お味噌汁

(投稿者:ししゃも)




 時雨は、眼を閉じ、胡坐をかいた姿勢で壁に凭れていた。鞘に納められた刀を抱くようにして眠っており、彼が居る部屋は無音に近かった。黒旗が拠点にしている都市の、古びた借家の一室。時雨はそこを自分の生活の場にしていた。
 しかし、部屋は酷く殺風景な場所だった。電気は点いておらず、それの代わりに蝋燭が一本、時雨の前に置かれている。
 それしか、彼が住む部屋には無かった。食事は基本、同じ傭兵であり友である千早に作らせてもらっている。しかも、食べるときは彼女の部屋だ。

 時雨は不意に目が覚めた。横を見、ガラスが敷かれた窓を見る。外は真っ黒に染まっており、月の明かりがぼんやりと映っている。体感的に、深夜の三時だと時雨は悟った。
 起きる時間まで、悠に五時間はある。目を閉じ、眠りに就いたのが午後9時前後。自分にしては、珍しい時間に起きるものだった。そう思いながら、視線を足元に向け、再び眠りに就こうとした。

「眠れないの、時雨さん?」

 女性の声がしたと思うと、目の前に置いていた蝋燭の火が一瞬、消えかかったのが感じた。時雨は再び目を開け、女性の声がした目の前に視線を送った。蝋燭を隔てた先に、一人の女性が居た。
 少し痩せた頬に、ほっそりとした目つき。そして、蒼と紅の藍染をした着物を着ていた。女性は女座りをしており、何かを求めるような目つきで時雨を見ている。

「時雨さん。私が作ったお味噌汁、どうでしたか?」

 時雨は再び目を閉じ、目の前で現れた女の言葉を黙って聞いていた。

「美味しかった?そんな……時雨さんにそう言われてると、嬉しいです」

 女の言葉に、時雨は唇を噛み締めた。あの時の記憶が、まるで古傷が疼くかのように思い出される。どうせなら、あの記憶だけでも抹消して欲しかった。
 五年前のあの夜。将来の妻である、沙希代(さきよ)を亡くしてしまった時雨にとって、彼女の一言は刀のように突き刺さる。

「もういい。もういいんだぞ、沙希代」

 目を強く閉じ、時雨は目の前に居る沙希代に話しかける。しかし沙希代は時雨の言葉に耳を傾けずに、屈託の無い笑顔を振りまいていた。まるで、ここに居る時雨が存在しないかのように。

「それでは、沙希代。時雨さんの舌に合う様なお味噌汁をたくさん作りますね!」

「沙希代!」

 時雨は目を開き、大声を張り上げ、目の前の沙希代を怒鳴った。その時、時雨の隣に人の気配がした。慌てて時雨がその気配が居る場所へ視線を向けると、そこには寝巻きの服の上に、前垂れを重ね着した千早が居た。眼鏡は掛けていないので、弱々しい目つきが向けられている。
 そして、前髪や横髪を綺麗に切り揃えた長髪が、少しだけ揺れていた。彼女は心配した表情を浮かべ、時雨を見ている。
 気を取り戻した時雨は、何事も無かったかのように胡坐の姿勢になって、目を瞑った。

「何でもない。気にしないでくれ、千早」

「何でもないですって、時雨さん。こんな夜更けに大声を張り上げたら、誰でも心配しますわ」

 千早はそう言うと、時雨の前に置かれた蝋燭を見る。とても独りでに大声を張り上げる状況ではなかった。その部屋には、時雨しか居ないのだから。



『お味噌汁』



 時雨は、千早の部屋に居た。あの後、無理やり連れて行かれる形で、千早が住んでいる隣の部屋へ連行された。床の上で正座になった時雨の手前に、小さなちゃぶ台が置かれている。部屋自体は、時雨が寝ていたそれをさほど変わりない広さ。しかし、折り畳まれた布団や、傷んだタンスなどが置かれており、ある程度の生活環境が築かれていた。電気も灯っており、時雨の部屋と比べると雲泥の差だった。
 エントリヒ帝国に住んでいるのに関わらず、何故か千早の部屋は皇国と同じ匂いがした。その部屋の主である千早は、すぐ歩いた先のキッチンで夜食の準備をしていた。味噌汁の匂いだった。その匂いを嗅いだだけで、先ほどの沙希代のことを思い出してしまう。時雨はその雑念を振り払い、女を抱くようにしてムラマサを抱いた。

「お腹、空いているのではありませんか?ちゃんと栄養取りませんとね」

 キッチンから戻ってきた千早が、小さな鍋の取っ手を持ちながら、やってくる。服装は変わっていないが、代わりに眼鏡を掛けていた。その眼鏡の表面は、味噌汁を作ったときの湯気で、少しだけ白く染まっていた。
 そして、湯気が立った鍋からは美味しそうな味噌汁の匂いが時雨の鼻を刺激する。不意に、腹の虫が鳴った。

「あらあら。やっぱり空いているのではありませんか」

「好きに言え、千早」

 不覚だ、と時雨は最後に付け足した。その間に、ちゃぶ台へ小鍋が置かれた。千早はそれを置くと、またキッチンへと行く。多分、皿と箸を取りに行くのだろうと時雨は思った。時雨は、味噌汁が入った小鍋を覗き込んだ。何処で仕入れているのか知らないが、具に豆腐とワカメと玉ねぎが具と入っていた。千早の作る味噌汁には、いつもこの三つの具が絶対に入っている。程よく調理されている千早の味噌汁は、気に入っていた。
 皇国の定番料理として知られる味噌汁は、所謂『お袋の味』と知られている。時雨にとって、味噌汁は色んな意味で忘れられない思い出が詰まった料理だった。

「大丈夫ですか?随分と、お疲れのようですが」

 二人分の箸と御碗と、木製のおたまを持った千早が、小鍋に顔を覗き込ませる時雨に話しかける。時雨は何ともいえない表情で、鍋から顔を離す。千早は時雨の方にお箸とを置き、時雨の横へ座った。彼女は膝で立つとおたまを持ち、それを小鍋の中へ入れた。
 おたまで掬った味噌汁を、片手で持った御碗の中へ入れる。数回、同じ動作をした千早は馴れた手つきで、時雨が座っている方へ御碗を置く。時雨は、湯気が立った御碗を見つめながら、箸に手をつけようとしなかった。

「残留思念だ。沙希代の……」

 時雨はそう言うと、息を吐いた。MALEである時雨にとって、エターナル・コアが為せるものなのか、この世で強い未練を残した者たちを見ることが出来た。

 透死。時雨はこの能力をそう呼んでいる。時雨はそれしか特殊な能力を持たない。さらに言えば、透死は常時発動しているもので、ほぼ毎日のように残留思念が時雨に話しかけてきた。

「時雨さん、貴方は悪くないですよ。沙希代さんも、時雨さんを困らせる為に出ているのではありません」

 千早はそう言いながら、自分の分の味噌汁を掬っていた。時雨は、御碗に注がれた味噌汁をじっと凝視する。
 時雨が『過去』を殺す前、自分に妻と言うべき女性が居た。彼女が作る味噌汁は美味しく、時雨がそれを言うと、沙希代は喜んでいた。そんな日常を壊した、一人の男。沙希代は死に、自分は瀕死の重傷を負った。だが、過去を殺すことによって、時雨はその男を殺すことが出来た。
 その代わりに、時雨は透死という能力を得た。それ故に、沙希代の残留思念が時折現れては、時雨を苦しませた。その他にも、あの男や過去に殺した武人たち。そして、同じ兄妹であるMAIDたちの残留思念も。

「MAIDとは何だ?MALEとは何だ?度々、自分という存在が何であるか疑いたくなる」

「考えすぎです。そのような考え方は、コアの自我崩壊を招きますわ。……時雨さん、貴方は貴方ですよ」

 千早はそう言うと、御碗を片手に箸で味噌汁に浸かった豆腐を摘み、口へ運ぶ。それでもまだ時雨は、味噌汁を凝視している。

「すまない。少し取り乱した」

 時雨はそう言うと、沙希代の作った味噌汁を思い出した。千早が作ってくれたものとは違い、具は大根と薄く切った玉ねぎ。朝昼晩、毎日の食卓に味噌汁が並んでいた。千早の味噌汁は確かに美味しいが、沙希代の味噌汁はもっと美味しかった。素直に褒めたときの沙希代の笑顔が、脳裏に過ぎる。

「時雨さん、早く食べてくださいな。冷めてしまいますよ」

 千早の一言に、目を醒ました時雨は「失礼」と一言詫びると、ムラマサを床へ置く。箸を取り、御碗を持つ。そして、味噌汁を啜る。汁となった味噌の味や、ワカメや豆腐、玉ねぎが口の中へ入った。それを咀嚼し、やがて飲み込む。そして御碗を一旦、ちゃぶ台に置いた。

「旨い」

 時雨はそう言うと、千早はくすっと笑った。




「すまないな、千早。夜分遅くに食事を作ってくれて」

 味噌汁を堪能した時雨は、自分の部屋のドアの前で、千早にお礼を言った。電灯が灯った廊下には、時雨と千早しか居なかった。

「いえいえ。それでは、私はこれで。おやすみなさい」

 千早は頭を下げると、隣の部屋へ向かった。時雨は、千早が部屋へ入るのを確認すると、自分の部屋へ帰ろうとした。そのとき、ざらついた感触が脳裏に過ぎる。無線がうまく受信しないような、ノイズがかかった感触。それは、残留思念が現れたことを示すサインだった。

「旦那ぁ。味噌汁旨かったかだぜ?」

 後ろで声がした。時雨はゆっくりと後ろに振り返ると、手前の部屋のドアに凭れかかった、一人の男が居た。時雨よりもずっと老けており、白髪交じりの短髪。体格は小柄で、顔つきは楼蘭人のように彫りが深い。男の全身は半透明のようになっており、凭れかかっているドアが透けて見える彼は、時雨の稽古相手であり、時雨が最初に人を殺めた人物、芥川(あくたがわ)だった。
 くっきりと像が浮かんでいる沙希代の残留思念とは別物だった。生前の彼は、時雨にとって唯一無二の親友であり、お互いに切磋琢磨した、宿敵でもあった。今でもこうして残留思念として、時雨に話しかけてきた。

「そんなことをしているのも、今のうちだぜ。死だぜ。いっぱいの人が死ぬだぜ。旦那ぁ、せいぜい気張ってくれだぜ。旦那が望む武人を探し出してくれだぜ。俺じゃ、旦那の欲求を満たすことが出来なかったんだぜ」

「……正直、すまんかったんだぜ。俺ぁ、あんたがそこまで本気でかかるとは思っていなかったんだぜ。そんな怖い顔は止してくれだぜ、正芳(まさよし)……。怖いんだぜ、あんときの正芳の顔……だぜ」

 時雨はそこまで聞くと、ドアノブを回し部屋の中へ入って行った。芥川の声は聞こえなくなり、時雨は深呼吸をしながら、居間へと戻る。蝋燭の火はまだ灯っていた。時雨はいつものように壁へ凭れかかり、ムラマサを抱く。胡坐の姿勢にすると、そのまま瞳を閉じた。

 そのとき、時雨の隣に誰かが居る気配がした。花の鮮やかな匂いが鼻を刺激し、直感的にそれが沙希代の香りだと分かった。目を開けると、時雨の膝を枕代わりにして寝ている沙希代の姿が居た。
 まるで天使のような安らかな顔を浮かべ、寝息を立てる沙希代。生前の時雨は、よく彼女とこうして寝たことを思い出す。無意識に時雨は、色白の沙希代の頬へ触ろうとした。

「……」

 だが時雨の指は、沙希代の頬を通り抜けてしまった。芥川のように半透明でないにしろ、時雨は残留思念を見ることしか出来ない。彼、彼女に話しかけることも、触れる事もできない。時雨は寝息を立てる沙希代を見、やがて自分も寝ることにした。

「時雨さん……お味噌汁、美味しかったですか?」

 寝言を言う沙希代に、時雨は微笑んだ。沙希代の作った味噌汁の味を思い出す。それは、本当に美味しいものだった。

「ああ、沙希代。そなたが作る味噌汁は、本当に美味しい」


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最終更新:2010年02月08日 01:09
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