Chapter 3 :レインステップ

(投稿者:Cet)



 クナーベファイルヘンの私室にいた。彼女は今ソファに腰掛け、寝息を立てている。一時は不安定だったものの、今こうして寝顔を眺めているとそれは安定に他ならなかった。
 彼はその傍らに跪いて、手を握っている。それしかできないからだ。
「……俺なんか悪いことした? 謝るからさ」
 何度目になるか判らない謝罪の言葉、それも虚しい。
 はあ、と溜息を吐いた時だった。薄らと、少女の瞳が開かれ、光を宿す。
「ファイルヘン?」
 少女はぼんやりとした調子でそれに答える。
「柳青……?」
 彼は落胆する。顔には、『やっぱり』。
 彼女は認識する、そしてやはり顔には『やはり』。
「……夢を見てるのか」
「夢? 何の話だ」
 どこか怒気を含んだ返答に、ファイルヘンはせせら笑った。
「今みたいなことを言うのさクナーベ(ませ餓鬼)」
「ああ悪いかよっ」
 そしてクナーベは激情した。


 夜は二十二時を回った。その芝居も佳境に入っている、クライマックスを前に盛り上がりをみせる舞台には光が満ち、鳴り響く音響と同じくらい太く張った声と、大仰な身振り手振りで役者が立ち回っている。
 しかしその時の二人は、初めから舞台など見ていない。
 まず最初は少女からだった。足早に情報戦の庁舎を出てから間もなくして、腕を絡ませてきた、クナーベは当然驚いた。しかし過剰な反応もまた無かった。強いて言うならば分かっていたからだ。というより期待していたと言うのが正しい。
 なんにせよそんな調子の二人が大通りに面した劇場にやって来たところで、変わるところなどない。終始無言のままチケットを買い、真っ暗なホールに入り込むや隣り合わせに座る。暗闇の中お互いの吐息が聞こえてくるようだった。クナーベは努めて彼女の存在を脳裏から振り払うべくしていた。かくいう彼もやられていたからだ。
 そしてその試みはついぞ成功せずに今に至る、彼はもう限界まで来ていた。
 だから手を握った。
 確かに戸惑うような母音を聞いた。
 真っ白な頬は暗闇の中で白磁のように光を帯びており、微かに朱が差しているように思えた。それと俯き加減の目元にも。
 全て、思えたの域を出ないにしろ。この場所が暗闇であったのが幸か不幸か--、彼には判別がつかなかった。
 効果音の高鳴りと同時にキスをした。握り締めた手が自分以上に固く握り締められるのを感じる。微かにファイルヘンが首を仰け反らせる。うあ、と呻き声が漏れる。
「あ、」
 ただ、彼は気付かなかった。
「うあ、ああ、あ」
 彼らの後方にいる人間が今ことごとく舞台へと送る視線をクナーベは断ち切った。
「うああああああああああっ」
 その肩を抱きすくめて立ち去るのと、同時だった。


 とある哲学者の言葉を自省する。しかし既に遅い。
「うあっ、あ、あああああっ」
 普段から懸念していた材料が今焦点を重ねるとなど。
 泣きじゃくる彼女を止める術を、彼はまだ知らない。だから無言になるしかない。今思えばそれが契機だったのかもしれない。
 できるだけ彼女と接する面積を増やそうとするも、安心を喚起するには至らない。一人では歩くこともままならないぐらい、その時の彼女は不安定だった。
「なんでだ……」
 彼は一度だけそう漏らした。少女を両腕で抱えるように歩いた。

「おお、派手にやったな、って」
 ギュンターの横を潜り抜ける、ちょっと待てって。叫びは無視される。
 その時のファイルヘンの表情は蒼白そのものだった。震え、声を出すのも止めてしまっていた。ただ抱えられていた時とは違い、今度は抱えられようとしている。要するにある程度の意思はあるのだ。クナーベはそれを機に彼女の私室へと運んだ。
 バタンとドアが閉まると。彼はファイルヘンを一度強く抱きしめた。それで彼女の調子が戻ることはなく、ソファに座らせた。少女は背もたれに身を任せて俯いた。
「好きなんだ」
 彼は言いながらタオルで涙を拭いてやった。
「だからさ、楽しい一日にしたかったんだけど、ゴメンな」
「俺が悪いんだよな、お前の話聞かないで」
 一定の間隔で投げかける、しかしそれらの言葉が意識の判然としない彼女の耳朶を振るわせたか。定かでない。
 そうして彼は呟く。
「柳青」
 柳青(ヤンシャオ)は十年前の五月五日に死んでいた、当時八歳で、何でもファイルヘンの生前はお抱え給仕として働いていたそうだ。
 彼女の死がそれとなく関係していることは親衛隊の連中の話から聞いていた。
 だけど彼はそれ以上を知らない。ファイルヘン、本名はラシェル・ケーニヒ。彼女の生家は今没落の極みにあって、一族も散り散りばらばらで所在が掴めない。ただこのご時勢に、彼らを庇護してくれるような存在も思い当たらなかった。
 皇室親衛隊特務部隊のエージェントに数回接触を受けた彼女の父親も、メードとして蘇生させる為の費用を提供した直後に行方をくらました。只でさえ斜陽貴族であった一族はその一件で暗がりに転落したらしい。
 それと『柳青』が一体どこまで関係しているのか、彼は遂に知ることができなかった。それが今最悪の結果として目の前に現れている。

「最悪だよ、お前」
 言われなくても分かっていたから、返答はしなかった。
「お前了解も取らずに唇を奪ったろ、当たり前だよ。アレだけ二人して創作を読み漁った結果がこれかい? お話にもなりはしない」
「じゃあ全部俺の所為だっていうのか」
 そうさ、とファイルヘンはその顔を歪めた。せせら笑う、座っているのに見下す。
「お前さ、キスの前に告白だろ。それぐらい常識、知っとけよ」
 少女はクナーベから視線を外す、その表情には落胆の二文字が浮かんでいた。
 彼にとっては全くピンとこない、確かに常識論で言えばいささか性急かつ乱暴だったとは思うものの、焦点としては全くズレている気がしてならない。
「そこで私だ」
「ていうかアンタ誰なんだよ」
「言うのが遅いね」
 全くだった。
「私はラシェル・ケーニヒだよ、お前が思っている通りのね」
「その男みたいな喋り方は」
「色々あったんだよ」
 口元を笑みのように歪める、が目は笑っていない。
「しかしまた現実か」
「何の話だ?」
「私は一回死んだんだ、その役得がこれってのは解せない。それとも何か、お前が柳青の代わりになってくれるとでもいうの?」
 クナーベは表情をしかめる。そう言うファイルヘン、--ラシェルの表情がひどく情感に溢れるものだったからだ。
「……俺は元々情夫みたいなものだし、お前の言う夢を見せてやれるのなら、それでいいよ」
「少女の為? 私の為?」
「ファイルヘンの、だ」
 そうしてクナーベは少女の瞳を見つめた。
 少女は破顔する。
「それでいいよ」
「……アンタは一体なんなんだよ、亡霊か?」
「お前達がこうしたんじゃないか」
「違うだろ」
 クナーベは少女の瞳を半ば睨むようにして見つめる。少女は逸らす。
「お前は自ら死を選んだんだ、そこからだ」
「全くだ、こんなことになるとは思いもしなかったよ」
「死んで夢みてサヨウナラってか、おめでたいったらないね」
 少女が今一度クナーベを見返す。
「望むべくもなかったさ」
 二人の間に沈黙が降りる。その上に、静かに雨音が募り始める。
 断続的な雨音は、一繋がりに音色を紡いだ。
「ねぇ」
「?」
「外、出てみたい」
 少女は笑って言った。

 クナーベは扉を開けた瞬間に何か違和感を感じた。今さっきまで廊下に誰かがいたような気がするのだ、それも大勢。きっと気のせいではない。そう確信して廊下を歩き始める。
「鍵はー?」
「いいよ別に、すぐ戻るし」
「私が言い出したのに」
 不満そうに言う声に振り返る。
「分かったよ」
 つかつか引き返してきて、鍵を閉める。がちゃり。
「これでいいんだろ」
「さっすが」
 少女は笑った。
「……」
 これに対して解せないのはクナーベの方だった。一体どうなってる? 色々あったんじゃなかったのかよ。少女がそんな彼の脇を走り抜ける。
「はは、皆隠れなくても、いいのに」
 笑いながらそう言って、廊下を走っていく。クナーベがその後を慌てて追いかける。とは言え行き着く場所は決まっているのだ。
 突き当たりの階段を少し遅れて降りていく。一階の踊り場まで降りて、少女が走り出す。クナーベも少女が走り出した方を見やる。
 庁舎の前のちょっとした広場くらいのスペースで、少女は踊っていた。舞踏を踏んでいた。くるくると回って、雨に濡れるのに一切かまけず、笑っていた。
「ははっ、レインステップ! 雨の舞踏!」
 くるりと一回転する。
「雨の荒野! ダブルミーニングっ」
 くるり、静止する。クナーベの方を向いて。
「……どんな気分なんだ?」
「あはは、すっごい晴れ晴れしいよ。何せ生きてる内にできなかった体験だし」
 そう言いながら少女はくるくると回っていた。


 その時だった。ざざ、と視界にノイズが走る。
 雨音、五月、夜。
 それらのキーワードは彼に記憶を呼び起こさせた。

 全てが暗転する。







 暗い部屋だった。ざあざあと雨音が響く。
 女性が倒れていて、その隣に男が突っ立っている。
 自らもその場にいて、合わせて三人。
 彼自身は手に何か重たい物を握っていた。
 拳銃。


最終更新:2009年01月27日 04:20
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