(投稿者:Cet)
私が思っていたのは、こうだ
人は生まれる前と
生まれてから暫くは夢を見ている
そのまま夢を見続ける者と、夢から覚める者がいる
双方共に自発的なものだ
夢から覚めなければ、永遠に夢を見続けることになる
死はその際覚醒に結び付かない
夢から覚めれば、現実において生命を全うすることになる
その死は確かにその輪廻に区切りをつける
そして、これからは自論の最たるものとなるが
現実において死んだ者は、再び夢を見る
それは永遠の夢ではない、ごく短いものだ
そして、その夢を見終えると、今度こそ全てが終わる
どうだ? ロマンチックだろう
夢を見て終わるには、一度は夢から覚めなければならない
自明の理だと思っていたよ
ああ、私が誰なのかはこの際関係ない
さあ、夢を見よう
いつか終わる夢を
「あつ……」
ダウンタウンの昼下がりを、石畳でできた坂道を下っていく男が一人いた。
クナーベである。彼はこの湿っぽい上暗がりの裏路地を歩いていてなお、悪態をついていた。
時は五月、ここエントリヒの都市で言うところの春の初頭と言える季節だ。とは言えその日の気温は二十五度に達しており、見ての通り一人の男も苦汁を味わっている。町の広場にはアイスクリームの屋台が繰り出して、ちらほら見える貴族の子供たちを誘惑している。
しかし実際に最も分厚い購買層は、彼らの保護者達である。魅力的な誘惑に負け、子供がいるから、とか、仕方ないわね、などと、何かと口実を練っては購入に走るのだ。
「あいつはさてどうしているのやら」
そんな中、独り言をいう彼の小脇には一つの紙袋。中には彼一押しのパン屋が焼くパンケーキが入っていて、きっとそれは一人窓辺で過ごしている少女を喜ばせるだろう。これといって根拠はないままに、彼は表情を緩めた。
「本を読んでるんだろうな」
きっと名前の影響だろうか、と彼は考える。
少女の名前は
ファイルヘンといって、この国でそれはスミレの花を指す言葉だ。因みに酔っ払いなどという不名誉な意味を兼ねているが、特に重要であるわけでもない。そもそも由来するところは、旅の詩人が書き下ろした一篇の詩に因るところである。
それは青年の詩だ。青年は恋に飢えている。
彼は誰でもいいから優しい女の子に恋をしたい、そう考える。
すると目の前にすこぶる可愛い女の子がやってくるではないか。
その女の子は、色めきだつ青年のところまでやってくる。
そして青年は踏み潰される。その時青年はスミレの姿をしていた。
「でもスミレは喜びに包まれて死んでいくんだよね」
独り言。まあ現実じゃそんな満ち足りた死なんて存在しないだろうが。要するにアレだ、恋の中に死んでいく青年の話だ。全く、夢と現実とを一緒にしないでほしいものだ。夢を夢だと悟るには、一度でも夢から覚める必要があるだろうに。
考える内に不満ばかりが積もっていく中、彼は薄暗い小路地を抜けた。するとそこには政庁舎が面する大通りが広がっている。近くに軍の基地があるところ、非常用のアウトバーンに利用されるのだろう。
彼はそれら政庁舎の一角にある、寮らしき体裁を漂わせるビルへと足を向ける。そこには一人きりの少女が彼を待っている。
「や、ただいま」
ドアを開けるなり彼は言ったが、しかしその声をかけた対象は窓辺に据えた椅子に座り読書に耽っている。予想通りといったところだ。
ゆっくりと顔を上げ、笑顔を浮かべて言う。
「おかえりなさいクナーベさん、御用事は済みましたか?」
「ああ、全く問題ないよ。ところでこんなものを買って来たんだけど」
彼はその小脇に抱えた茶色い紙袋を手にぶら下げて、少女に見せ付ける。しかし少女の反応といえばきょとんと目を丸くするようなもので、彼が思っていたような著しいものとは大分違っていた。
「なんですか? それ」
「ああ、これはパンケーキ。君が喜ぶんじゃないかなー、って」
青年はにっこり笑って言った。すると少女も笑って。
「ケーキですか? 一昨日クナーベさんが買ってきて下さった」
「うーん、ちょっと趣向の異なるものなんだけどね。近くに行っていい?」
「はい」
少女はにっこりと笑う。彼はそれを見て少々満足感を覚える。少女の仕草というか、その振る舞いというのはいわばまるっきりのお嬢さまらしいところがあって、生前の彼女の様子を想像する上で大いに助けになるものだったからだ。
というのも彼女はメードであり、すなわち一度死んだ存在なのである。そしてメードとして蘇った。そのケースに付随して彼女はメードになる以前の記憶を持ち合わせていないのだが、聞くところによると彼女は没落貴族の元で生まれ育った箱入り娘であるらしく、とにもかくにも純粋培養の温室育ちなのだとか。
それに輪をかけて世間知らずにならざるをえなかった彼女の運命は、同情するに足るものだろうが彼のメード担当官としての、いや彼本人の個人的な要求としては非常に魅力的な条件であると言えた。
というよりむしろ、男子にとってと言えようか。
「どうぞ」
言いながら青年はその紙袋を、アンティーク調な椅子に腰掛けた少女へと差し出す、そしてその手前にあるテーブルの上に置いた。少女は笑みを浮かべたまま、本を静かにテーブルの上に置くと、その茶色の紙袋を手に取る。その中から手探りに、一つのパンケーキを選び出す。
しっとりとした狐色の表面を、鼻先へと持っていく。
「……いいにおい」
「うん、香りも価値の上だろうね。まあそれはともかく味を確かめてみてよ」
はい、と少女がそれを口元へ運び、一口齧る。すると彼女は暫し動きを止めて、もう一口を齧る。それからは、もはや釘付けになってしまう。
「……あ」
そして頬を赤らめる。
「いや、俺としては続けてもらって構わないんだけど」
「恥ずかしいです……なんだか食べることに節操がないみたいじゃないですか」
とちょっと顔を伏せて言うのであった。
「ん、気に入ってもらえてよかったよ。じゃあ俺も一つ貰おうかな」
「……ずるいです、そんな、私だけが食いしん坊みたいで」
少女はまだ羞恥覚め遣らぬ様子で、私ばかり食べてすみません、と囁くように言う。
「君に最初に食べてもらわなきゃ俺が困るからね、どれ」
彼はパンケーキを一つ取り出して豪快に齧り付く。うん、グレート。
そんな時だ、コンコン、とドアをノックする音がした。というのもそのノックはパターンに特徴があり、二回、三回、二回と区切られたものだ。
「ああ、入っていいよ」
彼がドアの方を向いて言うと。おーう、とくぐもったどこか野太い声が返ってくる。
「ちわーっす、ファイルヘンちゃんも、こんちは」
「こんにちは」
「ギュンターか、何の用?」
「……俺はお呼びじゃないってか、でも用があるのは俺じゃなくて課長の方だ」
ギュンターと呼ばれた男が応える。彼はその声の特徴の通り、大柄でありかつ表情は穏やかというか、のっぺりとしており、その外見はどこかのんびりしているようなイメージを与える。
「非番なのになぁ」
「うるせぇ、いいから行けよ。どうせ大した用じゃないだろうし、すぐ解放されるさ。その間ファイルヘンちゃんはこの俺が面倒みておく」
「駄目だ、アンタは俺と課へ行くの」
「行ってらっしゃい、ギュンターさん」
ファイルヘンは笑ってそう告げる。どことなくギュンターという男が哀しそうな笑みを浮かべるが、それを引っ張ってクナーベは部屋から出て行く。
「あ、鍵閉めといてね、ついでに誰が来ても決して音を立てない。開けない。無理矢理入ろうとするやつはファウスト(拳骨)で撃退する」
「はい」
少女の笑みに見送られながら、二人の男は部屋を後にした。
「なぁ実際どうなんだよ、あの子とは」
「んー、まあ順調」
「何がどう順調なんだよ……」
男、トーマス・ギュンターはうなだれながら言う。
「アンタに言っても分からないでしょ」
「だからお前には友達ができないんだよ」
友達ってこんな職場で友達も何も、とお互い刺々しく話し合っていると、彼らは一つの部屋の前で立ち止まった。廊下には等間隔で扉が据えつけてあり、同じような光景が続いている。コンコン、コンコンコンコン。とノックする。
いーよー。とこれまた間の抜けた声がして、二人は顔を見合わせて頷いて、ノブを捻った。そこには小さな社長室といった具合に、左右を本棚に挟まれて執務机に座る男の姿があった。金髪をポマードで固め、黒縁の眼鏡をかけている。歳は三十くらいであろうか。
「やあやあ、ま、座ってよ」
「課長、そのボケはもう聞き飽きました」
机は一つしかない、それに応じて椅子も一つきりだ。
「はは、これは一本取られたなあ。……あれ、なんでギュンター君いるの?」
「何でですかねぇ」
ギュンターは自嘲的な笑みを浮かべてこれに応える。
「まあこっちに来なよ」
二人は無言で男の下へと近寄る。そして休めの姿勢で固まる。
男は執務机の上にある書類に向かって、筆を走らせる。彼らには視線を戻さないで。
「お嬢さんの様子はどうだい?」
そう問うた。
「……ハ、覚醒以来特に問題は起きていません」
「ん、それは重畳」
言うと、彼はちら、とクナーベを見返した。クナーベは何も返さない。
「以上、帰ってよろしい」
「「はっ」」
二人は敬礼を送ると、踵を返して背後のドアへと向かった。
それに向かって声がかけられる。
「ハイル・ギーレン」
「……ハイル・エントリヒ」
「よくできました。帰ってよろしい」
二人は少々脂汗をかきながら、その場を後にした。
情報戦略課は、皇室親衛隊の管理下にありながら独立したスタイルを持っている。
課長を務める
ヴァン・フォッカーは元々は皇室親衛隊の所属であった。有能であった彼は、諜報活動、及び諜報員の育成において特筆すべき成果を上げ、それらの功績が評価されることで、小規模な諜報部隊の長として承認されたのである。
設立から僅かに一年余りと、その歴史はごく浅いものの、皇室親衛隊から引き抜かれた人材を基盤に、今なお優秀な成果を上げている。
そんな彼らは十人という小所帯である。ただ最近になってメンバーが一人増えた。その新しいメンバーの名前をファイルヘンという。まだ確定とは言えないが、所属自体は親衛隊のものでありつつも、実際の活動の場は情報戦略課に限定させようという狙いのもと、フォッカーに引き抜かれてきたのである。
元々ファイルヘンの素体となった少女を見つけてきたのは、親衛隊に連なるスカウトマンであったが、しかし結果として親衛隊と繋がりのある情報戦略課が彼女の教育を受け持つことになった。それ自体はさして問題のあることでもないだろう。
「フレデリカ、ちょっと来てよ」
クナーベは同じように狭い部屋にいた。先ほどと違っているのはその内装で、所狭しと並んだオフィスデスクで部屋の殆どが占有されているというところだ。
不機嫌そうな目つきをした眼鏡の女性が立ち上がる。
「何ですかクナーベ」
「あのね、ファイルヘンのことなんだけど」
クナーベがやんわりと切り出した言葉に、女性は呆れきった表情でうなだれる。
「またあの子に何かしてあげるの?」
「……まあ、今の内くらい楽しませてあげたっていいでしょ」
「甘い、甘いよクナーベ。どうせ銃の扱いもまだ教えてないくせにそんなことばっかり言って」
外出してきまーす。とクナーベが掻き消えていた、声だけが響く。
女性はがっくりと、溜息を盛大に吐いた。
少女は時々不思議な夢を見る。それは荒野に立っている夢、見たことのない場所で、遠くには都市をとりまく城壁が見える。彼女が暮らすその場所は近代化が進んでおり、中世の城壁を未だに残しているような場所はもうないのだが、果たして少女はその風景に既視感を覚えずにはいられないのだ。
ただその違和感を少々引きずって、現実に戻ってくる。いつものことだ。
彼女は本を読む。クナーベと名乗る青年が持ってきてくれるものだ。それは例えば戯曲であったり、詩集であったり、また小説であったりする。変化球としては、映画や劇のパンフレットなどといったものも持ってきてくれるので、彼女は目にも豊かな想像を許される。
ただ問題は、その想像が満たされたことは今までに一度もない、ということで。
確かに彼女の外の世界に対する興味は募る一方であったが、かと言って外にそこまで出たいかというとそうでもない。一人きりで過ごすのなら、この窓際に佇んでいた方がよっぽど落ち着く、というものだ。単に彼女自身の性格が保守的な傾向にあるせいかもしれないが。
ふう、と一息ついて本を伏せる。
コンコン、コココ、コンコン。少々リズムが速いが概ね合致した合図のノック。
どうぞ、と言おうとして思い出す。彼は言っていた、誰が来ても返事をするな。音を立てるな。それはいつも通りの決まりごとで、彼が部屋を出て行くときは、いつでもそう言うのだった。
しばらく無言の時が過ぎ、そして出し抜けに鍵がみずから回ってドアが開いた。
「ただいま、ファイルヘン」
クナーベであった。
「おかえりなさい」
「ああ、突然だけど外に行こう。見たいものとかある?」
その申し出に、少女は言葉を失った。ただ立ち上がって、告げようとした言葉もないままに唇を動かした。
「お、お芝居」
「芝居? オーケー分かった、何がいい?」
「えーと、何でも」
「何でも? そうだなぁ……君が好きそうなのは何だろう」
クナーベはそう言いながらファイルヘンの読んでいた本へと視線を遣る。
「じゃあ、恋愛モノね、最後がハッピーエンドになるやつ」
「え、あの、良いんですか。何ていうか、お忙しいのに」
「今日は非番だよ」
青年はそう言って笑う。少女はすっかり忘れていた事実に頬を染める。
「行こうか」
「はい」
少女は笑う。少女の笑みは柔らかで、どこか儚さを帯びた笑みだ。
クナーベはそれを見るにつけ言葉を失ってしまいそうになる。
青年と少女が、手をつなぐ。
最終更新:2008年12月20日 20:25