(投稿者:Cet)
灰色と青の中間のような色合いの空がグレートウォールの色だ。
朝方の澄んだ光のようで、風は乾いている。
漏れなく激戦区の名をほしいままにしているそれだ。その光が、窓を通して彼女の瞳に突き刺さる。
「……」
人は言う、そこは天と地の狭間であると。墜ちていく者と飛び続ける者が生まれ続ける聖域だと。束の間の生と圧倒的な死が交錯する、赤と青の狂った世界だと。
しかし彼女はその境界線を今尚飛び続けている。
その先に何があるのかは、未だ知れない。
『おはよう
シュワルベ君、気分はどうかね』
一面が白い部屋だった。横たわった状態で視線を巡らせると、何人かの人間がガラス越しにこちらを見下ろしているのが覗えた。頭上には無影灯と呼ばれる医療用の大型照明がぶら下がっている。
それらを見る限りここが実験室のたぐいであることは彼女に知れた。
声は部屋のどこかに取り付けられたスピーカーから発せられていた。彼女はそれに応えようとして、その結果搾り出されたかのようなかすれ声を発する。
それがスピーカをどよめきに震わせた。成功だ、そう叫ぶ声が狂喜の隙間から聞こえる。
彼女は想う、一体なんなのだろうか。シュワルベとは自分自身のことらしいが、実感というものが全く伴ってこない。
それは非現実と変わることのない。
『シュワルベ君、失礼した。意識ははっきりしているようだ、私たちが誰だか分かるかね?』
「……」
はて誰だろう、記憶にない。というより、ボキャブラリーにその言葉が存在しない。彼女がそんな風に考えていると、スピーカーの向こうからは絶え間のない反応が。ふむ刷り込みが必要なようだ、しかし彼女のことを考えると余計な精神負荷はコンセプトを覆しかねません、とかなんとか。
全て聞こえていたが、全てどうでもいいことだった。
『ああ、再び失礼した。ところで君、飛んでみたいとは思わないか』
突然の問いに、シュワルベは彼らの視線を仰いだ。
ここは
グレートウォール戦線。各所で一進一退の攻防が展開される激戦区だ。そして彼女はそこにいた。
空戦メードとして。
ベーエルデー連邦は
ルフトバッフェと呼ばれる独立遊撃部隊の一員として配属されたのだ。
彼女の所属は支援部隊である。しかし支援部隊とは言え、実際のところは一線級部隊の配備が追いついていない戦場に派遣される、必要不可欠な実質戦力であった。
「本日配属となりました、シュワルベです。よろしくお願いします」
敬礼をしてみせる。ブリーフィングルームに集まった五名の戦闘用空戦メードによる拍手が閑散と響いた。補助要員はこの場にいない。
しかしブリーフィングルームといえど、体裁ばかりも繕わないそこはいわば会議室であった。持ち運び可能なホワイトボードと、同じくして楕円形の机。合わせて六人のメード。その気になれば町一つを占拠できる程度の戦力ではあるものの、どこか侘しさを感じずにはいられない。
「さて、彼女の自己紹介が終わったところで私たちもお返しといきますか」
わぁ、とにわかに湧き立つ支援部隊の面々。
シュワルベはとことこと自分の席に辿り着いた。ゆっくり腰を降ろすと、彼女らの自己紹介が始まる。一人ずつ在任のメード達が立ち上がっては前へ出て行く。
よろしくの応酬。
「よろしくねシュワルベさん」
そんな中、そう笑って言う一人の空戦メードがいた。
名を
トリアといった。軟らかそうな笑みを浮かべ、柔らかに結んだ瞳はどことなく気安げに思えた。
「よろしくお願いします」
彼女はそう応える。その返答は真摯とでも言おうか。
今までのとは、わずかばかりに違うものであった。
入隊してから暫く、彼女は在任者達の訓練する様子を見学した。空中でフォーメーションを組み天使のように舞ってみせる彼女達。くるくると輪になって回ったり、と思ったら次は一列の縦隊となってよどみなく急降下するなど、彼女達は優れたコンビネーションを発揮してみせた。
そんな中で彼女、トリアはいつも笑っていた。彼女の存在を意識の端に置きながら、シュワルベは訓練を注視する。
それから二人一組の演習に入る。彼女達はおのおのの武器を手に、近接戦闘に努める。かきん、かん、と乾いた打撃音が、遥か滑走路脇にしつらえられた椅子に座るシュワルベの耳にまで届く。
車両に牽引され飛行機が滑走路を這っていく。コンクリートの滑走路がじりじりと焼けて、熱いくらい。
退屈だ。ふとした思考の綻びに、周囲の世界が断絶していく。
気がつけば目の前に一つの影が下りていた。
「シュワルベさん、気分が悪いんですか?」
心配そうな表情が逆光のもと浮かぶ。シュワルベは大丈夫です、と応えそれから続ける。
「あの」
「あ、はい。何でしょう」
トリアの気負わない返事に、シュワルベはかえって困惑してしまう。
「トリア……さん」
彼女は思い切ってそう言った。他のメードとまともに喋るのはほとんど初めてなので、俯いて視線を合わせないようにしていたが、トリアは、はい、とそれに応える。
彼女は重機関銃を携えていた。シュワルベの視線に気付くと、恥ずかしそうに笑みを浮かべる。
「これはですね、皆を助けるための銃なんです」
「……はい、でもさっきの戦闘を見る限り、ちょっと遅かったです」
「うう、ごめんなさい」
しょんぼりとするトリア。シュワルベは戸惑いを覚えるも、その心をどう伝えればいいか分からない。
「……でも」
不意にトリアが顔を上げる。
「この銃を持っていると、剣で届かない敵を墜とせるから……きっとこの方が私に合ってると思うんです」
そう言ってはにかんだような笑みを浮かべる。そしてあはは、とばつの悪そうに笑う。
「よく、わかりました」
シュワルベが頷いた。
「あ、ただの言い訳ですよ、言い訳」
「いえ、参考になります」
彼女は一言一言を確かめるように応えた。
その時であった、二人ともーっ、上空からの呼び声に反応する。
「シュワルベさんも飛びましょう」
「あ、はい」
はきはきしているようで、少しペースに呑まれがちなのかもしれない。
シュワルベは一応のところ飛行訓練の過程を経てはいる。でなければ実戦参加の部隊に投入などされない。
とは言え初めての形式を前に、彼女はいささか緊張していた。トリアは褐色がかった翼を広げ、シュワルベをいざなうような形で空中に制止する。
シュワルベの背中からえんじ色の翼が一対、生まれた。
飛ぶ為だけの、ダイナミズムを帯びている。しかし彼女はおずおずといった調子で飛び立つ。
深い青を帯びた長髪が揺れた。
ふわり、と浮き上がった体を埋めるように風が吹き込んで来るのを浮力として捉え、シュワルベはトリアの元へとはしった。その動きはゆったりとしたものだ。
「まだ武器は持たなくていいですよ、とにかく、皆と一緒に飛びましょう」
トリアもまた翼をはためかせ、大気に手をかけるかのように空へ登っていく。
「はいっ」
少しばかり余裕のないものの、その不器用な翼はしっかりとそれを掴んだ。
ゆっくりとシュワルベは訓練を積んでいった。やがて彼女もまた武器を手にすることになる。
彼女が選んだ、というより適正の見出された武器は、スナイパーライフルであった。
「なるほど鷹の目だねぇ、名前はシュワルベ(ツバメ)だけど」
などと隊員の一人は言ったものだが、要するにそれは前線での立ち回りには向いていないということである。そのことについてシュワルベが何か感じているのではないかと、トリアは気が気でなかった。
ある日、トリアはそのことを訪ねた。するとこんな答えが返ってきた。
「トリアさんにとって、仲間を助けることは重要なんですよね。だから気になりません」
トリアはその答えに、しばらく何も返せなかったが、しかしその時が過ぎると今度は喜びが胸の内に湧いてくるのであった。
そんなこんなでシュワルベはスカウト(偵察兵)としての技術を徐々に磨いていった。
やがて実戦の機会が訪れる。それはグレートウォール戦線で活動するGの部隊を、一線級小隊『黒の部隊』と連携して撃破する、といった内容であった。初の実戦ということで彼女は緊張していたものの、他のメンバーはできるだけ彼女を励ましてくれた。そのお陰で戦場に到着する頃、彼女は骨の髄まで戦闘体勢に移行していた。
「それでは皆さん、いきますよっ」
『黒の部隊』隊長、
チューリップが号令をかけると、彼女はその漆黒の羽根を広げ敵の中心へと加速する。その相対した距離は一キロ程もあったが、ほんの数瞬でそれを埋めてしまう。
彼女に追従していた三人の黒い影が分散する、まるでチューリップを中心に楔を穿つように。周囲を援護にかかる。
フライの群れに接触する。
「よーし、じゃあ私達も頑張りますかっ」
各々がそれに続いた。乱戦に持ち込む気概。
「シュワルベは後方からの状況確認を重視して、近接戦闘は控えて」
「了解です」
彼女の返事にそのメードは頷いた。そうして加速していく。既に戦端ではチューリップの高機動により、敵の統率は失われつつあった。黒い影が縦横無尽に戦場を駆け巡り、それに追従する三人のメードは、息のあったチームワークで援護と攻撃を同時に行う。
シュワルベはそれを見て息をのんだ。しかしそれ以上に驚いたのは、トリアにだった。
トリアは優れた状況判断を以て、敵を確実に撃破していった。空中という自らの制動が困難な場において打撃系の武器を扱うメードの多い中、その射撃は極めて正確であった。
その上味方への配慮も同時に達成されている。そのはたらきには単純な戦果以上のものが秘められていた。
「……すごい」
シュワルベはひとりでに呟いていた。スコープ越しに見える敵部隊が見る見るうちに崩壊していく。
彼女は考える、私もあんな風に皆の役に立てるだろうか。
ほとんどの敵を撃墜して、僅かな取り逃しも許さない熾烈な攻撃を終えた部隊の中で、トリアは微笑みを交わしている。
いや決してなれない、そう確信がいった。私は彼女のようになることはできない。他の誰かになど、なれっこない。ならばどうすればいい。
彼女は考える。しかし答えは浮かんでこない、ライフルを下ろし肉眼でトリアの表情をじっと見つめる。するとトリアがこちらを見た。
笑顔で手を振る。それに対してこちらもぎこちなさげに手を振り返す。
夜、彼女は一人兵営を抜け出した。寝間着のまま、夜のグレートウォールの寒風に身を晒す。
そうして翼を広げ、空へと飛び上がった。どこまでもどこまでも遠くへいきたい。そう願いを込める。
しかし彼女が羽ばたきを生かそうとしても、体は進まない。どうしてなのか進もうとすればする程、その羽ばたきは大気を掴みきれないのだ。
無力感が彼女を苛んだ。どこまでもどこまでも遠くへ行きたい。どうすればいいのかも分からない。どこへ飛んでいくのかすらも、夜闇の中では不確かで、彼女は今自分がどんな表情をしているのかすら分からなかった。
「トリアさん」
ある日シュワルベは訪ねた。滑走路脇で洗濯物を干す中々シュールな構図だ。
「何ですか?」
「あの、トリアさんは凄いですね」
トリアの手が止まった。ゆっくりとこちらに回頭する、ただ少し戸惑いを含んで。
「……そんなことないですよ?」
「戦闘能力の話ではないんです。 ただ、周りへの気配りとか、立ち回りとか、そういうところです」
憧れます、とシュワルベ。
「ありがとうございます。……面と向かって言われると、何だか照れちゃいますね」
言葉の通りに微笑むトリア。だがシュワルベの表情は固い。
「あの、空の向こうには、何があると思いますか?」
急かすように、ゆっくりと紡いだ。
「え? そうですね……平和な国とか?」
「……何だか発想が貧困です」
「シュワルベさんから聞いたんじゃないですか、もうっ」
珍しく怒気を孕んだ口調に、シュワルベは笑った。
彼女は朝の光に目を細める。
兵営は未だに静まり返っており、その時間を朝の静謐な空気が包んでいる。彼女は空の彼方に待っている何かに思いを馳せた。
青白い光は、彼女の視界の中でさわさわと揺れている。
どうしてだろうか、頭がぼんやりとして、体中が倦怠感を帯びていた。
寒さとは違う痛みの中、彼女は体を起こす。
飛び続ける。
最終更新:2009年01月20日 00:53