(投稿者:怨是)
――遡り、1944年12月25日。
エントリヒ帝国特殊収容所にて。
第177号独房に面したコンクリートの廊下では、久しぶりにペンが紙を擦る以外の音が鼓膜を賑わせていた。
事情聴取の為に赴いた
レイ・ヘンラインは、この重苦しい冷気ばかりが漂っていたであろう通路に、少しだけ活気が訪れたように感じた。
かつて鋼の大蛇と呼ばれた男――
ライオス・シュミット元少佐は今、この鋼の格子に五感以外の一切を遮られている。
銀の懐中時計が彼の顔を照らす度に、眩しげに瞼を絞めた視線がこちらに向けられた。
時間はあまり残されていない。ここでの用件を済ませたらば、すぐにでも海を渡ってグリーデン島へと戻らねばならない。
「お前の日記と調書は読ませてもらった。なるほどな、銃を向ける相手が欲しかったのか」
「そうだ。加えて私は善悪二元論に固執するあまり、視野狭窄に陥っていた。
それ故に自らの銃口の向きにも気付かず、ありとあらゆる“大切な何か”を傷つけすぎてしまった」
ライオスはそう云って自らの両掌を忌々しげに眺める。
情けない男だと、レイは胸中で彼を断じた。
三十路半ば程もの歳月を重ねながら、二元論の落とし穴から抜け出そうとしなかったとは。
高すぎた
プライドを過ちを犯してから打ち崩したところで、何ら意味を成さない。
罪は罪だ。深々と刻まれた爪痕は、謝罪や後悔や反省などといった粘土で埋めても決して消えることは無い。
ただ、彼の主張自体はレイ自身のそれとある程度は一致する。
多くのMAIDが薄汚い欲望によって生み出されたとするなら、それを看過する道理はどこにあろうか。
世の中の理不尽が、確かに存在する。ライオスに同じく、レイはその理不尽を許せずに居た。
だからこそ必要なのだ。ライオスがかつて背負ったあの矜持を、僅かでも借りる必要がある。
真っ直ぐに見据えると、彼もまた同時にこちらへと視線を改めた。
「……あの矜持は、俺が引き継ぐよ」
「使いこなせるのか。私は“我々”を名乗りながらも最後まで“私”だった」
「当たり前だ。それならあくまで“俺”を名乗って自覚すればいいじゃないか」
あの『全ての掃き溜めの国』のマドット・ツァッペルのように。
どれだけ大規模な群れに身を置こうとも、幾重にも重ねられた板のうちの一枚に過ぎないのだ。
それを自覚した上で、不条理で手前勝手な虚飾へと立ち向かおう。
我は思想家也。己が身体に刃を立てる事さえ、一寸の躊躇も見せるつもりはない。
ライオスの視線が再び両手へと落ちる。
懐かしげな表情からは、よほど愛読していたのだろうという事が窺えた。
「あの本を、読んだのか」
「ああ。脱人夢想主義者が誰にも愛されていないなどと云うつもりは無いが、少なくとも俺に嫌われているという事は主張してやらんとな」
メアリー・スーが憎まれているのは、そこから発せられる不快な臭気に由来する。
彼らの物語を嗅ぐと、鼻の曲がるような気分にさせられる。
「臭すぎるんだ、彼らは。人生を冒涜している」
「同感だが、お前の場合は何故そう思った?」
ライオスの不安げな表情は薄暗い蛍光灯に照らされ、より一層曇りを増して見えた。
大陸の冬特有の湿気を多分に含みんだ空気のせいもあってか、彼の口から吐き出される溜め息は外の雪景色を想起させる。
この冷たさより連想されるであろう様々な点において、ライオスとレイは似ていた。
自らの大義の為に冷徹でなくてはならない瞬間が、おそらくは他者より多い。
しかし、大きな違いが一つある。ライオスが等身大の視点に留まるのに対し、レイの場合は自らの大義名分さえも徹底的に俯瞰する。
「人生を一冊の本に例える。誰もが行った事のある、一種の方程式だ。
視界に映った人生の種々の苦悩や受難、葛藤にこそ、第三者はそこに“愛する余地”を見出す」
だが、脱人夢想主義の物語はどうか。
そこに真の意味での苦悩が存在したためしが一度とてあったか。
「平坦な幸福に包まれ、思念を揺るがされる事もなく、無条件な賛美と保障に満たされた者を誰が愛せると思う」
「それが身近な人間なら、平和や安寧を願うのは当然の義務だ」
「問題は、その安寧が仕組まれているという事だ。それも、二重の犠牲を払いながらな」
そうして予定調和的に生還し、勝利がもたらされ、多くの場合は何故か――特に本人の持つ肉体的資質を――方々より賞賛される。
誰も衝撃を受けない。思考の平和が絶対的に保障されている。そこまでの道程を容易に予測可能な物語を、誰が愛せるのか。
よしんば愛する余地をほんの僅かにでも見出せたとして、その裏で暗く冷たい嫉妬の霧が漂う事を、誰が否定できようか。
「二重の犠牲……MAIDか」
「ご明察恐れ入る。死体に人権を嘯く輩は、得てして脱人夢想の枷を頭脳に嵌めている。
彼らはその上で、自らの生み出した“主人公”に伝説という冠を被せようと躍起になっている」
「帝都栄光新聞から皇帝派に至るまでな。その仔細を解決する術を俺は持ってはいないが、あれも脱人夢想の最もたる形だ」
聡明な購読者は既に気付いている。あの新聞の、度を越した欺瞞の鍍金に。
一年間のバックナンバーを全て見返し、そこにジークフリートが一面に不在だった時が何度あっただろうか。
そこから読み取れる幾つかの裏側の一つとして、エントリヒ――帝国全体――がジークフリートを主人公にしたがっている事が挙げられる。
鉄格子の向こうで話を聞くライオスもまた、それをよく知っているようだった。当事者だからこそなのか、強い確信を以って頷く。
「MAIDは彼らにとって、願望や自己を投影する存在でしかない」
「悲しい話だな……かつての私は他者から見出す事は出来ても、自分自身が同じ穴の狢であると気づくには至らなかった」
脱人夢想主義者の世界では、主人公にとって全ての他者は『比較されるべき対象』、または『救われる弱者』である。
残りの何割かは『正義を証明する為の悪役』でしかなく、その悪役は多くの場合、路傍の石が蹴られるかのように易々と打ち倒されて行く。
『こちらを知っているが何とも思わない人々』つまり傍観者に対しては徹底した隠蔽が施され、場面が流転してもそれは欠片とも映し出されない。
それらの風を見ることはおろか、幽かな香りさえ感じられない。
「日記の文面から、そうだな。10月に入るまでの文面からは特に顕著に感じられた」
ライオスもその点では、脱人夢想の資質があるように思える。
世の中の理不尽を『敵』ではなく『悪』と捉えてしまっていたのだ。
混同されがちな二つの言葉には、大きな隔たりが存在する。
が、今の彼はおそらくそれを理解している。
「あぁ。だがMAIDもまた、あの仮初の命を懸けて戦っている。私はそれを学んだ」
そうでなければ、彼がこのようにMAIDに対して辛辣とは正反対の感情を吐露する事は無かった。
レイは束ねられた日記の写しをめくり、ライオスがかつて心中に抱いていた言葉に目を通す。
欲望の犠牲者、夢想家の牧場にて育てられた家畜、云い得て妙だ。
さて、仮初の命とライオスは云った。
レイにとってはその仮初の命こそが忌むべき対象であったが、先へ繋げるためにはまずその事について口を噤む必要があった。
「仮初の命か……だが夢想家どもはそこから先を考えなかった」
彼ら夢想家の世界では、如何程に肉体を酷使した戦闘が行われようと、ただ漠然と『正義』と『悪』のみがそこに立ち尽くしている。
互いの思想も主義もそこには存在せず、両者が互いに深刻な傷跡を残す程の闘争も、厳密な意味では起きていない。
第三者にとって、それらの戦闘は『作業』に置き換えられる。
何でもない日常の、特に気にも留めるべきではない平坦な作業へと。
これもまた、レイにとって忌むべきものの一つだった。その作業の下では何万ガロンもの血が流れている。
眼前でこちらを見据えるライオスとて、それを理解していない訳ではない筈だ。
それでも彼は反論の苦笑を浮かべる。
「考えていない訳ではあるまい。ただ、忌避しただけだろう」
「忌避ではなく、逃避だな」
「どちらにせよ、誰もが求める。立ち向かう事に集中しすぎれば、心は瞬く間に擦り切れる。
その為に物語というものは存在している。違うか、レイ・ヘンライン」
「間違いじゃない。ただ……」
確かにある意味で物語は逃避だ。現実に対して抱いた不満の受け皿になる。
度を越した巨悪を許せぬものの、されどそれを罰する術を持たない。
思い悩む人々にとって、勧善懲悪は自らの信じる正義と悪を代入し、打ち倒してくれる手軽な救世主だ。
故に人々は英雄を我が子に求める。
「彼らは求めすぎた。結果として303作戦という悲劇を招き、MAIDを巡る利権争いも激化した。
ただの兵器に過ぎないMAIDにここまで躍起になれるのは、ひとえに彼女らが人の姿をしているからだ」
度を越せばもはや『物語』足り得えない。
それは丸裸な『願望』であり、「人生を歩む私自身を愛して欲しい」という度し難き自己偏愛の具現である。
ましてその行為を臆面も無く開き直って見せるのならば、独善を通り越した自己完結ではないか。
「売り込み、スペックの明確化、スコア争い、新聞社による過剰宣伝、これらが意味するのは“生みの親”と名乗る連中の自己顕示欲だ」
「かつての私のように、その自己顕示欲に自覚が無い場合は?」
「教えてやればいい。自覚しながら開き直っているならば、痛みを以って修正するまでだ」
自己の中でのあくなき闘争の末に辿り着いた自己完結であれば、まだ性質が良い。
真に嘆くべきは、それを放棄したであろう態度が明確に読み取れてしまう事である。
「だからこそ矜持を貰いに来た。お前の経験を使わせてもらう。MAIDによって歪んだこの社会を正す為に」
――そして、俺自身の決着を付ける為にも。
そう、言外に付け足す。
「たった一人の人間でさえ、根本を打ち崩すのは容易ではない。まして、社会など」
「誤解されているようだが、別に一から百まで俺の色に染めてやろうとは思っていない。一滴垂らしてやるだけでいい。
たとえば原色の赤に、一滴でも青を垂らせばそれは紫色だ。赤じゃなくなる。充分だ」
独りで全てを変えるなど、それこそ脱人夢想的な考えだ。
人間はもっと複雑で弱い。だからこそ弱みを突き、そこに“色”を混ぜる。
欲を云えば、レイは一滴のみならずコップ一杯分を注ぎ込みたかった。
「相手が虹色の思想を持っていたなら? 虹色ならば、何を混ぜても虹色だ」
「何ら問題は無い。その場合は“今までに無かった色を含んだ虹色”になるだけさ」
レイは、懐中時計の蓋を開く。
まずは裏側に刻まれた“陽光既に死せり”の文字を見やり、その後に針の動きに視線を移す。
グリーデン島行きの飛行機の出発時間まであと僅かだ。その後、セントグラール国際空港からアルトメリアへと発たねばならない。
ライオスもこちらの用事を察したようで、口を真一文字に閉じ、静かに頷いた。
「……日記の写しは貰って行くぞ」
「あぁ。矜持の結果は地獄で聞かせてくれ」
――1944年、12月30日。
レイ・ヘンラインはアルトメリア大陸行きの旅客機の中で回想を閉じる。
窓の外はすっかり暗くなり、黒々とした雲が月明かりを反射させていた。
対する懐中時計は、機内の薄暗い照明を僅かに照り返すだけだった。
中央に皆既日蝕の鎮座する銀色の懐中時計、その秒針が冷酷な音を立てて歩みを進めてくる。
闘争の開始まで、もう幾許の猶予も残されていない。
「“地獄で聞かせてくれ”か……無神論者には実感の湧かない言葉だな」
地獄なら、ここにある。心の臓を締め付ける、この苦悩こそが地獄だ。
甘い毒に酔い痴れる毎日を過ごす内に、いつか人々はふと振り返るだろう。
このまま夢を見続けるべきなのか。このまま惰眠を貪っていて良いのか、と。
緩やかな陽光にこうべを垂れて虚像の揺り篭に横たわる時間は、とうに過ぎ去っていた。
後は真っ暗な寒空の下で、皮膚を強張らせねばならない。
陽光は既に死んでいるのだ。
最終更新:2009年07月21日 18:08