあたし。だけど、それどころじゃないことに気づきます。
靴がこんなんじゃ間に合わない。それ以前にデート自体できないのです。
ケンケン足で待ち合わせ場所に向かう間抜けな自分の姿を一瞬思い浮かべて大慌てで打ち消しました。冗談じゃない。
どうしよう……時間を戻す? 戻すとしてもいつまで戻す?
悩みます。昨日の夜まで戻るのは簡単。
早起きしてテキパキ準備をこなせば遅刻のリスクそのものをなくせるけど、遠足前日のような明日が待ち遠しくて心休まらない気分をもう一度味わって、おやつにつまんでもらうために作った慣れないサンドイッチを作り直すのは気が重いのです。
……、5分だけ戻ってもっとそっと走ろう。
そう決断したあたしは虎の子のガラス球を携帯ごと取り出して、手のひらに収めました。
まさかこんなに早く使うなんて思いもしなかったけど、こんなときのための転ばぬ先の杖。
『5分――――』
と念じてあたしの意識は跳ねたのでした。
//////////
不意にチューニングが合ってテレビの画面が急に写ったように視界に飛び込んできたのは上下に揺れる景色。
それに遅れて酸欠による苦痛と、脚の筋肉痛を知覚して、あたしは今走っていることを認識しました。
目の前50メートルに迫る交差点は、さっきあたしが立ち往生した場所。
それに気づくとがむしゃらに走るのを止めました。
ミュールの紐になるべく負担がかからないように注意しつつ、スピードをセーブ。
紐の状態は――――、大丈夫みたい。さっきみたいに無茶をしなければきっと大丈夫なのです。
一度目より遠慮がちに、小走りに赤信号を渡って歩道の直線コースに入ったところで定期入れを取り出して、それをリレーのバトンのように持ちながら疾走します。
角を曲がれば駅の入り口はもう目の前で、人が居ない改札にICカードをたたきつけて突入。
電車がホームに入ってくる音を耳にして、ギリギリなのを悟りました。
えぇー? や、やばいかもっ!
上り階段上がった時点で発車のベルが鳴り出して、焦りが極限に達します。
このままじゃ間に合わない。一か八かのラストスパート!
勝負に出たあたしはリミッターを解除して残りの十数段をがむしゃらに駆け上がったけれど―――――――、ホームであたしに突きつけられた光景は既にドアが閉まってゆっくり走り出してしまった電車。
………………。
ちょっと待ってよぉ。タイムリープまで使ったのにぃ。
呆然としてを見送るほかなく、息を整えることも忘れて駅のホームにぽつねんと取り残されて立ち尽くします。
顔を伝う汗が雫になって落ち、ようやくあたしは我に返りました。
次の電車はっ!?
電光掲示板を確認すると、次発は13分後。
駅から待ち合わせ場所までの時間を考慮したら15分くらいの遅れ?
うーん……、待っててくれないかも。
そうだっ、タクシーはどうかな。お昼のこの時間、道が空いてるとは思えないけれど10分以上待つことと比べたら早いかもしれません。
お金がどうとかは二の次。んんっ、もう! どうして最初から思いつかなかったんだろう。
散財でも時間優先を踏み切ったあたしは改札を出ると、こぢんまりしたバスターミナルでタクシーを探します。無駄になってしまった運賃がつらいけど、お金を払い戻してる暇はありません。
……あった! よかった、ここで1台も居ないとかなると目も当てられないのです。
少しだけ安堵したあたしは急いで駆け寄りました。
車で結構詰まっている国道を運転手さんに無理言って飛ばしてもらいました。
間に合うかどうか気が気じゃなかったけど、この僅かな時間も有効利用しないとダメ。
だって今のあたしお化粧も髪もボロボロなんだもの。タクシーを降りて颯爽と登場したのに、身だしなみがぐちゃぐちゃなんじゃコントみたいになっちゃう。そんなんじゃムードも何もないのです。
バックミラーに運転手さんの冷たい視線を感じながらも、手鏡を片手にせっせと最低限直せたところで待ち合わせの駅前の風景が飛び込んできました。
時間はっ……、待ち合わせに10分遅れ。
さすがに間に合いませんでした。でもっ、電車で来るよりは早く着けたのです。
手元もよく見ないまま化粧道具をカバンに押し込んで、定番の待ち合わせ場所になっているファッションビルの入り口付近にキョンさんの姿を探します――――、いない。
支払いを済ませてドアが開くなり滑り降りるようにタクシーを飛び降りて、待ち合わせのショーウィンドウ前まで駆けたけれど、やはりキョンさんを見つけることができません。
どうして? ひょっとしたらキョンさんも遅れてる?
そのとき、バッグの中で携帯が震える音が聞こえました。弾かれたように反応して急いで取り出すとメール着信の表示。キョンさんからだ。
どうか『俺もちょっと遅れる』といった内容であることを祈りながら、おそるおそる内容を確認します。
しかし、そんな祈りも虚しく突きつけられたのは、
『5分待ったが、来ないから帰るぞ』
という文字で表されたシビアな現実。
そ、そんなぁ……。もう少しくらい待ってくれたっていいのに。
だけど、そんなことを今更伝えてもキョンさんが戻ってきてくれるとはとても思えず携帯を握り締めたままあたしは人波に取り残されて棒立ちになるしかありません。
力のない視線を手元に移すと、視界の端に写るのは存在を主張するかのように揺れるガラス球。
独特の字体で浮かぶ数字は『08』。
……こうなった以上は仕方がありません。使うとしましょう。
まさかこんな短時間で連発する羽目になるとは思いもよらなかったけど。
えーっと、どこからやり直そう……。
ホームまで行った時間のロスが5分くらい? いえ、もっと短かったかも。
ということは、改札をくぐる前まで戻ってすぐにタクシーに乗っても下手をしたら間に合わないかもしれないのです。
もっと前でタクシーを拾えればいいけど、行く途中の道路は閑散としてて車はほとんど走ってなかったように思えるのです。
……横着はよそう。今だってそれで失敗したばかりなのです。下手にやり直してまた二度手間になるのはいただけません。
もう一度昨日からやり直そう。うん。それが一番確実よ。
どうせなら最大の12時間巻き戻ってもっと対策をきっちり練るのです。
そう念じてあたしはガラス球を強く握りこみました――――、全然雰囲気に合ってないけど、とりあえず景気づけに、
いっけぇぇえぇぇ――――――!
と叫びながら。
//////////
ふっ、と途切れた意識を取り戻す妙な感覚にとらわれて、真っ先に感じたのは暖かいものに包まれているような感触。
その刺激に小さく叫んで妙に反響して戻ってきた自分の声を耳にして、反射的にバスルームだって感じ取りました。
見慣れたユニットバスを視界に収めて再確認。
そういえばこの時間はお風呂に入っていたのでした。
……とりあえずタイムリープは成功かな? だけど、これは心臓に悪いのです。移動先のシチュエーションを考えて心の準備をしてからやらないとびっくりしちゃう。タイムテーブルを把握しておかないと。
それはそうと……、えっーと、今は身体洗う前? 洗った後?
髪を触ると、しっとり濡れているのです。
ということは洗った後、か。
そんな時間移動特有の混乱を実感しながらあたしは失敗を反省すべく今後の行動の指針を練ったのでした。
目覚ましの音に起こされて、眠い目をこすりながら時間を確認すると朝の8時。
昨日よりも30分早い目覚めなのです。
待ち合わせは11時なので、8時半起きでも時間そのものに問題はまったくありません。問題はこの後のお弁当作り。
お手製のサンドイッチを作るのに手間取ってしまったのが一番大きな時間のロスになってしまったのです。
元々料理が得意なわけでもないし、作り慣れてないものに手を出してしまったのが敗因。
だけど2回目となれば話は別。下準備もさくさく済ませて後はパンに挟んで盛り付けるだけ。
予定よりも随分と早く準備が完了できそうかも。うふっ、これなら余裕なのです。
失敗をリセットして思うようにやり直せるってのは結構快感かもしれません。
そんな風に上機嫌であたしはバターとタルタルソース、マスタードを塗った生地にトマトとレタスとベーコン手際よく挟んで次々と仕上げていきます。
男の子が好みそうな具沢山のクラブハウスサンド。
女性の社会進出とか言われても、料理のできる女がポイント高いのは変わりありません。
おやつにさりげなく差し出してアピールなのです。
あーん、とかやっちゃったりして、とか想像すると否が応にも口元はだらしなく歪んでしまいます。やだ照れる……、って前回もやった妄想を繰り返してる場合じゃないです。
トリップしそうになった意識を呼び戻して、出来上がったサンドを小さなバスケットに詰めればできあがり。
壁掛け時計を見上げて時間を確認。今から家を出ればゆっくり歩いて2本くらい早い電車に乗れるくらいの余裕があるのです。
時計に向けて思わずVサインを作っちゃいました。
玄関先で壊れるかもしれないミュールはやめて、スニーカーを履こうかとも思ったけれど歩けば全然問題はないわけでこの案はボツにしました。
だって折角のデートなのにスニーカーなんて味気ないのです。
少しでも魅力的な自分を見て欲しいからそこは譲れません。
いつもカワイイ系の服ばっかりじゃ飽きられると思って、今回は短いスリーブのカットソーにクロップドパンツを合わせてちょっとスマートな感じのアレンジにしてみたのです。
このファッションにスニーカーじゃ一段落ちるのです。やっぱりこのミュールじゃなきゃダメ。
そんな女子のこだわりを思索しながら約束の時間より15分も早く待ち合わせ場所に到着。
ゆっくりキョンさんを待とうと一息吐こうとしたとき、
「早いな」
と背後から声がかかりました。振り向くと何食わぬ平素の顔で見下ろしてくるキョンさん。
対して完全に不意を突かれて硬直してしまっているあたし。
「……どうした??」
と声をかけ直されてようやく口が動きました。
「キョンさんこそ早いですね。いつも結構ギリギリなのに」
「ちょっとついでの用事があったんだ」
なるほど。とあたしは別の意味でも納得します。
5分しか待ってくれなかったのは、きっと早く着き過ぎて約束の時間まで待つ時間が長かったからだ、とひとり分析を裏にあたしはペースを握るために切り出します。
「暑いしとりあえずどこかでお茶しませんか?」
「いいぜ。今日の会合の趣旨から説明してもらおうじゃないか」
冗談交じりにそう言うキョンさんは数ヶ月前の警戒と嫌悪に塗り固められたぶっきらぼうな態度とは比べ物にならないほどくだけたもの。
まさしくあたしの苦心惨憺の賜物なのです。
ふふっ、今日はこの笑顔をあたしだけのものにしてやるのです。
こぼれ出た含み笑いを愛想笑いの中に隠して、あたしはキョンさんと並んで一歩踏み出しました。
//////////
アーケードにある適当なお店に入ってちょっと早めのランチを摂った後、そのまま道すがら目に留まった雑貨屋さんとか服屋さんとかにキョンさんを引っ張り込んでウィンドウショッピング。
常にテンションを上げてるのはあたしだけど、キョンさんは顔をしかめながらも相手してくれるので疲れはしません。
ああ、こうしてると恋人気分で本当にデートしてるみたいなのです。って、あたしが浸ってどうするの。キョンさんをその気にさせないと意味がない。
あー、でも、こうやってキョンさんの服を選ぶのって悪くない。悪くないなぁ、と目に付いたポロシャツをキョンさんに合わせてみたとき。事件は起こりました。
「あんたちこんなとこで何してんの?」
凍りつくような抑揚のない声がキョンさんの背中越しに投げかけられました。
キョンさんに隠れて主の姿は見えないけれど、この声……、聞いたことがある……。
こう感じたのはあたしだけじゃなかったらしく、見上げたキョンさんも表情が固まっちゃってるのです。
ただその様子から見てショックの度合いにはあたしとかなり差があるみたい。まばたきすら忘れるくらいなんてちょっと普通じゃありません。
キョンさんがじっくり5秒くらい間を作ってから異常に緩慢な動作で振り向くと、視界が開けてそこに居たのは予想通り涼宮さん。
口元をへの字に曲げて腕を組んで有無を言わさず威圧してくるその姿には異様なオーラが漂っててそれだけで及び腰になってしまうのです。
ギロリと、そんな音が伴いそうなくらいの迫力で大きな瞳をぐるんと回して、今度はあたしをターゲッティング。
思わず口の中で軽く息を呑んでしまいました。キョンさんの心地が分かるかも。こ、怖い……。
「……誰?」
「えっ? あ、あのっ」
一度きりだけど涼宮さんとは面識があるはずなのです。春にSOS団のみなさんとも一同に会したことがあるもの。
だけど涼宮さんはあたしを覚えてなかったみたい。うう……、あたしってそんなに影薄いかなぁ。
圧倒されちゃってる上に、まさかこう切り出されるとは思いもせず、あたしは言葉に詰まってしまうのでした。
そこに助け舟を出してくれたのがキョンさん。
「橘だよ。佐々木と一緒に会ったことあるだろ」
「あー、そう言えば。このコも一緒にいたかもね。うっすら思い出したわ」
ひ、酷い。佐々木さんのおまけ扱いなのは仕方ないとしても、あんまりなのです。
一瞬視線を和らげた涼宮さんですけど、再びキッと目ヂカラを戻すとキョンさんに詰め寄ります。
「で? あんたこのコと何してるわけ?」
「何って言われても困るところがあるんだが……、説明を頼む」
ええー? そこであたしに振ってくるんですか? 庇ってくれる素振りを見せておいてそれはないよぉ。
なんか今のキョンさんはしどろもどろでひどく頼りないのです。
涼宮さんに尻に敷かれまくってるってのは聞いてはいたけれど、まさかこんなに露骨にうだつがあがらないなんて……、かっこ悪い。
軽くショックを受けたあたしですけど、睨みを効かせた涼宮さんを無視することはできず必死に言葉を捜します。
「ええと、これはですね。SOS団のみなさんと佐々木さんを中心として集まってるあたしたちの親睦を深めさせてもらうための、事前会合みたいなものなのです」
涼宮さんのプレッシャーに耐えながらも、なんとか言いたいことは言い切ったあたし。
だけども涼宮さんは眉を少し跳ねさせただけで、その険しい表情は崩してくれません。
「へぇ、親善大使ってわけ?」
「そ、そうなんです。そう言えばもっと話が早かったですね」
打ち解けた感があってついついあたしは少し溜飲を下げたけれども、それはとんでもない勘違い。
あたしが手にしたポロシャツに視線を落とすと涼宮さんは目を細めていっそう不機嫌になってしまったのでした。
「親善大使がキョンの服も選ぶわけ?」
「ええ!? いえ、あの、それはっ、まずは心の壁を崩して打ち解けるのが大切ですから、……親睦の一環なのです」
「ふぅぅぅぅぅん」
涼宮さんはちっとも納得してない様子で、疑惑の視線を保持したまま。
だけど不意を突くように一転キョンさんの方にくるりと砲門を回すように向き直ると、今度はキョンさんに追及を浴びせかけます。
「どうしてあたしに黙ってたわけ? こういう話は上に上げるのがスジってもんじゃないの?」
「そう目くじら立てるなって。こいつが今説明しただろ、事前会合なんだよ。組織のトップはどかっと腰据えて構えてるもんじゃないのか?」
「そんなのが通用するのは大昔の話よ。いい? 今の情報化社会にCEOがそんな悠長なことやってちゃあっという間に足元すくわれちゃうんだから。どんな些細な事でも団活に関わることは全部まっ先にあたしの耳に入れること! 分かったわね?」
恐ろしい。決して主張は間違ってないけれど、その言い様はまさに恐怖政治の絶対君主。キョンさんが恐れおののくのも分かる気がするのです。
ちょっとだけがんばってみたキョンさんでしたけど、10倍返しの反論を聞き入れる用意はないらしく、以後は貝のように口を噤んで眉間にしわを作ったまま目を閉じてしまいました。
涼宮さんの長い長い説法は組織論から始まって、ついにはあの時間外取引による公開株式買い付けの事件まで及び、最後の方は結局最初の話と何が関係あったのかよく分からなくなってしまいました。
一つだけ確かなことは、たっぷりまくしたてるだけまくしたてて見事にあたしを呆気にとらせてみせたってこと。
「――――ということだから」
と最後だけあたしに言い聞かせるように振り向いた涼宮さん。
えっ? 何? どういうこと?
「そーゆーことで今後ウチの団員と勝手に接触して連れまわしたりしないでちょうだい。もしどうしてもっていうならあたしを通しなさい。話くらいは聞いてあげてもいいわ。ホラ、いくわよキョン」
「おいっ、待てよっ!」
涼宮さんは問答無用でキョンさんの襟首を掴んで強制連行。対するキョンさんはなすすべもなく店外へひきずられていきます。
「ちょ、ちょっと! ――――――っ」
振り向きざまの肩越しに切れ上がったまなじりから放たれた炯々とした視線は仕留めた獲物を独占して辺りを牽制する肉食獣そのもの。
釘を刺されてしまったあたしは金縛りにでも遭ったようにその場を動けず、ただただ2人を見送ることしかできませんでした。
……ダメ、涼宮さんとやりあうなんてとても無理。逆立ちしたって言い負かせそうにないのです。出会ってしまったのがそもそもの間違い。
アーケードでショッピングの選択がミスだったって納得することにしましょう。
なんら落ち込むことなんかありません。
間違ったらやり直せばいい、それだけよ。
どうしようかな。いっそのことこの駅で待ち合わせるのをやめようかな。
そう軽く思いついたけど、今日会った直後のキョンさんの台詞を思い出してやっぱり取り下げます。
確か待ち合わせの前にキョンさんはこの駅の近くで用事を済ませてきたと言いました。
ということは待ち合わせ場所を変えるとキョンさんに手間がかかってしまいます。
そもそも直前になって待ち合わせ変更は心象が良くないのです。これが元で来て貰えないことになってしまったら本末転倒。
待ち合わせはこのままでいきましょう。要するにすぐに離脱すればいいんだわ。
ふふっ、あたしってばこんなことに気づくなんて中々冴えてるのです。
ようやく手にしたポロシャツを戻してメンズショップの片隅で不敵に、きっと傍目には不気味に微笑んで、あたしはガラス球を手に心の中で唱えたのでした。
//////////
広く生い茂った木々の枝から燦々と木漏れ日が降り注ぐ小道を歩きます。
キラキラと自然が創り出す照明に思わず目を奪われてしまいます、……きれい。
そんな幻想的とも言える光景を慈しむようにあたしは目を細めました。
鼓膜を震わすのはあたしたちの足音と時おり微風に吹かれて枝葉がそよぐ音だけ。
生命力に溢れた瑞々しい若葉の緑に囲まれて、少し鼻を衝くような新緑と土の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、身体が活性化するみたいに全身が満たされていきます。
時間の流れが普段の半分くらいに感じるのどかさ。
ああ、本当に生き返るような心地なのです。
「気持ちいいですねぇ。来てよかったと思いませんか?」
「……お前、その台詞3回目だぞ」
「それだけ心の底からそう思ってるってことなのです」
「それはまぁ、否定はしない。会うなりいきなり電車に乗ろうって言い出したのにはびっくりしたけどな」
痛いところを突かれて軽く跳ねるあたしの心拍。
んもうっ、せっかく癒しに浸っていたのに台無しなのです。
傍を歩くキョンさんの横顔にジト目を投げかけてみるけれど、穏やかな表情で気持ちよさそうに空を見上げている様に毒気を抜かれてしまいました。
皮肉は余計だったけど、同意してくれたのはどうやら本心みたい。
こんな機転が利いたのは、日ごろから近場のデートスポットの情報収集をこまめにやってきたお陰なのです。よかった。
涼宮さんとのエンカウントを避けるために選んだ行き先は山手にある植物園。広大な敷地に樹木を植栽したレクリエーション施設なのです。
電車とバスを乗り継いで結局1時間半もかかってしまいました。
何もこんなに遠くまで逃げなくても、って最初はあたしも思いましたけど、念を入れといて越したことはないのです。
涼宮さんに遭遇して実感したけれど、休日の街中なら誰にだって会う可能性はあるし、同じ過ちを繰り返さないように安全策を採用したのでした。
そっと取り出した携帯にぶら下がったガラス球に記された数字は『05』。
……ここで、あれっ? って追及しないで欲しいのです。
お昼ごはんを食べてから広場でバトミントンをやったんだけど、……その、エキサイトし過ぎてまたミュールが……、とにかくそういうことなのです。
まだまだ半分と言えば聞こえはいいけれど、予想外の消耗なのは否めません。油断は禁物。
キョンさんに悟られないようにバッグに仕舞って遅れ気味だった歩みを戻すと、道行く先が小高い丘になっててちょうど休憩するのにうってつけのテーブルが見えました。
時間は3時前。身体を動かしたから男の子なら小腹が空いてるはずなのです。
「キョンさん、あそこでちょっと休みませんか?」
「ああ、いいぜ」
うふっ、ここで用意してきたサンドイッチの出番ですよ。
木を組んで作った屋根の下、テーブルを挟んで向かい合って座ってあたしはいそいそとバスケットを差し出しました。
「あの、お腹空いてませんか? おやつに作ってきたんです。よかったら食べてくれませんか?」
「これはまた意外だな。お前、料理できたのか」
「……深い意味は聞かないでおきます。でも食べたらきっと二度とそんなこと言わせないんだから」
キョンさんはおそるおそるとも言えるくらいにそろりと手に取ると、回して眺めて、匂いを確かめてから口にしました。
もうっ、なんて疑り深い。
変なものなんか入れるつもりなんかないし、味だって保障付きなのです。……、作るの2回目だし。
視線を落ち着きなく漂わせながらたっぷり咀嚼して、ようやく喉を通過。
そんなに必要以上にゆっくり味をみられると、見ているこっちが疲れちゃいそう。
じっと見守るあたしに向けられた言葉は、
「……言うだけのことはあるな」
の一言。
しかもその表情は認めたくない気持ちがにじみ出てるような苦い顔。
褒めてくれてるのになにもかもが台無しなのです。
どうして素直に美味しいって言ってくれないんですか?
分かりました。そっちがそうならこっちだってやり方があるのです。
あたしは目の前のバスケットから両手でむんずと1つ掴み上げると、急転にこやかにゆるりとキョンさんの口元に差し出しました。
「はい、あーん」
最初に自分で取った一斤を飲み込んだ直後のキョンさんは、呆気にとられたように目を白黒させます。
まるで自分の目の前で起こってることが信じられないっといった風に。
「キョンさん。あーん」
催促してみるとさすがに状況を受け入れるしかなかったらしく、キョンさんは身を引いて拒絶の意思を露わにしました。
「何考えてるやがる。調子にのるんじゃない」
「いいじゃないですかっ。美味しいものを作ってきたんだからこれくらいの役得があっても罰はあたらないのです。それに誰も見てませんよ?」
「……どこからツッコんで欲しいんだ?」
強硬な態度で睨んでくるキョンさん。
こうなってしまっては崩すのは容易ではありません。いい加減宙のままで攣りそうだし、差し上げた腕を一旦下ろしました。
「……どうしてあたしが相手だとそう強気なんですか? 女のコによって態度を変えるのはよくないです。さっきの涼宮さんの前と随分対応が違うのです」
頬を膨らませて正当な主張をしたつもりでしたけど、言い終わってからやらかしてしまったことに気づきました。だけど、時はすでに遅くて、
「どうしてそこでハルヒが出てくる? 今日ハルヒになんて会ってないだろ?」
そうでした。確かにキョンさんは会ってません。いや、厳密にはあたしも会ってないんだけど、タイムリープによる上書き前を知るのはあたしだけ。うっかりしてたのです。
こういうの気をつけないと。とんちんかんなことばかり言ってるとますます変なコだと思われちゃいます。
「……どうした?」
「えっ? ああ、ごめんなさい。……あたしの勘違いでした」
そんな風に曖昧にごまかすしかなく、しょぼくれるあたしに呆れたように一瞥をくれてキョンさんは2つ目のサンドイッチに手を伸ばします。
せっかく問い詰めてやるチャンスだったのに、凡ミスのせいで流れてしまいました。もったいない。
でも、いいか。
次に手が伸びるってことは美味しいって思ってくれてるからだろうし。
手作り弁当が成功ならとりあえずはそれで満足としましょう。
さしてお腹が空いていなかったあたしはバスケットの中身をすべてキョンさんにあげることにして、頬杖を付きながら無言でパクつくキョンさんをちょっとだけ幸せな気持ちで見守りました。
//////////
お弁当作戦は見事成功!
と一瞬喜んだのもつかの間、大変なことになってしまいました。
あの後森を抜けてしばらく散策してから館内に入って高山植物の特別展示を楽しんでいたときにアクシデントは起こりました。あたしじゃなくて、キョンさんに。
展示を見てるうちにキョンさんの顔色はみるみる悪くなっていって、しまいには顔に脂汗を浮かべてお腹を押さえながらトイレに駆け込んでしまったのです。
具合は良くならず、さっきから休んでお手洗いに行っての繰り返し。
「これで3回目……か。大丈夫かなぁ」
出てくるたびにやつれていくキョンさんを見るのはつらいのです。
どうしちゃったんだろう。
お手洗いの入り口に視線をやりながら館内の休憩スペースに設置されたソファに腰掛けて考え込んでると、まず思い当たるのはくだんのお弁当。
もしかして食中毒?
そうだとしたらとんでもないことをしでかしてしまったのです。
確かに今日は日差しが強くて真夏、までは行かなくても汗ばむような陽気で、朝に作ったサンドイッチをバスケットに入れたまま昼過ぎまで持ち歩いた、という要素を足し合わせると完全にシロとは言い切れません。
「あっ! キョンさん。気分はどうですか?」
出てきたキョンさんにそう声を掛けたものの、返事を待つまでもなく一目で状態は最悪と分かりました。
歩みも心もとなく生気の抜け落ちてしまった様子は見るに耐えません。
救急車を呼ばないといけないレベルかも。
ふらふらのキョンさんに肩を貸してソファまで連れてきて座ってもらいました。とってもしんどそうなのです。
「キョンさん、横になりますか? あんまり辛いようなら救急車呼びましょうか?」
「……横にならしてくれるか? こんなとこで119番なんかしたら注目を浴びるだろうが、そこまで大事じゃない」
キョンさんは力なくそれだけ言うと倒れるようにソファに横たわりました。
少しでも楽になってもらおうとそっと傍らに腰掛けると、頭を持ち上げてひざの上に乗せます。
膝枕、確かに一度はやってみたかったことだけど、こんなシチュエーションじゃそんなお気楽なこと言ってる場合じゃないのです。
本当にこうする方が楽なのか、抵抗する気力もないのか分からないけどキョンさんはなすがまま。
目を瞑ったまま眠ったように仰向けになっています。
額に手を当ててみると、それほど熱くない。
とりあえず熱はないみたい。問題は腹痛と吐き気かぁ。
正直あたしの手料理との関係があるのか確証はないです。あのとき一緒にあたしも食べて揃って下したのなら間違いないけれど、結局キョンさん一人で平らげてしまったので分からない。
もしかしたら昨日の晩御飯とか今朝の朝食に当たったかもしれないし、そもそもこの症状が食あたりと無関係なのかもしれない可能性だってあるのです。
だけど……。だけどっ! こんなに苦しそうなキョンさんを見てるのは心が締め付けられるみたいに苦しい。
疑惑がある以上確かめる責があたしにはあるのです。
どうかあたしのせいでこうなっちゃったんじゃありませんように!
祈るようにぎゅっと目を瞑って――――『7時間』。
あたしはまた時間を遡りました。
//////////
「キョンさん。あーん」
リトライすればちょっとは違う結果に、なんて淡い期待は実らず、何度繰り返そうが返ってくるのは代わり映えしないネガティブなリアクション。
「何考えてるやがる。調子にのるんじゃない」
キョンさんは思いきり厭そうに顔をしかめました。
かなり割愛したけれど戻ったのは自宅でサンドイッチを作り終えた直後。
前回は家を出るまで日の差した部屋のちゃぶ台の上に放置していたけど、今回は冷蔵庫に入れました。
とにかくこの暑さで痛んでしまっていたかもしれないという可能性を潰すためにバスケットを冷やすことにしたのです。
駅までの道すがらコンビニで保冷剤を買ったまでは予定通りだったんですけど、ここでまた想定外のアクシデントが……。
店を出たところで乱暴な運転をする自動車を避けた際に泥を撥ねられてしまったのでした。
これは完全に誤算。
家に着替えている暇はなく、仕方ないのでレジを済ませた直後まで戻って車をやり過ごしてクリアしました。
そこからは一度辿った時間経過だから順調だったけれど、タイムリープの残数はこれで『03』。もう無駄遣いは許されません。
「……どうした? 急に黙り込むなよ」
「――呆れてたんですよ。どうしてあたしが相手だとそう強気なんですか? 女のコによって態度を変えるのはよくないです」
回想に夢中になってたことをうまく誤魔化して会話に戻ります。
同じ轍を2度踏む必要はないので今回は涼宮さんの名前は省略。こうすればペースを握るのはあたしのまま。
「どういう意味だ?」
大胆にもすっとぼけてきたのはちょっと予想外。よくもまぁぬけぬけとっ。当然納得できないあたしはつっぱねます。
「まさか自覚ないんですか? 相手が涼宮さんだと最初は覚めた感じでも徹しきれずに結局言いなりになっちゃうじゃないですか」
「それは、お前も分かるだろ。ハルヒがヘソを曲げるとややこしくなるんだよ」
「じゃあ朝比奈さんは? 必要以上に優しいのはどうして?」
キョンさんは目を見張りました。どうしてお前がそんなことを知ってるとでも言いたげに。
本当のところキョンさんと朝比奈さんが普段どんな雰囲気なのか詳しく知らないけれど、彼女のことになると目の色が変わるあたりから察して適当にカマかけてみたら図星とは分かりやす過ぎるのです。
「他のコの言うことは聞いてあたしだけダメだなんて差別ですよ。差別。美味しいものを作ってきたんだからこれくらいのこと聞き入れてくれたっていいじゃないですかっ」
必死の詰問は基本的に女のコに甘いキョンさんの良心を揺さぶるに足りたらしく、憮然とした表情ながらも、ついに、
「……一口だけだぞ」
と言わせたのでした。
半分ダメ元だったからちょっと拍子抜けだけど、これは素直に喜ぶべきだわ。
春にはあんなに毛嫌いされていたあたしがここまで至ったのは、アプローチを重ねて少しずつキョンさんの心の城壁を溶かしてきたからだと思うの。
この『あーん』はその集大成と呼べるべきもの。嬉しくてたまらないのです。
やったぁ、ついに待望のシチュエーション到来!
嬉々としながらあたしはキョンさんに冷えたサンドイッチを差し出して、キョンさんは眉間にしわを限界まで寄せて一口食んだのでした。
ああ、やりなおせるってやっぱりいい……。
達成感と純粋な幸せを感じながら、あたしはしばし満たされた気分に浸ったのでした。
この流れならきっとキョンさんの腹痛も発症しないと思ったけれど―――――――、この1時間後には例によって館内でキョンさんを膝枕して沈む展開がリピートされたのでした。
どうして? やっぱりこの腹痛は避けられないの?
今回はあたしも1つ食べてみたけれど、今のところあたしの身体に異常はありません。時間差で来るのかもしれないけどね。
作り置きのサンドイッチが痛む可能性は排除したにもかかわらずキョンさんがお腹を壊したってことは――――、あたしのサンドイッチは無関係ってこと?
…………待って、サンドイッチを作ったとき衛生に問題があってすでに菌が入ってたって可能性は?
作ってからの保存状態が悪かったって決め付けていたけれど、こういった可能性だってあるのです。
よくは思い出せないけれど、きっちり手を洗って万全だったとは言い切れないところに不安がよぎります。
いっそのことお弁当を作るのを止めたらどうか、なんて考えが頭をよぎったけれど、そうなるとさっきの『あーん』もなくなってしまう……。それは惜しい。
一回経験できたからいいじゃない、っていうのは何か違います。ああいうのは2人で覚えてて意味があるんだもの。
お店で売ってるサンドイッチをバスケットに詰め替えてくるって手もあるけれど、……どうかなぁ。それはそれで小悪魔っぽいけれど、味を褒めてもらっても嬉しくなくなっちゃうから却下。
とにかくまだタイムリープの回数は残っているんだから、原因を絞り込む余地はあるはず。
落ち着こう。まだお弁当をボツにするような残数じゃない。
よし、これでいこう。
そう決意して、あたしはまた今朝に舞い戻ったのでした。
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お弁当を作る前まで戻って、調理器具と手を念入りに洗って3度目のサンドイッチ作りに励みました。
2度目のときよりも手早く作り終えてすぐに冷蔵庫に保管。
これで食品管理は万全のはず。
キョンさんは今頃朝ごはん食べてるかな。何を食べてるのか気になります。
痛んでるかもしれないから食べないで、なんておかしなこと言い出せないし、そんなこと言い出したら昨日や一昨日の食事だって怪しくなってきてキリがない。
そこはもうあたしの手の及ばないところだとあきらめることにしましょう。
時間が随分と余ってしまったけど、おとなしく家で待機しました。
新しいことをやりだすとまたどんな事故に巻き込まれるかもしれないから。
ミュールを履いて走らなくても済む時間帯に家を出て、コンビニで保冷剤を買ってから店内で自動車をやり過ごして、待ち合わせのキョンさんを連れて植物園に向かって――――――。
また広場でミュールを壊したのはご愛嬌……。全部覚えきるには無理がありました……。
――――――サンドイッチを食べるときにはうっかり涼宮さんに会ったと口に出さないように気をつけて、キョンさんに『あーん』して、成功分岐を辿るように着いた館内展示。
いささか疲労感が拭えません。よく考えれば幾度ものリピートであたしの脳は24時間近く覚醒しっ放しなんだもの、同じことを繰り返すのも楽じゃないし当然かもね。
冷房の効いた高山植物室でチベットの可憐で清々しい小さな花に夢中のふりをしながらキョンさんの顔を伺います。
「こういうのを見に山に行くのも悪くないかもな」
あたしの視線に気づいてこっちを向いたキョンさんの顔は――――、普段と変わらない平常状態。
前回、前々回と違ってこれは新たな展開なのです。ということは、やっぱりあたしが原因? ああ、なんて申し訳の立たないことをしてしまったんでしょう。
でも、原因が分かって回避できてよかった。キョンさんをひどい目に遭わせないで済んで本当に良かった。
大きく息を吐いて、一仕事やり終えた脱力感があたしを襲いました。
でも気を緩めてる場合じゃないのです。とにかくこれで念願のデートの続きができんだから。
「おい」
「……はい?」
「疲れたのか?」
「ううん。キョンさんと一緒に山にハイキングに行ったらどんな感じかなって、考えてただけなのです」
機転で吐いた嘘だけれど、もしそうなったらと本当に思いを馳せてみます。
2人だけで山の奥深く焚き火を囲んで星空を見上げるなんてロマンチックじゃないですか。そして夜は狭いテントに2人で入って寄り添うようにくっついて綺麗な虫の鳴き声を聞きながら――、なんて考え出すとまた妄想が止まりません。
だけども相変わらずキョンさんは持ち前の鈍感さで見事にそんな夢をぶち壊してくれます。
「ハルヒと佐々木、その取り巻き全員で山に行ったらとてもじゃないが収拾つきそうにないな」
もうっ、あたしは2人でって意味で言ったのに全然分かってない。
そんなあたしの心の機微など解しないキョンさんの表情は穏やかで、少し笑いがこぼれていました。少しみんなで行く登山の雰囲気を想像したのかな。
それを見てると憎みきれなくて、自然とあたしの機嫌も直ってしまいます。
ダメだなぁ……、甘いなぁ……、あたし。
本当は自分がキョンさんをコントロールしなきゃダメなのに、と軽く嘆息。
だけど実際に心はちっとも沈んでなくて、それはポーズだって気づきます。
それがまた厭で自分をごまかすようにあたしは次のコーナーに向かうキョンさんの背中を追ったのでした。
//////////
今日のデートを締めくくるのは夜景の見える展望台。
夜景を見ながらキョンさんを堕とす、というプラン自体に変更はないけれど、場所を近場に変えました。
夜景のスポットはいくつかあってその中でも極上の場所があるんだけれど、山の上にあって遠すぎるので止めにしました。
だって山手の方から降りてきたばかりなのに、また山登りなんて疲れちゃいます。
だから小高い丘になったこの公園で妥協。
標高が低いので平面的な景色になってしまうけれど、ここは恋人たちがモニュメントに鍵を取り付けて永遠の愛を誓い合うという恋愛成就あらたかな公園ってのがポイントが高いのです。
らせん状になった面白い橋を登って展望台に着くと、時刻は7時を過ぎてちょうど良い頃合。
大小のビーズを散らしたような綺麗な夜景があたしたちを迎えてくれました。
レストランがあってそこで優雅に食事でもと思ったけれど、残念ながらディナーは一万円越え確実なので高校生のデートにはとても使えません。
「キョンさんお腹空いてないですか?」
「3時過ぎにお前のサンドイッチ食ったばかりだから、それほどじゃない」
というやり取りをしてやっぱり作ってきてよかった思い直したのでした。
丘から張り出した展望台で2人並んで柵に上半身をあずけながら、しばらく夜景にみとれます。
一番手前にはライトアップされて淡く輝くらせん状のスロープがあって、その奥にはビル郡の彩色豊かな光の粒が広がっていて、さらにその向こうには真っ黒な海、そして空と海との境界を縁取る対岸の光はまさに幽玄で、引き込まれてしまいます。
それはキョンさんも同じみたいで正面に広がる圧巻のパノラマに釘付けになっていました。
時間も忘れて別世界に浸れば否が応にも漂うのは甘い空気。
周りに居るのは寄り添って愛を語り合うカップルばかりで、いつでも告白できる雰囲気が出来上がっているのです。
今こそ今日の集大成を組み上げるとき。
「キョンさん……」
「……なんだ?」
肩を寄せて腕を絡ませてみるとキョンさんは少したじろぎました。
だけどその程度じゃこのムードは消えません。
キョンさんの動揺に揺れる瞳を斜め下から見上げてがっちりとロックオン。ちょっとだけ口を開けて小首を傾げて切なげに品を作って追い討ちをかけます。
まるで全身を待ち針で縫い付けられたみたいにキョンさんの身体が強張っているのが腕越しに伝わってくるのです。
うふっ。緊張しちゃってかわいい。
「今日は楽しんでもらえましたか?」
「ああ……」
喉が渇いているのか掠れたキョンさんの声はどこかセクシーで、あたしも雑念を捨てて陶然と身を委ねます。
「今までずっと言いそびれてたことがあるの。初めて2人で逢ったとき、キョンさんは笑い飛ばしたけれどあのときだってあたし本気だったのです。……今日のあたし達結構いい感じだって思いませんでした?」
「…………」
「こんなに遅くまで付き合ってくれたのは、キョンさんだってそれなりに居心地が悪くないって思ってくれたからでしょう?」
ここでそっと離れて少し距離をとりました。軽く一息吐いて間を作ります。
言葉を失ったように見守るだけのキョンさんを前に、祈るように手を胸の前で組んで一番大切な言葉を紡ぐ決心を固めました。
「……あたし、キョンさんのことが……、すっ――――き、――――ッ! …………すきですっ……ひっく!」
――――――――――――――――――――!!!
突然あたしを襲った悪魔のような生理現象。咄嗟に言い直してみたけれど余計に滑稽になる始末。
輝ける夜景はみるみる霞んで目の前が真っ暗になりました。
どうしてこのタイミングでっ、よりによって一番のヤマ場でっ、……しゃっくりが、――ひっく、って止まらない!??
――――夏を飛び越えて一気に秋がやってきたような冷めた風があたしたちの間を吹き抜けました。
辺りに響くのは不規則なあたしの促音だけ。
漂っていた濃密で甘やかなオトナの雰囲気は霧散して名残すらなく――――。、
どうして? なんで? 普段はしゃっくりなんて滅多に出ないのに――――。
目の前で佇むキョンさんは、困りきったようにゆっくり目を閉じて――――。
ああっ、ダメです。違うのっ。やめて。こんなっ、こんなはずじゃ――――。
でも網膜に写るキョンさんは止まらず、どうしたものかと額に手を――――。
ダメ! ダメェェ――――――――――――――――――――――――――。
と心の中で叫んだあたしはもはや反射的にバッグの中で光る『01』の数字を躊躇いなく握り締めたのでした――――。
//////////
……。
…………。
………………。
しゃっくりってどうして出るのかな?
確か肺の下にある膜、あれ何だっけ?
ええと、横隔膜、そう横隔膜の痙攣。
子供の頃よく出てからかわれたっけ。
刺激物食べた後に出やすくなるのよ。
アルコールとか辛子とかそういうの。
最近は全然出なくなってたのになぁ。
直す方法はいくらでもあるのになぁ。
どうして予防方法だけないのかなぁ
生まれてこの方初めてしゃっくりについて真面目に考えました。
結局時間を戻して、事前にたっぷり間を作って時間を変えて、ツバを何回も飲み込んで、1分くらい息を止めても、「好きです」の瞬間にこの謎の生理現象を抑えることはできず……、放心のままに立ち尽くします。
キョンさんに背中をさすってもらいながら、あたしは無為に思考を漂わせて半ば現実逃避して途方にくれるしかないのでした。
ずいぶん長い間キョンさんは何も言わず世話をしてくれたけれど、一向にしゃっくりは止まる気配をみせず、ついに暖かい手があたしからそっと離れました。
「……大丈夫か?」
一拍空けて考えてみたけれど、ただしゃっくりが止まらないだけで身体自体はどうともなく、そう問われればコクンと頷くしかありません。
「その……、なんだ。一緒に帰る……か?」
また一拍空けてあたしは考えます。
1人残されるのは寂しいけれど、これ以上失態をさらし続ける方がもっと苦痛なのです。
この質問にはフルフルと首を振りました。
「どうか気を遣わないでください。――ひっく、あたし――ひっく、もう少しここに残ります」
そうかとキョンさんは返すと、背中を向けてゆっくりと歩き出しました。
だんだん小さくなる姿を思わず追いかけたくなるけれど、じっと耐えるしかありません。
視線を足元に落して、唇をかみ締めながらひたすら忍びます。
だけど溢れかえる悲壮感はどうしようもなくて、9回もやり直した挙句、こんな終わり方って――――、と押しつぶされそうになったそのとき、
「橘」
不意に掛けられた声に顔を上げると、少し離れたところで振り向いたキョンさん。
「今のは忘れる。だからお前も忘れろ。なんか前も似たようなことがあったけど気のせいだ。今日は植物園から戻ってきて別れたってことにしとこうじゃないか。……サンドイッチうまかったぜ。この夜景も捨てがたいけど芋づるで思い出しちまうからダメだ」
キョンさんの瞳には憐れみも蔑みも同情もなく、向けられた視線はただ真摯でまっすぐ。
「キョンさん」
その毅然とした態度にあたしの中の何かが呼応しました。
くたびれて折れそうになっていた何かが奮い立って応えたような、そんな感覚がしたのです。
「真剣なやつには俺も真剣に相手してやる。だから――――」
そこまで言いかけてしばらく逡巡して、やがてキョンさんは自分で打ち消すかのようにかぶりを振って身を翻して再び歩き出しました。背中が完全にこっちを向く際に軽く片手だけ挙げる合図だけ残して。
頬に熱を感じながらあたしはそれを見送るだけ。
キョンさんは言い切らなかったけれど、何と続けたかったのか分からなかったけれど、あたしは改めて言葉が欲しいと思いませんでした。
だって、キョンさんのハートを感じられたから。
クールで固めてる普段からは想像もつかない熱い気持ちを身体全体で受け止めて四肢の隅々まで染み渡らせます。
喉から断続的に出てくるしゃっくりなんかもうどうでもよくて、出るに任せたまま。
夜景に背を向けて放射状に何本もの長い影を伸ばしたまま、心を蝕んでいた呵責の念が洗い流されていくような心地よい感覚に身体を解き放ったのでした。
自分の中で整理をつけて帰り道を一歩踏み出そうとしたそのとき―――――――――、舗装の上を滑り込んでくる人影の存在に気づきました。
「残念でしたね」
反射的に身を震わすあたし。
思えばもはやお約束の展開ですけれど、何度繰り返されそうが慣れそうにありません。
誰だろう。聞いたことあるような、ないような不思議な声。
怪訝に思いながら顔を上げると、スーツ姿に身を包んだ大人の女性が立っていました。
……知らない人。
直感でそう思ったけれど、軽くウェーブがかかった栗色の髪と、シャツを押し上げる大き過ぎるバストに記憶が呼び起こされます。
「あ、朝比奈さん?」
「ご名答です。その節は本当にお世話になりました」
成人した朝比奈さんは大人特有の隙のない愛想笑いを浮かべて軽い会釈してみせました。
その内に隠された感情は……、巧みに隠蔽されていて全く読み取れない。
分かったのはこの台詞がどうとっても皮肉のほか何物でもないってことだけ。
「何の用ですか?」
あたしの問いに朝比奈さんは目をパチクリとさせました。
けれど、それはほんの一瞬の表情、またすぐに本性不明の柔らかい笑みに戻ります。
どこまでも和んだ雰囲気に呑まれてあたしは戸惑いました。
変だな。警戒しなきゃ、いつでも逃げられるようにって考えとかなきゃって思うのに、抑えつけられたように警戒心が沸いてこないのです。
朝比奈さんは変わらず世話話をするかのようにのどかな調子で切り出してきました。
「時間法って知ってますか?」
「はい?」
「うふふ、知らなくて当然よね。ごめんなさい。つい、意地悪したくなっちゃいました。でもなんとなく感覚で分かるんじゃないかな。時間は個人の勝手で自由に戻したり進めたりしちゃいけないってこと」
会話を振っておきながら、まるであたしに取り合うつもりはないと言わんばかりに、ひとりで話を進める朝比奈さん。
しかし、言葉を拾っているとなぜこのタイミングで彼女があたしの前に現れたのか、薄々気づける部分があって急に背筋が寒くなりました。
だけども相変わらず危機感に迫られないあたし。
なんで? どうして?
混乱の渦中にあるあたしに朝比奈さんはヒールを響かせて歩み寄ります。手を後ろに組んで、まるで庭を散歩するような間延びした足取りで。
大人の朝比奈さんは背が高くて、その足が進むたびにあたしの身体がその大きな影に侵されていくのを目の当たりにしてようやくあたしはギョッとできました。
しかしそれも刹那のこと、身体は石膏で固まったように動かず肩に触れられても身じろぎひとつすることができません。
うまく言い表せないけれど、何が怖いって理解が追いつかないまま身体が竦んじゃってる……ような感じ?
「未来人のあたしが登場した時点でなんとなく分かるでしょう?」
肩に手を置いた朝比奈さんは横目でそう語りかけてきました。
潤滑油が切れたようにぎこちなく瞳を動かして視線が合うと、目を細めてにっこり微笑みを返してきます。
けれどちっとも和まない。それはもう異様ともいえるくらいに。
朝比奈さんは不意にくるりと身をターンさせてポールダンスを踊るようにあたしの背後をとると、後ろから首に手を回して抱きすくめてきました。
ビクンと撥ねたあたしの身体。本能が一瞬だけ身体を動かしたように思えました。
朝比奈さんは力を抜いていて、両腕の束縛そのものは格好だけ。
だけど朝比奈さんが少し体重を預けて来た瞬間、感じたのは芳しい香水の匂いや起伏豊かな柔らかな人肌の感触なんかじゃなくて、
ズォォオォォォン!
と圧し掛かる凶悪なまでの精神的な重圧!
「ひっ」
と声が漏れて初めてあたしの心は身体が何に怯えていたのかようやく理解に及びました。
背中越しに流れ込んできた感情はすべてを塗り潰してしまいそうな消し墨よりも明度も艶もない暗黒の濁流。
自分のしでかした罪の重さが伝わってくる心地がします。
巧妙なる偽装でカットオフされていた彼女の怒りやら恨みやら、……嫉妬やらあらゆる負の感情を真っ先に見抜けなかった自分を責めました。
だけど心と身体に恐怖がくまなく行き渡った今、あたしにできることはカタカタと膝を笑わせながら立ちすくむことしかありません。
「うふふ、オシオキの時間ですよ? 彼も待ってます。行きましょうか?」
耳元で囁かれた艶っぽいその吐息が耳朶を撫でて、言葉が鼓膜を振るわせた瞬間、ぞわりとした感覚が身体の中を這い回りました。
ついでに飛んでいきそうになった意識のしっぽをなんとか捕まえたけれど、いっそのこと気絶した方が幸せだったかもと後悔します。
魂の抜けかかったまま、朝比奈さんに手を牽かれてトボトボと歩き出すあたし。
おかしいな。あたしの思い描いていたエンディングと違う。全然違う。
これじゃまるっきりサスペンスドラマで警察に連行されていく殺人犯のシーンなのです。
映画のラストはもっとしんみりだったはず。
キョンさんを見送ってあのまま、悲しいけどちょっと幸せ、みたいな気分に浸るはずだったのに。どうして、どうしてこんなホラー風味に……
「あ、朝比奈さぁん。台本はちゃんと読んでくれないとこま、――イタッ!」
口を開いたとたん拳固が飛んできました。こめかみに青筋を躍らせてにっこりの「に」に濁点をつけたような刺々しい笑みを浮かべた朝比奈さんはあたしを問答無用で夜景の舞台から退場させます。
えーん。こんなのあんまりなのです。
ドキュメンタリー作品『時をかけるあたし』は、こんな感じで半泣きのまま締まりのない幕を迎えたのでした。くすん。