(投稿者:怨是)
私服の外套に袖を通すのは数週間ぶりだろうか。
雪道に足跡を付けてはしゃぎまわるベルゼリアとそれを見守る
ライサ・バルバラ・ベルンハルトをよそに、ヴォルケンは思考を遠くへ飛ばしていた。
ここは
エントリヒ帝国の首都、ニーベルンゲ。
遠くの城壁すらも雪に彩られて灰色に染まり、街灯はぼんやりとその灯火を発散させている。
このシルワート通りも今日は静かだ。車は事故防止の為に速度を落としているし、いつもと比べると非常に少ない。
普段から乗り回している人々の大半は、こういう日になると天候の影響を受けにくい地下鉄道を通勤に用いるのだ。
それを差し引いても、やはり音が少なかった。耳鳴りが間近で聞こえるほどに。
……雪は、音を吸い込む力があるという話をどこかで聞いた事がある。
「また考え事か?」
遠くで女性の声がしたが、誰に向けての呼び声だろうか。
あまり気に留めることも無く、そのまま歩みを進めた。
心なしか商店街も前来た時よりも活気を取り戻している。
大戦直後はまるで廃墟の様相を呈していたが、
エントリヒ皇帝の必死の建て直し政策によって、ニーベルンゲは真っ先に復興を遂げたのだ。
あの当時は確か、24歳。
ルージア大陸戦争の真っ只中だった。
ヴォルケンは士官学校を卒業後、体格が大きすぎるなどの理由でどこにも所属できないまま、どこかの部署で腐っていた。
それでそのうち家庭教師を副業とし始め、幼き日のベルンハルトの専属家庭教師となったのだ。
そのベルンハルトが、この当時では15歳くらいだったか。
「おーい」
もうすぐ年に一度行われるという帝都復興記念祭の日になる。親衛隊の面々はパレードに参加し、ここの通りも大変にぎわうのだろう。
今年の
ジークフリートはあのきらびやかな金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字勲章を身につけ、皇帝陛下は演説を始めるのかもしれない。
その傍らで、 帝都復興記念祭は周辺都市にとって、忌むべき日なのだ。
帝都中心主義の産物だと。驕りの生み出した敗北を誤魔化すための興行に過ぎないのである、と。
周辺の都市の数々は、復興を後回しにされた為にかなりの経済的損失を負ったとも聞いている。
実際そうなのだろう。
当時、復興支援の為に衛星都市ライールブルクに出向いたところコンクリートの塊をぶつけられて医療器具が駄目になり、上司の叱責を受けた事が未だに記憶に新しい。
現実などそういうものだ。軍人は常に恨みを向けられる運命にある。特に戦争が終わった直後なら、なおさらの事だ。
こういう曇り空は思考を更にネガティヴにしてしまう。
――突如、ヴォルケンの後頭部に冷たくて痛い衝撃が加わった。
「おいおい、困るだろうに。ヴォー君」
「ヴォー君って……誰ッ、ん……おお、私か!」
慌てて外套の背中を振り払う。雪玉を投げられたのだ。
どうやらゆっくり考え事をしながら歩いているうちに、最初に寄って行く店を通り過ぎてしまったらしい。
ベルゼリアとヴォルケンの間に、次の雪玉を掌中に収めんとするベルンハルトの姿があった。
「……すまん。そろそろ投げるのをやめてくれ」
「敢えて云おう。だが断る!」
「痛ッ」
正面から雪玉が命中し、目に雪が入って沁みる。
沁みるというか、少し痛い。
「かーいものっ」
「さぁさ、早く戻れ。時間は限られている」
仁王立ちで腕組みをしながら待ち受けるベルンハルトに、耳打ちする。
「仮にも私は教育担当官だ。あまりベルゼリアの前で私の情けない姿を晒させないでくれ」
「むー、かいもの、かいものー!」
ヴォルケンは耳打ち途中で遠くから両拳を振りながら駄々をこねるベルゼリアに一瞬ギクッとなったが、すぐにこちらに向き直る。
向き直れば向き直ったで、今度はベルンハルトが不敵な笑みを浮かべながらヴォルケンの頬をつねりはじめた。
「何を今更。愛娘を放置して考え事をしていた放置プレイヤーはどこのどいつだったかな」
「うッ、放置プレイヤーと来たか。何だその不名誉極まる名称は」
「ほほぉぅ……」
そろそろ余裕が無くなったのか、ベルンハルトの目が笑っていない。
つまるところ口元だけ笑っているのであって、これはすなわち内心ではそろそろ堪忍袋の緒が切れそうになっているという事だ。
オーラと空気がそれを伝えていた。視線が心臓などに刺さるような心地になるという事は、“そういう状況”という証拠であろう。
長年の付き合いでヴォルケンはそれをよく解っていた。
「あ、いや……すまなかった」
目の前の女性はいつもの笑顔に表情を戻し、ヴォルケンの背中に手を回して店のほうへと軽く押す。
「解ればよろしい。さぁ、今のやり取りは水に流すとして、早く愛娘と品定めをする作業に戻るんだ」
「愛娘て……」
「おかいものー」
「傍から見れば家族にしか見えん。偶にはアリじゃあないか? 家族ごっこ」
「幹事は任せたぞ、ベルンハルト。私はそこまで器用ではない」
「まだ40そこらで何を弱気な。私が支えてやるから今から勉強しろ」
思わず苦笑してしまう。とうとう昔の教え子に、勉強しろとまで云われてしまうとは。
やはり頼もしい事この上ない。
レンガ造りの外観に反し、中はログハウスのような質感だった。
少し違和感を覚えるものの、借り物の店なのだから仕方あるまいとして、ヴォルケンは後ろ手にドアを閉めた。
「んー! うー君とさーちゃんのおともだちー」
ベルゼリアは真っ先にウサギのぬいぐるみのコーナーへと駆け寄った。やはり事前情報の通りだったか。
ヴォルケンと、隣のベルンハルトもゆっくりと追いつく。
なんとも、周囲の訝しむ視線が若干痛い。口元が痙攣してしまう。
当前と云えばそうだ。10歳の少女にしては口調も趣味も幼すぎる。本来なら読書などを始めてもおかしくはない年齢で、真面目に“おともだちー”などと云いながら店内を走ったりするのだから。
耐え切れずに、ヴォルケンは傍らの女性に向き直って口を開いた。
「……ど、どうしたものか」
「どうもしないさ。普通だろ」
普通か。何が普通なのか、もはや基準も指標も解らない。
価値観などこの目まぐるしく回って行く年月の間に、とうに壊されてしまった。それならば、もはや基準などというものは自分で考えてしまっても良いのではないか。
「それも……そうだな」
考えないようにしよう。また考え込んで置き去りにしてしまっては、折角のレクリエーションが台無しである。
それにしてもよく泣き出さないものだ。駄々のこね方も幼子にしてはだいぶ大人しいほうではなかったか。
ふと、裾をつかまれる。
「ぬーぬー」
「おぉ? どうした」
振り向けばベルゼリアが、二匹のうさぎの人形を抱えながらこちらを見上げていた。
「そうか、欲しいのか」
「んー、買ってくれるの?」
貨幣制度に関しては、先ほどベルンハルトの手助けでかなり簡潔に説明したばかりだから、多分大丈夫だ。
が、何故二匹。
「どちらか一匹にしなさい」
「むー。でも、残ったうさぎさんが寂しくなっちゃう」
確かにうさぎコーナーに残っていたぬいぐるみはこの二匹だけだったらしい。
棚の中が空になっていた。店員がさりげなくこちらの様子を伺っているのが見える。
「えぇぇ……」
解らない。そこで情を抱くというタイミングが少し理解出来ない。
ヴォルケンは物を大切に扱うという考え方は知っていたが、ぬいぐるみなどに魂が宿るというような考え方などは今の今まで考えたことすら無かったのである。
「そうは云うがなァ……」
「むーむー!」
むくれられても困るというものだ。
だいたい、棚が切れれば在庫から補填する。在庫が切れる前にメーカーに取り寄せる。小売店とはそういうものではないか。
この辺りの大人の常識をどう教え込むべきなのだろうかと思案している所に、救いの一手は差し伸べられたのだった。
「ならば、この私が残りの一匹を引き受けよう。それでいいだろう?」
「ライサが?」
意外な返答と云うべきか。ベルンハルトの趣味はランジェリー集めの筈だが、童心に帰るつもりだろうか。
それともそのぬいぐるみに着せて新たな趣味でも開発するつもりか。
ベルゼリアも首をかしげていぶかしむ。大人がぬいぐるみを買うことに違和感を覚えるというよりは、片方が他人に渡るのが気に喰わないのか。
「ラーちゃん、うさぎさん貰っちゃうの?」
ラーちゃんとは、ライサ・バルバラ・ベルンハルトのあだ名である。
ベルゼリアがたった今考えた。
そのベルゼリアはいささか不満げな面持ちでライサを眺める。
「ああ。たまにうさぎさん同士で顔を合わせるというのはどうかな?」
「大切にしてくれる?」
「大切にするとも」
暫し考え込んだ後、ベルゼリアは納得したように、手持ちのぬいぐるみを抱きしめた。
「むー、じゃあ、それでいいと思う」
「決まりだな」
費用は誰持ちだろう。
「ヴォルケン。財布に余裕はあるな? 確か経理課から必要経費が降りていた筈だ。私にはそれが無い」
「えッ……」
ヴォルケンは、げんなりした。
買い物のたびにこれである。たまに必要経費だけでなく自費にまで手を出さねばならなくなるのだから、たまったものではなかった。
働く男の厳しさは、経済面すらも打撃を与えてしまうというものである。
しかも二人の女性(とはいえ一方は少女だが)に視線を突き刺されてしまっては、こちらとしても出ざるを得ない。
まして先ほど無礼を働いてしまったばかりである。負い目が背中を押してしまうではないか。
「……解った」
泣く泣く財布を取り出し、レジへ向かう他無かった。
ああ、次は果物屋だ。
どうしてくれようか。技術部宣伝顧問によると、ベルゼリアはああ見えて中々の大喰らいだという。
このうさぎのぬいぐるみだけでも中々の値段だというのに。嗚呼……
玩具店と文房具店、本屋での買い物を終えた後、ベルンハルトは二人に別れを告げて別行動をしていた。今は少し路地に入った所である。
午後の5時に皇室親衛隊の兵舎の前で待ち合わせという約束であり、ただいまの時刻は3時。
時間は無くはない。ついでにこちらの用事も済ませてしまおうという魂胆である。
ちなみに、ぬいぐるみ入りの手提げ紙袋は無い。ヴォルケンに預けたからだ。
「いつもの店に行く前に、と」
指をパチンと鳴らせば、目の前の車から二人の人影が現れる。
「ライサ様、御用ですか?」
レーニと
シルヴィ。
戦技教導学校マイスターシャーレ出身にして、ライサ・バルバラ・ベルンハルトの専属MAIDである。
「御用という奴だ。アレとソレ」
「かしこまりました。アレの書類はこちらで……」
レーニが運転席のブリーフケースから書類を取り出し、続いてシルヴィがダッシュボードを漁りはじめる。
「えっと、ソレのほうの書類がこっちだったっけ」
苦戦しているシルヴィに、レーニが指で小突く。
「シルヴィ、ソレの書類はこっち」
「姉ちゃんまたぁ? 書類動かす時はちゃんと云ってくれないとわかんないって云ったじゃん」
「いいから。ライサ様、こちらがソレの書類です」
シルヴィの不満を文字通り右から左に流しつつ、レーニはもう一つの書類をベルンハルトに手渡した。
ベルンハルトは書類の内容に軽く目を通してブリーフケースに仕舞いこむと、満足そうな表情で二人のMAIDに下車を促す。
「付き合ってもらおう」
「買い物ですか」「いつものアレね」
「そう。いつものアレの買い物だ」
いつものアレである。
生きるには、とりあえず傷の舐めあいも必要だ。効果が増すならある程度は何をしたっていいじゃないか。
幸い、自分は女性に生まれてきたし、ヴォルケンもすぐに脱がすような乱雑な男ではない。
今日は何色を選ぼうか……
最終更新:2009年01月03日 04:46