(投稿者:エルス)
彼女の赤く染まった腹を押さえいた手は老婆のようにふやけていた。
味方の砲弾が至近で炸裂し、彼女の背中から腸を喰い千切り、柔らかい腹を破り貫いた。
その穴は腹から向こう側が見える程で、助からぬのは誰の目から見ても明らかだった。
だが彼女は儂に助けを求めた。喀血し、赤くなった口を必死に動かし、行くなと言おうとしていた。
儂は傷を負っていなかった。要らぬ幸運を怨み、彼女へ歩み寄った。吹けば消える灯火を見下ろす儂は、彼女に何と映ったか。
血は流れ続けていた。穴に手を入れ、必死で止血を試みた。止まれ止まれと、胸中祈った。
しかし彼女は散ったのだ。震える手で空を掴み、どす黒い血を吐いて死んだのだ。
儂の手はふやけていた。彼女の赤く染まった腹を押さえいた手は老婆のようにふやけていた。
主は死んだというのに赤は流れていた。彼女の一部は流れていた。しかし涙は流れていなかった。
胸が張り裂けそうな悲しみを抱いているが、この儂は涙を流せぬようだ。
残ったのは儂だけだった。この幸運を悦ぶことは一生出来ぬ。儂の所為で散った命はこれで幾つとなっただろうか。自刃するべきか。
責任を取らねばならぬ。死して大君に侘びるのだ。抜刀する。剣先は我が芯の臓だ。
春に会おうと、彼女に告げた。
「これ、どうした。何か言わぬのかの? 美濃」
「申し訳ありませぬ。大君」
儂は侘びた。この御方、信濃内親王様は寛大な御方であるが、無礼は侘びるのが常だ。
「何を侘びることがあろうか。むしろこちらばかりしゃべるのはどうかと思うのじゃて」
「しかし、この野狐めは口下手です故、気分を害してしまうかもしれませぬ」
「ソレをきめるのは妾じゃ。汝ではない……違うかの?」
そう仰り、信濃内親王は柔らかな笑顔を見せた。まるで太陽のようであり、華のようでもある。
儂も笑うてみる。信濃様は笑うのも笑わせるのも好きなのだ。
「そうでありましたな、大君」
「ふうむ、もっとこう自然に笑うてみよ」
自然に笑う。信濃様はそう仰ったが、儂は自然に笑うた事が無い朴念仁である。
同時に欠けものの多い人形だ。そうする事は、難しい。
「……」
「まあすぐにとは言わぬ。いずれ自然に笑えるとよいの」
「はい、わたくしもそう思います」
「そうじゃの……汝の昔話はないのかの?」
信濃様は、侍女兵の話を聞くのが好きであられる。
儂の話も同様であるらしい。
「あるにはありますが、どれも負戦ばかりです。それ故、聞苦しいかと」
超壁戦線、亜国西部戦線、砂国東部戦線、亜無離亜戦線。
負戦ばかりが、儂の戦績である。
信濃様は儂の言訳にも聞こえる言葉に顔色一つ変えられない。
「何、教訓という言葉があるじゃろ?……同じ間違い……」
言い淀み、信濃様は外を見られる。その横顔が、輝いて見えた。
「間違いをそう……誰も歩ませたくはないじゃろ?伝えるということはそういうことじゃと思うの」
「……そうであります」
「そうじゃとも。まあどうしても話したくないのならよいが……こう、楽しかったこととかじゃと話しやすいと思うが」
戦場に楽しい思い出は無い。しかし儂は戦以外での暖かな話を知っていた。
それを、話すことにする。
「……教え子に、一葉というのが居ったのですが、一般将校と恋仲になった、というのがありますな」
「ほほう、それはそれは」
「それは楽しそうに近況を語り、それが心の支えになっているとまで言っておりました」
「よい話じゃ。してその後はどうなったのかいの?」
「はい。その後、何度か咎められはしたのですが、軍司令官が寛大な御方でして、今はその将校が一葉の担当官を務めているとか。たまに手紙も届いてきます」
「ほう……それはよいの。こちらの心も温まるよい話じゃ」
「……」
「妾も、そのような相手がいればよいな」
信濃様は苦笑なされた。この信濃院から出れぬ身である故、夢として仰ったのだろう。
儂にもそのような相手は居らんが、居らずとも良い。亡き時に出来る穴が大きくなるだけである。
「さて、この調子でどんどんいってみるがよいぞ? 妾もあまり多くとはいえぬが昔話もあるしの」
どうやら、儂の話をまだ聞きたいようである。
元々、口下手である儂は少し驚いた。
「分かりました。しかし、わたくしの話は先のような話が少なく、喋り切ってしまうことがあります。その点を、御許し下さい」
「構わぬよ。何、この信濃院には語らうこと以上の暇つぶしはないのじゃ」
「そうで御座いますか……ならば、良いのですが」
「そうじゃとも」
ふと思う。信濃様はこの信濃院より出れぬ、それは、とても哀しい事ではないか。世界中とは言わぬが、せめて、海と砂浜を見て貰いたい。
老い先短い人生を賭けると云うても、それは中中失笑を買うだけかもしれぬが、賭けて信濃様が真に笑うてくれるのならば、価値は有るであろう。
間を作ってしまった。信濃様が、首を傾げている。
「では、わたくしの昔話を、また一つ。流鏑馬はご存知でしょうか?」
「うむ。存じておる。あの走る馬の上から矢を放つあれじゃな」
「はい。それで、とある侍女兵が流鏑馬をしたいと、わたくしに申して来たのですが、その侍女兵は馬に乗れなかったのです」
「それは……」
信濃様は苦笑を隠すように、扇で口元を隠す。
あの時、儂は驚きで口が閉じなかったなと、思い出しながら喋る。
「泣いて口惜しがる彼女は恐らく、必死で練習をしたのでしょう。二週間経ち、その侍女兵は馬に跨り、満面の笑みでわたくしに、流鏑馬をしたいと、最初の時と同じように言ったのです」
「すごいのぅ。妾としては関心するばかりじゃ」
「馬というのは人の心を理解すると言います。彼女の思いが通じたのでしょう。まだまだ荒いながらも馬を乗りこなす彼女のその顔を、わたくしは忘れることが出来ません。達成感と、これから先を見つめる希望に溢れたあの顔は、この胸の中で、今でも光り輝いております」
「美談じゃ。妾もその侍女兵に会いたいものじゃ」
「はい。ですが、流鏑馬を教えた後のことをわたくしは存じておりませんので、会うのは難しいかと」
「そうか。……少し、残念じゃな」
「……申し訳ありませぬ」
「何。無理な事は無理じゃ。困らせるつもりはない」
「そうでありますか……大君の昔話とは、何なのでしょうか。是非、拝聴したいのですが……」
「そうじゃのう……」
そう仰ると、信濃様はふむと考え始めた。
儂はそれを見つつ、待った。
「編み物かの」
「編み物、ですか」
一瞬、網かと思った。
「そうじゃ。汝はしたことがあるかの?」
「いえ、何をどのようにして編むのかすら分かりませぬ」
「そうじゃろうな。妾も最初はわからんかったものよ……故に最初は失敗ばかりしたものじゃ」
「……」
「最初マフラーを編もうとしたのじゃが、それがベルトよりも細い珍妙なものになってしまっての。それに編み間違いも多かった」
「……」
んむ、と儂は頷いた。そういう話を、帝国のメヱドから聞いた事があった。
「物事は編み物みたいにやり直しはできぬ……じゃが、それでも生きておれば再度挑戦ができる。 そういうものじゃとおもう」
「その通りに御座います」
「ゆえにの、一人残されたと嘆くより、先に逝ってしまった者らのことを語り継ぐことができる そう考えてはどうかな?」
儂の事だった。この御方は何もかもを見透かしておられるのか。そういう愚考が頭を右往左往するが、儂を見つめている信濃様の瞳は、純粋潔白であった。
見透かしてはおらぬが、儂がそう見えてしまう雰囲気を持っているのだろう。嘆いてなどはいなかった。責任を感じておるだけだ。
儂の所為で散った友の数の、教え子の数の、ただただ多くなってゆくだけのこの数字の、責任を取ろうと思っているだけだ。
しかし、傍から見れば嘆いているように映るのだろう。
「……わたくしの事でしたら、心配はいりませぬ。嘆いてはおりませぬ故」
「んむ。その言葉をきいて安心したの」
「余計な心配をお掛けしてすみませぬ」
「なんの。これからは共に過ごすのじゃ……いわば家族じゃな」
家族、と仰った信濃様は、また笑った。
大君に家族と、そう云われた儂は、複雑な心境であった。
責任も取らず、この誉れを受けても良いのだろうかと。
しばし間を置き、儂は決意した。
「……そうですな」
「故に心配とか苦労とかかんがえんでよい」
「……了解致しました」
「んむ」
満足そうに信濃様は頷いた。その頷きに答えねばならない。
皇國陸軍天皇近衛師団の名に恥じぬ働きを、儂はせねばならない。
この御方の笑みを守る、この身の誉れは、ただただ生ける人形となるより、遥かに上である。
たとえ信濃様が儂と同じ侍女兵の
一人であろうとも、儂は守護を貫き通すのみ。
それが儂の使命であるのだから。
「この野狐、朴念仁でありますが、宜しくお願いします」
そう云い、儂は頭を下げた。
小望月の月光が照らす、夏の日だった。
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最終更新:2010年02月16日 10:45