(投稿者:エルス)
……まず、一番最初に感じたのか、閉塞感と虚無感、そして意味不明なまでの安堵感だった。
まるで世界中からGが居なくなったと言われた後のような、そんな感じすらする。
少しだけ汚れた白い天井を見つめながら、俺はくすりと笑った。
左肩が完全にギブスで固定され、腕は包帯を念入りに巻かれていて、背中にはガーゼが何十枚も張り付けてある感覚があった。
他にも普通なら感じることが無いだろう違和感が山盛りだが、全部上げると切りがない。
それほどの負傷個所があったのに、よくもまあ生き返れたものだと、自分の生命力にほとほと感心する。
首が動く範囲で病室を見渡すと、どうやら個室のようだった。通常の病室より狭い割に、プライバシーは守れるし、無駄な会話に体力を使うこともない。
どうせベッドの上から動けないのだと考えると、病室の狭さも気にならない。
しかし、問題は痛みだった。何日間眠っていたのかは知らないが、傷口が塞がっていなければ、俺は鎮痛剤が切れる度に、また我慢という無視をしなければならない。
正直言うと、痛いのはこれっきりにしたかった。
「……シーリールー」
「……居たのか、エル」
「ずーっと居ましたよー。もうずーっと」
「顔を、見せてくれないか? 身体を起こすことすら出来ない有様なんだ」
「顔だけなら、お安いご用ですよ」
衣擦れの音がした後、視界にエルの顔が入り込んできた。さっき起きたばかりなのか、どこかぼんやりとした目で俺を見つめ、そしてにっこりと笑った。
笑い返そうと思ったが、どうもうまく笑う事が出来ずに断念する。恐らくは長らく使われなかった筋肉が強張ってるんだろうが、どこくらい眠っていたのかすら知らない俺は、エルに聞くことにした。
「俺はどのくらい眠ってたんだ?」
「一週間と二日ですよ。出血量が多すぎて、幾らメードでも無理だろうって、そう言われて……ボク、凄く心配してたんですよ?」
「……ごめんな、心配させて。俺はお前のためだって言ったけど、お前を一番心配させてるのも俺なんだよな」
「でも、ボクはそんな
シリルが好きなんです。ボクのために、そこまでやってくれたシリルが」
そう言いながらエルは俺の頬を撫でて、幸福そうな顔で俺を見つめた。俺にはエルの心が読めるわけではなかったが、それでも今思っていることは容易に分かった。
点滴の針が刺さっている右手が動く事と、動かしても痛くないのを確かめてから、俺は彼女の頬を撫で、髪を撫で、頭を撫でて、ふっと微笑んだ。確かに彼女はここに居るのだという安心感が、心を満たした。
今はまだ十二月だと言うのに、俺は温かさを感じた。眼から流れ落ちたそれは、そのまま頬を下って行って白い枕を濡らした。視界が歪んでいると気付いたのは、彼女に泣いていることを指摘された後だった。
二週間後、俺は退院する事が出来た。骨折した所為で左腕を肩から上にあげる事が出来なくなってしまったが、それ以外は依然と変わらず、ほぼ健康体だった。
リハビリをすっ飛ばしての退院だったので、主治医だった
ルフトバッフェのメード技師兼医者が思いっ切り不機嫌になって、その助手も露骨に不機嫌になっていたが、なんとか退院の許可は取れることができた。
靴を履く感触にすら懐かしさを感じる程だったので、軍からの送迎車両に乗り込むまで、エルの肩に手を置きながら歩いたが、慣れればまた走れるなと言うのが正直な感想で、深刻なものではないなと推測する。
そして基地に戻ってから更に一週間後、
ルルアがひょっこりと帰ってきた。
俺に比べて軽傷だったものの、胸部に銃弾が直撃したということもあり、
EARTHの方から精密検査を受けろと言われて、グリーデル本島に行っていたのだとかなんとか。
軽く抱擁を交わし合った後、基地に配属されたメードが三人揃ったということで、連隊主催のパーティーが開かれたることになってしまった。
補給部隊にコネを持つ将校が束になって掻き集められたという酒が一晩で無くなり、翌日は連隊の五分の一の兵士が二日酔いで医務室に駆け込む始末だ。
俺とエルはと言うと、そのパーティーに参加した後、マクスウェル中佐に休暇を申請した。
驚くことに、書類が出来上がるまで時間が掛かるから、さっさと行って来いと言われ、俺たちはその言葉に従って、荷物の支度を整えた後、サイドカーで基地を出た。
休暇の期間は五日間。俺とエルはエテルネのとあるホテルに泊まり、そこで羽を休めて、同じベッドで寝て、次の一日は部屋の中で過ごして、
翌日は買い物を楽しみ、そして最後の日に基地へと帰った。雪が降り始めていたので、到着する頃には二人ともびしょ濡れだったが……。
次の日にはルルアを合わせての三人でお揃いの黒いコートを着て、笑い合った。
ペアルックのコートを買う時にエルがルルアの分も買いましょうと言ったもので、それを受け取ったルルアは嬉しくて嬉しくて、堪らずに泣き始めるという、予想外のリアクションを取ったので、俺はどう反応すればいいのか困った。
その後、外に出て、暖房で弛緩した気を引き締めて居る時、何故か歩兵たちに雪玉を纏めて数十個ほど投げつけられて、そこから雪合戦に発展して、どこからともなくスピアーズがやってきたので、俺とスピアーズの二人で歩兵一個小隊を相手に激戦を繰り広げることになった。
結果として俺とスピアーズはびしょ濡れになって、二人して談話室の暖炉の前で温まる羽目になってしまったが、正直言って楽しかった。
もう俺とエルのことについて、とやかく言う奴はいなくなっていた。もっとも、行動でちょっかいをかけてくる奴はまだまだいるのだが……。
「勲章が授与されるそうだ」
マクスウェル中佐がそう言ったのは、そういう何事もない平和な一日の内の一つである、十二月の中頃の火曜日だった。
メードが勲章を授与することは国によって違うが、クロッセル連合各国は基本的にそう大々的に授与することはない。
帝国はメディアを最大限に使う為に
ジークフリートの勲章授与式をラジオで実況したりするが、他の国では指揮官から手渡されるような形でひょいと渡されるのが普通なのだ。
他の歩兵たちがそうであるように、メードも御多分に漏れず、そうなのだ。
「大瑛帝国勲章五位だ。私はこれの二位を持っている。まあ、だからいちいちサーと呼ばれるんだがな……」
そういうわけだから、ある程度荷物を纏めて迎えを待てと言われた俺は、そう言われたわけではなかったが、エルにも荷物を纏めろと言い、グリーデルに行くことになったと説明した。 どうして女王陛下の元まで行ってそれほど高位でもない勲章を授与しなきゃいけないのかという疑問は、興味がなかったのでそれほど考えなかった。
マクスウェルに授与する際の応答などを教わり、三日後に到着したアルトメリア製輸送機に乗った俺とエルは、乗り心地の悪い軍用機の中で少しだけ眠り、そして港に程近い空港でそこそこ豪華な客船に乗り換え、
グリーデン諸島に着くまでの時間を過ごした。港に着いた後、車でホテルに送られて、明日の朝に迎えが来るから、それまで自由にしていて良いと言われたが、疲れていたので二人で寝た。
翌日、軍の制服に着替えて迎えの車に乗り込み、王城に到着した。記者も誰もいないので、俺は少しだけ安心して姿勢良く歩いた。
三歩ほど後ろをエルが歩いていたが、迎えの車のドライバーも近衛兵も何も言わず、そのまま謁見の間へと歩いた。
門の手前で近衛兵にボディチェックを受け、服装を直されてから、謁見の間へと入る。
中は良くも悪くも古く象徴的な広間で、左右に何本かの柱が立ち、遠く正面には数段高い位置で女王陛下ことユピテリーゼ・ラ・クロッセル一世が玉座に鎮座しており、
こちらを探るような目つきで見詰めていた。女王らしくない目だなと思いながらも、俺は門が閉じる音を背中で聞き、女王陛下の隣に立つ老紳士から声が掛かるのを直立不動で待った。
形式通りやるのは何だか癪だったが、そうしなければ近衛兵に連行されるのではないかと言う恐怖心もあったので、マクスウェルに言われた通りにやった。
玉座の近くまで歩いた後、そこから先の手順を忘れていることに気付いて、外見は直立不動だが内面で思いっ切りあたふたしていると、誰かがクスクスと笑った。
誰が笑っているのだろうと思ってふと顔を上げてみると、他でもない女王陛下その人が笑っていた。
「もう良いわよ、楽にして。あーおもしろかったぁ……」
「………は?」
「軍人に授与する時はさっきみたいに形式通りやるんだけど、今回はあなたを呼び出すことの方が目的だったから、そんなに堅苦しくならなくて良いの。はい、肩の力を抜いて深呼吸してー」
「………は、はぁ……」
「むっ……」
「……俺を呼び出すのが目的って、どういう事でしょうか?」
「よろしい、では説明しましょう」
それからユピテリーゼ・ラ・クロッセル一世は、どうして俺を呼び出そうとしたのかを説明した。
ついでにエルを連れてくるのは想定内だったらしく、近衛兵にもそのことを伝えていたのだとか。
そして話の確信なのだが、これが意外過ぎて、俺は目をパチクリとした後、無礼を承知でもう一度行ってもらい、それが真実なのだと頭で噛み砕いてから認識して、思いっ切り深く溜息を吐き出した。
「近衛兵にメードを入れたいのは分かりました。けど俺はそんな目立つ所に居たくないです」
話の内容を要約すると、俺を近衛に引き入れて王城の防衛力を強化しようというものだった。
しかしながら、これは女王の提案じゃないらしく、たまに話を中断して老紳士にあれこれと質問していたし、口調もノリ気じゃなかった。
その証拠に俺が拒否とも取れる言動をした瞬間、女王はまだ幼げの残る顔に笑顔を浮かべ、しきりに頷きながら、「そうよね、そうよね」と言った。
そして最後に「あんまり王城の警備が厳しくなると抜け出せなくなる」とかなんとか呟いていた。
俺がそれをボケッと見ていると、女王は無造作に老紳士に小さな箱を渡し、老紳士は俺にその箱を渡した。とりあえず中を覗いてみると、大瑛帝国勲章五位が入っていた。
こんなにあっさりしてていいのかと思う傍ら、本当に目の前にいる少女が女王なのかと疑いたくなってくる。
「あなたの意思は分かったわ。近衛には違うメードを引き入れることにするから、もう帰って良いわよ。それじゃ、自分自身で勝ち得た喜びと共に」
にこやかに笑う女王陛下に礼を返し、なんだか釈然としないまま俺とエルは王城から出て、送りの車でホテルに戻った。無駄に緊張した所為もあって、その日はよく眠れた。
「いやだなぁ。ボクだって緊張してたんですよ?」
「そうだったのか? 黙ってたもんだから、気を使わせちまったのかと思ってたよ」
翌日、グリーデルにあるリスチア料理店で朝食を取りながら、俺とエルは昨日のことを話し合っていた。
張り詰めた雰囲気の中で喋らないと言うのは鉄則だが、あの後のフランクな空気の中でエルが喋らなかったことが少し気がかりで、それについて質問していたのだ。
「ボクは愛国心が強いんですよ。もちろん、シリルへの愛の方が強いですけどね」
「嬉しいな。それにしても、愛国心、か……。俺には分からんなぁ……エテルネが良い国だったって思えない」
「確か……
エテルネ公国陸軍から始まった戦線崩壊の口止め料……」
「その口止め料が俺だよ。一応、瑛語はできたけど、最初はエテルネ訛りが抜けきってなくて、色々と小馬鹿にされた」
苦笑しながら言うと、エルはくすくすと笑って、完璧な発音のエテルネ語でぽつりと呟いた。
「la vie en rose」
「その意味を知っているか……と聞いたら、知ってるんだろうな。バラ、好きだもんな」
「好きですよー。単にバラと言っても奥が深いんですからね? 色の違うバラの組み合わせで相手に伝えたいことを伝える……なんてことも出来ちゃうんですよ」
「……知らなかった。色ごとにそれぞれ花言葉が違う事とか、いろいろ知ってると思ってたんだが……ただの思い込みだったみたいだ」
「どうでも良いようなことでも、なかなか奥が深いんですよ。コーヒーの淹れ方にしても、ガーデニングにしても」
「なら、生きるって行為はもっと奥が深いんだろうな」
「ボクもそう思いますけど……そういうのは、哲学者さんたちに任せましょうよ。ボクらはボクらで、生きていくことにして」
「……そうだな」
運ばれてきたコーヒーを手に取り、一口飲んだ後、ふうと息を吐き出す。紅茶を頼んだエルは、やはり上品な仕草で飲んでいた。
生憎の曇りで、エテルネ人が嫌いなグリーデル人からの目線がたまに俺に突き刺さること以外、何一つ違和感のない日常だった。
俺の手に入れた日常………いや、それは独善だ。日常は何時でもそこにあった。望めば手に入れることのできた、不変のものだ。
思えば、俺もエルも、随分と遠回りをしたものだ……。もうそろそろ、ゴール地点が見えて来ても良いんじゃないだろうか。もちろん、死と言う意味ではないゴールだが。
「……雪、降り始めましたね」
「ああ、そうだな」
ふらふらと落ちてくる雪を眺めながら、俺はそう返した。雪よ、どうしてお前は俺の記憶の中に強く残り続けるんだと、内心そんな疑問が浮かんできた。
雪もまた、色々な意味を持つ。死であったり、白であったり、冷たさであったり……そんな雪。そんな雪が、俺の記憶の中では頻繁に出てくるような気がする。
実際に思い出してみると、それほど頻繁に出てきてはいないのに、そう感じてしまう。これは、ミシェル・ハミルトンの残り香なのだろうか……。
俺がそんなことを考えていると、エルが店の外を眺めながら、ぽつりと言った。
「これからは、雪の日も、晴れの日も、雨の日も、風の日も……ずっとボクと一緒に居てくれます?」
「……ああ、もちろん」
「それじゃ……シリル……」
「ん?」
「ボクと、結婚してくれますか?」
結婚と言う言葉を飲み込むまで、いったい何秒かかっただろうか。
色々な無駄で意味のない考えが浮かんでは消えてを繰り返し始めるが、答えは決まっているのだ。
ゆっくりとコーヒーを飲んで、地面に落ちて溶けてゆく雪を眺めてから、俺は呟いた。
「するにきまってんだろうが」
THE END.
最終更新:2011年07月13日 17:22