青年が、少女の背へと回していた腕の力を緩めると、少女と青年の間に、少しだけ距離ができた。
「今、青って」
青年は尋ねる。
「……」
少女は無言で、それから青年の視線を真っ向から受けることを嫌っているようで、少し斜めがちに俯いていた。
青年の腕が、重力に従って、本来、あるべき位置に戻る。
解放される形となった少女が、一歩だけ後ずさる。というよりも、たたらを踏んでしまったかのように。
黙っていた少女が、目元を拭うような仕草をした後で、顔を上げた。
その視線を正面から受けて、青年は何も言えなくなる。
「青、って言ったのは、その」
少女はゆっくりと青年に告げる。
「夢を見たんです、空の青の中をたゆたう夢」
「……それで?」
「はい、それだけ」
青年は、何かを言おうとした。でも、何かを言おうと考えているわけではなかった。
「俺は、君のことが好きだ」
だから、言葉が続かなくても、当たり前だった。
「だから、その、君を守りたいんだ」
「……どうやって?」
「俺はメールだ、君も気付いたろう、だから、力不足なんてことはないはずだ」
「でも」
少女は微笑んだ。かなしげな笑みを浮かべた、
「貴方と私では、住んでいる世界が、違うんじゃないですか?
だって、貴方は見たところ連合陸軍の所属で、私は、ベーエルデーの
ルフトバッフェというところに所属しています。
この時点で、ずっと遠い距離があるんです。
ねえ、貴方は私のことを、どう守ってくれるんですか?」
「それは……」
それは、と二度ほど、青年は呟いた。
「分かりましたよね。
貴方と私では、住んでいる世界が、あまりにも」
「そうだ、違う、全然違う。
俺が今君に会えたことと、会えなかったこと、同じくらい違う」
青年は毅然として言う。ただ、何も考えていない。
少女はどこか眩しさを感じたかのように、かすかに目を細める。
「だったら……。だったら、俺が君の世界になるよ。そして、俺は君を永遠に守り続ける」
「……言っている意味が、よく分かりません」
「俺はっ」
青年は叫ぶ。
「俺は、君のことを何にも知らない。
名前だって知らないし、君がルフトバッフェって呼ばれる軍隊の一員であることも、今さっき知ったばっかりだ。
でも、俺は知ってる。
君がこの先どんなに長い間、俺と過ごしていたって、きっと、君のことを全部知ることなんか、できないってこと。
だから」
青年は言葉を継ぐ。
「だから、俺は君の世界になる。
君にも、知ってもらう。どんなに知ろうとしても知れない、俺自身のことを。
それが、誰かの世界になるっていうことだと、俺は思う」
青年は、そう言い終えると沈黙した。
俯いてしまう。
少女も、何も言わなかった。
二人分の沈黙が、風の音に乗って、どこかへと紡がれていく。
「あの」
そうして、沈黙を断ち切ったのは少女の方だった。
「は、はい」
「……貴方の、名前は」
「俺の名前はっ、
ブラウ、ただの、青」
つっかえつっかえになりながらも、彼はそう言い切ることができた。
「ただの、青」
少女が確かめるように呟くのに対し、青年は何か気の利いたことを言おうとでも思ったのだが、ただ口がぱくぱくと動くだけだった。
「き、君の名前はっ」
それでも出てきた一言は、それだけだった。
「
トリア……」
とても小さな、ふとすれば聞きそこなってしまいそうな声で、彼女は囁いた。
「トリア……、トリア」
そして、青年はその名前を、早速口ずさみ始める。
「綺麗な、良い名前だね」
「……本当に?」
「当たり前じゃないか、ついつい口ずさんじゃうくらいなんだから」
彼がそんな風に言うと、少女は俯いて、再び視線を逸らしてしまう。
少し調子に乗ってしまっただろうか、と彼はそこそこに後悔して、何かフォローせねばと口だけをせわしく動かしている。
「!」
と、その時、何かの気配を察知したトリアが、丁度ブラウの立つ背後の、空を見上げていた。ブラウも反射的に振り返ると、そこには普段と面容を変えたグレートウォールの灰色の空が広がっていた。
黒い雲霞の群れにも似た影は、ゆっくりと、
空の彼方からやってきていた。
やがて彼らは、二人の頭上を通り越して、北の空へと向かっていくだろう。
「いかなきゃ」
トリアは切迫した表情で言うと、何やら背中が光を帯び始める。ブラウが見た、あの鴇柄の翼である。
それは当初安定していなかったが、しかし次第に強い光を放ち始め、そして、見事な四翼となって顕現した。
「すご……」
ブラウは思わず呟いている。とその間にもトリアは飛翔しようとしており、その瞬間正に、地面を蹴っていた。
「トリアっ」
ブラウの呼び声に、既に彼の手の届かない位置まで飛翔していたトリアは、果たして振り返った。
「行くな、行かないでくれ、一緒に砂漠に隠れていれば、地上のGくらいは簡単に撒ける。それに、君は武器の一つも持っちゃいないじゃないか」
「駄目です、私は死んでも仲間の元に戻らなくちゃいけないんです」
逡巡は全くなかった。
「俺はお前が欲しい!
奪いたいんだ! なあトリア、また会えるだろうか?」
最後の呼びかけに、トリアは小さく頷いた、ように見えた。
そしてそれを最後に、トリアはくるりと向きを変えると、灰色の虚空へと向け、徐々に小さく、見えなくなっていくのだった。
そして、青年が最後に、荒野に残された。
ただ、彼の顔には笑みが浮かんでいて、それはどこか自分の勝利を確信しているかのような、そんな表情にも取れた。
「あ、は、ははっ、はっ」
そして、大声で笑い始める。頭上を、黒いよどみが覆い尽くして、そしてトリアの消えていった北の方角へと、ゆっくり向かっていく。
「どうだ! ざまぁみろ! あのときの、彼女は、間違いなく」
そして、彼はいつ絶えるとも知れない笑いを上げ、延々と空を流れていくGの群れを、見送っていた。
そうだ、きっと気の所為なのかもしれない。
最後、頷いた少女の頬に、ほんの少し朱が浮いて見えた、なんてことくらい不確かなことは、この世にそうはないのだから。