雨月に映して朧げに

(投稿者:神父)



 優しく雨ぞ降りしきり、土の香深く立ち込め
 燕は微かに翼煌かせ空に舞う

 夜更ければ、淀みに蛙鳴き立て
 畔の李は真白に戦慄く

 駒鳥は焔の羽根を身に飾り立て
 垣低く、気ままな節を歌う

 戦を知る者、一人とてなく
 そのいつ終わるとも、知る者ついになし

 人の族のなべて絶え果つるとも
 小鳥も草木も、これに心掛く事あるまじ

 暁に目覚めし春の女神すら
 我らが去りし事をば、それと心づかさざらん

───S.ティーズデイル「優しく雨ぞ降りしきる」





当たり前の事だが、霧の都と呼ばれるセントグラールにも日が差す時はある。
1945年9月、この日は比較的穏やかな一日で、凍月は市内南西部に位置するオーウェル・スクウェアでつかの間の日差しを享受していた。
小さいながらよく手入れされた公園は、しかし平日という事もあってほぼ無人であった。
凍月は止まった噴水をしばし眺め、そして青々とした芝生を残念そうに見つめてから、手元の本に眼を落とした。
噴水に溜まった水は冷たく、瑞々しい芝生は柔らかで、とても心地よいだろう。
だが彼女には水や芝生に触れ、その感触を楽しむ事の出来る手足がないのだ。

「試練に耐えうる者は幸いなり───」

ふと呟いてから、微かに首を振って打ち消した。これは神の与えた試練などではない。ただ、どこにでもあるちょっとした事故に過ぎない。
凍月は眼の前の活字に集中できない事に気付き、栞を挟んでから袖の中へと本を戻した。
保憲が戻るまでまだ時間がある───こんな場所に凍月がいるのも、彼の所用に従っての事だ。言わば、店先で待たされる飼い犬である。
と、芝生を踏む音に気付いて凍月は眼を上げた。その先にはどことなく書生風の、眼鏡をかけた痩せぎすの男がいた。
男は彼女の視線に気付き、ややあってからぎこちない発音で挨拶を試みた。つまり───

「アー、コンニチワ。ニイハオ……ナマステ」
こんにちは( グッドアフタヌーン )

凍月が完全な瑛語、それもグリーデル式の発音で答えると、男は驚いた様子で足を止めた。

「失礼、瑛語ができるとは思わなかったもので。楼蘭の方ですか」
「はい。あなたは?」
「一応、連合の国民という事になります。……ああ、僕はアレックス・カフス。ここにはちょっとした用事のついでに立ち寄りました」
「凍月です。私は……人を、待っているところです」
「隣、よろしいですか」
「どうぞ」

凍月とは反対の端に腰を落ち着け、アレックスと名乗る男は手にしていた書類入れを置いて伸びをした。

「いい天気ですね。このあたりでは珍しい晴天だ」
「ええ」
「こうしていると、まるで戦争などおとぎ話の中の存在に思える……そんな事はありませんか」

アレックスのある種呑気とも言える問いに、彼女は首を振った。

「いいえ。私は、いつ何時たりとも戦争を忘れる事はありません。それは、私の───」
「存在意義だから、ですか」

凍月が視線を横に動かすと、アレックスは考え込むような顔で空の彼方を眺めていた。

「私の事を、ご存知だったのですか」
「いや、ほとんど僕の憶測ですよ。しかし楼蘭の女性、それもかなり若い方がこんな異国に一人でいるというのは、普通はありえませんからね」
「……」
「気分を害されたなら、すみません。ただ、僕はちょっとMAIDの方々に興味がありまして」
「例えば、どのような事でしょうか」
「あらゆる事についてです……何故あなた方は戦うのか、戦う事について何を思うのか、自分の存在を何と考えているのか……」
「一つ目の答えは「それが必要だから」、二つ目は「当然の事」、三つ目は「人々への奉仕者」、これでよろしいでしょうか」

凍月が一息に答えると、アレックスは振り向き、不快な驚きを隠し切れぬといった顔を見せた。

「本当にそう考えているんですか?」
「はい」
「つまり、あなたは……自分が戦うための、ただそれだけの存在である事に満足していると?」
「……私は、これまでに様々な人々や侍女兵と出会ってきました。彼らの多くは人生に満足しておらず……そして、そのために不幸でした。
 私はすでに多くを失いましたが、それでも残されたものに満足する事で幸せでいられるならば、そうありたいのです」
「失った……」

二の句を継げずにいるアレックスに、凍月は自身の手を示した。薄地の黒い長手袋に覆われた、血の通わない両手を。

「例えば、ですが……私の手足は失われ、取り戻す事はできません。それでも私は人々のために戦う事ができるのです。
 たとえ有形無形の感謝がなくとも、自分自身が求められており、そしてそれに報いる事ができれば、それだけで充分ではないでしょうか」
「あなたは……自分自身(・ ・ ・ ・)のために何かをしようとは思わないんですか?」
「自分自身のためとは、何を指しているのでしょうか」
「例えば、何かが欲しいとか、誰かの気を引きたいとか、あるいは単に鬱憤を晴らしたいとか」
「そのような事に、意味があるのですか」
「……」
「私は人々の助けとなるために存在します。ならば一人でも多くの人のために戦い、明日への礎となる事こそが───」
「しかし、あなたが戦ったところで、それが報いられるとは限りません。それどころか、人々はあなたを恐れ、忌み嫌いすらするでしょう」

アレックスが静かに、底冷えのする声で反論した。だが、凍月は辛抱強く繰り返した。

「私が戦えと命じられるのは、それが必要だからです。その結果が報いられないとすれば、それは私が充分に戦わなかったという事に他なりません。
 そして、私が忌み嫌われるとすれば、それは私自身に理由があるのです……たとえ不可避であったとしても」
「人間は時として、この上なく理不尽にもなりうるんですよ」
それでも(・ ・ ・ ・)、嫌われる者にはそれだけの理由があります」
「ではあなたは、奉仕だけを貪り尽くされ、人々の嫌悪に押し潰された挙句に歴史の闇に葬られても満足だと言うんですか?」
「はい。それが、私に求められる役割ならば」

アレックスは信じられないという顔で凍月をまじまじと見た───彼女は相変わらず無表情で、視線だけでそれに応じていた。

「ところで、アレックスさんと仰いましたか」
「ええ。何ですか?」
「人類への憎悪をあまり露骨に表明するべきではないと思いますが」

凍月の、微妙ではあるが確かな切り口上に、アレックスは一瞬身をこわばらせた。

「それは失礼。しかし僕は───」
「少なくとも私は、いくら勧誘されてもあなた方に寝返るような事は決してありません……トリーノさん」

今度こそ、アレックスは動きを止めた。
そのまま数秒が経過し、彼はようやく呼吸する事を思い出した。

「……いつから気がついていたんです」
「あなたが侍女兵について切り出したあたりからでしょうか。……それと、あなた方の顔や特徴は意外と広く知れ渡っていますから」
「やれやれ、変装の手間を省いたのが間違いでしたね。しかし、何故僕に手をかけようとしなかったんですか?」
レギオンの中でも知性派で通るあなたが、何も考えずに絞首台の縄に首を通すとは思えませんし……」

凍月は曖昧に公園の中の茂みや木立を手で示した。

「……読書に集中できなかったものですから」
「そこまでお見通しとは。ここは黙って引き上げた方がよさそうですね」
「あなたは───」

立ち上がろうとしたアレックス……トリーノ・ガ・ラを凍月が呼び止めた。

「何です?」
「逆にお聞きしたいのですが、あなたは私を始末しようとは思わなかったのですか。今潜伏している戦力ならば、充分に成功しうるでしょう」
「あなたは勘違いしていますよ。僕らの目的はMAIDとは関係ない。あくまで人類だけが標的です」
「しかし、あなた方が人々を殺傷しようとしたならば、その眼前には私たちが立つ事になります。妨害要素を除くべきとは考えないのですか」
「少なくとも今は、あなたは僕らと人類の間に立ちはだかってはいない。この答えでは、不満ですか?」
「それでも、いずれは───」
「ええ。あなたは容赦しないでしょうし、僕らも手加減などしていられません。
 それでも僕は、少なくとも僕らの間には何らかの理解や歩み寄りの余地があると考えたいんですよ」
「……」
「では、僕は失礼します。仲間の多くはちょっと目立ち過ぎるものですから、僕があちこち歩き回らなければならなくて……忙しいものです。
 それに、あっさり振られてしまいましたしね」

妻のある身では無謀でした、などとこぼしながら彼は席を立った。

「こう言うとおかしいかも知れませんが……お元気で、凍月さん」
「私はあなたの健勝を祈る事はできませんが、さようなら、トリーノさん」

トリーノは再び芝生を踏んで立ち去り、それと同時に凍月の神経を落ち着かなくさせていた周囲の気配も消えた。
だが、彼女は読書に戻る気にはなれなかった。

レギオン……彼らはわずかに十一名、首魁が全世界のMAIDに向けて煽動演説を打ったようだが、今のところ同調したMAIDの話は聞いていない。
配下と呼ぶべきか、多数のGを引き連れて活動しているらしいが、それでも絶対的な戦力差というものがある。
人類はいまだ技術的特異点に達していないにもかかわらず恐るべき勢いで進化するGと拮抗し続けているし、
MAIDとプロトファスマの戦力比などはもはや話にならないほどの開きがある。

「あなた方は……自らが滅ぶと知ってなお、自己満足のためだけに……」

不意に日が陰り、凍月が見上げると、空は鉄灰色の雲に覆い隠されようとしていた。この都市では、穏やかな晴天は長続きしないものだ。
そのままじっと眺めていると、やがて霧雨が静かに降り始めた。

彼女は黒い瞳で空を見つめ、ただ押し黙り、雨の降りしきる中を待ち続けた。
己の主、彼女自身の行くべき道を示す者が、彼女を迎えに現れるまで。




登場人物








最終更新:2010年01月10日 23:37
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