Behind 5-1 : Our Slag

(投稿者:怨是)


 意識が朦朧とし、視界が定まらない。辺り一面にもやがかかり、首も動かせない。
 現状、自分の名前がジークフリートという事だけは思い出せるが、それ以外の事に関しては何一つ判らなくなっていた。夢を見ているのだろうか。夢の中では自我の境界というものは限りなく曖昧になる。ジークはこの空間が夢であると仮定し、これ以上の思考を放棄した。

「いい顔つきになってきたね」

 ふと、青い髪をした女性――顔はよく解らない――がこちらを覗き込む。あの頃と変わらない優しい声音はしかし、ジークの心の奥底に痒みを与えた。言葉を発せない。手を伸ばせない。見たいのに見えない。見たくないのに視線を逸らせない。

「私は表舞台から去ってしまったけど、ジークが元気そうで何よりです。あの時はごめんね。私はどうかしてたみたい」

 ――謝らなければならないのは、私の方だ。
 願わくば今の今まで何も変えられない自分の無力を、声高に叫びたい。なのに、それが出来ない。

「泣かないで、ジーク……貴女はもっと強くなれる」

 違う。違う! 強くなりたくない。もう強さを求める必要は無いし、その為にこれ以上傷つくなど御免だ。ジークが求めたのは孤高の栄光ではない。平穏な日常と、仲間の笑顔だ。周囲の賞賛の声も、姿を見せる度に巻き起こる拍手も、数々の煌びやかな勲章も、己の心がそれを認めぬ限り、雑音と、土塊の勲章でしかない。
 窓の開け放たれる音と共に、女性の低く暗い笑い声が耳元へ吹きかけられる。

「邪魔する奴は何もかも圧し折ってしまえばいい。私や貴女自身が認めなくても、彼らにとって貴女は守護女神のまま。その圧倒的な力で皆を支配するの……そうすれば、全てが思い通りになる」

 やめろ、それ以上は駄目だ。まるで悪魔の囁きじゃないか。

『そう……自分の存在価値を認めるのは、自分なんだ……! そればかりは、誰にも邪魔されてはならない筈だ!』

 ジークがあの時彼女に求めた答えは、こんな言葉ではなかった。恐怖や暴力による支配など望んではいない。だが、それを口にする事は例え今ここで言葉が喋れたとしても、ジークは云えなかった。今年の4月21日にジークが行った事は、まさに暴力的行為に他ならなかったからだ。
 廊下の遥か遠方から足音が幾つも聞こえて来る。青い髪の女性は、ジークの頭を優しく撫でた。

「灰色の反対は虹色。ジークは灰色にならないで。貴女が動けば、貴女が思っている以上に皆に影響を与えるし、貴女は自分で思っている以上に周りに影響されやすい」

 灰色、虹色? 何の話か見当が付かない。身体が、意識が、首を傾げる事を許してくれないせいで、ジークは朦朧とした中で胸中を忸怩たる思いで満たさざるを得なかった。頭が痛い。脳が固形化してひび割れるようだ。

「だからね。貴女の影響力を逆に利用してやればいい。貴女が守護女神ジークフリートとして彼ら民衆や軍人達に命じれば、貴女を信じない宰相派や貴女を利用しようとする連中はともかく、馬鹿で敬虔な奴らはきっと素直に従ってくれる」

 黒い感情が粉末状の(すす)となって脳裏に流れ込む。引っくり返した砂時計のように、さらさらと。やがて溢れ出た煤は、部屋の壁、天井を黒々と染めて行き、身体が埋まる。

「むしろ利用しようとしてる奴だって、裏さえかけばきっと簡単に仕返しが出来る。コインの裏側を覗き見るの」

 煤が顔を覆い始める。視界は黒ずみ、息が詰まる。女性の顔は相変わらず見えない。

「奇跡を信じた正攻法なんて絶対に駄目。勝つ為には頭を使わなきゃ」

 解っている。周囲を取巻く漆黒の煤が、本当は存在しない事くらいは。だが、魂の奥底にへばり付く感覚は本物だ。僅かに残った良心が、痛覚となって首筋に奔った。頬に触れる女性の指が、その痛みを和らげてくれる。指の動きと連動して煤がかき混ぜられ、心地良い。

「……どうか、私を失望させないでね。それじゃあ、また」

 彼女の気配が消え、意識がようやく透明感を取り戻した。飛び起きて辺りを見回すと、銃を構えた親衛隊の兵士らが窓を向いて呆然と立ち尽くしていた。

「夢じゃ……ないのか」

 1945年4月31日、汗が全身の皮膚を伝うような暑い日の事だった。



 ――あれからおよそ二ヶ月が経過した。
 V2ロケットの脅威が去ったにも関わらず、1945年7月7日の親衛隊本部はいつに無く慌しい。

 「美容師を手配しろ。三分以内だ」

 皇帝の側近が将官にそう告げるや否や、俄かに“電話小屋”と呼ばれる帝都電信室が賑わい始めた。帝都で名の知れた美容師達がこぞって「私がやります」と電話口で売り込む。電信室の室長は情報課から入手した資料を眺め、一つ一つ丁寧に見定める。

『かの軍神が再び、我らの前にそのお姿をお見せになられるのだ!』

 人々は皆その口上を動力に、心のタービンを高速回転させる。「あの美しきブルーの瞳を飾る金色の髪には、相応しき手入れが必要だ」と軍人達は口々にはやし立てた。復活祭には然るべき美容師が、かの軍神の髪に鋏で触れる事を許されるのだ。
 むろん、美容師の選定には一般人からの口コミも用いた。官民一体となってこそ、この一大事業は真に実を結ぶ。その熱狂振りたるや、遠く離れた楼蘭皇国にさえ、その日に噂が届くほどであった。

 側近に案内され、ジークは電信室から保管庫へと足を運ぶ。
 技術者が開口一番に「軍神を継ぐ者、アースラウグの担当官は勿論、守護女神であるジークフリートです」と挨拶代わりに語った。

「……私ですか」

 彼の言葉を聞いたジークは、さしたる感動を示さなかった。全ては何者かが仕組んだシナリオなのだろう、などと虚ろな目で遠くを眺めるだけだ。
 5月の中頃にG-GHQから届いた警告文書を思い出す。確か、正当な理由なしに戦線から長期間離れる事を咎める内容であり、決められた期限までに復帰せねば処分されるといったものだ。それを見た皇帝がひどく焦燥した様子で方々を奔走していた。国民もまた新聞を通じて情報を得たのか、事の安否を案ずる投書が多数届けられた。
 そういった背景もあってか、アースラウグ計画は予定より一ヶ月前倒しで実行される運びとなったらしい。無論、ジークフリートが教育担当官として据えられる事は計画立ち上げ当初から既に決まっていた。
 アースラウグの外見は軍神ブリュンヒルデとよく似た金髪碧眼の、少女型が選定された。停滞した帝国の空気に新風を吹き込むというのが技術者の目論見だと聞かされている。

「これからは帝国の象徴は二柱となり、より素晴らしい躍進を遂げる事でしょう」

「守護女神は死んだと申し上げた筈ですが……」

 思わず技術者を指差し、睨んだ。目の前の男が次に下手な言葉を口走ろうものならば、そのまま首を掴んでやろうという心積もりだ。ジークに殺意を伴った人差し指を突きつけられた技術者は、慌てて弁解する。

「いやいや、そういう意味ではありません。今まで、ジークフリート一人に負担を掛けすぎましたからね。ですが、二人であれば心強い。かつてブリュンヒルデが貴女を育てたように、次は貴女が軍神を育てる。そうする事によって貴女は心の拠り所を得るでしょうし、我々も次なる希望に胸を躍らせる毎日が過ごせる。云わば希望の光なのです」

 もはや、成る様に成れと冷笑する以外にジークは選択肢を持てずに居た。彼ら技術者の企図の悉くを無視してやる。アースラウグがジークの部下という位置付けならば、自身の望むように育て上げ、彼らの表情を絶望に塗り替える駒としてやろう。ジークはこの悪戯を神々の黄昏(ラグナロク)と名付ける事にした。これを知れば多くの者がブリュンヒルデへの冒涜だと怒り狂うだろう。しかし、軍神は1941年に死んでおり、楽園などとうの昔から白昼夢の中へと帰ってしまったではないか。
 彼らから神話、そして伝説が生まれる度、このジークフリートが叩き潰して粉砕する。誰も、夢見心地で戦場を生き残る事など出来はしないのだ。さようなら、幻想よ! 見ろ、営舎の外に降り注いでいる轟々とした大粒の雨を! 世界を海中に没するあの終焉の嵐そのものだ!
 雷光を直視しながら、ジークは誰に見せるでもなくほくそ笑む。人々は軍神の復活には生憎の天候などと嘆いているが、ジークからすれば晴れ渡るような心持だった。出鼻を挫かれ、復活パーティは営舎と政治喫茶の中、そして各々の民家でのみ行われる。皇帝派軍人らがサプライズ――何と宰相派にも連絡せずに――で民家を訪れ祝辞を述べるが、大雨の中をびしょ濡れになりながら廻らねば成らぬという苦痛とは想像するに心地良い。

「やっと笑ってくれましたね。ジークフリート。後継者が出来るというのは嬉しいですか」

 技術者の一人が安堵した様子で声を掛ける。

「えぇ」

 鉄面皮が役に立つ。微笑んだまま頷けば、彼らを欺ける。女は生まれながらの役者だと、ベルゼリアも云っていた。そう、今の自分は大物女優、ジークフリートとして彼らの前に居る。二ヶ月前に行なった演説は「神話に依存するな、自らの意思で立ち上がれ」という激励に取って代わられた。自らの価値を貶め、周囲の視線を等身大の自分に近付ければ、腹を割って話せる仲間が増えるのではという企みは恐らく失敗に終わったが、結果としてアースラウグという駒によって自らにかかる重圧を多少なりとも回避できる。

 ……場所は薔薇園に面した小部屋へと移る。
 暫くして美容師が到着し、挨拶した。軍人達がそれを歓迎し、挨拶もそこそこに美容師は目覚める前のアースラウグの髪を整え始めた。長々と伸び散らかした金髪は肩口までの長さのショートボブへと切り揃えられる。美容師が前髪に手を付けようとした辺りで、マクシムム・ジ・エントリヒ皇帝が慌ててドアを開け、小部屋へと入って来た。

「おぉ……! この子が軍神を継ぐ者なのだな!」

「ジークハイル! ハイル・エントリヒ! 然様でございます、皇帝陛下」

 技術者が畏まって答える。
 皇帝の喜び様に、ジークは僅かながら心が痛んだ。アースラウグのエターナル・コアはブリュンヒルデのものが用いられている。軍神ブリュンヒルデは皇帝がいたく気に入っていたMAIDで、彼女が機能を停止した際も暫くは予定に入っていた会議を取り止めにし、政治をギーレンに任せていた。あの時ジークは、ヴォルフ・フォン・シュナイダーより訓練を受ける傍らで、兵士らの世間話を小耳に挟んでいた。
 とにかくそれほどまでに愛情を注いでいたのだから、皇帝がこうして涙を流して歓喜するのも頷ける。しかし、蘇生したMAIDというものに前世――MAIDに於いてもこの言葉が用いられるが、皮肉な事に輪廻転生が現実に明確な形で確認できるのはMAIDだけだ――の記憶は存在しない。それに能力も往々にして前世とは異なるものになる。軍神から引き継いだものはコアと、名前と肩書きだけだ。云わば、鉄を精製した際に出る残りかす、鉱滓(スラグ)だ。ブリュンヒルデという名の鉄は、彼女が死んだ時に溶けて消え去った。

「……私達に残されているのは」

 不意に呟いた言葉だが、誰も振り向かなかった。皇帝の声に掻き消され、誰の耳にも届かなかったのだろう。それが幸いし、ジークは思考を乱される事無く再び逡巡を始める事ができた。さて、彼ら伝説主義者共の杯に、如何様にして鉱滓を混ぜてやろう。彼らの宴が終わる頃には、彼らの胃袋の中に鉱毒が満ち満ちて居なければならない。否、鉱毒と呼ぶのは誤りか。人類の心を伝説主義に至る病から救う薬と定義しよう。

 散髪は終わった。いよいよ目覚めの時だ。

「ご苦労様でした。賃金は所定の銀行へと振り込ませておきましたので」

 技術者がそう云って、美容師を退出させる。足音が遠のいたのを確認した技術者は、金属製のケースから注射器と薬品を取り出した。
 “起動剤”と呼ばれるその薬品は、MAIDのエターナル・コアに作用して出力を一時的に上げる。出力抑制剤と併用して目覚めるタイミングを任意に調整できるようになっているのだ。1944年末から、この技術が用いられている。
 技術者はアースラウグの首筋に注射器を刺し、起動剤を注入する。果たして数秒後に、アースラウグは眼を開いた。

「おはよう、アースラウグ。わしは、マクシムム・ジ・エントリヒ。このエントリヒ帝国の皇帝だ。そして……」

 皇帝に手繰り寄せられ、ジークはアースラウグの眼前に立った。

「彼女が、ジークフリート。そなたの姉となる存在だ」

 ――姉、か。
 随分と不出来な姉が居たものだと、ジークは己の境遇を嘲った。こんな姉に利用される運命にあるとは、思っても居ないのだろう。目の前の可憐な赤子は。可哀相に、こんなにも可愛い笑みを浮かべているのに。
 それを思うとこの人形候補たるアースラウグが急に愛しくなり、自分が生まれた直後にブリュンヒルデがそうしてくれたように、ジークもアースラウグの頭を優しく撫でた。



 人々は英雄を求め、与えられた虚像にその名を貼り付けた。
 虚像を生み出した一握りの傲慢な者たちは、己の功績を自賛した。

 ――時は1945年。
 “G”と呼ばれる巨大害虫に超人的な力で立ち向かう女性型の兵士――MAIDが戦場に現れてから、短くない年月が経とうとしていた。

 鍍金(メッキ)にまみれた戦果は華を添えていよいよ煌びやかに報道され、人々はその光沢に酔い痴れる。
 “奇跡”という名の麻薬が兵士を麻痺させ、民衆を盲目に陥らせた。
 何もかもが、度を越していた。

 主義(イズム)が燃え上がり、
 (ロジー)が組み上げられ、そして数多の伝説は“nize(ナイズ)”される。

 -We couldn't break down the legend of MAID.
 -Sunshine is already dead.
 -Moonlight is already dead too.
 -We can't touch about the legend of MAID any longer.

 -But,we are thinker.
 -So we must take the blame about legendists, again, again and again.


最終更新:2010年08月24日 15:16
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