Chapter 8-2 : 彼女らの傷痕

(投稿者:怨是)


 ――1945年、9月15日。帝国大図書館の崩壊から、早くも4日が経過した。
 地獄の釜をひっくり返したかの様な大打撃は、帝国全土を震撼させた。スィルトネートは何度目かの報告書を仕上げ、書類ケースに纏めている最中だった。ついでに、机の上に散乱した他の書類から有益な情報が無いか、目を通す。ろくに睡眠も食事も取らずに、数日間はこうした生活を続けている。

「雨、か……」

 雨は嫌いだ。何かを失う日――大切さの大小は問わず――は、決まって雨が降る。昨日の空は晴れ渡っていたが、プロミナテオドリクス、そしてあらゆる大切な何かを失った。あの日、親衛隊本部に待機していたMAIDは殆ど居らず、また増援も何者かの通信妨害で送られなかったらしい。狙い澄ましたタイミングでの襲撃といい、絶対に何かが絡んでいる筈だ。親衛隊が総出で敵視しているあの黒旗だけではない、何者かが。
 不意に、背後から気配が現れる。

「――ッ?!」

 振り向けば、黒い鎧姿の優男が呆れ顔で立ち尽くしていた。

バルドルですか。驚かせないで下さる?」

「これは失敬。驚かせるつもりは無かったのですが」

「はぁ、然様で」

 無視して書類をめくり続ける。構っている暇など無いのだ。何としてでも一連の事件の真相を、欠片一つでも掴まねば。真実がこの両手の指をすり抜けて何処かへ消えてしまう前に。人々がやがてこの事件を忘却し、風化させてしまう前に。

「ところで、そんなに顔を(しか)めて何をお探しで? 調べ物というものは、あくまで冷静に行なうべきですよ」

「ご忠告、どうも。仕事が捗らないと人一倍苛立つ性分でして」

「なるほど。いけませんね。苛立つと余計に見付からない。見付からないから更に苛立ちが募る。悪循環です。……如何でしょう? 此処で休息を挟むというのは」

「ではお言葉に甘えて」

 腕を伸ばし、身体を反らせる。肩の辺りに溜まった凝りが取れる事は無く、身体が鉛の様に重い。胃袋は空腹と拒食がぶつかり合って悲鳴を上げ、喉元が嘔吐感で、うねる。こんな状態で今まで探し物をしていたのか。見付からないのも道理だ。

「立場で云えば貴女が上です。これでは私が許可したみたいではありませんか」

「そうでしたっけ?」

「そうですとも。……お茶を淹れましょう。茶葉はどちらに?」

「ありがとうございます。奥から二番目にあるんで、それを使って下さい。……グリーデル人じゃないのに、淹れ方をよくご存じで」

「これでも趣味は料理でしてね。茶の嗜みくらいはありますよ」

 バルドルの提案は正解かも知れない。頭脳が疲労を訴えている。頭を抱えながら、スィルトネートは書類を引き出しに仕舞い込んだ。蛍光灯に照らされた書面の白が眩しくて、目が痛い。コンロとポットで湯を沸かしながら、バルドルが振り返る。

「それにしても、テオドリクスとプロミナの件は残念でした。国民会館での暴走事件から、嫌な予感はしていたのですが」

「テオドリクスについて、何か詳しくご存じで?」

「旧知の仲……でしてね。昨今でこそ別々の場所で戦ってはいましたが、私がザハーラへ赴く以前は、よく共闘したものです」

 二人にそれ程の交友があった事を、今初めて知る。懐かしむ様な声音から、バルドルが単に気難しいだけではないという人柄を覗わせた。

「あの男は余りに愚直過ぎた。機会を待つ前に、眼前で苦しむプロミナを助けたいと考え、そして同時にプロミナを苦しめた環境に怒りを抱いた。それも……己の言葉が十全に届くとは限らないとも知らずに」

「悲しい、ですよね……」

「――まさか。愚かしいとは思いましたが、生憎と私は憐憫の情を抱く程には退屈していませんのでね」

 背筋が冷える。ぼそりと低く呟く声は、嫌悪感よりも先に恐怖感を湧き上がらせた。旧友ではなかったのか。何故そこまで軽蔑できるのだろうか。鳥肌の立った腕を誤魔化す様にして腕を組み、横目で睨む。怒りで上塗りせねば、バルドルの視線から漂う冷気に押し潰されてしまいそうだ。

「冷たい人。旧友ですよね? もっと、悔しがったりとか、しないんですか?」

「彼は死に場所を求め、私はそれを提供した。“帝国の斧”としての死を迎え、望み通り私達の視界から消え去った。プロミナとて同じだ。彼女もまた、此処から消える事を望んだ」

「何を根拠に!」

「この手記をご覧になれば、一目瞭然でしょう」

 そう云って、バルドルはスィルトネートに手記を差し出した。表紙にはしっかりと、プロミナの名が書かれている。
 ……信じたくはないが、開かねばならない。真相から目を逸らせば、悩んだままで居られる。これが何かの間違いであると期待したまま、絶望に心を殴打されずに居られる。いつの日も、真実を知る瞬間とは、死に等しい苦痛を味わうものだ。それでも、死線を潜らずして勝利を掴む事など出来ないではないか。
 薄汚れた表紙が、地獄へ通ずる扉に見えて、スィルトネートは身震いした。固唾を呑んでいる間に、バルドルは容赦なくページを開く。立ち止まる事を、バルドルは許さなかった。彼の視線から感情を読み取れない。



 あの日、あの場所、あの時の、
 あの私のあの心を、誰が見透かす事が出来るのだろう。
 私はクード・ラ・クーと名乗るプロトファスマを倒した。彼が私を呪ったのだろうか。
 私があれを倒したという話を、親衛隊は誰も聞き入れてなどくれなかった。
 敵を倒す為に民家を犠牲にした事が許されなかったのだとしたら、まだ良かった。
 もっと呪うべきは、彼らがそれすら触れずに私をただの放火犯と決めつけた事だ。

 雨の降り注ぐ闇夜に、泥の中から指輪を探し当てる事は難しい。
 人は、決定的な瞬間を知覚する前に見逃してしまう。そして、後から決定的な、例えば隣人の人生の岐路となる出来事があった事を知るのだ。それも、多くの場合は手遅れになってしまった後に。
 世界中に自分の目があったなら。世界中の何処にでも、一秒で辿り着けたなら、そこに居合わせる事が出来たというのに。自分の身体は一つしかない。目は二つ。腕も二本。手の指もたったの十本しか、この身体には無い。

 二つの場所に、同時に存在する事など不可能だ。
 故に我々当事者達は、二つ以上の視野も持つ事は出来はしないのだ。
 この世界は映画ではない。幾度となく我々が非力である事を示唆してくる、現実という名の煉獄だ。

 望んだ巡り合いよりも、望まぬ邂逅の方が遥かに多い。

 “あいつら”が何かを考えている処を少しでも垣間見る事さえ出来れば、私はこんな牢獄に身を投じられる事も無かったというのに。
 取り調べと称した茶番に三日三晩、付き合わされる事など無かったというのに!
 黒旗にさえ出会わなければ、誰かがクード・ラ・クーを倒したという事にできたのに! 秘密裏に、私は町の平和を守れたのに!
 望まぬ邂逅が私を迷宮に閉じ込めたに違いない。
 それは炎では焼き尽くせない唯一の、不燃物だった。



 一夜限りの逃避行から数日が過ぎ去った。
 任務以外で私が身を置く場所は、この独房だけだ。地下通路から運ばれ、此処に連れられる。

 ……シーアさんは生き延びた。独房で読んだ新聞には、黒旗との交戦で負傷したと書かれている。
 その部分に関しての記述は正しかったけれども、私を庇ってではなく、黒旗が難癖を付けて一方的に攻撃を仕掛けた事になっていた。

 蝋燭の火を消すには息を吹きかければいい。
 燃え盛る炎を消すには水を掛ければいい。
 では、町中に広がった大火事を消すには大嵐でも呼べばいいのだろうか。
 もしも、それらが心の中で起きた現象なら、消防隊はどうやって消火活動をすればいいのだろうか。
 私の炎を消そうとした人達に、それを訊こうものなら、きっと私は狂人だと思われるのだろう。

 小さな火種から燃え上がった、暗く沈んだ大火事は、未だ鎮火の兆しを見せない。
 幾重にも蓋をした。覆い隠す為に、私は笑った。
 この憎悪に満ちた熱までは、隠し通せなかった。

 大嵐はやってこない。
 アースラウグが生まれた日のような大嵐が毎日やってきたなら、私は連続放火事件を演出するという馬鹿げた任務にもかり出されずに済むかも知れない。
 そう思っていた。

 今日、私は水の中で炎を起こす実験をさせられた。
 少しでも力を抜いたのがバレたら、何度も棒でぶたれた。
 本気を出しているかどうかを、横に居る監視役のMAID二人が見ていた。

 “あいつら”に逆らってはいけない。私はもう人形になるしかない。
 だから私は薄ら笑いを途切れさせぬように、奮闘した。笑うのをやめた時、私はいよいよ私という形を失ってしまう。
 私は奴隷だ。炎を起こす為の。

 結果として水の中で炎は起こせた。
 大嵐では駄目だ。では大洪水でも来なければ、消せないじゃないか。



 笑顔が途切れると感じた瞬間が、以前よりもずっと多くなった。
 笑おうとした途端にノイズが奔り、感情が凝固した。時々頭がぼやける。何もする気が起きない。
 今日もまた、無為に家を焼いた。
 ゴミ箱に放り込まれ、時を待つのももう慣れた。
 誰の家だとかはどうせ訊いても教えてくれないから、気にする事もやめた。
 初めは気にしないようにと努めていたが、今では自然と気にせず燃やせた。
 そうして、家具に宿った思い出、そこに住まう家族達は灰になってしまう。胸の痛みは以前ほどではなくなった。
 上からの命令でやっているのだ。私はただの道具であって、私の心には関係の無い話だ。
 遺族は泣いて悔やみながら、亡骸を拾い上げるのだろうか。

 私は何処かに落し物をした気がしてならない。
 でも、それが何なのか、その形すら判らない。
 探しに行く度に、一つ、また一つと他の物まで零れ落ちてゆくのを、私はどのようにして止めればいい?
 結局、誰にも拾われなくなって、いつかは風化する。
 思えば私は、あの日の夜には既に亡霊になってしまっていたのかもしれない。
 だとすれば私は、見つけたとしても決してそれに手を触れられない。
 誰がそれを拾ってくれるのだろう。
 もう、私が死んでも、私の亡骸を拾ってくれる人は居なくなってしまったというのに。

 悲しいかな、私の焼け跡の心臓を、私の心臓だと思って拾い上げてくれる人は居ないのだ。
 私は今も逃亡したまま、黒旗と共に火を放って回っている事になっている。
 だから私が死ねば、黒旗のMAIDの心臓として拾われるのだ。

 私が此処に抑留されているのも無論、ごく一部にしか知らされていない。
 私がラウンジで安らげるのは皆が居なくなった時だけ。

 アースラウグは時折私を恨めしげに一瞥して、何処かへ去って行く。
 私を嫌わないでよ。誰だってこんな境遇になったら、この国から居なくなりたいと思うでしょ。



 テオドリクスさんを燃やしたのが、今になって私に響いてきた。
 敵でもないのに焼かなくちゃならないのは何故?
 私は以前にも増して、感情を誤魔化さねばならない機会が増えた。
 新聞ではテオドリクスさんが放火事件の首謀者という事になっているが、テオドリクスさんはグレートウォールでずっと戦っていた。
 それを皆、敢えて無視するのだ。

 何かの間違いだと云ってシュタイエルマルク中将が頭を抱えていたけれど、それでヴォルケン中将に相談し、疑いを晴らそうとしていたけれど、
 ついさっき、それらが“あいつら”に握り潰されたのを見てしまった。

 元より、私は閉じ込められていたのだ。
 世界という名の巨大な牢獄に。生命活動という労働に従事させられて。
 とうとう私はこの場所に戻ってきてしまった。
 ただ回り回って此処に居る。せめてそれまでの道程で、何かを掴んで居たならどんなに良かったか。
 私は最初と同じく手ぶらのままで此処に居る。
 そうして明日からまた、何も変わらない毎日を過ごすに違いない。
 ……退屈とは、致死性の毒だ。

 テオドリクスさんを拷問にかけ、偽りの罪を偽りでなくす為に、私は炎を操る。
 私の炎は何の為にあるのだろう。こんな、死に至る退屈の為にある筈じゃないのに。
 なのに、永遠に呑まれ続けねばならない。



 追放されることも許されない。
 今や誰もが私を疎んじている。
 “あいつら”が私の口を塞ごうとしているのに、黙ることも許されない。
 ここから居なくなれと望まれながら、私はこの場所に縛り付けられている。
 私の作り上げた一切が、一日とたたずに誰かに壊される。
 その度に私が陰で涙を流しているのを知っている?
 私はいっそ、自分の手で私を壊してしまいたいのに。
 それさえも許されない。そうだ、破片をばらまく旅に出たい。

 私の部屋の私物は全て、誰かが丁寧に焼いて焦がしてあった。
 荒れ果てた部屋の真ん中に、手紙が置いてあった。
 “焼かれる立場を知れ”と書いてあった。

 私は眩暈で脚がもつれるままに、テオドリクスの“部屋”を訪れた。
 此処なら旅に出られると、本能が囁く。
 もう焼け焦げた部屋になんて戻りたくなかったから、私はテオドリクスに跨がった。それから、誇りとかそういったものを蹂躙し、弄んでやった。
 意識が飛んでいた間に私は色々とやっていたらしく、私の新しい玩具となったテオドリクスは息を荒げて横たわっていた。
 ついに記憶まで曖昧になった。後はもう、理性が溶けて無くなるのを待つだけだ。



 奇跡はあったのです。
 シュヴェルテというMAIDが、私を殺してくれます。

 私はプロミナです。
 しかし、私はプロミナではありません。
 私を構成するあらゆる物が死滅し、あらゆる誰かに疎まれた今、
 私はプロミナであってはならないのです。

 これから私は死んでみせます。
 手を叩いて笑って下さい。

 これから私は死んでみせます。
 私の居ないこれから先を喜んで下さい。

 これから私は死んでみせます。
 何処か遠くへ行かせて下さい。

 これから私は死んでみせます。
 私の居た日々を二度と思い出さないで下さい。

 これから私は死んでみせます。
 歴史の一切から私を消して下さい。

 これから私は死んでみせます。

 灰は一粒も残しません。
 ごきげんよう。



「これは参考資料として提出しておきましょう。独房に置き去りになっていたものです」

 この筆跡は、間違いなくプロミナの物だ。こうして資料が残っている以上、紛れもない事実なのだ。

「環境が、あの子をこんな風に仕向けてしまった……!」

 プロミナが思い詰めていたのは知っていた。が、いざその過程を目の当たりにすると、悔恨の念が一気に押し寄せ、何も云えなくなった。気の利いた言葉など何一つかけてやれなかった。

「環境もそうですが、あのまま残っていてはどちらにせよ助かりません。疑いを晴らした処で、また次の罪を着せられ、新たな問題に発展するのが関の山です。それなら連中から獲物を取り上げてしまえばいい。生け贄が居なければ儀式は成立しないのだから」

 バルドルの分析は冷静だ。その冷静さは心憎いものであったが。

「――そういった点では、軍正会の遣り方は正しかったのでしょう。夢想家の集まりにしては、よく考えたものだ」

「私には、あれが正しかったとは思えません。環境を変える方法は幾らでもあった筈では」

「確かに方法はあったでしょう。が、それに要する期間を鑑みれば、最善ではありません」

 過ぎ去ってしまった事は、もう変えられはしないというのに、まだ何か手立ては無いかと探してしまう自分が情けない。

「もっと後にならないと……正しいかどうかなんて解らないじゃないですか」

「随分と沈んだ顔をしておられる。気負い、ですか?」

「ジークが国そのものを守るなら、私は仲間を守りたい。支えたい……そう思ってたんですけどね。これでは先輩失格です」

「プロミナが自分の意思で選択した道です。貴女が気負う必要は無い」

 バルドルの一言は、気休めや憐憫の言葉に含まれる様な声音とはまた違っていた。断言し、確信している。そんな印象だ。稼働年数の違い、戦場の違いだろうか。スィルトネートはそこまで割り切れなかった。たとえプロミナがバルドルの云った通り自分で選んだとしても、あくまでそれはあの状況の中での選択肢だ。周囲の仲間達の力で、選択肢を増やしてやる事は出来た。気負う必要はあると、スィルトネートは胸中にて道を譲れずに居た。

「おっと、こんな時間か。私はこれにて」

「待って下さい」

「何でしょう?」

 立ち去ろうとしたバルドルを呼び止める。まさかと思って、スィルトネートは一つだけ質問する事にした。

「もしもあの図書館襲撃事件で、貴方が黒旗側のスパイだったら、親衛隊側の増援を妨害するにはどうしますか?」

「……元よりそんな手間、私は選びません」

「ですか……ありがとうございます」

 彼が嘘をついた様子は見られない。彼を疑いつつも、欺く為の演技であったなら、という期待が何処かにあった。不純ではあったが、精神の均衡を保ちたかった。悔恨に溺れる前に、安寧という名の酸素を精神が求め、もがいたのだ。手近な存在を悪役に仕立て上げるという情けない行為を、スィルトネートは後悔した。

「それでは、また」

「えぇ」

 薄汚れた日記に目を落とす。読み通したページ以外も、何らかの資料になり得る記述がある筈だ。が、今この瞬間には読む気が起きない。寒風吹き荒ぶこの心では、いよいよ折れてしまいそうになるからだ。

「行っちまったか。使えねぇ野郎だ」

「ゼクスフォルト伍長?」

 一日に二人とは。随分と来客の多い日だ。あまり勝手に出入りされると機密の面でも心許ない。宰相府代理執行権を持つ以上、スィルトネートが日頃から“我が王”と呼んでいるあのギーレン宰相の書類とて、複製とはいえ取り扱っているのだ。無言の抗議を眼差しに乗せるも、アシュレイは敢えてそれを無視している風だった。

「バルドルにもさ、根回しを頼んでたんだ。結果的に今回の図書館焼失で何人かは失脚させたが、予定の半分も首を飛ばせなかった」

「どういう事ですか」

「“責任を取らせた”……それだけの事さ。健全な親衛隊には不要な連中を排除して、然るべき人選を空いたポストに据える。二度と馬鹿な事を考えさせない為にな」

 怒りの火種が増えた。否、正しくは勝手に出入りする事などよりも余程、腹に据えかねる事をこの男は口走ってしまった。

「それって、プロミナをダシにした様なものではないのですか!」

 仮にも担当していたMAIDではなかったのか。開口一番に『使えねぇ野郎だ』などとバルドルを詰ったりして、プロミナの亡命に少しでも心を痛めてはくれないのか。このアシュレイ・ゼクスフォルトという薄情者は!

「こらこら。人聞きの悪い事を云うんじゃない。ゆくゆくは帝国所属のMAID達を救う事にも繋がるんだぜ? 万々歳じゃないか」

「ふざけないで下さい! 私達が頭を抱えている間にも、貴方が盤上の駒を動かす事だけを考えていたのならば、私は今すぐにでも斬る!」

 スィルトネートは本気だった。武器は常に携帯している。自分や宰相が襲われても身を守れる様にだ。だがしかしこの刃、目の前の酷薄な男を斬り伏せる為に使っても、今この瞬間は天罰が下る事もあるまい。グレイプニールの切っ先を向けると、アシュレイはかぶりを振った。

「……誤解しないでくれよ。俺だって大切な人を何人も失ってるんだ。同じ悲しみを他の奴に味わって欲しくないからこそ、俺はこうして動いている」

「だからって! その為にプロミナだけがあんな目に遭うのは、おかしいでしょう?!」

「おかしくない。罪を着せる奴が粛正されれば、同じ旨みを吸おうとする奴らは間違いなく及び腰になる。そうなれば、もうあいつに手出しする奴は殆ど居なくなる。捏造だった事が発覚すれば、あいつ本人の耳にも必ず届く。但し、此処に残っていてくれたら、な。居なくなっちまったからもう無理だけど」

 ふと我に返った。悲しいからと云って、いつまでも悲しい顔をする訳にも行かない。戦争とはそういうものだと、常日頃から宰相にも教えられてきたというのに、自分は何を八つ当たりしている。彼とて悲しくない訳では、決して無い。急に恥ずかしくなり、スィルトネートは黙り込む。

「疑いが晴れた事を知らないまま他国に亡命しちまえば、あいつにとっての帝国は最後まで“自分に罪を着せたまま、自分の疑いが晴れなかった国”になる。そんなのって、無いだろ?」

「……」

「俺はあいつを生け贄なんかにするつもりは無かった。あいつがあいつ自身を救える手助けだって、本当はしてやりたかったんだ。シュヴェルテの時はそれが出来なかったから。まぁ、境遇は似てたけど性格は違うから、どれが正解かまでは解らず仕舞いなんだけどさ」

 プロミナとシュヴェルテを重ねて考えたらと思えば、彼の苦痛に満ちた感情も理解出来ない筈が無いのだ。二度も悲劇が繰り返されれば、誰だって悲しい。これだから自分はまだまだ未熟なのだ。少し冷静になればすぐにでも解ったというのに。答えに辿り着けたというのに。

「……その、ごめんなさい。私、ちょっと冷静じゃないみたいです」

「いいさ。ゆっくり休めよ。頭に詰め込みすぎても溢れるだけだぜ」

 そう云って、アシュレイは笑顔を作った。無理して笑わなくても良いのだ。お互い、却って胸が苦しくなるではないか。喉が痞えて言葉を失ったスィルトネートを尻目に、アシュレイは早々に部屋から立ち去った。「待って」と云おうとしたのを、手で制した上で。

「もう、溢れてます……」

 泣きたい気持ちで一杯だったが、何故か涙腺はそれを許してはくれなかった。何が妨げになっているのか、見当が付かない。スィルトネートは鍵を閉め、再び、プロミナの日記――最早、彼女の存在の痕跡はこれ位しか残されてはいないのだろう――と対面する。この、何かが垂れた様なシミは、涙の跡だろうか。スィルトネートは静かに、最初のページを開いた。



 最初で最後の担当官、アシュレイ・ゼクスフォルトさんへ。
 いつかの日に私を気に掛けてくれたスィルトネートさんへ。
 今では私に残された、ただ一人の友達だと思っていたアースラウグへ。

 階級で呼ぶのはやめにしましょ。だって私はもう消える。
 この手記は私の置き土産。皆様がこれを読んでいるとしたら、私はもうこの手記の中だけの存在となっているに違いない。
 プロミナは死んだ。その抜け殻が、この手記。
 血も肉も骨も臓物も神経も精神も声も臭いも、そして頭髪の一本に至る迄、私は消えてしまう。
 私は私としての機能を終える。

 私がプロミナとして生きていた時、この世界は実に閉塞感に満ちあふれていた。
 私が能力を使う度に災いが降り掛かった。災いが降り掛かる度、かつて私が仲間と思ってきた人々が離れていった。
 能力を封じて生きる道を何度も考えたが、この国に於いてはそれが出来なかった。温もりを求める人はまだ居るのではと期待してしまうから。

 そんな帝国が、憎くて仕方が無かった。
 私が何かを云おうと口を開けば、決まって“あいつら”が口を塞ごうと手を回してきた。

 ……でもね、気が狂ったMAIDの書いた事などどうせ誰も信じないと思ったから、私はね、此処に、
 私だけが信じる私だけの真実、私の体験した全てを、私の為に書く事にする。

 可愛いでしょう? 詩集みたいで。
 私は間違いなくプロミナを愛していた。
 でも私はプロミナにはなれないんだ。

 いわばこれは後書きのようなものであって、遺書ですらない。
 彼女の物語はもう、終わってしまったのだから。
 追求の炎は、既に消えてしまったのだから。

 もしひょんな事でベーエルデーのMAID、シーアさんに出会ったら、きっと私は幻だったのだと伝えて欲しい。

 炎を操る何者か……“私”より。


最終更新:2011年09月28日 19:52
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