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佐々木到一少将私記

佐々木到一少将私記(歩兵第三十旅団長・陸軍少将18期)

※この私記は南京戦史資料集Ⅰ(P.265~276)による。
三、敵前九十度旋回
十二月九日
三、敵前九十度旋回 ○十二月九日(昭和十二年)
 未明行動を開始したが態勢を整へた時は結局夜が明けてゐた。
 敵の死体が田圃に幾つでも転がつてゐる中を乾田中の徒小径を三縦隊となつて前進する。砲兵の進路が一度揚子江江岸近くまで進出した後九十度左折しなければ通過できない一本道路であつたのと、兎も角敵を一度江岸まで追撃しなくては目指す南京北側地区への進出が出来ないので、昨八日夜戦場追撃は少くも敵に脅威を与ふる程度に前方まで進出しなくてはならなかつたのである。併し僅かに二日間の力闘ではあつたが兵の体力はかなり枯渇してゐたのでこの夜間追撃は実際活溌を欠いた、そしてその夜の内に鎮江方面よりする敵の退却がおこなはれたらしく列車の運行する火光や轟〃の音が聞えたのであつた。
 旋回の角頂にある東陽鎮附近にこの朝大なる火の手があがつてゐた。敵は退却する縦隊の側翼を放火に依つて我軍から阻止しやうと試みたらしい。
 鎮江から退却する敵に対し無二無算に懸つて行かなかつたことの可否は別に議論の余地があるかも知れないと思ふが、我支隊の任務は速に邪魔する敵を蹴散らして南京城の背後を遮断しなくてはならないのである、従つて道草を食ふやうな行動は予としては断じて避けることに決心してゐたのである。
 併しこの行動は実に無暴に近い危険性を帯びてゐた、
「閣下大丈夫ですか」
「何大丈夫さ、逃げて行く敵には振り返つてくる丈けの勇気はない。やつて来れば来た時の話さ」
副官は予に絶対の信頼を持つてゐるから此問答も実は御座なりに過ぎなかつた、併し之が図上戦術ならば甲論乙駁はあると思ふ。慎重な戦術家は少くも三乃至四分の一の兵力は残置したであらう。
 前衛、右前衛、後衛を設けなければ危険を感ずる行軍部署である、従つて例の如く支隊本隊は僅かに一個大隊に足りないのであつた。
 午前十一時新態勢に於て行動開始、幸にして敵は我を追尾して来なかつた。
 七日から左翼大狐山に膠著してゐる歩九の一部隊に対して、我支隊に連繋して前進することを要望してあつたが、遂に前進ず、午後に至つて行動を起し我隊の後方に進出して来たのである、元来我支隊の進路は大狐山正面の敵の背後に当るのであるから此方面の敵は夙に退却してゐたことと思はれるのであるが・・・・・・
 兎も角吾等は他人を恃む必要は亳も無かつたのである。
 午後二時半我前衛は東流鎮附近の敵より射撃を受けて停止、敵の警戒陣地らしい、依つて直ちに砲兵に陣地進入を命じ、前衛歩兵の攻撃前進を援助せしめた。此頃右前の高知にも点〃敵の散兵壕らしきもの及若干の敵影を認め一部を以て此敵をも砲撃せしめた。
 砲弾が盛に命中する中を天空に投影する頂界線を腰を曲げて登つて行く敵を認めた、此方面に一部の我歩兵をも向けたが敵の逃げ足の方が早かつた。夕刻迄に敵の警戒陣地を奪取し、若干前進した後停止。
 東流鎮に宿営。
 これまで書くことを忘れてゐたが飲料水は毎日水の停滞したクリークまたは溜池の水を使用した。冬季のこととて幸に下痢患者が多発しなかつたので大いに助かつてゐる。
 予は南京附近のの地勢を熟知してゐるので、我師団の作戦地域内に当る中山門(東面)太平門(東北角で北面)の攻略は多大の犠牲を払ふに非ざれば成功しないものと確信してゐた、即ち前者は跋渉不可能なる幅百米以上の水濠を湛へ、高射は深約二十米の外壕を有し壕底より城壁の頂上まで少くも五十米は有ると見られる嶮要の地である、城壁の破壊なぞ容易ではない、夫よりも寧ろ我支隊の行動方面たる紫金山以北の地域に主力を用ゐ、一路下関を望んで敵の唯一の退路に殺到するを兵要地誌的の正当なる判断なりとして其旨意見を具申したが師団長の決心は既に主力を中山門に向けるべく決して居ると云ふことで、予はその以後再び云ふことを控へてゐた。各師団がすべて南京城を目懸けて殺到してゐる時機であつたからマラソン競争的意識も或は有つたかと思はれる。
 併し軍司令官朝香宮殿下も師団の主力は紫金山以北に使用するが適当なりとの意向を師団長に漏らされた由であるが既に命令起案後の故を以て御意図には従はなかつた由である。以上は師団参謀よりの内報であつて、師団命令と共に殿下の御意図として下関は敵の唯一の退路であるから有力なる一部隊を出すやうにとの旨を附け加へて此夜予に伝達されたのである。予の意見が容れられると否とは問ふ処ではない。予は三方より迫る敵に対し玉砕を期して任務に驀進すればいいのであつた。
 右の師団命令に依れば予の攻撃すべき目標は太平門である、これは前述する如く直ぐ前に素敵に大きな外壕を備へ而かも玄武湖と紫金山西麓の錯雑地を前地に控へてゐる、それで敵の城外支隊を蹴散らしてこれに主力を向け得るや否やは予がしれる地形上の判断では不可能事に近い。
 ふと思ひ出したことには一条の間道があつた筈である、止むなければこれに小部隊を向けて所命を果たそうと思ふ。だが以前の駐在から十年の歳月が流れ、その間に要塞設備が完成したのであるから実際に於て左様な間道は現存してゐなかつたのである。
 <揚子江畔の苦闘 前に右に後ろに沸ひて みちくさ進む 野分の如く※>

※日記の最後に短歌?が印刷されてある。かすれているので間違っている可能性あり。

四、敵城外支隊との戦闘
十二月十日
四、敵城外支隊との戦闘 ○十二月十日
 地形が相当複雑してゐること、部隊が分散してゐること、又敵城外支隊が必ず我支隊の外翼から懸つて来るものと判断することに依つて早朝全態勢を此目的に適する如く規正する。
 午前九時前進開始、微弱なる敵は軽戦の後退却、これは師団主力方面が同時に紫金山東南麓に迫つたからである、午前十一時頃には第一線は馬円南方高地から仙鶴門北方高地へ進出することができた。
 前面の高地には敵の既設陣地がある、滑稽なのは揚子江岸に向かつたトーチカの背後が見える、尤もこれは平時南京城の要塞化から見れば滑稽ではない.しかし此方面は敵も容易く捨てるわけにはいかないから相当の抵抗を受けることは覚悟せねばならない。
 此日午後敵は盛に迫撃砲を以て我第一線の後方を撃つてきた、道路に沿ふ地域を五十米の射程伸縮に依つて規則正しく撃つてゐる、田圃の土砂を上げ農家の屋根をふつ飛ばし、樹木を薙ぎ仆し、壮観を極めたが、部隊は射線を避けてゐるから盲射する敵弾の壮観を見物してゐられたのであつた。併し道路に近くてその上瞬く間に百発以上撃つてきたので実は笑ひごとではない。
 我第一線は敵を駆逐しつゝ夕刻迄に堯化門一帯の高地を占領することができた。
 此日松井軍司令官は守城司令官に大使勧降状を送り午後一時を期して其回答を求められたが遂に答は無かつたと聞く。
 深更受領せる師団命令に依れば師団は十一日を期して城壁に突入するとある、併し師団長の直轄となつてゐる歩三三は未だ紫金山の最高峰を奪取してゐないから十一日に城壁に殺到することは恐らく不可能であろう(師団長は焦ってゐるな)。後で聞くところに依ると十一日には第九師団の一部が光華門の城壁に取り付いてゐる、元来南京城の南面は近接容易な地形であつて古来の此城の争奪は常にこゝで行はれてゐるのである。雨花台の行楽地が比較的平易なる丘阜をなして居て城壁間近まで蔭蔽ができるからである。
 紫金山の瞼要を抜かねばいくら焦つても城壁に取り付くことは不可能である。
 此依る歩三三の第一大隊(一中隊欠)及軽装甲車第八中隊を配属されるとの通報を受けた。
 南京攻略後軍参謀より聴く所に拠れば殿下は予の支隊が広大なる地域に於て必ず苦況に立部気を顧慮され、佐々木を犬死させるなとの御下命があつた由、そんな有り難いご無沙汰はその時は知らなかつたが、兎に角此際一兵でも多いことは実に嬉しかつたのである。
 当時の戦況は左程困難ではなかつたが、敵は逐次我支隊の右外翼に退避するものと判断され、而かも我後方には至る処敵兵残存して師団主力との交通自在ならず、一般の大勢としては予の支隊が孤立無援に陥つてゐるのが分かるわけであつた。事実孤立無援にして三方の敵を受持つてゐるのである。
 十二日の夜遙かに満州から来て呉れた元の部下が師団司令部に到着して我支隊の所在を尋ねたとき「死ぬ気なら行け」と云はれた由である。
 殷に予は一兵も増援を請ふたことはない。与へられた兵力を以て必ず敵の退路を遮断して見せるとの確信に満ちてゐたのである。
 仙鶴門鎮附近の部落に宿営。終夜迫撃砲弾の見舞いを受けたが弾道を外れてゐるので平気だつた。

十二月十一日
○十二月十一日
 銀孔山東西の陣地に拠る敵に対し攻撃開始。九時増加部隊到着。
是より先師団主力の攻撃に強力せしむる目的を以て一部を紫金山北嶺を経て和平門方向に派遣したが、此方面に潜入すべき敵陣地の間隙は無かつた。
 午前十一時銀孔残東西の敵陣地を奪取す、この敵は実に頑強に抵抗した、砲兵をして集中攻撃を行はしめた為敵の塹壕は死屍を以て破はれてゐた、而かも我歩兵が斜面を痙攀登して突撃した時にさへ陣地を死守して退かぬ敵兵がゐた。
 此日午後我支隊への協力の為十加二中隊及十五加一中隊来る。
 銀孔残を撤退した敵は太平山方向に退却、ここにも既設陣地があつて新たな敵が抵抗する、加ふるに鳥竜山砲台の重砲が右側背から、岔路口の敵野砲が左前から撃つてくる、併し我も亦重砲三中隊と野砲一大隊を以て之を制圧しつゝ我歩兵は夕刻に至つて太平山の陣地を攻略することができたのである。
 然るに夕刻に至つて新たな敵が我支隊の右翼前方に当る万家置きに現はれて工事を開始したのであるが、固より敵としてはさもあるべきことであつて収支外翼から我支隊の前進を妨害するのが城外支隊の執るべき行動である。
 戦術を学んだもので無くては以上に述ぶる所の一般情況が果たして如何なる情態を呈し、指揮官以下の心境が如何にあるかを適確に知ることは困難であらう。これは今最平易に述べるならば我支隊は目下敵の十字砲火と迫撃砲弾の下に暴露しつゝ高地の既設陣地に拠つて頑強に抵抗する敵を白昼力攻しつゝあるのであつて、而かも絶へず我右翼方面に有力なる敵が存在して妨害を続け、右翼背には是又敵が出没して後方部隊を脅威し或は師団主力との交通を遮断せんとしつゝあるのである。斯る環境に在つて尚且つ毅然として達成すべき任務に驀進し得たる所以は信念の力であることは勿論ではあるが、戦場が予の熟地であつたことも与つて功あるものと信ずる、而して白昼二回迄も既設陣地を攻略し得たことは重砲の猛撃が協力して呉れた結果であることは疑はないのであつた。
 此日師団の攻撃は進捗せずとの通報があつた、察する所歩三三はまだ紫金山第一峯を抜くに至らず、又歩十九師団はその山腹から南方丘阜地にかけて展開し中山門正面の堅固なる陣地に向かつて攻めあぐんでゐるのであらう。
 これも入城後に聞いた話であるが、この日歩九が歩三三の左後方に当る紫金山の中腹の一陣地を取つたのが早速大きく扱はれ、京都の新聞記者に依つて○○聯隊が十一日紫金山を奪取したと打電した由であるが、後日その新聞を見た予の部下の将兵或者は火のやうになつて憤慨してゐた。実際六十余名の新聞記者が全部交通便利な正面の本道に蝟集し自分自身の一番乗りの記事を電波に乗せるべく気負つてゐるのであるから、軍隊は相当に迷惑するのである。今日の戦争に一番乗りは問題ではない、寧ろ縁の下の力持ちとなつて他部隊のために犠牲になるものの働きが貴いのである。
 西碼村に宿営。此日も終夜火光目当てに迫撃砲を撃つて来たが殆ど損害は受けなかつた。
 行李の特務兵なんかでも流弾がヒューヒュー来る所にゐて平気で炊爨もし用便もしてゐる、要するに戦度胸ができたのである。

五、主陣地の攻略
十二月十二日
○十二月十二日
 終夜咳が甚しくて唾つては醒めして安眠が取れず、一個月来の作戦に疲労したからだにはかなりこたへた。早朝起きて見たが頭が割れるばかりに痛みどうにもならず、重大時期にと考へて見ても重い頭はやはり重い。
「副官、困つたな。これでは何も考へられん」
「お休みください、ご計画通り吾々でやりますから」
「うむ」
 藁の中に寝転んで見たが激しい銃砲声を聞いては寝ては居れない
 午前十時頃に至り遂に意を決して飛出し銀孔山に指揮所を進めた。塹壕やその後方の斜面は実に夥しい敵の死体である。
 部隊は昨夜命じた部署に就いて曹長から敵の主陣地帯を攻撃してゐる、今日中に之を攻略しなければ敵の退路を遮断することができない。そう考へるから病気なんかの為寝てはゐられなかつたのである。
 見ると前面近くの高地に三八長が突ッ立つて督戦してゐる、(やつて居るな)併し予は直ぐさま電話を以て「軽挙はするな」と云つてやつたのである。指揮官の勇敢なる態度は必要であるが、高い姿勢は敵弾を吸収する、そして損害を受けるものは周囲にゐる者である。だがこゝにも高い姿勢が敵陣地を注視してゐ敵の小縦断が盛んにやつてくる。
 鳥竜山砲台から又撃つてくる、高地の稜線後にゐても砲台からは丸見えである。又この砲台の高射砲は最後迄我軍の飛行機を射撃してゐた、三門斉発の射弾が丁度吾々の頭上に炸裂するのを凄〃見た。
 我十加が一万米の射距離で制圧射撃を始めた。観測所が現在同じ所に在るので砲撃の結果を刻〃知ることができる。命中弾を得たと云つてゐた。
 紫金山北麗の敵野砲も亦盛に撃つてきた。
 第一線歩兵の攻撃は幸に著〃進捗、遺棄死体等に依つて判断するに我支隊当面の敵は第七十八帥と四十八帥の一部であるらしい、数倍の敵を刻〃圧迫しつゝあるのであるから痛快である。
 正午頃我右翼前方に在つた敵を撃退し得たのでこゝに再び左旋回を行ひ南京城北側地区に進出することに決した。一時頃堯化門(地名)附近の雑樹林に於て転身に関する命令を下した後行動に就く、然るに該地を去つて五分間も経たぬうちに敵の迫撃砲弾が予を立つてゐた土饅頭に命中、それをふッ飛ばした。
 紫金山北麗を前進して是より先敵既設陣地の攻撃を開始した歩三三の第一大隊は多数の死傷者を生じつゝも敵を圧迫してゐるので、これを拠点として我支隊主力は左旋回を為さねばならぬ、然るにその進路は砲兵の前進に適せずとの砲兵斥候の報告であり砲兵大隊長も不可能であるとの意見なる故砲兵を堯化門に残し歩兵のみを以て前進することに決した。
 本道から畑の中の間道に入つて間もなく忽ち石橋の落とされてゐるのに会ひ、工兵小隊に依つて修理を加へる間、兎も角歩兵の各部隊殊に山砲は苦辛しつゝ畑の中に進入する。
 此時師団長の多大なる好意に依つて清酒が一樽送り届けられた。畑の中で鏡を打ち抜いて勝手に飲ませた、予自身初め志気大いに振い敵を呑むの慨がある。
 午後三時頃紫金山北麗岔路口附近の敵撤退す、戦は勝ったとの感がする、しかし正面の敵はまだ頑張つてなかなか撃退することはできない。
 夕刻興街村着、紫金山の裾の寒村。一小隊を直ぐ左の高地に上げて左翼を警戒、前面からは小銃弾がプスプスやつてくる。
 此日砲兵の連絡将校に対して云つた言葉、
「南京攻略の最後の日晴の戦場で地形困難の為めに砲兵が此戦闘に参加出来なかつたことを聯隊歴史に書くことは厭ではないのか、併し吾々は歩兵丈けで戦闘することをなんとも思つてないのだから砲兵は後方の警備に当たつて呉れ」
 これがきけたらしい、夜に入つて連絡将校帰来し、砲兵大隊長の報告を云へる、
「来るなと云はれるので一時停止することにしたが飽くまで附いて行くことに決心しました、就ては歩兵及工兵の援助が頂き度い」
「宜しい、後衛から歩兵一中隊と工兵小隊を配属しやう」
 無理な要求も武士の情けだつた。
 第三第九第十一師団の集成騎兵団が戦場に到着した、依つてこれに戦闘正面を割愛する旨連絡将校をして伝へしめたが出ない、最後まで我支隊の後方衛生隊繃帯所の位置に在つて而かもその夜痛い目を見たのである、これは後に述べる。
 夜に入つて重迫撃砲隊追及す、道路不良のため多大の困難を嗜めたことは聯隊砲と同じであるが此気魄が無くては戦はできない。
 此日深更師団命令と共に受けた通報に拠れば
 一、鳥竜山砲台攻略の為十三師団の歩兵一聯隊が鎮江より前進中
 二、第十六師団の右翼隊(歩三三)は十二日午後突撃三回の後紫金山第一峯を占領し続いて天文台に向かひ攻撃中
 三、同右、左翼隊(歩十九旅)は孝陵街西方高地を占領
 四、第九、第六師団は城の東南面及南面に対し肉迫攻撃中
 五、第五師団の国崎支隊は蕪湖にて揚子江を渡河し浦口に向かひ前進中
以上、之を要するに南京の落城は目睫の間に迫つてゐるものと判断されるのであつた。

※「三門斉発の射弾が丁度吾々の頭上に炸裂するのを凄〃見た」とあるが、「凄」は「シカバネへんに再と田を足した文字の下に女のある」字だったが、どの漢字か判らなかったので「凄」と表記した。

六、退路遮断
十二月十三日
○十二月十三日
 十二日の夜は至る処に激烈なる銃声を聞き、後半夜には砲声さへも聞えた、併し一般の情勢から判断すれば落城は刻一刻近づきつつあるので、予備隊の直ぐ左に在る高地に敵が出てくれば忽ち苦境に陥らなければならず、而かもこゝに僅か一中隊の兵力を割くことができるばかりの手薄だつたに拘らず極めて安易な気持になつた。併しやつと断続して取れるやうになつてゐる師団司令部との無線連絡に依つて師団命令や情報を聴く為に終夜を費し、追撃命令を下達したのは午後六時に近かつたのである。而かも此間銃声が近距離に起り、銃弾が盛んに壁に命中してくるのであつた。
 満州の旧部下が苦辛しれ持つてきて呉れたするめや魚の干物を分配、そして久し振りにクレーヴンの芳香に接した。此人達から東宮中佐が去十一月十三日杭州湾上陸作戦の花と散つたことを聴いたのである。去八月の中頃大連で別れたのが最後で、此人は満洲移民の生みの親と云はれ、もつと生きてゐて貰ひ度かつた惜しい武人だつた。万感胸に迫る。
 焚火を掻き立てゝ煤けた寝台に横になり忽ち熟睡。
 午前八時頃ふと目を醒せば至近の距離に激烈な銃声がしてゐて、通信手や行李の輜重兵までが銃を執つてばたばたやつてゐる。
「何事だ?」
屋外を走りかけた副官に尋ねる。
「今撃退したところです、紫金山から真つ黒になつて降りてきました」
「敗残兵か?」
「チェックを腰だめで撃つてくるのです、それが何回も何回も五六百一所になつて」
「鉄砲を取り上げろ」
「降伏なんかするもんですか、皆殺しです」
 くるわ、くるわ、あつちにもこつちにも実に夥しい敵兵である、彼らは紫金山頂に在つた教導師の兵で血路を我支隊の間隙に求めて戦線を逆に討つてでたものであつた。銃声の間に怒号罵声すら聞えてゐる。
 家屋に立て籠もつていつ迄も抵抗するもの、いち早く便衣に替へて逃走を計るもの、そして三〃五〃降伏する者は必ず銃器を池の中に投じ或は家の中に投げ込んで放火してゐた、此点は実に徹底してゐた。当面の敵は蒋介石が虎の子のやうにしてゐた師団だけあつて最後迄最も勇敢に戦つたやうである。
 以上は一局部の奮戦情況であるが、後に各部隊の報告を綜合して夜半より午前十時頃に至る間の戦況を述べるならば、払暁前我第一線は敵陣地に突入し続て敵を急追し、軽装甲車中隊午前十時頃先づ下関に突進し、江岸に蝟集し或は江上を逃れる敗敵を掃射して無慮一万五千発の弾丸を射ち尽くした。此間歩三八は城北に面する五個の城門を占領して敵の退路を絶ち、聯隊長は三三の大隊と共に装甲車に追及して西面挹江門附近に進出し、逃げ遅れた敵と戦闘を交へた。司令部は予備隊たる歩兵一中隊を以て左及後方より突撃し来る前後数回の敵と激戦を交へ、通信手、輜重兵、伝騎に至るまで戦線に加入して敵を撃滅し、その後方を追及しつゝ道路の不良に悩みつゞけた野砲兵大隊は是又夜間敵の襲撃を受け掩護の歩兵一中隊、工兵一小隊と共に零分劃射撃を以て敵に応戦、四時間の久しきに亘つて戦闘。更にその後方には後衛として残置した歩兵二中隊が夜半以後又二方面より反復殺到する敵の大部隊と戦闘して之を撃滅した。更にその後方衛生隊附近に集成騎兵団が位置してゐたが、暗黒の裡に敵の襲撃を受けて部落内に突入せられ、人二百馬六十の損害を被るが如き失態を演じてゐる。此騎兵も又その後方に在つた重砲も盛に増援を請ふてきたが自衛力を有する者を顧みる遑は無かつた。蓋し予の部隊は数里の長きに亘つて延伸し側面に対して到る処激戦を交へてゐる情態だつたからである。
 午後十時頃、我左翼掩護の為高地上に位置せしめた中隊の陣地に対し後方から重砲の試射らしき数弾が飛来し、続いて効力射に移り、あれよあれよと兵隊が騒いでゐるうちに三十余発の砲弾を集中した。山頂は爆煙に被はれて此部隊の損害が目に見えるやうな気がした。血迷つた我重砲が味方撃をやつたのであるが、幸に背嚢一個ふツ飛ばされたのみ。因に此中隊も山の上から敵の背後を攻撃してゐる。
 前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち又我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、海軍第十一戦隊が溯江して流下する敵の船筏を掃射しつゝ午後二時下関に到着し、国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。其他の城壁に向かつた部隊は城内を掃蕩しつゝある。実に理想的の包囲殲滅戦を演じてゐるのであつた。
 此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて二万以上の敵は解決されてゐる筈である。
 午後二時頃概して掃討を終わつて背後を安全にし、部隊を纏めつゝ前進和平門に至る。
 その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも「皆やつてしまへ」と云ひ度くなる。
 白米は最早一粒もなし、城内には有るだらうが、俘虜に食はせるものの持合せなんか我軍には無い筈だつた。
 和平門の城壁に登つて大元帥陛下の万歳を三唱し奉る。此日天気快晴、金陵城頭到る処旭日旗のへんぽんたるを見て自然に眼頭が熱くなつた。
 中央門外に舎営、美しき寝台あれど寝具なし、南京米を捜し出してくる。(今夜はゆつくり睡られるぞ)
<南京攻略 ほのぼのと明け渡る空に金陵の 城頭高く旭旗はためく※1>
<江畔の殲滅戦 野に山にクリークにみつ朝の死屍 みいくさは勝てりかちどきあがる 皇軍※1>

※文中に「追及して西面挹江門~」とあるが、「挹」は「サンズイに邑」だったため、訂正した。
※1日記の最後に短歌?が印刷されてある。

七、南京攻略の歌
何処まで続くクリークぞ
七日十日のそれならで
水をば渡る幾そたび

さもあらはあれつはものの
草むす屍はかねてより
水漬く屍もなんのその

悠久ここに四千年
千古に流るる長江の
畔に馬を進めつつ

夕べに抜くや紫金山
明孝陵はあのあたり
興亡誰か感無けん

夜はほのぼのと明け渡る
旭日浴びて金陵の
城頭高く日の御旗

海路遙けひんがしの
みかどのゐます日の本に
万歳の声響けかし

万歳の声ひびけかし

 南京城頭に立つて最も感慨を深うしたる第一人者として予は自分自身を確認することができる、それは二個年半の間駐在した旧知の地であるが為ばかりではない、又当時城内の三分の二が畑であり雉兎の類を猟した古代の都が予が去つて以後八年近代的都市としてその面目を一新してゐる壮観に驚くが為でもない、実に予が若冠の明治四十四年以来満洲問題解決を目標として密かに国民党に行為を表しつゞけてゐた夢が、彼等の容共政策の為殊に蒋介石の英米依拠の政策に依つてつぶさに不快を嘗め、皇国の前途を憂ひて憤然こゝを去つた昭和四年夏の思ひ出がまざまざと蘇るからであつた。
「今に見よ」
 これは私憤では断じてない、信義を裏切る者には後日必ず天譴を下さねばならぬ、これが爾来予の固き信念となつたのである。
 紫金山の中腹に眠る孫文の霊は蒋介石等の短見にさぞかし口惜し涙を揮つてゐるだらうと思ふ。近代的都市が一朝にしてスケレトンキヤピタルに変じつつある、そしてその日が今炎〃として各所に起り黒煙が天に沖してゐるのである。
「国亡びて山河あり」の感が深い。


※文中に「つぶさに不快を嘗め~」とあるが、「嘗」は「クチへんに嘗」だった。
※「黒煙が天に沖~」とあるが「沖」は「ニスイに中」でああった。

八、南京城内外の掃蕩
十二月十四日
○十二月十四日
 両聯隊全部隷下に掌握、城内外の掃蕩を実施す。到る処に潜伏してゐる敗残兵を引き摺り出す、が武器は殆ど抛棄又は隠匿してゐた。五百、千とゆふ大量の俘虜が続々連れられてくる、割合に悪びれてはゐないがその何れを見てもつかれ切つてゐる、恐らく食ふべき何一つの食料が無かつたのであらう。
 十二月十一日夜迄は城外下麒麟門迄電灯が点り水道が出てゐた、情報に依るとその日の軍事会議後守城司令官唐生智は江を渡つて逃げてゐる、そして多数の文部官吏及其家族が多くは民船に依つて下流の方向に脱出したらしい。
 例の橋本欣五郎大佐の重砲が外国船を射撃したとかしないとかゆふ問題は兵民をゴッタ返しに満載して溯江した英国船(実は何か分かつたものではない)であつたと思はれる。
 城内に残つた住民は恐らく十万内外であらう、殆ど難民ばかりである、而してその中に多数の敗残兵が混入してゐることは当然であると思はれる。
 金陵大学には一千以上の妙齢の婦女が収容せられ、外交部跡には敵の負傷兵数百が収容せられ外国人医師以下の庇護下に在つて治外法権らしく振る舞つてゐた。
 守将が逃げた後に残された支那兵程みじめな存在は無いのである、彼等に戦意の程が有りや無しやは自明の理であるが、彼等にはもはや退路が無かつたので死もの狂ひに抵抗したのである。
 敗残兵と雖尚部落山間に潜伏して狙撃を続けるものがゐた、従つて抵抗するもの、従順の態度を失するものは容赦なく即坐に殺戮した、終日各所に銃声が聞えた。
 太平門外の大きな外壕が死骸で埋められゆく。
 空屋の中は殆ど掻き捜され且軍装品が散らばつてゐた、手榴弾や小銃弾は到る処に投げ捨てられてある。加ふるに要所所々々には地雷が埋設されてあるので危険此上もない。
 城内の大通りはすべて陣内戦と防空を目的に大工事が施され機関部を壊はし或は焼かれた自動車が列を成して棄てられ、その間に被服機材の分ちなく落花狼藉を極めてゐる。国民政府、軍官学校、其他の軍事施設は我空爆のために完膚なき迄にやツ付けられてゐる。城外飛行場亦然り。
 骸骨となつた家屋の焼け跡や、今尚盛に火勢を振つてゐる各所の火災、住民は一人も顔を見せない、瘠せ犬丈けが無表情に歩いたり寝そべつたりしてゐるのである。
 下関の目貫の通りは殆ど全部焼け落ちてゐた、バンドは数百の自動車が乗り捨てられ、数百の死骸が一つ一つ岸から流れていく。
 民国十六年二月、国民革命軍が南京に入城して以来正に十年、当時城内の人口三十万から八十万に増加し、農民を搾取してこゝに見て呉れがしの近代都市を建設することに成功した、だが今や僅慨無からんやだ。
 予が十年前に住んだ家は元裏に墓地があり周囲には近く一軒の家もなかつた、二階の窓から雉を見付けて撃つたことも一度や二度ではなかつたのであるが、それが家屋櫛比し樹木に被はれて捜し出すのに困難した程である。懐かしさの余り屋内に入つて見たが于右任が住んでゐたらしい、隣家は蘇聯大使館の堂々たる建物である。因にこの大使館は其後焼失した、何か証拠隠滅のためではないかとの推測が行はれた。
 午後海軍第十一戦隊の連絡将校関口大尉来る。
 南京中央門外に舎営。

九、南京入城以後
十二月十五日
最終更新:2009年05月17日 16:21
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