(投稿者:怨是)
1945年8月26日未明。
軍事正常化委員会ルージア大陸本部仮設営舎の、MAID用仮眠室にて。
マーヴは肩で息を切らせながら飛び起きた。直前まで見ていた夢の内容は詳しく思い出せない。だが、確かに悪夢だった。ボンゴを叩く様な鼓動が、何よりも如実に“その夢がどれだけ悪いものだったか”を物語っていた。
「冗談じゃないよ……アタシは、何て所に足を突っ込んじまったんだい」
体中の汗が噴き出し、べた付く。背中や首が痒い。脳のざわつく感触が、思考の収束を妨げる。形を持たぬ恐怖に、マーヴは肩を抱いてうずくまった。黒旗のアルトメリア支部へと身を移したマーヴは、何の因果か再びこの
エントリヒ帝国領の地を踏む事になった。本部がベーエルデーから攻撃を受けて壊滅状態に陥り、構成員が各方面へ散り散りとなった為に、人手がとにかく足りないというのだ。この土地には――ルージア大陸には、碌な思い出が無い。血の臭いが嗅覚を殺しに掛かってくるからだ。
「全く……冗談じゃないよ」
人を殺す感覚は未だに慣れない。Frontier of MAID会場襲撃の折に古巣を裏切り、黒旗に付いてからというものの、仕事の殆どが人殺しに関わるものばかりだった。いつの日かに返り血を浴びたのが、悪夢の始まりだった。それ以来マーヴの夢は平穏で牧歌的な景色から、突如として陰惨な殺人の連続へと変わり果ててしまった。両手に残った、粘つく生暖かい感触、自分の呼吸が冷え込んで……屍の内臓を手で掴む辺りでいつも目が覚める。さっきまで見ていた夢も、恐らくは同じ内容だったのだろう。
「如何されました?」
おもむろに問い掛けてきたのは、キース・マクデロイだった。マーヴが黒旗に入ってから、かつての教育担当官だったジラルド・エヴァンスに代わって担当官を務める、ぱっとしない印象の軍人だ。柔和な笑みは見る者に安心感を与えるかもしれないが、既に猜疑の海に沈んで久しくなったマーヴの目から見れば、底が知れず薄気味悪かった。何より、此処はMAID用に宛がわれた仮眠室だ。男が土足で入り込んで良いと、誰が許したのか。寝ていたのがマーヴだけだったから良かったものの。
「……レディの部屋に勝手に入り込むなんて、いい度胸してるじゃないか」
「私は貴女の教育担当官ですよ。悪夢に魘された挙げ句、過呼吸を起こされてしまったら管理責任を問われますからね」
ご尤も。だが、少なくとも夢魔に絞め殺される程にはヤワじゃないつもりだ。ましてやこんな、欲望という欲望を片っ端から捨て去った、修行僧……或いは理性を保った廃人の如きインポ野郎なんざに心配されるのは、些か癪に障る。彼が先程から浮かべている笑みは、決して下心に基づいたものではないと一目で見て取れた。鼻の下も伸ばしては居ない。病人を手当てする医者に似た、ご機嫌取りの為だけの笑顔だ。さて、そんな心優しいインポ野郎様は、親切にもグラス一杯に薄茶色の液体を注いで差し出してくれた。
「はい、汗をかいて喉が渇いたでしょう」
「気が利くね」
グラスに口を近付けた瞬間、キースからのささやかな贈り物がブランデーかバーボンだったら良かったのにという期待は脆くも崩れ去った。アルコールの香りは微塵も感じられない。只の薄めた茶だ。しかも、レーションに付いてくる類いの安物だ。が、こんな身分だから贅沢は云えなかった。内容物を一気に呷り、マーヴは溜め息をつく。
「思うに、アタシはこの世の中で生きて行くには弱すぎるんだ。実体を持たない悪夢なんざ、相手にしなくていい筈だろ。なのに、アタシときたら、そいつに必死になって、あまつさえ、飲み物が必要になるくらい、汗をかいちまっている」
明日には潜入作戦が始まる。今まで空で戦ってきた為にエントリヒ帝国ではまだ顔が広く知れ渡っていないマーヴは、こそこそと密会をするにはうってつけの人材だと上層部は判断したらしい。作戦の内容は、泥沼の戦闘が起きている最中に巻き込まれたふりをし、逃げ惑って病院に避難する様を装って、病院から物資を受け取るというものだ。まるでお使いでもする様な話で作戦を伝えられたが、戦場の真っ只中へとお使いに向かうのは、半ば自殺行為だ。
聞く話に依れば、数日前の本部崩壊から今までは病院から毎日“郵便屋”が来て、物資を届けてくれたらしいが、ここ三日間は何者かがその郵便屋を次々と殺害しているというのだ。市街地で起きている戦闘と無関係ではない事は、日頃からあまり人の話を聞かないマーヴでも解った。つまり、ばれたら死ぬ訳だ。直接戦闘に参加する訳では無いとは云っていたものの、十中八九荒事は避けられないだろう。マーヴは寝る前にバッグの中にボウガンと、アルトメリア支部からくすねてきた二丁の短機関銃を仕舞い込んでいたのを思い返した。
「明日の仕事、上手く行くかねぇ……」
「貴女なら出来ますよ。この書類に書かれた実績が物語っているではありませんか」
担当官になって間もないキースは、マーヴを理解する為にあらゆる努力をしていると思う。マーヴの実績について纏められたレポート――
グリーデル王国の情報部が戦闘記録を元に作成したものだが、如何様にしてそれを入手したのかはマーヴには解らなかった――を常に肌身離さず持ち歩いており、会う度に彼はそれを熱心に眺めていた。その書類をめくりながら、キースは微笑んだ。
「その三流タブロイド誌に何が書かれてるのかは知らないけど、アタシはやっぱり、死ぬのが恐い。あいつらはそれを知っていながら、アタシを試そうとしているのさ」
「試すというのは?」
「忠誠心だよ」
興味深げに尋ねてきたキースに、マーヴは頷いた。
マーヴは飛行能力を持っているが、それがこの組織の定義するところの“特定MAID”に当てはまるという。特殊能力を持ったMAIDを目の敵にするこの組織にとって、マーヴは単なる厄介者でしかない。それを雇うにあたって、かなり揉めたのだろう。そういった事の結果が恐らく、このお使いだ。歓迎されるべきではない素性を持った新入りに忠誠心を試す為の、謂わば試金石という事だ。失敗して死なれても、さほど痛手にはならない。だから使い捨て同然で、しかもさほど重要度の高くない仕事を遣らせる。マーヴは改めて、この組織をクソッタレの集まりだと定義した。寝返ってから半年も経ったのだ。今更、何を試そうというのか。しかも、わざわざアルトメリア支部から呼び寄せて。
「此処に所属してから今になるまで、大人ぶって、悟ったふりをして、何とか騙し騙し生きてきたけどさ……受け入れられない事だって沢山あった。あんたに愚痴を零しても何にもならないけど、アタシは本当は、誰にも邪魔されない自由な生活に――」
マーヴはそこまで云って、はっとなった。とんでもない事を口走ってしまった。今、隣に居るのはそこいらの雑草などではないし、勿論、野良犬でも兎でもない。人間だ。それも、黒旗に所属している。
「……聞かなかった事に、なんて、無理な相談だよね。アタシは反逆者として軍法会議にも掛けられずに銃殺されるのかい?」
「まさか。私にそんな事が出来る筈もない。私とて職務に不満を持つ事など、星の数ほどあります。貴女と同じ様に、逃げ出したいと思った事も。そも、この組織に所属する大多数の兵士達は、貴女が考える程に仕事熱心ではありませんよ」
「どうだろうね。くたばった奴等はみんな、仕事の為に死のうとしていた奴ばかりだった気がするよ」
「彼らは思想に殉じただけです。その分、死に様が凄惨であるが故に、記憶に焼き付き、貴女はそれを多数と錯覚してしまった。それだけでしょう。彼らが望んで死んだなら、気に病む事も無い。貴女は貴女の生き方が出来るし、それを止めようとは思いません」
「でも、誰かが止めに来たら、アンタはその誰かと一緒になって止めに来るんだろ。アタシを守る為に命を差し出す程、アンタは情熱的じゃないからね」
キースはジラルドに比べると優しいが、自分というものを持とうとしない。誰かにそっと寄り添い、傍らを照らそうとするだけの男だった。周囲が「右へ行こう」と騒げば迷わず同行する、如何なる流れにも逆らえない男だ。
マーヴがあらゆる男と夜を共にし、この男にも幾度となく肉体関係を迫ろうとしたのは、周囲を情愛に狂わせ、惚れた男に守って貰おうという打算もあった。無論それだけが理由ではないが。マーヴは生まれてからずっと、孤独だった。連合軍時代、彼女を取り巻く関係者は皆一様に、人としての温もりではなく国家の威信を賭けたプロジェクトとしての輝きを求めてきたし、その更に外側のMAID達はいつも冷めた視線で彼女を見ていた。腹いせに欲求不満の軍人達に次々と抱かれれば、その度に関係者達は気難しい理論を振りかざして、上辺を撫でた説教をしてきた。
誰か一人でもいい。過去に自分を抱いてくれた男達と、これから自分を抱いてくれるであろう男達の中から、こんな自分を愛してくれる人が出て来てはくれないものか。キースにもそれを期待していた。しかし、彼は困った様な苦笑いを浮かべるばかりで、何も答えてはくれないのだ。今、この瞬間も同じだ。キースは暫しの沈黙を経て、漸く口を開いてくれた。
「……確かに、その時になったら保証はできないかもしれませんね。教え子に銃を向けるのは、確かに抵抗があります。ですが……私も人です。死ぬのは、恐い」
「やっぱりね……まぁいいさ。正直に答えてくれて嬉しいよ。出来ない約束をする奴よりかは、信用できる」
マーヴはもう、諦めていた。そして、それでいいとも思っていた。世の中には「君のために命を賭ける」と嘯いておきながら、いざ自分が危機に瀕すると逃げ出す大嘘吐きがどれだけ居るのか。キースは少なくとも、自分の生き死にに関する事に於いては正直者だった。だからだろうか。ただ優しいだけの者よりも、ずっと誠実に見えた。これで素直に抱いてくれたら文句は無かったが。
「話し込んでたら眠くなってきた。おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
――キース。そんなにすぐに行かないでおくれよ。
せめて、彼と手を繋いで寝る事が出来たなら、寂しさを紛らわせる事も出来ただろうに。遠ざかる足音と、ドアを閉める音が、無常にも彼が遠くへ行ってしまった事を知らせた。溝鼠の如く最低最悪の、このMAIDを真に愛してくれる者はきっと居ない。マーヴは無性に哀しくなって、瞼を閉じたまま泣いた。
出撃と報告を終えて仮眠室へと戻ってきたマーヴは、ミルフィーユの様に毛布を重ねただけの粗末なベッドへと俯せに倒れ込んだ。ばさっと空気や埃が飛ぶ音はしかし、誰も目覚めさせるには至らなかった。この場で眠る誰もが、そんな些末な音には興味を示さない程に疲れていた。
作戦の結果は、成功だった。最初にその報せを聞いた時、マーヴは何が起きたのか皆目見当が付かなかった。それから暫く冷静になって考え、マーヴは自分が偽の情報で動かされていた事に気付いた。どうせ使い捨てる為の口実に無謀な作戦を実行したのだろうと既に前日から察していた彼女は、敢えてそれを口にせず、目の前の軍人達が偉そうな話をしているのを聞き流した。散り散りになった本部メンバーを再び合流させる事に貢献しただのと云っていたが、細かい事は何一つ耳に入らなかった。彼らがお使いと称してマーヴを騙して使い捨てにしようとした事だけが、頭の中でぐるぐると回っていた。
だが、お互い様だ。マーヴも、逃げ出そうとしていた事には変わらない。病院に辿り着き、死にかけの兵士から「逃げろ」と急かされ、お使いという目的も忘れて駆け出した。戦況がもっと混乱していたなら、本当に行方を眩ませてやろうとすらしていた。
が、無慈悲にも、マーヴの潜伏はとっくのとうに帝国の知る所となっていたのだ。
アースラウグという小娘――いつぞやに目を通した資料によれば、軍神二代目として崇め奉られているらしい――には待ち伏せされ、有象無象の訳の解らない連中に散々追い回された。更には、軍を追われた筈のかつての担当官だったジラルドにも出くわし、下らぬ足止めを喰らった。アースラウグを人質にして窓から飛び立つ事で難を逃れたが、結局この場所へと戻ってきてしまう事には変わりは無かった。或いはあの時、アースラウグを空から手放して殺してしまえば、それだけの度胸があれば自由になれたのだろうか。マーヴがアースラウグを抱えたまま地上に降り立ち、そのまま彼女を解放したのは、戦闘中に耳にした会話から、彼女がマーヴと同じ境遇に居る事を知った為だ。加えて、彼女が浮かべた表情――恐怖によって憔悴しきった表情が、いつかにマーヴが悪夢から目を覚まして鏡を見た時と重なって見えた為だった。総括して云えば、他人という気がしなかったのだ。そしてアースラウグはまた生還し、明日からまた軍神二代目という肩書きを背負わされるのだろう。
嗚呼、明日もまた憂鬱な出撃だ。もう仕事なんてしたくないのに。
「でもまぁ……贅沢な悩みなんだろうけどね」
――この子らには、此処しか無いんだからさ。
マーヴは、隣で寝息を立てているロナを見つめた。この小さな先輩MAIDは、マーヴよりひと月半程度後に生まれ、その時から黒旗に所属していた。ヒステリーばかり起こすあの
フィルトル最高管理者殿や、責任の取り方も碌に知らない癖に階級ばかり気にしている管理者MAID共の下で、マーヴの数倍の時間をこの組織で過ごしてきた。しかも翼を持っていながら、飛行訓練など受けた事が無い為に、飛ぶ事すらもままならない。組織の外へと出れば、彼女は数秒と経たずに殺されてしまうだろう。
それに比べたら、マーヴなど幾らか恵まれた環境にあるのだ。マーヴが身を置いているアルトメリア支部は、この本部より自由が利く。堅苦しい制服を誇らしげに着こなしているクソッタレ管理者MAID共も居ないし、アルトメリアの国土そのものがべらぼうに広いお陰で滅多に攻撃を受けない。こんな雌のハイエナでも有効活用してくれるだろう、素晴らしい飼い主に違いなかった。本部を立て直せばこんなクソッタレな土地とはおさらばできる。後もう少しの辛抱だ。明日もまた頑張ろう。
ただ、明日より、そしてそれ以降も訪れるであろう精神的苦痛を和らげるには、祈るだけではまだ足りない。夜はまだ更けていないから、せめて寝る前に一つ、お楽しみと行こうじゃないか。そう思ってマーヴは傍らに放ってあったブラウスを手に取り、下着姿のまま仮眠室から忍び足で抜け出た。キースはもう寝ているし、仮に起きていてもどうせ今からマーヴのする事には関与しない。関与する勇気が無いのだ。何故なら、以前その行為について訊かれた際、マーヴは「やめたら自殺でもするかもしれないね」と凄んだら、青ざめた顔で「解りました。でも、程々に」と肯定した。だから、止められよう筈も無いのだ。
マーヴは上気した頬を片手で撫でつつ、ブラウスを羽織った。舌なめずりして、今日の子守歌をどの男に歌って貰おうか考えた。コルネリウスは優しくて、良いテクニックの持ち主だが、連日の激戦で疲れ果てていて、多分そういう気分にはなってくれないだろう。メルヒオールは一昨日辺りにしたから駄目だ。あまり何度も一緒に寝たら、お互い飽きてしまう。ヴィットーリオも……娘の誕生日がどうとかって云っていた。めでたい日からそう経っていないのに、水を差してやるのはあまりに可哀想だ。ルスコーニは逆に、ガールフレンドに振られて傷心の模様だが、彼は“早い”から長時間楽しめない。ヘンリックも駄目だ。金が無いから暫くは買ってくれないと云っていた。新しい男を探すか? いや、以前10回戦まで行った超人エンクハルトなら……
身体中の疼きを感じながら、早速エンクハルトの個室へと向かった。たっぷり小遣いを貰って、美味しいブランデーを呑んで、新記録更新を夢見るとしよう。
最終更新:2013年02月23日 03:27