Chapter4 : 涙

(投稿者:Cet)



 最後の補給が、それを行っている補給要員ら自身ですら、そうとは知らない中で終了した。ブラウはその間に、輸送車両の荷台に潜り込んでいた。
 じきに死守命令が発動するであろうことは目に見えている。その間に人間連中が逃げ延びんとしていることも、然りである。社会的なヒエラルキーにおいて、メードの位置はそう高くないのだ。
 だからブラウはそうした。彼自らそう望んだのだ。
 廃棄物染みた積荷の間に身を隠して暫く待つと、エンジンが始動し、荷台にも揺れが伝わってくる。
 何台かの補給車両が縦列に並んで、前線よりずっと後方にある補給基地へと引き返し始める。その最後尾を走行する車両の上で、ブラウはじっと息を潜めた。


 青の部隊は北西方向への撤退を続けていた。幾らも経たない内に、彼女らが撤退する方向とは逆の、南南東の方角で砲火が瞬くさまが覗えた。高射砲による撤退支援が始まったのだ。
 挟撃などをしている場合ではなく、砲兵部隊は事実上の殿軍であり、捨て駒であった。
 隊員は皆無言である。というより、速度を保つことで必死なのだ。とにかく、味方と合流しなくてはならない。
 だがこのままだと、合流したところで包囲を受け、殲滅されるのが関の山なのだが、そうする他ないのである。
 後方陣地からの救援が間に合えば、話は別なのだが。
「接近中の敵右翼との相対距離、現在一万……」
 ドレスが目を回しそうになる中で報告する。継続的な探知能力の行使と、慣れない速度での移動で、比較的エネルギーの保ちが良い部類と言える彼女も、ギリギリの状態であった。
『黄色の一了解、どうやら敵の先頭は高射砲の攻撃を既に躱したらしい、とはいえ、こちらとしても味方の左翼と合流間近だ』
 先頭を往く戦闘機のパイロットは、青の部隊に告げる。
『では、我々はこの辺りで指揮権の放棄を行うことにする』
 そう言った。
「そ、それ、どういう……」
『私たちの機体はもう燃料が保たない、よって、継戦能力がもうほとんどないんだ。
 その為、不時着するにしろ、できるだけ前線後部の地上基地に近い場所でやらなけりゃならん。つまり、今のままのルートで撤退を続けることはできないということだ』
「ウチらだけを置いて、自分たちは包囲の外へ逃げるっていうんスか!?」
 珍しくミテアが怒りの声を上げる。
『確かにそうなる。だが、我々とてこのまま行動していたところで仕方ないし、それに進路を今変えるということはむしろ命取りだ。
 無事遠方の味方と合流できるまでの間、敵に発見されないことを祈るしかない』
「そうかもしれないっスけど……」
 何とか溜飲を下げることができたようだ。
『時間がない、早速だが失礼させてもらう。諸君らの働きに感謝する』
 戦闘機らは揃って機体を傾けると、今までの進路から急速に離脱し、西北西の方角へと遠ざかっていった。
 対して、隊員達はそれを見送るでもなく、今まで通りの移動を続けるだけだ。
「やることは変わらんな、そら逃げろや逃げろ、と」
 段々と発言が下卑てきているようなのは、当然ナーベルである。もちろん移動速度は一定のままだ。
「て、敵との相対距離九千……」
 探知を続けつつも移動を続けることで、ドレスは必死だ。
「さっきの間に千も距離が詰まったの? ……いや、でもまだ大丈夫や、安心していいッス」
 ミテアはとりあえず周囲を取りなしている。
「……」
 終始無言なのはルーラ、彼女は至って涼しげな顔をしているが、それとは打って変わって緊張の面持ちなのは、トリアである。
 しかし毎度毎度で、彼女の緊張の仕方は悪くない。程良い緊張が、良い刺激になっている好例と言えるだろう。
「さあて、正面に味方の砲火が見えてきたッスよ、合流まであと五分ってところかな」
 ミテアがそんな呟きを洩らす。
「……お言葉ですが、ミテア隊長、このような時に楽天的な発言をすると、かえってそれが裏目に出易い、というのが戦場の理でして」
「あ、あら? そうなん? じゃあ今後は気を付けた方が良いっすね……」
 咎めたのはルーラだった。どうも話を聞いているには聞いているらしい。
「こ、後方から急速に接近する『個体』を確認、距離、二千!」
 ドレスの報告に、ほらね? とでも言わんばかりのルーラは、おどけたような目配せする。全隊員が移動を停止して、反転、後方からの攻撃に備える。
 ドレスが一帯の全周波数に対して救援を呼び掛け始めていた、とはいえ、合流しようとする味方を援護してくれるような戦力が、左翼戦線に残っているかは甚だ疑問ではある。
 そして、トリアが一つ溜息を吐いた。
 沈痛な面持ちを俯かせることで周囲から遠ざける、そして、何とか気を取り直して顔を上げたところに、その姿は飛び込んできた。
 確かに、蠅男だ。彼女はそう思った。
 次の瞬間、轟風とでも言わんばかりの衝撃が、彼女らを襲った。


 ブラウはゆっくりと、幌をかけられた荷台から移動し、運転席の小窓から姿を見られぬよう細心の注意を払いつつ、後部にぽっかりと空いた搬入口へと辿りついた。
 そして、誰も見ておらず、衝撃と騒音で『荷台から人が一人飛び降りた』程度のことを誰も気に留めないだろう、と確信できた瞬間に、彼は轟々とけぶる轍へと身を躍らせた。
 地面に接触した瞬間、慣性の法則が働いて、彼はしたたかに、どころではない位の勢いで地面を転がった。
 ようやくその勢いが失せると、彼はじっと、伏せていた。輸送車両が遠ざかるまでの間、延々と砂に呼吸器を押し当て、息をすることもせずじっとしていた。
 そして、車両のシルエット群が砂塵と共に霞み始める頃、彼はようやく顔を上げて、一つ、息を吸ったのである。
「……道理で杜撰なわけだ」
 色々と入り混じった感慨を一言に付すと、彼はのそりと立ち上がった。砂塵まみれになったオリーブドラフだが、傷の類が一つとしてないのは、彼が紛れもないメードである証拠だ。
 さて、と彼は考える。とりあえず適当に敗残兵を装って後方基地へと帰陣するのが一番だが、今すぐにという訳にもいかないし、どこで待機するべきか、また、そもそも帰陣のタイミングはいつがいいのかなど、彼はその辺りのことを一切計画していなかった。まあ当然といえば当然で、仕方ないのだが。
 と、ここで彼は、グレートウォール戦線の象徴である--いや、象徴であり続けた、その山脈の尾根を見遣った。
 標高五千メートル近い、灰色の寒々とした山肌は、大体ここから二十キロ以上離れた場所に覗えた。それでも、その存在感はほとんど失われていないのだが。
 何にしても前線からは離れられたようで、ひとまずそれはよしとして、彼は考える。灰色の地面を踏みながら、歩いていく。
 ふと、視界の端に、何かが映ったような気がした。
 彼の中の、どこかで見つめた記憶が告げた。
 星を見るときは、まっすぐに見つめちゃいけない。目の端で見つめるんだ。その方が、星はずっと明るく見えるから。
 誰かに教えてもらったに違いないが、それがいつ、誰に教えられた知識なのかは、分からない。
 ただ、その視界の端に、星を捉えた。そんな気持ちで、ふと空を見上げた。
 灰色の空に、果たして群青色の星が、ひらひらと舞い落ちるのを、彼は見た。
 それは、彼が今立っている、ほぼ真上から、ゆっくりと、降下していた。
 それは、星などではなかった。では何か、それは少女だった。
 給仕の服に身を包んだ少女であった。
 では少女は何故、たゆたうように、ゆったりとしたスピードで、今、彼の眼前に舞い降りようとしているのか。
 彼女は、ちょうど仰向けに身体を横たえたような形で、その給仕服の裾を微かにはためかせ、地面を目指していた。そしてその背中からは、鴇がら(・・・)の微かな光が、今にも消えそうなくらいに瞬いていて、きっとそのお陰で、彼女が厳かな速度で、ゆっくりと地上へ降り立とうとしているのだと、彼は直感した。
 その身体が、丁度、彼の身長の高さと同じくらいにまで地面に近づいた時、気付けば、彼はその腕を差し出して、少女の身体を支えていた。
 その時、背中の仄かな明滅が、完全に途絶え、そして、彼の手には少女である以上でも以下でもない、偽りのない重さが、静かに伝わってきた。
 彼はその重さが一体何なのか暫し理解することができず、そして答えを求め目線を彷徨わせ、そして結ばれた瞳や、唇に依り着いた。
 少女は眠っているようで、静かに呼吸をしていて、その度に少女の膨よかな胸は、静かに上下した。
 だが、彼はその少女の顔から、視線を外すことができなかった。
 彼は、両腕の重みから、既に少なくない事実を理解していた。
 まず、彼は、恐らく一生かかっても、その少女のこと一切を、知り及ぶことはできないであろうということ。
 そして、言葉にしてしまえばほどけてしまいそうな、取りとめのない、しかしそれでも重要な事実。永遠や、無限。
 彼は、自分自身が涙を流していることに、気付いた。
 そうして悟る、これは、俺の半身であると。




 少女は青の間をたゆたう夢を見た。

 青は、寂しい色だ。
 悲しい色だ。
 哀しい色だ。

 青は、風の色だ。
 吹きすさぶ、風の色だ。
 身を削る、風の色だ。

 青は、時間の色だ。
 動いていく時間の色だ。
 大切な『私』を奪い去る、時間の色だ。

 青は、世界の色だ。
 決して、自分自身と相容れることのない、世界の色だ。



 彼女はそう思った。
 深く目を閉じて、ただ、彼女はたゆたうままに身を任せようとして、ふと、声を聞いた。
 それは多分、詩の一節であったように思う。
 というのも、彼女はそれをどこかで聞いたことがあるのは間違いないのだが、その知識が、いつどこで授けられたものなのか、皆目見当が付かなかったのだ。
 彼女は、意識的に閉ざした視界の内側で、その調べを聞いた。


 青を恐れてはいけない。
 彼は、いつも貴方を見守っている。
 いつも、優しく微笑んでいる。
 飛び込んでゆけ。

 その中で得られる、きっと大切な何かが、あるはずだから。


 青は、かなしみの色。
 彼女は閉ざした視界の中で、そうひとりごちた。

 目を閉じれば、それが分かったからこそ、彼女はそう言った。
 巡る記憶が、彼女にそう告げる。
 行き着く先はいつも青、貴方はその境界線に触れては、また戻ってくる。
 でも、彼女にはかなしみが、ただ、優しいものに思われた。
 かなしみは、とても長い間自分の内に在って、そこで、寄り添ってきたものなのだと、彼女は思った。

 だから彼女は今一度、自らに告げる。
 目を開けよう。
 青が、かなしみの色だったとしても、決して恐れない。
 その中に、身を躍らせよう。

 強い決意と共に、彼女は、ゆっくりと瞳を開いた。




 そして、彼女は青年の物憂げな瞳を目にした。
 彼の目は、淡いブルーをしていた、その彼が、自分自身を見つめていることに、彼女は気付いた。
 不意に、彼女は自分の視界が傾ぐのを感じた。先程まで、青年の背後に広がっていた、灰色の空が、移り変わって、そして、地平線まで延々と続く灰色の大地になった。
 そこで、自分の身体が青年に抱きかかえられていたことに、トリアは、初めて気付いた。
「え、と……あの」
 スミマセン、か、どうしてこんな、か、その二つのどちらを先に言えばいいのか、彼女が逡巡している時に、その背は、ぐいと半ば強引に、青年のほうに、引き寄せられた。
「っ……」
 青年が、少女の身体を固く抱きしめる。
 痛い、そうはっきり言ってしまいたかった、何故、こんなことをするのか、ただでさえ、心の中は掻き乱れているというのに、なんで、こんな。
 青年のたくましい肩に押し付けられる胸元は苦しいし、その肩口から覗く僅かな視界は、なんだか自らを捉えようもない気分にさせた。
 だけど、幾らそう言おうとしたところで、声になるものは全部、何か別の音節へと変わっていった。

 静かに流れ落ちる涙によって、全ての論理は、堰き止められていた。





「…………あお」
 長い長い沈黙の後に、彼女の唇から零れ落ちた言葉は、それだった。
 そして、青年の閉じていた瞳が、見開かれる。


最終更新:2009年11月27日 02:02
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。