F.T.ダーティン氏報道(N.T特派員)
この記事は日中戦争史資料集9南京事件Ⅱ(P280~295)による。
一九三七年十二月十八日号掲載記事
見出し
捕虜全員虐殺さる
南京における日本軍の暴虐拡大し、一般市民にも死者
アメリカ大使館襲撃さる
蒋介石の戦術不手際と指揮官らの逃亡により首都欠陥
F・ティルマン・ダーティン(十二月十七日、アメリカ船オアフ号上海発 ニューヨーク・タイムズ宛特電)
南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼をうける乏しい機会を失ってしまった。
中国当局の瓦解と中国軍の解体のために、南京にいた多くの中国人は、日本人の入城とともにうちたてられると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大損害をうけることもなくなったと考えて、中国人住民の間に大きな安堵の気持が拡がったのである。
少なくとも戦争状態が終るまでは、日本軍の支配は厳しいものであろうとは思われていた。日本軍が占領してから三日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪・婦女の暴行・一般市民の虐殺・自宅からの追い立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。
多数の市民虐殺さる
一般市民の殺害が拡大された。十五日、市内をひろく巡回した外国人は、あらゆる街路上で市民の死体を見た。犠牲者のうちには、老人や婦人や子供もあった。
警官と消防夫がとくに狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺されたが、あるものは野蛮なまでにむごたらしい傷を負っていた。
恐怖や興奮にかられて走るものや、日没後に街路や小路で巡察対に捕まったものは、誰でも殺されるおそれがあった。多くの虐殺が外国人の目撃するところとなった。
日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよい程だった。建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ、それもしばしば将校の見ている前でおこなわれていたし、日本軍は何でも欲しいものを奪いとった。日本兵はしばしば中国人に略奪品を運ぶことを強制した。
最初に要求されたのは食糧であったことは明らかである。それに続いてその他、有用な品物や貴重品がやられた。とくに恥ずべき行為は日本兵が難民から強奪をしたことで、難民収容所の集団捜索をおこなった兵士が金銭や貴重品を奪い、時には難民の所持品全部をとり上げることもあったのである。
アメリカ宣教団の大学病院※の職員は現金と時計を剥奪された。その他の所持品が看護婦寄宿舎でも奪われた。アメリカ系の金陵女子文理学院の学部事務館に日本兵が侵入し、食糧や貴重品を略奪した。
この病院と金陵女子文理学院の建物は、米国国旗を掲げており、アメリカ人所有の建物であると記したアメリカ大使館発行の中国語の布告書が戸口にはってあった。
アメリカ外交官私邸襲わる
最終更新:2009年06月21日 19:57