Chapter 9-3 : 戦乙女の夜明け

(投稿者:怨是)


 車、街道の並木、数々の家屋が燃え盛る帝都を、アースラウグは駆け抜けた。このままでは壊滅を待つばかりだ。

「――みんな、何処ですか! 返事をして下さい!」

 声を掛けるも、何も返ってこない。地獄の如き様相を呈していながら、周囲は沈黙で埋め尽くされていた。逃げ惑う民衆も、襲撃者を迎撃する親衛隊も見当たらない。アースラウグはその場から逃げる様にして、ひたすらに走り続けた。幾つもの血溜まりと、その源であろう屍が累々と積み上げられている光景を目の当たりにする。彼らは皆、一様に苦悶の表情を浮かべたまま事切れていた。

「ひどい……どうして、こんな事を……!」

 この付近に生存者は誰一人として存在しないのだろう。濃密な死臭の漂う空間からは、呻き声一つ聞こえない。否――

「銃声? この方角は……」

 親衛隊本部付近からはまだ銃声が響いている。戦場はまだ生きている。窮地に立たされた仲間達が、救いの手を求めているのだ。一陣の疾風よりも速く、辿り着かねば。命の灯火が消えてからでは遅い。

「襲撃者! 止まりなさい!」

 斯くして、肩で息をしながらも、この帝都を襲った張本人の居場所へと躍り出た。帝国大図書館襲撃事件の犯行グループの一人、シュヴェルテがそこには居た。

「アースラウグ……! 邪魔しないでよ」

「見過ごす訳には行きません! これ以上、私達の仲間をやらせるものですか!」

 アースラウグはブリュンヒルデより受け継いだ槍、ヴィーザルを構える。全力で迎え撃つ事だけを考えた。

「ならお前も戦死者の仲間に入れてやる!」

 シュヴェルテが分厚い軍刀を振り下ろし、アースラウグはそれを柄で受ける。火花が散るのもお構いなしに睨み合った。刃の向こう側にあるシュヴェルテの瞳は殺意に満ちていて、僅かにアースラウグを萎縮させる。と同時に、違和感もあった。確かシュヴェルテにとってのアースラウグは取るに足らない、退けるだけの存在でしかない筈であって、此処まで本気になる程の相手とは思われていなかったか。

「私はお前達を許さない。絶対に!」

「うぐ……!」

 強引にヴィーザルを弾き飛ばされ、胸倉を掴まれて地面に叩き付けられた。

「アシュレイが生きている事、いつか会える事、アシュレイに話そうと思っていた沢山の話、それだけが生きる希望だったのに!」

 シュヴェルテが盾の先端の杭で何度も突き刺してくるのを、アースラウグはヴィーザルで受け流す。途中、幾つかの攻撃が腕に命中し、激痛が襲った。だが真の苦痛は彼女の攻撃そのものよりも、彼女の双眸に宿った絶望だった。
 腕甲から火花が飛び散る。その度に、腕が破裂しそうになった。シュヴェルテは咆哮する。

「私は奪う。お前達が私から奪った様に、私もお前から大切なものを全て奪い、弄んでから壊してやる」

 ――奪う? この人は奪うと云ったのか。私の大切な仲間達を、いつか取り戻せるであろう平穏な日々を、彼女はこれから蹂躙し尽くそうと云うのか!
 シュヴェルテの言葉に、アースラウグの中で何かが弾けた。撃鉄を叩いた魂は、噴火し、それがアースラウグの拳へと伝わる。

「そんな事は……させない!」

 ヴィーザルで盾を薙ぎ払い、遠心力を用いて蹴る。シュヴェルテが咄嗟に盾を構えたが、碌に構えもしない防御で防ぎきれるものではないのだ。この雷鳴轟く闘志を乗せた蹴りは。

「くッ!」

 盾が陥没する程の強烈な一撃に、シュヴェルテは僅かながら狼狽した。ほんの少し顔を覗かせた勝機にも驕らず、アースラウグは槍を構え、仇敵を睨んだ。

「貴女は云いましたね。皇室親衛隊が憎いと。全て奪い、壊すと」

「それが何か?」

 憮然とした受け答えにアースラウグの怒りは更に過熱する。

「貴女が害意を以て帝国に挑むならば……私、槍の継承者アースラウグは、その有象無象の区別無く打ち砕く!」

 手にしたヴィーザルの柄尻が、石畳を突き割る。その振動は大地を揺らし、シュヴェルテの慢心を確実に突き崩した。少しずつではあるが、シュヴェルテは焦燥を露わにしている。

「ば、馬鹿な! お前如きで私は殺されない!」

「いいえ。出来ます!」

 ほぼ同時に肉薄し、刃と刃がぶつかった。打ち合う刃が火の粉を反射し、周囲を照らす。防戦一方だったアースラウグは、次第に攻勢へと転じていた。シュヴェルテの盾に入れた亀裂が、彼女から絶対なる勝利を奪い取ったのだ。

「……哀しくは、ならないのですか?」

「――は?」

「頭ごなしに否定して、誰かより強い力で屈服させ、支配が出来ないと見るや破壊する……それでも、貴女は満ち足りた生を送っているというのですか!」

 怒りが攻撃を加速した。絡んだ刃を強引に振り回してシュヴェルテごと吹き飛ばし、石造りの壁へと叩き付ける。

「私は哀しいです。姉様や沢山の仲間達はかつて、貴女が帰ってくるのを心待ちにしていたというのに」

「今更帝国に戻れだなんて、虫のいい話があるか! 知った口を利くな!」

「貴女が――云えた言葉ですか!」

 大気が大きく震え、周囲から音が消滅した。アースラウグの両腕に蒼白の炎が宿る。熱くは無い。英霊達の無念を乗せた、魂の輝きだろうか。

「貴女が今やっている事は、黒旗や、プロトファスマと同じ……! 苦しみを理由に、憎しみを撒き散らし、世界を呪おうとしている! 志半ばに倒れた仲間達を踏みにじる行為です」

「仕方ないでしょ。もう、呪わずには居られないのだから」

「それらは全て私の帝国の罪。闇に葬られようとも消える事は無いでしょう」

 アースラウグはヴィーザルを天に掲げた。断罪の構えだ。威光を示し、罪人に悔恨の涙を流させる構えとして知られる。シュヴェルテは恐怖の余り攻撃を加えてきたが、彼女の刃は届かなかった。シュヴェルテは動けなくなったのだ。アースラウグは古き伝説として語り継がれてきたこの構えを解かぬまま、再び問う。

「今一度訊きましょう。哀しくは、ならないのですか?」

 身体を硬直させたまま、シュヴェルテは目を見開いた。

「――! 化け物め……」

「化け物でも結構です」

 ゆっくりと歩みを進める。距離が縮まるにつれて、シュヴェルテの表情は絶望の色を濃くしていった。

「私は帝国の象徴……帝国の全てを背負い短き命を散らせた、母様の生まれ変わり。この身体は、帝国に住まう全ての人の命を守る為に。そしてこの槍は全ての人々の幸せを守る為にある!」

 アースラウグは腕を引き、切っ先を彼女の心臓へと向ける。それから全力を以て、突いた。

「誰かの幸せを奪うなら、私は貴女を全力で断罪する! 如何なる理由があろうと、今や貴女は帝国の敵……悔いが残るなら、私を怨んで死ぬがいい!」

「く、ぐ……ッ! つッ……――!」

 斯くして槍はシュヴェルテの心臓を貫いた。力無く倒れるシュヴェルテをアースラウグは見守る。また一つの大罪に裁きを下した。しかし、砂を掴む様な感覚は、彼女の鮮血がアースラウグの靴底へ辿り着いても尚、消える事は無かった。
 何故こんな事になってしまったのだろう。返り血を洗い流す様にして、雨が降り始める。正義の対価にはあまりに重たい沈黙が、雨音をも掻き消した。何がそうさせたのか。

「空が、泣いている。私の、代わりに……」

 荒涼とした戦場跡の帝都を、これから彷徨わねばならない事を思うと、感情に類する何もかもが消え失せる。かつての友人プロミナは、発狂するまでの数週間の帝都はこの様な風景に見えていたのだろうか。仲間も居らず、温もりも無い。それで居て、目に見えぬ敵意がそこかしこで焼け跡の煙の如く蠢いている。或いは、たった今殺したシュヴェルテも、同じ光景を見ていたのかもしれない。それを確かめる機会はもう永遠に失われてしまったが。
 突発的に莫大な量の力を行使したせいか、身体が重い。黒とも灰色とも付かない空を見上げ、目を閉じる。それから程なくして意識が遠のいた。



「――? 夢、か……」

 作戦区域のエストルンブルクへ向かう車の助手席で、アースラウグは毛布にくるまって寝ていたらしい。太陽はまだ昇っていない。開いた窓から流れてくる風に、凍えそうになる。帝国の風はもっと穏やかであっても良いのではと思ったのも束の間、比較的高緯度に位置する地理だという事を思い返す。何故か身体が記憶しているのだ。戦場の寒空を。

「うぅ、寒……」

 アースラウグは思わず、膝を抱えて震える。鎧はすっかり冷え切り、肌が少しでも触れると凍傷でも起こすのではないかと錯覚する程だった。隣で周囲を警戒していた兵士がそんなアースラウグを気遣って、懐炉を手渡してくれた。

「申し訳御座いません。高級士官専用車両は来月納品予定でして。今暫くお待ち頂ければと思います」

「ありがとうございます。車は、いいんです。ただ……こうして、うずくまって夜風を感じるのが初めてなんです。姉様は何度も戦場で感じてきたそれを、私はきっとまだ、一度も体験していなかった」

 兵士は遠くを眺めながら頷く。口を少しだけ開いては目を泳がせ、また噤む様子からは、返す言葉を幾つか用意しようと試みつつも、そのどれもが発せずに居り、苦悩しているとも取れた。何を云うべきか迷った末に何も云えなくなった兵士に、アースラウグもまた如何様にして声を掛けるべきか迷った。

「姉様……」

 胸の傷は塞がった筈だが、まだヒリヒリと痛む。テオドリクスはもう戻らないのだろう。兜越しに感じたあの冷たい眼差しは、ジークフリートもまたよく似た性質を持っていた。皆、温室育ちと揶揄されるアースラウグを嫌っているに違いないのだ。でなければ、誰があんな目で見てくるというのか。

『……すまんな、ブリュンヒルデ。俺は、こいつを導けなかった』

 死の淵が迫ってきたあの時、テオドリクスはそう云った。何かが引っ掛かるが、その正体を掴めない内はこれ以上考えても無駄だ。

「それにしても……」

 奇妙な夢だった。情景こそ具体的に思い起こせたが、夢の中でのシュヴェルテは言動に具体性が殆ど無かった。それは自分が黒旗に対する感情が、誰かからの受け売りで、漠然とした物でしかないという警鐘でもあるのか。

『蒙昧なままの、与えられただけの正義では何も守れぬ……命も、矜持も、打ち捨てられた者達の魂も!』

『貴様が受け継いだとしきりに喚くそれは、所詮、皇帝派の作り出した幻想だ』

『他者に答えを求めるな。己の力で辿り着かねば意味が無い。それともお前は、慰めて欲しいのか? 肯定されるだけの人生で何が得られるというのか』

 テオドリクスの言葉が次々と脳裏をよぎる。苦痛に顔を歪めたのを悟られたのか、兵士が心配そうな面持ちで覗き込んできた。

「傷はまだ、痛みますか? アースラウグ様」

「えぇ……他の、どんな傷よりも」

 今までどんな敵の言葉も心には響かなかった。プロミナの言葉でさえ、アースラウグに悲しみを与えるだけで、心への劇的な打撃までは受けなかった。テオドリクスが云っていた事は、他の敵達と本質は変わらない筈だというのに。何が精神を此処まで掻き乱す? 仲間を失った悲しみか。鼻孔にこびり付いた鮮血の香りか。槍から流れ込む、母親の記憶か。悪寒が思考を凍らせる。

「私の根底となる何かに、穴を開けた。テオドリクスさんの考えている事はまだ、私には解りません。でも、絶対にもう一度戦わなきゃならない相手……そう、思うんです」

「そうです。今度こそ打ち勝って、改心させましょう」

「打ち勝つ……いえ、話を聞いて貰う、でしょうか。私だって何も考えてなかった訳じゃないのに。誰も私を解ってはくれない」

「やはり、哀しいですか?」

「哀しいですよ」

 溜め息をつく。こんな事で悩む為に戦ってきた訳ではないのに。戦いに意義が見出せなくなったのはいつからだろうか。使命感よりも先に、恐怖が込み上げる。この先の戦場で待ち受ける敵は、果たしてどれだけの速度で自分を倒してしまうのか。
 間もなく目的地だ。アドレーゼを救出する為に、この車に乗っている。それを忘れてはならない。この逡巡の決着如何に関わらず、戦場はやってくる。姿が見えない敵の気配に、アースラウグは震えを押さえきれなかった。

「誰が、私を解ろうとしてくれるのだろう」

 夢の中とは違い、空は晴れ渡っていた。夜明けの太陽は容赦なく輝き、網膜を焼こうとしてくる。


最終更新:2011年12月28日 07:34
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