(投稿者:Cet)
悲しいこと
この身一つでは足りないこと
この人と決めた人を助けること
この人と決めた人を愛すること
誰かを助けることと
愛することが
等価では
ないこと
ここは
クロッセル連合王国の東端、対『G』一大防衛戦線『
グレートウォール戦線』。
空は重く暗く分厚い雲が立ち込めて、険しい山脈の至る所で今も砲火の音が鳴り響いている。
山脈の尾根からは荒野が延々と続いており、最前線から二十キロ手前の駐屯基地は平静を保っていた。兵営から倉庫を兼ねる、たくさんのテントを縫うようにして走る灰色の道。それを踏みしめて散歩している彼女の名を、
トリアといった。
彼女は補給部隊要員として今一時的にここに居る。というのも、元々補給を請け負ったのは同僚の『ザ・ハングレッド』
ミテアなのだが、彼女の執拗な求めに応じて同行してきたのだ。曰く『だって最前線のいかつい御仁達にお伺い立てるなんて、怖いッス!』とのことだが、今や彼女は指揮を執る士官達と意気投合し、戦線の狂気に満ちた戦闘はどこへやらとばかり酒宴に興じている。
まったく自分の同行した意義を問いたくなったが、そこはそれ、事後承諾するほかなく、ため息を吐くほかない。うーっ、と呻いてしまいそうになる寒風に見舞われながら、陣地をそぞろに歩いていると、車両が通行する為に盛り土で舗装された急ごしらえの車道に腰掛ける青年兵の姿を見つけた。
この寒い中一心に見つめる先は最前線、砲火とどろく山の尾根である。
「こんにちは」
そんな彼に思わず声をかけてしまうのは彼女の性だ。
こんな所に女性の声というのはやはり予想の外だったのか、ぴく、と僅かにみじろいで、それからゆっくりと視線をこちらに寄越すと、更にもう一度固まった。そして彼女からしてもどこかその顔に見覚えがあるような気がして、お互いに視線を交わすこと数十秒。
「任務ご苦労さまです」
青年兵は堅苦しい語調でそう告げた。彼女もそれで、はっと気を取り直す。
「こちらこそご苦労さまです、任務頑張って下さいね」
やはりこういう場所では僅かな労いの言葉が兵士の心を癒すものだと彼女は心得る。事実そうして表情を綻ばせる兵士の多い中で、その青年兵の表情は頑なで。
「いえ、我々よりもよほど戦火に身を置いてられるのが貴女方であるというのは承知済みです。
私達一般兵を労わって下さるのも嬉しいことこの上ないのですが、それよりもどうか、御自身の御身をお労り下さい」
そう真顔で告げるので、彼女としても、ありがとうございます、と言葉を継ぐのが精一杯で、途端に青年兵の顔が赤くなった。
「し、失礼いたします」
そう叫ぶと踵を返し兵営の中へと駆け込んだ。何だかその後姿にも既視感を覚えずにはいられない、はて何に由来する出来事だったか。
「トリアちゃーん」
何だか怪しい掛け声に若干表情をひくつかせながら振り返ると、そこにいるのはミテアであった。
「うふふ、帰りましょうよ」
「ミテアさん……一体どれだけお飲みになったのですか?」
「なぁに、ほんの五合足らずッスよ」
それは結構なものだ、そしてそれだけ飲んでおいて頬を微かに赤く染める程度の彼女はやはり凄いな、などと思いつつ、往路での緊張はどこへやら。
朗らかにくっちゃべる彼女と帰途に着いた。
当然使用手段は自らの背中に根ざした翼である。増援の戦闘機とすれ違わない程度の低空で飛行すると、地上の車両や兵営からたくさんの兵士がこちらを見上げているのがつぶさに見て取れる。そんな光景に彼女はどうしても羞恥を禁じえない。
そして二人は二十分足らずで
ルフトバッフェ--クロッセル連合軍対「G」独立遊撃空軍--の仮設基地へと舞い戻ったのであった。
「以上で報告を終わります、何かご質問があれば」
「ん、ご苦労。下がってもらって構わんぞ」
「はい、失礼致しました」
何故彼女が事後報告を行っているかは、言わぬが華というやつだ。
「ミテアには後で私から言っておく」
「ハハ……いや別に構わないですよ、私から引き受けたことなんですし」
「お前にお願いをして断られるとなど、誰が思うものか」
そう言うのは今やルフトバッフェの司令官とも言える『
ララスン・H・カーン』である。
仕事熱心な彼女はメード担当官として身を置く傍ら、この部隊の運営の大半を引き受けている。
「あ、そう言えば」
「どうした?」
少し凄みのある視線をこちらに寄越すララスンに、自分の今話そうとした内容が報告に不適切なものでないのかと思い直してしまう。
「いえ、大したことではないので、またお仕事の終わった後に聞いて下さい」
そう言って退室しようとした。
「いや待て、お前から何か相談事があるなんて珍しいことはないぞ。
それに今私はお前の話を聞きながらでもやらなくてはならない程急用も負っていない。だから今話して構わん」
資料から目を離してそう言い切る彼女に促され、どこか所在無さげに視線を放りながら、言葉を紡ぎ始める。
「男の人にあったんです」
「ふん、一般兵か?」
「はい、多分……それで、その方が、自分達より、私達の方が余程辛い任務に身を置いてる、ってお礼を言って下さったんです。
そんなこと言う兵士の方って、珍しいな。なんて」
最後の方は若干しどろもどろになっていたものの、神妙な表情で頷いていたララスンは、話の後は妙に納得したような表情で黙っていた。トリアがどう取り成していいものか、自分の発言はやっぱり不適切だったのではないか、などと不安に思い始めた頃、ララスンが口を開いた。
「お前、やっぱり、戦場には向いてないな」
「え?」
「冗談だ」
ジャストジョーキング、彼女は笑う。だが次の瞬間真顔になって、執務机の引き出しを開け、なにやら一枚の封筒を取り出した。
そこには赤色の判が捺してあり、『検閲済み』とある。
「読んでおけ。後、絶対に明日には忘れろ。いいな」
最後の「いいな」が列記とした命令であることをひしひしと感じながら、彼女は固く短い返事をした。
拝啓トリア様。
私の名前は
ヴィルヘルム・エーレンハイトと申します。突然のお手紙申し訳ありません。
ただお伝えしないではいられませんでした、戦渦に身を置く貴女様に働くご無礼をお許し下さい。
私は貴女を愛しています。身を焦がれる程に。
あの日連邦の空で貴女を見かけ、また街の中で貴女と会って以来、貴女のことが忘れられないのです。
そう、私は貴女のことを愛している。だからこそ悲しいのです。
私は貴女を愛しています、だけど私には貴方を守る程の力はありません。例え命を懸けたとしても貴女の盾や銃にはなれないでしょう。
ですが私はきっと貴女を守れるようになってみせます。
その時まで待っていてください。
その手紙を読み終えてしばらく、彼女は惚けていた。
というのも自らの見識の及ばないところで、そのように想われていたなどとは。そんな驚きが一つと。そして『そういうこと』は前々から知っていたものの、自らの身が置かれたところで実感するに何か足りない、というのがもう一つ。
そんな訳で彼女は兵舎の一室で惚けていた。丁度同室であったミテアが不審がるのも仕方ない。
「どうしたのそんなぼーっとしちゃって」
二段ベッドの下段に座り込むトリアに対し、上段から覗き込みながらミテアは言った。
「へ? あ、私……なんだかちょっと分からないことがあって」
「どんなこと?」
「実は……」
かくかくしかじか。因みに概要だけだ。手紙の本文の多くは伏せておいて。
「うーん……それはウチの及ばないところッスね……なんと恋文か……」
こういう時には頼りになる人は一人だろう、このルフトバッフェにおいて。
「というわけで待っちゃったかな? いぇーい」
とりあえず空気を乱してみた『フロイライン』こと
ホルン。
「いえ、全然……」
「ありゃ……これは重症だね」
力なく笑うトリアを見て、即座にそう結論付ける。
かくかくしかじか、ホルンは少し考えて。
「まあ、その、何ていうか。こう言う時には自分の気持ちが一番大事だと思うよ? 私もそんなに経験がある訳じゃないからよく分からないけど」
「……どういうことですか?」
うーん、とホルンは唸る。つまりだね。
「トリアちんが、この手紙を見て、こう、なんだか、ググーっと! クるものがあったかどうか、ってこと!」
その言葉を聞いて、一時的に顔色を無くしたトリアが暫く考えること、数分。部屋に集まった三人の間に沈黙が降りる。
「……私の中で」
不意にトリアが言葉を紡ぎ出した。
「ただ、少し困っちゃった。という感情はないこともないです、でも所謂恋愛感情というものまでは」
「なるほど、じゃあ忘れちゃいなよYou!」
「朗らかに言ってる場合ッスか」
ちょっと個人の温度差がありすぎるのをミテアが咎めて、トリアも僅かに微笑んだ。
「それにしても、誰なんでしょうね……この手紙を書いてくれた人」
そう言いながら字面を再び目で追っていくトリアの目に、一文がとまった。
『また街の中で貴女と会って以来--』
その時だ、トリアの脳裏に古い映像が蘇る。
随分前、ルフトバッフェがまだここに配属される以前の
ベーエルデー連邦領地下において一時的に活動していた頃。
彼女は戦闘の合間の時間を縫って買い物に誘われた、確かそれはミテアの言い出したことだったろうか。
そういうことはそれ以前にも数多くあって、そしてその時も。
少し戸惑いはあったものの、彼女の好意に押されて徐々に街の空気を楽しむようになっていった。
立ちすくむ青年の視線が自分の姿に向けられていることを、初め気のせいだと思っていた。
しかし事実それは気のせいでなく、確かに彼は私のことを見ていたのであった。
そうして彼は言った。
--お名前を、教えてくれませんか
そして今日、陣地の中で物憂げに前線の方を、いやどんよりと立ち込めていた空を見上げていた彼のその人相が重なった。
「すみません、色々と有難うございました」
「へ? もういいの?」
戸惑うように返すのはミテア。
「やるべきこと、分かりましたから」
そう微笑みを添え立ち上がると、すぐさま部屋を出ていった。
彼女の靴音が駆け足に遠ざかっていく、部屋に残された二人は顔を見合わせた。
「いやぁ、ユカイ、愉快! 青春、青春!」
「いや全然分かんないっスけど……」
互いに反する表情を浮かべて。
いやはや先ほどはびっくりした、まさかこの職業に就いた動機そのものにまた出会えるとは、思ってもなかったからだ。柄にもなくドキドキした、顔が赤くなったのはきっと気付かれている。メードというのはそういう微細な変化に疎くてはいけないし、それに自ら為したそれが常人よりも過剰な印象を与えるということは一応自覚しているからだ。
ここはグレートウォール前線、の一歩手前の駐屯基地、その兵営。
「気付いてなかったよなあ、彼女」
一人ぼやくと、それを耳ざとく捉えた兵士の一人が煽りにかかる。
「やれやれ、お坊ちゃんがまた病に臥せってるぜ」
「止めてやれよ、お前非モテだろ? そういうのに絡みたがる」
「なんだとこのヤロウ!」
といった具合で兵営ではまた一つ騒動が。
それを諦観と共に見つめていた青年は、テントの入り口をくぐって現れた士官の姿に気付く。
「ヴィルヘルム、お前に客だ」
「自分に?」
「ああ、何たって天使だからな」
丁重にもてなせよ、そう言う暇もない。一目散に駆け出していく様は、どこか脱兎の姿に似ていた。
「やれやれ」
アンリ・ジュナール士官のぼやきは、いつの間にか賭け事に発展し始めた騒ぎをバックに霧散していった。そしてすぐ彼もベットする側に回った。
「はぁ、はぁ、はぁ」
兵営を飛び出して陣地を走り回ること十分は経っただろうか。
そう言えばどこで待っているとかそんなことは一切聞かぬままだったことに気付いて、自分の間抜けさを呪った。
向こう見ず、若さとはこういうことかと思う。
家を出た時もそうだった。殊更に咎めなかったのは父くらいのものだった。妹は出征の日が来るまで毎日さめざめ泣くわ、母の作る料理は不味くなるわ、ついでに弟にも懐かれるわだった。
はしっ、っと腕を掴まれたので、体がぐん、と音を立てて止まった。結構な力だ。
「す、すみません!」
そうやって顔を赤くして謝る彼女の名前を何度も口ずさんだことを覚えている。誰かが言っていた、恋人の名前は世界で一番短いラブ・ソングだと。
「あの」
「……すみません、なんだかこんな、いきなり尋ねてきて。その、士官の人から待ってるように言われたんですけど、貴方の姿が遠目に見えて、私に気付いていないようでしたから、つい」
「いや、そのことは構いません。とりあえず場所を移しましょうか」
「え……? あ、はい!」
いつの間にか十人以上の兵士が遠巻きにこちらを眺めており、中にはあからさまに囃すような笑みを浮かべている者もいた。
彼が彼女の手を掴んで走り出すと、どこからともなく口笛と、笑い声の重奏が起こった。
「それで、何でしょうか、私に用事とは」
「いや、その、はい……」
顔を赤くして、もじもじと下を向く彼女の姿を見るにつけ、彼の歓喜はここに極まった、すなわち、感極まった。駄洒落。
「……貴方のお名前は」
「はい、私の名はヴィルヘルム・エーレンハイト。クロッセル連合王国陸軍第七師団所属、第十七連隊所属一等兵であります」
彼がそこまで言い切ると、彼女は彼の目をまっすぐに射た。
それはそれは澄んだ眼差しだった。一点の曇りもないとはこのことだろうか。
「あの……貴方からのお手紙、読ませて頂きました」
「はい」
「それで、その……貴方と以前会っていたことを思い出しまして。……あ、手紙を読んだのは今日なのです! 軍の検閲で差し押さえられていて、すみません返事が遅れてしまって」
そんな事は予測済みであった。アンリからの入れ知恵だ、恐らく彼女の元へは届くまい、と。
ただ、今こうして、彼の目の前で、彼女は確かに以前自分のことを見たと、覚えてくれていた。
それがまず最初の幸運で、続けて、どんなめぐり合わせからか、手紙にまで目を通してくれた。これを運が良いと言わずして何と言おう。
確か手紙の内容はとんでもないものだったと思う。アレの下書きを再度読んだのは一番最近で一ヶ月ほど前だ。
「ごめんなさい、貴方の気持ちには応えられない」
「構いません、私には貴女を守っていられることが喜びなのです」
そう笑みを浮かべる。
そう、予想済みだった。彼を気遣ってくれるような困った表情。
そう、彼女はこんなにも優しい人だったなんて、それを困らせるなんて、私はなんと、なんて。
「一つだけお願いが」
「……あ、ハイ」
ふぅ、と彼は一つ息をはいて。
「抱きしめさせてはもらえませんか」
力強かった。
どんな恐ろしい兵器よりも、人の体温が温かかった。
今まで知らなかった。
男の人が泣いていた。
憎しみでもなく、悲しみとも少し違う、かなしみの涙で。
そして今、私は泣いている。凍てつく大気を切り裂いて、低空を飛んでいく。
たくさんの兵士がこちらを見て、時に叫んでいる。
何を言っているのか普段分かるはずが、今は何も聞こえない。
私は戦い続ける。
誰かの為に、誰かの為に。
その先に、何が待っているのか、今は知らない。
泣いていた。
悲しみで、泣いていたのだ。
※挿絵を描いて下さったオルサ様に多謝
最終更新:2008年12月07日 19:15