(投稿者:店長)
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楼蘭皇国の君主たる天皇が住まう朝廷の奥深く、禁裏と呼ばれる天皇の私的目的空間のさらに奥に信濃院と呼ばれる建造物があった。
他の禁裏から切り離されたように周囲を堀と塀で囲まれた区画は、橋一つのみで繋がっている。
広さはそれなりにあるが、一種の城か牢獄のような息苦しさもどこか漂わせる。
其の院を宛がわれた現天皇である正和天皇の幾人か存在する皇女の
一人である信濃内親王が幾重にも重ねられた部屋の奥にただ一人外の風景を眺めていた。
皇女である癖に、その環境は軟禁に等しい。
そう、彼女の存在を必要以上に隠すが為であるかのように。
自身の身長よりも長く成長した黒々と艶やかな色を持った頭髪を同じく長い十二単と共に引きずりながら、
敷地内に設けられた石庭を眺める。
「真に静かなものであるな」
そして覗く空を眺めると、そこに移る鳶の飛ぶ様が見えた。
そこから己を省みるのである。己の立場はなんと狭いことか。
少女の言葉は、ただ静かに響いていく。
彼女こと信濃内親王は……世間に知られてはいけない秘密を抱えている。
彼女自身がすでに存在しておらず、ここにいるのは彼女の体を用いて生み出された、本人を装うMAIDであることを。
万感の思いを胸に秘めたまま、ただ彼女は狭き鳥篭の中でただ蒼穹を眺める。
そこに、一人の女房(女使用人のことである)が信濃の元にやってくる。
彼女は数少ない事情を知る一人であり、それゆえに彼女もまたこの信濃院より外に出ることを禁じられている。
”生前の”信濃内親王もまた彼女に慕っていた。
「信濃内親王様。永花様が参られました」
「うむ……水面の間に通すがよい」
~~☆~~
水面の間と呼ばれたその一室は、庵の備わった信濃のお気に入りの部屋の一つだ。
今も昔もこの部屋で茶道や華道等を学んだこの部屋は質素ながらも心を和ませる空間特有の雰囲気をかもし出していた。
「お機嫌いかがです、姫」
「うむ、遠路遥々ご苦労じゃったな永花」
自分で我侭をいっているな、と信濃は思っている。こうして他人と接触することは自分の秘密が悟られる可能性が出てくることを。
それでも、彼女は外を知りたかったのである。
海の向こうはどうなっているのか、大陸の文化や風習を話を聞くことで擬似的ながらも体験する。それが現在の天皇──形式上では父であるが──に対して許可をもらった、今の彼女の唯一の我侭。
「さて、覚えておるか? 初めて汝を召還した時を」
「今でもはっきりと」
信濃のことを姫と呼ぶものは永花ぐらいである。本来ならば不敬罪で処断されても致し方ないところであるが、信濃は笑って許していた。
ただし、流石に他人の目があるところでは公私を切り替えてもらうように要請はしてあるけれど。
そのまま、二人は少し開かれた襖の隙間から覗く美しい石庭と池を眺める。
──…
─…
「我らが国の姫か。どのような方か、興味はつきんな」
当時
グレートウォール戦線から任務によって一度本国である楼蘭皇国に舞い戻って来た永花であるが突然禁裏に召還されることになった。
普通なら、それもMAIDが禁裏に踏み入ることは滅多なことではない。初めからそういう想定で組み入れられた存在ではないかぎり、外からの来訪者が禁裏に入ることは無いのである。
其の上、あの信濃内親王を謁見できるというではないか。元々の性格も相まって不謹慎ながらもウキウキさせながら女房らの案内により、信濃院へと招かれる。
質素な造りのその古風な建造物に、永花はどこか窮屈な印象を受ける。
橋一つ以外に入る手段のないなんて、まるで城か……牢獄のようではないか。
永花はそう思いながらも、流石にソレばっかりは口に出すわけにいかないのであった。一方でその囚われる麗しき姫たる信濃に対しての興味が膨らんでいく。
橋に立つ警備専門の──和服に割烹着という典型的な、おそらくはMAIDであろう──者の射抜くような目線を飄々とした様子で流しながら、奥へと入る。其の奥に広がっているのは小さな箱庭であった。
俗世から切り離されたこの院は、外の穢れを知らない理想郷を形にしたかのようである。この院の中の時間はゆっくりと流れており、世間から切り離されている。
女房の案内によりその院のさらに奥の広間へと招かれる。
やや薄暗いその部屋をいくつかの明かりを灯すことで明るさを保っている。
その儚い明かりによって、幾重もの
帳の向こうにうっすらと浮かぶ影があった。
帳の直前にて跪く永花と女房。
「信濃内親王様、永花様をお連れいたしました」
「うむ……下がってよい」
女房を下がらせた声の主は、ゆっくりと帳が捲られていく。
そこに現れたのは楼蘭の貴族や天皇家の女子が召す十二単に包まれた、真に人形のような美しさを持った少女。
長い十二単に匹敵するほどの、艶やかな長い髪は川の流れのように十二単や畳の上に横たわる。
そしてその深淵のような黒い瞳に一瞬吸い込まれそうになった永花は、しばらく言葉を失った。
──なんと寂しい目をしている。
愛を情熱的に説くのが習慣となっている永花は、其の瞳に隠された感情を感じ取ったのである。
「如何した? 永花」
しばらく黙ったままの永花に対し、信濃は表情を変えずに問う。
まるで能面のように表情を変えない相手に、ある決心をした永花は普段纏っている雰囲気を纏い、とらえどころがない様子で言葉を発する。
「先に失礼を承知で言わせて頂きたい」
「ふむ、申してみよ」
「では敢えて──姫と呼ばせていただきます」
数瞬ほどの静寂が、其の一言によって齎される。
もし、この場に他の身分の高いものが同席していれば、即座に物理的に首を刎ねられても文句をいえないほどのなれなれしい態度と発言である。
一方は無表情のままに、もう一方は不敵な笑みを浮かべながら互いに顔を見つめあう。
彼女の表情の変化しだいで、永花の処分は決まってしまうだろう。
が、どうやら賭けに勝ったようだ。彼女の表情はすっと柔らかくなり、微笑を浮かべたのだから。
「面白いことを申すな汝は。──良かろう。公私分別する限り妾のことを姫と呼ぶがいい」
「感謝いたします。姫」
互いに笑みを浮かべながら、永花は信濃の問いに答えていく。
最初はどのような質問を吹っかけられるかと思っていた永花であったが、なんてことはない他愛無いことであった。
大陸ではどのような風習があるのか? どのような人々が住んでいるのか?
彼女は好奇心のままに世界を知ろうとしたのである。
信濃の問いかけに永花は丁寧ながらも時には大胆さや大げさな動作を加えて面白くも分かりやすい説明をしていく。
その度に浮かべる彼女の笑みをみる永花もまた楽しい時間を過ごすのであった。
─…
──…
しばしの回想を終えた二人はしばらく思い出に懐かしみを感じながらも会話を始める。切り出してきたのじゃ永花であった。
「孤の度、自分は隣の
大華京国に向かうことと成りました。姫」
「ほう、海を隔てた向こうにの……しばらく会えそうにないか」
「そうなります。しかし。姫の声あれば、例え地の果てに居ようと舞い戻る事を誓いましょう」
一瞬だけ見せた寂しさを湛える目を浮かばせた信濃に対し、おどけてみせる永花であったが、実際のところそれは難しいことは両者ともに言わなくても理解できていた。其の心遣いに信濃は微笑を浮かべながら、
「そうじゃの。向こうが落ち着いたら参られよ……それまで息災にの」
それ以来、永花はこの二年ほど本土に帰ってくることはない。
それでも代わりに時たま寄越す手紙には健康で元気であることを伝えてくる。
それらは信濃にとっては大事な贈り物である。無数の手紙は大事に漆塗りの木箱に収められ、時より眺めては永花を思い出す。
そして今日も、帳の向こうで遠方の同胞らの安否を気遣うのである。
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最終更新:2008年10月19日 22:05